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牛込氏についての一考察|④赤城神社の旧地「田島森」

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の④「赤城神社の旧地『田島森』」です。

 宗参寺北方400メートル、早稲田鶴巻町185番地に、大胡氏が赤城山ろくにあった赤城神社をはじめて勧請した旧地「田島森」があり、小さい祠がある。ここにあった神社は、寛正元年(1460)に太田道灌によって牛込御門の所に移され、さらに牛込勝行が弘治元年(1555)9月19日に現在地に遷座したものという(「神社縁起」)。これは境内にあった正安3年5月25日の銘がある板碑が神社に保存されてあった(戦災で消失)ことから想定したものであろうと思う。というのは、正安2年は、まだ大胡氏が上州大胡に居住していたと思われる年代である。
宗参寺 そうさんじ。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)に重行の嫡男牛込勝行が建立。牛込氏や赤穂義士の師・山鹿素行の菩提寺などがある。
早稲田鶴巻町185番地 現在は新宿区早稲田鶴巻町568-13です。
田島森 江戸名所図会では
赤城明神旧地 同所田の畔、小川に傍ふてあり。大胡氏初て赤城明神を勧請せし地なり。故に祭礼の日は、神輿を此地に渡しまいらす。
 この「小川」はかに川でしょう。新撰東京名所図会第41編では
   ◯元赤城神社
早稲田村(185番地)にあり、今鶴巻町に編入す、祭神石筒雄命、正安3年草創、牛込郷社赤城神社の古跡なり、古来より赤城神の持なりしが、明治6年1月更に赤城神社附属社となれり。
本社石祠、高さ2尺巾1尺5寸、境内35坪立木3本あり。

元赤城神社。鳥居の左側は記念碑「田島森碑」。後ろに神社。コンクリートの建物は「元赤城神社 社務所」

元赤城神社。中央右に「元赤城神社新築資金寄附者御芳名」の板。

元赤城神社。説明板「神崎の牛牧」がある。

小さい祠 「ほこら」は「やしろ。おたまや。先祖の霊をまつる所」。海老沢了之介 著「新編若葉の梢 : 江戸西北郊郷土誌」(新編若葉の梢刊行、1958)は、金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)を底本しており、「牛込氏と赤城神社」を書いています。

元赤城神社仮殿(昭和31年)

牛込氏と赤城神社
 牛込忠左衛門の屋敷は、胸突坂上の番所の前に在る。この牛込家の遠祖は、大胡太郎重俊なる者であった。子孫の大胡重行の代に及んで、この牛込に移住した。その嫡男を牛込宮内少輔藤原勝行といい、父の菩堤を弔わんがために、雲居山宗参寺を開基した。
 昔その祖先の大胡常陸なる者が、上野国赤城山の三夜沢の神を敬信し、その領地の赤城山麓大胡の地に勧請し、それを近戸明神と呼んで今もある。
 大胡常陸の末孫牛込忠左衛門の先祖、即ち大胡重行が、大胡氏の氏神である上州赤城の神を、牛込惣領守として、早稲田の田の中の小森に勧請したが更に今の赤城神社の所に遷座した。よって最初の地を元赤城といっている。
 日光山の記にいう。下野国二荒山、今の日光山の神と、上野国赤城山の神とが中禅寺の湖水のことで争った。その時、二荒山の神はうわばみとなり、赤城山の神は蜈蚣むかでとなって戦ったという。
 私(直徳)が先頃旅をした時、新町と倉賀野との間の田の中において、忽ち疾風起こり、黒雲が覆い来たって、日中暗闇となった。雨は水をあびるが如く、雹は槌をもって打つが如くであったが、三時ばかりして拭うが如く晴れた。それからというものは一寸した風が直にあたっても、恐ろしくなって病気になる程であった。
 元赤城は正安二年(1300)早稲田に鎮座との説がある。これによると、大胡氏の牛込に来るより230余年前からあることとなる。なお赤城神社には、文安元年(1444)の奥書納経(大般若経)がある。これも大胡氏より百年前のものである。
菩提 ぼだい。煩悩ぼんのうを断ち切って悟りの境地に達すること。
 うわばみ。巨大な蛇、大蛇、おろち
蜈蚣 ごこう。「むかで(百足)」の異名。
 また、鳥居の左側に「田島森碑」が立っています。「温故知しん!じゅく散歩」は
概要
赤城神社の由来と「田島の森」と呼ばれた当地の歴史を伝える記念碑である。当地は、牛込早稲田村の「田島の森」と呼ばれる沼地であったところへ、正安2年(1300)上野国赤城山の麓から牛込に移り住んだ大胡氏(後に牛込氏に改姓)が故郷の赤城明神を祀ったと伝えられる。碑文には、赤城神社が寛正元年(1460)太田道灌によって牛込に移され、弘治元年(1555)に現在地へ遷座した後も、元赤城神社として崇敬者の手によって維持されてきたことが刻まれている(※ 実際に大胡氏が牛込に移り住んだのは15世紀末頃と推定されている)。

田島森碑

神社縁起 赤城大明神縁起がありますが、天暦2年(948年)に書いた縁起なので、これは使えません。赤城神社の【御由緒】では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。
 新撰東京名所図会第41編では……
〇由緒
正安2年牛込早稲田村田島の森中に小祠を奉祠す、其後160余年を経て寛正元年太田持資、田島の小祠を牛込台に遷座す、後ち上野国大胡の城主大胡宮内少輔重行、神威を尊敬し、赤城姫命を合殿に祀り、弘治元乙卯年9月19日、方今の地に移し、赤城神社と称せり。別当は天台宗赤耀山等覚寺なり。

田島森碑

正安3年5月25日の銘がある板碑 正安3年は1301年の昔ですと、まず一言断わっておき、群馬県地域文化研究協議会編「群馬文化」(1967)では……

 神社で大切に保存してきたものに一枚の板碑があった。昭和20年に戦災で失ったが、神社誌に写真が載っており、その説明に高さ4尺、巾1尺余で、阿弥陀如来三尊の種子がそれぞれ蓮台上にあり、銘文は
   池中蓮華 大如車輪
  正安三年辛丑五月二十五日
   青色青光 黄色黄光
とあったという。出土地は早稲田鶴巻町185番地にあった田島の森という赤城神社の旧地で別当等覚寺所蔵のものであった。正安3年は板碑として写真をみた限りではよいようだが、神社との関係はわからないし、むしろ偶然に板碑が発見され所蔵していたとするのが正しいであろう。神社では何時ごろからかわからないが、祭日が9月19日なので、この日を創建の月日にあて、板碑の年月日が正安3年5月25日だから神社草創はそれ以前の9月19日、即ち正安2年9月19日としたのであろう。
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註:写真は東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)から。「神社誌」がさす文書は不明。

 田島森あたりは、想像するに、戸山町から北流してくる金川(一名かに川)が早稲田大学の大隈講堂あたりで東流してくるのと、南方市谷薬王寺町から牛込柳町、弁天町を通って北流してくる川(加二川)とが合流する所であり、そこが沼地になり、島状の地もあったので金川以北から神田川までは、田島森と呼ばれたものと思われる。
 大胡氏が宗参寺の所に移住してくると、この田島森に上州の赤城神社を勧請して鎮守にしたものである。なぜそこを鎮守の森にしたのであろうか。上州の赤城神社は、大胡町の北方にあり、赤城山頂の大沼のほとりにある沼(水)神である。一方この地は弁天町の大胡氏居住地の北方にあたる沼地である。こうみてくるとここに故郷の赤城神社を勧請するには好適の地であったためであろう。
金川(一名蟹川) 水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。
加二川 水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する

江戸川小の歴史散歩③ 牛込地区に坂が多いのはなぜ①

東京実測図。明治18-20年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

鎮守 ちんじゅ。辺境に軍隊を派遣駐屯させ、原地民の反乱などからその地をまもること。奈良・平安時代では、鎮守府にあって蝦夷を鎮衛する。一国や村落など一定の地域で、地霊をしずめ、その地を守護する神。また、その神社。霊的な疫災から守護する神や神社。
上州の赤城神社 御祭神は「赤城神社は、赤城山の麓に佇む、自然と歴史が交差する聖地です。この神社は崇高な赤城山の神と水源を司る沼の神を崇拝し、農業と産業の神として、そして東国開拓の神として崇められています」

 鶴巻町は、『新編武蔵風土記稿』によると、鶏を放し飼いし、鶴番人がいたことから名づけられた町名といっているが、これは後世の意味づけである。「鶴巻」の本義は、世田谷区の「弦巻」も同様であるが、朝鮮語からきたツル(荒野・原野)のマキ(牧)の意であるという(中島利一郎著『日本地名学研究』)。
 牛込という地名は、牛の牧場という意味で、『延喜式』にある「神崎牛牧」は牛込の地に擬されているが(『南向茶話』、『御府内備考』)、それもこの辺だったのではなかろうか。
 神田川にかかる駒留橋というのも牧場に関係あるものだろう。
 大胡氏は、高田八幡(穴八幡)の高台下と、宗参寺東との二つの谷間に柵をつくれば、前述したように、戸山町からの金川、柳町からの加二川に囲まれた 形の地域内は立派な牧場になる。牧場はその北の神田川まで広げて考えてもよい。その牧場を南の高台である宗参寺の所に居館を建てて管理し、前述の田島森に鎮守の赤城神社を建てたということになろう。
鶴巻町 新編武蔵風土記稿東京都区部編 第1巻では
早稲田ノ二所ニオリシ由其頃当村ニモ鶴番人アリシコト或書ニ見コ鶴巻ノ名ハ恐クハ是ヨリ起リシナラン
新編武蔵風土記稿 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
中島利一郎 東洋比較言語学者。国士舘大学教授。生年は明治17年1月2日、没年は昭和34年1月6日
日本地名学研究 「日本地名学研究」で
この地方は弦巻に連接し、一帯の曠野で、農作に適せぬので、牧場として発達したわけ。荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、「つるまき」は「曠野ツルまき」という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである。ここに駒留橋あり、世田谷に駒留八幡神社あり。由来は牧場からである。
延喜式 経済雑誌社「国史大系第13巻」(明治33年)の「延喜式」では「諸国馬牛牧」として武蔵国は檜前馬牧と神崎牛牧2種を上げています。
神崎牛牧 かんざきのうしまき。兵部省所管の武蔵国の牛牧。「東京市史稿」では新宿区牛込のあたりだと推定。
南向茶話 これ以外にいい問答がなさそうです。
  問曰、牛込小日向筋御聞承及も候哉。
答曰、此地は数年居住仕候故、幼年より承り伝へ候儀も有之候。先牛込の名目は、風土記に相見へ不申候得共、古き名と被存候。凡当国は往古曠野の地なれば、駒込馬込(目黒辺)何れも牧の名にて、込は和字にて多く集る意なり。(南向茶話
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 大日本地誌大系 第3巻 御府内備考によれば、
此所は往古武蔵野の牧の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり駒込村 初に出  馬込村 荏原郡に馬込村あり  等の名もしかなりと 南向茶話 さもありしならん江戸古図にも牛込村見へたり
この辺だった 実は元赤城神社には「神崎の牛牧」という説明板があります。

江戸・東京の農業 神崎かんざき牛牧うしまき
 もん天皇の時代(701〜704)、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もありました。
 大宝元年(701年)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするために天皇の意思により32ヶ所の牧場(ちょくまき)が設置されましたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられました。このような事から、早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので、『牛が多く集まる』という意味の牛込と呼ばれるようになりました。
 牛牧には乳牛院という牛舎が設置されて、一定期間乳牛を床板の上で飼育し、乳の出が悪くなった老牛や病気にかかったものを淘汰していました。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で『生類憐みの令』が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町と、牛込にはたくさんの乳牛が飼われていました。
平成9年度JA東京グループ    
農業協同組合法施行五十周年記念事業

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Kanzaki Dairy Farm
  In the era of the Emperor Monmu (701-704), government-operated stock farms were established here and there in the center of the present metropolis. The area from Waseda to Toyama thronged with roaming cows and, therefore, called ‘Ushigome’ (cow throngs). The area of this shrine was also cow ranches.
  In the dairy farm, there was established a dispensary where cows were reared on the floor for a period and unproductive old cows or sick cows were sorted out.

駒留橋 こまどめばし。丸太橋で放牧された馬がここまで来ても先には行けないので名付けたという(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年)。現在は駒塚こまつかばしです。文京区の神田上水に架かって、文京区目白台1・関口2と文京区関口1丁目を結ぶ小橋。創架時期は不明。

始てアドレエキ カメラを 携ふる記

文学と神楽坂

 尾崎紅葉氏は「草もみぢ」(冨山房、明治36年)に「始てアドレエキ カメラを 携ふる記」というエッセイを出しています。「始て」は現在「はじめて」か「初めて」と書きます。

拝呈然者本日の上天気。端居春心酔ふ堪へず。加ふるに。数日來散歩を癈し居候事とて。遊意頻に動き候に。一昨日持帰り候アドレエキ カメラの未だ一着手をも経ざる有りて。かた/”\此日をあだに過し難く。或は課題途上●●所見●●好圖様を得る事もあらん乎と。遂に思立ちて。早稲田辺までと志し候は。午後一時頃に有之候。 鶴巻町より田圃に出づれば。すぐに一面の榛木はんのきが林にて。此のわたり「冬の朝日の最も憐なる」處。前年小生が銃猟を始め候日。下駄掛にてもずひよなどをおん廻し候も此辺にて。其頃所持の廿八番形村田銃と其の手腕と。今日の手提てさげカメラと其の技倆とは。何ぞ相似たるの甚き。と心私かに可笑く存侯。

拝啓。さて本日の天気はよく、縁先にいるとのどかだが、ただ陶酔しているのは我慢できないし、加えて、数日来、散歩をやめて、じっと家にいるので、ああなんとしても動きたいと考えた。一昨日持ち帰ったアドレーキ・カメラはまだ一度も使ったことはなく、いずれにしてもこの日をむだに過ごすのはできない。課題の途上で好事を得ることもあろうと、急に思いたち、早稲田ごろまでと決めて、午後一時頃、鶴巻町から田んぼに出た。すぐに一面の榛木の林にでていた。このあたりは「冬の朝日が最もきれいな」所である。前年小生が銃猟を始めたが、下駄ばきでモズやヒヨドリなど取ったものもここだ。そのときは所持していた28番形の村田銃とこの手腕、対して今日の手提げカメラとこの技量、どこが似ているか、片腹痛いと、密かにおかしかった。
拝呈 手紙の書き始めに書いて、相手への敬意を表す語。拝啓
然者 しかれば。しからば。それならば。そうであるからには
端居 はしい。家の端近くにすわっていること。特に、夏、暑さを避け、風通しのいい縁先や縁台などにいること。
春心 はるごころ。春の頃ののどかな心もち。春ごこち。
酔う 心を奪われてうっとりする。自制心を失う。
堪えず たえず。がまんできない。もちこたえない。こらえられない
居候 他人の家に世話になり食べさせてもらうことや、その人。食客。
遊意 ゆうい。遊歴したい考え。各地をめぐり歩たいとの考え
アドレエキ カメラ 不明。「アドレーキ・カメラ」と書いていたものも
一着手 「着手」とは「ある仕事に手をつけること。とりかかること」
 かたがた。方方。いろいろのことを考え合わせると。いずれにしても。どっちみち。あれこれと。なにやかやと。さまざまに
 徒。あだ。空虚な。むだな。実を結ばない
好圖 好事。かわった物を好むこと。ものずき。
榛木 カバノキ科の落葉高木。各地の山野の湿った所に生え、水田の畔に植えて稲掛け用としたり、護岸用に川岸に植えたりする。
 もず。スズメ目モズ科の鳥の総称。この科の鳥は全長18~35cm。先端がかぎ状になった強いくちばしと鋭いつめのあるがっしりした脚をもち、頭は大きく、丸みを帯びた体つきをしている。
 ひよどり。ヒヨドリ科の鳥。大きさは全長約27センチメートルで、ツグミぐらい。背面は灰褐色で、腹は淡く、胸は灰色で白斑がある。頭頂の羽毛は灰色で長く、やや羽冠状を呈する。ピーヨピーヨと大きな声で鳴く。
村田銃 薩摩藩・日本陸軍の火器専門家だった村田経芳がフランスのグラース銃の国産化を図る過程で開発し、1880年(明治13年)に日本軍が採用した最初の国産小銃。
おん廻し 回す。人や物を必要とする場所へ移す。物事をとどこおりなく進める。その立場に置く。配慮などを行き渡らせる。
甚い 心に苦痛を感じるさま。精神的につらい。「欠損続きで頭がいたい」。弱点を攻撃されたり打撃や損害をこうむったりして、閉口するさま。「いたいところに触れられる」「いたい目にあう」「この時期に出費はいたい」。俗に、さも得意そうな言動がひどく場違いで、見るに堪えないさま。また、状況や立場・年齢にふさわしくない言動が周囲をあきれさせるさま。 (甚い)程度のはなはだしいさま。多く、連用形を用いる。→甚(いた)く。動詞の連用形に付いて、その動詞の表す状態がはなはだしい意味を示す形容詞をつくる。「あまえいたし」「うもれいたし」など。

中野実|新女性大学②

文学と神楽坂

 ユーモア小説「新女性大学」について先に行きます。

 鶴巻町の通りを大学の正門ヘ向って2丁程行った右角の東北館という下宿屋が下村の住居だった。

早稲田正門 二丁は約200メートルです。「鶴巻町通り」は現在「早大通り」になりました。始点はどこからなのでしょうか。わかりません。鶴巻町は相当大きく一番右からなのでしょうか? もし「鶴巻町東」からだとすると、「鶴巻小前」に近くなっています。

 さて、神楽坂が出てくる最後の場面です。

「実は今晩、下村の就職祝の会が7時から神楽坂の鳥正とかいう料理屋であると云っとりました。」
「そう、それは有難う。じゃあ」
 電話を切った美絵子は、つまらなそうにぶらぶらしている西山へちらりと流し目をくれると、
「西山さん、今晩お供するわ。」
「来てくれるのかい?」
「ええ。」
「銀座?」
「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ。7時に肴町停留場で待っていて頂戴」
       4
 鳥正という神楽坂の料理屋は肴町の方から行って電車通りを一寸左へ這入った細い露地の右側にあった。美絵子は西山について二階へ上って行った。そして西山に気取られないようにそっと女中を廊下に呼んで
「今夜ここで下村さんとかいう人の会があるでしょう。」
「ええございますわ。」
「その部屋の隣の座敷へ通してくれない?」
「はあ、かしこまりました」

停留場 市電・都電の停留所です。
電車通り 市電・都電が通る道路のこと。ここでは大久保通り

 鳥正は川鉄をモデルにしています。

 「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ」といわれた神楽坂ですが、半ば笑いのネタになっているのではないでしょうか?  普通は銀座のほうが遙にいい。なのに、神楽坂がいいのは、下村さんの就職祝の会があったからです。

 以上で終わりですが、あまり神楽坂は出てきませんでした。

 しかし、それ以上に驚いたことはこの文章全体の軽さです。昭和9年に書かれたなんて思えません。