山下頼充氏の「5つ子の父としての1年間」(文春EーBook、2015、原本は昭和52年)です。
その夜、冷えきった寮の部屋から鹿児島へかけた電話で初めて生まれた子供が五人であることを知った。 もはや躊躇は許されない。 「しばらく胸に秘めておいてほしい」と前置きして上司に五人の子供が生まれたことを報告した。 何とかメドがつくまで外部へ漏れなければよいがという私の願いは半日ももたなかった。ウィスキーの水割りを四~五杯流し込み、しばらくまどろんだかと思うと先輩記者からの電話でおこされる。 「通信社の友人から鹿児島のNHK記者の家で五人の子供が生まれたらしいと聞いてきたんだが、君のところの奥さん、出産で帰っておられたのではなかったかい」 しばらくそっとしておいてほしいという気持ちだけは伝えたが、通信社の動きをキャッチしたNHK社会部の泊りの記者からの電話がかかり、私は翌朝直ちに鹿児島に帰ることを決意しなければならなかった。 NHKの朝六時のニュースは、 「我が国初の五つ子誕生。母子とも順調」とトップで伝え、体ひとつで駆け込んだ鹿児島市立病院では、あとは父親の談話をとるだけといった感じで大勢の報道陣が待ち構えていた。 重い〝皆様のNHK〟 ニュースというのはとかく第一報でその流れが方向づけられることが多い。最初、けしからんと判断した事象には、情報量が少なければなおのこと、そういう目で材料を集めることが、ままおこりがちである。 一度に五人誕生という出来事が好奇の目にさらされることはやむを得ないと覚悟はしたものの、興味本位で書かれることだけは耐えられなかった。そのためには、ありのままを話す以外にない。取材の申し込みがある限り、これに応えねばならないと思った。 そうは言ってもふだんの取材する側から取材される立場にまわっただけに、何となくぎこちない。地方支局詰めを始めたばかりという若い記者には、もっと聞きたいことがあるのではと逆に促すこともあったし、夫婦の間のことを敢えて聞き出そうとする意地悪い質問が出ても、ムッとした顔も出来ず苦笑いで誤魔化すことも多かった。 覚悟していたとはいえ、一旦火のついた取材攻勢はとどまることがない。 |
平日でも夜まわりを終え、午前零時過ぎ寮に帰るとドアの前で週刊誌の記者が待っている。 「今夜中に取材しないと締め切りに間に合わない」 寒風の吹きつけるなかで二時間も立っていたという。 ある時は週刊誌のグラビアでひとり住いのわびしいところを写したいとの要望。何日か前に食べ残して腐りかけのインスタント料理にをつけるポーズをとったり、水割りを飲んだり、さすがに入浴シーンをとりたいという申し出だけは勘弁してもらったが……。 もし、報道機関に身を置く人間でなかったら、もし職場がNHKでなかったら断わることが出来たろうにと思うことも多かった。気負い過ぎといわれるかもしれないが、〝皆様のNHK〟という言葉は私には重すぎた。 |
砂糖に群がる蟻のように 子供たちの誕生以来、世間が狭くなった様な気がする。買い物籠を持った主婦らしい二人連れが、道ですれ違いざま、 「アラ、五つ子のお父さん!」 と叫んだかと思うと、何かこわいものでも見たかのように足で地面を踏み鳴らす。 たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんには、 「女房の出産が近いので縁起のためにも」 と名刺をまきあげられる。 先輩と一緒に出かけたダービーの日の競馬場では、通信社の記者に、 「何を買ったのか」 と取材され、売り場のおばさんは「こんなことやってていいの」と言わんばかりに顔を見返す。それでも初めて夜まわり取材に訪れた政治家の家で、果たして会ってくれるだろうかと名刺を手におそるおそるベルを押すと、ドアを開けた夫人が、 「アラ、山下さん。いらっしゃい」 と、挨拶する間もなく座敷へ通してくれる。家を出たらプライベートな問題と仕事は峻別している積りだが、取材先で話題が跡切れると、 「ところで、子供さんは元気かい」 と否応なしに五人の父親であるという現実に引き戻されることも多い。 |
排卵誘導剤のリスクが現実のものになった時代です。まず、当時は超音波(エコー)検査がありませんでした。米国産のエコーが出てくるのは80年代になってからです。子供の心音だけが唯一の検査法でした。また、エコー検査で卵5個も見つかる場合、普通はセックスは行いません。さらに当時ゴナドトロピン由来の薬しかありませんでした。この場合、多胎率は約15〜20%でした。さらに体外受精という別の方法もありませんでした。
この方法に敬意を払いずつ、現在、5つ子の発生率は0%になりました。