文学と神楽坂
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520とID 13525は昭和30年代頃、尾崎紅葉旧居跡に撮ったものです。氏は、明治24(1891)年3月から死亡する(明治36年10月30日)まで、12年半、横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。
ID 13520 新宿歴史博物館「写真で見る新宿」尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代
ID 13520は、昭和29年の野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)の写真とよく似ています。垣根は四ツ目垣です。ただし、ID 13520は真新しいモルタル造の家に変わっています。玄関脇の廃材は古屋を解体したものかも知れません。
野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)
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ID 13525 新宿歴史博物館「写真で見る新宿」尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13525 尾崎紅葉旧居跡
ID 13525は、イチジクと思われる木のそばの井戸を狙っています。周囲は雑然としていて、ゴミ箱らしき木箱や物干の竿かけ、半ば開いた勝手戸のようなものが写っています。建物の裏庭のようです。 この写真は恐らく、尾崎紅葉宅にあった井戸でしょう。位置はわかりませんが徳田秋声氏の『和解』(昭和8年)では……
それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。 「この水が実にひどい悪水でね。」 K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。 「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」 | O―とK―は 尾崎紅葉と泉鏡花です。 「馴染の門の柳」については、後藤宙外氏の「明治文壇回顧録」(昭和11年)で……
門を入つて左側の塀際に、目通り径五六寸程の枝垂柳が一本あつたのである。 |
したがって「門」の左側に「柳」があり、そのそばに「井戸」があったはずです。 井戸は門の外だったかもしれませんが、内では流しや風呂場が近いので便利だったでしょう。現代の地図では以下の場所にあたるかもしれません。
【尾崎紅葉 旧宅位置想像図】赤が47番地(鳥井家)、青が紅葉旧居、緑が井戸
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