神楽坂の石畳(別名は「甃」で「いしだたみ」と読みます)について。
ピンコロ石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装の場所は下図で赤い部分で書いてあります。最近、紅小路が伸び、2018年には神楽小路から横にはいっていく石畳がつくられました。
それ以外に石畳3か所があります。1つが駒坂(玉乃湯階段)で、さらに遠く離れて1か所は赤城坂(しかし今ではありません)、1か所は東京日仏学院です。
まず赤く色を塗った神楽坂の石畳の地図を見ましょう。ここで赤い線が扇文様の石畳になります。
赤城坂の石畳は左の下図でしたが、今はありません。駒坂(玉乃湯階段)の石畳は右の小さな赤点。
さらに東京日仏学院の中にもピンコロ石畳が使ってあります。
場所は神楽小路の横、毘沙門横丁、かくれんぼ横丁、見返し横丁、紅小路、酔石横丁、兵庫横丁、寺内公園、クランク坂上、駒坂、赤城坂、日仏学院です。
1か所(か2か所)だけマンホール用の化粧蓋もありました。これはマンホールと石畳について書いています。タグの「ピンコロ石畳」を選べば全部選ぶことができます。
名前の由来は神楽坂の通りと坂に書いてあります。
毘沙門横丁、かくれんぼ横丁、見返し横丁、紅小路、兵庫横丁、寺内公園、赤城坂はつかってもいい名前です。酔石横丁、クランク坂上、駒坂はまだ自由に使える路地の名前ではありません。『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」にでてきたものです。
2018年にできたのが神楽小路から横に入っていく道の石畳。ここには昔は石畳ではなかったのです。見返し横丁はあらゆる点で格調が高く、特に路地にはいるとその横幅が大きくなるのが最高です。紅小路も路地に入ってからきれい。酔石横丁はなんたって幅4mの大きさです。かくれんぼ横丁と兵庫横丁は突然みえなくなりそうな路地がいい。かくれんぼ横丁には❤形の石畳、☆と◇に彫った石畳があります。毘沙門横丁は東側のほうが綺麗です。クランク坂上はマンホール用の化粧蓋とはいえない蓋にかえって歴史を感じてしまいます。日仏学院も紅小路と似たピンコロ石畳なのにいまも新しい。
何時できた?
ではいつ石畳はできたのでしょうか?NHKの『鑑賞マニュアル 美の壷』では 戦後間もないころだといっています。
東京、神楽坂。毘沙門天善國寺の門前町として栄えたこの街を代表する石畳が、四角い石を扇形に敷き詰めた、扇文様の石畳。芸者さんが出入りする花街の人々が戦後間もないころ取り入れました。祖父がこの石畳を敷いたという料亭の若おかみ、山本さん。 山本 「昔の花柳界の人は粋っていうものを突き詰めて考えていたんじゃないかって思いますね」 扇は、歌舞伎や日本舞踊などで、艶やかさを表現する上で欠かせないものでした。その縁起のいい扇文様で、花柳界の発展を祈ったのだとされています。何気なく歩く足元にも、意外な物語が秘められていました。 |
野口冨士男氏の『私のなかの東京』(初出は昭和53年)では
(坂下の)その砂利が取り払われて木レンガとなったのは震災後のことだったはずで、坂の傾斜がゆるくなったのもそのときだったとおもうが、それがさらにサイコロ形の直方体の石を扇面状に置きならべたものに変ったのは昭和初年代のはずである。 |
中村武志氏は『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)で
関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物の佐和屋あたりに、昔は段があった。 |
また神吉拓郎氏の『東京気儘地図』では
その頃の神楽坂は、石畳だったように憶えている。四角なサイコロ型の石を、扇面の形に敷きつめてあったように思う。それ以前の神楽坂は、木レンガ敷きだったように聞いている。そして震災以前は、砂利道で、勾配も、もっと急であったらしい。 |
その頃というのは「中学生」です。神吉氏の生まれは昭和3年ですので、昭和15~18年でしょうか。この時は神楽坂通りも石畳だったようです。しかし、昭和10年代にはアスファルトに変わったという文章もあります。
西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では戦後、石畳は花柳街の路地に移ったといっています。
震災(関東大震災)の復興事業の一環として神楽坂は御影石のブロックで舗装された。震災の被害をあまり受けなかった神楽坂で変わった点といえば、石畳が出来たことぐらいだ。それまでは雨が降れば長靴を履き、和服の女性は高下駄に足袋が汚れぬように爪皮をつけて外出した。 雨にはいろいろ苦労させられる坂だつたが、坂上はアスファルト、坂下は花崗岩のブロックを敷きつめた石畳になると、坂下の石畳が蛇の膜様のようだと珍しかられて見物人が押し寄せた。しかし下駄履きの女性には敬遠された。特に雨のロには滑るのである。下りは危険がともなった。その石畳が、戦後、アスフアルトで改修されたとき、地域の要望で石畳は花柳街の路地に移され黒塀と共に花街に風情を与えることになった。 |
以上をまとめて、現在の私の考えでは神楽坂通りの路面は、
震災以前 | 砂利道 |
震災直後から昭和初年代 | 直後は木レンガ。しかし、御影石のブロックに変更し、さらに石畳に |
昭和10年代 | 坂上の石畳はアスファルトに、しかし、坂下の石畳は同じまま |
戦後 | 坂上も坂下もアスファルトに |
西村幸夫編著の『路地からのまちづくり』で寺田弘氏の「しつらえの路地の魅力」では昭和30年代後半から40年代初頭にかけて花柳街に石畳が敷きつめられたといっています。
次に黒塀とともに重要なのは、足許の敷石であるピンコロ石だ。この石はヨーロッパの都市で車道や歩道や広場にごく一般的に使われている舗装材だ。90 x 90 x 90mmのサイコロ状の石で値段は比較的に安価で、日本では主にガーデニングや門扉、玄関脇に使われている。この石が神楽坂の花柳界の路地に敷きつめられたのは昭和30年代後半から40年代初頭にかけてで、それまでの御影石の踏み石に替えたものだった。京都の花街や東京の他のそれが一見して高価な御影石なのに対して、ピンコロ石を敷きつめることには勇気がいったに違いない。ただし、丁寧に施工された鱗貼りや同心円状の円形貼りは、黒塀とあいまって品格と厳粛さを発揮し、特に雨上がりや夕闇の灯りに照らされた路地は絶品の工芸品を見る思いすらする。 |
石畳とマンホール
*ピンコロ石とはこぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。
以下は素人の知識ですから間違いがあるやも知れません。
地元では工事で石畳を掘り返すことが時々あります。
その時はまったく新しい石で敷き直します。条件によって補助もあるようです。
ある種の観光資源なんですね。
ただ昔の石畳は単なるコンクリートの板なので、よく地下にシンクホールができます。
いまは石の間を透水性の材料にして欠点を補っています。コンクリート舗装にしないのは、そういう意味もあるようです。