矢来町|江戸、明治、現在

文学と神楽坂

矢来町の大部分は旧酒井若狭守の下屋敷でした。矢来(やらい)という言葉については竹や丸太を組んで,人が通れない程度に粗く作った柵のことです。江戸城本丸が火災になり、家光がこの下屋敷に逃げ出すと、御家人衆が抜き身の槍を持って昼夜警護しました。以来、酒井忠勝は垣を作らず、竹矢来を組んだままにします。矢来は紫の紐、朱の房があり、やりを交差した名残りといわれました。江戸時代での酒井家矢来屋敷を示します。また、酒井家屋敷北の早稲田通りから天神町に下る一帯を、俗に矢来下(やらいした)といっています。 矢来屋敷

明治5年、早稲田通りの北部、つまり12番地から63番地までの先手組、持筒組屋敷などの士地と、1番地から11番地までの酒井家の下屋敷を合併し、牛込矢来町になりました。その時代が下の絵で、明治18年ごろの同じ場所です。池はあるので、かろうじて同じ場所だと分かります。何もない荒れた土地でした。 矢来町 明治

明治28年頃(↓)になると、番号が出てきて、新興住宅らしくなっていきます。1番地は古くからの宅地(黄)、3番地は昔は畑地。7番地(水色)は長安寺の墓地だったところ。8、9番地(赤とピンク)は山林や竹藪、11番地は池でした。それが新しく宅地になります。 矢来町color

 3番地には(あざ)として旧殿、中の丸、山里の3つができます。旧殿は御殿の跡(右下の薄紫)、中の丸は中の丸御殿の跡(右上の濃紫)、山里は庭園の跡(左の青)でした。11番地は矢来倶楽部の庭園で、ひたるがいけ(日下ヶ池)を囲んで、岸の茶屋、牛山書院、富士見台、沓懸櫻、一里塚などの由緒ある建物や、古跡などがありました。将軍家の御成も多かった名園でした。 矢来倶楽部は9番地(ピンク)にあり、明治二十五年頃に設立しました。 最後に現代です。矢来町 現在

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