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神楽坂|本多横丁 由来

文学と神楽坂

 本多横丁の由来になった旗本「本多家」のことです。まず標柱では

本多横丁
Honda-yokocho
江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であった。

 国立国会図書館の御府内沿革図第11巻切絵図のコマ番号180では、「本多修理屋敷脇横丁」とあります。

 ここは西側にも武家屋敷の並ぶ道でした。

 昭和24年頃、商店会は「スズラン横丁」に変更しました。しかし、旧名の本多横丁の復活を望む声が多く、昭和27年頃、本多横丁商店会に変えています。実際、明治20年も同じ本多横丁でした。

 竹田真砂子氏の『ここは牛込、神楽坂』第2号の「振り返れば明日が見える2…銀杏は見ている」ではこう書いています。

本多横丁の由来になっている旗本の本多家は、幕末になって、大名の列に加えられた。知行地は三河国西端藩、現在の愛知県碧南市である。
 維新直後、本多家当主は藩知事になったが、廃藩置県にともなって免職となり、東京と改称した江戸に戻った。

 ここには実際に本多家最後の当主を覚えている人の話もあります。

ご母堂の智氷子刀自は、今年83才。本多家最後の当主を見覚えている。「お目にかかったのは、多分、昭和の初め頃」であったという。
 本多の屋敷跡は、明治十五、六年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正十年十月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。

ここは牛込、神楽坂』第5号で中井啓隆氏の『本多横丁の変遷について』では

神楽坂の本多家は、本家筋からは分家のそのまた分家の家筋に当たります。本家筋では、徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が知られていますが、系譜をさかのぼれば、藤原兼通(六代関白925~979)につながります。
 名家藤原の末裔の姓が本多に変わっていく経緯にまでは手が届きませんでしたが、いつの頃か、三河国宝飯郡伊奈郷に移り住んだという記録があります。分家の六代目本多康俊(元和九年1623没)が伊奈城主だったのも興味のあるところです。この康俊の二男忠相(修理 美作守 八千石 天和二年 1682没)が分家からまた分かれ、神楽坂の本多家の初代となります。
 本家も分家も代々城持大名ですが、分家の分家は上級旗本として幕府に仕えていくことになります。
 初代忠相は、慶長10年(1605)七才の時に三河國西尾より江戸に下向し、将軍秀忠に拝謁を許されます。元和元年(1615)父に従い大阪夏の陣で功をあげ小姓番となり碧海郡(現碧南市)に知行干石を給わり、84才で没する時には、ハ干石の旗本になっています。
 以下、少し系図を追ってみますと、初代忠相→二代忠将(修理 対馬守備前守 御書院番頭 九千石 元禄四年1691没)→三代忠能(修理 因幡守 定火消 大番頭 延享元年1744没)→四代忠敞(修理 播磨守 定火消 御書院番頭 延享2年1745没)→五代忠栄(左京 対馬守 定火消 百人組頭 大番頭 伏見奉行 安永5年1776没)→略→忠鵬(明治2年頃、三河國碧海郡西端藩 1万500石 子爵)…となります。

 6代は本多忠直、7代は本多忠盈、8代は本多忠和、9代は本多忠興です。

 ウィキメディアでは

元治元年(1864年)、9000石を知行していた本多忠寛が、江戸警備の功績などから1万500石に石直しを許され、ここに本多氏は諸侯に列して西端藩が立藩した。慶応3年(1867年)5月20日、忠寛は病気を理由に隠居し、嫡男の本多忠鵬が後を継いだ。忠鵬は明治元年(1868年)、新政府に与して陣屋を兵営として貸し与えた。
 翌年6月、農民兵を募集して様式訓練を行うなどの藩政改革を行ない始めた。同年6月23日、版籍奉還で忠鵬は藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で西端藩は廃藩となった。その後、西端県を経て額田県、そして愛知県に編入されたのである。

ここは牛込、神楽坂』第5号『本多横丁の変遷について』にもどります。

神楽坂の本多家は、禄高も役職も、最上級旗本だったことが判ります。ここで注目したいのは、三代忠能から定火消の役を代々引き継いでいることで、この本多家が神楽坂に居を移してきた理由と時期に、関係があるのではないかと思えます。

定火消 江戸幕府の職名。火消の一つ。明暦の大火後の1658年に従来の大名火消のほかに設けられ、江戸市中の消防と非常警備を行った。初め4組、一時15組、1704年以後10組の組織が確立し「十人火消」といわれた。

 この(じょう)()(けし)については籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の「新宿区 神楽坂・弁天町コース」にある程度載っています。

本多家の始祖は徳川四天王の筆頭本多平八郎忠勝(ただかつ)(1548~1610)と伝えられ、分家六代目の本多康俊(やすとし)の次男忠相(ただすけ)(1598~1682)が旗本の身分と千石の知行を安堵されて分家した。やがて八千石を拝領した忠和が神楽坂の本多家初代になるが、神楽坂に50間四万の広大な屋敷地を賜ったのは、元禄五(1692)年に三代目を襲封した忠能(1744年歿)がじょうけしの役務を任じた後と目されている。忠能は江戸城の西北部、つまり神楽坂方面の防火と警備を担当した

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文学と神楽坂

神楽坂5丁目

文学と神楽坂

神楽坂6丁目

神楽坂五丁目から藁店を通り、袋町。右側の「もん」も八百屋「丸喜屋」もなくなりました。

 毘沙門天から先の神楽坂5丁目は昔は武器、兵器庫があり、このあたりは「兵庫(ひょうご)」と呼ばれていました。徳川3代将軍家光の鷹狩りの帰途のたびごとに、町民は魚を献上し、家光は酒井讃岐守忠勝に命じ「(さかな)(まち)」と地名変更をさせました。このため明治、大正、戦争前は肴町でした。たとえば明治20年の地図では肴町です。「神楽坂5丁目」に変わったのは昭和26年です。理由は文京区の肴町と誤認されやすいことなどが上げられています。
「玄品ふぐ神楽坂の関」の所にかつては田原屋」が開いていました。「五十鈴」は現在もあります。

 さらに行くと、左に高くなる「藁店(わらだな)」です。かつては上に行く途中で寄席の牛込亭や映画の牛込館がありました。これを藁店横町ともいいますが、藁店のほうが普通です。
相馬屋」は現役。その隣にかつては酒屋の「万長」と「紅谷」が店を出していました。河合陶器店もなくなりました。
 旧万長の横は寺内(じない)横丁と呼ぶ横丁があります。その場所はここここからすこし向こうに寺内公園があり、その場所は巨大な高層マンションがあります。明治40年(1907)まで、高層マンションではなく、行元寺という寺があり、その跡地を「寺内」と呼んでいました。

 ほかに近江屋山せみキッコ美濃屋かアジアンタワンくるみ、本の武田芳進堂マルゲリータなど。
 最後に現在「神楽坂上」の交差点は当然昔は「肴町」の交差点になっていました。交叉点の名前は横の交通は「大久保通り」、縦の交通は「神楽坂」か「早稲田通り」です。標高14mほど。
 坂上の信号機を渡り、つまり大久保通りを渡ると、右側は神楽坂6丁目ですが、左側の数軒はまだ神楽坂5丁目です。戦前にはデンキヤホールもここにありました。
寺内公園 神楽坂4丁目
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善国寺|毘沙門天

文学と神楽坂

善國寺


善國寺ぜんこくじです。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。

この前に標柱があります。

かぐざか  坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

となっています。詳しくはここで

では中に入ると……

善國寺毘沙門天(びしゃもんてん)です。別名を多聞(たもん)天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。

明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。

昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の毘沙門堂を再建します。昭和46年に今の本堂を建てています。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。

1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。

文化財についてはここに

「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。ema 『続日本紀』には神の乗り物、(しん/じん)()を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。

木柾を叩いて読経します。

「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足(むかで)ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。

中を読むと

往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足(むかで)と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。
このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。
皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。

ひめ小判 小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は

神楽坂
令百由旬内無諸衰患
南無 開運・除厄 大毘沙門天守
受持法華名者福不可量
善国寺

と書いてあります。
さらにひめこばんについて、まとめてみました。

児玉誉士夫建之 ロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前があります。一つは山門の右側の柱で
  昭和46年5月12日 児玉誉士夫建之
と書いてありました。

もう一つは境内のトイレのそばで
 ○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主
とかかれた慰霊塔の
 昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫
と書いてありました。

ireihi 家畜慰霊碑は

東京都食肉環境衛生同業組合 牛込支部

と書いてあります。

浄行菩薩jpg 本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。

またその奥、出世稲荷に小さな社があります。

 また書院では隔月で落語をやっています。
拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では

毘沙門前
   通りをつっ切り境内へ入る一平。

毘沙門に

次は神楽坂3丁目
神楽坂4丁目
神楽坂5丁目
本多横丁では
毘沙門横丁
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神楽坂 作家と文化人

神楽坂4丁目(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂4丁目です。本来は武家地で岡野、奥津、中村、東條他二、三軒の武家が住んでいましたが、明治2年、土地の開放があり、町屋が出来て市街地となりました。

礫川牛込小日向絵図

礫川牛込小日向絵図

 明治2年、宮比神社があり、そこで宮比(みやび)(ちょう)になりました。明治、大正、戦争前はどれも上宮比町です。明治20年の地図でも同じです。昭和26年5月1日、4丁目になりました。なお、この上宮比町と下宮比町との間には津久戸町が介在していて上下のつながりはありません。

紅小路

 ここで「楽山」から奥に行く小さな路地があります。楽山(前方)とみずほ銀行(後方)の間です。この路地をあでやかに「紅小路」と呼びます。なんで? 通りに面するビル、昔の楽山とみずほ銀行がどちらも赤いビルの壁になっているから。これは今の楽山に変わる前で、今ではそうでもないようですが。

 ではまた元の通りに戻りましょう。鳥茶屋せんべい福屋の間に大きな路地が見えます。これは賞を取ったことで「まちなみ景観賞の路地」、千鳥足で歩きたいことで「酔石横丁」と呼ばれています。酔石

 奥には右側の古い居酒屋「伊勢(いせ)(とう)」と左側のクレープ屋「ル・ブルターニュ 」が対でならんでいます。この奥は、兵庫横丁になっています。

 ではもう一度元に戻って、3軒先に進みます。細身

「AWAYA」と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』の地名では「ごくぼその路地」、牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」「名もなきままの小路」と呼んでいます。神楽坂で最も狭い路地です。

 しかし、先には狭い路に面して居酒屋もあります。「拝啓、父上様」第一回で田原一平は奥からここをすり抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会うエピソードがあります。

神楽坂通り
  ケイタイをかけつつ歩く一平。
一平「動いてないな。ようし見えてきた。後1分だ。一分で着くからな」
ごくほそ1

コインランドリーで洗濯をしていた田原一平は洗濯物を持ってこの路地を抜け毘沙門天で待つ中川時夫に会う

善國寺はここを
3丁目5丁目はここを
兵庫横丁はここを

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文学と神楽坂

神楽坂3丁目 熱海湯階段

文学と神楽坂

 ではいかにも私道に見えるほうに進みましょう。私たちの方角では左のほうで、見番横丁とは反対の方向です。この路地にはいっていきます。

熱海湯に行く道

 この正面を右側に回ると、下に行く階段が出てきます。

フランス坂1フランス

 ととととと歩くと…
フランス坂3熱海湯階段
 それで終わりです。この階段や路地は「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「フランスの坂」、「芸者小路」、「カラン坂」などと呼んでいます。

 なぜ有名になったのか? やはりテレビ番組「拝啓、父上様」ではないでしょうか? それまではこの階段、まあ有名でも、ものすごく有名ではありませんでした。それが、階段を下りる「ナオミ」の持つ箱からりんごが何十個かこぼれて落ちて、主役の「田原一平」役の二宮和也はリンゴを何個も拾い上げて、 これで田原君は1目ぼれです。 なぜナオミはこの階段にいたの? りんごはどこで買ったの? りんごをどこにもっていくの? などとは聞かないこと。しかし、この階段、和可奈の兵庫横丁よりも沢山でてきます。

 なお、2017年以前のいつかから、少し変わりました。テラスができたのです。

 しかし、この階段が大好きな人もいます。たとえばパリジェンヌのドラ・トーザンです。『東京のプチ・パリですてきな街暮らし』の一節で

私は熱海湯のところから鳥茶屋別邸を横に見て上がっていく坂をフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。

と書いてありました。

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 当時「熱海湯」を上がった芸者はここを通って神楽坂に行ったといいます。この下に音声ガイドつきの「芸者小路」がありますが、行ったときは電話の相手は不通になっていました。なお、芸者はここで書いています。
下に入ると熱海湯です。コインランドリーお蔵坂アグネスホテル
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