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木下杢太郎氏とノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

木下杢太郎氏は皮膚科医師で、さらに詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家でした。最終的には東大医学部の皮膚科教授になります。氏も与謝野寛氏、西條八十氏、内藤濯氏などと同じようにフランスに留学しています。大正10(1921)年5月、35歳、横浜を出発し、米国シアトル着、キューバ、ロンドンを経て10月にパリに到着します。そして「サン・シユルピスの廣場から」では

ムツシユウN氏に就いてわたくしは佛語を習つてゐる。同氏がわざわざわたくしの客寓に來てくれるのである。この物靜かな、素養のある人から、この國の名家の講釋を聽いたことは、ずつと後になつても、わたくしに喜ばしい記憶となつて殘るであらう。
 その時窓の外には、弱い温さうな光が、くつきりと向側の家の廣い灰色の壁に當つでゐた。空はセリユウレオムの靑である。そして一瞬間わたくしは海邊に近き綠林の、夏早朝の日光のうひうひしさを想像した。
客寓 かくぐう、きゃくぐう。客となって滞在する。その家
セリユウレオム Cerulean。セルリアンブルー。16進表記で #007BA7。19世紀半ばに青い顔料が発明して付いた名称です。ラテン語で空色。JISの色彩規格では「あざやかな青」
 

ムッシュNは「ヌエット」なのか、ここではまだ判りません。次の1922年6月22日夜の「巴里の宿から(与謝野様御夫妻に)」では

詩人のヌエトさんが貴方がたのことを時時噂します。この間ル・ジュルナルといふ新聞へ貴方かたのことを寄書しました。奥さんの寫眞は十幾年の前のものだつたらうと思ひますが、歌集の繪から複寫したやうでした。御惠贈の「旅の歌」はヌエトさんにお贈りしました。
 ヌエトさんがよくレシタシオンに件れて行つてくれます。マダム・マレユツクといふレシタシオンの先生のおさらひで、若い娘さんたちが歌唱し又吟詠します。そしてわたくしは佛蘭西語の發昔のいかに美しいものであるかと云ふことをつくづくと驚嘆します。紐育からの船中で或る老英国夫人の英詩の吟詠を聽いた時には少しも感動しませんでした。
 ヌエトさんの詩を讀んだ娘を、夫人がヌエトさんの處へ紹介しに來ました。むすめはおづおづ挨拶しましたが、かういふ臆病らしさをも佛蘭西のむすめは持つてゐるかと驚きました。
貴方がた 与謝野寛・晶子のこと。約10年前に与謝野夫婦はパリに来ています。
レシタシオン Recitation。朗読

ここでヌエト氏と名前が出てきます。ヌエット氏です。ヌエット氏は詩人兼画家で、神楽坂の寺内公園で有名な版画『神楽坂』を作っています。ほとんどフランスにいたみんなが氏を知っていたようです。

晩年のノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

ノエル・ヌエット著「東京 一外人の見た印象」第2集、昭和10年

ノエル・ヌエット著「東京一外人の見た印象」第2集、昭和10年、表紙の挿絵

 1971年(昭和46年)、野田()太郎(たろう)氏の「改稿東京文學散歩」でも詩人で画家のノエル・ヌエット氏がでてきます。

 野田氏は1909年10月に生まれ、詩集を作り、1951年、日本読書新聞に「新東京文學散歩」を連載します。「文學散歩」は実際に文学で起こった場所を調べています。

 一方、ノエル・ヌエット氏はフランスで1885年3月30日に生まれています。ヌエット氏は寺内公園にある『神楽坂』を描き、その版画を案内板に載せています。

     ヌエットと「濠にそひて」
 フランスの詩人でもあるヌエットさんにはじめて会ったのは、昭和二十一年だった。その頃は出版社勤めだったわたくしは、ヌエットさんが皇居周辺の江戸城の面影を丹念にスケッチしたものと、江戸城に関する解説及びクローデルの詩や自分の詩をあつめて『Autour du Palais Impérial』と題した画文集を『宮城環景』と訳して出版した。それにはヌエットさんともっとも親しい山内義雄氏が美しい和訳文をつけられた。――実はわたくしがクローデルの「江戸城内濠に寄せて」(註・初訳は「江戸城の石垣」)につよい関心を抱きはじめたのも、この本の出版からと云ってよい。

クローデル Paul Claudel。フランスの詩人・劇作家・外交官。 1890年外交官試験に首席合格。日本、アメリカ、ベルギー駐在大使。大正10年駐日フランス大使として着任。昭和2年離任。生年は1868年8月6日。没年は1955年2月23日。享年は満86歳。
山内義雄 大正昭和のフランス文学者。早大教授。日仏文化交流に貢献して昭和16年レジオン-ドヌール勲章。生年は明治27年3月22日。没年は昭和48年12月17日。享年は満79歳。

 野田宇太郎氏はヌエット氏と初めて会ったのは、昭和21年なので、1946年です。野田氏は37歳、ヌエット氏は61歳でした。

それからもヌエットさんとは時折会っていたが、すでに日本にフランス文学の教師として二十数年間をすごし、戦争中のきびしい外人圧迫にも耐えて日本を愛しつづけたヌエットさんも老齢には勝てず、ゴンクール兄弟と日本美術の研究で東大から博士号を贈られると、祖国フランスへ、肉親たちの待つパリヘ帰ることになった。
 それを人伝てに知ったわたくしは、まだ江戸城址の内部を見ていなかったので、宮内廳に見学許可を申し込み、ついでにヌエットさんを誘うた。ヌエットさんは日本を去る前に皇居の内苑を()ることをよろこばれるに違いないと思ったからであった。
 ヌエットさんは、わたくしが江戸城と皇居について書くことにしていたサンケイ新聞社の車ですぐにやって来た。
「コンニチワ、ノダサン、イカガデスカ」位しか日本語を(しやべ)らないヌエットさんと連れ立って、わたくしがはじめて皇居内に入り、本丸跡から天皇のお住居のある吹上御苑以外の場所を半日がかりで殆んど(くま)なく歩いたのは、昭和三十四年二月十二日のことである。

ゴンクール兄弟 Frères Goncourt。フランス・パリの自然主義作家。エドモン(Edmond Louis Antoine de Goncourt)(1822‐96)とジュール(Jules Alfred Huot de G.)(1830‐70)は、つねに一体となって制作した。

 昭和34年は1959年で、この時の野田氏は50歳、ヌエット氏は73歳でした。

 二重橋も新らしく架け替えられ、その奥の江戸城西ノ丸に当るところには(ぜい)を尽くした新宮殿も四十三年暮に完成した。あいかわらず見物客の群がる二重橋前をすぎ、桜田門を内側から潜ると、左手は凱旋濠と土手の石垣の向うに日比谷交叉点が見える。右手は広々とした辨慶濠だが、わたくしの持参した最近の地図には桜田濠と記されている。水鳥が点々とのどかに浮遊している光景も昔のままだが、白い軍艦のように胸を張った大白鳥が二羽、ゆうゆうと水を滑っているのは、まさに戦後からの光景である。
 警視廳本館の陰気な色の建物の前からお濠沿いに西へ歩きはじめると、もうそのあたりのお濠の対岸は高い芝生の崖で、クローデルの「右手、つねに石垣あり」の光景は消える。それに替ってヌエットの「濠にそひて」の山内義雄訳が思い浮んでくる。

   過ぎにし時のかげうつす
   ここの宮居の濠にそひ
   愛惜、のぞみ、()ひまぜて
   はこびし夢のかずかずよ!

後の詩文は省略し

この詩は作者の心を心としたすぐれた詩人の訳者にしてはじめて成し得た名訳である。ヌエットさんがいかに江戸文化の、とくに安藤廣重の錦絵版画「江戸百景」などの美術に心を傾けていたかは、先の『宮城環景』の絵でもわたくしは理解したが、この詩を読むと、江戸城周辺の歴史的自然美に対するヌエットさんの(こま)やかな愛情が、ひしひしと伝わってくる。その頬や肩を()でたお濠端の柳の糸、雪のように音もなく水面をとび立つゆりかもめの群、大内山に面した江戸城西側のお濠の斜面で、小さい彭のように毎年きまった季節に草刈る人々の姿まで、見逃かしてはいない。
 ヌエットさんは東京が戦災に打ちのめされ、ようやくたたかいが収まったとき、帰国を思い立っていた。この詩は、そのときに書いた詩である。しかし、その後、ヌエットさんのやるべき仕事が出来て、又しばらく帰国をのばすことになった。十年がたち、わたくしがヌエットさんと二人で皇居内をめぐり歩くことが出来たのも、その留任のためであった。しかし、すでに八十歳になったヌエットさんは、その翌年、ついに東京に別れを措しみながら去って行った。東京都はヌエットさんに名誉都民の称号を贈り、ヌエットさんは再び永久にパリ人となったのである。「濠にそひて」の詩をのこして。

安藤広重 歌川広重と同一。江戸後期の浮世絵師。代表作は「東海道五十三次」
江戸百景 『名所江戸百景』は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

「すでに八十歳になったヌエット」と書かれていますが、正確には東京からフランスに向かった日は1962年(昭和37年)5月12日で、77歳でした。

数日後、また偶然にお濠端を通ってみると、その土手にはもうあざやかな朱色はなく、一面淡緑に被われていた。その間に雨が降り、花を落したあとに、 緑の茎だけがすくすくとのび立っていたのである。生き地獄のようにさえ思われた東京にも、本当の自然かあることを知っただけでも、そのときのわたくしは幸福を感じた。ヌエットさんにも、そう云って見せたかった光景だと、今にして思うが、あるいはもう江戸城西側の季節のうつろいのはかなさを知っていたのかも知れない。

 一方、西條(ふたば)()氏は『父西條八十』(中央公論社、昭和50年)の「英文学から仏文学へ」でこう書いています。

その頃、偶然の機会にのちに東京で著名な仏語教授、さわやかな筆致のペン画で東京風景をスケッチして有名であった詩人ノエル・ヌエッ卜氏と親交を結んで沢山のフランス詩人を知った。彼は父の帰朝後まもなく日本を慕って東京へきて幼い私の玩具遊びの相手をしてくれたこともあったが、後年、四十年近く滞在した日本を離れる時、見送りに横浜の船まで行った父や私の顔も見わけられないほど呆然自失したような深刻な無表情が痛々しく私たちの胸にのこった。

 日本を離れる時は77歳。どうして呆然自失したのでしょうか。痴呆があったのでしょうか。しかし、高橋邦太郎氏は「本の手帖」(第61号、1967年2月号73頁)で、1966年、81歳のパリのヌエット氏を書いています。

去年四月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、『もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい』
といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。

 ヌエット氏の没年月日は1969(昭和44)年9月30日、84歳でした。

ノエル・ヌエット|矢来町12

文学と神楽坂

 ヌエットノエル・ヌエット氏(Noël Nouët、1885年3月30日生まれ)は、フランス、ブルターニュ出身の詩人、画家、版画家で、40歳から75歳までの約36年間、日本でフランス語教師として諸学校で教えました。戦後になって、1952年(67歳)、牛込に小さな家を買い、教師の傍ら執筆活動を行っています。1961年(76歳)、フランスに戻り、1969年10月2日(85歳)、死亡しました。氏は神楽坂5丁目の寺内公園の説明で『神楽坂』という版画を描いています。

 Nouëtのtは多くは無音なので、フランス語で本来は「ヌエ」と読みます。実際に与謝野寛氏は、フランスで覚えてきたそのままで「ヌエ」を使っています。
 英語には「ヌエト」「ヌエット」などの発音があり、日本でも英語風になすと「ヌエト」「ヌエット」になります。さらに「ヌエ」には妖怪「鵺」の言葉があります。与謝野寛から12年後、フランス語教授兼友人の西條八十氏や木下杢太郎氏は「ヌエト」しか使っていません。
 日本に行くとそれが「ヌエット」となります。

 ヌエット氏は矢来町12に住んでいました。これは昭和22年の地図です。どこでもある普通の町でした。また左上は現在の地図で、同じ矢来町12に10軒内外が住んでいます。この地域のうち、ヌエット氏の家もあったはずです。

昭和22年

与謝野寛とノエル・ヌエット

文学と神楽坂

与謝野寛晶子

 歌人の与謝野寛、与謝野昌子共著でパリのあれこれをまとめた『巴里より』は大正3年出版しています。1911年(明治44年)、寛は晶子の計らいでパリへ行き、明治45年5月、晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪し、晶子は10月に帰国、寛は大正2年に帰国します。

 この本のうち「飛行機」の章でフランス人の詩人、フレデリツク・ノエル・ヌエがでてきます。文章は明治45年6月「東京朝日」ででたものです。

二人でリユクサンブル公園の裏の下宿へ和田垣博士を誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里(パリイ)の青年詩人を相手に仏蘭西(フランス)語の稽古をして()られる処であつた。僕はヌエ君の新しい処女詩集に(つい)てヌエ君と語つた。詩はまだ感得主義(サンチマンタリズム)を脱して居ないが、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心深い男で、巴里の下宿の屋根裏に住んで語学教師や其外の内職で自活し乍ら毎週二度田舎の母親を()ふのを(たのし)みにして居る。ヌエ君と下宿の(かど)で別れて三人は自動車に乗つた。

  一応はっきりしない語句は注釈つきにしておくと…

サンチマンタリズム センチメンタリズム。sentimentalism。感情面を重んじ、知性よりも内的心情に支配される傾向。

 明治45年6月なので、与謝野氏は39歳、ヌエ氏は27歳です。2人が話をする場合もあります。
 しかし、この名前ヌエは鵺(ヌエ)と同じ日本語です。この鵺という言葉は妖怪のことで、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尾を持っていました。これも変える必要もあったのでしょうか、15年後、ヌエ氏の日本の呼び名はノエル・ヌエット氏になっています。このヌエット氏は神楽坂の寺内公園の中では『神楽坂』という版画を作る詩人兼画家でした。

 次は大正元年12月。

     火曜日の()
夕方ノエル・ヌエ君が訪ねて来た。貧乏な若い詩人に似合はず何時(いつ)も服の畳目(たゝみめ)の乱れて居ないのは感心だ。僕が薄暗い部屋の中に居たので「何かよい瞑想(めいさう)(ふけ)つて居たのを(さまた)げはしなかつたか」と問うたのも謙遜(けんそん)(この)詩人の問ひ相な事だ。「いや、絵具箱を掃除して居たのだ」と僕は云つて電燈を()けた。壁に掛けて置いたキユビストの絵を見附けて「あなたは這麼(こんな)(もの)を好くか」と云ふから、「好きでは無いが、僕は何でも新しく発生した物には多少の同情を持つて居る。(つと)めて()れに新しい価値を見出さうとする。奇異(きい)を以て人を刺激する所があれば其れも新しい価値の種でないか」と僕が答へたら、ヌエは苦痛を額の(しわ)(あらは)して「わたしには(わか)らない絵だ」と云つた。ヌエは内衣囊(うちがくし)から白耳義(ベルジツク)の雑誌に載つた自分の詩の六頁折の抄本を出して(これ)を読んで呉れと云つた。日本と(ちが)つて作物(さくぶつ)が印刷されると云ふ事は欧洲の若い文人に取つて容易で無い。況して其れで若干かの報酬を得ると云ふ事は殆ど不可能である。発行者の厚意から其掲載された雑誌を幾冊か貰ふのが普通で、其雑誌の中の自分の詩の部分の抄本を幾十部か恵まれるのが最も好く酬いられた物だとヌエは語つた。僕は其れを読んだ。解らない文字に()(くは)す度にヌエは傍から日本の辞書を引いて説明して呉れた。七篇の(うち)で「新しい建物に」と云ふ詩は近頃の君の象徴だらうと云つたら、ヌエは淋し相に微笑(ほゝゑ)んで頷いた。君が前年出した詩集の伊太利(イタリイ)に遊んだ時の諸作に比べると近頃の詩は苦味(にがみ)が加はつて来た。其丈(それだけ)世間の圧迫を君が感ずる様に成つたのだらうと僕は云つた。
畳目 紙・布などをたたんだときにできる折り目
キュビスム 20世紀初頭、ピカソなどが始めた革新的な美術表現。ルネサンス以来の遠近法で現実を再現するのではなく、複数の視点から眺めた姿を平面上に合成して表現しようとしている
内衣囊 洋服の内側にあるポケット。内ポケット。
白耳義 ベルギー
圧迫 押さえつけること

このころから既にノエル・ヌエット氏はフランス語の個人教師をしていたのです。

西條八十|払方町18

文学と神楽坂

西条八十氏 西條八十氏は、早稲田大学仏文学科教授を務め、詩人、作詞家で、さらに「唄を忘れた金絲雀かなりやは」で始まる「かなりや」など有名な童謡や流行歌を沢山つくっています。生年月日は明治25年(1892年)1月15日、没年月日は昭和45年(1970年)8月12日、享年は78歳でした。

 では、どこに住んでいたのでしょう。勿論いろいろな場所に住んでいましたが、では牛込区(新宿区の一部)のどこに住んでいたのでしょう。西條八束著の『父・西條八十の横顔』では

父は一八九二(明治二十五)年、東京牛込拂方(はらいかた)町に生まれた。私の祖父重兵衛は初めこの質屋の番頭を務めていたが、西條家の嫡男丑乃助が急死したため、その花嫁となるはずだった私の祖母と結婚して、家を継ぐこととなった。

 西條八十著の「青春の日記」を全集に掲載する際、娘の西條(ふたば)()の「解説」がついてきました。それを読むと、もう少し細かく判ってきます。

父の生家は市ヶ谷と飯田橋の中ほどの濠端から北町へ抜ける、ちょうど3角に逸れる辺りにあった。現電話局の向い側からかなり奥に広がった大きな構えのようであった。

 うーん、かえって判りにくいか。新宿区の『区内に在住した文学者たち』を読むと、牛込払方町18 で生まれたと書いてあります。なるほど。

 下の番号がそれです。明治28年(左図)には、まだ下から上にあがる道(青の道路)はできていません。青に塗った上下をつなぐ坂道は明治42年にできました。昭和15年(右図)になると、道はきちんとできています。ほかに郵便局も出現しています。

牛込中央通り

牛込中央通り商店会「お散歩MAP」平成20年

明治15-28年  ここで西條八十氏は明治44年(1911年)8月まで、つまり19歳まで、この同じ払方町で成長します。

 さらに、新婚の時、妻と一緒に初めて住んだ場所もここで、大正5年(1916年)6月から12月まで、住んでいました。

 ところが、牛込中央通り商店会が作った「西条八十家跡」(左図)は全く違っています。西條八十家跡は、左の図では下ではなく、左にあります

 これは納戸(なんど)町の日々を描いているのでしょう。ここと大きく離れてはいない場所で(それでも、やはり間違えた場所で)昭和19年1月から20年4月まで住んでいたようです。西条八十著の『疎開日記』では

そのあいだ、早稲田大学へは毎週2日間、フランス詩の講義にわりあい忠実に出かけた。娘たちが北京へ赴任したあとの牛込納戸町の家を仮寓に使っていたのだが、狭いながら日あたりのいい家で、そこへ行くと下館よりずっと暖かいので、落ち着いてつい長逗留してしまうのだった。(この家は昭和二十年四月十三日夜の空襲できれいに焼けてしまった。)(中略)
 牛込の仮寓には、よくバリ以来の友「ラ・ミューズ・フランセーズ」の詩人ヌエル・ヌエト氏が訪ねてきた。(ねずみ)(ざか)という細い暗い坂をのぽると、わたしの生まれた払方町へ出た。その想い山の町を深夜二人で肩を並べながら、氏の住む富士見町まで送って行ったものであった。(その後ヌエト氏の家はわたしの家よりもさきに焼けてしまった。)

 また、先の西條嫩子氏の「解説」によれば

戦前、私が三井と結婚した新居は父の払方町の家から、現大日本印刷の方へ降る鼠坂という細い坂道の途中にあった。昔祖父の石鹸の乾し場であったと云う。かつては八十の伯父久七も住んでいた由であって、真向いに樹木の多い小高い家があり、「あそこが初恋の人、塩谷えんちゃんの庭だった」と父がなつかしそうに語っていた事がある。鼠坂から登りつめた所に戦前、払方町郵便局があった。郵便局の事務の娘さんが「この白壁の家は西條八十さんのお父さんのお蔵だったそうですよ」と私との関連を知ってか知らずか呟いていたことがある。

西条八十・昭和16 昭和16年の地図で見ると、右の赤の四角は払方町での生家です。その直下に黒で郵便局も書いています。

 紫色は納戸町の全域です。納戸町のすべてはこの中に入っていなくてはいけません。牛込中央通り商店会の編者も確かに納戸町の場所は描いています。

 鼠坂は赤色で描きました。新宿区ではここだけが鼠坂なのです。

 家は「細い坂道の途中にあった」と書いています。「途中」の場所を薄い水色で描いてみました。ここいらが、おそらく仮寓の場所です。

 最後に最新の正しい「牛込中央通り」を描いてみました。新・牛込中央通り

文学と神楽坂