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里見弴|私の一日

文学と神楽坂

 里見弴氏の『私の一日』(中央公論社、昭和55年)の「泉鏡花」には、この泉鏡花と徳田秋声の曰く言いがたい関係がもっと細かく書いてあります。

その話も詳しくさせられるのかい?……厄介だな。……改造の社長の山本実彦が、円本のうちに紅葉編も出したいんだが、お宅には未亡人やお子さんばかりで、細い相談にのつてもらひたいといふので、徳田秋声の所に出かけて行つたんだとさ。そしたら秋声が、「おれもなんか口をきくけれど、それはに話さなくちやだめだ」といふので、二人で泉家に乗りつけたわけだ。鏡花は、自分の紋に源氏五十四帖香の図のうちから「紅葉の賀」といふのにきめて、使つてゐたし、玄関のくもりガラスの掛あんどんにまで、そいつを透かしに摺り出させてゐるんだ。ちと頂きかねるがね。しかし、尾崎紅葉に対する気持は、「師匠」なんてもんぢやあない、正に「神様」だつたね。
 でまあ、二人を二階、八畳間の仕事部屋に通したんだね。鏡花のもの書き机は長さ二尺ほど、幅は一尺かそこらの存外小さなものなんだ。そこに小さな硯と筆とが置いてある。のちには、日本紙でなく、罫のある西洋紙にしたが、あれはたしか水上にすすめられたんだ。万年筆も買つてあげたかどうか、晩年にはペンで書くやうになつたがね。初めの頃は、まだ筆の時代でね、朱筆と墨のとがきちんと揃へてあつたな。ついでに言へば、床の間の違ひ棚には紅葉の、春陽堂で出した全集がずらつと並べてあつて、その前にキャビネ型の紅葉の写真が飾つてあり、毎朝、起きぬけにそれに向かつて礼拝するんださうだ。それから、下でお茶がはひると、必ず自分が持つてあがつて供へる。人にものをもらつても、お初穂といふやつで、まづ「神様」に供へるわけだね。
 机の左側に手あぶりの火鉢がある。木の根つ株を錮りぬいた「胴丸」つてやつで、寸法はほぼ机と同じくらゐ。赤や緑の漆で描いてある葉が、やつぱり紅葉、つまり楓の葉なんだ。これは、女流画家で、大変な鏡花崇拝だつた池田蕉園から贈られたんださうだ。蕉園は或る期間鏡花とこのすぢ向かひの有島家の長屋に住んでたこともあつたしね。

改造 大正8年(1919)4月、山本実彦創立の改造社が創刊。大正デモクラシーの思潮を背景に進歩的な編集方針をとり、文芸欄にも力をそそいだ。昭和30年(1955)廃刊。
円本 えんぽん。一冊一円の全集類の総称。1926年(大正15年)末から改造社が『現代日本文学全集』の刊行を始めた。各出版社からも続々と出版された。
源氏五十四帖 源氏物語は全体で五十四巻から構成する。紅葉賀(もみじのが)は第7帖で、光源氏の18歳の秋から19歳の秋までの1年の出来事を描いたもの。
香の図と紅葉の賀 illust_23-4源氏の香は香を使った遊び。5つの香りを聞いた後、同香だと思ったものを横線でつなぐ。たとえば「紅葉賀」では右のようになる。泉鏡花は式服の紋に紅葉賀を使っていた。
掛あんどん かけあんどん。家の入り口や店先の柱や廊下などにかける行灯
春陽堂 春陽堂が1890-91年に尾崎紅葉らの作品を収めた叢書『新作十二番』『文学世界』『聚芳十種』を出版し、以後明治期の文学出版をリードした。
初穂 はつほ。古来より神様に祈りを捧げる儀式の際には農作物が供物として奉納された。初穂とは、その年に最初に収穫した農作物。初穂料とは、この初穂(神様に捧げる農作物)の代わりとする金銭のこと
手あぶり 手をあぶるのに使う小形の火ばち
胴丸 火鉢胴丸ではなく、本当は胴丸火鉢のこと。丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。なお、胴丸は鎧の1形式で、着用者の胴体周囲を覆い、右脇で開閉(引合わせ)する形式のもの。
池田蕉園 いけだ しょうえん。1886年5月13日 – 1917年12月1日。明治、大正の女性浮世絵師、日本画家。
有島 有島武郎、有島生馬、里見弴の3人は横道の東側、麹町区下六番町(現・千代田区六番町三)の旗本屋敷に住み、横道の西側、下六番町11(現・六番町七)には二軒長屋で泉鏡花が住んでいました。

さて、円本に紅葉を入れる相談を三人でしてゐるうちに……ここから先は、山本実彦の直話で、詳しく聞いたんだから、ほぼ間違ひはあるまいと信じてゐるんだが、その後いくたりかの人にも話してるかどうか……。紅葉が三十六歳の若死だつたといふ話の間に、秋声が「だけどほんといふと、あんなに早く死ななくてもすむのに、あの年で胃ガンなんぞになるなんてのも、甘いものを食ひすぎたせゐだよ。あの人ときたら、甘いものには目がなくて、餅菓子がそこに出れば、片つ端から食つちやつたからな」とかなんとか言つたらしいんだな。それはうそぢやなくて本当の話なんだらうけど、とにかく泉鏡花にとって氏は「神様」だ、朝晩拝んでるその方の写真の前で、そんなすつぱぬきみたいな口をきいたんだから、これはカーッとくるに違ひない。聞くが早いか、いまいつた胴丸火鉢をひとつ飛びに、ドスンと秋声の膝の上にのつかつてパッパッパッと殴つたんだとさ。その素早いことと言ったら……。
「泉さんつていふ人は手が早いですなあ」つて、山本がほとほと感心してゐだがね。どうにも収拾がつかないところを、まあまあと山本が割つてはひつて引きずるやうにして二階から徳田をつれおろして、外に待たせてあつた車に乗っけたんだけど、秋声は、ただもうワンワン声をあげて泣くばかり……。その時分、「水際の家」つていふのがよく秋声の作品に出てゐた、その浜町だか中洲だつたかの待合に連れて行つたんださうだ。下六番町から水際の家までいくら自動車だつて二十分か三十分はかかるよ。その間ずつと泣き続けてゐたさうだ。よほどくやしかつったんだらうし、びつくりもしたんだらう、可笑しいけど、……子供時分からのほんとの友達つて、こんなもんぢやないだらうかね。

すっぱ抜き 隠し事・秘密を不意に明るみに出すこと
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
浜町 中央区日本橋浜町
中洲 中央区日本橋中洲
待合 待合茶屋。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店

あとになつて、こんな二人を仲直りさせるといふ水上の発案があつて、「どうかな」つて気もしたんだけど、お客様として「九九九会」に招いたことがある。ところが鏡花は、ろくに話もしないうちから、やたらと酒ばかり飲んで、さも酔つたやうなふりをして寝ちまつてさ、……よくやる「たぬき寝入り」なんだよ。昔噺でもしようッて気で出て来た秋声だつて、どうにも手持ちぶさたで、いつの間にかスッと抜けて帰つちやう、といふ不首尾でね。にも拘らず、そのあとでも、秋声に会ふと、「この間はあんな具合で君たちの好意を無にしちやつたけど、なんとかもう一度機会をつくつてくれないか」つてね。実に素直な気持なんだよ。感動したけどね、心を鬼にして、「そんなこと何度やつたつて絶対に無駄だ、そのかはり、どちらが先かしらないけど、いざといふ時には必ず知らせるから」といつたんだ。それなのに鏡花の臨終の時に知らせが間に合はなかつた。陽のカンカン照つてる往来のまんなかで、ぼくは秋声にどなりつけられて、一言もなく頭を垂れたよ。
 とにかく、あの二人は生れつきの性分からして合はないんだね。ライバル意識なんてもんぢやない、紅葉以外はだあれも相手にしてゐない。当然のことだが、自分の仕事にそれくらゐの自信はもつてゐるからね。それからね、これは秋声が小説に書いてゐるけど、鏡花の実弟の斜汀が、秋声のやつてた本郷のアパートで死んだ時、葬式万端たいへん世話になつたといふんで、莫大なお礼をもって行ったんだね。その他人行儀なやり方にぐつと来たんだらうが、秋声流に、「またいつぱい食はされた」といつた風な、軽い結句でむすんでゐる。「神様」にだつて、どうしようもない、まあ、フェタルつてやつだな。別にさう珍しいことでもないしね。

九九九会 くうくうくうかい。九九九会は鏡花を囲む会で、1927年(昭和2年)、里見弴と水上瀧太郎が発起人、常連として岡田三郎助、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集合。会の名は、会費百円を出すと一円おつりを出すというところから。
秋声が小説に書いている 昭和8年6月、随筆『和解』です。「てくてく牛込神楽坂」では『和解』で見られます。
結句 詩歌の終わりの句。実際には、この随筆は「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んでいた。
フェタル fatal、fatale。致命的な、運命の、運命を決する、宿命的な、免れがたい。Famme fatale(ファム・ファタール)で「宿命の女」

文学と神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂15|心のふるさと

文学と神楽坂

心のふるさと

神楽坂附近の散歩が長くなり過ぎて、早稲田方面に費すべき予定の時間が殆ど無くなってしまった。早稲田は私の「心のふるさと」である。大学を中心として、あの附近一帯から戸塚落合の方にまでも、至る処に私は私の足跡を見ざることなく、見るものすべてなつかしい思い出の種ならざるはないが、今は一々その跡を尋ねて歩く暇のないのを惜しく思う。
  (都の西北、早稲田の森に……
 今はそこらの幼稚園の生徒でも、何かというとすぐ口癖のように歌い出す程あまねくひろまったこのなつかしい「われ等が母校」の歌が、はじめて「早稲田の森」から歌い出されたのは、明治四十年の秋、大学創立二十五年記念祭の折のことだった。私はその年の春大学に入ったのであるが、いわばあの歌は、当時在学の私達によってはじめて歌われ出したのであった。亡くなった東儀鉄笛氏が、震災で倒れたというあの東京専門学校時代からの記念的建物だった当時の大講堂に、幾回も私達全校の学生を集め、あの巨体を前後左右に振り廻し、あの独特の大きな両眼をぎろつかせ、渾身こんしんこれ熱これ力といった有様で指揮棒を振り、私達にあの歌詞(相馬御風氏作)と曲譜とを教えたのであったが、記念祭の当日大隈故侯の銅像除幕式をはじめ色々の祝典が催され、夜には盛んな提灯行列が行われて、今の野球々場を振出しに、鶴巻町通りから矢来神楽坂を経、九段からお濠に沿うて宮城二重橋前まで、はじめて皆一斉に「都の西北」を高唱しながら練歩ねりあるいて行ったその時の感激的な光景は、今もなお眼前に彷彿ほうふつとしている。
早稲田大学

心のふるさと『大東京繁昌記』。早稲田大学です

戸塚落合 新宿区以前の戸塚村と落合村。新宿区の全体は地図上では牛1頭によく似ています。で、戸塚村と落合村はこの頭と背中に当たります。高田馬場などになりました。
大講堂 昭和2年に竣工した早稲田大学大隈記念講堂(大隈講堂)ではありません。その以前の講堂です。早稲田大学校友会の『早稲田大学八十年の歩み』(1962年)では赤で囲んだ校舎「へ」が当時の講堂になっています。

早稲田2

相馬御風 そうま ぎょふう。生年は1883年(明治16年)7月10日。享年は1950年(昭和25年)5月8日。詩人・歌人・評論家。早稲田大学文学部哲学科卒業。早稲田大学校歌「都の西北」をはじめ、多くの校歌や童謡の作詞者
大隈 大隈 重信。おおくま しげのぶ。生年は天保9年2月16日(1838年3月11日)。享年は大正11年(1922年)1月10日。政治家、教育者。政治家としては大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員など。早稲田大学の創設者で、初代総長。
野球々場 野球場現在は早稲田大学総合学術情報センターです。
鶴巻町通り 現在は「早大通り」。昔は鶴巻(町)通りともいいました。鶴巻町通りの範囲は早大正門前から山吹町交差点まで。なお、提灯行列をしたのは以下の通り。ルートは早稲田大学から二重橋前までです。

早稲田32

彷彿 ありありと想像すること。よく似ているものを見て、そのものを思い浮かべること
爾来星霜ここ二十年、大学それ自身の発展や拡張も、当時に比して実に隔世の感があるが、それにつれて附近一帯の変化発展も目ざましく、田甫の早稲田茗荷畑の早稲田は、今はただいたずらに其名を残すのみとなった。私が学校にいた頃には、今電車が走っている鶴巻町裏一帯の土地、即ち関口滝あたりからずっと先、遠く山吹の里なる面影橋附近まで一面の田野で、東電変圧所赤煉瓦あかれんがの建物が、その田圃の真中にただ一つぽつんと、あたりの田園的風光と不調和に、寂しくしかも物々しく立っているのみで、蛙の声が下宿屋の窓に手に取るように聞え、蛍の飛び交うのが見えたりしたものだったが、そうした旧時のおもかげなどはうの昔に跡方もなく、今は一面にぎっしり家が建て詰まり、すっかり見違えてしまった。殊に電車終点附近近来の発展は驚くべきで、戸塚方面から球場前を抜けてここへ出る道路が開けたのと相まって、やや場末的な感じながらもそこにまた一廓の繁華な盛り場を形造り、早稲田の中心鶴巻町通りの繁華を、次第にそこに移動せしめつつあるが如き観もないではない。
茗荷畑 江戸時代に早稲田村や中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町と山吹町)で生産しました。ここに生えるみょうがは赤みが美しく、大振りで晩生おくてのものでした。
鶴巻町 早稲田鶴巻町。早稲田村の鶴巻からとっています。元禄のころ、小石川村の放し飼いの鶴が早稲田村にも出没し、鶴巻町になりました。この中で真ん中を水平に通る道路は「早大通り」と呼び、以前は「鶴巻(町)通り」と呼びました。早稲田鶴巻町
関口滝 明治43年の「牛込区の地形図」では下図で右の赤い四角です。
山吹の里 太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ると、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないという意味だと分かりました。この伝説の土地はいろいろありますが、その1つは都電荒川線面影橋の傍、豊島区高田1-18-1で、ここには「山吹の里の碑」があります。
面影橋 下図で左の赤い四角です。関口滝から面影橋まで周りは一面の「湿地」でした。
東電変圧所 下図で赤丸です。現在は、西早稲田1-13-17で、ここは東京電力早稲田家族寮がありました。この東電変圧所は赤レンガ造りで、明治の終わりに山梨県から高圧の電気を送っていました。下図を見ると、東電変圧所から南に大隈邸が見えます。これは大隈会館になり、現在は大隈庭園に変わっています。また中央左の運動場は早稲田大学運動場です。

関口滝から面影橋

道路 運動場1昭和4年の「戸塚町市街図」を見ると、運動場の南に新たな道路が生まれています。右図では右上から左下にかけての赤線の道路です。現在も同じ道路があります。
鶴巻町通りは、何といっても早稲田で唯一の目抜きの大通りである。だが私があすこを通る毎に思うことは、あの通りが大学前から一直線に山吹町羽衣館前まで、町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたりして、もっと感じのよい、品位にも富んだ、本当にいわゆる大学街といった風な、そして万余の学生諸君のためには、しっとりとした湿うるおいと温かい情味とに富んだ、心地よき散歩街ともなるようなものにならないだろうか、ということである。そうしたらどんなにいいだろう。又現に著々とその輪廓を整え、益々外観の美を増しつつある大学自身もどんなに引立って見えることだろう。穴八幡附近も、すぐ下に高等学院が出来たりしたためもあって、馬場下の通りでも、坂上の旧高田馬場跡下戸塚通りでも、見違えるほど明るい繁華な町になった。
 実は私は大学を中心として、それをめぐって近来異常な発展をなしつつあるいわゆる「早稲田」の名のもとにおける地方について、つぶさにその変遷推移の跡を尋ね、既往を回顧し現在を叙し学生々活の今昔をも物語るつもりであったが、与えられた回数がすでに尽きたので、一方にのみ偏して甚だ申し訳なき次第だが、止むなくこれを他日の機会に割愛し、ここにわが愛する「心のふるさと」なる母校並びに全早稲田のために万歳を三唱して、以てこの稿を終ることとする。(昭和二年六月)
山吹町羽衣館

赤城神社の氏子町の説明で「娯楽場として(一百九十三番地に明治四十二年四月建設)の常設活動写真羽衣館」があったと書いています。しかし、193番地はどこなのか、正確にはわかりません。昭和5年の『牛込区全図』では193番地がありません。

 また、『歩いて完乗 あの頃の都電41路線散策記』(http://blog.livedoor.jp/toden41/archives/21379053.html)では、「都電時代は早稲田の学生街に続く神楽坂の裏町としても賑わいを見せた一画で、電停跡地付近には「羽衣館」という映画館もありました。映画館は戦後も存続し、昭和末年頃にひっそりと姿を消しています」と書いています。

 1970年の「新宿区・1970年度版・渋木逸雄」(国立図書館)の地図では羽衣館はどこにもないのですが、「牛込文化劇場」がありました。「電停跡地付近」にあるので、ここでいいのでしょう。現在は「トヨタレンタリース東京山吹町店」です。

牛込文化劇場と出ていましたが、山吹町羽衣館でしょう

牛込文化劇場(羽衣館)

散歩街 「大学前から一直線に町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたり」した道路が筆者の希望でした。しかし、実際にそうなってしまいました。こんな学生街はまあほかにはないと思います。
穴八幡 穴八幡宮。あなはちまんぐう。新宿区の市街地にある神社。利益は蟲封じ、商売繁盛や出世、開運など。旧称は高田八幡宮。下の絵では水色の丸。「高田馬場の流鏑馬」の標板があります。
高等学院 早稲田高等学院のこと。しかし、この高等学院は練馬区上石神井に移動し、現在は早稲田大学戸山図書館になっています。下の図では青の四角。
馬場下の通り 馬場下町を通る道路は1つだけです。したがって、下図の1つしかありません。
下戸塚通り 下戸塚村には道路が複数あります。しかし、旧高田馬場跡という名前から考えられる通りは2つ。1つは旧高田馬場跡の上(下の図では旧高田馬場の上方の細い青)、1つは旧高田馬場跡の下(下方の太い青)。しかし下の1つははるかに幅が広いので、この通りでしょう。昭和5年にはもう下の通りのほうが広がっていました。この下の赤の点に標板「旧高田馬場跡」があります。

昭和五年戸塚・落合の地形図

旧高田馬場跡 馬場は寛永13年(1636)に作り、旗本の馬術の練習場でした。上は緑色の四角で。下は嘉永5年と現在。

江戸大絵図・嘉永5年

江戸大絵図・嘉永5年

現在の場所

既往 過去

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

「山吹の里」の碑

文学と神楽坂

 「山吹の里」について、豊島区ではその碑とその由来を書いています。

山吹(やまぶきの里」の碑

所在地 高田1-18-1


 新宿区山吹(やまぶき)から西方の甘泉(かんせん)面影橋(おもかげばし)の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田(おおた)道灌(どうかん)鷹狩(たかが)りに出かけて雨にあい、農家の若い娘(みの)を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事(こじ)にちなんでいます。後日、「📘七重(ななえ)八重(やえ) 花は咲けども 山吹の ((実))の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(御拾遺(ごしゅうい))の古歌に()けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会(ずえ)』(正徳(しょうとく)二・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦(むつうら)、埼玉県越生(おごせ)町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝(ようしょうち)であったことは注目されます。
 この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹()里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享(じょうきょう)三(1686)年に建立された()(よう)(とう)を転用したものであることがわかります。
         平成16(2004)年3月

豊島区教育委員会

📘七重八重に咲く山吹は、実の一つもなく、わが家には蓑一つもない。それがかなしい。

山吹町 新宿区の北東部にある町名。右図の右方を。
甘泉園 かんせんえん。徳川御三卿の清水家の下屋敷跡。湧く泉水はお茶に適していたので甘泉園と呼ばれた。右図の左方を。
面影橋 神田川に架かる橋。右図の左上を。
太田道灌 室町時代中期の武将。長禄元年 (1457) 、江戸城を築いて居城とした。
若い娘 伝説では若い娘の名前は紅皿でした。
 かやすげなどの茎や葉や、わらなどを編んで作った雨具。肩からかけて身に着ける。
山吹 ヤマブキ。バラ科ヤマブキ属の落葉低木。
故事 昔から伝わる話やいわれ
御拾遺 ごしゅういしゅう。勅撰和歌集で、完成は応徳三年十月(1087年11月)。
伝承 伝え聞くこと。人づてに聞くこと
和漢三才図会 わかんさんさいずえ。図入り百科事典。105巻。寺島良安著。1712年(正徳2)成立。中国の「三才図会」にならって、和漢の万物を図を掲げ、漢文で解説を付す。
下戸塚遺跡 1987年、早稲田大学安部球場跡地で埋蔵文化財の調査を行ったもの。弥生時代には竪穴住居跡を始め、江戸時代の遺物まで見つかっている。
鎌倉街道 鎌倉に幕府開設以来、各地から鎌倉へ向かう道筋の呼称。
要衝 ようしょう。軍事・交通・産業のうえで大切な地点。要所。
供養塔 死者や祖先の供養で建てた石塔。戦で命を失った者たちや、天災、戦争など多くの命を奪い、引き取り手のない遺骨を一体供養した。

「山吹の里」の碑

文学と神楽坂

高田馬場跡

文学と神楽坂

高田馬場跡

文化財愛護シンボルマーク旧跡
高田(たかだの)()()(あと)

      所在地 新宿区西早稲田三丁目一・二・十二・十四番
 西早稲田三丁目一・二・十二・十四番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。  馬場は寛永十三年(一六三六)造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。
 また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。
 寛永年間(一七一六~一七五三)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。
 また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡の碑」が建っている。
 平成三年十一月
              東京都新宿区教育委員会

高田馬場跡

文学と神楽坂

高田馬場の流鏑馬

文学と神楽坂

流鏑馬

新宿区指定無形民俗文化財
高田(たかたの)馬場(ばば)(やぶ)鏑馬(さめ)
         所在地 新宿区西早稲田二丁目一番十一号 (穴八幡神社内)
         指定年月日 昭和六十三年三月四日
 享保十三年(一七二八)徳川将軍吉宗が世嗣の疱瘡平愈祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納された。
 明治維新以降中断し、昭和九年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和三十九年流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社境内で復活し、昭和五十四年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年十月十日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
 古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事である。
       平成四年八月
         東京都新宿区教育委員会

文学と神楽坂

英国帰りの漱石|矢来町

文学と神楽坂

 英国から帰った明治36年1月24日(1903年、37歳)から3月3日まで、夏目漱石氏は妻の鏡子氏がいた牛込矢来町3番地中ノ丸の中根宅に滞在しました。

ここは牛込、神楽坂』の編集人だった立壁正子氏は第10号で「漱石夫人が悪妻だったなんて」を書き

 旧姓中根キヨ(後に鏡子)。明治十年、中根重一の長女として福山に生まれる。中根家は代々福山藩の武士。明治維新後、父は藩の秀才として選抜され大学で経済学を学ぶことになり、それに必要なドイツ語を学ぶため医科へ。長女の鏡子さんが生まれる前後に、新潟の病院へ赴任。ドイツ人の院長の通訳を務め、後に副院長に。鏡子さんが五歳のときに帰京。牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地、いま新潮杜のあるところに住む。父上はその後官吏となり、鏡子さんが結婚する頃は貴族院の書記長をしていた。(『漱石の思い出』より)
かくて鏡子さんは松山から上京した漱石と東京で見合。翌年、漱石の赴任先の熊本で結婚。そのとき鏡子さんは十九歳。
 以後、単子、恒子の二児をもうけ、漱石はイギリスヘ国費留学。鏡子さんは牛込矢来町の実家の離れで休職手当て二十五円で耐乏生活(実家も父上が相場で失敗、窮乏)。漱石が帰国した際は、衣類も夜具もぽろぽろという状態だった。

 矢来町について、夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』では極めて書いてあることは少なく、

そのころの中根の家は牛込矢来の、ちょうど今の新潮社のところで、あすこは私たち思い出の深い土地なのです。(略)
 それからすぐと矢来の、三年間畳替えもしなければ何の手入れもしない、ただ留守中雨露(うろ)(しの)いでいたというだけの荒れに荒れた家に入りました。

「漱石夫人が悪妻だったなんて」の話で出てきた「牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地」とありますが、二番地ではなく三番地でした。大正11年には、字「中の丸」は下の範囲でした。「六十、現七十一番地」は大正11年の地図ではわかりませんが、昭和5年の七十一番地はこうなっています。

 昭和5年の71番地と63番地の間を上下に続く道路は将来の「牛込中央通り」です。現代ではここの薄青の円が昔の71番地になります。

新潮社T11とS5と現代

 しかし漱石は「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根方」と書いたようです。また義父中根重一に対しても「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根重一」と書いたようです。つまり、「六十、現七十一番地」は誰が書いたのでしょうか?

 同書の中根眞太郎氏の「大伯母鏡子のいるところは花が咲いたようでした」によれば

 矢来町の中根家のことは、小学校4年の頃、父と近くを通った際、あそこだと教えられたことがあります。いま新潮社の本社のあるあたりでしょうか。(略)
 大伯母の鏡子は、すばらしいおばあちゃんでした。江戸っ子気質で、ウイットがあって。彼女がいるところは周り中に花が咲いたようでした。弟子たちにも人気があって、よく面倒を見ていたようです。岩波書店の創立の際には株券で3千円を融通していますし、たいした人でした。

 さらに新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の「出版おもいで話」(昭和11(1936)年11月)では

大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略)
牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村、加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。(中略)
社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。
まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。そこで、九月一日の午後一時をもって新館開きの記念会を開き、文芸映画をはじめ各種の余興を揃え、御馳走も然るべく用意して、今やただ時間の来るのを待っている時に、待ち設けぬ大地震がやって来たのである。

中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早稲田大学教授。米国やドイツ等を外遊。近代劇の影響を受けて帰国。芸術座に参加。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満64歳。

漱石氏は1年強この矢来町にいました

 したがってこれから考えると、この赤く塗った場所が中根貴族院書記官長の住まいでしょう。漱石氏もしばらくいたことがある場所でした。(地図は新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』「明治」から)。大正になったころ番号が変わり、71番地でした。

新潮社と社長邸

 右に掲げた昭和12年の『火災保険特殊地図』では、当時の71番地には西方に新潮社、東方に住んだ新潮社の初代社長・佐藤義亮邸があり、東のほうが西の新潮社よりも大きかったようです。
 なお、これと違った地図もあります。新宿区の『漱石山房秋冬』です。しかし、⑥の場所は字「中の丸」ではなく「山里」になるので、違います。

 
漱石山房秋冬

 現在の71番地は3つに分かれています。写真は新潮社の本館です。漱石は「新潮社の本館」の北半分に住み、実際、新潮社本館の玄関の場所と、夏目漱石が使った玄関の場所は、よく似た場所にあったといえるでしょう。新潮社本館
新潮社の地図

 最後に寺田寅彦氏が書く「夏目漱石先生の追憶」(昭和7年)の一節です。

 帰朝当座の先生は矢来町(やらいちやう)の奥さんの実家中根氏邸に仮寓して居た。自分の訪ねた時は大きな木函に書物の一杯つまつた荷が着いて、土屋君といふ人がそれを開けて本を取出して居た。そのとき英国の美術館にある名画の写真を色々見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと云はれたので、レイノルヅの女の子の絵やムリリヨのマグダレナのマリアなどを貰つた。先生の手かばんの中から白薔薇の造花が一束出て来た。それは何ですかと聞いたら、人から貰つたんだと云はれた。たしか其時に(すし)の御馳走になつた。自分はちつとも気が附かなかつたが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻(のりまき)に箸をつけると自分も海苔巻を食ふ。先生が卵を食ふと自分も卵を取上げる。先生が海老(えび)を残したら、自分も海老を残したのださうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの喰ひ方」と覚書のしてあつたのは、比時のことらしい。

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