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神楽坂と江戸川|生田春月

文学と神楽坂

生田春月 生田(いくた)春月(しゅんげつ)氏の「神楽坂と江戸川」です。生田氏は詩人、小説家で、生年は明治25(1892)年3月12日。没年は昭和5(1930)年5月19日です。したがって、31歳の時に書いた随筆です。関東大震災の年に書いていますが、大震災は9月、この随筆は6月なので、事後ではなく事前に書いています。

 いかにもいい感じなのですが、9月になると銀座、浅草や上野は震災で潰れます。が、神楽坂は全く以前と同じく生活が続きます。しかし、それから二、三年後、銀座や新宿は以前にも増して新興、復興してくるのですが、神楽坂はまったく動きがありません。その結果、「活気がない」「黴臭い」「非近代的」などと言われてしまいます。

 私は牛込に住んでもうかれこれ十年以上になる。二三度引越しはしたが、それもやはりこの界限で、いつも神樂坂と江戸川と、兩方に同じ距離を保つた地點にゐるものだから、時々讀書や執筆に疲れて、氣がくさくさして來ると、そのどちらかへ散歩をする。(中略)
 だが、牛込も神樂坂の方に出ると、早稲田方面の新開地氣分は頓になくなつて、おちつきのある大きい店が綺麗に並んで活動寫眞とか、バアとか、レストオランとかが、夏の夜などは粧ひをこらして、いかにもすつきりとした明るい都會情調をただよはせてゐる。銀座などのやうに、あまり高踏的でもなく、浅草や上野のやうに俗つぽくもない。賑かで、しかもしつとりしてゐる。學生が多く、令嬢が多く、若い文士などが、夜更けに高聲で話しながら歩いてゐる。ふと氣がむいて、コオヒイなどのみに出かけると、そこらあたりでいい機嫌になつた小説家が、帽子をあみだにかぶり、ふらふらと歸つて來るのに出逢ふ時は、おのづからほほゑまれる。曾て小川未明氏が、牛込からはなれるのを惜まれたのは、この神樂坂の情調をあのやうに好んで、日々幾度も散歩されたからであらう。私もいつかは郊外に引越して、日當りのいい家に住みたいと思ふのだが、この神樂坂のそばから、いよいよ離れてしまふとなれば、私も多分また、どんなにこの町に別れがたたく思ふ亊であらう。

〔大正十二年六月〕
新開地 新しく開けた市街地
粧ひ よそおい。外観・設備や身なりなどを美しく飾りととのえること。
高踏的 こうとうてき。世俗を離れて気高く身を保っているさま
あみだ 帽子などを前を上げて後ろを下に、斜めに傾けてかぶること

文学と神楽坂

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大田南畝の住居跡

文学と神楽坂

大田南畝 大田(おおた)南畝(なんぽ)は、天明期を代表する文人・狂歌師、御家人です。生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)。没年は文政6年4月6日(1823年5月16日)。通称は直次郎、後に七左衛門に改名しています。では、どこに住んでいたのか。はい。中町です。しかし、北町だと間違えて答えにするものもまだあるのです。

 たとえば2006年の『東京10000歩ウォーキング 神楽坂』では

大田南畝の住居跡
    新宿区北町41番地

CCF20130325_00000と書いてあります。当然インターネットでもそういう答えもまだ出てくるのです。たとえば新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の45頁です。北町と書いています。しかし正しいのは中町なのです。

 鈴木貞夫氏が書いた『大田南畝の牛込中御徒町住所考』を読めば簡単に答えが出てくるのですが、問題はこの本です。見ただけでわかる自費出版のこの本は、新宿区立中町図書館にしかありません。国会図書館ではなく、東京都図書館でもなく、新宿区の他の図書館でもありません。しかも1冊だけ。これがなくなるとどうしようかと、心配です。

 では『大田南畝の牛込中御徒町住所考』を読んでみましょう。

はじめに
 従来、大田南畝の牛込御徒町の屋敷は、北御徒町とか中御徒町といわれ、諸説があって確定的ではない。
 北御徒町とする説は『東京名所図会』の「蜀山人の故宅」に書かれている。
 一方、南畝研究者の間では、中御徒町の通り北側の東端あたりが定説となっており、中には中御徒町内のごく近い場所に転居をしているという説もある。

 では『東京名所図会』の「蜀山人の故宅」を読んでみると

●蜀山人の故宅L
北町四十一番地に、太田(おほた)南畝(なんぽ)(蜀山人)の故宅ありて、其孫南岳こゝに成長(せいちやう)す、後ち文豪(ぶんがう)故尾崎紅葉、南畝の舊宅と聞き、移て之れに(じう)す(自明治二十三年至同二十四年)其横寺町(前編掲載)に(てん)ずるや、江見水蔭之れに代れり、庭砌遺愛の椿は再び明治の文學者の賞する所となれり、當年の寢惚先生、亦以で(えい)とす可きなり。水蔭居を移して後、幾度か主を異にし、故宅(こたく)漸く傾き、今や其趾をとゞめずなりぬ。南岳(なんがく)は南宗派の畫家(くわか)にして、今の時に名あり、甞て十千萬堂に遊ぶもの、俳句(はいく)を能くす、四谷荒木町に住せり

 これから北町になったのですね。『大田南畝の牛込中御徒町住所考』では

 (「蜀山人の故宅」では)北町四十一番地を南畝の旧居跡としている。筆者の山下重民は四谷に在住した人であり、同じ四谷の荒木町に住む南岳から話を聞いたものと思われる。ちなみに、南岳は名を亨、南畝から五代下る大田家の当主、金森南塘門下の画家として名をなし、大正六年七月十三日に四十五歳で亡くなっている。

 つまり北町四十一番地は聞き語り、口承なのです。正しい住所は『大田南畝の牛込中御徒町住所考』によると

 南畝は享和三年(1803年)の由緒書の中で、住居を「牛込中御徒町」と書いているので、中御徒町に屋敷のあったことは確実であるが、以前に他の御徒組(例えば、北御徒町の西丸御徒二番組)から移ったとも考えられるので由緒書の祖父あたりから頭の系列(番組)を検討してみよう。
1.由緒書
高百俵五人扶持 本国生国共武蔵
内 七拾俵五人扶持本高 三拾俵御足高     支配勘定
大 田 直 次 郎
当亥五十五歳
拝領屋敷無御座候 当時牛込中御徒町 稲葉主税御徒組東左一郎地内借地仕罷在候   (省略)
2.(省略)
3.その他
『一話一言』の「車留の札」に、
「予がすむ所は、牛込中御徒町なりしかば……」(『全集』一三ー四七六)
とある。

 つまり、大田南畝氏は牛込中御徒町(現在は中町)に住んでいました。

 では住所は? 永井荷風の大正14年5月の『断腸亭日乗』によれば

大田南畝

巡査派出所は『牛込区全図』で三角形(▼)

五月廿二日。午後牛込仲町辺を歩む。大田南畝が旧居の光景を想像せむとてなり。南畝が家は仲御徒町にて東南は道路、北鄰は北町なりしとの事より推察するに、現時仲町と袋町との角に巡査派出所の立てるあたりなるべし。

巡査派出所は昭和5年の地図『牛込区全図』で蜀山人は▼と書いてあります。

 さらに新宿区立新宿歴史博物館の『「蜀山人」大田南畝と江戸のまち』では表としてはっきり書いています。

No 名称 種別 坪数 住所 現在地 期間 備考
息偃館 借地 200坪 牛込中御徒町 新宿区中町37・38 寛延2年(1749)~?  
借地 210坪 牛込中御徒町 新宿区中町36 ?~文化元年(1804) 書斎「巴人亭」
遷喬楼 買得 93坪 小日向金剛寺坂上 文京区春日2-16 文化元年(1804)~同6年(1809) 年賦で購入。
2階建て。
  拝領 139坪余 牛込若松町 新宿区大久保 文化6年(1809)~同9年(1812)  
緇林楼 拝領 150坪余 駿河台淡路坂上 千代田区神田駿河台4-6 文化9年(1812)~
文政6年(1823)
大久保と交換

 赤は中町36で、橙は中町37・38です。
中町

文学と神楽坂

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神楽坂通り2|大宅壮一

文学と神楽坂

 神樂坂は全く震災で生き殘つた老人のやうな感じである。銀座のジヤツズ的近代性もなけれぱ新宿の粗野な新興性もない。空氣がすつかり淀んでゐて、右にも左にも動きがとれないやうである。
 震災は「東京」の容貌を一変させ、それに伴つてその心理にも大變革を齎らした。「下町」といつても、震災後の下町は、久保田万太郎描くところのそれと大變な違ひである。又同じ「山の手」といつても、震災後に新宿を中心として形成された山の手は、昔のそれとは全く別なものである。ところが、神樂坂だけは、依然として昔ながらの「山の手」である。
 神樂坂の通りを歩いてゐて一番眼につくのは、あの藝者達がお詣りする毘沙門様と、その前にあるモスリン屋の「警世文」である。この店の主人は多分日蓮凝りらしく、本多合掌居士を眞似たやうな文章で「恩想國難」や「市會の醜事實」を長々と論じたり、「一切の大事の中で國の亡ぶるが大事の中の大事なり」といつたやうな文句を書き立てた幟りを店頭に掲げたりしてゐるのを道行く人が立停つて熱心に読んでゐるのは外では一寸見られない光景である。これが若し銀座か新宿だとすると、時代錯誤であるのみならず、又場所錯誤でもあるが、神樂坂だとさういふ感じを抱かせないばかりか、その邊りの空氣とびつたり調和してゐるやうにさへ見えるのである。
 更に、市電を横切つて新潮社の方へ坂を登つて行くと、右手に、角帶をしめた数人の徒弟が店頭に坐つて一足宛丁寧に縫つてゐる平縫ひ足袋屋がある。「足にぴつたりとあふ足袋」といふモツトーが店頭に掲げられてゐるが、それを見ると、時代の流れに抗する最後のものといつたやうな感じを受ける。資本主義の大洋の中で、一つぽつねんと取り殘されてゐる封建時代の島とでもいつたやうなものである。
 神樂坂といへば、東京でも有名な盛り場だが、恐ろしく活氣がない。町がどことなく濕つぽくて黴臭い。
 あの相當長い通りにカフエーらしいカフエーが一軒もない。以前はプランタンなどがあって、幾分近代性を漂はしてゐたけれど、それも経營困難だとかで、銀座の方へ移つて行つてしまつた。こゝはカフエーよりも寧ろ、蕎麥屋とか、おでん屋とか、壽司屋とかゞ繁昌するところらしい。それも近頃の不景氣で、あちこちに貸家の札が見えるのは寂しい。
 銀座が断髪洋装のタイピストだとすれぱ、神樂坂は黒繻子をつけて赤いてがらをかけたおでん屋の娘といつた感じだ。
 それから又、神樂坂の兩側の裏はすつかり待合になつてゐて、そこから出て来る藝者といふ非近代的な存在が、この通りの空氣を更に非近代的なものにしてゐる。
 朝――といつても十時か十一時頃、省線の牛込驛の方から坂を登つて來ると、黄色つぽい顏に下の方だけ濃い白粉の下塗りをしてお湯から歸つて來る年増藝者や、どれもこれも皆同じやうな職業的類型性を帶びた顏の半玉達が三味線を提げてお稽古に行くのによくぶつつかる。朝の藝者は、全く芝居の樂屋裏よりも殺風景である。
 僕が神樂坂を通るのに一番好きな時刻は、夜十二時すぎて夜店もなくなり、人通りも絶えて、紙屑が風に吹かれて、電燈だけがあかあかと輝いてゐる通りに舞ひ上つてゐる頃である。その頃は、それは神樂坂だけに限らないが、「都會の砂漠」を行くとでもいつたやうな感じである。(一九二八年「文章倶楽部」)

日蓮:日蓮は道ばたに立って通行人を相手に説法することを辻説法と呼びました。
ぽつねん:ひとりだけで何もせず寂しそうにしている
襟:衣服の首回りの部分
待合:客と芸妓の遊興などのための席を貸して酒食を供する店
省線:鉄道省(運輸省)の管理の鉄道線。国電の旧称。
半玉:はんぎょく。芸者見習い中で、まだ一人前ではなく、玉代ぎよくだいも半人分の芸者

モスリン屋

今和次郎編纂の『新版大東京案内』の中に「日蓮宗の辻説法でその店謳はれるカグラ屋メリンス店」といっています。メリンス店は5丁目にあり、神楽屋ともいいました。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。

明治40年の5~6丁目

岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」

本多合掌居士

『日本史人物 迷言・毒舌集成』では

本田仙太郎、宮崎県の出身で、通称か号か不明も「合掌居士」と称されている。別に「日向鉄城」の筆名で著作もあるらしい。いずれにせよ、意図不明の全面広告を出すくらいだから田舎大尽なのであろう。

http://hanasakesake.seesaa.net/article/426383965.html

角帯 角帯二つ折りの、かたくて幅のせまい男帯
平縫い 糸と糸との間隔をあけずに縫い埋める刺し方
足袋屋 これは美濃屋のことでしょう。戦前の美濃屋は神楽坂6丁目にあって、戦後から5丁目に移ってきました。
プランタン カフェー・プランタン。1911年(明治44年)、銀座に開業した「日本初のカフェ」で、文学者や芸術家らの集まる店でした。関東大震災後に神楽坂に支店を出しましたが、1、2年後にここは閉店。戦争中に本店も閉店。
繻子 繻子しゅす。布面がなめらかで、つやがあり、縦糸か横糸を浮かした織物。上の「繻子織り」を参照。
てがら 手絡手絡。丸髷まるまげなどの根もとに掛ける、飾りのきれ。色模様に染めた縮緬ちりめんなどを使います。銀座は洋風、神楽坂は和風でしょうか。
http://kokeshiwiki.com/?p=8540

文学と神楽坂

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正宗白鳥|毒

文学と神楽坂

正宗白鳥2正宗白鳥氏の『毒』です。氏の生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。『毒』は明治45年、作者が33歳になる時に出版されています。なお、差別用語や放送禁止用語になる言葉もありそうですが、原文を尊重して、そのままにしておきます。

 そして賑かな神樂坂の方へ足が向いたが、其處は緣日らしくて、平生(ふだん)よりも一層雜杳してゐた。

 彼れは次第に足を緩めて、夜店などを傍見してゐたが、毘沙門(びしゃもん)境内の見世物小屋から、客を呼ぶ皺嗄れた聲が聞えると、何氣なく其處へ近寄つた。

 左右に汚れた小屋が向合つてゐる。

 左の長い小屋には、鷄のやうな手足を備へた若い女が、さまざまの藝をしてゐる繪看板が掛つてゐる。右の小さい小屋には、入口に細長い爺さんが突立つてゐて、幕の内に鐡漿(おはぐろ)をつけた婆さんが坐つてゐる。そして婆さんの命令に應じて、幕の影から幼い細い聲が洩れて來た。

「生れましたは下谷(したや)竹町(たけちやう)三十番地。お手々が四つであんよ(、、、)が四つ……」

「これは新聞にも出ました因果な子供で御座います。今暫らくの壽命ですから、息のある(うち)に御覧を願ひます」と、爺さんが後から付足した。

「これは麹町(こうぢまち)二丁目鷄屋の娘、親の囚果が子に報い……」と、左の方でも木戸番が平気な顔して叫んでゐる。濃い白粉と濃い臙脂(べに)で色取った女の顏のみが幕の中に見えた。

 香取は顏を背けて逃げるやうに其處を出て、濠端へ下りた。
傍見 直接的なかかわりをもたずに,近くからながめていること。傍観。
境内の見世物小屋 境内に見世物小屋がありました。残念ながら写真も絵もありません。以前の境内を書いた図は『ここは牛込、神楽坂』第3号に書いてあります。毘沙門の境内
この第3号の説明で、新小川町のますだふみこ氏は

 毘沙門様で、一番始めに思い出すのは、はずかしながら御門を入って左右にあった「ダガシヤ」さん。両方ともおばあさんが一人でお店番。焼麩に黒砂糖がついたのが大好物でした。
 塀のところには「新粉ざいく」の小父さん。彩りも美しい犬や鳥、人物では桃太郎、金太郎などが、魔法のように小父さんの指先から生まれてきます。
 それから御門の脇のお稲荷さんにちょっと手を合わせ、次は浄行菩薩様のおつむを頭がよくなるようにタワシでゴシゴシ。虎さんの足をちょんちょん。一番最後にごめんなさい、御本尊様に『頭がよくなりますように』と無理なお願い。

おそらくこの前にある庭に見世物小屋もあったのでしょう。

鐡漿 おはぐろ。御歯黒、鉄漿。歯を黒く染めること。江戸時代には既婚婦人のしるしとなりました。
下谷竹町 御徒町駅を西に見て、現在は台東区台東3丁目です。昭和17年(1942年)の『最新大東京案内図』では下谷竹町
麹町二丁目 これは千代田区(以前は麹町区)麹町二丁目です。現在の地図では麹町2丁目
囚果 いんが。以前に行ったことが原因となり、その結果が現れること。
報い むくい。受けた行為に対して、同じような行為で返すこと。
臙脂 べにばな(紅花)から作った染料。べに。紅花はキク科の越年草で、口紅や染料の紅を作ります。

文学と神楽坂