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蜀山人伝説|新宿郷土研究(1)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。

 赤城明神の境内の掛茶屋に赤城小町という評判のお軽という娘がいた。ある日誤って足軽の足もとに打ち水をかけてしまった、足軽は怒ってお軽を打擲におよぼうとした時に、参拝を終えて通りかかった、蜀山人は、「待たれい」と大声で、
  差しかかる来かかる足へ水かかる
       あしがる怒るおかる恐がる
と詠んだめで、見物人の中からどっと笑声が起った。足軽は強そうな武士と蜀山人を見たのか、そのまま逃げるように消えるのであった。
 この……狂歌は、寡聞にして知らないが、蜀山人の狂歌集の中にもない。しかし、本居宣長の有名な「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の歌が本居宣長の歌集におさめられていないと同じように即興のために他の記録に遺されたものであろう。いずれにしてもこんな文芸は俗説で意味がないと、いわれるかも知れないが、牛込の住人にとっては拾てがたい挿話である。
打擲 ちょうちゃく。打ちたたく。なぐる。
蜀山人 しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人、狂歌師。本名は大田直次郎。号はなんきょうえんものあかなど。蜀山人は晩年の号。

 色々調べてみると、この出典が出て来ました。明治33年の「文芸倶楽部」(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編「明治大正落語集成」講談社、昭和55年)でした。

赤坂の溜池ためいけから葵坂を過ぎ芝の久保町の通りより、ちょうど土橋のところへかかりますると人込みで、ドヤドヤ騒いで居りまする。今十七八のしんを足軽ていの男が切ろうとして居る。酔っては何いでなさるが蜀山も人の難儀は横に見てはいられません……どいたどいたと人を押分けて中にいり
蜀「あいや、お武家御立腹はさることながら、相手は採るに足らん女のことで、どういう義かはぞんぜんが、拙者仲裁をつかまつる。いよぅ……貴公は雲州家の御足軽、田口源吾どのじゃな」
足「先生お捨ておき下さい」
蜀「これさ、そう腹を立っては困るというのに、腹を立ちすぎると腹なりが悪くなる、ハハハハハ。時に女中、この場合に至った事情を話しやれ」
女「御親切によく御たづね下さいまする。妾はこの向う側の商売あきんどの娘にござりまするが、今日こんにち往来に砂ほこり立ち通行をなさいます方が御難儀とぞんじまして、水をまいておりました。するとこのお武家さまの袖のすそに少しかかりましたところから、御わびを申し上げましたけれど、なかなか御承知下さいません。武士の袖の裾を悪水をもってけがせし段、不届ふとどき至極につきうちに致すとの御腹立ち、殺されまするこの身はいといませんけれど、親共の歎きも思いやられます。どうぞ共々御わびあそばして下さいますやう、ひとえにねがい上げまするっ」
蜀「むーそれは飛んだことだったのう。して、その名は何んと申す」
女「与平娘かるでござります」
蜀「女じゃからの字がついておかるか、そりや詫びるところが違う」
女「どこへ出ましたらよろしう御座りまするっ」
蜀「そちの父が与平という、一つふやすと一平いちべいとなるそのむすめのおかるなら、忠臣蔵の七段目が相当じゃ」
女「戯言じょうだんおっしゃっちゃいけません」
蜀「戯言じょうだんじゃぁない。忠臣蔵の七段目はやはり田口うじ見た様な足軽で、寺岡平右衛門というがある。これが軽を殺さうとする、そこへ酒に酔っても本心さらに違わぬ国家老大星由良之助という蜀山同様なのが出て、そちを助命して取らするのじゃ」
田口「何んだ人、馬鹿馬鹿しい。自分ばかり家老気取りで、飽くまで俺を足軽にたとへやぁがる」
 独りごとふくれ顔をしておりました。
蜀「あいや田口うじ、拙者は風流に世を送るもの、別にお詫のいたしょうもない。どうかこの一詠で御勘弁を」
とさしいだしましたのを不承ふしょう不承で見ました。見る見るうちに苦い顔にえみを含みました。流石さすがは名人で有ります。
  きかかる来かかる足に水かかる
    足軽あしがるいかるおかるこわがる
とうとう腹立ちを笑いにまぎらしましたのも歌の徳でありまする。

 新演芸会編の「滑稽十八番」(堀田航盛館、大正3年)では……

 蜀山人は駕籠が嫌いですから、出羽様から、足軽が一人付いて宅まで送り届ける。
 蜀山人はのん気のもので、大層酔払いながら、ブラブラヒョロヒョロやって来る。足軽も後から付いて参りましたが、丁度堀江町の新道を通ると、ある家の表で、女中が格子の掃除をしていて、汚い水を向こう見ずに往来へ撒いたのが、通り合せた蜀山人には掛らなかつたが、供をして来た足軽の頭がら着物へ、ぐしゃと掛った。いやはや足軽は怒るまいことか。
「不埒の奴だ」と刀の柄へ手を掛けた。その当時は武士が刀の柄へ手を掛けたかと思うと、町人の首は向うへ飛んでいるという位で、こういう事は度々ありますから、さあ女中は驚いて蒼白になって、家の中に逃げ込む。
 家の中からは40格好の婦人が恐る恐る出て来て参りまして、「誠に飛んだことを致しましてどうも相済みません、万望御勘なさつて下さいまし」と詫びますと、足軽は「これこれ勘弁しろもないものだ、見ろこの通り、頭から着物まで、ぐしょ濡れだ。不埒の奴だ。只今の女をここへ出せ。」婦人「ではございませうが、万望そこを一つ御勘弁下さいませ……お前ここへきてお詫びなさい」といわれて女中はぶるぶる慌いながらそこへ出まして両手をつかえ、「どうか勘弁下さいまし」という声さえ、口の内にて、歯の根も合はず、ぶるぶる振えております。
 それこも知らず行過ぎたる蜀山人、跡をふり返って、づかづかと帰って来て蜀山「どうしたどうした」足軽「先生只今かくかくの次第で」蜀山「まあ、そんなに怒っては仕方がない、勘弁さっしゃい、これこれ御女中、お前は何という名だ」女中「はい、お軽と申します」蜀山「お軽か、うむ、おかるにしちぁちょっと受け取り難いが、まあまあ心配なさるな、拙者がお詫びをして上げるから」と持っていた扇を取り出し、ひらりと開いて、腰の墨斗の筆を染めて、サラサラと書いて、足軽の前へ差出し、濁山「これで勘弁さっしゃい」言われて足軽も怒つてはいたものの、是非なく、先生が何んなことを書いたか取上げて見ると、
    行きかかる、、、来かかる、、、足に水かかる、、
      足軽いかる、、、おかるこわがる、、
 取り上げて見て足軽も吹き出し、足軽「先生有難うございます、これを頂戴したうございます」蜀山「あげるから勘弁さっしゃい」足軽「勘弁も何もありません、どうも先生ありがとございます。」そこで家の者を始め、女中のお軽も、大層喜んで厚くお礼を申し述べたと、いうことです。

 現実に起こった事実ではなく、落語だったんですね。実際の逸話ではなく、面白い咄でした。
 岩波書店の「大田南畝(第1次)月報」19「蜀山人伝説を追う(18)」(2000年)では……

 思えば、明治の中頃から大正時代へかけて、蜀山人説話はまさに花ざかりであった。概算であるが、明治に12冊、大正に17冊、合わせて30冊近い書物がかくも繰返して出版されたことに感嘆に似た気持すらおぼえる。もっとも、それらの大半以上が、読物としては巧妙でおもしろく出来上っていても、蜀山人その人の実像とはかけ離れた、根も葉もない虚譚に富む、ほとんどが他愛のないものばかりだといってよいのであるが、しかし、庶民の誰にでも親しまれる蜀山人像を思いきり描いてみせた熱意、それに対しての感銘は深い。言葉は悪いが、蜀山人という名前が商品として通用した時期、もちろん、読者の側にも、出版者の側にも、蜀山人に対する熱烈なる敬募の思いがあったればこその結果であるが、みんなで、蜀山人を伝説の主人公に仕立てあげようとする、強烈な時代風潮が脈々としてあったとすべきである。
 実像とは別に、その生涯が伝説と説話で彩られた人物に、西行と芭蕉がある。「撰集抄」「西行物語」「芭蕉翁行脚物語」「蕉門頭陀物語」などは西行と芭蕉の伝説面を流布する大きな役目を果してきた。一休禅師と會呂利新左衛門もまたそうで、「一休諸国物語」「一休ばなし」「會呂利咄」などの書物が長い間多くの人びとに親しまれた。濁山人を含めた、日本文学史上の大人物たちが、私たちの心の中に身近な姿で生き続けてきたのは、麗わしくもまた心強い伝統だというてよい。
 それにしても、こんなにまでもてはやされた蜀山人説話のあまりにも著しい衰退ぶりはどうであろう。逸話、風聞、伝承、狂歌説話など、虚の蜀山人像を形成してきたもろもろの要素一切を含め、本稿でそれを蜀山人伝説と総称してきたが、まさに、いま蜀山伝説は滅びんとしているといって過言でない。虚の蜀山人像を支持してきた土壌がもはや崩壊せんとしている。私たちが少年時代に愛読した少年講談の「蜀山人」を掉尾に、昭和の後半に蜀山人伝説が全く影をひそめてしまったのは淋しい限りだといわねばならぬのである。
 今後、蜀山人の実像は「大田南畝全集」の完結によってますますその全容が明らかにされて行くにちがいない。それに呼応して、先人たちがはぐくんで来た虚の蜀山人像もまた幾久しく生き残って行ってほしいことが願われる。そのためには、少年講談の「蜀山人」が岩波文庫に編入され、知識人層に新たに数多い読者を獲得するといったくらいの思い切った荒療治が必要なのではあるまいか。
掉尾 ちょうび。とうび。最後に来て勢いの盛んになること。単に「最後に」。

タイのピプン首相亡命地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 13.タイのピプン首相亡命地」についてです。

タイのピプン首相亡命地
      (南町2)
 加賀町から約五百メートル先の中町の東端十字路を右折する。右側の南町2番地は、タイ国のピプン首相の亡命地であった。
 ピプンは、第二次世界大戦中に日本に協力したので戦犯に問われたが、昭和23年にクーデターを起して政権をにぎった。しかし32年に再びクーデターが起きて失脚し、日本に亡命してここに住んだのであった。
ピプン首相 現在は「ピブーン」と表記。正確にはプレーク・ピブーンソンクラーム(Luang Pibulsonggram, タイ語 แปลก พิบูลสงคราม)。タイの軍人・政治家。1924年(26歳)から3年間、フランスの砲兵学校に留学。帰国後、人民党に入党し、1932年に立憲革命、さらに立憲君主制を樹立。1938年、41歳で首相に就任。国名をシャムからタイに改変。日本タイ同盟条約を締結したが、戦局の悪化とともに日本と距離を置き、1944年、独裁ぶりに反感もあり、ピブーンは辞表を提出。終戦を迎えて、英印進駐軍により戦犯容疑者としてタイ国内で拘置。1946年、無罪で釈放。1948年、クーデターで政権に復帰。1957年、新たなクーデターで政権の座を追われ、1958年、東京で亡命生活を送る。後にインドへ渡り出家。還俗後、1964年、神奈川県相模原市で一生を終えた。生年は1897年7月14日。没年は1964年6月11日、66歳没
南町2番地 南町2番地ではなく、払方町9番地では? 払方町9番地は「ビブンソングラム」氏の家でした。

ピブーン。人文社「日本分県地図地名総覧 1960年版」(人文社編集部。1960年)

払方町9番地のうちで、ここがピブーン宅か?

神楽坂文芸地図|中町

文学と神楽坂

中町の最東部に手作り肉まん「フル オン ザ ヒル」があります。肉まんの大きさは五十番の半分弱ですが、実は神楽坂一番の美味しさ。そこの壁に「神楽坂文芸地図」があります。小さい文章で、一枚にぎっしり書き込んであります。

では、文芸地図をどうぞ。拡大できます。十分、読めます。

文芸地図

神楽坂文芸地図


大田南畝の住居跡

文学と神楽坂

大田南畝 大田(おおた)南畝なんぽは、天明期を代表する文人・狂歌師、御家人です。生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)。没年は文政6年4月6日(1823年5月16日)。通称は直次郎、後に七左衛門に改名しています。では、どこに住んでいたのか。はい。中町です。しかし、北町だと間違えて答えにするものもまだあるのです。

 たとえば2006年の『東京10000歩ウォーキング 神楽坂』では

大田南畝の住居跡
    新宿区北町41番地

と書いてあります。当然インターネットでもそういう答えもまだ出てくるのです。たとえば『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の45頁です。北町と書いています。しかし正しいのは中町なのです。

 鈴木貞夫氏が書いた『大田南畝の牛込中御徒町住所考』を読めば簡単に答えが出てくるのですが、問題はこの本です。見ただけでわかる自費出版のこの本は、新宿区立中町図書館にしかありません。国会図書館ではなく、東京都図書館でもなく、新宿区の他の図書館でもありません。しかも1冊だけ。これがなくなるとどうしようかと、心配です。

 では『大田南畝の牛込中御徒町住所考』を読んでみましょう。

 はじめに
 従来、大田南畝の牛込御徒町の屋敷は、北御徒町とか中御徒町といわれ、諸説があって確定的ではない。
 北御徒町とする説は『東京名所図会』の「蜀山人の故宅」に書かれている。
 一方、南畝研究者の間では、中御徒町の通り北側の東端あたりが定説となっており、中には中御徒町内のごく近い場所に転居をしているという説もある。

 では『東京名所図会』の「蜀山人の故宅」を読んでみると

●蜀山人の故宅L
 北町四十一番地に、太田(おほた)南畝(なんぽ)(蜀山人)の故宅ありて、其孫南岳こゝに成長(せいちやう)す、後ち文豪(ぶんがう)故尾崎紅葉、南畝の舊宅と聞き、移て之れに(じう)す(自明治二十三年至同二十四年)其横寺町(前編掲載)に(てん)ずるや、江見水蔭之れに代れり、庭砌遺愛の椿は再び明治の文學者の賞する所となれり、當年の寢惚先生、亦以で(えい)とす可きなり。水蔭居を移して後、幾度か主を異にし、故宅(こたく)漸く傾き、今や其趾をとゞめずなりぬ。南岳(なんがく)は南宗派の畫家(くわか)にして、今の時に名あり、甞て十千萬堂に遊ぶもの、俳句(はいく)を能くす、四谷荒木町に住せり

 これから北町になったのですね。『大田南畝の牛込中御徒町住所考』では

(「蜀山人の故宅」では)北町四十一番地を南畝の旧居跡としている。筆者の山下重民は四谷に在住した人であり、同じ四谷の荒木町に住む南岳から話を聞いたものと思われる。ちなみに、南岳は名を亨、南畝から五代下る大田家の当主、金森南塘門下の画家として名をなし、大正六年七月十三日に四十五歳で亡くなっている。

 つまり北町41番地は聞き語り、口承なのです。正しい住所は『大田南畝の牛込中御徒町住所考』によると

 南畝は享和三年(1803年)の由緒書の中で、住居を「牛込中御徒町」と書いているので、中御徒町に屋敷のあったことは確実であるが、以前に他の御徒組(例えば、北御徒町の西丸御徒二番組)から移ったとも考えられるので由緒書の祖父あたりから頭の系列(番組)を検討してみよう。
1.由緒書
高百俵五人扶持 本国生国共武蔵
内 七拾俵五人扶持本高 三拾俵御足高     支配勘定
大 田 直 次 郎
当亥五十五歳
拝領屋敷無御座候 当時牛込中御徒町 稲葉主税御徒組東左一郎地内借地仕罷在候   (省略)
2.(省略)
3.その他
『一話一言』の「車留の札」に、
「予がすむ所は、牛込中御徒町なりしかば……」(『全集』一三ー四七六)
とある。

 つまり、大田南畝氏は牛込中御徒町(現在は中町)に住んでいました。

 では住所は? 永井荷風の大正14年5月の『断腸亭日乗』によれば

五月廿二日。午後牛込仲町辺を歩む。大田南畝が旧居の光景を想像せむとてなり。南畝が家は仲御徒町にて東南は道路、北鄰は北町なりしとの事より推察するに、現時仲町と袋町との角に巡査派出所の立てるあたりなるべし。

大田南畝

袋町派出所は『牛込区全図』で三角形(▼)


蜀山人

 袋町派出所は昭和5年の地図『牛込区全図』(上図)では▼と書いてあります。牛込警察署が描いた「牛込警察署の歩み」(1976年)の付図「牛込神楽坂警察署管内全図」(原図は昭和7年)では、土井邸にかかるように建っていたようです。

 さらに新宿区立新宿歴史博物館の『「蜀山人」大田南畝と江戸のまち』では表としてはっきり書いています。

No 名称 種別 坪数 住所 現在地 期間 備考
息偃館 借地 200坪 牛込中御徒町 新宿区中町37・38 寛延2年(1749)~?
借地 210坪 牛込中御徒町 新宿区中町36 ?~文化元年(1804) 書斎「巴人亭」
遷喬楼 買得 93坪 小日向金剛寺坂上 文京区春日2-16 文化元年(1804)
~同6年(1809)
年賦で購入。
2階建て。
拝領 139坪余 牛込若松町 新宿区大久保 文化6年(1809)
~同9年(1812)
緇林楼 拝領 150坪余 駿河台淡路坂上 千代田区神田駿河台4-6 文化9年(1812)~
文政6年(1823)
大久保と交換

 赤は中町36で、橙は中町37・38です。
中町

宮城道雄記念館|中町

文学と神楽坂

 昭和53年(1978)12月6日、宮城道雄氏が晩年まで住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館です。目で見る展示のほか、耳で聴く設備などがあります。
 まず右手の奥に「宮城道雄氏略伝」があります。

 宮城道雄氏略伝

宮城道雄氏略伝

 宮城道雄は明治二十七年四月七日神戸市に生る 生後二百日にして悪質の眼病あり九歳遂に失明し2代目神戸中嶋検校の門に入る その芸術的天分は夙に音楽に発現し十六歳にして処女作「水の変態」を成し 爾来「春の海」「秋の調」「落葉の踊」「桜変奏曲」等幾多の名曲あり独自の妙音は一代を風靡して盛世の新日本音楽と称せらる
 昭和五年東京音楽学校に迎えられて講師となり同十二年には同校教授たり 十九年高等官三等正五位に任せられ 昭和24年には東京芸術大学講師たり 三十一年六月正四位勲四等に叙せられ 旭日小綬章の授興を受く その間芸術院会員の拝命放送文化賞の受賞 世界民族音楽舞踏祭に日本代表として渡欧などの栄譽ありしを 昭和三十一年六月二十四日関西交響楽団との競演のため大阪市に向う途上列車銀河より東海道刈谷駅付近の鉄路に転落せるを発見 手当中翌二十五日光輝ある六十二年の生涯を終りぬ
 口述及び点字写字機に依る「雨の念仏」「騒音」「垣隣」の詩趣多き随筆の類を收めたる全集三巻の遺著あり 亦その詞藻を見るに足る

  右  七周忌に当り属により
       遺友 佐藤春夫 撰


宮城道雄記念館

 入場料は400円、入って上がった所が1階になっています。1階の第一展示室は箏などの楽器などを中心にまとめ、第二展示室はDVDの映像資料です。左側に行き、部屋の外からスロープを下に行くと「検校の間」にでます。これは国登録有形文化財になっています。

文化財愛護シンボルマーク国登録有形文化財(建造物)
宮城(みやぎ)道雄(みちお)記念館(きねんかん)   (けん)(ぎょう)()

所 在 地 新宿区中町三十五番地  
登録年月日 平成二十三年七月二十五日

 検校の間は、昭和二十三年(一九四八)、宮城道雄が戦災で焼失した中町の住宅を再建する際に建てた書斎である。木造平屋建て、(かわら)()き、内部は(とこ)()床脇(とこわき)を備えた六畳の和室と二畳弱の次の二間からなる。
 宮城の希望で茶室風の意匠(いしょう)をもち、庭に面した丸窓の曲線を多用した竹の格子(こうし)など、随所(ずいしょ)に高度な大工技術が()らされている。昭和二十五年(一九五〇)と昭和三十年(一九五五)に敷地内で()()を行い、現在の位置に固定した。
平成二十五年三月

新宿区教育委員会


検校の間

 また「検校の間」「録音室」「石の達磨大師」についても説明があります。

 宮城道雄の書斎。昭和23年(1948)12月に完成し、「(けん)(ぎょう)()」と名づけられた。最後の7年間はほとんどここで作曲された。はじめは、自宅母屋から廊下づたいの離れとして、現在の録音室の東寄りに建てられたが、録音室建築のために現在地に移され、独立の一棟となった。間口3杯、奥行2間。南に6畳、襖を隔てて北に2畳。6畳には向かって右から床棚・床・付書院が設けられ、床柱は竹の角が用いられている。天井は、付書院側の1.5畳分が簾張、他の4.5畳分が竿縁。全体として茶室風の趣になっている。

 録音室
 鉄筋コンクリート平屋造り、防音設備を施した一室。目の不自由な宮城が自宅で録音することを目的として、昭和30年(1955)に着工されたが、翌年の竣工の直前に彼は不帰の客となり、自身はこの録音室を用いずに終った。

 石の達磨大師
 ちょうどこの春早々でありましたが、いつも来る植木屋さんが、石の達磨(だるま)大師(だいし)を持ってまいりました。私はその顔を撫でてみましたところが、これは石屋さんが彫ったんで、別に有名な方の作ではないんでありますが、なかなかデコボコした手触りが非常に面白いと思いました。ことに、この石像の顔を撫でるときに、いちばんに眼を撫でてみます。ところが、眼が彫ってありまして、眼がなかなかよく出来ているように思いました。 宮城道雄談・昭和30年(1955)2月ラジオ

 さらに宮城道雄記念館の別館、宮城喜代子記念室もあります。検校3

宮城道雄|箏曲家

文学と神楽坂

 宮城道雄宮城(みやぎ)道雄(みちお)は作曲家・箏曲(そうきょく)家で、生まれは1894(明治27)年4月7日、兵庫県神戸市。8歳で失明。13歳、一家で韓国の仁川に渡り、箏と尺八を教えて家計を助けました。1917年4月(23歳)、帰国しますが、妻が急死し、翌年再婚。最後は1956(昭和31)年6月25日で62歳で死亡しました。
 宮城道雄記念館は新宿区中町にたっていますが、ここに来るまであちこちを転居しています。ただし、ほとんど牛込区(新宿区)です。 昭和5年。宮城道雄
 内田百閒(ひゃっけん)氏の「東海道刈谷駅」(昭和33年)では

 宮城が今出て来た牛込中町[1]の家は、もとの構えを戦火に焼かれた後に建て直した屋敷で、後に隣地に立派な演奏場を建て増しして相当に広い構えである。焼ける前の庭にあった梅の古木を宮城は懐しがり、「古巣の侮」と題する彼の文集を遺している。牛込中町の今の家[1]は借家ではないが、それから前に彼が転転と移り住んだ家はみな借家であった。牛込中町の前は牛込納戸町[2]。門構えの大きな家であった。

「今の家」[1]というのは中町35番地で、これは昭和5年7月から死亡するまで26年も使っています。現在ここは宮城道雄記念館になっています。
 中町の前は納戸町40番地[2]。昭和4年4月から転居し、1年半、ここ納戸町に住みました。この間新しく八十絃を使い、東京音楽学校の箏曲科の教師になっています。

 納戸町の前は同じく牛込の市ヶ谷加賀町[3]。彼はここで大正十二年の大地震に会った。九月一日の後二三日目に私は小石川雑司ケ谷町の私の家から彼の安否を尋ねに出掛けた。加賀町界隈には余り倒壊した家もなく、大丈夫だろうと思って行ったが、その家の前の道幅の広い横町へ曲がると、向い側の屋敷の(へい)の中から枝を張った大樹の木陰に籐椅子を置き、人通りのない道ばたで晏如(あんじょ)としている宮城を認めてまあよかったと思った。お互に無事をよろこび合ったのを思い出す。

晏如 安らかで落ち着いているさま

 大正12年4月ごろ市ケ谷加賀町2-1[3]に転居。この家が広く、門がある家で、電話も来てから通っています。

 市ケ谷加賀町の前は牛込払方町[4]市ケ谷新見附のお濠端から上がって来る幅の広い坂道を、上がり切って右へ行けば牛込北町の電車道に出る、その坂を鰻坂と云う、鰻坂を上がり切った左側の二階建の借家で、門などはない。馳け込みの小さな家で、二階一間(ひとま)に下が一間(ひとま)、それに小さな部屋がもう一つか二つついていたかも知れない。
 棟続きの横腹に向かって左手の借家には、時代を異にしてその昔石川啄木が住んでいたと云う。二階建の棟割(むねわり)長屋(ながや)と云う事になるが、その同じ棟の下に二人の天才か伴んだ事になる。その家は戦火で焼けて今は跡方もない。(略)
 夜は宮城がその坂の上の借家の二階で寝ているのを知っているから、私は下の往来から竹竿の先にステッキを括くくりつけて継ぎ足して、長くなった棒の先で二階の雨戸をこつこつ叩いておどかした。後で宮城がくやしがるのが面白かった。彼も若かったが私も若かった。
 払方は何年から何年までであったか、(ちゅう)でははっきりしないが、大正十年よりは前である。私が宮城を知ったのはこの時代である。

市ケ谷新見附 以前の都電の駅で、JR市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間地点にあります。
 そらで覚えていること。暗記していること。

 大正8年5月ごろ、牛込払方町25番地[4]に借家。これは広い坂を上りきった左側にあった家で、もと、石川啄木が住んだ大和館という下宿のあとだといいます。(実は吉川英史氏の『この人なり 宮城道雄伝』新潮社、昭和37年では大正館と間違えて書いています)。2軒つづきの家で、表通りに面しているので、荷車や人の通る足音などがうるさかったといいます。

 この場所は現代では25番地の日本左官会館(現在はマンション)、あるいは、その南側の25番地のアーバンネットです。

払方町

 これは明治や大正でも同じようです。「広い坂を()()()()()左側にあった家」だとすると、日本左官会館でしょうか。明治大正「アーバンネット」は坂の途中だと思います。

 払方の前は日本橋浜町にいたそうだが、その時分の事は私は知らない。余り長くはいなかった様で、半年ぐらいだったかも知れないと云う。
 その前は矢張り牛込の市ケ谷田町[5]。一度日本橋へ出たきりで後はずっと牛込の中で転転している。その市ケ谷田町に家を構えた前は、町内の田町の琴屋の二階に間借りしていた。それが大正六年の五月朝鮮から出て来た時の住いであった。

 大正7年に移ったこの田町の家[5]は、市ヶ谷田町2丁目23番地。3間くらいの部屋数の、古ぼけた家でした。入口に「宮城大検校」という大きな看板をかかえて、内弟子をとり、まだ人力車に乗るだけの余裕はなく、質屋にも通ったといいます。