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神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期

文学と神楽坂

 大正~昭和初期における神楽坂3,4丁目の写真です。まずは大正15年、毎日新聞社『法政大学(大学シリーズ)』(1971年)から。これは坂上、3丁目の商店街です。坂下と比べて、立派な構えの店が多いと地元の方。私もそう思います。

神楽坂の今昔

中央線がまだ甲武鉄道のころから、文士や学生に愛されたためだろう 情緒豊かなうちにも文化の匂いがここにはあった(大正15年)

神楽坂の今昔

 また、当時の商店街を出しておきます。 岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図 昭和5年」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)から一部改編したもの。

岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」
洋品 西洋風の品物。特に、洋装に必要な衣類・装身具や身の回り品など。舶来品。
サムライ洋品 サムライ洋品の商売の仕方が書いています。
銀行 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では川崎第百神楽坂支店でした。この建物は石造りで、第二次世界大戦中でも頑丈で、壊れず、おそらく昭和30年以降になって新建物になりました。また「昼夜営業」と書いていますが、銀行内に質屋などがあったのか、あるいはサムライ洋品のPRかもしれません。
春月 そば店。詳しくはここで
田原屋 この建物、果物屋の田原屋だと思えると地元の人。

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年、再版は1990年)で道の両側がでています。左側が神楽坂3丁目、右側が4丁目に当たります。

大東京写真案内

大東京写真案内。神楽坂。牛込見付から肴町に到るさかみちが神樂坂、今や山手銀座の稱を新宿に奪はれたとは云ふものゝ、夜の神樂坂は、依然露天と學生とサラリーマンと、神樂坂藝妓の艶姿に賑々しい。

大東京写真案内

銀行(白) 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では川崎第百神楽坂支店でした。
花柳病 性病。性感染症の巻看板。その下の「間部医院」の場所は袋町5番目。
斉藤医院 皮膚科・婦人科。神楽坂4丁目8番地にあります。

昭和12年『火災保険特殊地図』

昭和12年『火災保険特殊地図』

きそば そば粉だけで打ったそば。また、小麦粉などの混ぜものが少ないそば。これは「春月そば」の袖看板。
キリン おそらく田原屋の袖看板
アーケード 洋風建築で、アーチ形の天井をもつ構造物。その下の通路。拱廊きょうろう。歩道にかける屋根のような覆いや、覆いつきの商店街。一昔の緑門ではなさそう。
銀行(赤) 東京貯蓄銀行の神楽坂店
幟旗? のぼり旗。長方形の縦長の布を棒に括り付けた表示物。集客効果を高め、情報を知らせるため、目印として立てる旗。ここはたぶんモスリン屋の「警世文」
大東京写真案内
三好野甘味 三好野。おしるこなどの甘味屋。「お金持ちで、家は3階建て。遊びに行った時、高そうな鉄道のおもちゃを見せられて、うらやましかった。(年上の子がいたそうです)」と地元の人。
一寸一杯 ちょっといっぱい。居酒屋や飲み屋でよく使う言葉。さて、どの店舗が「一寸一杯」を使ったのか。古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会では魚国鮮魚店か旧勧工場。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では魚国鮮魚店か山形屋支店。山形屋支店はどんな店舗なのか、わかりませんが、山形屋支店に一票いれたいと思います。
加藤荒物店 平屋(一階建て)。荒物は家庭用の雑貨類を売る商売。
メイセン屋 銘仙屋か? でも、それらしい漢字はなさそう。銘仙屋は平織りの絹織物を売る店舗。メイセン屋は反物や呉服を扱っていた。
橋本オモチャ 玩具店
山本喫茶店 詳しくはここで。「コーヒー」や「うなぎの御飯」もここでしょうね。しかし、「うなぎの御飯」まで売るとは、すごい。
竹川靴店 靴店は多くは下駄店や履物店と同じ。ただし、横文字を使っているので、靴だけを売っていた?



兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

道路通称名

文学と神楽坂

 都や区は道路通称名として

(東京都)道路利用者に分かりやすく親しみやすい名称
(新宿区)「地域で古くから使われている名称」や「生活の利便性向上に寄与する名称」

を設定しています。

 神楽坂と関係する都道(道路通称名)は早稲田通り(千代田区九段北2丁目←→杉並区上井草4丁目)、大久保通り、外堀通りでしょう。

都道(https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000006191.pdf)

 区道では神楽坂通り、本多横丁、神楽坂仲通り、見番横丁、牛込中央通りがあげられます。この「神楽坂通り」は1丁目から5丁目までで、神楽坂6丁目の通りは誰がなんと言っても新宿区の真性の「神楽坂通り」ではありません。神楽坂1丁目から5丁目までは幅は12mのままですが、神楽坂6丁目は都道としていつか20mに広がります。

区道の道路通称名

区道の道路通称名

 さて、2つ、問題があります。1つは、早稲田通りで、神楽坂上交差点から神楽坂下交差点までの部分までです。西の方から神楽坂上交差点まで来ると、都道はここで終わり、区道の上から神楽坂下交差点に行き、さらに千代田区の区道に変わり、麹町警察署の飯田橋駅前交番を通り、九段中等学校前から田安門まで行く道です。田安門になって初めて都道になります。はい、現在もこの通りが早稲田通りです。おそらく、ここは昔は都道だったのです。いつ区道になったのか、不明です。

 また、早稲田通りの名前もなくなる理由はなく、神楽坂坂上から坂下までは正しく神楽坂通りと、昔からの早稲田通りの2つがあるのでしょう。

 2つ目の問題は、神楽小路、かくれんぼ横丁、毘沙門横丁、藁店、見返し横丁などの道路群です。これは新宿区の道路通称名にはありません。地元の方の話では、たとえば「見返し横丁」ではなく、「鳥静さんを入ったところ」などと使うほうがいいといいます。まあ、その通り。しかし、観光資源としては重要だといいます。私にとっては「鳥静さんを入ったところ」よりは「見返し横丁」のほうが簡単です。「鳥静とはなに」から話さないといけないし。しかし「見返し」なのか「見返り」なのか、どちらかに当たるのか、良く考えないとわかりません。もともと、あくまでも洒落や愛称のために使ったものだし。しかし、毘沙門横丁や藁店などの戦前から残した言葉は道路通称名として残るべきです。

 なお、地図を見ると、道路通称名がとりわけ多い部分があります。落合地区です。本当に多い。観光資源として重要ではないはずなのに。

区道道路通称名

 これは1925年から1936年の間、耕地整理を行い、耕地は碁盤目に整備したのです。2009年(平成21年)、ある神楽坂の人の話では、地元の町会が組織的に区役所に申請したため、道路通称名として認定されたといいます。