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神楽坂1丁目(写真)戦前からの研究社、昭和51年、ID 12201~03

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12201~12203は、昭和51年(1976年)、神楽坂1丁目の外堀通り沿い、研究社を撮った写真です。ID 12201は右に「理大 薬学部」が写っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12201 神楽坂 研究社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12202 神楽坂 研究社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12203 神楽坂 研究社

研究社。1973年。住宅地図。

 研究社は英語関係の伝統ある出版社で、1907年(明治40年)1月月に英語研究社として千代田区富士見で設立。1927年(昭和2年)12月に神楽坂印刷工場(地下1階、地上4階)が完成しました。

戦前の研究社。都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

 第2次大戦後の昭和22年に研究社出版が設立され、研究社印刷とは分かれます。研究社出版は富士見町2丁目、研究社印刷は神楽坂1丁目を本社としていました。昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました。


 現在は研究社に社名を戻して本社は千代田区富士見にあります。神楽坂の旧ビル跡には賃貸ビルを兼ねた「研究社英語センタービル」(昭和61年2月完成)を建てました。また研究社印刷は工場のある埼玉県新座市に本社を移転し、2022年3月31日に廃業することを発表しました。

現在の研究社。Google

 では、昭和51年(1976年)に、新宿区はなぜID 12201-12203の写真を撮影したのでしょうか。

 まず研究社では……
  1969(昭和44)年「英語表現辞典」
  1974(昭和49)年「アメリカ古典文庫」(全23巻)
  1976(昭和51)年「現代の英文法」発刊
 これ以外には何も書いていません。
 ウィキペディア(Wikipedia)では……
  1967年 創立60周年。「新英和中辞典」
  1968年 「英語歳時記」全5巻
  1975年 大橋健三郎・斎藤光・大橋吉之輔編『総説アメリカ文学史』
  1977年 小酒井益蔵死去、植田虎雄が社長となる。
      「英文解釈教室」(伊藤和夫)
 研究社印刷株式会社については……
  1919年(大正8年)研究社の印刷所として英文図書刊行に備え九段中坂に組版工場設立
  1920年(大正9年)牛込区神楽坂に印刷工場新設
  1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転
  1927年(昭和2年)神楽坂印刷工場完成

 1907年に小酒井五一郎氏が英語研究社を設立してから69年になりますので、創立70周年には1年早すぎます。また、神楽坂印刷工場が昭和2年に完成してからは49年間でした。直接、新宿歴史博物館に聞いたところ、理由はわかりかねますとのこと。
 しかし、わかりました。地元の方が、戦前の研究社印刷と戦後のものが、全く同じだといったのです(下図)。よく似ているのではなく、本当に同一でした。これは戦前からの焼け残りでした。なるほど。この一棟がやがて消滅するのは残念ですが、だから写真にとったのですね。せめて明治村などに売れればよかったのに。あ、これは昭和2年の建物だった。

神楽坂3丁目(写真)三菱銀行前と田原屋前、昭和33年 ID 6338と6340

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6338とID 6340は、昭和33年(1958年)「明治神宮遷宮祭記念自動車パレード」を撮ったものです。ID 6338は神楽坂三菱銀行前で、ID 6340は田原屋前で撮っています。坂下から坂上へパレードは動き、ID 6338では自動車などや、ID 6340では消防庁音楽隊のパレードでした。11月始めに都内各地で行われ、「本日特売日」の横断幕が見えますが、神楽坂通り商店街は「5の日」を特売日にしていたので、撮影日は11月5日かもしれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6338 明治神宮遷宮祭記念自動車パレード 神楽坂三菱銀行前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6340 明治神宮遷宮祭記念 消防庁音楽隊 神楽坂 田原屋前

 街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭すずらん灯でした。車道は平坦、滑らかで、センターラインがなく、つまり一方通行になっています。一方通行はこの写真の昭和33年に逆転式に変わったのですが、それ以前は坂上から坂下への一方通行でした。この写真では3丁目から5丁目方向へ車が向いているので、逆転式導入後と思われます。
 電柱の上には柱上変圧器があります。歩道と車道の段差はわずかですが、車道の端には雨水を流す側溝があるようです。
 人々の密度に非常に高く、警察官も出ています。ID 6338で手紙などを持って走る女性は制服姿で、三菱銀行の職員でしょうか。しかし胸のバッチがスリーダイヤに見えないな、と地元の方。
 ID 6340で屋号を見ると、最初の右側の看板は「(べー)コン、ソーセ(ージ)」「牛 豚」「株式会社 福田」肉店で、レストランの「田原屋」、毘沙門天の境内を挟んで「三菱銀行」が続きます。左側の看板は「東京 名物 手焼きせんべい」(せんべい 福屋)と「マケヌ屋洋品」(後のAWAYA洋品店、現在は鮨酒肴 杉玉)でした。
 看板についてはID 6338の右から➀消火栓と第一医院、➁山手七福神 毘沙門天、➂土地家屋 野口商会不(動産)と小野眼科、➃電柱看板「質 大久保」が2回、➄三菱銀行、左で➅純フランス菓子 ス(ゴオ)。➆とんかつ フライ うづ巻(紅小路の左2軒目)。➅と➆の間の看板は写真では読めませんが、ここは郵便局なので「葉書 切手 小包 為替」などと小さな文字でサービス内容が書かれていたのでしょう。ID 6340では「松ケ枝」だけが見えます。
 昭和30年のID 4893(下図)では、三菱銀行はギリシャの円柱を模した4本の飾りを持つ建物でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4893 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 三菱銀行神楽坂支店前

 昭和33年では様相を一変しています。これは戦前の外装を化粧直ししたものと思われます。1軒手前の建物は昭和30年には「おそば春月」でしたが、すでに店はなくなっていてベニヤ板で囲まれています。

 なお、脚注も地元の方がまとめてくれました。
遷宮 明治神宮の「遷宮」は戦災の再建社殿に移ったのもので、11/3の明治天皇誕生日の直前らしい。
側溝 後の時代に標準となる歩道と車道の段差は、専門用語では「L型側溝
小野眼科 新小川町にありました。

小野眼科

ベニヤ板で囲まれて 三菱銀行の駐車場は地図では確認できないとのこと。

神楽坂上空(写真)昭和36年、ID 12145

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145は、昭和36年(1961年)、上空から神楽坂全体を撮ったものです。また、新宿区役場「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年3月)にもでています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145 神楽坂上空より

 主に「通り」と「横丁」を上げてみます。拡大すると見えます。

 これから神楽坂通りを1番目として、北(右)でも南(左)でも遠くなると番号も増えていきます。また、近景から遠景まで順番に書いていきます。なお、地元の方から多大な助力を頂きました。特に遠景ではこの助けがないとできませんでした。感謝、感謝です。

近北

ID 12145の一部 神楽坂上空 近北

  1. 赤井商店(足袋)
  2. さくらや(靴)
  3. 燃料市原
  4. 佳作座(名画座)
  5. ジャマイカ コーヒー
  6. モルナイト
  7. 三陽商店工場
  8. 三和計器製作所
  9. 小林商店(砂・セメント)
  10. 伝道出版社
  11. 人形の家(喫茶)
  12. 神楽坂通りは一方通行。早稲田通りは対面通行
  13. 神楽坂警察署
  14. 池か
  15. 銀鈴会館(名画館など)

1962年。住宅地図。

近南

ID 12145の一部 神楽坂上空 近南

  1. パチンコニューパリー
  2. 聖学館と酒井
  3. 三河屋 酒店
  4. 大野テーラー
  5. 双葉社 週刊大衆
  6. 中華 源来軒
  7. 東京トヨペット
  8. コーヒー カーネギー
  9. アケミ美容室
  10. ひかりのくに
  11. 建築中(東京理科大学)

は東京理科大学

1962年。住宅地図。

中北

ID 12145の一部 神楽坂上空 中北

  1. 三菱銀行
  2. ムーンライト
  3. 大久保
  4. ゴルフ神楽坂。この手前は結構なガケで、コンクリートの擁壁になっている。このガケは今も同じ。
  5. 石造りの安井邸。翌年には鈴木邸になる。子供たちにとっては「お化け屋敷」。
  6. 旅館なの花。隣の青灰色の建物と一体で。
  7. 神楽坂浴場

1962年。住宅地図。


中南

ID 12145の一部 神楽坂上空 中南

  1. 三菱銀行
  2. 牛込三業会(今の東京神楽坂組合
  3. 熱海湯
  4. 松ケ枝
  5. 丸紅飯田若松荘
  6. 神楽坂若宮八幡神社

1962年。住宅地図。


遠北

ID 12145の一部 神楽坂上空 遠南

  1. 三菱銀行
  2. 神楽坂上交差点
  3. 音楽之友社
  4. 熊乃湯。現・玉の湯
  5. 白銀公園
  6. 赤城神社
  7. 神祇社殿
  8. 東京都職員飯田橋病院 ※後の放射線学校
  9. 雪印健保会館 ※現・升本本社
  10. 朝鮮新報社(?)

1962年。住宅地図。


遠南

ID 12145の一部 神楽坂上空 遠南

  1. 神楽坂上交差点
  2. 協和銀行
  3. 日本出版クラブ
  4. 光照寺
  5. 日本興業銀行社宅 ※旧・酒井家矢来屋敷
  6. 新宿区箪笥町特別出張所 ※ここからID 565を撮影した
  7. 見えないけど袖摺坂はこのあたり


最遠

 最後は最も遠い光景です。地元の方が教えてくれました。そのまま描いています。

ID 12145の一部 神楽坂上空 最遠

  1. 早大理工学部
  2. 都立戸山高校
  3. 早大記念会館
  4. 穴八幡
  5. 早大早稲田キャンパス
  6. 学習院目白キャンパス
  7. 椿山荘

地蔵坂(藁店)(写真)平成8年、ID 7900

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7900は、撮影日時は平成8年(1996年)2月10日で、地蔵坂(藁店)をねらって撮影しています。電柱の途中から出る街灯は普通の蛍光灯です。電柱の上には柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。
 縁石はなく、白い塗料で歩道と車道を区別し、また道路の両側に1列のコンクリートをつくり、雨水ますからの下水を流します。車道は平坦で、凹凸はありません。人は誰もいませんが、土曜日だからかもしれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7900 神楽坂 地蔵坂

地蔵坂(藁店)(平成8年)
  1. 上海ピーマン Little China 中華料理 売店 お惣菜・お弁当
  2. かいぞく(料理)
  3. 床屋(モリワキ)
  4. めしよし 越野
  5. 小林石工店
  1. 電柱看板「割烹 おく瀬 この先坂上」
  2. (美喜、八百屋)
  3. 贔屓(すし、美喜の奥で上階)
  4. Charlie Brown(喫茶と酒)
  5. 鳥料理 〇〇〇料理 鳥竹
  6. 電柱看板「モリワキ」
  7. (ブティック Key’s)

『ここは牛込、神楽坂』第7号、平成8年(1996)、15頁

神楽坂1丁目(写真)牛込橋 昭和37年 ID 5993~5995

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5993~5995は、昭和37年(1962年)、神楽坂1丁目を牛込橋方向から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5993 神楽坂入口をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5994 神楽坂入口をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5995 神楽坂入口をのぞむ

 昭和36年4月のID 52-53と比べると、牛込橋の車道のセンターラインや歩道の柵、左右の桜の木は同じです。しかし今回の街灯はそれまでの鈴蘭灯から、大型円盤形の蛍光灯に代わっています。左側の電柱広告は「旅館かぐら苑 野乃木」から「大久保質店」に、右側のファサード看板も「森本不動産」から「伊達」に代わりました。
 右上の「メトロ映画」の看板は「ヽロ映画」(ID 52-53)から「 ヽ凵映画」(ID 5993~5995)へと老朽化が進んでいます。遠くにキャバレー「ムーンライト」が見えています。
 街の様子は、寒いのか外套を着る人もいて、桜も裸木です。ただ歳末セールや正月の飾りのようなものは見えません。
 ID 55と56ともよく似ています。左下の手すりが雑巾かシャツで覆われ、すぐ前に同じバイク、右側にも同じ「日軽サッシ」の車も停まっています。ID 55-56、5993~5995は同じ時に撮影したことが分かります。
 新宿区『新宿区15年のあゆみ』(新宿区役所内務部総務課、1962年)ではID 5994を使っています。この本は昭和37年3月に出版していますので、この写真は、それ以前に撮影したはずです。
 ID 5995の右側の桜の木に、映画のポスターらしきものが見えます。昭和37年(1962)2月11日公開の『天使と野郎ども』ではないでしょうか。とすると撮影は昭和37年2月でしょうか。

日軽サッシ サッシ(window sash)は窓枠全体のこと。日軽は日本軽金属から現在はLIXIL(リクシル)になり、これは建築材料・住宅設備機器業界最大手の企業。
映画のポスター 拡大します。

人文社「日本分県地図地名総覧 東京都」1960年

神楽坂1~2丁目(昭和37年頃)
  1. ラーメン 中華そば
  2. とん(かつ森川)「も や」
  3. 電柱看板「気軽に習えて三日で踊れる 小柳ダンス教室
  4. 地名標識「神楽坂」
  5. 喫茶室 コルヌ(Corne)
  6. 電柱看板「質 大久保」「中河電気
  7. 袖看板「天下の銘酒 三富酒蔵」壁面看板「富士錦三富酒蔵」「大衆」
  8. 外堀通り
  9. パチンコニューパリー。エッフェル塔に似たネオン
  10. 神楽坂通りは省略)
  1. 桜の木にポスター
  2. 神楽坂警察署
  3. 旅館 保〇
  4. 停車中の自動車「日軽サッシ」
  5. 桜の木に看板 映画
  6. ファサード看板「入院応責 産婦人科加藤医院」「品の良いデザインカットを誇るドレスはD伊達」
  7. 外堀通り
  8. 赤井商店
  9. 右に移って「さくらや靴店」
  10. (神楽坂通りは省略)
  11. 屋上広告「メトロ映画
  12. 屋上広告「キャバレー ムーンライト」

郷土落穂集

文学と神楽坂

「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土研究会、昭和41年)に「郷土落穂集」という多分事実を集めたものがあります。どこかに原典があるはずです。たとえば「牛込区史」、各種新聞の縮刷版などです。事実1件は部分的にはわかっています。あと1件は残念ながらわかりませんでした。では「郷土落穂集」です。

新宿郷土研究第5号

 郷 土 落 穂 集

避病院第1号と牛込衛生会  牛込には、中川忠純を会長とする牛込衛生会というのがあった。これによって、明治19年(1886)全国的に流行したコレラ病の発生に際して、升本喜兵ヱら9氏が共同病院設立委員になって建設に活躍したものである。この結果区内78カ町のうち43カ町の賛同、625円の寄附金によって弁天町132番地いまの団地アパート附近に平屋カヤぶきの共同病院を設立したのである。これにコレラ病の患者を多数収容して、伝染病の予防に貢献をしたのであるが、明治27 年(1894)2月廃止したのである。

 牛込区役所「牛込区史」(昭和5年、復刻版は臨川書店、昭和60年)の「第八章 現代の牛込区(下)」「第二節 各種団体」「(3)牛込区衛生会」で、「牛込区衛生会は、明治19年8月14日市内にコレラ病の大流行を見た時、共同病院を設立した……」と書いています。442頁では

明治28年。東京実測図。上は132番地、下は134番地

 なお前記の共同病院に関しては、左記の記録がある。
 一、建 設 明治19年。
 一、建設地 弁天町134番地。
 一、建設費 1620円66銭は区内43ヶ町1901戸より寄附。
 一、地所坪数 634坪。
 一、建 坪 90坪6合5勺。(十畳室四、三畳室十二、湯殿二、物置二、死亡室一、渡り椽9坪5勺)
 一、処分 明治27年売却。(此金額717円88銭)

 本会は本区内の衛生の普及を図る目的で、以内居住者及び関係者を以て組織し、毎月十銭を年二回に拠って出する者を通常会員とし、一時に十円以上醵出する者を終身会員とし、別に会長の推薦による特別会員の定めがある。

 なお、「牛込区史」と「郷土落穂集」では建設地(弁天町132番地対134番地)と建設費(625円対1620円)の点で違っています。多分「牛込区史」が正しいと思います。

避病院 ひびょういん。伝染病患者を隔離収容した病院。伝染病法は平成11年(1999)に廃止し、感染症法に変わった。感染症法の避病院もなくなった。
中川忠純 東京府組織で第4期(明治16年8月8日から20年9月7日まで)の牛込区長は中川忠純氏でした。
渡り椽 渡り縁。母屋と離れを繋ぐ渡り廊下

矢来の酒井邸の爆裂  この間『東京新聞』(9月8日付)の「幕末の東京」に淀橋水車小屋の爆発事件を取りあげていたが、牛込矢来の酒井邸の爆裂事件は書かれていないので誌してみよう。
 嘉永6年(1853)6月米国使ペリー浦賀に来たるの報は、太平の夢を破った。これより先幕府は急遽海防をゆるがせにできぬとあって、西洋式の火薬の製造を始めた。
 牛込矢来下の酒井修理太夫の下屋敷においても、火薬を製造中、水車の心棒の過熱で大爆発を起し、これに従事した者の手足が、往来まで飛び散るという大惨事があった。こうした事故は、技術の未熟から新宿区内では、淀橋、他区では、板橋、世田ガ谷にも時を前後して同様な大爆発事件があった。黒船到来ということで、いかに当時幕府が、あわてたかを物語ることができよう。

 依然原典は追及中。「牛込区史」や新宿歴史博物館の「酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷」(平成22年)ではありませんでした。

爆裂 爆発して破裂すること。
9月8日 多分、昭和41年

神楽坂1丁目(写真)清水衣裳店前 昭和28年頃 ID 5190

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5190は、撮影日時は不明ですが、神楽坂一丁目から坂上をねらって撮影しています。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭すずらんの花をかたどった鈴蘭灯でした。この街灯の高さ2mぐらいから提灯1つがでています。電柱の上には細い柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。
 左下側をみてください。正方形コンクリートの二列と縁石から歩道がつくられ、車道に近いコンクリートから鈴蘭灯がでています。また、下水はコンクリートの地下を流れています。
 多くの人は車道を歩いています。背広を着ている人が多いようですが、薄いセーターを着ている人もいます。車道は平坦、滑らかです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5190 神楽坂一丁目 紀の善前

 撮影した日時はいつでしょうか。昭和30年ごろ(ID4871、ID 4893、ID 4894、ID 4899)、車道のセンターラインは明確に書かれています。したがって、この写真は昭和30年より昔です。昭和28年にパチンコマリーが開店しますが、写真上ではまだなく、したがって、これよりも昔です。昭和27年(ID 4792、4793、4794)はまだ鈴蘭灯ではなく、簡素な球形の街灯です。この撮影したのは、街灯が球形から鈴蘭灯に変わる、そのわずかな時間だったのでしょう。昭和27年の秋か28年の春ではないでしょうか。

神楽坂1~2丁目(昭和28年頃)
  1. 清水衣裳店/元祖 貸衣装/貸衣装賣買/電話33 430〇番
  2. おきな庵
  3. おしるこ/あんみつ/桜井
  4. (家)
  5. 小栗横丁に行く通り
  6. 電柱看板「川島歯(科)」「土地建物〇〇/森本不動産」、
  7. (家)
  8. 白鷹 志満金
  1. 東京(円茶) のぼり旗「全店 大賣出し」
  2. 喫茶 紀の善
  3. 神楽小路
  4. 理容 バンコク館
  5. 電柱看板「旅館 碧運」
  6. 電柱看板「歯科 西條医院」と「歯科 蜂矢歯科
  7. メトロ映画。昭和27年元旦に開設
  8. (しのだすし。建築中)
  9. (山本薬局)
  10. 空地。パチンコマリーの開店は昭和28年
  11. 電柱看板「神楽坂〇〇医院
  12. ニュー(イトウ)靴

蜂矢歯科 神楽坂6丁目。成金横丁に接する。

1960年、住宅地図。

神楽坂歯科 神楽坂2丁目。奥まった場所にある。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

花自動車(写真)昭和34年、ID 5056

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5056は昭和34年(1959年)、第14回「国民体育大会新宿区商業観光まつり」を撮ったものです。花自動車パレードで神楽坂振興会が出展しました。場所は早稲田鶴巻町の早大通りでした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5056 祝第14回国民体育大会新宿区商業観光まつり花自動車パレード 神楽坂振興会(早稲田鶴巻町・早大通り)

「神楽坂振興会」は昭和24年に設立し、昭和41年に「神楽坂通り商店会」と改称。神楽坂1~5丁目の商店街です。昼時なのか、自動車に乗っている人はいません。「新宿区商業観光まつり」と書いた看板と、若い水着の女性の等身大バネルだけが乗っていました。この女性は王冠(ティアラ)とローブ(マント)、「(ミ)ス神楽坂 神楽坂振興会」というサッシュをつけています。「新宿区商業観光まつり」の絵図では……

名称簡単な説明
神(楽)坂通り通り
堀部安兵ヱ高田馬場の決闘と赤穂浪士四十七士
筑土(八幡)神社
赤城神社神社
牛込城址築城年は天文年間(1532〜1555)
穴八幡神社
大田 蜀山人旧居江戸後期の文人
毘沙門天寺院
関孝和墓江戸中期の数学者
漱石猫塚明治大正の作家。飼っていた猫の墓
十千万堂 尾崎紅葉旧居明治の作家
松井須磨子明治大正の女優
坪内逍遥旧居明治大正の作家
市谷八幡神社
お岩稲荷四谷怪談
抜弁天神社
太宗寺寺院
小泉八雲旧居明治の作家
新井白石旧居江戸中期の政治家、儒学者
島崎藤村旧居明治の作家
新宿映画デパート街新宿大通り街
(熊)野神社神社
神宮維画館明治天皇の維新の大改革
競技場国立競技場

神楽坂3丁目(写真)大東京祭パレード 昭和32年 ID 4943

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4943は昭和32年(1957年)「大東京祭」における「花自動車パレード」を撮ったものです。坂下から坂上への自動車、バスやトラックの「花自動車」パレードでした。「祝 大東京祭」を掲げるオープンカーには女性4人が手を振り、左ハンドル車の運転手が座っていました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4943 大東京祭 花自動車パレード 神楽坂

 街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭すずらんの花をかたどった鈴蘭灯でした。電柱の上には細い柱上変圧器があります。車道は石敷ですが、平坦、滑らかで、センターラインは消え、しかしうっすらと残っています。つまり昭和30年に行った対面通行はやめ、昭和31年には坂を上る方向の一方通行に変えています。もっと遠くのセンターラインは実線が残っています。坂下の交差点の横断幕はおそらく「片側通行帯」で、神楽坂通りが一方通行であることを知らせる目的でしょう。この一方通行が逆転式に変わるのは昭和33年と思われます。
 右側の鈴蘭灯は歩道のど真ん中に立ち、左側の電柱は車道寄りの歩道に立っていました。縁石から約30cm内部に新しいコンクリートの列があり、この間の地下には下水が流れていたようです。
 ヒデ美容室と山本薬局の間の歩道には段があります。昔の神楽坂の階段のなごりかも知れません。
 地元の方はさらに説明します。

 太陽堂の横の路地に積み上げてあるのは「ばち」ですね。大東京祭は都民の日(10月1日)ごろの実施なので、ちょうど需要期でしょう。都の資料によれば大東京祭は昭和31(1956)年が第1回となっています。またオープンカーの頭上の横断幕を、この季節で大胆に予想すれば「紅葉祭」でしょう。
火鉢 暖房具の一種。灰を入れ、炭火すみびをついで手足をあぶり、室内を暖め、湯茶などを沸かした。

神楽坂3丁目(昭和32年)
  1. 看板「パーマネント」の「ネ」。マーサ美容室
  2. おそらく電柱看板「マッサージ 〇サージ院」
  3. 電柱看板「喫茶 七福」「菓子 七福」
  4. さわや
  5. 亀井鮨
  6. ルナ美容室
  7. 喫茶クラウン
  8. 電柱看板「旅館 川田」
  1. ビデ美容院
  2. 綜合 ビタミン剤 強力パンビタン  山本(薬局)。看板「抗生物質製剤 クロロマイセチン」
  3. 美術陶器 太陽堂 せともの
  4. BARBER 管理髪館
  5. ス〇 美術〇〇
  6. 時計。メガネ
  7. ✚クスリ
  8. 夏目写真館
  9. 電柱看板「石川歯科

三菱銀行神楽坂支店|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 地元の方が三菱銀行について送ってくれました。

三菱UFJ銀行神楽坂支店は神楽坂のランドマークのひとつで、関東大震災以前から商店街の中心にあります。前身は川崎銀行で、合併して川崎第百銀行、さらに戦時統合によって三菱銀行に吸収合併されました。

大正期の川崎銀行の写真は神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期にあります。煉瓦造りと思われる建物です。博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)にも写っていますが、すでに川崎第百銀行だったはずです。

この建物は、おそらく終戦前に石造りに建て替えられました。戦時中の空襲で焼け残った様子が写真【A】です。戦後しばらくは、内装をし直して再利用していたようです。

写真【A】

早乙女勝元『東京空襲写真集-アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録;決定版』東京大空襲・戦災資料センター。勉誠出版。2015年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 4871、4893、4899には、昭和30年(1955年)の神楽坂支店が写っています。円柱を模した飾りを前面に持つ立派な建物です。店内は天井が高く、2階建てだったと思われます。

全体のフォルム写真【B】を【A】と比べると、同じ建物であることがよく分かります。後ろの煙突は建物に付属していた焼却炉のようなものでしょう。また写真【C】の入り口上部のアーチ状の飾りが焦げ跡のように見えるのは、戦災のなごりかも知れません。

写真【B】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」4871 三菱銀行神楽坂支店

写真【C】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」4899 三菱銀行神楽坂支店

この写真から間もなく、三菱銀行は写真【C】の右側、隣接する蕎麦屋「春月」の土地を買い取りました。最初は駐車場として使い、それから支店を建て増ししました。

ちょっと分かりにくいのですが、1965年4月の写真【D】 (「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社)に写っている神楽坂支店です。【B】とほぼ同じですが、隣の春月はなくなっています。

写真【D】1960年代の東京 神楽坂5丁目(1965年4月)

1968年7月の写真【E】(田口政典氏。毘沙門天遠景。(05-02-32-1)は、一見すると【D】とよく似ています。しかし建物の外壁や屋上、窓の形状が違い、煙突も奥まって見えます。これが建て増し後の姿です。

写真【E】田口政典氏。毘沙門天遠景。1968-07-13(05-02-32-1)

とはいえ、戦前の建物では増築しても手狭で不便だったのでしょう。高度経済成長期に三菱銀行は建て直しを決断します。石造りの旧店舗は、周辺への通知と道路の通行止めをした上で爆破して取り壊しました。ちょっとしたイベントでした。現店舗は駐車場を地下にして建て直したものです。建て直し中、神楽坂支店は5丁目の仮店舗で営業していました。1970年3月の写真【F】 (「東京消えた街角」河出書房新社、1999年)に仮店舗が写っています。旧店舗跡には、現在の4階建ての店舗が建ちました。1972年9月の写真【G】(田口政典氏。毘沙門天遠景。(05-02-32-2)は、完成間もない頃の神楽坂支店です。

写真【F】「東京消えた街角」(河出書房新社)1970年3月

写真【G】田口政典氏。毘沙門天遠�景 1972-9-21(05-02-32-2)

その後、三菱銀行は東京銀行と合併、さらにUFJ銀行と合併して現在の三菱UFJ銀行になりました。神楽坂支店の建物も、すでに半世紀を経たことになります。

近年、大手銀行は支店網を縮小しています。三菱UFJ銀行も近隣の市ヶ谷支店、飯田橋支店、江戸川橋支店を相次いで撤退しました。しかし商店街を中心に優良な顧客を抱えている神楽坂支店は残す側になったそうで、複数の支店を同一店舗で束ねる「ブランチ・イン・ブランチ」方式で飯田橋支店と江戸川橋支店を兼ねる形になりました。今後もずっと、神楽坂のランドマークであってほしいものです。

ランドマーク 都市景観や田園風景において目印や象徴となる対象物。landmark
神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期 大正期の川崎銀行が載っています。神楽坂の今昔
博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年) 同じブログの下部では『大東京写真案内』の写真が載っています。大東京写真案内
5丁目の仮店舗 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(昭和46年)も仮店舗で営業するところをとらえています。
ブランチ・イン・ブランチ 合併した銀行などで、勘定系システム統合前に複数の支店を1か所の窓口にして行うもの
神楽坂のランドマーク 最近の写真は最後に

三菱銀行。2012/11/10

神楽坂3丁目と5丁目(写真)菊まつり 昭和30年 ID4871、ID 4893、ID 4894、ID 4899

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID4871、ID 4893、ID 4894、ID 4899は、昭和30年(1955年)「新宿区商店感謝祭新宿菊まつり花自動車パレード」を撮ったものです。まだこれ以上ものはおそらくあると思いますが、ID 4871とID 4894は「神楽坂田原屋前」、ID 4893とID 4899は「三菱銀行神楽坂支店前」と副題が付いています。
 坂下から坂上へのバスやトラックの「商店感謝祭」パレードでした。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭すずらんの花をかたどった鈴蘭灯でした。車道は平坦、滑らかで、実線で描いたセンターラインがあり、つまり対面通行でした。電柱の上には細い柱上変圧器があります。電柱は、家のすぐ前に立ち、歩道と車道は境石(コンクリートなどで作った石を埋め込んだもの)をはさんで同じ高さになっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4871 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 神楽坂 田原屋前

 車一台目は拡声器があるバスで上下に「新宿区商店感謝祭〇」。二台目はオート三輪。三台目は伊勢丹の飾りを乗せたトラック。四台目は花装飾の小型車。五台目のトラックも「新宿区商店感謝祭」。さらに後続車。左端にパレードを追い越している乗用車。
 看板には「田原屋」と「Bireley’s(バヤリース)」。電柱看板の「渡邊家畜病院」と「牛込家畜病院」、遠くに「三菱銀行」と6丁目にあった「鳥羽歯科」。建物は石垣のあるところが毘沙門天、その向こうが三菱銀行。

 地元の方の解説は

 最も印象的なのは三菱銀行の神楽坂支店です。石造りの立派な建物ですが、店内の天井が高く2階建てだったように記憶しています。
 その手前、毘沙門天は石積みの塀があり、戦災の焼け残りと思われます。写真集「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」の「早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)」では、石垣を除いた古い塀が撤去されています。
 電柱看板の「牛込家畜病院」は「山本〇」「袋町」と読めるので、後の山本犬猫病院と思われます。
鳥羽歯科 6丁目で協和銀行と反対側にありました。

1960年。住宅地図。

牛込家畜病院 袋町にありました。山本犬猫病院と同じ場所でした。

1964年。住宅地図。

山本犬猫病院 袋町で、以前は日本出版クラブの対面で、牛込家畜病院と同じ場所です。

1980年。住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4893 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 三菱銀行神楽坂支店前

 車一台目は拡声器のあるバスで、トレードマークが「マルブツストアー」で「気楽にお買物が出来る店」「新宿区商店感謝祭」。二台目は三輪トラックで「新宿区 菊まつり」「新宿大通商店会」。三台目はで三越、四台目はJOQRの「文化放送」。少し離れて拡声器があるバス。
 看板には「西條医〇」「太〇朝〇 売〇」、反対側に「川島歯科」。
 建物は「三菱銀行」、続いて地図によれば「サムライ堂」「宮坂金物屋」。車道を子供が三輪車で運転中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4894 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 神楽坂 田原屋前

 空中に横断幕「追越注意」と提灯の「和装まつり」。
 車一台目の右からバスで「新宿区商店感謝祭〇」「新宿区商店〇〇〇」「感謝祭」、二台目は「感謝祭」。三台目は「お買物は伊勢丹へ」「伊勢丹」「TAN」、四台目は「(感)謝祭」。
 看板は「田原屋」と壁面看板の「田」、電柱看板「牛込家畜病院」、「(掘)田の〇牛 〇〇指定店」、「洋服」「〇〇家具」、和菓子の「五十鈴」、パチンコの変種の「スマートボール リボン」、地蔵坂(藁店)がはいり、本屋の「武田芳進堂」、電柱看板の「川島歯科←」「加藤産(婦人科)」、スタンド看板の「あなたは右側を通って下さい」、店舗2軒、パチンコモナミ、電柱看板の「〇婦人科」、反対側でのぼりの「パイロット高級万年筆」。

 右端の電柱広告は見切れていますが「旅館・和可菜」でしょう。万年筆ののぼり旗は4丁目の福田屋文具店と思われます。福田屋は現在も店はありますが、長く営業していません。
「あなたは右側を通って下さい」の立て看板は、少し時代が違うID 23など複数の写真で見られます。「車は左、人は右」の交通啓蒙用としてある程度の期間、使われたと推測できます。
 藁店の角に「スマートボール リボン」が見えます。ここは昭和20年代には「ノーブル 西沢商店」でした。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では
「ノーブルさんのあとへすぐ鮒忠ですか?/そうですね」。
という話になっています。実際は鮒忠の前にスマートボールがあったわけです。
 和菓子の五十鈴の手前の「牛」「洋品」「家具」の看板は「堀田肉店」です。なぜ洋服や家具があるかと言えば、ここは戦前の「勧工場」のような共同市場形式の店だったからです。建物の中に通路をつくり、そこを区画して小さな店が入っていたそうです。オーナーが「堀田肉店」だったので、近所でもそう認識されていたのでしょう。「神楽坂フードセンター」という地図の記載もありますが、食品関係の店が多かったようです。1970年代にパチンコ店になりました。
(※注・私の母は毎日ここで、食材の買い物をしていたそうです)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4899 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 三菱銀行神楽坂支店前

 1本の横断歩道。
 車一台目の左からバスで「JOQR 文化放送」「新宿区商店感謝祭」。二台目のトラックはモールに隠れてのトレードマークと「新宿区」「(MITSUKOS)HI」「〇で金お〇」。三台目は「新宿大通商店会」「謝祭」「(ま)つり」、四台目は「」、五台目は「〇の国産腕時計 (シ)チズン」。
 看板は「鳥羽歯科」。建物は「三菱銀行」「東京都 おそば 春月」

 中央の「おそば 春月」の看板は、戦前から続く名店です。「東京都」とあるのは、おそらく「麺類外食券」が使える店を示したのでしょう。「かぐらむら。67号」の写真には戦後のものと思われる簡素な街灯と春月の看板が見えますが、かなり外観が違っています。その理由はよく分かりません。
 商店街の売り出しは中元・歳暮に相場が決まっていて、その合間にイベントを挟むのが一般的です。10-11月の菊祭りは、ちょうどそういう季節ですね。「花自動車パレード」って今は聞きませんが、この車列が音楽を鳴らしながらゆっくり進んだと思われます。だから乗用車や自転車が追い越しているのでしょう。
 戦後に発足した新宿区は、明治から「山の手銀座」と呼ばれていた神楽坂地区と、昭和に入ってから急成長した新宿地区の縁が遠かったと言われます。このイベントは両地区を含めて区の商業者の一体感を醸成しようと企画したのでしょう。
 ただ飾りつけは新宿地区が中心です。マルブツ(丸物)は関西の百貨店が戦後に東京進出したもので、現在の伊勢丹新館のところに店があったそうです。他地区の商店街では、新宿のイベントが出張ってきたように感じられたでしょう。神楽坂では別に「和装まつり」をしていて、パレードの見物人が寂しいのも、そうした空気を映したものかもしれません。

車列は全部で10台。
1台目 バス。
2台目 オート三輪。花飾り。
3台目 ダンプトラック。伊勢丹(新宿)の飾り。
4台目 小型の四輪車。花飾り。
5台目 ダンプトラック。シチズン時計(淀橋)の飾り。
6台目 バス。丸物百貨店(新宿)の飾り。
7台目 オート三輪。新宿大通商店会(新宿)の飾り。
8台目 ダンプトラック。三越(新宿)の飾り。
9台目 バス。文化放送(四谷)の飾り。
10台目 バス。
バスはいずれもオープンデッキがあり、イベントや選挙用のものです。

神楽坂3丁目(写真)店舗 昭和27年 ID 4792~94

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4792~4794は、昭和27年(1952年)に神楽坂3丁目などを撮ったものです。ほぼ同時期の写真としては、神楽坂2丁目のID 28、ID 29、ID 30神楽坂5丁目のID 24-27があります。
 ただID 30に見える「火の用心」の横幕がID 4792~4794にはありません。またメトロ映画の手前に建築中の建物があり、これは他の写真と照合すると1丁目の「志乃多寿し」と思われます。この場所はID 28とID 30では平屋です。わずかにID 4792~4794の方が新しいと写真と思われます。
 メトロ映画の開場は昭和27年(1952年)1月元日、パチンコマリーの開店は昭和28年(1953年)です。どちらもその間の撮影ですが、わずかにID 4792~4794の方が後(新しい)と思われます。
 まん丸の街灯は電笠もなく、1本につき一つだけで、簡素です。翌年の昭和28年には鈴蘭灯の時代が始まり、さらに昭和36(1961)年には巨大蛍光灯がでてきます。柱上変圧器もありますが、いかにもほっそりとして、電線も少ないようです。車道は普通で、Oリングはなく、地面に凸凹もありません。歩道板横3枚ぐらいの歩道は車道と高さがほとんど同じです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4792 神楽坂通り マスダヤ前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4793 神楽坂通り マスダヤ前

 ID 4793 では、中央の電気店(マツダの看板)の前あたりで歩道が車道側に大きく傾斜しているのが見て取れます。これは神楽坂通りの急坂を緩くするため、車道を削った戦前の工事のなごりです。こうした建物は、建て替え時に車道にあわせて路盤を掘り下げるようです。長い時間をかけて、坂をなだらかにしているのです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4794 神楽坂通り 助六前

神楽坂3丁目(昭和27年)
  1. こちらを見る男性の背後に4字
  2. 「クラボウ スキー毛糸 販売店」(菱屋
  3. 吊り広告「寿し」(万平)
  4. 電柱広告「キネフチ」
  5. ピアノ。広告「ピアノ。オルガン」(福島ピアノ)
  6. マツダ眞空管。〇〇電気工事。(竹谷電気工事)
  7. パーマネント(マーサ美容室)
  8. 神楽坂仲通り
  9. 電柱看板「旅館 碧運」
  10. 数軒おいて(凸型の建物)(ニューイトウ靴店)
  11. (建築中)(パチンコマリー)
  1. 山田屋洋傘
  2. MASUDAYA。マスダヤ独特の月末奉仕 大価價市 半額
  3. (せともの)(丸岡陶苑)
  4. 高橋商店(かばん)
  5. 🐘おもちゃ
  6. 土地と家屋➥
  7. パチ(ンコ)
  8. 路地(見番横丁
  9. 電柱広告「産婦人科 加藤医院」「久我犬猫病院」
  10. 空地(後の「レストラン花菱」)。「麻雀」「とんかつ」
  11. 印章 ゴム印 愛信堂 岡田印房 山桜名刺(戦前、愛信堂は上宮比町=現・神楽坂4丁目でした)
  12. 助六
  13. 龍公亭
  14. (建築中)
  15. パー(マ)(正面に「〇 Beauty Salon」。ビデパーマ)
  16. 薬局(消炎鎮痛薬「サロメチール」)(山本薬局)
  17. 神楽坂仲坂
  18. せともの。太陽堂。6字。
  19. 看板「みや」
  20. 電柱広告「質 買入 大久保」「床屋のサインポール(管理髪館)」
  21. 牛(豚)肉(ますだ肉店)
  22. 仁丹(薬局)
  23. 〔✇に似たマーク〕
  24. 看板〔温泉マーク〕玉

路地・小路・神楽坂

文学と神楽坂

村松友視

 村松友視氏がエッセイ集「風の町 夢あるき」(徳間書店、1984年、文庫版 1987年)のなかで「路地・小路・神楽坂」を書いています。
 氏は小説家で、中央公論社で「小説中央公論」「婦人公論」「海」などを編集、1980年「私、プロレスの味方です」で流行作家に。1982年「時代屋の女房」で第87回直木賞を受賞。生年は1940年4月10日。

〽あなたのリードで 島田もゆれる チークダンスの悩ましさ……子供のころ、神楽坂はん子が映画に出ているのをよく見た。あの当時、ばんじゅんの主演するハチャメチャ映画に芸者が出てくれば、久保幸江か神楽坂はん子が出てきたものだ。久保幸江の方は、トンコ節を歌ってニッコリ笑っているだけだったが、神楽坂はん子は何やら芝居めいたシーンもあり、色気の部分を受けもってウィンクなどをやっていた。ウィンクをすればお色気というのだから、まことに戦後的という感じだが、高島田で芸者姿のウィンクも捨てたもんじゃなかった、とまあ、言っておこう。
 神楽坂というくらいだから坂だろうと思ってやってくると、やはり神楽坂は坂だった……こんな感想を抱きながら、飯田橋からの坂道をのぼったのは今から二十年ほど前、私は大学の三年だった。
 京都から出て来た叔父が、よく神楽坂の旅館へ泊っていて、私はその叔父をたずねてはじめて神楽坂の坂をのぼった。叔父は東映京都のシナリオライター、仕事の打合せや執筆のため使っていたのが、その旅館だった。あのころ祖父と祖母をたてつづけに失った私に、叔父はいくらかの小遣いをくれたようにおぼえている。その小遣いが楽しみで、私は何度か神楽坂をのぼったのである。
 大学を出て出版社につとめた私は、文芸雑誌に配属されると同時に、野坂昭如さんの担当を買って出た。「買って出た」という言い方は、この業界ではピンとくるのだが、読者諸君にはにおちないかもしれない。ま、いろいろあるけれど、野坂昭如さんという作家は、原稿を入手するまでがなかなか大変だという通説があって、その通説は事実と符合していたということでございます。
 だが、「エロ事師」からはじまって「ほねとうげ死人ほとけかずら」にいたる野坂昭如さんの作品に、私などは完全にしびれていた。つまり、野坂昭如さんの担当を「買って出る」意味は、私の中には十分すぎるほどあったのだった。
 で、それから私の編集者時代を思うとき、ぜったいに抜くことのできない、野坂昭如さんという作家とのライブが始まった。私は、編集者と読者のあいだにある決定的なちがいは、作家とのライブの時間の有無にあると思っている。編集者が鋭い読者であるという見方は、私の場合は当っていなかった。すくなくとも鋭い読者は、それこそゴマンと存在したはずだ。だが、どんな鋭い読者にもないもの、それは編集者である私の、野坂昭如さんとの特権的なライブの時間なのだ。
〽あなたの 1952年「ゲイシャ・ワルツ」の歌詞。一番は「あなたのリードで島田もゆれる チークダンスのなやましさ みだれる裾もはずかしうれし ゲイシャ・ワルツは思い出ワルツ」
島田 島田髷。日本髪の代表的な髪形。
チークダンス 和製英語でcheek+dance。男女が互いにほおを寄せ合って踊るダンス。
伴淳 伴淳三郎。俳優。大衆演劇を転々とし、1927年日活に入社。1951年、驚きを表す〈アジャ・パー〉のせりふが大流行し、一躍人気コメディアンに。
久保幸江 くぼゆきえ。日本コロムビア社の新人歌手になり「トンコ節」が大ヒット曲に。
トンコ節 1949年1月に久保幸江と楠木繁夫のデュエットとして日本コロムビアから発売された曲。歌詞は「あなたのくれた 帯どめの 達磨の模様が チョイト気にかかる」
叔父 村松道平。父方のおじ。脚本家
野坂昭如 小説家。早稲田大学仏文科退学。童謡「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞作詞賞。小説は「エロ事師たち」直木賞受賞作の「火垂るの墓」「骨餓身峠死人葛」「真夜中のマリア」など。生年は昭和5年10月10日、没年は2015年12月9日。享年は満85歳。
エロ事師 エロ事師たち。性にまつわる人間たちの悲喜劇を描く。お上の目をかいくぐり、世の男どもにあらゆる享楽の手管を提供する、これすなわち「エロ事師」の生業なり――享楽と猥雑の真っ只中で、したたかに棲息する主人公・スブやん。他人を勃たせるのはお手のもの
骨餓身峠死人葛 九州の入海をながめる丘陵で最も峻嶮な峠「骨餓身」。昭和初期、その奥にある葛炭坑を舞台に繰り広げられる近親相姦の地獄絵、異常な美の世界。磨き上げられた濃密な文体で綴られる野坂文学の極致。
ライブ ラジオ・テレビなどの、録音・録画でない放送。生放送。生演奏。

 そんなライブの時間帯の断面に、神楽坂のという旅館が浮上してくる。締切がすぎて覚悟をきめると、野坂昭如さんは自ら神楽坂の旅館へこもって執筆をする。そこへ、担当編集者であった私も追いかけていって部屋を取って泊る……ま、張り込みですわな。
 神楽坂の中腹にある毘沙門びしゃもんさまを背に道の反対側をながめると、紳士服専門のテーラーと、婦人洋品店がならんでいる。その二軒のあいだに、これはもう路地というよりスキ間という趣きの通りみちがあり、そこを入ってゆく。向うからヒトがひとり来れば躯を斜めにしなければ行きちがえないほどの小路だが、いかにも神楽坂界隈かいわいといった風情だ。両側に黒板塀のある極端に細い小路……写真にでも撮れば、なまじちゃんとした路地なんかより神楽坂っぽいというあんばいだ。
 これを見て私は、三島由紀夫家のロココ調を思い出した。ミニチュア、盆栽的スケールの口ココ調なのに、写真に撮れば立派なロココ調という感じの三島家に、私は一度だけうかがってそんなことを感じていた。そう言えば、三島由紀夫さんは、野坂昭如さんの才能をもっとも認めていたヒトのひとりだっけ……そんな思いを胸に、極端にせまい小路をあるき、二、三度段々を降りるようにして進むと、右手に黒板塀のWがある。原稿は果して何枚……期待と不安をはかりにかけるようにして戸をあけるのが、つい一年ちょっと前までつづいた。
 81年の10月に出版社をやめた私は、何だか知らないけれどやたらに忙しい身の上となり、やめた直後に、“いかにしたらヒマをつくれるか”という方策を思案する始末だった。そしてまた一年たったが、やはりそのテーマは解決されず、同じテーマを二年目にもちこそうとしている。そんな矢先に、住んでいた古家の柱は腐りすきま風は吹き雨はもるといった状態を解決しようと、思い切って建て直すことにしてしまった。それはいいのだが、仕事のできる場所がなければ……思いあぐねた私は、またもや神楽坂へやってきた。
 この東京で、私が旅館のヒトと顔見知りなのはWしかない。で、頼み込んで二週間ほどとうりゅうすることになったが、野坂昭如さんをカンヅメにした旅館で、わりに平然と仕事をしている自分の性格にもどこか欠落があるなと感じつつ、やはり平然と原稿などを書いている。これはもう、持って生れた私の鈍感さ、図々しさであり、これがまた皆の衆の前で仕事をする立場には多少は便利だという、実にどうも困ったものでございます。
 ま、それはともかく、私は何度目かの神楽坂体験をしているわけだ。引っ越しまがいに荷物をもち込んだ私の部屋は、旅館のカンヅメの風景というより、逃亡中の犯人の仮の宿といったふうになっている。テレビを見るためにはかなり無理をして首を回さなければならず、座椅子に腰かけて切り炬燵ごたつに足をつつ込んでいる。目の前には小さなスタンドと原稿用紙、こうなれば仕事をするしかないという、まことに便利というか野暮な設定である。
紳士服専門のテーラーと、婦人洋品店「テーラー島田」と「あわや」です。

1984年。住宅地図。

ロココ調 バロックに続く時代の美術様式を指す。豪壮・華麗なバロックに対して、優美・繊細なロココという
盆栽的スケール 篠山紀信氏の「三島由紀夫の家」(美術出版社、2000年)では、庭園に小さな石像があり、内装の優美さと比べて、玄関も応接室も食堂も、家そのものが小さいのです。

篠山紀信「三島由紀夫の家」美術出版社、2000年

篠山紀信「三島由紀夫の家」美術出版社、2000年

切り炬燵 床に炉を切って、下に火入れを作った炬燵。

 ある朝、私は人声で目をさました。すると、「ヨーイ、スタート!」とか、「はい、カット!」とかいう言葉が聞え、私は窓を開けようかとも思ったが、面倒くさくなってやめていた。朝めしのとき旅館のヒトに聞くと、「何か、山本陽子さんが門から出てくるところを撮りたいって言うんで……」私は、旅館のヒトの言葉と朝めしのぜんを置きざりにして窓をあけ、写真に撮れば極め付という小路を上からながめたが、当然、あとのまつりだった。
 深呼吸をして座椅子へもどり、朝めしにとりかかろうとして、私はハシを宙に浮かせたままになった。さっき窓をあけて上からながめた小路のたたずまいを、私はずっと以前にも見たことがあるような気がしたからだった。
「あの、東映でシナリオ書いてたムラマツという者をごぞんじですか……」
 私の向けた言葉に、旅館のヒトはおどろいてしばらく口を手でおさえていた。私が学生時代に小遣いを楽しみにやってきた旅館は、このWだったのだ。あらためて窓をあけた私は、写真に撮れば極め付の神楽坂の小路を、ながいこと見おろしていた。ときどき、目の下を急ぎ足のヒトが行き来する。そんな師走らしい光景は、写真に撮らなくても極め付だった。

山本陽子

山本陽子 女優。1942年生まれ、東京都出身。日活ニューフェイスとして芸能界へ。清楚な顔立ちと高い演技力で、清純な女性から悪女までを幅広く演じ女優としての地位を確立。

私説東京繁盛記(写真)

文学と神楽坂

 小林信彦氏と荒木経惟氏の「私説東京繁盛記」(筑摩書房、2002年)は「新版私説東京繁盛記」(筑摩書房、1992年)の文庫版です。この中で神楽坂の写真が5枚撮っています。

 神楽坂にあるという「パーマ 那美の店」は実際どこにあるのか、まったくわかりません。ただし、本来の神楽坂ではないと思っています。

神楽坂の裏手(1983年)私説東京繁盛記

 ここは神楽小路が軽子坂に出る出口です。看板などは「シ□マサロンくらら」「3時間で全部を御覧になれます」「上映中」「変態レイプ大全 3本立 女高生集団レイプ 人妻変態レイプ 少女密室レイプ」

神楽坂の路地(1983年)私説東京繁盛記

 これは赤城下町の山中商店でしょう。

神楽坂の裏通り(1983年)私説東京繁盛記

 津久戸町の神楽坂浴場はなくなりました。再開発されて「神楽坂AKビル」が建ったのは1995年9月。右手には「世界人類の平和でありますように」と書いています。

神楽坂の公衆浴場(1983年)私説東京繁盛記

 はじめて本来の神楽坂にでました。左からで、すこし顔が出ている菱屋、真ん中の酒場の万平、右のコーヒーのジョンブルです。万平もジョンブルもなくなりましたが、しかし、明治以来の菱屋はなくなっていません。Oリングは万平に接する道路の下にありますが、菱屋の下にはありません。右手の丸い道路標識はおそらく「駐停車禁止」ではないかと思います。万平の看板などは「小座敷 すきやき おでん 茶めし」「酒場」。ジョンブルの2階は「ジョンブル」、1階は「コーヒー豆・コーヒー器具 」「お食事のできるコ」「珈琲豆 John Bull UCCコーヒー」「ピザ」「コーヒー豆」「週末 の」「珈琲 ンブル」「珈琲専門店」「(2行)コーヒー」「珈琲豆」

神楽坂(1983年)私説東京繁盛記

昔の日本がやりたかった

文学と神楽坂

 マーガレット・プライス(Margaret Elizabeth Price)氏の「セクシーな日本」(NECクリエイティブ、2000年)です。氏は1956年、オーストラリア・メルボルン市に生まれ。1982年、毎口新聞社に「Mainichi Daily News」のスタッフライターとして働き、当時はNHK「バイリンガルニュース」や編集企画の方面で活躍。現在はオーストラリア・クイーンズランド州スプリングブルックに住んでいます。茶道歴は30年。

 水気のないオーストラリアから、
「水の国ニッポン」
 に来たというのに、ずうっと水についていなかった。
 住むアパート、住む家、どこも水圧が弱くて、シャワーをジャージャー浴びたことがないのです。それなのに雨の時は、必ず靴に穴が開いて、足がびしょびしょになる。大好きな東京の神楽坂の2LDKから出るはめになったのも水のせいでした。
 日本にきた当初は、東京の青山の下宿に住んでいましたが、友達の紹介で音羽のマンションに移り、八年後地上げで追い出され、神楽坂に落ち着いたんです。ところが、四年くらい経ったある梅雨の日の朝、目覚めたら枕元でぽつんぽつんと雨の音。頭をまわしてみたら、天井から大粒の水がベッドに滴り落ちている。雨漏りだ。
 大家さんには直接連絡がとれないので、不動産屋さんに連絡をしたけれど、なにも返事がないというのです。雨漏りはひどくなる一方でした。ベッドを動かしても、畳は濡れる。壁にカビがはえる。拭きとっても拭きとってもカビは戻ってくる。ある日、ベッドの後ろを見たら、畳から茸までひょろひょろ生えちゃっていた。
 私の肺にまでカビが生えたらしく、咳がとまらない。大家さんがいるはずの住所に手紙を送っても連絡がない。そこで、家賃をストップしたら、深夜やくざっぽい人が電話をかけてきて、
「家賃を払え」
 とすごみました。
「でも、雨漏りがひどい」
 といったらカシャン。
 そんなところへ、大塚の江戸料理「なべ家」の女将、福田敏子さんから、
「古い家だけど、空き家になったから、住んでみない」
 と連絡がありました。
 ここに住んでいたお舅さんが亡くなったんです。敏子さんは「さくら会」という外国人にお茶を紹介するグループを作っていて、私か日本でお茶の稽古を再開するきっかけとなった先生を紹介してくれた人です。
 ご主人のさんが江戸料理を再現している料理の名人で、江戸時代の面白いものを集めていることでも有名ですが、
「福田浩は収集癖が高じて家までコレクションしてしまった」
 という語り草にまでになっているその家は、もとは芸者さんも入っていた待合で、東京オリンピックのあとの第一次バブル期に木を贅沢に使って建てたものです。天井の模様は全部違っていて、床柱や縁側の柱に珍しい木を使っていますし、庭には大変な石が置いてあります。
「一戸建ての日本家屋」
 に住むのが夢だった私は、
「わあ、こんなところに住めるの!」
 雨漏りの災難も忘れて絶叫していました。初めて畳の上に布団を敷いて寝ました。

と、神楽坂のアパートは4年で終わりました。

なべ家 現在閉店。
さくら会 おそらく休止中
福田浩 料理家。大塚「なべ家」主人。1935年東京都生れ。早稲田大学文学部卒業。家業のかたわら古い料理書の研究や江戸時代料理の再現に力を注ぐ。著書に『完本 大江戸料理帖』(新潮社とんぼの本)、共著に『江戸料理百選』(2001年社)、『料理いろは庖丁』(柴田書店)、『豆腐百珍』(新潮社とんぼの本)など。
待合 待ち合わせや会合のために席を貸すことを業とした茶屋。明治以降は、主として客と芸者に席を貸して遊興させる所。待合。