赤井|神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 新宿区史編集委員会『新修新宿区史』(昭和42年)で、明治40年代の神楽坂入口にあった「赤井」です。写真の看板は「赤井」、それから大きな「⩕」の下に「三」でした。

赤井

東京都新宿区役所「新修 新宿区史」(新修 新宿区史編集委員会、昭和42年)明治40年代の神楽坂入口付近

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年)では「ずんぐりした足袋の形をした白地の看板には黒い文字で山形の下に赤井と記されていた」といっています。「⩕」を山形と書いたわけです。

 大正時代の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」にはここです。

「牛込区史」(昭和5年、牛込区役所。復刻版、昭和60年、東京都旧区史叢刊、臨川書店)では、「昭和初期の神楽坂」として、向かって右側が赤井です。やはり赤井の「ずんぐりした足袋の形をした白地の看板」が見えます。左側は寿徳庵です。

神楽坂昭和初期

「牛込区史」(昭和5年、牛込区役所)「復刻版」(昭和60年、東京都旧区史叢刊、臨川書店)

 新宿区の「ガレキの中から、30年のいま…… 写真集 新宿区30年のあゆみ」(昭和53年)で、この「現在」では「Akai」になっています。また左側はパチンコ店「ニューパリ―」です。

ガレキの中から、30年のいま

新宿区「ガレキの中から、30年のいま…… 写真集 新宿区30年のあゆみ」(新宿区、昭和53年)

 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」では

足袋屋
 その頃の足袋屋ってものは夏冬なしに忙がしかったものです。夏一生懸命作っておいたものを冬には全部さばききってしまいます。夏からやっておりませんと間に合わないのでございます。何しろ昔はミシンてものがありませんので皆手縫いでございますから夏からやっておりませんと時間的にも労力的にも間に合いません。そこで足袋の甲つくりなんか、全部下職に出しました。今でいうなら家庭内職とでも申しましょうか。出来上った品物は店でさばいておりましたが縁日だからといって特に売上げが多いということはありませんでした。私ども(赤井足袋店)などはむしろ縁日には植木屋にはびこられてしまいますので店商い(みせあきない)の方はさっぱりでした。ほかのところでもそうなんでしょうが町がにぎわうので皆さんが喜んでいました。考えてみるとやっぱりおおらかとてもいうんでしょうね。
 手前ともにおいで下さるお客様は、お屋敷の方が多うございました。それに数をお買い下さる方の所へは、こちらから寸法をとりにうかがったり納めに参ります。ですから親爺のお供で随分いろいろなお屋敷に伺っております。
お屋敷回り
 お屋敷回りのきらいなことのひとつに犬に追いかけられることがありました。徳川様のまん前のお宅にきらいな犬のいるお得意がありました。誰が参りましても必らず追かけられるんです。とうにも仕方ありませんのでそのお宅に伺う前には電話をかけまして「今日は何時頃伺いますので恐れ入りますが犬をつないでおく様お願い申しあげます」なんてたのんでから出かけるようにしていました。
 早稲田の大隅さんの犬はまるでライオンみたいでした。然もそれが2匹もおりまして,はなしがいですから恐ろしうございました。でもこの犬はちっとも吠えませんで黙ってついて来まして私共がお宅の方にご挨拶をすると,すうっと帰ってしまうんです。実によく飼いならしたものでした。

 1980年には赤井商店になり、1985年にはメンズショップアカイ、1995年まではアカイですが、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では1996年には別の商店「カフェベーカリー ル・レーブ」になりましたが、経営者は同じ赤井氏でした。ル・レーブ(Le Reve)はフランス語で「夢」です。下図は2006年の「ル・レーブ」です。

 現在は不動産仲介業のアパマンショップで、左はスターバックスコーヒーです。なお、アパマンショップ(旧赤井商店)もスターバックスコーヒー(旧寿徳庵)も拡幅計画のため将来は取り壊されて外堀通りの一部になります。

アパマン


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