神楽坂6丁目」カテゴリーアーカイブ

神楽坂6丁目(写真)昭和35年頃 ID 51

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 51は、神楽坂6丁目を撮ったものです。撮影の方向は、神楽坂上交差点から北西向き、街灯は昭和36年位まで続いた鈴蘭灯でした。歩道はほとんど車道と同じ高さで、車は対面通行を行っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 51 6丁目田中屋前付近

「このID:51の面白みは、なんといっても街灯です。向かって左、『大久保通りを越えた神楽坂5丁目』は1-4丁目と同じスズラン灯。向かって右の6丁目は、似ているけれど別の街灯。商店会が別で、仲悪かったんですよ。今は、こういうことはなくなりました」と地元の方。

2種類のスズラン灯。左の5丁目のスズラン灯と右の6丁目では違う。

昭和37年 東京都全住宅案内図帳。左(下)は神楽坂5丁目、右(上)は神楽坂6丁目

神楽坂5丁目と6丁目
  1. こちらは神楽坂5丁目
  2. 電柱看板「川畑歯科」。川畑歯科は朝日坂で、飯塚酒店の向かい側。地図上の7に当たる(新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会『よこてらまち』2000年。p85)
  3. 看板「トケイメガネユビワ アメリカ時計学会 〇ヨウ」。タイヨウ時計店(以前は太陽堂)
  1. こちらは神楽坂6丁目
  2. 電柱看板「洋装店 ナカノ」。現在は3丁目のナカノビル
  3. 御菓子 田中屋
  4. 「マツダリンクストア」「東芝テレビ」「ナショナルショップ」。篠原電材店。1939年、マツダと東芝とは「東京芝浦電機」に
  5. 平屋の茶舗「明治園」
  6. マージャン「平和荘」
  7. 看板「調髪百円ミツオキ」理髪店
  8. 喫茶の東洋文化会館。看板「XMAS」
  9. 浦沢靴店

大阪の箱ずしが全国区にならなかった理由

文学と神楽坂

大阪の箱ずしが全国区にならなかった理由『別冊サライ』鮨特集で、石毛直道氏が書いた「大阪の箱ずしが全国区にならなかった理由」(小学館、1998年)です。なお、『別冊サライ』の氏の説明は
「いしげ・なおみち。昭和12年千葉県生まれ。高校時代までは関東で過ごすも、京都大学進学以降は関西で暮らす。甲南大学助教授を経て国立民族学博物館の創設とともに移り現在は館長。著書に『魚醤とナレズシの研究』『文化麺類学ことはじめ』などがあり、食文化に関する研究が長く「鉄の胃袋」とあだ名される」

――大阪の箱ずしは、なぜ握りずしのように全国に広まらなかったのか解明していただきたいのです。
石毛 う~ん、難題ですね(笑)。(中略)

箱ずしは二寸六分の懐石料理
石毛 酢飯を使ったすしは大阪にも伝わります。そして早くから商売として発展していく。これが箱ずしです。
 江戸はどうかと言うと18世紀の後半に「最近は江戸では箱ずしが廃れた」と書かれている文献がある。江戸で握りずしが生まれるのが19世紀の初頭です。つまり握りずし以前は江戸でも箱ずしで商売する人がいたわけです。

――しかし大坂には箱ずしが残って江戸には握りが広まる。これはどうしてでしょう。
石毛 握りずしも箱ずしも、外食産業として誕生の年代はそんなに大差はないかも知れませんが、店が相手にした客となるとまったく違います。大坂は当時は商業の町で豪商などもいて、すし屋はお金持ちも顧客にした。ところが江戸の町にいたのは大半は庶民で、その庶民を相手にすしの屋台ができた。
 つまり、外食産業が成り立つ基礎が大坂と江戸では全然違うんです。大坂で箱ずしは持ち帰り用の常店で売られ、多少高くても売れました。箱ずしは「二寸六分の懐石料理」だと称した人がいるほど美しく洗練されていった。確かに海老の赤と卵の黄色を重ね合わせた姿は大変きれいです。また大坂には北前船によって北海道の物産がもたらされ、それを料理に使い出す。典型は昆布です。昆布からとっただしを酢飯にからめるという手の込んだ芸当も箱ずしには加わっていきました。
 ところが江戸前の握りは言ってみればインスタント食品です。江戸ではこうした手軽なすしの方が受けた。なぜなら、その頃の江戸は参勤交代で諸国から江戸勤めになった下級武士はもとより、職人の丁稚、商人の番頭、丁稚などの多くは地方出身者で、ほとんどが独身でした。こうした人が女房も母親もいないので仕方なく食べるものとして高級料亭以外の江戸の外食産業は成り立っていきました。
 握りずしが出てくる時代の江戸の人口比率を見ると、男女のバランスが悪いんです。女性に比べ男性が圧倒的に多い。そのため江戸では飲食店が大発展します。おそらく飲食店の数では当時、世界一だったでしょう。それでも飲食店を支えていたのは収入の低い大衆でしたから、店に座ればすぐに食べられて安いものの方が江戸では主流になりました。
二寸六分 約10cmでした。

箱ずしは明治になると一挙に衰退
――食文化の違いは捕れる食材の違いや味そのものに対する好みもさることながら、庶民の懐具合と大いに関係してくるわけですね。
石毛 ええ、そうです。これは箱ずしと握りずしの違いにも表れていますが、関西の食文化は概して料理人がいかに手間を掛けたかという料理の技術を重んじますね。
 反対に東京はネタのよさで勝負。よけいな手を加えたらいけない。悪く言えばネタに全部頼る。こうした食文化の違いも、それを支えた庶民の懐具合が大いに影響しています。
 すしの違いでさらに言うなら、大阪の箱ずしにしろ、京都の鯖ずしにしろ、滋賀県の鮒ずしにしろ、すしは大概は祭りなどの行事と結びついています。京都の鯖ずしなどは、祭りの際に家庭で作って親類知人に配りました。かつてのすしはこのように日常の食べ物ではなくハレの日の料理だったわけです。
晴れの日 多くの人から祝福される儀式などを行う日。人生の記念すべき日。ハレとは日常的な普通の生活や状況を指すケ(褻)に対して,あらたまった特別な状態,公的なあるいはめでたい状況を指す言葉。

箱ずし

ところが握りずしは行事には結びつかず、保存もきかない。そんなこととは関係なく握りはスナック食品として発展していきました。世界のすしの中では例外的なものだと言えるでしょう。
――その土地固有の行事から離れたことで、逆に全国に広まりやすかったのでしょうか。
石毛 それもあると思います。しかし、握りずしがどうして全国区になったのか、大阪の箱ずしはどうして全国に広まらなかったのかを考えた時、そこには東京重視の政府の政策がからんできますね。飲食店の数が握りずしの方が群を抜いていたところに、明治になって江戸が東京に変わり日本の首府になった。これが決定打です。明治になると新政府は政治の中心である東京の文化を「国民文化」にしようとします。言葉も東京の方言が標準語と呼ばれて、あたかも標準語以外は日本語にあらずのような扱われ方をします。日本人の間に根強く残る単一民族思想なども同じですが、国威を発揚し富国強兵を目指していくために国民文化は意図的に作られたものです。

スナック食品 手軽に早く食べられる食事のことをスナックといい,この目的に合った食品をスナック食品と呼ぶ。

 また第二次大戦前後になると政府は食糧統制を敷き、外食産業での白米の売買を禁止し、それによって飲食店が全体に廃れます。そんな敗戦直後に疲弊しがちな庶民に対してお目こぽしのような政策を施す。白米一合を持ってと、なにがしかの加工賃で巻き五本と握り五個を作ってくれるという、いわゆる委託加工制度です。この政策にしたってすしといえば握り、という東京の文化を中心にしたものです。結局この制度は飲食店の衰退の時世にあって握りずしだけを衰退させずに残していきました。(中略)
 本物の箱ずしは、握りずしと違ってぽんぽん食べられません。断面を見た時にご飯の真ん中に一層あって、そこには椎茸の煮たものだとか、かんぴょうの煮たものだとかを挟んであります。そのうえご飯が圧縮されていますから、箱ずしは少し食べただけでお腹が一杯になってしまう。懐石料理の中に二切れぐらい入っていると量もちょうどいいですし、表面の彩りも断面もなかなかきれいなものです。それから握りずしは醤油を付けないと食べられませんが、箱ずしは醤油がなくても食べられる。もともと発展の仕方がまったく違いますからね。

大阪寿司は絶滅品種?|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏は2005年から2007年までに産経新聞に「お江戸単身ぐらし」を連載し、それをまとめて、2008年『女50歳からの東京ぐらし』(産経新聞出版)を上梓しました。中でも大阪寿司の専門店『大〆おおじめ』については2題を2005年秋に書き、これは第2部です。大〆は神楽坂6丁目8番にあった店舗ですが、2017年、閉店しました。

やっぱり絶滅品種?
「絶滅寸前・東京の大阪寿司ずし」に何通ものお便りをいただいた。
 まずは、「大阪寿司ってなんですか」という東京育ちのKさん。「江戸前でいうところのちらしのことですか? 押し寿司といえば笹寿司しか知りません」。そうですか。それほど東京では知られていないですか。とため息をつきつつ説明しようとしたがこれがなかなか難しい。広辞苑ではあっさり「関西風の押し寿司・巻き寿司の総称」とあるだけ。ブリタニカではもう少し詳しく「江戸前の握りに対し、大阪特有の押し寿司、巻き寿司をいう。箱寿司サバ寿司・蒸寿司などがあり、ネタにはサバ、小ダイ、コハダなどを使う」とあり、これが現実認識に近いでしょうか。
「神楽坂の大〆おおじめさん。懐かしい名前です」と書いて来られたのは滋賀県栗東市にすむ中西予芝子さん(46)。結婚前は東京住まいで祖母のお気に入りの店だった思い出の地。「まだ健在と知りうれしい。今度は主人と一緒に」。ええ、ええ、ぜひとも。1940年代に東京・牛込で少女時代をすごしたという大田区の読者からは「昔は蒸寿司を注文できる店がたくさんありましたね。専門店があったとは知りませんでした」と。
 東京の大阪寿司がどのような変遷をたどってきたか、もっと知りたいと書いてこられたのは浅草の男性。これについては寿司の業界団体でもはっきりせず、この種の資料豊富な「食の文化ライブラリー」を訪ねてみた。司書の方に『すし技術教科書』(旭屋出版)の「江戸前ずし編」「関西ずし編」という大著を見せられた。それらによれば、かつて江戸でも押し寿司が主流だったが、江戸末期に握り寿司が登場し、明治から大正にかけて関西では箱寿司、関東では握りと分かれて、けんを競うようになった。東京では明治33年に大阪寿司と命名して売り出したがあり人気を集めたが、結局、握りには対抗できなかった。
 同ライブラリーで「なぜ箱寿司は全国区にならなかったか」という難問に食文化研究家の石毛直道さんが答えている一文を見つけた(平成10年『別冊サライ・鮨(すし)特集』)。それには「東京が日本の首都になったからだ」とある。
 えーつ、じやあやっぱり絶滅品種?
ちらし すし飯の上に各種の具を飾ったもの。
笹寿司 笹の葉の上に、酢飯と味付けした山菜や卵焼、紅ショウガ、鮭のそぼろなどの具をのせたもの。
巻き寿司 海苔や厚焼き卵の上に寿司飯をのせ、寿司種を芯にして巻いた寿司。
箱寿司 方形の枠の中に寿司飯を詰め、その上に魚などの種をのせ、ふたの上から重しをして作る寿司。
サバ寿司 サバの肉を上にのせた押しずし。
食の文化ライブラリー 公益財団法人味の素食の文化センターの食分野に特化した専門図書館。場所は都営地下鉄の浅草線高輪台駅から徒歩4分。
すし技術教科書 全国すし商環境衛生同業組合連合会監修、荒木信次編著者。旭屋出版。昭和53年。写真も綺麗。姸を競う けんをきそう。女性たちが美しさを競い合う。「姸」とはみがきのかかった容色のうつくしさ。
 「元祖大阪寿司 ぎんざ日乃出」ですが、日乃出ビルを建てて、閉店。場所は中央区銀座5-13-19。
別冊サライ・鮨特集 岩本敏。小学館。1998年。
東京が日本の首都になったからだ どこにもそんな文章はありません。似た文章はありますが。つまり、実際にはもっと高尚なのです。後は「別冊サライ・鮨特集」で。

神楽坂の大阪寿司|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏は2005年から2007年までに産経新聞に「お江戸単身ぐらし」を連載し、それをまとめて、2008年『女50歳からの東京ぐらし』(産経新聞出版)を上梓しました。中でも大阪寿司の専門店『大〆おおじめ』については2題を2005年秋に書いています。これは第1部です。大〆は神楽坂6丁目8番にあった店舗ですが、2017年、閉店しました。
 イタリアらしい店舗も箱ずしも普通だし、価格はちょっと高いと思っていても、その裏にある大阪寿司をもっと知っていればよかったのにと思っています。
 石毛直道氏は「大阪の箱ずしが全国区にならなかった理由」を書いています。どうか読んでください。今では大阪寿司をちょっとよく知り、まあちょっと食べています。 

神楽坂の大阪寿司
 フレンチレストランで大阪寿司ずし店のご亭主に出会った。知人を介しての小さな集まりで、しやれたシャツを着てご夫婦で参加していたので、寿司職人といわれて驚いた。「大阪寿司なんて、絶滅品種ですから。おやあなた、大阪の人? 大阪の人だってあまり食べないでしょう」。確かに大阪時代、代表的老舗「吉野寿司」の本店に足を運んだことはなかったが、百貨店で何度か買い求めたことはある。でも、絶滅品種などと言い切られては 気になる。早速、店にお邪魔して二度びっくり。店構えはまるでイタリアンレストランだ。
 神楽坂のメーンストリートを一本路地に入ったところ。南仏風の洋館に、小さく「大阪寿司・大〆おおじめ創業明治43年」とある。重い木のドアを開けると革張りの椅子いすにテーブル。出窓には伊万里焼の器が飾られ、壁一面にイタリアの風景画。ご亭主、加藤堅二郎さん(59)の作品だ。「イタリアが好きでしてね。新婚旅行もイタリア。30年ほど前に家屋を改築するとき思い切っていまの形にしました。うちは女性客も多いですから」
 看板にあるように、創業は古い。初代は関西で修業し、宮内省(当時)の寿司部門の主任も務めた。当時、東京でも結構大阪寿司が流行していて、大阪寿司店も多かった。しかし、戦後は江戸前握り全盛。「だから、二代目のおやじで店も終わりだと私も広告代理店に勤めたのですが、おやじが病気で倒れ、私が後を継ぐことに」
「絶滅品種」と公言するのは、大阪寿司は手間がかかること。調理場に一定の広さがいること。さらに世の中が握り一辺倒となれば弟子も独立のメドが立たず、常に人手不足に悩みつつの営業だという。
「まあ、食べてみてください」。押し寿司蒸し寿司のセットをいただく。タイやエビをきれいに飾ったおなじみの大阪寿司。加藤さんのこだわりで夏場はアナゴでなくタイをつかう。錦糸卵をたっぷり乗せて蒸したおわんにも、タイの身がたっぷり入っていて、幸せ。
 加藤さんは大阪寿司のうまさを「なれた味」と表現する。「熟成した味、大人の味わいですかね。なまのおいしさもわかるけど、そればっかりじゃあ」。確かに。絶滅させるには惜しい味。それに大阪が絶滅するようで悔しいじゃないですか。
大阪寿司 大阪の押し寿司。関西寿司とも。具材を酢飯と共に型に入れて押し固めた寿司
吉野寿司 吉野鯗。大阪市中央区淡路町にある寿司屋。箱寿司、棒寿司、蒸し寿司、穴子蒸し寿司などが有名。
伊万里焼 佐賀県有田町を中心とした肥前国(佐賀県と長崎県)の磁器。
江戸前 江戸の近海。特に、芝・品川付近の海。江戸湾(東京湾)でとれる新鮮な魚類。江戸や東京風の料理
握り 握り寿司。酢飯を一口大に握り、魚介類や厚焼き卵などの寿司種をのせた寿司。
押し寿司 木枠に酢飯と具材を詰めて押し固めた寿司
蒸し寿司 ぬくずし。ちらし寿司を丼等に入れて蒸し上げた冬限定の寿司。
錦糸卵 薄焼き卵を細く切ったもののこと。

成金横丁と大〆

文学と神楽坂

 加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)です。大正6年(1917年)4月、通寺町(現、神楽坂6丁目)に内海清吉氏が大阪寿司「大〆おおじめ」を開店して、彼が1代目。子供の八重子氏は父の弟子、加藤春寿氏と結婚し、加藤氏が2代目。3代目は八重子氏の次男、謙二郎氏です。平成29年(2017年)7月、1世紀後に大〆は閉店、ただし大家は当然に続けるようです。

成金横丁と大〆

アサヒグラフ。朝日新聞社。昭和63年6月。

 さて、此の神楽坂通りを越して早稲田通りへ向かい、二本目を右へ曲ると「大〆」の店のある『成金横丁』となる。成金横丁の謂われとは、聞くところに依ると、余りに逼塞した連中が成金にあやかるように景気のよい名を付けたとか、真偽の程は定かでないが…。
 大〆の開店当時の成金横丁は数軒の店屋の他はしもたや、、、、が多かった。
 大〆の店に向って左から写真館、次が綿(ふとん)屋、印刷屋、その先の曲がり角が自転車屋、それから先は白銀町の坂道となる。(この坂が「瓢箪坂」と云う事を最近立てられた標で知った)――
 反対側は、関東大震災の時に避難した、現在の白銀公園を角にして、端から大弓場撞球場、俥屋(人力車の溜り場)と、今では滅多に見られない商売屋が並んでいた。
 店に向って右側には八百屋、煙草屋、それに向かい合って酒屋、クリーニング屋等とごく平凡な店屋が続いて神楽坂通りへと出る。
 これらの店屋は戦争後はどうなったか、成金横丁へは戻って来なかったようである。その後はいったい何処へ行った事であろうか。
 震災後代替りした隣の写真館の御主入は、慶応義塾出身の人望のある方で、戦争中は町会長として活躍され、この成金横丁のためにも尽された。この家の人達とは家族ぐるみのお付き合いで、殊に姉妹のように仲よくしていたお嬢さんの啓子さんとは今も時折来店されると、その頃の思い出話が尽きない。
 成金横丁は向こう三軒両隣ばかりではなく、横丁全体がまるで一軒の家のように親密に付き合っていた。戦時中はお互いに仲よく助け合って防空訓練に励んだ事など懐かしく思い出される。
 遡って、大正時代の事であるが、両親が云い争っている声を夜更けの静けさの中で聞きつけて、隣の屋根伝いに物干から仲裁に来てくれた話、又、自転車屋の御主入が二号さんを囲った時、近所の主婦達が本妻擁護に立ち上り、遂にはその御主人が円満に家庭に戻った話等、思い出しても微笑ましい。
 春秋のお彼岸はもとより、普段でも何かとこしらえては配り、到来物があればお福分けしたり、近頃では無理な風習ではあろうが当時の細やかな人情は懐かしい。
 関東大震災の後など、しばらくの間、毎年九月一日には「大〆」でおにぎりの炊出しをして、近所の主婦や娘さん達が大童茶飯のおむすびを配ったりしたものだった。
 戦後は町名も神楽坂六丁目と変ったが、通寺町の頃のような親しみが涌かない。通寺町こそ、この成金横丁に適わしい町名と思うのだが……
 成金横丁は成金通りと格上げしたが、人々の口にも上らないこの頃である。

神楽坂通り 戦前の神楽坂通りという名称は現在の「神楽坂下」の交差点から「神楽坂上」の交差点の間、つまり「神楽坂1~3丁目、上宮比町(現在の4丁目)、肴町(現在の5丁目)」が本当の神楽坂通りで、通寺町(現在の6丁目)は神楽坂通りではなく、普通は早稲田通り(矢来下通り、通寺町通りなど)だと考えていました。
逼塞 ひっそく。江戸時代に武士や僧侶に科せられた刑罰。門を閉ざし、昼間の出入りを許さないもの。落ちぶれて世間から隠れ、ひっそり暮らすこと。
名を付けた これは1説。もう1説は「以前この通りにあった駄菓子屋『成金』からと云われています。廃業したのは戦後」から。しかし、もし加藤八重子氏がいれば、この説明はわからないと答えるでしょう。もう1説のほうは、どうも間違いではないかと考えています。
しもたや 仕舞屋。商売をしていない家。
大〆の店に向って左から 大〆の東側から。
弓場 ゆば。ゆみば。弓の練習をする所
撞球 どうきゅう。ビリヤード。玉突き。
俥屋 車宿。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
酒屋 地図の「スタンド」は「カウンターで飲食させる店」。そこで酒屋はスタンドになると考えています。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。大弓場から俥屋まではあくまでも想像図。正確な地図は不明。

到来物 いただき物。他から贈ってきたもの。
お福分け おふくわけ。祝いの品や人からもらったものを他の人に分けること
大童 おおわらわ。一生懸命に。夢中になって。
茶飯 茶を入れて炊いた飯。
通寺町 神楽坂六丁目と同じ。終戦後の昭和26年に改名は変更。

大〆|神楽坂6丁目[昔]

文学と神楽坂

 成金横丁の大〆おおじめは明治43年(1910年)創業の大阪寿司の老舗でした。押し寿司と蒸し寿司のセットなどが有名でしたが、平成29年(2017年)7月に閉店。代わって蕎麦の「かね田 宝庵」が開店しました。

大〆 食べログから

大〆 食べログから


 昭和59年(1984年)「東京みてあるき地図」(昭文社)では

その先の神楽坂六丁目八の大〆は宮内庁御用の由緒ある店で、凝った大阪寿司を出す。洋風の落着いた店構えでクラシック音楽が流れてくるという異色篇。

 倉持公一の「宮内庁御用達カタログ」(東京人。160号。2000年)では

 このお店のことは、三十年ほど前に知った。亡くなった三宅艶子さんに教えていただいたのである。三宅さんのお宅は、「大〆おおじめ」のある神楽坂のすぐそばにあった。
 大阪鮨の店だが、蒸し鮨があるのが珍しかったし、「宮内庁御用達」というのも気になって、通い始めた。
 そのころはまだ今のようにそこで食べられる大きな店ではなかったが、白木の、いかにも頑固な鮨職人が守っているという感じの店だった。いまは三代目当主の趣味なのか、レストラン風の大きな店になっている。
 宮内省の大膳寮に寿司部ができたとき、大阪から招かれてやってきた内海清吉さんが、のちに大正六年、独立して店を開いたのが始まりだ。それからもずっと「御用達」をつとめてきている。
 ここの蒸し鮨についてくる陶器のどんぶりが、我が家にはもうずいぶんたまった。

 けやき舎の『神楽坂まちの手帳』第9号(2005年)では

 バロックの流れるクラシックな洋館。ここが大阪寿司専門店「大〆」である。ゆったりと間隔をとって配置されたテーブルで食事をすれば、優雅な気分に浸れそう。
 三代目店主である加藤さんは、二十年前から店のある一角をイタリアの田舎町のイメージにプロデュースしてきた。大阪寿司に合わせるのはイタリアワイン。壁に掛かるイタリアの風景画まで加藤さんの作品というほど、イタリアヘの愛は徹底している。
 しかしそんな加藤さんも、大阪寿司の製法は伝統的な作り方を忠実に守り続けているという。しいたけは八時間煮てから一日以上落ち着かせる。魚はおろしてから酢でしめて、二、三日ならす。大阪寿司には、広い厨房と人手が必要で、「鮨は四、五人前を一人の職人が握るが、大阪寿司は一人前作るのに四、五人の職人がいると言われています」。大〆では加藤さんが一人で作っているので、ランチのみの営業なのだそうだ。
 いただいてみるとふわっと酢の香りが立ち上る。品のいい味だった。しっかりと煮含められたしいたけのおいしさは、一度食べると忘れられないはずだ。

 でも、とにかく値段が高い。神楽坂の中でも特に高い。でも、大阪寿司というものが全体的に高いからなあ。江戸前の握りは普通はできないが、大阪寿司の箱寿司なら箱さえあればできる。まあ一種のオマージュですね、はい。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第13号の「路地・横丁に愛称をつけてしまった」の駒坂で、

井上 それから。おまけでページがあったら入れたいということで、消防署の前の大久保通りを渡って、『ひょうたん坂』を越えて白銀公園の方へゆく。そこから有名な「大〆」のところを通ってすぐのところを、左に曲がって『玉の湯』の方に下りる道。
坂崎 あそこは『駒坂』。となりのひょうたん坂と対で、ひょうたんから駒、ということで。
井上 あの階段のあるところですね。

大〆

 関係ないことでも、ひょうたん坂に向かって西北に曲がるのではなく、そのまま南に進むと駒坂にでてくる。なんで南に進まないのか不思議です。大〆のせいでしょうか。

神楽坂6丁目

文学と神楽坂

神楽坂6丁目は神楽坂上から西に行き、矢来町になるまでの場所です。
 江戸時代は「とおりてらまち」と呼ばれていました。現在と比べると、神楽坂6-25などを中心とした小さな小さな町でした。下の地図では青色の四角が江戸時代の通寺町で、赤色で囲んだ多角形が明治時代の通寺町(昭和26年に名前が変わって神楽坂6丁目)でした。

神楽坂6丁目(明るい色の多角形)と通寺町

神楽坂6丁目(明るい色の多角形)と江戸時代の通寺町(青い四角)

江戸時代、各町の地誌『町方書上』(文政8~11年、1825~28)を見ると

町之儀往古、武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之候處、其後町屋相成候、起立之義書留等焼失仕、相分り不申候、町名之起り牛込御門通、寺町有之候間、町名通寺町相唱申候

[現代語訳]この町は昔は武州豊島郡野方領の牛込村内にあったが、その後、町家になった。起立年は書き留めてあったが、焼失して、わからない。牛込見附を通る道(神楽坂通り)に面して、寺が多くて寺町になっていたため、通寺町と呼んだ。
 「当」の旧字体。

明治時代、通寺町は拡大し、現在の神楽坂6丁目に相当するようになりました。東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

牛込通寺町 牛込肴町の西に在り。牛込うしごめはしとはり寺地なるを以てこのしようあり。當時とうじ狭少けふせうの一市街しがいなりしが、明治二年四月附近の寺地及あんやう、養善院.三光院、正蔵院の門前をあはせ.五年七月またくみしき其他士地をがつせり。

肴町 現在、神楽坂5丁目。
寺地 てらち。寺の敷地。寺の土地。
組屋敷 江戸時代、与力組や同心組など組に属する下級武士が居住していた屋敷地。

安養寺船橋屋スーパーよしや花豊コボちゃんの像キムラヤ音楽之友社などは活動中。
 昔の店舗としては、いろは牛込亭ヤマニバー、舛屋、蝋燭屋などがあげられます。

神楽坂6丁目

神楽坂6丁目

kimuraya

Kimuraya



方南の人|稲垣足穂

文学と神楽坂


 昭和23年、稲垣足穂氏は「方南かたなみの人」を発表しました。
 この主役は「俺」とヤマニバーで働いていた女性トシちゃんです。彼女は神楽坂をやめると、しばらくの間、杉並区方南に住んでいました。

 ヤマニバーの、ヒビ割れの上に草花をペンキで描いた鏡の傍に、褐色を主調にした油絵の小さな風景画が懸かっている。「これはあたしのお父さんの友達が描いたのよ」と彼女は教えた。それは清水銀太郎と云って、俺の二十歳頃に聞えていたオペラ役者である。「あれは分家の弟だ」とは、縄暖簾のおかみさんの言葉である。「縄暖簾」というのは、彼女らが本店と呼んでいる横寺町どぶろく屋のことである。この古い酒造家と表通りのヤマニバーとは同姓であるが、そうかと云って、常連が知ったか振りに吹聴しているような繋りは別にないらしい。其処がどうなっているのか見当が付かぬけれど、然し何にせよ、彼女の家庭を今のように想像してみると、俺の眼前には下げ髪姿の少女が浮ぶ。立込んだ低い家並の向うのの夕空。縄飛び。千代紙。ビイ玉。そしてまた〽勘平さまも時折は……。

 横寺片隅の孤りぼっちの起臥は、昔馴染の曲々のおさらいをさせた。俺の口から知らず知らずに、〽千鳥の声も我袖も涙にしおるる磯枕………が出ていたらしい。トシちゃんが近付いてきて、「あら、謡曲ね」と云った。彼女は「うたい」とも「お能」とも云わなかった。「謡曲ね」と云ったのである。また彼女は何時だって「酔払ったのね」とは云わない。「ご酪酊ね」である。
方南 東京都杉並区南東部の地名。方南一丁目と方南二丁目。地名は「ほうなん」ですが、この小説では「かたなみ」と読みます。
それ 「清水銀太郎」は「お父さん」か「友達」ですが、全体を見ると、おそらくこのお父さんが清水銀太郎なのでしょう。なお、このオペラ役者の詳細は不明です。
オペラ役者 歌って、演技する声楽家。現在は「オペラ歌手」のほうがより普通です。
分家 家族員がこれまで属した家から分離し、新たにつくった家。なお、元の家は本家。
縄暖簾 飯塚酒場のこと。横寺町にありました。
どぶろく 日本酒と同じく米こうじ、蒸し米と水で仕込み、発酵したもろみを濾過はなくそのまま飲む。
同姓 どちらも「飯塚」だったのでしょう。
繋り 現在は「繋がり」。つながり。結びつき。関係があること。
下げ髪 さげがみ。髪をそのまま、あるいはもとどりで束ねて後方に垂れ下げた女性の髪形。
家並 いえなみ。家が続いて並んでいること。
 あかね。黄みを帯びた沈んだ赤色。暗赤色。
〽勘平さまも… おそらく「仮名手本忠臣蔵」から。謡曲ようきょくの一種でしょう。
横寺片隅 稲垣足穂氏の住所は「横寺町37番地 東京高等数学塾気付」でした。
起臥 きが。起きることと寝ること。生活すること。
〽千鳥の声も… 能楽「敦盛あつもり」の一節。源平の合戦から数年後、源氏の武将、熊谷直実は平敦盛の菩提を弔うため、須磨の浦に行き、敦盛の霊に出会う。正しくは「千鳥の声も我が袖も波にしおるる磯枕」
謡曲 能の脚本部分。声楽部分、つまりうたいをさすことも。
酩酊 めいてい。非常に酔うこと。
 白銀町から赤城神社境内へ抜ける鈎の手が続いた通路。紅いに絡まれた箱形洋館の脇からはいって行く小径。幾重にも折れ曲っだ落葉の道。何時だって人影が無い。トシちゃんはいまどんな用事をしているであろう?

「洗濯物なんか神楽坂の姐さんが控えているじゃないか」と銀座裏の社長が云った。
「それにはお白粉が入用なんだ」
「おしろいまで買わせるのか」ちょび髭の森谷氏はそう云って、別に札を一枚出し、これで向いの店で適当なのを買ってこい、と校正係の若者に命じた。白粉はトシちゃん行きではない。沖縄乙女のヨッちゃんの為にである。
 縄暖簾を潜ると、武田麟太郎白馬を飲んでいた。約束の金を持ってきてくれたのである。五、六本明けてからヤマニヘ引張って行く。
「師匠から女の子を見せられようとは、これはおどろいた!」
 そう云いながら、彼は濁り酒を四本明けた。いっしょに日活館の前まで来たが、此処で彼の姿は児雷也のように、急に何処かへ消え失せてしまった。

鉤の手 かぎのて。かぎ(鈎)の形に曲がっていること。ほぼ直角に曲がっていること。
 つた。ブドウ科のつる性落葉木本。
社長 森谷均。1897~1969。編集者。昭森社を創業。神保町に喫茶店や画廊を開き、出版社を二階に移転。思潮社の小田久郎氏やユリイカの伊達得夫氏は同社の出身。
白馬 しろうま。どぶろくと同じ。ほかに、濁り酒、濁酒、もろみ酒も。
濁り酒 にごりざけ。これもどぶろくと同じ。
日活館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地にあった映画館。日活館。現在はスーパーの「よしや」
児雷也 じらいや。江戸時代の読本・草双紙・歌舞伎などに現れる怪盗。中国明代の小説で門扉に「自来也」と書き残す盗賊の我来也があり、翻案による人物。がまの妖術を使う。

 そのトシちゃんがヤマニバーをやめ、神楽坂からも消えてしまいます。

 トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂上を去った。きょうも時刻が来て、酒呑連の行列がどッとヤマニヘなだれこんだ時、何処かのおっさんが、混乱の渦の真中で、「背の高い女中が居ないと駄目だあ!」と呶鳴ったけれど、その、客捌きの鮮かな、優い、背の高い女中は最早このバーヘは帰ってこないのである。足掛六年の月日だった。俺には未だよく思い出せない数々のことが、今となってよく手繰り出せない事共がひと餅になっている。暑い日も寒い日も変りなく立働いていたトシちゃん。「おひたし? おしたじ? いったいどっちなの?」と甲高い声でたずねてくれるトシちゃん。俺が痩せ細った寒鴉になり、金具の取れた布バンドを巻くようになっても態度の変らなかった唯一の人。何時だって、あの突当りに前田医院の青銅円蓋が見える所へ帰ってきた時に、俺の心を明るくした女性。朋輩が次々に入れ変っても一人居残って、永久に此処に居そうに見えた彼女は、とうとう神楽坂を去った。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)


呶鳴る どなる。激しく言葉をだす。
客捌き きゃくさばき。客に対応して手際よく処理する。
手繰り てぐり。工夫して都合をつけること。やり繰り。
ひと餅 不明。「一緒になって」でしょうか。
おしたじ 御下地。醬油のこと。
寒鴉 かんあ。冬のからす。かんがらす。
前田医院 神楽坂6丁目32にありました。現在は菊池医院に変わっています。

 昭和20(1945)年4月13日午後8時頃から、米軍による東京大空襲がありました。

 正面に緑青の吹いた鹿鳴館風の円屋根が見える神楽坂上の書割は、いまは荒涼としていた。これも永くは続かなかった。俺がトシちゃんへご機嫌奉仕をし、合せて電車通の天使的富美子さんの上に、郵便局横丁のみどりさんの上に、そのすじ向いの菊代嬢に、日活会館前のギー坊に、肴町のヨッちゃんの上に、さては「矢来小町」の喜美江さんを繞って、それぞれに明暗物語が進捗していた時、旧神楽坂はその周辺なる親しき誰彼にいまはの別れを告げていたのだ。電車道の東側から始まった取壊し作業の鳶口が、既に無住のヤマニバーまで届かぬうちに、四月半ばの生暖い深更に、牛込一帯は天降った火竜群の舌々によって砥め尽されてしまった。お湯屋の煙突と、消防本部の格子塔と、そして新潮社のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜の煙に。そして起伏した一望の焼野原。ヤマニの前に敷詰められた鱗形の割栗ばかりが昔なりけり――になってしまった。

鹿鳴館

緑青 ろくしょう。金属の銅から出た緑色の錆。腐食の進行を妨げる働きがある。
鹿鳴館 ろくめいかん。明治16年(1883)、英国人コンドルの設計で完成した洋館。煉瓦造り、二階建て。高官や華族の夜会や舞踏会を開催。
円屋根 稲垣足穂氏は「世界の巌」(昭和31年)で「彼らの思い出の神楽坂、正面にM医院の鹿鳴館式の青銅の円蓋が見える書割は、――あの1935年の秋、霧立ちこめる神戸沖の幻影ファントム艦隊フリートと共に――いまはどこに求めるよすがも無い。」と書いています。したがって、これも前田医院の描写なのでしょう。
書割 かきわり。芝居の大道具。木製の枠に紙や布を張り、建物や風景などを描き、背景にする。
繞る めぐる。まわりをぐるりと回る。とりまく。
進捗 物事が進みはかどること。
電車通 現「大久保通り」のこと。
郵便局横丁 郵便局は通寺町(現神楽坂6丁目)30番地でした。前の図で右側の横丁を指すのでしょう。
日活会館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地。
肴町 現「神楽坂5丁目」
鳶口 とびぐち。竹や木製の棒の先端に鉄製のかぎをつけ、破壊消防、木材の積立・搬出・流送などを行う道具。
深更 しんこう。夜ふけ。深夜。
天降った火竜群 航空機B29による無差別爆撃と、焼夷弾による爆発と炎上がありました。

牛込区詳細図。昭和16年

お湯屋 「藤乃湯」が横寺町13にありました。
消防本部 消防本部は矢来町108にありました。
新潮社 新潮社は矢来町71にありました。
半夜 まよなか。夜半。
割栗 割栗石。わりぐりいし。岩石や玉石を割った砕石。直径は10〜20cm。基礎工事の地盤改良などで利用した。

 それから戦後数年たって、トシちゃんの話が出てきます。

武蔵野館の前を曲りながら、近頃休みがちの店が本日も閉っていることを願わずに居られなかった。タール塗の小屋の表には然し暖簾が出ていた。俺は横丁へ逸れて、通り過ぎながら、勝手口から奥を窺った。俯いて何かやっている小柄な、痩ぎすの姿があった。
「奥さん」と俺は声を掛げた。「表は未だなのですか?」
 顔を上げて、それからおかみは戸口まで出てきた。
 持前のちょっと皮肉な笑みを浮べると、
「まだ氷がはいらないので、お午からです」
 五、六秒の間があった。
「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」
「それはお目出度い……」と俺は受け継いでいた。このおかみの肌の木目が細かいこと、物を云いかけるたびに、揃いの金歯がよく光ることに今更ながら気が付いた。
「東京ですか」と自動的に俺は口に出した。
「いいえ田舎で――」
 その田舎は……? とは、はずみにもせよ口には出なかった。この上は何時かひょっくり逢えばよいのだ。逢わなくてもよいのである。
 その代り接穂は次のようになった。
「姉さんの方はどちらに?」
「千葉とか聞いています」
「こちらは相変らずの宿無しで」と、俺は吃り気味に、此場から離れる為に言葉を引張り出した。
「――いま、戸塚の旅館にいるんですよ」それはまあ! という風におかみは頷いた。
「ではまた」と云って、俺は歩き出した。

武蔵野館 前後の流れを読むと、神楽坂6丁目にあった日活館で、それが戦後になって「武蔵野館」に変わったものではなく、新宿の「武蔵野館」でしょう。
タール コールタール。石炭の高温乾留で得られる黒色の油状液体。そのまま防腐塗料として使う。
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。部屋の入り口や仕切りにたらす短い布。
木目 皮膚や物の表面の細かいあや。また、それに触れたときの感じ。
はずみに そのときの思いがけない勢い。その場のなりゆき。
接穂 つぎほ。話を続けて行くきっかけ。言葉をつぐ機会。

 次で小説は終わりです。

「涙が零れたのよ」釣革を持った婦人同士の会話中に、こんな言葉が洩れ聞えた。僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々終ったことを知るのだった。
 電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。

零れる こぼれる。液体が容器から出て外へ落ちる。抑え切れなくて、外に表れる。
釣革 つり革。吊革。吊り手。つりて。電車・バスなどの中で、乗客が体を支えるためにつかまる、上から吊り下げられた輪。
1947年 足穂氏は46歳でした。なお、終戦の日は1945年8月15日です。
愈々 いよいよ。待望していた物事が成立したり実現したりするさま。とうとう。ついに。

猿寺|佐藤隆三と芳賀善次朗

文学と神楽坂

 猿寺について佐藤隆三氏と芳賀善次朗氏を取り上げます。
 最初は佐藤隆三氏で、氏は昭和6年には東京市主事であり、『江戸の口碑と伝説』(郷土研究社、昭和6年)という本を書いています。ちなみに口碑こうひとは、古くからの言い伝えや伝説のことです。
 元禄の頃、住職の徳山和尚が渡船に乗ろうとすると猿が現れ、自分の裾を取り、また他の主人との話もあり、乗船できませんでした。しかし、目の前で、この渡船は沈没してしまいます。猿のおかげで難を免れたという話です。

     猿寺
 東中野桐ヶ谷の大通りに、猿寺といふがある。本名は松源寺であるが、山門の前に「さる寺」と刻付け猿の附いた大きな石標が建てゝある。この寺はもと牛込通寺町にあつたが、明治三十九年に此處に移轉したものだ。
 元祿の頃、この寺に徳山と云ふ有德の和尚が居つた。時々境内に猿がやつて來て惡戯をするので、和尚も困つてゐたが、別に人畜に害を加ふる譯でもないからその儘にして置いた。或日和尚の留守の時に、小僧と仲間ちうげんが面白半分に、猿を本堂に追ひ込んで生捕りにし、繩で縛つて置いた。そこへ淺草橋場の檀家の者がお詣りに來て、何程かの鳥目を小僧と仲間に與へて、猿を貰つて行つた。和尚はその後境内に猿の出なくなつたことを氣にも留めなかつた。
 翌年の春、花の咲く頃、和尚は向島の檀家に招かれ、小僧を連れて、竹屋渡場迄やつて行くと、花見の連中がワイ/\騒ぎながら渡舟を待ってゐる。和尚も舟に乗らうと岸に立つてゐると後より法衣の裾を引張るものがある。振り向いて見ると一匹の猿であつた。變な猿だと思つてゐる所へ、猿に逃げられたと云って駈けつけて來たのが、橋場の檀家武藏屋の主人であつた。この猿は松源寺の境内にゐた猿だと聞いて、懐かしげに思ひ、武藏屋の主人と話をしてゐるうちに、舟は多くの人を乘せて出て終つた。仕方なしにモー一舟待つてゐると、その舟は餘り多くの人が乘つたものだから、川の中程で引繰り返り、泣くやら叫ぶやら大騒ぎとなつた。無論助け舟も出たことであるが、溺死する者も尠くはなかつた。和尚と小僧は猿のお蔭で、命拾ひをしたことを喜んだ。歸りがけに武藏屋に立寄って譯を話して、その猿を貰ひ受け、寺で大事に飼ふことにした。
 五代將軍綱吉公、鷹狩の歸途この寺に立寄られた時、猿にお目がとり、和尚よりこの話を聞いていたく感心せられ、その後綱吉公より雲慶の作と稱する、猿を彫刻した扁額を賜はつたので早速その額を本堂にかゝげた。それ以来猿寺と人が呼ぶ様になつたと云ふ。

 蒼龍山松源寺(左側の青い多角形)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。

刻付け きざみつけ。材料や表面を刻む、切る、刻み込む
山門 寺院の門。寺院。寺院は元来、山中に建てられたため
石標 ある事を記念し、後世に伝えるために記しておく石。石碑。目印の石。道標に立てた石。
牛込通寺町 現在は神楽坂六丁目21番地。
元禄 1688年~1704年。江戸幕府将軍は5代目の徳川綱吉つなよし
有德 うとく。ゆうとく。徳行のすぐれていること。
仲間 ちゅうげん。中間。武家の奉公人で、城門の警固や行列の供回りなどに使った。
檀家 だんか。だんけ。寺院に属し布施する家か信者
浅草橋 東京都台東区浅草橋。秋葉原の東に位置する。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭の異称。江戸時代の銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたから。
境内 神社・寺院の敷地内
向島 むかいしま。東京都墨田区の隅田川東岸の旧区名。中小工場・住宅・商店が密集し、墨堤の桜や百花園の月見で有名だった。
竹屋の渡し 現在の言問橋のやや上流の山谷堀から、向島三囲みめぐり神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。
橋場 現在の白鬚橋付近。隅田川の渡しとしては最も古い。白鬚橋が完成し、渡しは廃止された。
尠く 「少なく」と同じ
雲慶 平安時代末期から鎌倉時代初期に活動した仏師。
稱する 称する。となえる。呼ぶ。
扁額 へんがく。門戸や室内などに掲げる横に長い額。横額

 次は芳賀善次朗氏の『新宿と伝説』(東京都新宿区教育委員会、昭和44年)の「恩返しをしたサル」です。氏については新宿区戸塚第一小学校の校長であり、新宿区の伝説や伝承をまとめています。

九 恩返しをしたサル
  場 所 神楽坂六丁目21番地
  時 代 江戸時代 元禄(1688―1703)のころ
 ここに松源寺という寺があり、徳山という高僧がいた。時々境内にサルがやってきていたずらをするので、和尚は困っていたが、別に人畜に危害を加えるわけではないので、そのままにしておいた。
 ある目、和尚の留守の時に、小僧と仲間がおもしろ半分にサルを本堂に追い込んで、生けどりにし、なわでしばった。和尚はかわいそうだから放してやれといっているところへ、浅草橋場のだん家の者がお参りにきた。その人はいくらかの金を小僧と仲間に与え、その猿をもらい受けていった。
 翌年の春の花時、和尚は向島のだん家に招かれ、小僧をつれて竹屋の渡し場までやってくると、花見の連中が大勢ワイワイ騒ぎながら渡し舟を待っていた。
 和尚も舟に乗ろうと岸に立っていると、後から衣のすそを引っ張るものがいた。振り向いて見ると、一匹のサルであった。変なサルだと思っていると、そこヘサルに逃げられたといって駆けてくる人がいた。みれば橋場のだん家武蔵屋の主人であった。
 武蔵屋の主人が、「このサルは松源寺からもらってきたものだ」と話しているうちに、舟は出てしまった。和尚はしかたなしに、つぎの舟を待っていた。ところが舟はあまり多くの人を乗せたため、川の中ほどでひっくり返り大騒ぎとなった。すぐさま助け舟は出たもののでき死者まで出る始末であった。
 サルのおかけで、結局和尚と小僧は命拾いをしたのである。帰りがけに和尚は喜んで、武蔵屋に立ちより、そのサルをもらい受け、大事に飼うことになった。
 五代将軍綱吉公は、鷹狩りの帰りに、この寺に立ち寄られ、和尚から恩返しをしたサルの話を聞いて、いたく感心されたということである。その後、綱吉公から雲慶の作と称するサルを彫刻したへん額を賜った。それ以来、この寺を土地の人々がサル寺と呼ぶようになった。
  出 典 ○江戸の口碑と伝説 佐藤隆三著 昭和6年10月 郷土研究社発行
  解 説 松源寺は、明治末年、道路拡張のため、中野区上高田一丁目に移転した。

かぐらむら|サザンカンパニー

文学と神楽坂

「かぐらむら」は、神楽坂界隈で配布している情報誌です。サザンカンパニーが発行中。「かぐらむら」の創刊は2002年4月1日ですが、2018年に100号になり、休刊しました。
 サザンカンパニーは続くと思います。同社は雑誌・新聞広告、カタログ・パンフレット・ポスターなど、あらゆるものの企画、編集、制作をしています。
 2018年2月、「かぐらむら」に「てくてく牛込神楽坂」が載ったので、連れ合いが「かぐらむら」を取りに行ってきました。場所は神楽坂上の花屋「花豊はなとよ」が入った三上ビルの8階です。以下はその報告です。

 郵便受けには「かぐらむら」はないけれど、かわりに「サザンカンパニー」を発見。1階の店の脇の通路を奥に進み、右側にあるエレベーターに乗って、8階で降りると、狭めのエレベーターホール。左側にドアが一つだけ。チャイムが壊れていてノックして下さいと書かれています。ノックすると代表の長岡弘志氏が出てきました。ドアの隙間から中を垣間見ると事務所で机がいくつか並び、一番奥に窓が見えていました。配布のため既に大量の雑誌「かぐらむら」が見えました。事務所は思ったより小さいのかな。

『東京生活』2005/4から