文学と神楽坂
昭和23年、稲垣足穂氏は「方南 かたなみ の人」を発表しました。 この主役は「俺」とヤマニバーで働いていた女性トシちゃんです。彼女は神楽坂をやめると、しばらくの間、杉並区方南に住んでいました。
ヤマニバー の、ヒビ割れの上に草花をペンキで描いた鏡の傍に、褐色を主調にした油絵の小さな風景画が懸かっている。「これはあたしのお父さんの友達が描いたのよ」と彼女は教えた。それは清水銀太郎 と云って、俺の二十歳頃に聞えていたオペラ役者 である。「あれは分家 の弟だ」とは、縄暖簾 のおかみさんの言葉である。「縄暖簾」というのは、彼女らが本店と呼んでいる横寺町 のどぶろく 屋のことである。この古い酒造家と表通りのヤマニバーとは同姓 であるが、そうかと云って、常連が知ったか振りに吹聴しているような繋り は別にないらしい。其処がどうなっているのか見当が付かぬけれど、然し何にせよ、彼女の家庭を今のように想像してみると、俺の眼前には下げ髪 姿の少女が浮ぶ。立込んだ低い家並 の向うの茜 の夕空。縄飛び。千代紙。ビイ玉。そしてまた〽勘平さまも時折は ……。 横寺片隅 の孤りぼっちの起臥 は、昔馴染の曲々のおさらいをさせた。俺の口から知らず知らずに、〽千鳥の声も我袖も涙にしおるる磯枕 ………が出ていたらしい。トシちゃんが近付いてきて、「あら、謡曲 ね」と云った。彼女は「うたい」とも「お能」とも云わなかった。「謡曲ね」と云ったのである。また彼女は何時だって「酔払ったのね」とは云わない。「ご酪酊 ね」である。
方南 東京都杉並区南東部の地名。方南一丁目と方南二丁目。地名は「ほうなん」ですが、この小説では「かたなみ」と読みます。
それ 「清水銀太郎」は「お父さん」か「友達」ですが、全体を見ると、おそらくこのお父さんが清水銀太郎なのでしょう。なお、このオペラ役者の詳細は不明です。
オペラ役者 歌って、演技する声楽家。現在は「オペラ歌手」のほうがより普通です。
分家 家族員がこれまで属した家から分離し、新たにつくった家。なお、元の家は本家。
縄暖簾 飯塚酒場 のこと。横寺町にありました。
どぶろく 日本酒と同じく米
麹こうじ 、蒸し米と水で仕込み、発酵したもろみを濾過はなくそのまま飲む。
同姓 どちらも「飯塚」だったのでしょう。
繋り 現在は「繋がり」。つながり。結びつき。関係があること。
下げ髪 さげがみ。髪をそのまま、あるいは
髻もとどり で束ねて後方に垂れ下げた女性の髪形。
家並 いえなみ。家が続いて並んでいること。
茜 あかね。黄みを帯びた沈んだ赤色。暗赤色。
〽勘平さまも… おそらく「仮名手本忠臣蔵」から。
謡曲ようきょく の一種でしょう。
横寺片隅 稲垣足穂氏の住所は「横寺町37番地 東京高等数学塾気付」でした。
起臥 きが。起きることと寝ること。生活すること。
〽千鳥の声も… 能楽「
敦盛あつもり 」の一節。源平の合戦から数年後、源氏の武将、熊谷直実は平敦盛の菩提を弔うため、須磨の浦に行き、敦盛の霊に出会う。正しくは「千鳥の声も我が袖も波に
凋しお るる磯枕」
謡曲 能の脚本部分。声楽部分、つまり
謡うたい をさすことも。
酩酊 めいてい。非常に酔うこと。
白銀町 から赤城神社境内へ抜ける鈎の手 が続いた通路。紅い蔦 に絡まれた箱形洋館の脇からはいって行く小径。幾重にも折れ曲っだ落葉の道。何時だって人影が無い。トシちゃんはいまどんな用事をしているであろう? 「洗濯物なんか神楽坂の姐さんが控えているじゃないか」と銀座裏の社長 が云った。 「それにはお白粉が入用なんだ」 「おしろいまで買わせるのか」ちょび髭の森谷氏はそう云って、別に札を一枚出し、これで向いの店で適当なのを買ってこい、と校正係の若者に命じた。白粉はトシちゃん行きではない。沖縄乙女のヨッちゃんの為にである。 縄暖簾を潜ると、武田麟太郎 が白馬 を飲んでいた。約束の金を持ってきてくれたのである。五、六本明けてからヤマニ ヘ引張って行く。 「師匠から女の子を見せられようとは、これはおどろいた!」 そう云いながら、彼は濁り酒 を四本明けた。いっしょに日活館 の前まで来たが、此処で彼の姿は児雷也 のように、急に何処かへ消え失せてしまった。
鉤の手 かぎのて。
鉤かぎ (鈎)の形に曲がっていること。ほぼ直角に曲がっていること。
蔦 つた。ブドウ科のつる性落葉木本。
社長 森谷均。1897~1969。編集者。昭森社を創業。神保町に喫茶店や画廊を開き、出版社を二階に移転。思潮社の小田久郎氏やユリイカの伊達得夫氏は同社の出身。
白馬 しろうま。どぶろくと同じ。ほかに、濁り酒、濁酒、もろみ酒も。
濁り酒 にごりざけ。これもどぶろくと同じ。
日活館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地にあった映画館。日活館。現在はスーパーの「よしや」
児雷也 じらいや。江戸時代の読本・草双紙・歌舞伎などに現れる怪盗。中国明代の小説で門扉に「自来也」と書き残す盗賊の我来也があり、翻案による人物。
蟇がま の妖術を使う。
そのトシちゃんがヤマニバーをやめ、神楽坂からも消えてしまいます。
トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂上を去った。きょうも時刻が来て、酒呑連の行列がどッとヤマニヘなだれこんだ時、何処かのおっさんが、混乱の渦の真中で、「背の高い女中が居ないと駄目だあ!」と呶鳴った けれど、その、客捌き の鮮かな、優い、背の高い女中は最早このバーヘは帰ってこないのである。足掛六年の月日だった。俺には未だよく思い出せない数々のことが、今となってよく手繰り 出せない事共がひと餅 になっている。暑い日も寒い日も変りなく立働いていたトシちゃん。「おひたし? おしたじ ? いったいどっちなの?」と甲高い声でたずねてくれるトシちゃん。俺が痩せ細った寒鴉 になり、金具の取れた布バンドを巻くようになっても態度の変らなかった唯一の人。何時だって、あの突当りに前田医院 の青銅円蓋が見える所へ帰ってきた時に、俺の心を明るくした女性。朋輩が次々に入れ変っても一人居残って、永久に此処に居そうに見えた彼女は、とうとう神楽坂を去った。
都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)
呶鳴る どなる。激しく言葉をだす。
客捌き きゃくさばき。客に対応して手際よく処理する。
手繰り てぐり。工夫して都合をつけること。やり繰り。
ひと餅 不明。「一緒になって」でしょうか。
おしたじ 御下地。醬油のこと。
寒鴉 かんあ。冬の
烏からす 。かんがらす。
前田医院 神楽坂6丁目32にありました。現在は菊池医院に変わっています。
昭和20(1945)年4月13日午後8時頃から、米軍による東京大空襲がありました。
正面に緑青 の吹いた鹿鳴館 風の円屋根 が見える神楽坂上の書割 は、いまは荒涼としていた。これも永くは続かなかった。俺がトシちゃんへご機嫌奉仕をし、合せて電車通 の天使的富美子さんの上に、郵便局横丁 のみどりさんの上に、そのすじ向いの菊代嬢に、日活会館 前のギー坊に、肴町 のヨッちゃんの上に、さては「矢来小町」の喜美江さんを繞って 、それぞれに明暗物語が進捗 していた時、旧神楽坂はその周辺なる親しき誰彼にいまはの別れを告げていたのだ。電車道の東側から始まった取壊し作業の鳶口 が、既に無住のヤマニバーまで届かぬうちに、四月半ばの生暖い深更 に、牛込一帯は天降った火竜群 の舌々によって砥め尽されてしまった。お湯屋 の煙突と、消防本部 の格子塔と、そして新潮社 のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜 の煙に。そして起伏した一望の焼野原。ヤマニの前に敷詰められた鱗形の割栗 ばかりが昔なりけり――になってしまった。
鹿鳴館
緑青 ろくしょう。金属の銅から出た緑色の錆。腐食の進行を妨げる働きがある。
鹿鳴館 ろくめいかん。明治16年(1883)、英国人コンドルの設計で完成した洋館。煉瓦造り、二階建て。高官や華族の夜会や舞踏会を開催。
円屋根 稲垣足穂氏は「世界の巌」(昭和31年)で「彼らの思い出の神楽坂、正面にM医院の鹿鳴館式の青銅の円蓋が見える書割は、――あの1935年の秋、霧立ちこめる神戸沖の幻影ファントム 艦隊フリート と共に――いまはどこに求めるよすがも無い。」と書いています。したがって、これも前田医院の描写なのでしょう。
書割 かきわり。芝居の大道具。木製の枠に紙や布を張り、建物や風景などを描き、背景にする。
繞る めぐる。まわりをぐるりと回る。とりまく。
進捗 物事が進みはかどること。
電車通 現「大久保通り」のこと。
郵便局横丁 郵便局は通寺町(現神楽坂6丁目)30番地でした。前の図で右側の横丁を指すのでしょう。
日活会館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地。
肴町 現「神楽坂5丁目」
鳶口 とびぐち。竹や木製の棒の先端に鉄製の鉤かぎ をつけ、破壊消防、木材の積立・搬出・流送などを行う道具。
深更 しんこう。夜ふけ。深夜。
天降った火竜群 航空機B29による無差別爆撃と、焼夷弾による爆発と炎上がありました。
牛込区詳細図。昭和16年
お湯屋 「藤乃湯」が横寺町13にありました。
消防本部 消防本部は矢来町108にありました。
新潮社 新潮社は矢来町71にありました。
半夜 まよなか。夜半。
割栗 割栗石。わりぐりいし。岩石や玉石を割った砕石。直径は10〜20cm。基礎工事の地盤改良などで利用した。
それから戦後数年たって、トシちゃんの話が出てきます。
武蔵野館 の前を曲りながら、近頃休みがちの店が本日も閉っていることを願わずに居られなかった。タール 塗の小屋の表には然し暖簾 が出ていた。俺は横丁へ逸れて、通り過ぎながら、勝手口から奥を窺った。俯いて何かやっている小柄な、痩ぎすの姿があった。 「奥さん」と俺は声を掛げた。「表は未だなのですか?」 顔を上げて、それからおかみは戸口まで出てきた。 持前のちょっと皮肉な笑みを浮べると、 「まだ氷がはいらないので、お午からです」 五、六秒の間があった。 「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」 「それはお目出度い……」と俺は受け継いでいた。このおかみの肌の木目 が細かいこと、物を云いかけるたびに、揃いの金歯がよく光ることに今更ながら気が付いた。 「東京ですか」と自動的に俺は口に出した。 「いいえ田舎で――」 その田舎は……? とは、はずみに もせよ口には出なかった。この上は何時かひょっくり逢えばよいのだ。逢わなくてもよいのである。 その代り接穂 は次のようになった。 「姉さんの方はどちらに?」 「千葉とか聞いています」 「こちらは相変らずの宿無しで」と、俺は吃り気味に、此場から離れる為に言葉を引張り出した。 「――いま、戸塚の旅館にいるんですよ」それはまあ! という風におかみは頷いた。 「ではまた」と云って、俺は歩き出した。
武蔵野館 前後の流れを読むと、神楽坂6丁目にあった日活館で、それが戦後になって「武蔵野館」に変わったものではなく、新宿の「武蔵野館」でしょう。
タール コールタール。石炭の高温乾留で得られる黒色の油状液体。そのまま防腐塗料として使う。
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。部屋の入り口や仕切りにたらす短い布。
木目 皮膚や物の表面の細かいあや。また、それに触れたときの感じ。
はずみに そのときの思いがけない勢い。その場のなりゆき。
接穂 つぎほ。話を続けて行くきっかけ。言葉をつぐ機会。
次で小説は終わりです。
「涙が零れた のよ」釣革 を持った婦人同士の会話中に、こんな言葉が洩れ聞えた。僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年 八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々 終ったことを知るのだった。 電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。
零れる こぼれる。液体が容器から出て外へ落ちる。抑え切れなくて、外に表れる。
釣革 つり革。吊革。吊り手。つりて。電車・バスなどの中で、乗客が体を支えるためにつかまる、上から吊り下げられた輪。
1947年 足穂氏は46歳でした。なお、終戦の日は1945年8月15日です。
愈々 いよいよ。待望していた物事が成立したり実現したりするさま。とうとう。ついに。
文学と神楽坂
猿寺について佐藤隆三氏と芳賀善次朗氏を取り上げます。 最初は佐藤隆三氏で、氏は昭和6年には東京市主事であり、『江戸の口碑と伝説』(郷土研究社、昭和6年)という本を書いています。ちなみに口碑こうひ とは、古くからの言い伝えや伝説のことです。 元禄の頃、住職の徳山和尚が渡船に乗ろうとすると猿が現れ、自分の裾を取り、また他の主人との話もあり、乗船できませんでした。しかし、目の前で、この渡船は沈没してしまいます。猿のおかげで難を免れたという話です。
猿寺 東中野桐ヶ谷の大通りに、猿寺といふ寺 がある。本名は松源寺であるが、山門 の前に「さる寺」と刻付け 猿の附いた大きな石標 が建てゝある。この寺はもと牛込通寺町 にあつたが、明治三十九年に此處に移轉したものだ。 元祿 の頃、この寺に徳山と云ふ有德 の和尚が居つた。時々境内に猿がやつて來て惡戯をするので、和尚も困つてゐたが、別に人畜に害を加ふる譯でもないからその儘にして置いた。或日和尚の留守の時に、小僧と仲間ちうげん が面白半分に、猿を本堂に追ひ込んで生捕りにし、繩で縛つて置いた。そこへ淺草橋 場の檀家 の者がお詣りに來て、何程かの鳥目 を小僧と仲間に與へて、猿を貰つて行つた。和尚はその後境内 に猿の出なくなつたことを氣にも留めなかつた。 翌年の春、花の咲く頃、和尚は向島 の檀家に招かれ、小僧を連れて、竹屋 の渡場 迄やつて行くと、花見の連中がワイ/\騒ぎながら渡舟を待ってゐる。和尚も舟に乗らうと岸に立つてゐると後より法衣の裾を引張るものがある。振り向いて見ると一匹の猿であつた。變な猿だと思つてゐる所へ、猿に逃げられたと云って駈けつけて來たのが、橋場の檀家武藏屋の主人であつた。この猿は松源寺の境内にゐた猿だと聞いて、懐かしげに思ひ、武藏屋の主人と話をしてゐるうちに、舟は多くの人を乘せて出て終つた。仕方なしにモー一舟待つてゐると、その舟は餘り多くの人が乘つたものだから、川の中程で引繰り返り、泣くやら叫ぶやら大騒ぎとなつた。無論助け舟も出たことであるが、溺死する者も尠く はなかつた。和尚と小僧は猿のお蔭で、命拾ひをしたことを喜んだ。歸りがけに武藏屋に立寄って譯を話して、その猿を貰ひ受け、寺で大事に飼ふことにした。 五代將軍綱吉公、鷹狩の歸途この寺に立寄られた時、猿にお目がとり、和尚よりこの話を聞いていたく感心せられ、その後綱吉公より雲慶 の作と稱する 、猿を彫刻した扁額 を賜はつたので早速その額を本堂にかゝげた。それ以来猿寺と人が呼ぶ様になつたと云ふ。
寺 蒼龍山松源寺(左側の青い多角形)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
刻付け きざみつけ。材料や表面を刻む、切る、刻み込む
山門 寺院の門。寺院。寺院は元来、山中に建てられたため
石標 ある事を記念し、後世に伝えるために記しておく石。石碑。目印の石。道標に立てた石。
牛込通寺町 現在は神楽坂六丁目21番地。
元禄 1688年~1704年。江戸幕府将軍は5代目の徳川
綱吉つなよし
有德 うとく。ゆうとく。徳行のすぐれていること。
仲間 ちゅうげん。中間。武家の奉公人で、城門の警固や行列の供回りなどに使った。
檀家 だんか。だんけ。寺院に属し布施する家か信者
浅草橋 東京都台東区浅草橋。秋葉原の東に位置する。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭の異称。江戸時代の銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたから。
境内 神社・寺院の敷地内
向島 むかいしま。東京都墨田区の隅田川東岸の旧区名。中小工場・住宅・商店が密集し、墨堤の桜や百花園の月見で有名だった。
竹屋の渡し 現在の言問橋のやや上流の山谷堀から、向島
三囲みめぐり 神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。
橋場 現在の白鬚橋付近。隅田川の渡しとしては最も古い。白鬚橋が完成し、渡しは廃止された。
尠く 「少なく」と同じ
雲慶 平安時代末期から鎌倉時代初期に活動した仏師。
稱する 称する。となえる。呼ぶ。
扁額 へんがく。門戸や室内などに掲げる横に長い額。横額
次は芳賀善次朗氏の『新宿と伝説』(東京都新宿区教育委員会、昭和44年)の「恩返しをしたサル」です。氏については新宿区戸塚第一小学校の校長であり、新宿区の伝説や伝承をまとめています。
九 恩返しをしたサル 場 所 神楽坂六丁目21番地 時 代 江戸時代 元禄(1688―1703)のころ ここに松源寺という寺があり、徳山という高僧がいた。時々境内にサルがやってきていたずらをするので、和尚は困っていたが、別に人畜に危害を加えるわけではないので、そのままにしておいた。 ある目、和尚の留守の時に、小僧と仲間がおもしろ半分にサルを本堂に追い込んで、生けどりにし、なわでしばった。和尚はかわいそうだから放してやれといっているところへ、浅草橋場のだん家の者がお参りにきた。その人はいくらかの金を小僧と仲間に与え、その猿をもらい受けていった。 翌年の春の花時、和尚は向島のだん家に招かれ、小僧をつれて竹屋の渡し場までやってくると、花見の連中が大勢ワイワイ騒ぎながら渡し舟を待っていた。 和尚も舟に乗ろうと岸に立っていると、後から衣のすそを引っ張るものがいた。振り向いて見ると、一匹のサルであった。変なサルだと思っていると、そこヘサルに逃げられたといって駆けてくる人がいた。みれば橋場のだん家武蔵屋の主人であった。 武蔵屋の主人が、「このサルは松源寺からもらってきたものだ」と話しているうちに、舟は出てしまった。和尚はしかたなしに、つぎの舟を待っていた。ところが舟はあまり多くの人を乗せたため、川の中ほどでひっくり返り大騒ぎとなった。すぐさま助け舟は出たもののでき死者まで出る始末であった。 サルのおかけで、結局和尚と小僧は命拾いをしたのである。帰りがけに和尚は喜んで、武蔵屋に立ちより、そのサルをもらい受け、大事に飼うことになった。 五代将軍綱吉公は、鷹狩りの帰りに、この寺に立ち寄られ、和尚から恩返しをしたサルの話を聞いて、いたく感心されたということである。その後、綱吉公から雲慶の作と称するサルを彫刻したへん額を賜った。それ以来、この寺を土地の人々がサル寺と呼ぶようになった。 出 典 ○江戸の口碑と伝説 佐藤隆三著 昭和6年10月 郷土研究社発行 解 説 松源寺は、明治末年、道路拡張のため、中野区上高田一丁目に移転した。
文学と神楽坂
「かぐらむら」は、神楽坂界隈で配布している情報誌です。サザンカンパニーが発行中。「かぐらむら」の創刊は2002年4月1日ですが、2018年に100号になり、休刊しました。 サザンカンパニーは続くと思います。同社は雑誌・新聞広告、カタログ・パンフレット・ポスターなど、あらゆるものの企画、編集、制作をしています。 2018年2月、「かぐらむら」に「てくてく牛込神楽坂」が載ったので、連れ合いが「かぐらむら」を取りに行ってきました。場所は神楽坂上の花屋「花豊はなとよ 」が入った三上ビルの8階です。以下はその報告です。
郵便受けには「かぐらむら」はないけれど、かわりに「サザンカンパニー」を発見。1階の店の脇の通路を奥に進み、右側にあるエレベーターに乗って、8階で降りると、狭めのエレベーターホール。左側にドアが一つだけ。チャイムが壊れていてノックして下さいと書かれています。ノックすると代表の長岡弘志氏が出てきました。ドアの隙間から中を垣間見ると事務所で机がいくつか並び、一番奥に窓が見えていました。配布のため既に大量の雑誌「かぐらむら」が見えました。事務所は思ったより小さいのかな。
『東京生活』2005/4から
6丁目
文学と神楽坂
平成6年、スーパーよしやの反対側に三上ビルが建ちました。大家の名前からつけたもので、花屋の「花豊はなとよ 」を営業中。場所はここ 。
『かぐらむら』によると
創業1835年、東京で一番古い由緒正しいお花屋の六代目。お店の横にひっそりたたずむ創業時の屋号「花屋豊五郎」の石碑は、知る人ぞ知る江戸散歩の穴場です。
創業1835年なので、もう200年近くになります。
平成7(1995)年、『ここは牛込、神楽坂』第3号で、一家の
かおりさんが新しいお店のために掲げたキャッチフレーズがある。 SAY IT WITH FLOWERS。日本語で添えた言葉が「想いを花に託して」。ところが、かおりさんは六〇年前のお店の写真を見て驚いた。その看板の一番上に「ええ、英文で全く同じフレーズが記されていたんです」(図)
つまり、1935年でも「SAY IT WITH FLOWERS」を使っていました。
これはもともとは米国で「母の日」に花屋が贈る言葉 でした。1914年に米国は「Mother’s Day」を祝日にしました。そして、1918年、米国生花通信連合会(Flower Wire Service)は“Say it With Flowers”をスローガンにしました。「心を花で伝えよう」です。itは環境の‘it’で、漠然とした環境や不定のものをさします。米国では今でも花屋の宣伝文句に使っています。
なお、サザンカンパニーもここの8階です。タウン誌「かぐらむら 」を作っていますが、ほかにも雑誌・新聞広告の企画・編集・制作、販促用カタログ・パンフレット・ポスター・DM・CFの企画・編集・制作、企業・団体の公報・PR、各種PR誌の企画・編集・制作、出版企画・編集・制作などなどあらゆるものの編集・制作・PRしています。
6丁目
文学と神楽坂
魚浅は鮮魚( せんぎょ ) 店( てん ) 、つまり魚屋です。
近年では魚の販売はスーパーが主流で、魚屋はなくなりつつあります。地魚だけで広範囲の流通を行うのはまず量が足りず売れず、また、そもそも魚の料理方法が解らないため売れません。
1番うまい食べ方は、その日に採れた魚をその日に食べること。が、これは鮮魚店はできてもスーパーではできません。
たとえばカツオです。東京ではカツオはあっという間に悪くなるので最近まではカツオはタタキでないと食べられませんでした。
八丈島に出向し、その間、生のカツオがこんなにおいしいなんてと初めて知りました。 1日遅れると、生ではだめなものがある。魚屋でその日に採れた魚をその日に売るのは大丈夫でも、スーパーでは売れない。魚屋があるなしが、新鮮でうまい魚が食べられるかどうかと直結しています。
現在1軒だけが残っている「魚浅」。明治34(1901)年、創業。現在、週に1回しか開いていません。新鮮で美味な魚があとどれぐらい食べられるでしょうか。
6丁目
文学と神楽坂
求友亭はきゅうゆうていと読み、通寺町75番地(今は神楽坂6丁目)にあった料亭です。現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って横丁の右側にありました。 夏目漱石氏が『硝子戸の中』の16章 で
彼(床屋)はそれからこの死んだ従兄( いとこ ) について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日( きのう ) の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。
「あのそら求友亭 ( きゅうゆうてい ) の横町にいらしってね…」と亭主はまた言葉を継つぎ足した。
「うん、あの二階のある家( うち ) だろう」
「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様( ほうぼうさま ) から御祝い物なんかあって、大変御盛( ごさかん ) でしたがね。それから後( あと ) でしたっけか、行願寺( ぎょうがんじ ) の寺内( じない ) へ御引越なすったのは」
ここで「しっきゃ」について。「しっきゃ」は「しか」と同じで「昨日の事と『しか』思われないのに」です。江戸なまりですね。
川喜田屋横丁と求友亭 この「求友亭の横町」はかつて「川喜田屋横丁 」と読んでいました。赤の四角で書いたものは求友亭、青で書いたものは川喜田屋横丁です。地図は昭和5年(1930年)の「牛込区全図」です。
現在は相当狭い場所です。(図は「全国地価マップ」から) 行ってみると瀟洒な一軒家がありました。
新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では
当時待合で大きな所といえば重の井、由多加、松ケ枝、神楽、梅林、喜久川といったところか? 料理屋では末よし、ときわ亭、求友亭 だろう。末よしといえば、ここは芸者に大へん厳しくするお出先だ。
正宗白鳥 氏の『神楽坂今昔』では 私は學校卒業後には、川鐵の相鴨のうまい事を教へられた。吉熊、末よし、笹川、常盤屋、求友亭 といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。
江見水蔭 氏の「自己中心明治文壇史」(博文館、昭和2年)では求友亭の女將は、相川傳次といふ消防夫の頭の實妹で、藝妓にも出てゐた、所謂女傑型の女で有つた。市川小團次とは深い間であつたが、それと知つてか知らずか、谷干城將軍が特別に贔屓にされてゐたのであつた。
以上、求友亭でした。
6丁目
文学と神楽坂
和菓子「船橋屋」はかつて神楽坂6丁目67にあった店舗で、現在は名前は変わり、「神楽坂FNビル」に変わりました。これは、1984年竣工、10階建ての賃貸オフィスビルです。なぜかシャッターはいつも閉まったままです。場所はここ 。
FNビル
昭和13年4月号の「製菓実験」では
船橋屋
倉本
入口のアイランド・ケース[鳥型欄]は、客の出入に邪魔になる。どうせ、この店の構えでは、このケースの品は賣れることが少いので、經營者は大したものと考へてはゐないのであろうけれど、商賣の上から行くと、この入口の二本のケースのある場所は一番大切なところなので、氣の利いた店ならばここにオトリ( 、、、 ) やワナ( 、、 ) を、しかけることになつてゐるのである。かゝる最上の場所をイヽカゲンにすることは許されない。陳列窻の中も、これではよくない。見たところ、相當大きな店らしいのに、如何にも殘念なこととおもふ。
岸
取り立てゝいゝ處も無い代りに、大きな缺點も無い店である。 欄間の構造をも少し軽快に造つたならば、上から壓迫されるやうな感じが無くなつて、もつと入りよい店になるであらう。入口の二箇のシヨーケースは目立つて相當効果はあると思はれるが、場合に依つてはこの爲に入りにくゝいてゐるとも考へられる。このまゝではガラス戸は是非全部開放して置かないと中との連結が斷たれる恐れがあらう。
広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では
私は肴町の角に出る少し手前の通寺町通の右側に、「船橋屋本店」という小さな菓子屋の看板を見つけると、そこに入って行った。これは私の子供の時分から知っている店で、よくオヤツの菓子を買いに来たものである。私はそこまで来る間にも、昔知っていた店が残っているかと思って、町の両側の店々を注意して眺めて来たが、どこも記憶にない店名ばかりであった。そこに船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。 私は店番をしている店員に訊いた。
「ここは昔の船橋屋か知ら」
「はい、昔の船橋屋でございます」と店員は答えた。
「代替りはしていないの」
「はい、代替りはして居りません。何でも五代続いているそうでございます」 私は店員に大福を包んで貰った。
野口冨士男著の『私のなかの東京』「神楽坂から早稲田まで」(昭和53年)では
現在では餅菓子の製造販売はやめてしまったらしく、セロファンの袋に包んだ半生菓子類がならべてあった。日本人の嗜好の変化も一因かもしれないが、生菓子をおかなくなったのは、寺町通りのさびれ方にも作用されているのではなかろうか。
『かぐらむら 』によれば
船橋屋(通寺町『製菓実験』昭和13年4月号/国立国会図書館蔵)
創業明治3年の和菓子と喫茶の店である。船橋屋本店として相当に繁盛していたことが、3階建ての店舗から伺える。ひさしの上に植木が並べられているのが、いかにも「昔」の風景だ。1階、向かって右の階段(植物の蔭)が、喫茶の入口だったのだろう。春先らしく、桜もち、草もちと大書きされた紙が貼られている。 船橋屋は、通寺町67番地にあった。戦後も営業が続けられていたが、今は「FNビル」というオフィスビルになっている。
6丁目
文学と神楽坂
コボちゃん@神楽坂6丁目
2015年8月16日、何かのブロンズ像が神楽坂6丁目に登場しました。これはなんなのと聞いてもわからないものになっています。たぶん「コボちゃん」ですが、自信はありません。どこにも名前は書いていません。いずれ名前をつけたプレートができると信じます。どこにもないもんなあ。作者の植田まさしさんはここに住んでいるのこと。
なお、以前はここはサトーヤ でした。
すいません、名前は後に描いてありました。でも最初はなかったと思う。ほんとかなあ。場所はここ 。
6丁目
文学と神楽坂
鏑木( かぶらき ) 清方 氏が書いた『続こしかたの記』の「夜蕾( やらい ) 亭雑記(1)」では
前記田原屋 に並んで太田屋 といふ半襟 店があつた。銀座には襟善 、ゑり圓 の專門店もあるが、この土地には太田屋が繁昌して、山川 はそこの主人と心安く、圖案の相談にも乘つてゐたやうである。半襟に數奇 を凝( こら ) したのは明治、大正を盛りとしてその後、だんだん影を消した。紙の相馬屋 、菓子喫茶の紅谷 も土地の名物であつた。神樂坂通から電車道 を越す通寺町 には今は見かけぬ砂糖屋 蝋燭屋 の專門店もあつた。
ここでは砂糖屋と蝋燭屋はどこにあるの、というのが問題です。でも、その前に、他の問題もやっておきます。
田原屋 神楽坂5丁目南側にあった1階は果物屋、2階は洋食屋。現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。
太田屋 河合慶子氏は『ここ牛込、神楽坂』第3号の『懐かしの神楽坂』で「肴町界隈のこと」を書き、
ワラ店の角の「太田半衿店」。箱にきれいに並んだ半衿の、赤・黄・緑と色とりどりの鮮やかさ。
現在は和菓子の『五十鈴 ( いすず ) 』です。
半襟 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢( じゅばん ) などの襟( えり ) の上に縫いつけた替え襟。
襟善 ゑり善。えり善。中央区銀座5丁目6-7。和服店。
ゑり圓 ゑり円。えり円。中央区銀座4丁目6−10。和服店
山川 秀峰。やまかわ しゅうほう。生まれは明治31年〈1898年〉4月3日。死亡は昭和19年〈1944年〉12月29日)。日本画家、版画家。美人画で有名です。大正2年(1913年)に清方に入門し美人画を学びました。
数奇 すうき。ふしあわせ。不運。運命がさまざまに変化すること…となるのですが、おかしい。数奇ではなく、数寄だとすると…数寄は「すき」と読み、風流・風雅に心を寄せること。数寄( すき ) を凝らす。建物・道具などに、風流な工夫を隅々までほどこすことと…このほうが正しいと思っています。一瞬、私が書いたものが違ったではと不安でしたが、鏑木清方氏からして違っていました。
相馬屋 神楽坂5丁目北側にある文房具屋。現在も健全です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。現在の大久保通り。昔はここに路面電車ができていました
通寺町 現在の神楽坂6丁目のこと。
砂糖屋
『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった『寺内』」を書き、そこに「サトーヤ」が出ています。これが砂糖屋だったのでしょうか。
『ここは牛込、神楽坂』第15号の「続こしからの記」の解説で、「砂糖屋は砂糖問屋の升屋、蝋燭屋は、現模型店の駿河屋」と書いてあります。『地籍台帳・地籍地図[東京]6・地図編2』(大正元年)で調べると、神楽坂6丁目59番地には舛屋砂糖店と書いていました。舛( ます ) 屋砂糖店、あるいは升( ます ) 屋砂糖店は、江戸時代に砂糖を取り扱った問屋でした。明治以後、中国・オランダ以外に欧米諸国からの輸入も開始、輸入品の値段が下がり、砂糖問屋は大打撃を受けて、多くが没落することになりました。舛屋はここ です。
都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和12年)と平成10年の『ゼンリン住宅地図』では下の通りです。上の四角、59番地が砂糖屋さんでした。
2015年に立てられたコボちゃん の像も書いています。
蝋燭屋
これは神楽坂6丁目64番地です。場所はここ 。
蝋燭とは、糸や紙縒りを芯にして、蝋を固めた円柱状の灯火用具。この蝋燭屋は、模型店の駿河屋に変わります。駿河屋については雑誌『かぐらむら 』の「記憶の中の神楽坂」(03)「神楽坂6丁目辺り」 で
古く、落ち着いた建物に、模型やフィギュアなども置いてあって、ショーウインドーを覗く楽しみがあった。適度な明るさと、ホッとするような懐かしさが混在していた。閉店前の1カ月は、バーゲンセールで、なぜかロシア製とドイツ製の戦車が売れ残っていたので半額で買いました。でも、まだ組み立てていません。
駿河屋も今はなく、東京パーク神楽坂第1駐車場に変わり、さらに現在は自転車の「SAKULA」などに変わりました。下の写真は、左側がSAKULA、右側は昔の砂糖屋です。今はパークリュクスです。
文学と神楽坂
文学と神楽坂
広津和郎 氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた「手の字」の場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。
父 が散歩から帰って来て、
「今手の字に寄ったら、尾崎 が若い連中をつれて来ていた」など書生に話しているのを聞いたことがあった。 手の字というのは、肴町 の方から通寺町 に入って直ぐ左手の路地 に屋台を出していた寿司屋で、硯友社 の人達はこの寿司屋を贔屓にしてよく出かけて行ったものらしい。 この手の字はずっと後まであって、近松秋江 氏などもよくそこに立寄って、おやじから紅葉の思い出話などを聞いたらしい。私が早稲田を卒業したのは大正二年であったが、その頃もその寿司屋はまだそこに出ていた。
肴町 現在の神楽坂五丁目です
通寺町 現在の神楽坂六丁目です
路地 ろじ。狭い道。「横丁」にも同じようなニュアンスがありますが、「路地」では更に狭く隣接する建物の関係者以外はほとんど利用しない道です。
手の字 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査
これからは全くの空想ですが、次の場所が正しいと思っています。まず図を見てください。明治29年の東京市牛込区全図の1部です。赤い丸を見ると、ここに道路3本が集まっています。赤丸から西北西に出るのが「通寺町通り」、反対側の東南東にずっと行くと「神楽坂通り」になります。南西南に行くのは江戸時代では「川喜田屋横丁 」と呼ばれ、明治時代には無名の路地でした。その中に寿司屋「手の字」(赤棒)があったのでしょう。
ちなみに昭和6年、横井弘三 氏が書いた『露店研究 』を読むと、
まづ牛込郵便局から出発して坂を下らう。右側に寿司 、おでん、左側にある、古本、八百屋、ミカン、古本、表札、古本、XX、古着、眼鏡、電気、靴墨、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺刷り、古本、柳コリ(略。ここから愈々露店は両側になる)
当時の牛込郵便局は現在の「音楽の友社」(神楽坂6-30)にありました。そこから下を向いて右側には露店2店、左側には19店が並びます。この左側の19店は恐らく等間隔に近い形で並んでいたのでしょう。では右側の2店はどう並んでいたのでしょう。しかも右側の1店は寿司が出てきます。これは「手の字」であったのか、違ったのでしょうか。 明治時代には、この地図で見られるように赤丸から西北西に進む通寺町通りは急に狭くなりました。明治29年の上の東京市牛込区全図ではそうなっています。露店も同じです。赤城神社から出発しても、初めは道路は狭く、当然、露店用の面積も狭く、そのため、露店は一方向だけ、つまり北側だけにできたのではなかったのでしょうか。道路が広くなる赤丸を超えてから、初めて露店は両側にできたのです。つまり、赤城神社から神楽坂の方に来る場合、最初は北側の露店だけがあり、しかし、南側は何もなく、南側にできるのは川喜田屋横丁を超えた所からで、そこに寿司とおでんの2つがあったと考えます。この場合はこの寿司と「手の字」は同じでしょう。 なお、邦枝完二 作の「恋あやめ」(1953年、朝日新聞社)の「新世帯」には「郵便局前の屋台ずし『ての字』ののれんに首を突っ込んで」と書いています。これは少なくとも広津和郎氏が描いた「手の字」ではないと思います。
6丁目
文学と神楽坂
サトウハチロー 著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。
肴( さかな ) 町( まち ) の電車通り を越して、ロシア菓子ヴィクトリア の横( よこ ) 町( ちょう ) を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょう があった。新潮社の大支配人、中根駒十郎 大人( たいじん ) が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒につ( 、 ) る( 、 ) をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電( とうでん ) がある。神楽( かぐら ) 坂( ざか ) の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面( ぜんめん ) いっぱいについている。その中( うち ) で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみるば( 、 ) か( 、 ) もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局 を右に見てずッと行く。教会 がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院 とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林髞( たかし ) こと木々( きぎ ) 高( たか ) 太( た ) 郎( ろう ) の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を蔵( ぞう ) していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士( はかせ ) は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸( いわと ) 町( まち ) の竹中書店 へ行った。肴町から若松町 のほうへ十二、三間げん 行った右側だ。竹中のおやじから金を受けとると、おゝ一路ろ 、新(もう言わなくともよかろう)……木々高太郎博士の温顔おんがん を胸に浮かべつゝ、早稲田へと向かう。
肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
ロシア菓子ヴィクトリア どこにあったのか、不明です。
岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。本文で出てくる「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」でしょう。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。
また『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では
洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました。
松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では
山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。
この六丁目の本屋さんは「文悠」(神楽坂6丁目8、「よしや」の東)です。これがロシア菓子ヴィクトリアだったのでしょうか。下の地図では「カンコーバ(文明館)」(現在は「よしや」)と「シャシン」(現在は「とんかつ大野」)との間に「ロシア菓子ヴィクトリア」が入ることになります。
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。本文の「ロシア菓子の前に東電がある」からすると、東京電力はおそらく神楽坂通りの南側で、向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば
矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。
となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに
赤い丸 で囲んであります。
昭和16年の矢来町
教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角 で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角 ) でした。別の地図2葉もありました。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」から「Family Mart」になっています。
昭和5年「牛込区全図」
昭和12年「火災保険特殊地図」
「マクドナルド 神楽坂駅前店」。現在は「Family Mart」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」
木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴 氏は
僕の住んでいた赤城元町十一番地 、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎 のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎 や、宇野浩二 、斎藤寛 、加藤武雄 などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫 がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英 君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。
赤城元町11番地 この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の
青紫の四角 で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。
作家
文学と神楽坂
「スーパーよしや」について、最初は文明館の勧工場 、次に文明館の映画館になり、それから映画館の武蔵野館から短期的に百貨店アカカンバンになり、1977年(昭和52年)からは柳町店と神楽坂店を同時開店した「スーパーよしや」です。場所はここ 。 初めは1945年(昭和20年)、創業者、小泉長三氏が中板橋15番地に「よしや」の屋号で食料品店を開業しました。
野口冨士男氏の『私のなかの東京』(「文学界」昭和53年、岩波現代文庫)によれば
船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館 という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ松本訓導』などという映画ー当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙 をしばった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二 の人気にしろ今日の評価とは違って、お涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズムの顕現 として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会 などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。
勧工場 多くの商店が規約を作り、組合制度を設けて一つの建物の中に種々の商品を陳列し、即売した所。
紅涙 こうるい。(美しい)女性の流す涙。血の涙。血涙。
顕現 けんげん。はっきりと姿を現すこと。はっきりとした形で現れること
ニコニコ大会 戦前~昭和30年代、短編喜劇映画の上映会は「ニコニコ大会」という慣わしがあった。
よしや
6丁目
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