カテゴリー別アーカイブ: 神楽坂6丁目

花豊|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

平成6年花、スーパーよしやの反対側に三上ビルが建ちました。大家の名前からつけたもので、花屋の「花豊はなとよ」を営業中。場所はここ

『かぐらむら』によると

創業1835年、東京で一番古い由緒正しいお花屋の六代目。お店の横にひっそりたたずむ創業時の屋号「花屋豊五郎」の石碑は、知る人ぞ知る江戸散歩の穴場です。

創業1835年なので、もう200年近くになります。

 
花豊

花豊

 
平成7(1995)年、『ここは牛込、神楽坂』第3号で、一家の

かおりさんが新しいお店のために掲げたキャッチフレーズがある。 SAY IT WITH FLOWERS。日本語で添えた言葉が「想いを花に託して」。ところが、かおりさんは六〇年前のお店の写真を見て驚いた。その看板の一番上に「ええ、英文で全く同じフレーズが記されていたんです」(図)

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つまり、1935年でも「SAY IT WITH FLOWERS」を使っていました。

say it with flowersこれはもともとは米国で「母の日」に花屋が贈る言葉でした。1914年に米国は「Mother’s Day」を祝日にしました。そして、1918年、米国生花通信連合会(Flower Wire Service)は“Say it With Flowers”をスローガンにしました。「心を花で伝えよう」です。itは環境の‘it’で、漠然とした環境や不定のものをさします。米国では今でも花屋の宣伝文句に使っています。

なお、サザンカンパニーもここの8階です。タウン誌「かぐらむら」を作っていますが、ほかにも雑誌・新聞広告の企画・編集・制作、販促用カタログ・パンフレット・ポスター・DM・CFの企画・編集・制作、企業・団体の公報・PR、各種PR誌の企画・編集・制作、出版企画・編集・制作などなどあらゆるものの編集・制作・PRしています。

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魚浅|鮮魚店

文学と神楽坂

魚浅は鮮魚(せんぎょ)(てん)、つまり魚屋です。魚浅1
 
近年では魚の販売はスーパーが主流で、魚屋はなくなりつつあります。地魚だけで広範囲の流通を行うのはまず量が足りず売れず、また、そもそも魚の料理方法が解らないため売れません。
1番うまい食べ方は、その日に採れた魚をその日に食べること。が、これは鮮魚店はできてもスーパーではできません。
たとえばカツオです。東京ではカツオはあっという間に悪くなるので最近まではカツオはタタキでないと食べられませんでした。
 
八丈島に出向し、その間、生のカツオがこんなにおいしいなんてと初めて知りました。
1日遅れると、生ではだめなものがある。魚屋でその日に採れた魚をその日に売るのは大丈夫でも、スーパーでは売れない。魚屋があるなしが、新鮮でうまい魚が食べられるかどうかと直結しています。
現在1軒だけが残っている「魚浅」。明治34(1901)年、創業。現在、週に1回しか開いていません。新鮮で美味な魚があとどれぐらい食べられるでしょうか。
魚浅
駒坂 瓢箪坂 白銀公園 一水寮 相生坂 成金横丁の店 漱石と『硝子戸の中』 矢来屋敷 矢来公園
神楽坂5丁目 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁
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文学と神楽坂

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神楽坂6丁目

文学と神楽坂

神楽坂6丁目は神楽坂上から西に行き、矢来町になるまでの場所です。
安養寺船橋屋スーパーよしや花豊コボちゃんの像キムラヤ音楽之友社などは活動中。
昔の店舗としては、いろは牛込亭ヤマニバー、舛屋、蝋燭屋などがあげられます。
神楽坂6丁目

神楽坂6丁目

kimuraya

Kimuraya

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求友亭|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

求友亭はきゅうゆうていと読み、通寺町75番地(今は神楽坂6丁目)にあった料亭です。現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って横丁の右側にありました。
夏目漱石氏が『硝子戸の中』の16章

彼(床屋)はそれからこの死んだ従兄(いとこ)について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日(きのう)の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。
「あのそら求友亭(きゅうゆうてい)の横町にいらしってね…」と亭主はまた言葉を継つぎ足した。
「うん、あの二階のある(うち)だろう」
「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様(ほうぼうさま)から御祝い物なんかあって、大変御盛(ごさかん)でしたがね。それから(あと)でしたっけか、行願寺(ぎょうがんじ)寺内(じない)へ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。

ここで「しっきゃ」について。「しっきゃ」は「しか」と同じで「昨日の事と『しか』思われないのに」です。江戸なまりですね。

この「求友亭の横町」はかつて「川喜田屋横丁」と読んでいました。赤の四角で書いたものは求友亭、青で書いたものは川喜田屋横丁です。地図は昭和5年(1930年)の「牛込区全図」です。
川喜田屋横丁と求友亭
川喜田屋横丁と求友亭(75番)

求友亭があった場所。通寺町(現在は神楽坂六丁目)75番

現在の神楽坂六丁目75番に相当する場所(75番はなさそうです)

新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では

 当時待合で大きな所といえば重の井、由多加、松ケ枝、神楽、梅林、喜久川といったところか? 料理屋では末よし、ときわ亭、求友亭だろう。末よしといえば、ここは芸者に大へん厳しくするお出先だ。

正宗白鳥氏の『神楽坂今昔』では

私は學校卒業後には、川鐵の相鴨のうまい事を教へられた。吉熊、末よし、笹川、常盤屋、求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。

江見水蔭氏の「自己中心明治文壇史」(博文館、昭和2年)では

求友亭の女將は、相川傳次といふ消防夫の頭の實妹で、藝妓にも出てゐた、所謂女傑型の女で有つた。市川小團次とは深い間であつたが、それと知つてか知らずか、谷干城將軍が特別に贔屓にされてゐたのであつた。

以上、求友亭でした。

船橋屋[昔]

文学と神楽坂

 和菓子「船橋屋」はかつて神楽坂6丁目67にあった店舗で、現在は名前は変わり、「神楽坂FNビル」に変わりました。これは、1984年竣工、10階建ての賃貸オフィスビルです。なぜかシャッターはいつも閉まったままです。場所はここ

FNビル

昭和13年4月号の「製菓実験」では

      船橋屋

倉本
 入口のアイランド・ケース[鳥型欄]は、客の出入に邪魔になる。どうせ、この店の構えでは、このケースの品は賣れることが少いので、經營者は大したものと考へてはゐないのであろうけれど、商賣の上から行くと、この入口の二本のケースのある場所は一番大切なところなので、氣の利いた店ならばここにオトリ(、、、)ワナ(、、)を、しかけることになつてゐるのである。かゝる最上の場所をイヽカゲンにすることは許されない。陳列窻の中も、これではよくない。見たところ、相當大きな店らしいのに、如何にも殘念なこととおもふ。

 取り立てゝいゝ處も無い代りに、大きな缺點も無い店である。
 欄間の構造をも少し軽快に造つたならば、上から壓迫されるやうな感じが無くなつて、もつと入りよい店になるであらう。入口の二箇のシヨーケースは目立つて相當効果はあると思はれるが、場合に依つてはこの爲に入りにくゝいてゐるとも考へられる。このまゝではガラス戸は是非全部開放して置かないと中との連結が斷たれる恐れがあらう。

広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では

私は肴町の角に出る少し手前の通寺町通の右側に、「船橋屋本店」という小さな菓子屋の看板を見つけると、そこに入って行った。これは私の子供の時分から知っている店で、よくオヤツの菓子を買いに来たものである。私はそこまで来る間にも、昔知っていた店が残っているかと思って、町の両側の店々を注意して眺めて来たが、どこも記憶にない店名ばかりであった。そこに船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。
 私は店番をしている店員に訊いた。
「ここは昔の船橋屋か知ら」
「はい、昔の船橋屋でございます」と店員は答えた。
「代替りはしていないの」
「はい、代替りはして居りません。何でも五代続いているそうでございます」
 私は店員に大福を包んで貰った。

野口冨士男著の『私のなかの東京』「神楽坂から早稲田まで」(昭和53年)では

現在では餅菓子の製造販売はやめてしまったらしく、セロファンの袋に包んだ半生菓子類がならべてあった。日本人の嗜好の変化も一因かもしれないが、生菓子をおかなくなったのは、寺町通りのさびれ方にも作用されているのではなかろうか。

かぐらむら』によれば

 船橋屋(通寺町『製菓実験』昭和13年4月号/国立国会図書館蔵)
 創業明治3年の和菓子と喫茶の店である。船橋屋本店として相当に繁盛していたことが、3階建ての店舗から伺える。ひさしの上に植木が並べられているのが、いかにも「昔」の風景だ。1階、向かって右の階段(植物の蔭)が、喫茶の入口だったのだろう。春先らしく、桜もち、草もちと大書きされた紙が貼られている。
 船橋屋は、通寺町67番地にあった。戦後も営業が続けられていたが、今は「FNビル」というオフィスビルになっている。

「コボちゃん」と思うブロンズ像

文学と神楽坂

コボちゃん@神楽坂6丁目

コボちゃん@神楽坂6丁目


2015年8月16日、何かのブロンズ像が神楽坂6丁目に登場しました。これはなんなのと聞いてもわからないものになっています。たぶん「コボちゃん」ですが、自信はありません。どこにも名前は書いていません。いずれ名前をつけたプレートができると信じます。どこにもないもんなあ。作者の植田まさしさんはここに住んでいるのこと。
なお、以前はここはサトーヤでした。
すいません、名前は後に描いてありました。でも最初はなかったと思う。ほんとかなあ。場所はここ
コボちゃんと植田まさし

文学と神楽坂

続こしかたの記|鏑木清方

文学と神楽坂

鏑木(かぶらき)清方氏が書いた『続こしかたの記』の「夜蕾(やらい)亭雑記(1)」では

前記田原屋に並んで太田屋といふ半襟店があつた。銀座には襟善ゑり圓の專門店もあるが、この土地には太田屋が繁昌して、山川はそこの主人と心安く、圖案の相談にも乘つてゐたやうである。半襟に數奇(こら)したのは明治、大正を盛りとしてその後、だんだん影を消した。紙の相馬屋、菓子喫茶の紅谷も土地の名物であつた。神樂坂通から電車道を越す通寺町には今は見かけぬ砂糖屋 蝋燭屋の專門店もあつた。

ここでは砂糖屋と蝋燭屋はどこにあるの、というのが問題です。でも、その前に、他の問題もやっておきます。

田原屋 神楽坂5丁目南側にあった1階は果物屋、2階は洋食屋。現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。
太田屋 河合慶子氏は『ここ牛込、神楽坂』第3号の『懐かしの神楽坂』で「肴町界隈のこと」を書き、

ワラ店の角の「太田半衿店」。箱にきれいに並んだ半衿の、赤・黄・緑と色とりどりの鮮やかさ。

現在は和菓子の『五十鈴(いすず)』です。
半襟 半襟装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢(じゅばん)などの(えり)の上に縫いつけた替え襟。
襟善 ゑり善。えり善。中央区銀座5丁目6-7。和服店。
ゑり圓 ゑり円。えり円。中央区銀座4丁目6−10。和服店
山川 秀峰。やまかわ しゅうほう。生まれは明治31年〈1898年〉4月3日。死亡は昭和19年〈1944年〉12月29日)。日本画家、版画家。美人画で有名です。大正2年(1913年)に清方に入門し美人画を学びました。
数奇 すうき。ふしあわせ。不運。運命がさまざまに変化すること…となるのですが、おかしい。数奇ではなく、数寄だとすると…数寄は「すき」と読み、風流・風雅に心を寄せること。数寄(すき)を凝らす。建物・道具などに、風流な工夫を隅々までほどこすことと…このほうが正しいと思っています。一瞬、私が書いたものが違ったではと不安でしたが、鏑木清方氏からして違っていました。
相馬屋 神楽坂5丁目北側にある文房具屋。現在も健全です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。現在の大久保通り。昔はここに路面電車ができていました
通寺町 現在の神楽坂6丁目のこと。

太田半衿

砂糖屋 『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった『寺内』」を書き、そこに「サトーヤ」が出ています。これが砂糖屋だったのでしょうか。

サトーヤ

  『ここは牛込、神楽坂』第15号の「続こしからの記」の解説で、「砂糖屋は砂糖問屋の升屋、蝋燭屋は、現模型店の駿河屋」と書いてあります。『地籍台帳・地籍地図[東京]6・地図編2』(大正元年)で調べると、神楽坂6丁目59番地には舛屋砂糖店と書いていました。(ます)屋砂糖店、あるいは(ます)屋砂糖店は、江戸時代に砂糖を取り扱った問屋でした。明治以後、中国・オランダ以外に欧米諸国からの輸入も開始、輸入品の値段が下がり、砂糖問屋は大打撃を受けて、多くが没落することになりました。舛屋はここです。

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  都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和12年)と平成10年の『ゼンリン住宅地図』では下の通りです。上の四角、59番地が砂糖屋さんでした。
2015年に立てられたコボちゃんの像も書いています。

砂糖・蝋燭 2

蝋燭屋 これは神楽坂6丁目64番地です。場所はここ
蝋燭とは、糸や紙縒りを芯にして、蝋を固めた円柱状の灯火用具。この蝋燭屋は、模型店の駿河屋に変わります。駿河屋については雑誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」(03)「神楽坂6丁目辺り」で

古く、落ち着いた建物に、模型やフィギュアなども置いてあって、ショーウインドーを覗く楽しみがあった。適度な明るさと、ホッとするような懐かしさが混在していた。閉店前の1カ月は、バーゲンセールで、なぜかロシア製とドイツ製の戦車が売れ残っていたので半額で買いました。でも、まだ組み立てていません。

駿河屋も今はなく、東京パーク神楽坂第1駐車場に変わり、さらに現在は自転車の「SAKULA」などに変わりました。下の写真は、左側がSAKULA、右側は昔の砂糖屋です。今はパークリュクスです。

砂糖と蝋燭 現在

文学と神楽坂

手の字|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた「手の字」の場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

が散歩から帰って来て、
「今手の字に寄ったら、尾崎が若い連中をつれて来ていた」など書生に話しているのを聞いたことがあった。
 手の字というのは、肴町の方から通寺町に入って直ぐ左手の路地に屋台を出していた寿司屋で、硯友社の人達はこの寿司屋を贔屓にしてよく出かけて行ったものらしい。
 この手の字はずっと後まであって、近松秋江氏などもよくそこに立寄って、おやじから紅葉の思い出話などを聞いたらしい。私が早稲田を卒業したのは大正二年であったが、その頃もその寿司屋はまだそこに出ていた。

肴町 現在の神楽坂五丁目です
通寺町 現在の神楽坂六丁目です
路地 ろじ。狭い道。「横丁」にも同じようなニュアンスがありますが、「路地」では更に狭く隣接する建物の関係者以外はほとんど利用しない道です。

手の字1 これからは全くの空想ですが、次の場所が正しいと思っています。まず下の左図を見てください。明治29年の東京市牛込区全図の1部です。赤い丸を見ると、ここに道路3本が集まっています。赤丸から西北西に出るのが「通寺町通り」、反対側の東南東にずっと行くと「神楽坂通り」になります。南西南に行くのは江戸時代では「川喜田屋横丁」と呼ばれ、明治時代には無名の路地でした。拡大すると、下の右図になり、その中に寿司屋「手の字」があったのでしょう。

ちなみに昭和6年、横井弘三氏が書いた『露店研究』を読むと、

まづ牛込郵便局から出発して坂を下らう。右側に寿司、おでん、左側にある、古本、八百屋、ミカン、古本、表札、古本、XX、古着、眼鏡、電気、靴墨、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺刷り、古本、柳コリ(略。ここから愈々露店は両側になる)

 当時の牛込郵便局は現在の「音楽の友社」(神楽坂6-30)にありました。そこから下を向いて右側には露店2店、左側には19店が並びます。この左側の19店は恐らく等間隔に近い形で並んでいたのでしょう。では右側の2店はどう並んでいたのでしょう。しかも右側の1店は寿司が出てきます。これは「手の字」であったのか、違ったのでしょうか。

   明治時代には、この地図で見られるように赤丸から西北西に進む通寺町通りは急に狭くなりました。明治29年の上の東京市牛込区全図ではそうなっています。露店も同じです。赤城神社から出発しても、初めは道路は狭く、当然、露店用の面積も狭く、そのため、露店は一方向だけ、つまり北側だけにできたのではなかったのでしょうか。道路が広くなる赤丸を超えてから、初めて露店は両側にできたのです。つまり、赤城神社から神楽坂の方に来る場合、最初は北側の露店だけがあり、しかし、南側は何もなく、南側にできるのは川喜田屋横丁を超えた所からで、そこに寿司とおでんの2つがあったと考えます。この場合はこの寿司と「手の字」は同じでしょう。
 なお、邦枝完二作の「恋あやめ」(1953年、朝日新聞社)の「新世帯」には「郵便局前の屋台ずし『ての字』ののれんに首を突っ込んで」と書いています。これは少なくとも広津和郎氏が書いた「手の字」ではないと思います。

文学と神楽坂

サトウハチロー|木々高太郞など

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。

(さかな)(まち)電車通りを越して、ロシア菓子ヴィクトリア(よこ)(ちょう)を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょうがあった。新潮社の大支配人、中根駒十郎大人(たいじん)が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒に()()をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電(とうでん)がある。神楽(かぐら)(ざか)の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面(ぜんめん)いっぱいについている。その(うち)で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみる()()もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局を右に見てずッと行く。教会がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林(たかし)こと木々(きぎ)(たか)()(ろう)の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を(ぞう)していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士(はかせ)は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸(いわと)(まち)竹中書店へ行った。

肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。

ロシア菓子
ヴィクトリア
 どこにあったのか、不明です。
 岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。昭和になってから「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」に変えています。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。ロシア菓子ヴィクトリアは多分この2店のどちらかでしょうか。
 また、『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では「洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました」。松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。
  神楽坂6丁目
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。現在の反対側は向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば
「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」
となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに赤い丸で囲んであります。
昭和16年の矢来町

昭和16年の矢来町

教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院

昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角でした。別の地図を書いておきます。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」などができています。

林医院

昭和5年「牛込区全図」

林医院

昭和12年「火災保険特殊地図」

木々高太郞

現在の「マクドナルド 神楽坂駅前店」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」

木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。

 木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴氏は

僕の住んでいた赤城元町十一番地、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎や、宇野浩二斎藤寛加藤武雄などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。
赤城元町
11番地
この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の青紫の四角で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人

文学と神楽坂