銀扇は喫茶店で、左側上り囗、私の考えでは、神楽坂二丁目にありました。昭和5年頃の神楽坂で銀扇の出店はまだなく、しかし、昭和8年には出店し、少なくとも昭和14年にもありました。戦後はなくなりました。
白木正光氏の「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)では
坂の中腹左側。ベーカリー式の菓子、喫茶、カツレツ御飯(25銭)等婦人連にも好かれ相な店です。 |
安井笛二氏の「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では
銀扇堂 坂の中腹左側。ベーカリー式な家で、比較的落付いた店です。喫茶の外にランチも出來コーヒーとケーキは此の店自慢のものです。場所柄粹な婦人連がよく出入りし、學生間にも却々好評です。高級の喫茶として、レコードにゆっくり落付ます。此所の洋菓子はなか/\うまい。 |
なお、「却々」は「なかなか」と読みます。
『製菓実験』昭和14年4月号で描く銀扇(牛込神楽坂)は
![]() 尤も、こゝは以前、資生堂の店だつたのを、そのまま入れ變つたところだから、わざわざつけたのではない。 |
中村武志氏の「目白三平のあけくれ」(大日本雄弁会講談社、昭和32年)では
この「田金」果実店の並びに、「志満金」という蒲焼屋があるが、そのあたりに、当時は「ギンセン」という喫茶店があった。「ギンセン」では、二十五銭のカレーライスと、三十銭のハヤシライスを食べさせてくれた。味が非常によかったから、金のある時は、ここへいつも来たものだ。 |
同じく中村武志氏で、「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」(昭和46年)から「ここは牛込、神楽坂」第17号に転載)で
戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。 |
坂の中腹にあった。ベーカリー式の菓子喫茶で、コーヒーとケーキはこの店の自慢のもの。ランチもあり、カツレツご飯は25銭。高級喫茶としてレコードを聴きながら、ゆっくり落ち着ける店だった。この写真の注目すべき点は、左側2個の六角形の電灯である。ここは、震災後資生堂の店だったのを、そのまま入れ替わったため、お菓子屋に不似合いな装飾電灯がついているのだそうだ。 |