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新版私説東京繁昌記|小林信彦

文学と神楽坂

 平成4年(1992年)、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出ています。いろいろな場所を紹介して、神楽坂の初めは

 山の手の街で、心を惹かれるとまではいわぬものの、気になる通りがあるとしたら、神楽坂である。それに、横寺町には荒木氏のオフィスがある。

以下、永井荷風「夏すがた」からの引用、加能作次郎「大東京繁昌記」山手篇の〈早稲田神楽坂〉からの引用、サトウ・ハチロー「僕の東京地図」からの引用、野ロ冨士男氏「私のなかの東京」からの引用があり、続いて

 神楽坂について古い書物をめくっていると、しばしば、〈神楽坂気分〉という表現を眼にする。いわゆる、とか、ご存じの、という感じで使われており、私にはほぼわかる

「山の手銀座」はよく聞きますが、「神楽坂気分」という言葉は加能作次郎氏が作った文章を別として、初めて聞いた言葉です。少なくとも神楽坂気分という表現はなく、国立図書館にもありません。しかし、新聞、雑誌などでよく耳に聞いた言葉なのかもしてません。さて、後半です。

 荒木氏のオフイスは新潮社の左側の横町を入った所にあり、いわば早稲田寄りになるので、いったん、飯田橋駅に近い濠端に出てしまうことに決めた。
 そして、神楽坂通りより一つ東側の道、軽子坂を上ることにした。神楽坂のメイン•ストリートは、 いまや、あまりにも、きんきらきん(、、、、、、)であり、良くない、と判定したためである。
 軽子坂は、ポルノ映画館などがあるものの、私の考えるある種の空気(、、、、、、)が残っている部分で、本多横町 (毘沙門さまの斜め向いを右に入る道の俗称)を覗いてから、あちこちの路地に足を踏み入れる。同じ山の手の花街である四谷荒木町の裏通りに似たところがあるが、こちらのほうが、オリンピック以前の東京が息づいている。黒塀が多いのも、花街の名残りらしく、しかも、いずれは殺風景な建物に変るのが眼に見えている。
 大久保通りを横切って、白銀(しろがね)公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱してい るのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。
「女の子の顔がきれいだ」
 と、荒木氏が断言した。
白銀坂 おかしいかもしれませんが、白銀坂っていったいどこなの? 瓢箪坂や相生坂なら知っています。白銀坂なんて、聞いたことはないのでした。と書いた後で明治20年の地図にありました。へー、こんなところを白銀坂っていうんだ。知りませんでした。ただし、この白銀坂は行きたい場所から垂直にずれています。
きれい 白銀公園を越えてそこで女の子がきれいだというのもちょっとおかしい。神楽坂5丁目ならわかるのですが。
 言うまでもないことだが、花街の近くの幼女は奇妙におとなびた顔をしている。吉原の近くで生れた荒木氏と柳橋の近くで生れた私は、どうしてそうなるのかを、幼時体験として知っているのだ。
 赤城神社のある赤城元町、赤城下町と、道は行きどまるかに見えて、どこまでも続く。昭和三十年代ではないかと錯覚させる玩具と駄菓子と雑貨の店(ピンクレディ(、、、、、、)の写真が売られているのが凄い)があり、物を買いに入ってゆく女の子がいる。〈陽の当る表通り〉と隔絶した人間の営みがこの谷間にあり、 荒木氏も私も、こちらが本当の東京の姿だと心の中で眩きながら、言葉にすることができない。
 なぜなら、言葉にしたとたんに、それは白々しくなり、しかも、ブーメランのように私たちを襲うのが確実だからだ。私たちは——いや、少くとも、私は、そうした生活から遁走しおおせたかに見える贋の山の手人種であり、〈陽の当る表通り〉を離れることができぬ日常を送っている。そうしたうさん臭い人間は、早々に、谷間を立ち去らなければならない。
 若い女を男が追いかけてゆき、争っている。「つきまとわないでください」と、セーターにスラックス姿の女が叫ぶ。ちかごろ、めったに見かけぬ光景である。
 男はしつこくつきまとい、女が逃げる。一本道だから、私たちを追い抜いて走るしかない。
 やがて、諦めたのか、男は昂奮した様子で戻ってきた。
 少し歩くと、女が公衆電話をかけているのが見えた。
 私たちは、やがて、悪趣味なビルが見える表通りに出た。
どこまでも続く う~ん、かなり先に歩いてきたのではないでしょうか。神楽坂ではないと断言できないのですが。そうか、最近の言葉でいうと、裏神楽坂なんだ。
表通り おそらく牛込天神町のど真ん中から西の早稲田通りに出たのでしょう

これで終わりです。なお、写真は1枚を出すと神楽坂の写真

これは神楽坂通りそのものの写真です。場所は神楽坂3丁目で、この万平ビルは現在、クレール神楽坂になりました。

1990年の神楽坂

1990年の神楽坂

文学と神楽坂

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本家鮒忠|神楽坂

文学と神楽坂

本家鮒忠は、なんと3階大宴会場を使うと、80人の宴会も大丈夫です。また、3階は部屋を3つに分けられるので40名や20名までの宴会も可能。おそらく神楽坂で最大の宴会場でしょう。地図はここに。

宴会4名様個室~80名様の室ご用意します。料理2100円から。飲み放題1400円2時間。
串焼、うなぎがメインで季節ごとにおすすめメニューで旬の味をお楽しみいただけます。

本家鮒忠
昔、関東大震災後には銀座の村松時計店もここにはいっていました。細かくはここを。

たとえば1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の商店繁昌記では

ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店と資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)

場所は「本家鮒忠」になっています。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

相川さん この「船橋屋」というのはお汁粉屋。これは、戦争中に「シンセイ堂」っていう薬局があったんです。船橋屋のあとに。そのあとが小間物屋。小間物屋さんが店を閉めるについて、一時、銀座の「村松時計店」が大きくあそこに入っていた。これも銀座の方に新しく(店舗が)できたからってんで引き上げた。そのあとに船橋屋が来た。
馬場さん それから薬屋で、戦災で焼けたときにはなんだったんですか?
相川さん 薬屋でおしまいになったんでしょ。
馬場さん 嘘だよ、薬屋じゃないよ。焼けるときは薬屋じゃなかったよ、ここは
>山下さん それで、戦後はどうですか?いちばん最初は「ノーブル」?
相川さん 「ノーブル」。喫茶をやっていた。
馬場さん ノーブルさんのあとへすぐ鮒忠ですか?
相川さん そうですね。
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大東京繁昌記|早稲田神楽坂15|心のふるさと

文学と神楽坂

心のふるさと

神楽坂附近の散歩が長くなり過ぎて、早稲田方面に費すべき予定の時間が殆ど無くなってしまった。早稲田は私の「心のふるさと」である。大学を中心として、あの附近一帯から戸塚落合の方にまでも、至る処に私は私の足跡を見ざることなく、見るものすべてなつかしい思い出の種ならざるはないが、今は一々その跡を尋ねて歩く暇のないのを惜しく思う。
  (都の西北、早稲田の森に……
 今はそこらの幼稚園の生徒でも、何かというとすぐ口癖のように歌い出す程あまねくひろまったこのなつかしい「われ等が母校」の歌が、はじめて「早稲田の森」から歌い出されたのは、明治四十年の秋、大学創立二十五年記念祭の折のことだった。私はその年の春大学に入ったのであるが、いわばあの歌は、当時在学の私達によってはじめて歌われ出したのであった。亡くなった東儀鉄笛氏が、震災で倒れたというあの東京専門学校時代からの記念的建物だった当時の大講堂に、幾回も私達全校の学生を集め、あの巨体を前後左右に振り廻し、あの独特の大きな両眼をぎろつかせ、渾身こんしんこれ熱これ力といった有様で指揮棒を振り、私達にあの歌詞(相馬御風氏作)と曲譜とを教えたのであったが、記念祭の当日大隈故侯の銅像除幕式をはじめ色々の祝典が催され、夜には盛んな提灯行列が行われて、今の野球々場を振出しに、鶴巻町通りから矢来神楽坂を経、九段からお濠に沿うて宮城二重橋前まで、はじめて皆一斉に「都の西北」を高唱しながら練歩ねりあるいて行ったその時の感激的な光景は、今もなお眼前に彷彿ほうふつとしている。
早稲田大学

心のふるさと『大東京繁昌記』。早稲田大学です

戸塚落合 新宿区以前の戸塚村と落合村。新宿区の全体は地図上では牛1頭によく似ています。で、戸塚村と落合村はこの頭と背中に当たります。高田馬場などになりました。
大講堂 昭和2年に竣工した早稲田大学大隈記念講堂(大隈講堂)ではありません。その以前の講堂です。早稲田大学校友会の『早稲田大学八十年の歩み』(1962年)では赤で囲んだ校舎「へ」が当時の講堂になっています。

早稲田2

相馬御風 そうま ぎょふう。生年は1883年(明治16年)7月10日。享年は1950年(昭和25年)5月8日。詩人・歌人・評論家。早稲田大学文学部哲学科卒業。早稲田大学校歌「都の西北」をはじめ、多くの校歌や童謡の作詞者
大隈 大隈 重信。おおくま しげのぶ。生年は天保9年2月16日(1838年3月11日)。享年は大正11年(1922年)1月10日。政治家、教育者。政治家としては大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員など。早稲田大学の創設者で、初代総長。
野球々場 野球場現在は早稲田大学総合学術情報センターです。
鶴巻町通り 現在は「早大通り」。昔は鶴巻(町)通りともいいました。鶴巻町通りの範囲は早大正門前から山吹町交差点まで。なお、提灯行列をしたのは以下の通り。ルートは早稲田大学から二重橋前までです。

早稲田32

彷彿 ありありと想像すること。よく似ているものを見て、そのものを思い浮かべること
爾来星霜ここ二十年、大学それ自身の発展や拡張も、当時に比して実に隔世の感があるが、それにつれて附近一帯の変化発展も目ざましく、田甫の早稲田茗荷畑の早稲田は、今はただいたずらに其名を残すのみとなった。私が学校にいた頃には、今電車が走っている鶴巻町裏一帯の土地、即ち関口滝あたりからずっと先、遠く山吹の里なる面影橋附近まで一面の田野で、東電変圧所赤煉瓦あかれんがの建物が、その田圃の真中にただ一つぽつんと、あたりの田園的風光と不調和に、寂しくしかも物々しく立っているのみで、蛙の声が下宿屋の窓に手に取るように聞え、蛍の飛び交うのが見えたりしたものだったが、そうした旧時のおもかげなどはうの昔に跡方もなく、今は一面にぎっしり家が建て詰まり、すっかり見違えてしまった。殊に電車終点附近近来の発展は驚くべきで、戸塚方面から球場前を抜けてここへ出る道路が開けたのと相まって、やや場末的な感じながらもそこにまた一廓の繁華な盛り場を形造り、早稲田の中心鶴巻町通りの繁華を、次第にそこに移動せしめつつあるが如き観もないではない。
茗荷畑 江戸時代に早稲田村や中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町と山吹町)で生産しました。ここに生えるみょうがは赤みが美しく、大振りで晩生おくてのものでした。
鶴巻町 早稲田鶴巻町。早稲田村の鶴巻からとっています。元禄のころ、小石川村の放し飼いの鶴が早稲田村にも出没し、鶴巻町になりました。この中で真ん中を水平に通る道路は「早大通り」と呼び、以前は「鶴巻(町)通り」と呼びました。早稲田鶴巻町
関口滝 明治43年の「牛込区の地形図」では下図で右の赤い四角です。
山吹の里 太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ると、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないという意味だと分かりました。この伝説の土地はいろいろありますが、その1つは都電荒川線面影橋の傍、豊島区高田1-18-1で、ここには「山吹の里の碑」があります。
面影橋 下図で左の赤い四角です。関口滝から面影橋まで周りは一面の「湿地」でした。
東電変圧所 下図で赤丸です。現在は、西早稲田1-13-17で、ここは東京電力早稲田家族寮がありました。この東電変圧所は赤レンガ造りで、明治の終わりに山梨県から高圧の電気を送っていました。下図を見ると、東電変圧所から南に大隈邸が見えます。これは大隈会館になり、現在は大隈庭園に変わっています。また中央左の運動場は早稲田大学運動場です。

関口滝から面影橋

道路 運動場1昭和4年の「戸塚町市街図」を見ると、運動場の南に新たな道路が生まれています。右図では右上から左下にかけての赤線の道路です。現在も同じ道路があります。
鶴巻町通りは、何といっても早稲田で唯一の目抜きの大通りである。だが私があすこを通る毎に思うことは、あの通りが大学前から一直線に山吹町羽衣館前まで、町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたりして、もっと感じのよい、品位にも富んだ、本当にいわゆる大学街といった風な、そして万余の学生諸君のためには、しっとりとした湿うるおいと温かい情味とに富んだ、心地よき散歩街ともなるようなものにならないだろうか、ということである。そうしたらどんなにいいだろう。又現に著々とその輪廓を整え、益々外観の美を増しつつある大学自身もどんなに引立って見えることだろう。穴八幡附近も、すぐ下に高等学院が出来たりしたためもあって、馬場下の通りでも、坂上の旧高田馬場跡下戸塚通りでも、見違えるほど明るい繁華な町になった。
 実は私は大学を中心として、それをめぐって近来異常な発展をなしつつあるいわゆる「早稲田」の名のもとにおける地方について、つぶさにその変遷推移の跡を尋ね、既往を回顧し現在を叙し学生々活の今昔をも物語るつもりであったが、与えられた回数がすでに尽きたので、一方にのみ偏して甚だ申し訳なき次第だが、止むなくこれを他日の機会に割愛し、ここにわが愛する「心のふるさと」なる母校並びに全早稲田のために万歳を三唱して、以てこの稿を終ることとする。(昭和二年六月)
山吹町羽衣館

赤城神社の氏子町の説明で「娯楽場として(一百九十三番地に明治四十二年四月建設)の常設活動写真羽衣館」があったと書いています。しかし、193番地はどこなのか、正確にはわかりません。昭和5年の『牛込区全図』では193番地がありません。

 また、『歩いて完乗 あの頃の都電41路線散策記』(http://blog.livedoor.jp/toden41/archives/21379053.html)では、「都電時代は早稲田の学生街に続く神楽坂の裏町としても賑わいを見せた一画で、電停跡地付近には「羽衣館」という映画館もありました。映画館は戦後も存続し、昭和末年頃にひっそりと姿を消しています」と書いています。

 1970年の「新宿区・1970年度版・渋木逸雄」(国立図書館)の地図では羽衣館はどこにもないのですが、「牛込文化劇場」がありました。「電停跡地付近」にあるので、ここでいいのでしょう。現在は「トヨタレンタリース東京山吹町店」です。

牛込文化劇場と出ていましたが、山吹町羽衣館でしょう

牛込文化劇場(羽衣館)

散歩街 「大学前から一直線に町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたり」した道路が筆者の希望でした。しかし、実際にそうなってしまいました。こんな学生街はまあほかにはないと思います。
穴八幡 穴八幡宮。あなはちまんぐう。新宿区の市街地にある神社。利益は蟲封じ、商売繁盛や出世、開運など。旧称は高田八幡宮。下の絵では水色の丸。「高田馬場の流鏑馬」の標板があります。
高等学院 早稲田高等学院のこと。しかし、この高等学院は練馬区上石神井に移動し、現在は早稲田大学戸山図書館になっています。下の図では青の四角。
馬場下の通り 馬場下町を通る道路は1つだけです。したがって、下図の1つしかありません。
下戸塚通り 下戸塚村には道路が複数あります。しかし、旧高田馬場跡という名前から考えられる通りは2つ。1つは旧高田馬場跡の上(下の図では旧高田馬場の上方の細い青)、1つは旧高田馬場跡の下(下方の太い青)。しかし下の1つははるかに幅が広いので、この通りでしょう。昭和5年にはもう下の通りのほうが広がっていました。この下の赤の点に標板「旧高田馬場跡」があります。

昭和五年戸塚・落合の地形図

旧高田馬場跡 馬場は寛永13年(1636)に作り、旗本の馬術の練習場でした。上は緑色の四角で。下は嘉永5年と現在。

江戸大絵図・嘉永5年

江戸大絵図・嘉永5年

現在の場所

既往 過去

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

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大東京繁昌記|早稲田神楽坂11|カッフエ其他

文学と神楽坂

加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)です。

  カッフェ其他
 カッフェ其他これに類する食べ物屋や飲み物屋の数も実に多い。殊に震災後著しくふえて、どうかすると表通りだけでも殆ど門並だというような気がする。そしてそれらは皆それぞれのちがった特長を有し、それぞれちがった好みのひいき客によって栄えているので、一概にどこがいゝとか悪いとかいうよりなことはいえない。けれども大体において、今のところ神楽坂のカッフェといえば田原屋とその向うのオザワとの二軒が代表的なものと見なされているようだ。
カッフェ コーヒーなどを飲ませる飲食店。大正・昭和初期には飲食店もありますが、女給が酌をする洋風の酒場のことにも使いました。
震災後 関東大震災は大正12年(1923年)9月1日に起こりました。神楽坂の被害はほとんど何もありませんでした。
門並 かどなみ。その一つ一つのすべて。一軒一軒。軒なみ。何軒もの家が並び続いている。以上は辞書の訳ですが、どれももうひとつはっきりしません。
オザワ 一階は女給がいるカフェ、二階は食堂です。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

下の図は加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』の挿絵です。古い「田原屋」の絵がでています。 田原屋の絵

田原屋とオザワとは、単にその位置が真正面に向き合っているというばかりでなく、すべての点で両々相対しているような形になっている。年順でいうと田原屋の方が四、五年の先輩で料理がうまいというのが評判だ。下町あたりから態〻食事に来るものも多いそうだ。いつも食べるよりも飲む方が専門の私には、料理のことなど余り分らないが、私の知っている文士や画家や音楽家などの芸術家連中も、牛込へ来れば多くはこゝで飲んだり食べたりするようだ。五、六年前、いつもそこで顔を合せる定連たちの間で田原屋会なるものを発起して、料亭常盤で懇親会を開いたことなどあったが、元来が果物屋だけに、季節々々の新鮮な果物が食べられるというのも、一つの有利の条件だ。だがその方面の客は多くは坂上の本店のフルーツ・パーラーの方へ行くらしい。
 薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。少し遅れてその筋向いにカッフェ・スターが出来、一頃は田原屋と三軒鼎立の姿をなしていたが、間もなくスターが廃業して今の牛肉屋恵比寿に変った。早いもので、オザワが出来てからもう今年で満十年になるそうだ。田原屋とはまたおのずから異なった特色を有し、二階の食堂には、時々文壇関係やその他の宴会が催されるが、去年の暮あたりから階下の方に女給を置くようになり、そのためだかどうだか知らぬが、近頃は又一段と繁昌しているようだ。田原屋の小ぢんまりとしているに反して、やゝ散漫の感じがないではないが、それだけ気楽は気楽だ。

新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」を見ると震災前

態〻 わざわざ。特にそのために。故意に。「〻」は二の字点、ゆすり点で、訓読みを繰り返す場合に使う踊り字です。大抵「々」に置き換えらます。
料亭常盤 昭和25年に竣工した本多横丁の常盤家ではありません。当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、常盤と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。 上宮比町
薬屋の尾沢 尾沢薬局からカフェー・オザワが出てきました。神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
カッフェ・
スター
牛肉屋恵比寿に変わりました。カッフェ・スターというのはグランド・カフェーと同じではないでしょうか?別々の名前とも採れますが。
恵比寿亭 現在山せみに代わりました。場所はここ。
散漫 まとまりのない。集中力に欠ける。
この外牛込会館下のグランドや、山田カフエーなどが知られているが、私はあまり行ったことがないのでよくその内容を知らない。又坂の中途に最近白十字堂という純粋のいい喫茶店が出来ている。それから神楽坂における喫茶店の元祖としてパウリスタ風の安いコーヒーを飲ませる毘沙門前の山本のあることを忘れてはなるまい。
グランド 新宿区郷土研究会の20周年記念号『神楽坂界隈』の中の「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエーグランド」は牛込会館の地下にあったようです。現在はサークルK神楽坂三丁目店です。
山田カフエー 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエ山田」は現在の助六履物の一部にありました。
白十字堂 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「白十字喫茶」は以前の大升寿司にありました。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
パウリスタ風 明治44年12月、東京銀座にカフェーパウリスタが誕生しました。この店はその後の喫茶店の原型となりますが、これは「一杯五銭、当時としては破格値だったため、カフェーパウリスタは開店と同時に誰もが気軽に入れる喫茶店として親しまれるようになりました」(銀座カフェーパウリスタのPR)からです。なお、パウリスタ(Paulista)の意味はサンパウロっ子のこと。
山本 『かぐらむら』の「今月の特集」「記憶の中の神楽坂」で、「『山本コーヒー』は楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった」と書いてありました。同じことは「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」でみられます。詳しくはここで
震災後通寺町の小横町にプランタンの支店が出来たことは吾々にとって好個の快適な一隅を提供して呉れた様なものだったが、間もなく閉店したのは惜しいことだった。いつぞや新潮社があの跡を買取って吾々文壇の人達の倶楽部クラブとして文芸家協会に寄附するとの噂があったが、どうやらそれは沙汰止みとなったらしい。今は何とかいう婦人科の医者の看板が掛かっている。あすこはずっと以前明進軒という洋食屋だった。今ならカッフエというところで、近くの横寺町に住んでいた尾崎紅葉その外硯友社けんゆうしゃ一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通っていた時分にも、まだその看板が掛かっていた。今その当時の明進軒の息子(といってもすでに五十過ぎの親爺さんだが)は、岩戸町の電車通りに勇幸というお座敷天ぷら屋を出している。紅葉山人に俳句を教わったとかで幽郊という号なんか持っているが、発句よりも天ぷらの方がうまそうだ。泉鏡花さんや鏑木かぶらぎ清方さんなどは今でも贔屓ひいきにしておられるそうで、鏡花の句、清方の絵、両氏合作の暖簾のれんが室内屋台の上に吊るされている。
プランタン
婦人科医
明進軒

渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』では以下の説明が出てきます。

「歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治三十六年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
 明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはしめた。めずらしさもあって料理の評刊も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
 泉鏡花が横寺町の尾崎紅葉家から大橋家に移り仕むとき、紅葉は彼を明進軒に連れていって送別の意味で西洋料理をおごってやった。かぞえ二十三歳の鏡花はこのとき初めて紅葉からナイフとフォークの使い方を教わったが酒は飲ませてもらえなかったという。当時、硯友社、尾崎紅葉、泉鏡花、梶川半古、早稲田系文士などが常連であった」

しかし、困ったことにこの資料の名前は何なのか、わからないことです。この文献は何というのでしょうか。
この位置は最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。また、明進軒は「通寺町の小横町」に建っていました。これは「横寺町」なのでしょうか。実際には「通寺町の横丁」ではないのでしょうか。あるいは「通寺町のそばの横丁」ではないのでしょうか。
渡辺功一氏の半ページほど前に笠原伸夫氏の『評伝泉鏡花』(白地杜)の引用があり

 その料理店は明進軒といった。紅葉宅のある横寺町に近いという関係もあって、ここは硯友社の文士たちがよく利用した。紅葉の亡くなったときも徹夜あけのひとびとがここで朝食をとっている。〈通寺町小横丁の明進軒〉と書く人もいるが、正しくは牛込岩戸町ニ十四番地にあり、小路のむかい側が通寺町であった。今の神楽坂五丁目の坂を下りて大久保通りを渡り、最初の小路を左へ折れてすぐ、現在帝都信用金庫の建物のあるあたりである。

と言っています。昭和12年の「火災保険特殊地図」で岩戸町ニ十四番地はここです。

明進軒

  また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。

肴町

 

さらに1970年の新宿区立図書館著の「神楽坂界隈の変遷」でも

紅葉が三日にあげず来客やら弟子と共に行った西洋料理の明進軒は、岩戸町24番地で電車通りを越してすぐ左の小路を入ったところ(今の帝都信用金庫のうしろ)にあった。

さらに『東京名所図会』を引用し

 明進軒は岩戸町二十四番地に在り。西洋料理,営業主野村定七。神楽坂の青陽楼と併び称せらる。以前区内の西洋料理店は,唯明進軒にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に転ず。其地内にあるの日、文士屡次(しばしば)こゝに会合し、当年の逸話また少からずといふ。

結論としては明進軒は岩戸町二十四番地でしょう。

硯友社  けんゆうしゃ。明治中期の文学結社。1885年(明治18)2月、東京大学予備門在学中の尾崎紅葉、山田美妙(びみよう)、石橋思案(1867‐1927)らが創立。同年5月から機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を創刊し、小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)など、さまざまな作品を採用。紅葉、美妙が筆写した回覧雑誌、のちに印刷しさらに公売。
勇幸

場所は上の地図を見て下さい。この場所は今でも料理屋さんがたくさん入っています。鏑木清方の随筆「こしかたの記」では

ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われ明進軒は紅葉一門が行きつけの洋食店で、半古先生も門人などをつれてよく行れた。後年私が牛込の矢来に住んで、この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷらの店を旧地の近くに開いて居るのに邂逅(めぐりあ)って、いにしえの二人の先生に代わって私が贔負(ひいき)にするようになったのも奇縁というべきであった。泉君(鏡花)も昔の(よしみ)があるので、主人の需めるままに私と寄せがきをして、天ぷら屋台の前に掛ける麻の暖簾(のれん)を贈った。それから彼は旧知新知の文墨の士の間を廻ってのれんの寄進をねだり、かわるがわる掛けては自慢にしていた。武州金沢に在った私の別荘に来て、漁り立ての魚のピチピチ跳ねる材料を揚げて食べさしてくれた。気稟(きっぷ)のいい男であったが、戦前あっけなく病んで死んだ。

なお、「旧地の近くに」と書いてあり、これは「明進軒の近くに」あったと読めます。

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂14|矢来・江戸川

矢来・江戸川

文学と神楽坂

その頃のことを追想すると、私は今でも心のときめくような深い感慨をもよおさずにいられない。芸術座創立前後における、私達島村先生の周囲に集まった者等の異常な感激と昂奮とは別としても、私自身も一度は舞台に立とうかなどと考えて、同好同志の数氏と毎日その清風亭に集まり、島村先生や須磨子について脚本の朗読を試みたり、ゴルキイ「夜の宿」などを実際に稽古をしたりしたものだった。私はルカ老人の役にふんし、最早大分稽古も積んで、もう少しで神楽坂の藁店高等演芸館で試演を催そうとしかけたのであった。その高等演芸館が今の牛込館になったのであるが、当時そこには藤沢浅二郎俳優学校が設けられていたり、度々創作試演会が催されたりしたもので、清風亭は別として、この藁店の牛込高等演芸館といい余丁町坪内先生の文芸協会といい、横寺町の島村先生の芸術座といい、由来わが牛込は日本の新劇運動に非常に縁故の深い所だ。

矢来交番

芸術座 第一次は島村抱月(ほうげつ)、松井須磨子(すまこ)を中心とした芸術座。1913年(大正2年)、島村抱月松井須磨子とのスキャンダルがあり、坪内逍遥の文芸協会を脱退し、2人は相馬御風、水谷竹紫、沢田正二郎らと共に劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成。1918年(大正7年)11月、島村がインフルエンザ(スペイン風邪)で急死、2か月後には松井が後を追って自殺。芸術座は解散。
清風亭 この頃の清風亭は、赤城神社内ではなく、石切橋に新築しています。
ゴルキイ マクシム・ゴーリキー(Максим Горький)。生年は1868年3月28日(ユリウス暦3月16日)。享年は1936年6月18日。ロシアの作家。
夜の宿 劇は「どん底」と同じ。1902年作。帝制末期のモスクワの木賃宿に住むどん底の人々の生活を描きました。1910年(明治43)12月の自由劇場の公演名は「夜の宿」。1922年2月、1回だけ「どん底」に変更。1936年9月、新協劇団があらためて「どん底」と題し、 以後、その名で呼ばれることになります。
ルカ老人 「どん底」の登場人物ルカは60歳の巡礼者。途中から現れてどん底にいる住人たちを一人一人勇気づけ、未来への希望を願うといいます。
藁店 神楽坂通りに神楽坂五丁目の南に曲がる道を上に登る坂道のこと。標柱もあり、「この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた」と書いてあります。詳しくはここで
高等演芸館 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では「藁店わらだなに江戸期から和良わらだな亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設。
牛込館 藁店の中腹にあった映画館。以前は高等演芸館・東京俳優養成所。
藤沢浅二郎 ふじさわ あさじろう。生年は慶応2年4月25日(グレゴリオ暦 1866年6月8日)。享年は1917年3月3日。俳優、劇作家、ジャーナリスト
俳優学校 1908年(明治41年)11月11日、藤沢浅二郎は自費で牛込に東京俳優養成所を開設。1910年(明治43年)、東京俳優学校と改称、「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では「第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった」。詳しくはここで
余丁町 坪内逍遥が新劇活動を行った場所は余丁町7でした。「坪内逍遥旧居跡(文芸協会演劇研究所跡)」と書いた標識板もあります。
文芸協会 坪内逍遥、島村抱月を中心に結成された文化団体。新劇運動の母体になりました。
横寺町 新宿区の北東部の町。北部は神楽坂6丁目に接し、北東部は岩戸町、南東部は箪笥町、南部は北山伏町、西部は矢来町に接する。主に住宅地。
矢来の通りは最近見違えるほどよくなった。神楽坂の繁華がいつか寺町の通りまで続いたが、やがてこの矢来の通りにまで延長して、更に江戸川の通りと連続すべき運命にあるように思われる。消防署附近に、矢来ビルディングなるハイカラな貸長屋が建ち、あたりも大変明るい感じになった。そしてカッフエその他の小飲食店も沢山軒を並べて、この辺はこの辺だけで又一廓の小盛り場をなすが如き観を呈しているが、ここまで来ると、その盛り場は最早純然たる早稲田の学生の領域である。私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲尾浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行くが、そののれんを外にくぐり出ると、真向の路地の入口にわが友水守亀之助君経営の人文会出版部標木が、闇にも白く浮出しているのが眼につくであろう。仰げば近く酒井邸前の矢来通りに、堂々たる新潮社の四層楼が、わが国現代文芸の興隆発達の功績の三分の一をその一身に背負っているとでもいいたげな様子に巍然ぎぜんとして空高く四方を圧し、経済雑誌界の権威たる天野博士の東洋経済新報社のビルディングが、やや離れて斜に之と相対しているが、やがてこの二大建築の中間に、丁度三角形の一角をなして、わが水守君の人文会の高層建築のそびえ立たん日のあるべきを期待することは甚だ愉快である。
矢来の通り 早稲田通りのうち牛込天神町交差点から矢来町の終わるまでの通り。
寺町の通り 早稲田通りのうち神楽坂6丁目(以前は通寺町)に入る通り。
江戸川の通り 牛込天神町交差点から江戸川橋交差点までの通り。現在は「江戸川橋通り」。ここには明治・大正の呼び方を書いておきます。

神楽坂・矢来・江戸川

消防署 矢来町104にありました。現在は「高齢者福祉施設 神楽坂」です。
矢来ビル… 場所は不明
ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。丈の高い襟という意味の英語「high collar(ハイカラー)」に由来します。明治時代に、西洋帰りの人や西洋の文化や服装を好む人が、ハイカラーのワイシャツを着ていたことから。
一廓 いっかく。一郭。一廓。一つの囲いの中の地域。あるひと続きの地域
学生の領域 戦前、早稲田大学は神楽坂に大きな力を持っていました。しかし、戦後になると、多くの早稲田学生は高田馬場や新宿に流れていきます。
ダヌンチオ ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio)。生年は1863年3月12日。享年は1938年3月1日。イタリアの詩人、作家、劇作家。
フランチェスカ 戯曲Francesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)は劇作家ダンヌンツィオの作品。ほかにはLa Città morta(死都、1898年)など。
冬夏社 日本橋区本銀町2丁目8番地にありました。
書肆 書物を出版したり、また、売ったりする店。書店。本屋。江戸期初め民間で出版活動がはじまってから明治初期までは、板元はんもと(版元、書肆しょし、本屋)が編集から製作、卸、小売、古書の売買を一手におこなっていました。
鷲尾浩 早稲田大学文学士でした。冬夏社を営んだため、自宅は冬夏社の住所と同じ。鷲尾浩氏の翻訳は『マーテルリンク全集』以外は、ほぼ性愛、性欲、色情に関するものばかり。『性愛の技巧』『性欲研究名著文庫』『風俗問題』『性慾生活』『色情表徴』『男と女』『恋愛発達史の新研究』『人間の性的撰択』『純潔の職能と性的抑制』『性的感覺』『性的道徳と結婚』『姙娠の心的状態』『愛と苦痛』『性教育と性愛の価値』『売淫と花柳病』。
江戸屋 尾崎一雄氏の『学生物語』(1953年)の「神楽坂矢来の辺り」には「矢来通リの、新潮社へ曲る角の曲ひ角を少し坂寄りの辺に、江戸屋といふおでん屋があった。鷲尾(のちに雨工)氏夫妻が経営してゐた。」と書いてあります。しかし、正確な場所はこれでもわかりません。
白鷹 はくたか。灘の酒です。関東総代理店は神楽坂近くの升本酒店でした。
水守亀之助 みずもりかめのすけ。生年は1886年6月22日。享年は1958年12月15日。大阪の医専を中退して、1907年、田山花袋に入門。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社し、『新潮』編集部に。編集者の傍ら、『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏といわれました。
人文会出版部 人文会国会図書館で調べると、人文会出版部の以前の住所は矢来町3番目。この3番目は大きすぎて、わかりません。しかし、新規の番号に再制定され、新しい番号は矢来町66番地でした。この図(火災保険特殊地図、昭和12年)では階段から上に登ったところが66番です。下の図では現在の66番ですが、ちょうど新潮社のLa Kaguの大きなテラスだけになっています。

人文会2

標木 ひょうぼく。目印にする木
酒井邸 江戸時代は小浜藩酒井家。明治時代は酒井邸になります。
新潮社 昭和12年の「火災保険特殊地図」によれば、この当時の新潮社は矢来町71番地だけでした。(現在は膨大な場所です)。しかし下の図では下の青い四角。
巍然 ぎぜん。高くそびえ立つさま。抜きんでて偉大な様子。
天野 天野為之(あまの ためゆき)。生年は1861年2月6日(万延元年12月27日)。享年は 1938年(昭和13年)3月26日。明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任。
東洋経済新報社 1895年に創立し、『週刊東洋経済』や『会社四季報』などを手がけました。1907年から1931年までは牛込区天神町6番地に社屋がありました。下図では左上の青い四角です。中央の青い四角は人文会出版部、下の青い四角は新潮社です。

 

新潮社など

牛込区全図、昭和5年

江戸川通りの発展こそは、わが牛込においては殆ど驚異的である。早稲田線の電車が来ない以前は、低湿穢小なる一細民窟に過ぎなかったが、交通機関の発展は、今やその地を神楽坂に次ぐの繁華な商店街となし、毎晩夜店が立って、その賑かさはむしろ神楽坂をしのぐの概がある。矢来交番前に立って、正面遠く久世山あたりまで一眸いちぼうに見渡した夜の光景も眼ざむるばかりに明るく活気に充ちているが、音羽護国寺前からここまで一直線に来るべき電車の開通も間があるまじくそれが完通の暁には、更に面目を一新して一層の繁華を増すことであろう。
低湿穢小 土地は低く、湿気は多く、きたなく、小さい
細民窟 貧しい人たちが集まり住んでいる地域。貧民窟
久世山 くぜやま。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では「八幡坂(はちまんざか)は音羽一丁目と小日向二丁目の境界にあたる。この坂の上は通称久世山とよぶ。小日向の高台で、江戸時代は下総国関宿の藩主久世氏の広大な下屋敷があったので久世山の名が起った」。久世山は小日向台地の1部です。
音羽護国寺前 最北部は交差点「護国寺前」。目白通りから南方に向かってくると音羽になります。
電車 都電(市電)のことで、「矢来下」停留場まで来ていました。
あるまじく あってはならない。
繁華 人が多く集まってにぎやかなこと
それにつけて思い出されるのは江戸川の桜衰微である。これは東京名所の一つがほろびたものとして、何といっても惜しいことである。あの川をはさんだ両側の夜桜の風情の如き外には一寸見られぬものであったが、墨堤ぼくていの桜が往年の大洪水以来次第に枯れ衰えたと同様に、ここもまた洪水の犠牲となったものか、あの川の改修工事以来駄目になってしまった。その代りというわけでもないが、数年前に江戸川公園が出来て、児童の遊園地としてのみならず、早稲田や目白あたりの学生の好個の遊歩地としていつも賑っている。時節柄関口の滝の下の緑蔭下に、小舟にさおし遊ぶ者もかなり多いが、あれが江戸川橋からずっと下流の方まで、両側の葉桜の下の流れを埋めて入り乱れ続いていた一頃の如き賑いは見られないようだ。行く川の流れは元のままにしてしかも元の水にあらずか?
江戸川の桜

文京区の「江戸川公園」では次のようになっています。

明治17年(1884年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜の木を植えました。それがもとで、石切橋から大曲まで、約500メートルの両岸にソメイヨシノなどの桜が多いときで241本あり、新小金井といわれ夜桜見物の船も出て賑わっていました。その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られました。江戸川公園から上流の神田川沿いには、河川改修に伴い、昭和58年(1983年)に新たに桜の木が植えられ、現在では開花の時期になると多くの花見客で賑わっています。
衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退
墨堤 隅田川の土手
江戸川公園 関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園

江戸川公園

関口の滝 神田上水は、関口大洗堰で左右に分かれ、左側は上水、右側は余水の江戸川となり、関口から飯田橋までは江戸川、飯田橋から浅草橋までは神田川と呼びました。1965年(昭和40年)の法改正で、両川とも神田川に。『江戸名所図会』ではこの大洗堰は「目白下大洗堰」として紹介されています。1937年(昭和12)、改修時、大洗堰はなくなり、跡には大滝橋が架けられています。

緑蔭 木の青葉が茂ってできるひかげ。こかげ。季語は夏
葉桜 花が散って、若葉の出はじめた桜。季語は夏

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂13|追憶

文学と神楽坂

追憶

私は毘沙門前の都寿司の屋台ののれんをくぐり、三、四人の先客の間にはさまりながら、二つ三つ好きなまぐろをつまんだ。この都寿司も先代からの古い馴染なじみだが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。
 寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。

都寿司

都寿司 織田一磨作の神楽阪(1917)(「東京風景」より )には都寿司は次の絵のように載っています。
織田一磨:「東京風景」より 神楽阪(1917)

織田一磨:「東京風景」より 神楽阪(1917)

  また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では現在の「福屋せんべい」の前に寿司がありました。

神楽坂と縁日市

郵便局 神楽坂6丁目にあった「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
ヤマニバー 菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物が昔のヤマニバーでした。細かくはここで
神谷バー 創業明治13(1880)年。日本初のバー。ずっと浅草1丁目1番地で。2011年(平成23年)、神谷ビル本館は登録有形文化財に
その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみ/\した狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。入るとすぐ右手に閻魔えんまがあり、続いて市営の公衆食堂があり、昔ながらの古風な縄のれんに、『官許にごり』の看板も古い牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、他に二、三の小さなカッフエや飲食店が、荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋といったような家がごちゃごちゃしている間にはさまり、更にまた朝夕とう/\とお題目の音の絶えない何とかいう日蓮宗のお寺があり、田川というかなり大きな草花屋があるといった風である。そして公衆食堂には、これを利用するもの毎日平均、朝昼夕の三度を延べて四千人の多数に上るという繁昌振りを示し、飯塚酒場などには昼となく晩となく、いつもその長い卓上に真白な徳利の林の立ち並んでいるのを見かけるが、私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町或はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。
新宿区横寺町交友会『よこてらまち』(00年)の「昭和10年頃の横寺町」を見ていきます。横寺町

第一銀行支店 現在は「スーパーキムラヤ」です。これは、まあちょっと高級なスーパーです。上の図では最も右で、青灰色です。
お閻魔様 正蔵院のこと。丸形で色は濃紺色。
市営公衆食堂 「神楽坂公衆食堂」です。薄緑色で。
飯塚酒場 現在は普通の家ですが、長い間酒場をやっていました。薄茶色です。
同じ酒場 新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち』(2000年)の「昭和10年頃の横寺町」では「1. 米屋 2.パーマネント 3. 公証人役場 4.目覚し新聞 5.マッサージ業 6.靴修理店 7.歯医者 8.若松屋 9.大工職 10.洋服店」で、昭和10年頃で「同じ酒場」はありません。若松屋が何を指しているのか分かりませんが、酒場ではないようです。なお、横寺町の「もきち」(居酒屋)はこの時はまだ生まれていません。この横寺町の「もきち」は「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」にでています。
芸術座跡 座長の島村抱月が大正7年12月、スペインかぜで死亡し、大正8年1月、1か月後に主演女優の松井須磨子氏は自殺し、2人を失った芸術座もこれでなくなり、松井須磨子氏の兄、小林さんのアパート(芸術倶楽部跡)になりました。紫色
荒物…… 「荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋」は「荒物屋、染物屋、女髪結、製本屋、質屋」のこと。荒物屋は「家庭用の雑貨類を売る商売や店」で、別名は「雑貨屋」。以下のイラストでは赤で書いてあります。横寺町はあらゆる店があり、なんでも売っていたようです。
日蓮宗のお寺 円福寺です。黄色で。現在も円福寺はあります。
田川 花屋の田川は青色で。現在はありません。
私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの『闇の力』や有島武郎の『死とその前後』などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しいいたましい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。
芸術座 げいじゅつざ。島村抱月、松井須磨子を中心とした第一次芸術座と、水谷竹紫、水谷八重子を中心とした第二次芸術座があります。これは第一次芸術座のほう。
トルストイ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич ТолстойLev Nikolayevich Tolstoy)。帝政ロシアの小説家、思想家。生年は1828年9月9日(ユリウス暦8月28日)。没年は1910年11月20日(ユリウス暦11月7日)。
闇の力 愚かさにより父殺し・嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
死とその前後 大正7年10月、須磨子は有島武郎の「死と其(その)前後」の妻役で好評を博しました。
印銘 いんめい。 公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すこと。
傷しい死 島村抱月はスペインかぜ(新型インフルエンザ)で、大正7年11月5日に死亡し、翌8年1月5日、松井須磨子氏は自殺します。
私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋があった。たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに下宿していられた。大きなけやきの樹に窓をおおわれた暗い六畳の部屋だったが、その後私もその同じ部屋に宿を借り、そこから博文館へ通ったのであった。近松秋江氏が筑土の植木屋旅館からここの離れへ移って来て、近くの通寺町にいた楠山正雄君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった。
赤城神社 現在は赤城元町1-10。700年にわたり牛込総鎮守として鎮座しています。
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。しかし、清風亭はどこにあるのか、いろいろ説があり、わかりません。細かくはここで
博文館 はくぶんかん。東京都の出版社。明治時代には富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊。取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、戦前は日本最大の出版社に。
筑土の植木屋旅館 近松秋江がここに来る前は筑土の植木屋旅館だったといいます。場所は不明。筑土とは「津久戸」なのか、「筑土八幡町」なのか、合わせてそう呼んだのか、わかりません。
楠山正雄 くすやま まさお。1884年11月4日 – 1950年11月26日。演劇評論家、編集者、児童文学者
永代橋 都川えいたいばし。隅田川にかかる橋で、地上には永代通り、地下には東京メトロ東西線が通っています。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。実際は巨大な地図が東京紅團(東京紅団)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/ にあります。
都川 都川も上図で。
その長生館の建物は、その以前清風亭という貸席になっていて、坪内先生を中心に、東儀土肥、水口などの諸氏が脚本の朗読や実演の稽古などをやって、後の文芸協会もとを作った由緒ゆいしょづきな家だったそうだ。そしてその清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。
清風亭 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋になりました。しかし、赤城神社内で清風亭はどこあったのか、いろいろ説があり、わかりません。細かくはここで
貸席 料金を取って貸す座敷
土肥 土肥春曙。どひしゅんしょ。明治2(1869).10.6.-1915.3.2。俳優。1890年東京専門学校 (現早稲田大学) 文科の第1期生として入学。卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、1901年川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧。 05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、翌 06年文芸協会が設立されると技芸監督、中心俳優として活躍。
水口 水口薇陽。びよう。1873-1940。05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、上演運動を行う。
文芸協会 1906年、坪内逍遥、島村抱月が中心で、演劇のみならず宗教・美術・文学など広範な文化運動を目的として発足。09年演劇研究所を設立して演劇団体に。1913年、解散。
江戸川の清風亭 清風亭は石切橋に転移しました。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」(三交社)では「この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になる」と書いてあります。石切橋は

石切橋

古蹟 こせき。古跡とも。歴史に残るような有名な事件や建物などがあったあと。遺跡。旧跡。

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂06|蟻の京詣り

文学と神楽坂

蟻の京詣り

私が早稲田の大学に学んでいた頃、また卒業してからでも、それは明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門縁日になると、あすこの入口に特に大きな赤い(ふたはり)提灯ちょうちんが掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛かったのを覚えているが、外でもそうであるように、時勢と共にいつとはなしにその影をひそめてしまった。又、植木屋の多いことが、その頃の神楽坂の縁日の特色の一つで、坂の上から下までずっと両側一面に、各種の草花屋や盆栽屋が所狭く並び、植込の庭木を売る店などは、いつも外濠の電車通りの両側にまではみ出し、時とすると、向側の警察の前や濠端の土手際にまで出ていたものだった。そしていろ/\な草花や盆栽の鉢を、大切そうに小脇に抱えたり高く肩の上に捧げたり、又は大きな庭木を提げたりかついだりした人々が、例の芸者や雛妓すうぎやかみさんや奥さんや学生や紳士や、さま/″\の種類階級の人々のぞろ/\渦を巻いた、神楽坂独特の華やかに艶めいた雑踏ざっとうの中を掻き分けながら歩いていた光景は、今もなお眼に見えるような気がする。それもつい五、六年前、震災の前あたりまで残っていたように思うが、今はそうした特殊の縁日的の気分や光景はほとんど見られなくなった。定夜店が栄えるに従って、植木屋の方が次第にさびれて行ったらしい。

電話局

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
はり。提灯ちようちん、幕、蚊帳かや、テントなど、張って作った物や張りめぐらして用いるものを数えるのに用います。
のぞきからくり のぞきからくりは、江戸期に発祥した伝統的な見世物芸能のひとつ。最初は数個ののぞき穴からからくりや浮絵をのぞく簡素なもの。それが明治・大正には20個もの覗き穴に細かい押し絵をほどこした豪勢なものも。各地の縁日の盛り場、社寺の境内によくあったが、活動写真の流行とともに衰退。
電車通り 当時、電車は市電(都電)を指し、JR(国鉄)ではありません。「外堀(そとぼり)通り」のこと。
草花屋 現在は花屋です
雛妓 すうぎ。まだ一人前にならぬ芸妓。半玉(はんぎよく)御酌(おしゃく)とも
定夜店 決まった場所にでる夜店
その代り近頃毘沙門の境内に、夜昼なしの常設植木屋が出来て、どこへでも迅速に配達植込までしてくれるという便利調法なことになっているので、毎日中々繁昌しているのも面白い。つい一、二年前からはじめられたことだが、毘沙門様御自身の経営か、或は地代を取って境内を貸しているのか、兎も角震災に潰れた何とか堂の跡の空地を利用してのこの新しい商売は、毘沙門様にとっては、あたかも前庭の植込同様、春夏秋冬緑葉青々たる一小樹林を繁らして、一方境内の風致を添えながら兼ねて金儲けになるという一挙両得の名案、毘沙門様もさて/\抜け目なく考えたものかな、その頭脳のよさに流石さすがは御ほとけなればこそと自然とこちらの頭も下る次第で、市内至る処の大小神社仏閣の諸神諸仏も、よろしく範をわが神楽坂毘沙門様に取っては如何いかにと、ちょっとすゝめても見たいところである。
 私はそんな今昔談を友達にしながら、電車待つ間のもどかしさに、むしろ徒歩にかずとそのまま焼餅坂を上り、市ヶ谷小学校の前からぶら/\と電車通りを歩いていたのだが、いつかあの白い海鼠餅なまこもちを組立てたような、牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも過ぎ、気がつくともう肴町の停留場のそばへ来ていた。
「いよう! なるほどこりゃ大した人出だね」
調法 ちょうほう。重宝とも。便利で役に立つこと。便利なものとして常に使うこと。調法。貴重なものとして大切にすること。
如かず 及ばない。かなわない
焼餅坂 昭和56年「新宿区史跡地図」昭和56年の「新宿区史跡地図」には焼餅坂ははっきりこの右図だと描いてます。残念ながらこの絵は間違いです。焼餅坂はここで書いている新道ではなく、正確には旧道が焼餅坂になります。でも、新道を焼餅坂だとしてももういいでしょう。旧道と新道はここに
市ヶ谷小学校 市谷山伏町9番地と10番地にありました。現在と変わらない場所でした
海鼠餅 豆なまこ餅つきたての餅をのさないでナマコのような半楕円形の形に成型してある餅。
電話局 NTT牛込正確に言うと、新宿区北町ではなく、細工町3-12にありました。新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』では大正12年にはまだなく、昭和4年になると、ここにあったようです。以来ずっとあって、現在はNTT牛込ビルです。
友達は思わず角の交番の所に立ちどまって、左右を見廻しながら大袈裟に叫んだ。見ると今丁度人の出潮時らしい、電車線路をはさんで明るく灯にはえた一筋路を、一方は寺町の方から、一方は神楽坂本通りの方から、上下相うつ如くに入乱れて、無数の人の流れがぞろ/\と押し寄せていた。そして時々明るい顔を鈴のようにつらねた満員電車が、チン/\と緩やかにその流れをかつき且通し、自動車の警笛の音と共に交通巡査の手がくる/\と忙しく廻っていた。
「いつもこうなのかね」
「毎晩この通りだね」
「まるで大きな蟻の京詣りみたいだ」
 なるほどその形容は適切だと思った。そして私は、この短い、しかしてあまり広からぬ一筋の街を中心に、幾条となく前後左右にわかれている横町々々から、更にその又先の横町々々から、あたかも河の本流に注ぐ支流のそれのように、人々が皆おのがじしにこゝを目ざし、こゝの美しい灯をしたうてつどい寄って来る光景が眼に見えるような気がして、非常に愉快だった。
且堰き且通し 川の流れを堰き止めたり、通したりする
蟻の京詣り 蟻の熊野詣とも。社寺などの参詣(さんけい)で、蟻の行列する様に例えて群衆が集まってにぎやかになること
おのがじし 己がじし。各自がめいめいに。それぞれに

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂10|商店繁昌記

文学と神楽坂

商店繁昌記
商店繁昌記

どこかでビールでも飲んで別れようといって、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月一回位ずつ定時の連合市なるものをはじめたが、その日も丁度それに当っていて、両側の各商店では、一様に揃いの赤旗を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗しにせとか大商店とかいうものがほとんどないようだ。いずれも似たり寄ったりの、区民相手の中以下の日用品店のみだといっても大したおしかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間もなく引揚げたり閉鎖されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)
 酒屋の万長、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、糸屋の菱屋、菓子屋の紅谷、果物屋の田原屋、これらはしかし普通の商店として、私の知る限りでは古くから名の知れた老舗であろう。紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場にてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。
松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではないようです。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは出していないとはっきりと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
尾沢 カフェー・オザワは神楽4丁目の「カフェ・ベローチェ」にありました。詳しくはここで
菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ/″\負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石さすがに早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。
 その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。もっともどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。
 ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具()的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、ほかでは知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。
塩瀬 塩瀬菓子店はちょうど山田洋傘の対面になります。現在はナカノビルでしょうか。喫茶店「Broxx」などが入っています。
船橋屋 神楽坂6丁目です。詳しくはここで
盛文堂 元祖寿司昭和初期、盛文堂は現在の「元祖寿司」がある場所に建っていました。(昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」を参照)。しかし、盛文堂の場所はもっと色々な場所に建っていました。助六履物から下に行った場所も1つ。また野口冨士男氏の「私のなかの東京」の中で
「ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった」
と書いています。
機山閣 ゴールドフォンテン昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では神楽坂5丁目にありました。現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。
南北社
昭和5年「牛込区全図」

昭和5年「牛込区全図」

寺町は通寺町のことで、現在は神楽坂6丁目に変わりました。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「大正期の牛込在住文筆家小伝」では筑土八幡町9番地の南北社はあり、さらに『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」に「通寺14に系列の南北社の南北書店があった」と書いてあります。その後、通寺町14を南北社にしています。赤い四角で書いてあります。『南洋を目的に』『悪太郎は如何にして矯正すべきか』『恋を賭くる女』など、かなり本を出版したようです。現在、通寺町14は神楽坂6-14の「センチュリーベストハウジング」に。

竹中 『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。青い四角でした。現在は東京シティ信用金庫。
武田芳進堂 新泉戦前の武田芳進堂は神楽坂5丁目の三つ角(神楽坂通りと藁店)から一軒左にありました。場所は「ISSA」と「ブラカイルン神楽坂」に挟まれて、以前は「ゑーもん」でしたが、2014年、閉店し、現在は神戸牛と和食の店「新泉」になっています。一方、戦後の武田芳進堂は三つ角にありました。『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では『芳進堂。金刺兄弟出版部。肴町32。「最新東京学校案内」「初等英語独習自在」など。現在の芳進堂ラムラ店』と出ています。現在では飯田橋駅のラムラに出しています。

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂05|寅毘沙・午毘沙

文学と神楽坂

寅毘沙・午毘沙寅毘沙・午毘沙

 その時わが家の女の子供が三人仲よく手をつらねて玩具屋の前に立っているのに出会った。
「お父さん、風船買って頂戴」
 七つになる一番末の子が、逸早く私のたもとを捉えて甘えかかった。同行の友人の手前、私がこばみ得ないという弱点を、かの女は経験によってちゃんと知っているのだった。私は文句もいえずだまって十銭の白銅を一つ握らせた。
「お兄さんも来ているわよ」
 かの女はうれしさの余りにか、おせっかいにもなおそんなことを私に告げ知らせるのであった。なるほど少し行くと、長い巻紙にたらに沢山数字を書きつらねたのを高く頭上にさしあげて記憶術の秘訣ひけつとやらを滔々とうとう弁じている角帽の書生を取り巻いた人だかりの中に、私は長男の後姿を見かけた。が、つかまったら()()だと思って素知らぬ顔で通り過ぎた。
 あちらにもこちらにも小さな人の渦が出来波が流れて、この狭い場末の一角にも、ひなびた、ささやかな、むしろ可憐な感じのものながら、流石さすがに初夏の宵の縁日らしい長閑のどかな行楽的な気分が漂っていた。すぐ近くの河田町にある女子医専の若い女学生が、黒い洋服姿で、大抵三人ずつ一組になってぶら/\しているのが、こゝの縁日の特色のように目立った。漬物屋へ入って、つくだ煮や福神漬など買っているものもあった。

10sen-T9

つらねる 連ねる/列ねる。 1列に、または順番に並べる。
 和服の袖付けから下で袋のように垂れた部分
白銅 主体は銅、ニッケルは10~30%の合金。100円硬貨が代表的。10銭白銅貨幣は大正9年~昭和7年(1920~1932年)に流通し、1.00匁(3.750グラム)。割合は銅750とニッケル250。直径は22.121ミリ。
女子医専 現在の女子医大。1900年12月5日、東京至誠医院の一室に東京女医学校創立。03年、牛込区市ヶ谷河田町の陸軍獣医学校跡地に移転し、08年、東京女医学校附属病院を設置。12年、東京女子医学専門学校、通称「東京女子医専」に昇格。20年、卒業生は無試験で医師免許取得ができるようになった。50年、 大学令で東京女子医科大学医学部を開設しました。

縁日 神仏との有縁(うえん)の日のこと。神仏の(ゆかり)のある日を選び、祭祀や供養を行う日。縁日と東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では

こゝで縁日と夜店との区別について一言しておきたい。縁日は地蔵なり不動なり稲荷さまなりの祭日で、神社では祭日であり仏では縁日である。夜店は毎日特定の場所に限り夕方から露店を出すもので、縁日の露店は昼間から店を出している。大抵境内には子供相手の安玩具や、喰べものやが出ている
「どこの縁日でも同じだね」と友達はむしろつまらなさそうにいった。
「まあそうだね、殊にここなんか子供相手が主で、実に貧弱なものだが、それでも縁日だというと不思議に人が出るからね。そしてあたりの商店でも何でも段々と自然によくなって行くからね。だから土地の繁栄策としては、どうしても縁日というものが必要なんだね」と私がいった。「神楽坂にしたって、今日の繁栄を見るに至ったのは、そりゃ種々様々な条件や理由がそなわっていたからに違いないが、(ごく)最初は、矢張り毘沙門びしゃもんの縁日なんかゞ主としてあずかって力があったんじゃないかと思うんだ。現に、今ではもう普通の日も縁日の日も区別が付かないようになってしまったけれど、僕が知ってからでも、元はとらうまとの縁日の晩だけ特に沢山夜店が出て、従って人出も多く、その縁日の晩に限って、肴町から先が車止めになったような訳だったからね。その頃は僕なども、特に今日は寅毘沙だ午毘沙だといって、丁度今僕の子供等が手をつないで近所の縁日を見に行くように、友達を誘ったり誘われたりして早稲田の奥あたりから出て行ったものだった。夜店なんか見るよりも、ただ人込の中をぶら/\しながら若い異性の香を嗅いだり袖が触れ合ったりするのを楽しみにね、アハヽヽ」
「随分不良性を発揮したことだろうね」と友達は笑いながら半畳(はんじょう)を入れた
「いや、どうして/\、きわめて善良なものだったさ。今日のモダン・ボーイと違って、その頃の僕等ときたら、誰も彼もいわゆる『人生とは何ぞや』病にかかっていたので、そういう方面には全く意気地がなかったよ。それにこの頃のように、善くも悪くも簡単に女の見られるカッフエなんていうものはなしさ、精々三度に一度位、毘沙門隣の春月か通寺町の更科さらしなあたりで、三銭か五銭のザルそば一つ位で人生や文学を談じては、結局さびしく帰ったものだよ。それでその頃は、普通の日はそんなににぎやかでもなかった。夜店も寿司屋の屋台店位だったが、それがいつとはなしに、銀座あたりと同じく毎晩定夜店が出るようになり、人出も毎晩同じように多くなり、従ってあたりも益々発展して来たというわけだ。今ではもう特にいつが縁日だということも分らない位で、吾々も又いつが寅毘沙だ午毘沙だなどいうことを知る必要もなくなった。いつ出かけて行っても同じように賑やかで、華やかで享楽地的気分が益々濃厚になって来たね」

半畳を入れる 他人の言動を茶化したり、非難したり、野次ったりすること。半畳とは江戸時代の芝居小屋で敷く畳半分ほどの茣蓙(ござ)のこと、役者の演技が下手だとヤジを飛ばして、この茣蓙を投げ入れたという。
享楽地 快楽を追求する場所。

寅と牛

『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では

中でも神楽坂の毘沙門天の縁日は余り盛り場のない山の手の事であるから、付近の人が盛んにこの縁日に集まり、寅毘沙、牛毘沙といって十二日のうち二日は、特に陽気のよい時などは人出で賑わったが、寅の日は毘沙門の縁日で、牛毘沙は毘沙門天の縁日ではなく、境内の出世稲荷の縁日なのである。

 ではどれぐらい前に始まったのでしょうか。東京理科大学理窓会埼玉支部の「西村和夫の神楽坂」ではこう書いています。

 さらに夜店が明るく華やいだのは電気とアセチレンランプが現れた20世紀以後からのことだ。夜店が明るくなるにつれ震災前後を境に「バナナの叩き売り」で代表されるような威勢のいい香具師の啖呵が聞こえるようになると、植木屋は次第に隅に追いやられることになった。
 そればかりかアセチレンランプからでる異様な臭いは夜店の臭いとも思われる時代に変わっていく。街路灯も少なく、ネオンもイルミネイションもない時代、日が暮れ神楽坂の夜店が一斉に明かりを灯すと、光の帯が明るく道路を歩く人を浮び上がらせた。そして時間がたつにつれて光に集まる虫のように人の数は次第に増えていった。
 寅の日だけの縁日がやがて午の日にも出るようになり、寅の日と午の日は寅毘沙、午毘沙と言って200軒以上の夜店が狭い道路の両側に2列に並んだ。やがてそれが連日になり、人の出盛りの時間になると坂が人間で埋めつくされ、坂下と坂上には[車馬通行止]の提灯が下げられ坂は歩行者天国にされた。これで通行人は安心して神楽坂の夜店見物を十分に楽しむことができたのである。夜店を訪れた客は坂を2~3時間かけて2~3回上下するのが普通だった。200軒もでる店を見て回るのには1日や2日で終わるものではなかった。
 夜店の範囲も通寺町から矢来町に達するいきおいでのび、大久保通りも人と店で溢れるようになったが、しかし、通行人は神楽坂の夜店のほうが格が上だと考えていたようだ。この状態は日中戦争が始まるころまでつづいたが、戦争が激しくなると急速に姿を消してしまった。敗戦後、米軍の空襲で焼土と化した街は復興したが再び夜店を見ることはなかった。

昭和初期に寅の日と午の日に縁日が出たようです。

更科 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「更科」は左の図で赤い四角の色を使って書いてあります。
更科11

左は昭和12年の「火災保険特殊地図」。右は現在。右にある縦の道路や赤い更科の絵はあった場合の想像図

  しかし岡崎弘氏と河合慶子氏が『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり」で「遊び場だった『寺内』」を書き、その「更しな」は神楽坂通りに直接面しています。以前の明治末期は直接面し、大正に大震災が起こり、昭和の初めでは奥に引っ込んだ場所になったのか、どうなのか不明です。

地図.11

大東京繁昌記|早稲田神楽坂09|牛込見附

文学と神楽坂

牛込見附

牛込見附

私達は両側の夜店など見ながら、ぶら/\と坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車線路増設停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。工事完成後はどんな風に面目を改められるか知らないが、この牛込見附から見た周囲の風景は、現在残っている幾つかの見附の中で最もすぐれたものだと私は常に思っている。夜四辺に灯がついてからの感じはことによく、夏の夜の納涼に出る者も多いが、昼の景色も悪くはない、上には柳の並木、下には桜の並木、そして濠の上にはボートが点々と浮んでいる。濠に架かった橋が、上と下との二重になっているのも、ちょっと変った景色で、以前にはよくあすこの水門の所を写生している画学生の姿を見かけたものだった。
外濠の電車線路 外濠線の都電線路のこと。都電3系統の路線で、第3系統は飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る路線です。
見附の橋 見附の牛込橋は千代田区富士見二丁目から神楽坂に通ずる早稲田通りに架かっていました。寛永13年(1636)阿波徳島藩主蜂須(はちす)()忠英(ただてる)が建造。当時千代田区側は番町方、新宿区側は牛込方と呼ばれ、旗本屋敷が並び、その間は深い谷だったのを、水を引いて堀としたものです。
省線電車 1920年から1949年の間、現在の「JR線」に相当する鉄道。明治41(1908)年から鉄道院「院電」、大正9(1920)年から鉄道省「省電」、昭和24(1949)年から日本国有鉄道「国電」、昭和62(1987)年から東日本旅客鉄道「JR」と変遷。
線路増設 昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で貨客分離を目的として、新宿-飯田町間で複々線化工事を完成しました。
停車場の
位置変更
停車場はJR駅のことで、ここでは飯田橋駅ではなく、牛込駅のこと。牛込駅は牛込橋(現飯田橋駅西口に接する跨線橋)よりは四ツ谷寄りの位置です。出入口は2か所。ひとつは外堀通りに面した神楽坂下交差点のたもと。現在でも、牛込濠を埋め立てて作った連絡通路の遺構が残っています。下に詳しく書いています。もうひとつは濠の反対側、旧飯田橋郵便局の向かいで、改札口の位置を左右から挟むようにして、石積みの構造物が残っています。昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で複々線化工事が新宿-飯田町間で完成。これで駅間が近い牛込駅と飯田町駅を統合し、飯田橋駅が開業しました。この3駅についての関係はここで
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。以上は牛込見附ではまったくいいのですが、しかし、別の文脈では、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。詳しくは牛込見附跡を。
二重 大正11年。東京市牛込区大正11年の『東京市牛込区』の地図では牛込橋が2つにわかれています。また下の新宿歴史博物館の「神楽坂通りの図 古老の記憶による震災前の形」でも2つに分かれています。牛込橋の上の1つは千代田区に、下の1つは牛込駅につながっています。2つの牛込橋2

 いまでもこの連絡通路はあります。赤い色で描いた場所です。

カナルカフェ

写真ではこうなっています。先には行けません。カナルカフェ2
下は明治後期の小林清親氏の「牛込見附」です。きちんと牛込橋が2つ書かれています。

牛込見附の清朝

牛込見附

この下の橋は昭和42年になっても残っていました。飯田橋の遠景

だがあすこの桜は震災後すっかり駄目になってしまった。橋を渡った停車場寄りの処のほんの二、三株が花をつけるのみで、他はどうしたわけか立枯れになってしまった。一頃は見附の桜といって、花時になると電車通りの所から停車場までの間が花のトンネルになり、停車場沿いの土手にも、ずっと新見附のあたりまで爛漫らんまんと咲きつらなり、お濠の水の上に紛々ふんぷんたる花ふゞきを散らしなどして、ちょっとした花見も出来そうな所だったのに、惜しいことだと思う。
停車場 「停車場」はJR駅について話す場合。これは牛込駅に相当します。ちなみに市電(都電)は「停留所」でした。
新見附 明治中頃、行き来の便宜のため、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて新しく橋を作りました。この橋を新見附橋といいます。また外濠は二つになり、牛込駅(飯田橋駅)寄りは牛込濠、市ヶ谷寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。
爛漫 花が咲き乱れているさま
紛々 入り乱れてまとまりのないさま
花ふぶき はなふぶき。花びらがまるで雪がふぶくように舞い散るさま
あの濠の上に貸ボートが浮ぶようになったのは、ごく近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てゝ市の公園にするとかいううわさも幾度か聞いたが、そのまゝお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。誰の計画か知らないがいろ/\の意味でいゝ思い付きだといわねばならぬ。今では牛込名物の一つとなった観があり、この頃は天気さえよければいつも押すな/\の盛況で、私も時々気まぐれに子供を連れて漕遊を試みることがあるが、罪がなくて甚だ面白く愉快である。主に小中学の生徒で占めているが、大人の群も相当に多く、若い夫婦の一家族が、水のまに/\舟を流しながら、パラソルの蔭に子供を遊ばせている団欒だんらん振りを見ることも屡々しばしばである。女学生の群も中々多く、時には芸者や雛妓おしゃくや又はカッフエの女給らしい艶めいた若い女性達が、真面目な顔付でオールを動かしていたりして、色彩をはなやかならしめている。聞くと女子の体育奨励のためとあって、特に女子のみの乗艇には料金を半額に優待しているのだそうだが、体育奨励もさることながら、むしろおとりにしているのでないかと笑ったことがあった。
貸ボート この東京水上倶楽部の創業は大正7年(1918年)です。東京で最初に出来たボート場でした。
水上公園 水のほとりや水辺にある公園
漕遊 遊びで漕ぐ
まにまに 随に。他人の意志や事態の成り行きにまかせて行動するさま
団欒振り 「振り」は物事の状態、ようす、ありかた。語調を強めるとき「っぷり」の形になる場合も。「枝―」「仕事―」「話し―」「男っぷり」「飲みっぷり」
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などと呼びます
これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園として開放されるそうで、すでにその工事に取掛かり今月中には出来上るとの話である。それが実現された暁にはあのあたり一帯に水上陸上相まって、他と趣を異にした特殊の景情を現出すべく、公園や遊歩場というものを持たないわれ/\牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手が市民の遊歩場として開放されなかったということは実際不思議というべく、かつて五、六の人々と共に夜の散歩の途次あすこに登り、規則違反のかどを以て刑事巡査に引き立てられ九段の警察へ引張られて屈辱きわまる取調べを受けた馬鹿々々しいにがい経験を持っている私は、一日も早くあすこから『この土手に登るべからず』という時代遅れの制札が取除かれ、自由に愉快に逍遙しょうよう漫歩まんぽを楽しみ得るの日の来らんことを鶴首かくしゅしている次第である。
麹町区 こうじまちく。神田区と一緒になって千代田区
慰楽所 いらくしょ。慰みと楽しみ。「レクリエーション」のこと
あすこ あの土手。見附上の土手から新見附の土手に至るまでの土手です。
逍遙漫歩 逍遙しょうようとは気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。漫歩まんぽとは、あてもなくぶらぶら歩き回ること。そぞろあるき
鶴首 今か今かと待つこと。首が伸びるほど待ち焦がれること

大東京繁昌記 早稲田神楽坂