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岩戸町|神楽坂

文学と神楽坂

 江戸時代の岩戸町は、留守居与力の居住地から、明暦の大火が起こると火除地になります。さらに深川六間堀町の代地が加わり、この代地は岩戸町に変わります。これは神話にもとずき、天照大神が天の岩戸に隠れると、アメノウズメが神楽に合わせて舞い、岩戸を開いたという話があるためです。明治になると、全てが岩戸町になります。

 東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

牛込岩戸町 延寶えんぽうころ幕府留守居るすゐ輿力よりき此に住す、後官収くわんしうして火除地となし、寛政十年深川六間堀町代地となる。神楽坂の上に在るを以て岩戸いわとまちと加ふ。初め二箇町に分らしが、明治四年六月之をはいし、東隣とうりん肴町さかなまち一部いちぶを加へて一町とす。
[現代語訳]延宝の頃には大奥や女中の事務をする留守居与力がここに住み、その後、防火用空地の火除地となった。寛政十年には深川六間堀町(現、江東区の1部)の代替地になった。神楽坂の上にあるから、岩戸町といった。最初は2か所に分割したが、明治4年6月、これを廃止、東の肴町の1部を加えて、1町になった。
江戸時代の岩戸町。江戸時代の青色の多角形が神社仏閣を除いて明治初期の岩戸町に。左上は延宝年間(1673-81)で留守居があり、右上は天明年間(1781-88)の火除地、左下は寛政年間(1789-1817年)で深川六間堀町の代地が付け加わり、右下は当時(嘉永5年、1852年)。

江戸時代の岩戸町。江戸時代の青色の多角形が神社仏閣を除いて明治初期の岩戸町に。左上は延宝年間(1673-81)で留守居があり、右上は天明年間(1781-88)の火除地、左下は寛政年間(1789-1817年)で深川六間堀町の代地が付け加わり、右下は当時(嘉永5年、1852年)。

留守居 江戸幕府の職名。大奥の取り締まり、奥向き女中の諸門の出入り、諸国関所の女手形などの事務、将軍不在のときは江戸城中の警衛などをつかさどった。また、諸大名が江戸屋敷に置いた職名。幕府との公務の連絡や他藩の留守居役との交際・連絡を担当。
与力 江戸時代、町奉行、留守居、大番、火消役などに付属し、町奉行組与力、御旗奉行組与力、大御番与力、火消役組与力、百人組与力、御留守居番与力などと呼ばれ、その組の頭を助けて庶務をつかさどったもの。
官収 国家や幕府が租税や土地を没収すること。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
深川六間堀町 江東区常盤二丁目と森下一丁目に当たる土地。
代地 だいち。かわりの土地。代替地。
 と呼ぶ

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)でもほぼ同じです。

岩戸町いわとちょう
 延宝年間(1673-81)は幕府留守居与力の居住地などであったが、のち上納させて火除地とした。寛政10年(1798)に深川六間堀の代地として町屋ができ、牛込岩戸町一丁目、牛込岩戸町二丁目となる。両町は善国寺を挟んで東が一丁目、西が二丁目である。
深川ふかがわ六軒ろっけん掘町ぼりちょう代地だいち 牛込岩戸町一丁目・二丁目 もともと深川六軒掘町にあったが、寛政九年(1797)11月22日に神田かんだ佐久間さくまちょうから出火した火事の際、飛火で類焼し、地所が御用地となったため、代地として下された。その際、神楽に縁があるため岩戸町としたいと願い出て認められ、深川六軒掘町代地牛込岩戸町一丁目、二丁目となった。これは、天照あまてらす大神おおかみが、天の岩戸に隠れてしまったとき、アメノウズメが神楽に合わせて舞い、岩戸を開いたという神話に因み、神楽坂の神楽と並べて岩戸としたのである。町内東南に毘沙門びしゃもん横町がある。北西に藁店横町がある。これは隣町の袋町に藁屋があるからだとされる(町方書上)。

善国寺 間違いでしょう。「大久保通り」の両側です。

 新撰東京名所図会 第42編(1906)では

     ○町名の起原並に沿革
牛込岩戸町いはとちやうは、もと幕士ばくし所有地しよいうち及び肴町さかなまちの商家ありしに、後ち上地となり、しばらく空間の地たりしを、寛政の頃深川ふかゞわけんぼり代地だいちとなれり。即ち神樂坂かぐらざかの上なれば、あま岩戸いはとかみあそび、其ちなみにて岩戸町と唱ふと。
 府内備考(五十四)に云、町名之牛込うしごめ神樂坂かぐらざか上にて被下置候に付神樂坂と申緣を以て、岩戸町と唱申度旨邨上肥後守御番所へ同年(寛政十年)九月中御願申上候得者、同十月二十七日小田切土佐守御内合にて願之通被仰付、深川六間堀町代地牛込岩戸町一丁目二丁目と相唱あひとなへ可成旨被仰付、依之其節より前書之通唱來候哉

嘉永かえい切繪きりゑを見るに、此地、深川ふかゞわ間堀けんぼり代地岩戸町、肴町岩戸町二丁目とありて、甚だ入組いりくめり、明治の初、肴町さかなまちの一部を之れに編入し、舊名きうめいを襲ひ、丁目の稱を省き、牛込岩戸町いはとちやうとなす。

幕士 幕府の侍。武士。
肴町 現、神楽坂5丁目
上地 民間から幕府・政府に召し上げられた土地。
深川六間堀町 江東区常盤二丁目と森下一丁目に当たる土地。
代地 だいち。かわりの土地。代替地。
神あそび かみあそび。神遊び。神前で、歌舞を奏すること
府内備考 江戸幕府が編集した江戸の地誌。1829年『御府内風土記』の原稿を書き上げたが、1872(明治5)年、宮城火災で焼失。この資料集が『御府内備考』として今日に伝わる。
 これに関わる事柄。…こと、…に関して。
被下置候 下し置かれ候。に与える。
邨上肥後守 村上肥後守と同じ。官位は肥後守で、国は現在の熊本県。
御番所 江戸時代、町奉行所のこと
小田切土佐守 江戸時代の旗本。官位は土佐守で、国は現在の高知県。
御内合 正しくは「御内寄合」。内寄合とは江戸時代、寺社・町・勘定の各奉行が月3回月番の役宅に集まり、事務連絡や公事訴訟の審判を行ったこと。
被仰付 おおせつけられる。命じられる
可成旨 これは間違い。府内備考では「可申旨」が正しい。「申すべきむね」。申し出るように
通唱 「一般に広く知られた歌」でしょうか。

 最後に江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏は、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で、こう書いています。なお、残念ながら、岩戸町の命名は明治の役人ではなく、江戸時代の村上肥後守の命名でした。

 岩戸町(いわとちょう)今は岩戸町は電車道を挾んで,元肴町の角から1町となっているが,切図をみると毘沙門堂の隣地が岩戸町1丁目、さらに肴町の間を左へ曲って南蔵院の通りを少し行った左側に岩戸町2丁目が二ヶ所に分れていた。“東京府志料”には
 此地はもと武家の賜地及び肴町の市店ありしが、後ち上地となり空間の地たりしを、寛政九年、深川六間堀町回禄に罹り、翌十年其町内百十三間の地、用地となり、当所を代地に給ふ。此地は神楽坂の上なれば、其の因みにて(岩戸神楽)岩戸町と唱うと。
 明治二年元牛込岩戸町一町目二町目を合せ五年又同町続き士地を合併す。
 今盛んに地名表示替が行われているが、筆者などは何町といえばほとんど何区のどの辺と判っていたが、その60年来なじんだ古い町名は消えて、思いもよらない地名が付けられるので分らない事甚だしい。明治の役人が岩戸神楽から取って岩戸町などと付ける所は洒落っ気があってよい思いつきである。なお、この町にある法正寺と正定院の二軒を二軒寺と呼んだ。

岩戸神楽 民俗芸能。面をつけて神々に扮し、「岩戸隠れ」「大蛇退治」など神話に取材した所作を演じる。宮崎県高千穂町で行われる神楽は有名。
明治の役人 岩戸町の命名は明治の役人ではありません。江戸時代から岩戸町でした。
二軒寺 法正寺と正定院は地図で。現在、二軒寺とは呼ばないようです。正定院は夏目漱石門下の森田草平氏が明治41年から43年にかけて下宿していました。

二軒寺

二軒寺。赤色で囲み、水色で描かれた場所が現在の岩戸町。

川柳江戸名所図会①|至文堂

文学と神楽坂

 実は川柳を調べる場合、どうやって調べればいいのか、わかりませんでした。例えば新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(平成9年、1997年)に、みずのまさを氏が書いた「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」があります。たくさんの川柳が出ていますが、いったいどこで調べたのでしょう。
 ようやくわかりました。まず「切絵図と川柳…」の出典は「川柳江戸名所図会」(至文堂、昭和47年、新宿区は比企蟬人氏がまとめ)でした。また川柳の原典は当然ながら江戸時代の「誹風はいふうやなぎ多留だる」167篇11万句です。では、最初に「川柳江戸名所図会」から「神楽坂」を取り上げます。
 しかし、みずのまさを氏の「切絵図と川柳…」について、この文献は「川柳江戸名所図会」を使ったものだとはっきりと書いてはいません。まったく。

神 楽 坂

牛込御門から濠を渡り、真直ぐに上りになる坂である。神楽坂という名については、いろいろと説があるようであるが、ここでは省略する。坂の上に岩戸町という名の町がある。
   神楽坂上に岩戸面白し         (四六・12
   神楽坂あるで近所に岩戸丁        (三四・28)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋      (六六・36)
   御百度で岩戸もねれる神楽坂       (六六・31)
 善国寺のお百度、岩戸は女陰をさす。
   岩戸町せなァ戸隠様だんべへ       (六六・31)
 信州から来た下男。
   諸国迄音にきこへた神楽坂        (六六・32)
   御やしろのあたりにかなう神楽坂     (安七智2)
   神楽坂ひどくころんで        (一四七・8)
 お神楽の面にたとえる。
   あふげ神垣近き神楽坂         (六六・34)

岩戸町 神楽坂上から西南にある町(右図)。あまの岩戸いわととは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟で、太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台である。
四六・12 これは46篇12丁の意味です。江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この「川柳江戸名所図会」も「誹風柳多留」から取った句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇11万句をまとめました。
とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
御百度 願い事がかなうように社寺に100回お参りをする。お百度を上げる。
ねれる 寝ることができる。
だんべへ 「だろう」の意の近世東国語。だんべい。だんべえ。
やしろ  社。神をまつってある建物。神社。屋代やしろ。神が来臨する仮設の小屋や祭壇など
かなう 願望が実現する。叶う。適う。敵う
替り面 かわりめん。顔つきが以前と変わること
あふげ 「あふぐ」で、仰ぎ見る。尊敬する。
神垣 かみがき。神域を他と区別するための垣。神社の周囲の垣。玉垣たまがき瑞垣みずがき斎垣いがき

「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」では神楽坂という由来についていろいろ書き、それから川柳になります。「川柳江戸名所図会」で出た川柳がすべて出てきます。

 ○あふげ此神垣近き神楽坂
 ○御やしろのあたりにかなふ神楽坂
 この2句は前記の御やしろに囲まれた神楽坂をうたったものです。
 ○神楽坂ひどくころんで替わり面
 転ぶほど急坂であったこと、お神楽のヒョットコ面が想像されます。
 ○諸国迄音にきこへた神楽坂
 無論、音は神楽にかけたのでしょうが、それにしても、音から神楽坂は有名だったのですねえ!

 また岩戸町については、項を改め、

 善国寺も岩戸町内にあり、現神楽坂通りの眞中に岩戸町1丁目があります。現岩戸町(大久保通り東側)は明和4年(1767)から火除明地になって雑司ヶ谷の百姓の菜園拝借地となっています。(切絵図(3)参照)
○神楽坂上に岩戸は面白し
○神楽坂あるで近所に岩戸丁
○御百度で岩戸もねれる神楽坂
最後の句は善国寺のお百度詣り、岩戸は女陰をさします。

岩戸英和クラブ|岩戸町

文学と神楽坂

『英国人宣教師 ライオネル・チャモレー師の日記①(1888年ー1900年)』(日本聖公会文書保管委員会編集。聖公会出版。2015年)のなかに<解説>があり、岩戸英和倶楽部のことが書かれています。

 チャモレー師は英語教育の持つ宣教上の意義を高く評価していた。大切なのは、そこに生じる人間関係であり、それが人々をキリスト教に導くことになると信じていた。だから、師は、学校以上に濃厚な人間関係を期待できる私塾を開設したのである。
 その私塾が岩戸英和倶楽部である。場所は東京市牛込区岩戸町25番地。早稲田通と大久保通の交差点に近い所である。チャモレー師は、明治28年6月、後輩宣教師のメドレーと共に、私費で、ここに「岩戸英和クラブ」を開いたのである。
 ただし、建物は民家であって、塾としては適当ではなかったのかもしれない。入塾者は多くなかった。出席者が10人もあれば、チャモレー師は素直に喜んだ。
 教科書としては「ザ・リトル・デューク」などを読んだ。しかし、彼が意図したように、この塾生たちの中からどのくらいの数のクリスチャンが出たのか、また、望ましい人間関係が生まれたのかは、あまり明らかではない。しかし、期待したほどの教育効果が上がらなかったことは確からしい。
 明治30年5月、ちょっとした住居がらみのトラブルをきっかけに、チャモレー師は、岩戸クラブを閉め、ここを自分の住居に改造し、以後最終的に日本を離れる日まで、ここに住み続けた。
名取多嘉雄

岩戸町25番地。岩戸英和クラブがここにあったチャモレー師 英語ではLionel Berners Cholmondeley
岩戸町25番地 早稲田通り(神楽坂通り、北中央から東中央に流れる)と大久保通り(東北角から南西角に流れる)の交差点(神楽坂上)に近い場所でした。右図では赤い枠で囲まれた場所。
ザ・リトル・デューク The Little Duke。作者はCharlotte M. Yonge。8歳でノルマンディー公になった無怖公(Richard the Fearless、943-996)の感動的なお話。
日本を離れる日 1922年(大正11年)、師は英国に戻りました。

青葡萄③|尾崎紅葉

文学と神楽坂

      (二)
自分(じぶん)(かど)()ると駈出(かけだ)した。寺町(でらまち)往来(わうらい)納涼(すゞみ)士女(ひと)()るやうで、撞着(つきあた)りさうでならぬから、()岩戸(いはと)(ちやう)()れて、一直線(いつちよくせん)(みち)(いそ)いだ、気圧(きあつ)(ひく)く、()すやうな暑熱(あつさ)銀砂子(ぎんすなご)ほど(ほし)はあるが、渠泥(どぶどろ)引攪旋(ひつかきまは)したやうな(そら)(くら)さに、西北(にしきた)雲間(くもま)から薄紫(うすむらさき)電光(いなづま)(しきり)(ひらめ)いては、道端(みちばた)の「ゆであづき」の赤行燈(あかあんどん)(あたり)()える。
一町(いつちやう)ばかりの砂礫道(じやりみち)蹂躪(ふみにぢ)つて、黒白(あやめ)()かぬ芥坂(ごみざか)駈上(かけあが)つた。大信寺(だいしんじ)横町(よこちやう)(やみ)(さぐ)つて、倉皇(そゝくさ)長屋門(ながやもん)(はい)ると、はや跫音(あしおと)聞着(きゝつ)けて、春葉(しゆんえう)(しよく)()つて玄関(げんくわん)()つてゐた。
(かれ)(かほ)()ると(ひと)しく
西木(にしき)如何(どう)した。」  と(たづ)ねると、
(おく)四畳半(よでふはん)。」  と案内(あんない)した。
玄関側(げんくわんわき)八畳(はちでふ)()にははや蚊帳(かや)()つてある。これは祖父母(そふぼ)寝所(ねどころ)である。(しか)両箇(ふたり)とも(つぎ)()(ひたひ)(あつ)て、憂愁(いうしう)満面(まんめん)(あふ)れてゐた。
開放(あけはな)した(えん)(さき)から(すゞ)しい(かぜ)蚊帳(かや)(そよ)いで、(まくら)(かよ)(むし)()(きこ)える。平生(いつも)(には)正面(しやうめん)百日紅(さるすべり)(えだ)燈籠(とうろう)()るのが、今夜(こんや)(やみ)で、葉越(はごし)(ほし)(かず)()えるばかり。台所(だいどころ)には三分心(さんぶしん)玻璃燈(ランプ)黯澹(あんたん)として、(をんな)どもの(さゝや)(こゑ)がする。(さい)乳児(ちのみ)とは午後(ひるすぎ)から生家(さと)へ行つて、留守(るす)であるから、家内(かない)森閑(しんかん)として()()えたやう。祖父母(そふぼ)自分(じぶん)()ると、這出(はいいづ)るやうに左右(さいう)から詰寄(つめよ)せて、西木(にしき)大変(たいへん)だよ。如何(どう)だらうねえ。と(ひど)(あわ)てゝゐた。自分(じぶん)()ちながら、
心配(しんぱい)することは()いよ。」
言捨(いひす)てゝ、(えん)折曲(をりまが)つて、正面(つきあたり)一間(ひとま)(とびら)()けた。
取片附(とりかたづ)いた四畳半(よでふはん)片隅(かたすみ)に、(ちや)染返(そめかへ)した木綿(もめん)更紗(さらさ)二布(ふたの)蒲団(ぶとん)()いて、(すそ)(はう)手織(ており)柳条(じま)木綿(もめん)掻巻(かいまき)(たく)して、(それ)細削(ほそこ)けた(すね)()せて、有松絞(ありまつしぼり)浴衣(ゆかた)兵児帯(へこおび)()いて、背面(うしろむき)(まくら)(はづ)しかけて、気怠(けたる)さうに秋葉(しうえう)(よこた)はつてゐた。
[現代語訳]自分は門をでると駆け出した。寺町の往来には納涼の男女がいるようで、突き当たるのが怖く、そこで岩戸町のほうに曲がって、あとは一直線に道を急いだ。気圧は低く、蒸むような暑さで、銀砂子ほど星はあり、どぶの泥をひっかきまわしたような天の黒さがあった。西北の雲間から薄紫色の稲妻がしきりにひらめき、道端にある「ゆであづき」の赤行燈のあたりで消えていった。
 一町ばかりの砂利道を踏みにじって、真っ暗な芥坂を駈け上がった。大信寺横町の闇を探り、そそくさと長屋門をはいると、はや足音を聞きつけて、春葉はロウソクをとって玄関に待っていた。 彼の顔を見ると同じことだが、
「西木はどうした。」
 と尋ねると、
「奥の四畳半に。」
と案内した。 玄関わきの八畳の間には蚊帳が速くも釣ってある。これは祖父母の寝所である。しかし二人とも次の間で額をあつめて、憂愁は満面にあふれていた。
開放した縁側から涼しい風が蚊帳にそよいで、枕に通う虫の音も聞こえる。いつもは庭の正面で百日紅の枝に灯籠を釣るのだがが、今夜は闇で、葉を越えて星の数が見えるだけ。台所には三分心のランプが暗く、女性たちのささやく声がする。妻と乳児とは午後すぎから生家へ行き、留守である。家の内部は森閑として火は消えたよう。祖父母は自分を見ると、はいだしてきて、左右から詰め寄り、西木が大変だよ。どうだろうねえ。とひどく慌てていた。自分は立ちながら、
「心配することはないよ。」
と言い捨てて、縁側を曲がって突き当たりの一間の扉を開けた。
 取り片付いた四畳半の片隅に、茶色に染め返した木綿更紗の大きな蒲団を敷き、すその方に手織で柳条の木綿の夜着を着て、細くこけたすねをのせて、有松絞の浴衣に兵児帯を巻いて、背面には枕をはずしかけて、けだるく秋葉は横になっていた。

寺町 通寺町と横寺町の2つを指しています。どちらも涼み客が多くなっていたのでしょう。
織る いろいろなものを組み合わせ、一つのものを作り上げる。
撞着 どうちゃく。つきあたること。ぶつかること。
つと ある動作をすばやく、または、いきなりする。さっと。急に。不意に。
岩戸町 右図を。
銀砂子 ぎんすなご。銀箔(ぎんぱく)を粉にしたもの。絵画や蒔絵(まきえ)などで使う。
ゆであづき ゆであずき。あずきをゆでてうす甘く味つけしたもの。煮あずき。
一町 約109メートル。
黒白 あやめ。文目。模様。色合い。
辨かぬ あやめもわかず。文目も分かず。暗くて物の区別もつかない。
芥坂 ごみ坂。五味坂がありますが、おそらく右図の赤矢印で示す坂を指しているのでしょう。
大信寺 新宿区横寺町43番地にある浄土宗の大信寺。本尊は阿弥陀如来像。号は金剛山如来院。
横町 おそらく寺の南東部から北西部にかけて横町があったのでしょう。
倉皇 そうこう。蒼惶。落ち着かない。あわてる。「そそくさ」は、落ち着かず、せわしなく振る舞う。あわただしい。「そそくさと帰る」
長屋門 長屋を左右に備えた門で、伝統的な門形式の一つ。尾崎紅葉の借り家(右図)も非常に簡単な長屋門でした。
秉る とる。手に持つ。しっかり持つ。
斉しく ひとしく。二つ以上の物事の間に、性質や状況で同一性がある。よく似ている。
奥の四畳半に 以上は右図の家の場所でわかります。これはこの地図から書きました
鳩める あつまる。あつめる。鳩首(きゅうしゅ)は、鳩が首を寄せ集めるように、人々が集まり額を寄せ合って相談すること。
憂愁 うれえ悲しむこと。気分が晴れず沈むこと。
 和風建築で、部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分。縁側。
百日紅 サルスベリ。ミソハギ科の落葉中高木。
燈籠 とうろう。灯籠。灯明を安置するための用具。
三分心 幅が1cm弱のランプの芯。
黯澹 暗澹。薄暗くはっきりしない。
 ひ。女の召使い。下女。はしため。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている。
染返す そめかえす。染め返す。色があせてきたものを、もとの色または別の色に染め直す。
木綿更紗 ポルトガル語のsaraçaから。木綿地に、人物・花・鳥獣などの模様を多色で染め出したもの。室町時代末にインドやジャワなどから南蛮船で運ばれて来て、日本でも生産したもの。
二布 ふたの。二幅。並幅の倍の幅。
手織 ており。手織り。動力を用いず手織り機などで布を織ること。
柳条 しま。縞。織物模様の一種。洋服地のストライプに当たる。筋とも。
掻巻 綿入れの夜着。
 ひだ。衣服の細い折り目。
細削ける 「こける」は動詞の連用形に付いて、その動作が盛んに長く続いて行われる意味を表す。「痩せこける」は「やせて肉が落ちる」「ひどくやせる」
有松絞 名古屋市緑区有松・鳴海付近で産する木綿の絞り染め。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

神楽坂|大東京案内(2/7)

前は大東京案内(1/7)です。

神楽坂の表玄関は、省線飯田(いいだ)(ばし)駅。裏口に当るのが市電肴町(さかなまち)停留場。飯田橋駅を、牛込見附口へ出て、真正面にそそり立つやうな急坂から坂上までの四五丁の間が所謂(いわゆる)神楽坂(かぐらざか)の盛り場だが、もう少し詳しく云へば、神楽町上宮比(かみみやび)肴町岩戸町通寺町(とおりてらまち)等々で構成(こうせい)され、この最も繁華(はんくわ)な神楽坂本通り(プロパア)は神楽町、上宮比町、肴町の三町内。さうしてその中心は、(おと)にも高い毘沙門(びしやもん)さま。その御利益(ごりやく)もあらたかに、毎月寅と午の日に立つ縁日(えんにち)書き入れの賑ひ。

省線 現在のJR線。1920年から1949年までの間、当時の「鉄道」は政府の省、つまり鉄道省(か運輸通信省か運輸省)が運営していました。この『大東京案内』の発行も昭和4年(1929)で、「省線」と呼んでいました。

肴町

大正12年、牛込区の地形図。青丸が肴町停留場


市電 市営電車の略称で、市街を走る路面電車のこと。
肴町停留場 市営電車の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」四つ角)で、大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
神楽町 現在の神楽坂1~3丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
上宮比町 現在の神楽坂4丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
肴町 現在の神楽坂5丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
岩戸町 大久保に向かい飯田橋からは離れる大久保通り沿いの町。神楽坂通りは通りません。以上は神楽町は赤、上宮比町は橙、肴町はピンク、通寺町は黄色、岩戸町は青色に書いています。
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。昭和26年に現在の名前に変わりました。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

プロパア proper。本来の。固有の。
善国寺 ぜんこくじ。善国寺は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の毘沙門天は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
書き入れ 帳簿の書き入れに忙しい時、商店などで売れ行きがよく、最も利益の上がる時。利益の多い時。

ショウウインドーの(まばゆ)さ、小間物店、メリンス店、(いき)な三味線屋、下駄傘屋、それよりも(うるさ)いほどの喫茶店、(うま)いもの屋、レストラン、和洋支那の料理店、牛屋(ぎゆうや)、おでんや、寿司屋等々、宵となれば更に露店(ろてん)數々(かずかず)、近頃評判の古本屋、十銭のジャズ笛屋、安全カミソリ、シヤツモヽ引、それらの店の中で、十年一夜のやうなバナナの叩き売り、それらの元締なる男が、また名だゝる 若松屋(わかまつや)近藤某(こんどうぼう)

小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの。
メリンス スペイン原産のメリノ種の羊毛で織った薄く柔らかい毛織物。同じ物をモスリン、muslin、唐縮緬とも。
牛屋 牛肉屋。牛鍋屋。
露店 ろてん。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
ジャズ笛屋 ジャズで吹く笛。トランペットなどでしょうか。
シヤツモヽ引 「シャツ・パンツ」の昔バージョン。
元締 もとじめ。仕事や集まった人の総括に当たる人。親分。
名だたる なだたる。名立たる。有名な。評判の高い。
若松家 「神楽坂アーカイブズチーム」編『まちの想い出をたどって』第4集(2011年)で岡崎公一氏が「神楽坂の夜店」を書き

神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私か振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家かあり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一冢)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた

 若松家はテキヤの1つだったのでしょう。なお、テキヤとは的屋と書き、盛り場・縁日など人出の多い所に店を出し商売する露天商人のことです。

文学と神楽坂

明進軒、プランタン|岩戸町

文学と神楽坂

 渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)の142頁では以下の説明が出てきます。

プランタンまえの明進軒
麻雀の歴史の証人となったプランタン神楽坂店は、いったいどこにあったのか。神楽坂六丁目の横丁であるが諸説があって今一つはっきりしない。「神楽坂の横丁の植木垣のつづいたもの静かな屋敷町に医院の跡を買って開いた」と紹介した文献もあるが場所の特定に至らない。ところがその場所を明記した文献があったのだ。

その料理店は明進軒といった。紅葉宅のある横寺町に近いという関係もあって、ここは硯友社の文士たちがよく利用した。紅葉の亡くなったときも徹夜あけのひとびとがここで朝食をとっている。〈通寺町小横丁の明進軒〉と書く人もいるが、正しくは牛込岩戸町ニ十四番地にあり、小路のむかい側が通寺町であった。今の神楽坂五丁目の坂を下りて大久保通りを渡り、最初の小路を左へ折れてすぐ、現在帝都信用金庫の建物のあるあたりである。
『評伝泉鏡花』笠原信夫 白地社

このように明確に記載されている。この場所は神楽坂通りに面した亀十パン店のあった横から路地を入った左側で、現亀十ビルの裏手にあたる。同書には「尾崎紅葉が近くてよく使った明進軒という洋食屋であった」という記述があるが、横寺町の紅葉宅から神楽坂上の交差点までは近いとはいいがたく、特定はできなかった。そこは日本料理の『求友亭』があった場所とも考えられていたので、この店と混同してしまったのではないかと推察していた。
ところが歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治三十六年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはじめた。めずらしさもあって料理の評判も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
泉鏡花が横寺町の尾崎紅葉家から大橋家に移り仕むとき、紅葉は彼を明進軒に連れていって送別の意味で西洋料理をおごってやった。かぞえ二十三歳の鏡花はこのとき初めて紅葉からナイフとフォークの使い方を教わったが酒は飲ませてもらえなかったという。当時、硯友社、尾崎紅葉、泉鏡花、梶川半古、早稲田系文士などが常連であった。

 しかし、困ったことにこの歴史資料の名前は何なのか、明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図はどこにあるのか、わからないのです。この文献は何というのでしょうか。あったのでしょうか。まさか昭和45年、新宿区教育委員会の「古老の記憶による関東大震災前の形」だとは思えません。これは神楽坂一丁目から五丁目までを描いたものです。

 この位置は最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。また、明進軒は「通寺町の小横町」に建っていました。これは「横寺町」なのでしょうか。実際には「通寺町の横丁」ではないのでしょうか。あるいは「通寺町のそばの横丁」ではないのでしょうか。
昭和12年の「火災保険特殊地図」では岩戸町ニ十四番地はこの赤い多角形です。なお求友亭は通寺町75番地でした。またこの横丁は川喜田屋横丁です。明進軒
また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。

明進軒

明進軒

 さらに1970年の新宿区立図書館が書いた「神楽坂界隈の変遷」では

紅葉が三日にあげず来客やら弟子と共に行った西洋料理の明進軒は,岩戸町24番地で電車通りを越してすぐ左の小路を入ったところ(今の帝都信用金庫のうしろ)にあった。

 この「左の小路」というのは川喜田屋横丁です。さらに「神楽坂界隈の変遷」は『東京名所図会』(監修宮尾しげを、睦書房、1969年、東陽堂の「新撰東京名所図会」明治29-44年刊の複製)を引用しています。ここでは「新撰東京名所図会」第42編を直接引用します。

明進軒

現代の明進軒。マンションです。

●明進軒
岩戸町(いはとちやう)二十四番地に在り、西洋料理(せいやうれうり)、營業主野村定七。電話番町一、二〇七。神楽坂(かぐらざか)青陽樓(せいやうろう)(なら)(しよう)せらる。以前區内の西洋料理店は、唯明進軒(めいしんけん)にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々(びゝ)たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に轉ず、其地内にあるの日、文士屡次(しばしば)こゝに會合(くわいがふ)し、當年の逸話(いつわ)また少からずといふ。

 結論としては明進軒は以前の岩戸町二十四番地(現在は岩戸町一番地)なのです。

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