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本多横丁|近江屋ビル~宮崎ビル

 本多横丁の近江屋ビルから宮崎ビルまでを眺めてみます。

(左)Google地図(右)商店街マップ

(左)Google地図(右)商店街マップ

 最初は新宿区教育委員会から『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(新宿区教育委員会、昭和45年)➊です。

➊古老の記憶による関東大震災前の形
本多横丁

 ここでは神楽坂通りから本多横丁に入って、左側(北側)の店舗をみていきます。「竹川靴」から「豆フ・米沢」までの8店舗あります。

 次は戦前の形➋です。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「戦前の本多横丁」(平成7年)では神楽坂通りから紅小路までの店舗は4店舗(竹川靴店、山本コーヒー、中村屋、そば・海老屋)でした。ここで➊で「朋月堂」は紅小路の下に、➋で「せんべい明月堂」は紅小路の上になっています。また「豆フ・米沢」と「豆腐屋」も同じです。

➋戦前の本多横丁

 ❸も戦前で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)です。紅小路を見てみると、その直下に「ソバヤ」があります。この上➋でも同様で、「そば・海老屋」があります。「ソバヤ」から3店舗離れて「床ヤ」がありますが、❶では「大内トコヤ」は紅小路のすぐ上にあります。どうも、この❶の「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)ではないか、と考えています。

➌戦前

 次は戦後で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和27年)➍です。「海老屋そば」は同じですが、その上は「松月堂菓子」となり、➋の「明月堂」や➊の「朋月堂」とも違っています。どれが正しいのでしょうか。「ここは牛込、神楽坂」第5号のインタービューで女将は「明月堂」だと答えましたので、正しくは「明月堂」でしょう。
「たつみや」は戦後に出てきたものです。さらに、紅小路はこの時期、通れないようになっています。

➍戦後

 次は「住宅地図」の昭和35年➎です。「たつみや」と「竜見」は同じ店舗を指しているのでしょう。海老そば、明月堂パンも出てきます。

➎1960年

 では、1990年➏に飛びます。近江屋だけは近くの一軒を飲み込み、大きくなりましたが、その他は何も変化しません。宮崎氏の宮崎ビルは「明月堂」と同様に、氏が創設し、今でもオーナーとして子孫が働いています。1世紀以上に渡ってこの地域では同じオーナーたちが同じ場所を占めているのです。(まあ、普通)。ただし、テナントの多くは新しいものになっていますが。

➏1990年

 まとめ。「古老の記憶による関東大震災前の形」に大きく違いはなかった。しかし2つだけは間違いで、1つ目は「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)でした。2つ目。松月堂菓子や朋月堂ではなく、明月堂でした。

 なお、コロナウイルスのために飲食店に路上利用を緩和するという動きが始まっています。これって、神楽坂ではできるのでしょうか。

 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」では

●竹内小学校は結構な学校でした。
おせんべの「明月堂」宮崎なおさん96歳
  私はここで生まれたんです。明月堂つていうおせんべ屋の一人娘で。学校は竹内小学校というところに通ってました。うなぎの志満金さんの横を入りまして、ちょっと行きますと結構な校舎がございましてね。幼稚園もありました。運動会や遠足も盛んで、鎌倉に行ったのを覚えています。でも、そのうちさびれてしまって、津久戸小学校と一緒になりました。
 若い頃はあらゆるお稽古をしたものです。お友達もたくさんいて、神楽坂に何か食ぺに行ったり。とくに本多横丁の「若松」はこじんまりしたいいお店で、お友達と「若松」行こう、行こうって。
 昔は、いまの「ほてや」さんとこが検番で、それは賑やかでした。夕方になると検番は忙しくなって。芸者衆はみんな縁起をかついでお水を汲んだりしてお座敷を待つんです。待合や料亭さんは、なめつけたようにきれいに掃除して。このへんは芸者屋さんや料亭さんも多くてそれはたいへんなものでした。
 もっといろいろ覚えているといいんですけど、もう96ですからね。みんな忘れてしまって、お返ししちゃったことが多いんですよ。
●ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと。
うなぎ「たつみや」高橋たまさん75歳
 ここは戦前、山本コーヒー店がドーナツをつくっていたところなんです。私は戦前、新見附にいて、娘の頃は毎日神楽坂に遊びにきていました。それで、戦後店を持つとき、ぜひ大好きな神楽坂でと、ここへ来たんです。
 お店は23年の丑の日に始めました。そのときは向かい側で、料亭への出前が中心でした。お父さんは料亭さんの旦那にかわいがっていただきましてね。戦後の神楽坂も芸者さんが多くて、新内流しなども来て、よかったですよ。
 ジョン・レノン? ええ、オノ・ヨーコさんと見えました。週刊誌にうちのことが出たので、それを見て来てくれたようで。亡くなったのはあれからじきでしたね。
 週刊誌に書いてくださったのは作家の森敦さんで、以前は近くの印刷会社で経理をなさっていました。お父さんを聶厦にしてくださって、芥川賞をとられた後もよく来てくださいました。
 それから常盤新平さんが直木賞をとられたときは、うちで報せを待ってたんですよ。大勢の方とご一緒に。
 写真家の荒木(経惟)さん、山田洋二さん、久米宏さんなどもご聶厦にしてくださって。松平健さんが見えたときはサインをいただきました。お父さんも私も「暴れん坊将軍」のファンなものですから。お父さんは軽い脳卒中をやりましたが、ええ、もういいんですよ。

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」神楽坂1丁目~2丁目辺りで

海老屋(そば屋)
 お店の前の自転車がすごかった。年季の入ったボディは鈍い光を放ち、フレームにぶら下がったぼろぼろの看板には海老屋の文字がかすかに見える。革のサドルはひびわれておじいちゃんの手みたいになっていた。この自転車がお店の味だった。


360度VRカメラ(4)

牛込中央通り


毘沙門横丁

紅小路

ごくぼその路地

銀杏坂通り

見番横丁

新坂

石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日


 石畳とマンホール

石畳|神楽坂|酔石横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 酔石横丁(牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」1998年)、または、まちなみ景観賞の路地(けやき舎『神楽坂おとなの散歩マップ』2007年)というのはここです。


『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

     石畳が美しい『酔石すいせき横丁』
井上 次は、テレビや雑誌の撮影などでいつも賑わっている毘沙門天の向かい、「伊勢藤」のある横丁へ。これは林さんの案で『酔石横丁』。ピンコロ石の敷石が美しい。
林  そう、半円状に敷き詰めてあってね。
井上 それが酔つぱらいの足どりみたいで。

 神楽坂通り商店会が出した神楽坂マップによれば「神楽坂の持つ『伝統と進取の心』を象徴する横丁。石畳の奥には、町屋造りの落ち着いた酒亭と、テラス席をもつクレープ料理店が向かい合って営業しています」(場所はここここ)と書かれています。

 それより前のここはどうでしょうか。幅4mのいっぱいに石畳が敷き詰めています。まあ、ちょっと下水の入口が違っていますが。

酔石2

 ここについては毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは「神楽坂まちの手帖」第15号(07年冬)でこう話しています。

毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは、「むかしはいい下駄ほどすぐに割れちゃったらしいし、いまでも台車が通るとガタガタうるさい。母親を車椅子に乗せてたころも、通りづらくて困ったよ」といい、石畳なんてべつに好きじゃない、といいきる。実は九年前、この石畳をアスファルトにかえる「チャンス」はあった。下水管工事のため、石畳をぜんぶはがさなくてはいけなかったからだ。それでも「下水管工事は、9割まで区が負担してくれる。舗装もアスファルトに復旧するんなら、区がやってくれる。だけどそれじゃやっぱり風情ががないから、みんなでお金をだしあってもとの石畳に戻したその時にすごくきれいになったよね。それまでは、あっちこっち掘ったりしてボコボコだったけどさ」と当時を振り返る福井さんはうれしそうだ。


 石畳とマンホール

石畳とマンホール

石畳|神楽坂|毘沙門横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。

 は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。

西→東

 まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……

石畳東→西(入口)

 さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。

 東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……

石畳東→西(半ば)

 きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?

 さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。

ひぐらし小路

 正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。

 真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
 奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。

ひぐらし小路(内→外)

 これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。

 2013/5/15→2019/6/21


 石畳とマンホール
石畳1

石畳

神楽小路横 かくれんぼ 毘沙門横丁 紅小路 見返し横丁 兵庫横丁 クランク 寺内公園 酔石横丁

石畳|神楽坂|紅小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

紅小路6番から5番を向いて

紅小路の写真

 この7番から8番までの道路は以前は「名前はない道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

4番から3番の方向に向けて

G

3番で。珈琲パティオは右手に

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。



 石畳とマンホール

2013年5月2日→2019年4月27日

石畳|神楽坂|駒坂(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。

 駒坂は『ここは牛込、神楽坂』で

井上  それから。おまけでページがあったら入れたいということで、消防署の前の大久保通りを渡って、『ひょうたん坂』を越えて白銀公園の方へゆく。そこから有名な「大〆」のところを通ってすぐのところを、左に曲がって『玉の湯』の方に下りる道。
坂崎  あそこは『駒坂』。となりのひょうたん坂と対で、ひょうたんから駒、ということで。
井上  あの階段のあるところですね。

 ほかに玉の湯階段という名前も付いています。

 一応、地図で同じことを見ておきます。小さな小さな赤点は石畳がある駒坂です。長くて赤い路地も区道です。地図では立派に見えますが、う~ん噓です。
駒坂3

 これが駒坂です。区道です。
石畳|駒坂1

  この階段は小さくて、2.7メートル。この石畳は1.96メートルでした。

石畳|駒坂2石畳|駒坂3

 下から見るとこうなっています。

石畳|駒坂4

 ちなみにもうひとつ、区道?を上げておきます。前の右側に書いてあったところです。東側はここで、幅はたったの91センチ。

区道東

 西側はここで、幅は1.55cm。

区道西

 幅1メートルもないので、これは本当に区道でしょうか。


 石畳とマンホール

成金横丁 白銀公園 瓢箪坂 駒坂 川喜田屋横丁 神楽坂上 神楽坂5丁目 牛込亭

4丁目南東部の歴史|神楽坂通り

文学と神楽坂

 神楽坂通りに面した紅小路と本多横丁との間の場所です。楽山茶舗があるのが一番有名でしょう。大正の終わりから、昭和、平成までこの場所を調べてみました。

 まず大正12年の関東大震災の以前の図を見ます。昭和45年新宿区教育委員会『神楽坂界隈の変遷』の「古老の記憶による関東大震災前の形」です。

楽山、本多横丁、紅小路

 ここでは「玩具橋本」「山本コーヒー」「竹川」「靴」が書いてあります。「竹川」「靴」は、昭和5年になると「竹川靴店」と書いていますから、これはおそらく一語だと思います。「山本コーヒー」には本多横丁と神楽坂通りの2店があり、中でつながっていたようです。メイセン屋(メイセン屋はおそらく銘仙屋?)は紅小路の左に書いてあります。なお、地元の方の情報を加えてメイセン屋もここに含有されると考えます。

 次は『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」にあった図ですが、原図ではなく、やはり地元の方の情報を加えて一部変更した図です。

『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)「神楽坂と縁日市」

 昭和5年頃の図は左に、平成8年の図は右です。メイセン屋は楽山茶輔と同じ位置にあり、紅小路通りの右にあったようです。どちらがいいのか? 神楽坂の住人によれば「昭和3年生まれの父によると、新宿区の『古老の記憶』が間違い」(通信欄)といいます。なるほど。また、同じ住民から、魚国鮮魚店は表通り側に、牛込花壇は裏道側にあるといいました。上図が正しいと推定させるものです。

 さて次は「火災保険特殊地図」で昭和12年版と昭和27年版の2つです。左の昭和12年版は「コーヒー」だけが見えます。一方、右の昭和27年版は「神楽坂郵便局」「空白」「みさこのみや」「近江やハキモノ」が見えます。

4丁目

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)でこんな写真がでています。

大東京写真案内

 もう1つ、昭和60年に神楽坂青年会がつくった「神楽坂まっぷ」です。

L

神楽坂まっぷ

 平成15年の神楽坂通り商店会の「神楽坂マップ」です。

平成15年

 さらに『神楽坂まちの手帖』第12号の「昭和三十年代とその周辺」から昭和35年の地図をもらいました。また昭和35年以上は国立図書館の地図をまとめています。以上、まとめると

坂上/西北の店舗① 店舗② 店舗③ 坂下/東南の店舗④
大震災前 メイセンヤ 玩具 橋本 山本コーヒー 竹川 靴
昭和5年 メイセンヤ 橋本オモチャ 山本喫茶店 竹川靴店
昭和12年 (建物) (建物) コーヒー (建物)
昭和27年 神楽坂郵便局 (空白) みさこのみや 近江や ハキモノ
昭和35年 神楽坂郵便局 仕出し 魚藤 近江屋
昭和35年頃 神楽坂郵便局 フランス菓子スゴオ 鮮魚 魚三 履物近江屋
昭和45年 (空白) スゴオ菓子店 魚三 近江屋ハキモノ
昭和51年 大佐和商店 スゴオ菓子店 魚三 近江屋
昭和55年 神楽坂楽山 栄和ビル コーヒースゴオ 魚三 近江屋ハキモノ
昭和60年 銘茶楽山 3F ラサール美容室
5F 栄和歯科
魚さん 近江屋ハキモノ
平成2年 神楽坂銘茶楽山 中坪ビル 魚さん 近江屋
平成8年 楽山茶舗 ゲームセンター 魚さん料理 近江屋履物
平成28年 楽山(①+②) うおさん 4丁目近江屋ビル
AGARIS、Poisson、野菜食堂サクラサク、つみき、神楽坂イカセンター 8.va 五十番。蓮、やまあい
La cuchara, 九蔵
楽山

楽山

楽山
『まちの手帖第11号』には楽山のこれまでの歴史があります。昭和34年に牛込北町の中央通りに店を開き、昭和43年に現在の場所に変わりました。『まちの手帖第11号』ではこんなことを書いてあります。

昭和39年のお茶審査競技会で5種5煎というきき茶部門で優勝。「その後何度も入賞したから、トロフィーや賞状がトラックいっぱいになったよ(笑)」

山本コーヒー
 「ここは牛込、神楽坂」第5号のイラスト「戦前の本多横丁」では

(本多横丁のコーヒー店は)表通り(神楽坂通り)のコーヒー店と裏でつながっていて、ここで名物のドーナツを作っていた。サトウハチローさんがここのドーナツのファンだった。

 サトウハチロー氏も『僕の東京地図』で書いていますが、ここは別紙に。

かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では

山本コーヒー(喫茶店)
楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった。

 河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号「肴町界隈のこと」について

三菱銀行前の『山本コーヒー店』のふっくらと厚みのあるドーナツのこげ茶色。すべてが懐かしく郷愁をさそうのである
うおさん

昔の山本コーヒー店、現在のうおさん

本多横丁の路地|神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂通り(大通り)を入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地だと考えれば、全部路地になるのですが、ところがどっこい、違います。やはり路地は路面が狭くないとだめ。

本多横丁2

 本多横丁から東側に行くのは2本の路地があります。神楽坂通りに近い路地から「芸者新路」、「かくれんぼ横丁」です。

 最も近い道は「芸者新路」で、この路地から入っていきます。1990年後半、芸者新路の石畳はなくなりました。

本多-1

 遠い道は「かくれんぼ横丁」で、この路地から入っていきます。

本多-2

 西側には4本の路地があります。神楽坂通りに近い路地は「紅小路」で、その次の道は名前はなく、石畳になっています。

 その次の袋小路の道は「見返し横丁」、最後の袋小路の道は「見返り横丁」です。この4本は非常に短い。なお、東側と西側の6本はすべて私道です。なお、本多横丁と神楽坂通りは区道です。

 紅小路は神楽坂通りの「楽山」と「みずほ銀行」の間に入り、しばらくそのまま進み、それから右の直角に曲がって、本多横丁の「海老屋」とスペイン料理「エルプルポ」の間に出てきます。通りから離れていくと石畳がきれいです。神楽坂通りに入っていく場合、「楽山」も赤い色が使ってあるし、「みずほ銀行」も赤い壁の色で、ゆえに紅小路です。
本多1

 しかし、楽山は立替で赤い色ではなくなりました。現在の写真は…。

 見返し横丁と紅小路の間に「名無し」がありました。このまま、本多横丁から東に行くと南に曲がる狭い路地があり、その先は紅小路になります。実際は2017年までには、ここも石畳で覆われましたので、とりあえず「裏紅小路」としておきます。ただの「紅小路」になる可能性もあります。まあ、商店街がどう判断するかですが。

 以前はコンクリートで覆ってありました。

本多2

 見返し横丁は本多横丁の「鳥静」と「本多鉄〇てつまる横丁」の間に入り、昔はわずかにSに曲がりました。見返し横丁は見返り横丁よりも新しく出来て、言葉のあやでこんな名前になりました。石畳もあるし、高層マンションを真正面に見て、やがて袋小路になります。昔は兵庫横丁にでていくこともできました。



本多3

 見返り横丁は本多横丁の「ヘア  ラ・パレット」と「はじめの一っぽ」の間に入り、高層マンションを横に見て、旅館「和可菜」の裏で袋小路になります。これも昔は兵庫横丁まででていくことができました。

路地5

 地域の方から大きな助言をいれて、昭和12年の火災保険特殊地図では

火災保険特殊地図。都市製図社。昭和12(1937)年。

火災保険特殊地図。都市製図社。昭和12(1937)年。

 本多横丁の「地図」では「紅小路」や「見返し横丁」を堂々と書いています。ふーん、紅小路はいかにもそれらしい。いい名前をつけた『ここは牛込、神楽坂』の日本路地・横丁学会の坂崎、井上、阿久津先生とバウワウの林さんに大感謝。





 石畳とマンホール

神楽坂の通りと坂に戻る

路地|一番狭く細い路地は

文学と神楽坂

 路地は家と家との間の狭い通路です。では一番狭い路地はどこなのでしょうか? 「ごくぼそ」の路地で、これはよくわかっています。では2番目、3番目の狭い路地は? 幅2メートルより狭い路地はどれほどあるのでしょう。

① 1番狭い路地は、ご存知、毘沙門向かいの細い路地、「ごくぼそ」の路地で、幅91cmです。地図で見てみましょう。上宮比町は将来の神楽坂4丁目になるところです。明治28年の町には何もありませんが、明治29年、ここに路地がでてきます。(新宿区『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』)

 神楽坂の夜店は明治20年代に始まっているのでこれと相まってでてきたのでしょうか。大正12年(1923)関東大震災が起きます。日中戦争が始まった昭和12年には、現在とほぼ同じ大きさになります。下の左側です。昭和27年、まだ第2次世界大戦の影響が残っているのでしょうか、1つの建物が消え、路地は巨大になります。(新宿歴史博物館『新宿区の民俗』平成13年)

 現在、「ごくぼそ」の路地も石畳なのですが、大きな板製の石畳になり、扇の文様ではありません。ビルのあいだなのですが、ちゃんと居酒屋もあります。
ちなみにストックホルム旧市街のMårten Trotzigs Gränd (モーテン・トロッツィグス・グレンド)という最小の路地は幅70cmです。

 神楽坂通りから見た路地とその反対側は…

ごくぼそ
距離5

 なお、ここではBosch(ボッシュ)のレーザー距離計GLM50 Professionalを計測では使っています。

 ② では2番目の路地はどこ? ふくねこ堂の横の「紅小路」で、最小で141cmです。石畳は扇の文様です。しかし、どちらも路地は小さすぎる感じがします。もう少し大きい路地のほうがよくはないでしょうか。


G

距離4

 ③ 毘沙門横丁と三つ叉横丁を結ぶ路地は名前はないのですが、狭いところで、148cmです。扇の文様です。人間はそんなに多くはいない場所なので、特に148cmでは多くはなく、下の石畳を眺めていると、かなり気分がいい場所なのです。
距離8

 ④ 別亭鳥茶屋横の階段「熱海湯の階段」は最小160cmで、この階段の上は石畳ですが、扇の文様ではありません。階段はコンクリート製です。和食やバーがあります。

 面白いのは坂の両端は2メートル以下ですが、階段がある場所はむしろ横幅は大きくなっていることです。258cmもある所です。事故があるとやはり小さくはできないということでしょうか。

距離9
距離7

 ⑤ 兵庫横丁の和可菜前173cm、料理幸本前は172cmです。北から来ると、路地は曲がり、それまでは大きな路地が急に先が見えなくなります。この先はどうなっているのか、興味深々です。でもなかにはなにもありません。先が見えない路地はこことかくれんぼ横丁だけです。

 以上、幅2メートル以下の路地でした。