渡辺功一」タグアーカイブ

逆転式一方通行の延長

 逆転式一方通行の延長について、地元の方は…

 神楽坂通りに、逆転式一方通行が導入されたのは東京新聞調べの1958年(昭和33年)だということは「逆転式一方通行・再考(写真)」で考察しました。逆転式はその後、千代田区側に延長されます。
 1977年(昭和52年)のテレビドラマ『気まぐれ本格派』の牛込見附交差点のシーンには、歩行者用道路と「ランチタイム・プロムナード」(スプーンとフォーク、ティーカップ)の標識が写っています。正午から午後1時までを歩行者天国にするもので、歩行者が道の真ん中を歩いているので、ちょうど実施中と思われます。

『気まぐれ本格派』32話

 右側の高い位置にも、大きな歩行者用道路の標識が見えます。これは回転式で、時間によって表示内容が変わります。神楽坂通り入り口にも同じ標識があり、「逆転式一方通行・再考(写真)」の記事のID:9109(昭和51年8月26日)で確認できます。
 また「神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85、ID 86」の記事にも回転式標識が写っていますが、表示は「調製中」です。故障していたか、あるいは表示内容を変えようとしていたのかも知れません。
 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、昭和54年(1979)4月1日に逆転式が延長されたとあります。しかし『気まぐれ本格派』ではシーンによって牛込橋を通る車の向きが逆になっています。少なくとも千代田区の牛込橋部分については、昭和52年時点で逆転式一方通行が実施されていたことが分かります。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 67

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67は、昭和48年(1973年)5月22日、牛込橋から神楽坂1丁目などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67 飯田橋駅付近より坂上方向

 中央の通りは早稲田通りで、中央帯はありません。渡辺功一氏によれば、昭和54年にここも逆転式一方通行になったといいます(『神楽坂がまるごとわかる本』けやき舎、36頁)。この通りの右側は神楽河岸、左側は神楽坂1丁目です
 街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、左側の街灯(写真では「同棲時代」の右前。4枚目の写真)だけが形が違っています。新宿区の予算ではなく、この場所は区境を越えて、千代田区でした。
 また、最前部の車道と歩道は、石畳でした。この時代の牛込橋はコンクリート製。平成8年に現在の鋼製の橋に架け替えられました。ID 68も同様です。

 最初は4階以上の高層ビルです。これこそ地元の方の協力がないとできません。

高層ビル

  1. 理科大
  2. 週刊大衆なので双葉ビル
  3. 理科大
  4. 1丁目の田口屋(花屋)ビルで5階建て。2丁目の田口屋は2階建て
  5. 大島ビル。1階は大島糸店。4階建て。竣工は1959年5月。
  6. 五条ビル。2丁目。竣工は1967年。
  7. 三菱銀行。3丁目。現在は三菱UFJ銀行。
  8. 「軽い心」のビル。2丁目。現在はカグラヒルズビル
  9. 丸金ビル。3丁目。神楽坂仲通り。1973年の住宅地図だと「金丸ビル」。現存しません。
  10. 川田ハイツ。3丁目。現在は「クレール神楽坂6」。1973年6月竣工、5階建て。芸者新道に面していて、上に行くほど床面積がすぼまります。
  11. 七福ビル。2丁目。1971年2月竣工。5階建て。足元に「神楽坂ゴルフガーデン」(緑の楕円)がありました。

84年 住宅地図。五条ビル、大島ビル、田口ビル。丸金ビル、川田ハイツ、七福ビル。

 では1丁目です。左から右に…

67 1丁目

  1. キッチン熊
  2. ボート場
  3. 街灯。赤い円。新宿区のものではない。
  4. もつやき、正宗。キリンビール。やなぎ
  5. 立喰そば。飯田橋
  6. 金鷹。ラーメン。(二鶴)
  7. 電柱に「とんかつ森川」
  8. とんかつ森川。白鷹。
  9. コーヒー77
  10. 東山酒蔵

 右側に電柱看板「洋装店 ナカノ」があります。現在は3丁目のナカノビル。

神楽坂下から揚場町まで 1960年代

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、昭和37年(1962年)、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

『神楽坂がまるごとわかる本』…著者は渡辺功一氏

文学と神楽坂

『神楽坂がまるごとわかる本』(けやき舎)は2007年の優れた一冊です。第一章から第五章に分かれています。あえていうと第一章は、商店会、花柳界、老舗。第二章は男優、女優、麻雀、映画。第三章は、江戸。第四章は、江戸その2。第五章は現代に至る。

 ある出来事が起こったのは01年、それとも02年、本当にこっちなのと思っても、ああ、これはこっちとばさっと切られると、まあ、そうかなあとなってしまいます。たくさんの事柄がいっぱいにつまっていて、すこしユーモアや面白みはない。歴史書だと考えると文献の扱いが不十分。でも、全体的にはすごーくよくできた本です。

 内容は……

一章 神楽坂通り商店会の変遷、神楽坂の縁日、江戸っ子芸者の歴史、神楽坂の花柳界、神楽坂まつり・阿波踊り、老舗伝説、紅谷菓子店、老舗伝説 田原屋最古の老舗 相馬屋紀の善と牡丹屋敷
二章 神楽坂の寄席演芸場、喜劇王 柳家金語楼、女優 松井須磨子女優 水谷八重子叙情画家 竹久夢二、麻雀伝説 カフェ・プランタン、映画伝説 黒澤明と神楽坂
三章 神楽坂地名の由来、牛込の地名、江戸城外濠 牛込壕、牛込御門、毘沙門天 善國寺、定火消本多家と本多横丁、岡田寒泉と寒泉精舎、行元寺寺内公園筑土八幡神社
四章 光照寺と藁店の由来、由比正雪と袋町・榎町 旗本水野屋敷伝説 牛込の総鎮守 赤城神社、日本出版クラブと天文台、江戸里神楽の由来、だらだら長者の埋蔵金伝説
五章 甲府鉄道 牛込駅、江戸川の夜桜と江戸小紋 東京理科大学の歩み、桜の校章 津久戸小学校、神楽坂警察署宮城道雄記念館、田中角栄と神楽坂、飯田壕埋め立てと駅ビル再開発

神楽の由来は?

文学と神楽坂

 この神楽(かぐら)の由来は区の標柱では

  1. 坂の途中にあった穴八幡御旅所(おたびしょ)で神楽を奏したから(江戸名所図会、大日本地名辞書)
  2. 津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから(江戸名所図会、新編江戸志)
  3. 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから(江戸名所図会、江戸鹿子)
  4. この坂に赤城明神の神楽堂があったから(望海毎談)

がありますが、どれがいいのか、江戸時代にもうわからなくなっています。ほかにも

  1. 市谷八幡の祭礼に、神輿(みこし)は牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したから(江戸砂子
  2. 軽子(かるこ)坂にあわせてかくら坂になった(新宿区教育委員会「新宿区文化財」)
  3. 穴八幡の旅所がここに来る以前から、祭礼のときはこの場所で神楽を行っていた。その後、穴八幡の旅所ができて、さらに神楽をおこなうので神楽坂と呼んだ(牛込町方書上)。あるいは
  4. 築土明神揚場坂(あげばさか)で御輿が重くなり、この地に供物を備え神楽を行い、揚場坂は神楽坂といった(牛込町方書上)
  5. 猿楽練習説(神楽坂界隈20周年記念号、みずのまさを)
  6. 「かぐら」は高く聳えているものを見上げるときに命名する。断崖のこと。(班目文雄「神楽坂は神楽に非ず」『ここは牛込、神楽坂』)
  7. カミクラ坂(カミは神、クラは谷・崖)だったのが江戸弁でミがなくなった。

hatiman ここで御旅所(おたびしょ)とは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿(みこし)を鎮座しておく場所。神輿が本宮から旅して仮にとどまるところです。穴八幡の御旅所は、毘沙門天とは遠くない場所にありました。(ただし穴八幡の正確な位置は地図によって違います)。この『江戸名所図会』の前半10冊は天保5年(1834)、後半10冊は天保7年に書かれています。
寛政1789寛政1789年
1818文政文政1818年

 ここは渡辺功一氏の後を追いかけ、7番が一番よさそうですが、しかし、(単数か複数の)誰が「祭礼のときは神楽を行っていた」のかはわかりません。まあ、仕方ないのですが。