矢来町」タグアーカイブ

矢来町(写真)図書館資料室紀要 1970年

文学と神楽坂

 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の138頁には次の写真が載っています。

大正期の面影を残す矢来町中の丸

 今までは写真は全く不明で、これ以上は何もわからない。さわらないように、そーっと置いておこう、と考えていました。「中の丸」だけでも巨大で、矢来町の5分の1を占めています。下図では矢来町は赤、中の丸は青です。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)

 しかし、このID 118〜120と見比べると、これも一連の写真のひとつだと判明します。つまり、これはID 119ID 120との間にあるべき写真なのでした。場所は上図か下図のが正しい位置なのです。
 郵便の宛先は大正11年には「矢来町3番地あざ旧殿」、昭和5年には「矢来町78番地」か「矢来町81番地」が正しく、以降も変化はありませんでした。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)。住宅地図。昭和5年

矢来町(写真)明治末期 赤城神社の山車 ID 156

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156は、明治末期、矢来町派出所付近で赤城神社祭礼の山車だしを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156 赤城神社祭礼山車、矢来町派出所付近

 写真説明の矢来町派出所は現在、牛込警察署矢来町地域安全センターといい、下図の✕印です。1世紀を経た現在も、牛込天神町交差点の同じ場所に交番があります。
 広場のような場所で、道は左奥に向かって下っています。山車を曳く人が右に並んでいるので、坂を上る途中でしょう。
 路面は舗装されていないだけでなく、大きくうねっている部分があります。
 人々の服装は長袖や薄手の着物で、おそらく秋祭りです。赤城神社の祭礼は現在でも9月です。雨模様らしく、傘を差している人が目立ちます。
 周囲は店舗が並んでいるようてすが、左の「理髪舗」以外は読めません。
 山車を見ている人は沢山いて、人力車も出ています。多くは和服を着ていますが、左側の白い洋服を着た人は帽子をかぶり、ニッカボッカーらしいズボンをはいています。
 以下は全くの想像ですが、中央の立派な石造りの建物は「田中銀行牛込支店」ではないでしょうか。右にカーブする道は人力車も走れる程度に平らです。三角形の道の中央部(薄水色)に盛り上がりがあることも理解できます。この盛り上がりを避けつつ、山車が神楽坂方の赤城神社に戻ってくる様子ではないかと思います。

東京市及接続郡部地籍地図-天神町交差点付近

矢来町交番と天神町交差点 Google

矢来町(写真)昭和47年 21番地 ID 122

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 122は、昭和47年(1972)9月、矢来町の21番地を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 122 矢来町21番地

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12156 矢来町21番地

 昭和47年に、なにか事件があったのでしょうか。この年、グアム島で元日本陸軍兵士の横井庄一氏は見つかり、「浅間山荘」で連合赤軍が籠城し、沖縄は返還され、 田中角栄氏が「日本列島改造論」を発表し- 第1次田中角栄内閣が発足、カシオ計算機は世界で初めてのパーソナル電卓を販売しました。
 番地表示は右側の門柱らしきものに埋め込まれていますが、読むと「牛込区矢来町21番地」で、右から左への古い横書きでした。
 牛込区時代の矢来町には21番地が2つあります。もともとは早稲田通りの北側で、現在の地下鉄東西線神楽坂駅の2番出口(早稲田方)付近でした。
 昭和初期に番地が改められ、それまで広大だった3番地などが細分されました。新たに矢来町の西側、東榎町に近いあたりに21番地ができました。従来の21番地は1ケタ増えて、121番地に変わったのではないかと思います。
 牛込区が新宿区になるのは1947年(昭和22年)3月15日なので、ID 122は戦前に建てたものでしょう。戦災焼失区域の地図では、21番地も121番地も被害を受けています。大谷石の塀は焼け焦げているようにも見えます。
 ただ121番地は一本道なので、撮影場所は21番地でしょう。地図上で「突き当たりに家がある」という条件は2か所考えられます。

住宅地図。1973年。

 ID 122の写真は奥に向かって緩い坂で、さらに右折して下っており、これに合致するのは上の箇所ではなく、下の箇所です。この場所の2022年のストリートビューを見ると、突き当たりの家は変わっていないようにも見えます。

矢来町21番地、2022年、google

 最後に、なぜこの写真を撮影したのでしょう。「区内に在住した文学者たち」では矢来町21番地の文学者はいませんでした。芸能人の場合も、自宅に本名を使う場合、芸名を知るのはまず不可能です。単に「牛込区」の古い表札が珍しかったからかも知れません。

矢来町(写真)中の丸 昭和45年 ID 118-120

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118からID 120までは、昭和45年、矢来町の中の丸を撮ったものです。ただし、ID 118とID 119の撮影時期は昭和45年3月、ID 120は昭和45年4月となっています。
 この写真の解釈2つを上げてありますが、コメントの方が正しいでしょうね。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118 矢来町中の丸あたり

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 119 矢来町中の丸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 120 矢来町中の丸

 ID 118は自動車が遠くに走っています。T字路だと思われ、おそらく一方通行か、あるいは対面通行でもほとんど自動車は通らない場所でしょう。中の丸というのは明治時代に矢来町3番地は巨大な区域なので旧殿、中の丸、山里の3つのあざに分けていました。中の丸は中の丸御殿の跡の意味で、北東部分(下図で橙枠)になります。
 ここでT字路になる場所は9か所です。

 次は電柱を見ていきましょう。電柱の位置はまず不変ですが、ただし変わるものもあるので、ここからは全て推量です。ID 118-120のコンクリート製と木製の電柱は右側にあります。
➀ 左側だけ ➁ 左側だけ ➂ T字の中央に電柱1本
➃ 電柱0本 ➄ 右側だけ ➅ 左側だけ
➆ 電柱は遠くの左側1本と近くの右側1本
➇ 右側だけ ➈ 左側だけ
 これからすると、➄か➇だけが正しく、うち➄では電柱の位置が違うので、➇でしょうか?

 一方、地元の方は違う方法でこの難問に取りかかります。

 一連の写真は、ID 120に見える木塀の家を中心にお屋敷町のイメージを狙ったのでしょう。この写真の撮影場所を推理してみます。
 条件は以下になります。
1) 電柱が3本見えるので、60-70mある平坦で真っ直ぐな道。
2) 突き当たりに塀がある。(複数の建物ではない)
3) 車が通行しにくい。(4m幅に拡幅されていない)
4) 左側には少なくとも4軒の家が道に迫って立っている。
 これを1970(昭和45)年当時の中の丸付近の住宅地図と照らし合わせると、➀-➃が候補に浮上します。(矢印は撮影方向です)これを個別に検討します。

1970 矢来中の丸周辺b

 ➀は2016年のストリートビューで古いブロック塀が壁の写真があり、おそらく違います。
 ➁は雨水用の側溝が右側にあり、また2013年のストリートビューで突き当たりの古いブロック塀の様子が違います。
 ➂は地図上では真っ直ぐに見えますが、出口付近がカーブしていて写真と印象が違います。
 ➃は塀など写真の面影はありませんが、条件には合致しています。
 もう1点、注目すべきはID 118の樹木の間に見える人工物らしきものです。これは恐らく、突き当たりの家の向こうに4階以上のビル(屋上のテントのようなもの?)が見えていると思われます。
 ➃の位置からは牛込中央通りに面した旺文社のビルが見えていたはずで、この点でも④が最も可能性が高いと思います。

 最初にこの50年で矢来町に新しい道路がてきたんだと知りませんでした。反省です。

矢来町(写真)矢来公園 昭和45年 ID 115, 116

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 115と116は、昭和45年3月、矢来町のある一部を撮ったものです。以前は矢来町3番地あざ山里といいました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 115 矢来山里

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 116 矢来山里

 ID 115の右側とID 116の左側は矢来公園です。昭和44年に開園しています。小浜藩邸跡、杉田玄白生誕地で、後に園内に碑が建てられました。
 また令和2年には、ID 116の公園の奥にあった鏑木清方氏の旧居跡を新宿区の史跡として指定しました。案内板は公園入り口付近にあります。

       新宿区指定 史跡

かぶら清方きよかたきゅうきょあと
所 在 地 新宿区矢来町三十八番地三
 指定年月日     令和元年六月三日
 日本画家・鏑木清方(1878~1972)は、大正15年(1926)9月から昭和19年(1944)まで、現在の新宿区矢来町38番地3に暮らした。ここ新宿区矢来公園の東に隣接する一帯である。
 清方は、本名を健一といい、明治11年(1978)に東京神田に生まれた。13歳の時に、浮世絵の流れを汲む水野みずの年方としかたへ弟子入りし、美人画を得意とする画家として地位を固めていった。
 矢来町の家は、大正15年(1926)9月より賃借ちんしゃくし、のちに購入して、懇意の建築家・吉田よしだ五十八いそやへ依頼し、応接間や玄関を改築して制作環境を整えた。清方はこの家を「夜蕾やらいてい」と称した。
 代表作となる「築地つきじ明石町あかしちょう」(昭和2年)のほか「三遊亭さんゆうてい圓朝えんちょうぞう」(昭和5年、重要文化財)など絵画史に名を残す名作をこの地で多く制作した。
 なお、鎌倉に移転後の昭和29年(1954)には文化勲章を受章した。
   令和2年2月28日
新宿区教育委員会

鏑木清方旧居跡

矢来町(昭和45年)
  • ID 115
  • 電柱広告 牛込台さこむら診療所
  • 電柱広告 神楽坂ゴルフ
  • ID 116
  • 交通標識 自転車を除く 一方通行路 
  • 広告 東京ガス 牛込サービス店
  • 広告 土地家屋アパー(ト) 有限会社 神楽坂商事

矢来公園付近(全国地価マップ

矢来町(写真)75番地等 昭和45年 ID 113-4, 8312-3

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 113と8312、ID 114と8313は、昭和45年3月、矢来町75番地を中心に撮ったものです。なお、前後の通りは牛込中央通り、左右の路地には名前はありません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 113 矢来町71、新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8312 牛込中央通り 新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 114 矢来町71、新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8313 牛込中央通り 新潮社前

 左側でこの写真を撮った番地は矢来町3番地、先に行くと61番地です。右側はトラックが見えるのは77番地、車が渋滞しているのは75番地でした。
 左側の電柱は背が高く、コンクリート製で、柱上変圧器や街灯もあります。右側の電柱は背が低く、おそらく木製です。街灯は道の両側にありますが、同じ道の他の場所(77~82)は片側しかありません。新潮社前の街灯は奥まった位置にあり、私設灯(軒灯)の可能性が高いと思います。現在でも新潮社の敷地(植え込み)内に街灯が立っています。

矢来町(昭和45年)
  1. (日本英語教育協会)(3番地)
    ――無名の路地
  2. (黃 キザ)クラ 桜 白鷹 ハクタカ 〇〇本醸 和泉屋酒店 日本盛 和泉屋酒店 (61番地)
  3. 電柱広告「  加藤」
  4. 道路標識・横断歩道 (横断歩道)
  5. 第一パン
  6.  (一方通行)
  1. 歩道に出ているトラック(旺文社)(77番地)
  2. 後ろ向きの道路標識
  3. 電柱広告は見えない
    ――無名の路地
  4. 横地医院 内科 小児科(75番地)
  5. 新潮社 4階建て(71番地)

住宅地図。昭和45年

横寺町(写真)ID 8278-8281 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8278-8280では、昭和44年(1969年)横寺町の駐車場の写真を撮ったものです。道路は舗装し、左右に側溝があります、
 北側(左)は矢来町で、やや低い電柱は木製です。南側(右)は横寺町で、高い電柱はコンクリート製で、柱上変圧器や蛍光灯の街灯もついています。

[A]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8278 横寺町

横寺町(昭和44年)
  1. 電柱広告「旺文社」
  1. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。牛込清掃事務所か?
  2. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱広告「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  3. あさひ児童公園
  4. 東洋綿花牛込寮。
  5. 電柱広告「大佐和

現在の駐車場

[B]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8279 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8280 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8281 矢来町 新潮社

  1. 電柱広告「横寺町二十六 電(2XX)二八五八 / 加藤質店 / ここは横寺町53」
  2. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  3. 旺文社
  1. 木製の電柱。現在は右側の電柱はなくなった。
  2. 三叉路のうち右に行くものは見えない
  3. 遠くに突き出し看板「パーマ ミハル美容室」スタンド広告「パーマ MIHARU 美容室」

現在の三叉路

住宅地図。1970年

横寺町(写真)ID 455-463, 8314-15 昭和45年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 455-463とID 8314-15では、昭和45年(1970年)に牛込中央通りから神楽坂通りに抜ける裏通りを5カ所から撮影したものです。解像度に違いがありますが、道端の駐車車両などが同じなので、同じ撮影でしょう。
 途中までは北側(左側)が矢来町、それ以外は横寺町です。道沿いには浅田宗伯邸跡(現・あさひ児童遊園)、尾崎紅葉邸跡芸術倶楽部跡朝日坂などがあります。道路は舗装されていて、左右に側溝があります。

[A] 赤尾好夫氏の邸宅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 455 裏通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 456 裏通り 横寺町と矢来町

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。
 道路左には木製の低い電柱、右側にはコンクリートの高い電柱があります。これは朝日坂の下になるまで変わりません。現在は片側のコンクリート電柱だけなので、この昭和45の写真は過渡期だったかもしれません。
 街灯は長い蛍光灯で右側の電柱に付いています。また、柱上変圧器もあります。

横寺町(昭和45年)
  1. パーマ MIHARA 美容室。テント「ミハル」。50年強たっても現在も営業中
  1. 電柱看板「龍門◯ 照心会 書道 教室 この先 ここ(は)横寺町」
  2. 屋敷門(棟門)とシャッター。赤尾好夫氏邸。旺文社の元社長で、テレビ朝日の初代社長。
  3. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  4. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱看板「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  5. あさひ児童公園
  6. 東洋綿花牛込寮。
  7. 電柱看板「大佐和

現在の裏通り

住宅地図。1970年

[B] あさひ児童公園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 457 裏通り、あさひ児童公園前

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。

  1. 普通の家々
  1. あさひ児童公園
  2. 電柱看板は「創業㐂永五年 お茶とのり 老舗 大佐和 神楽坂 ここは横寺町51」

現在の裏通り、あさひ児童公園前

現在の裏通り、あさひ児童公園前

[C] 三孝酒店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 458 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8314 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 459 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 460 横寺町46、三孝商店前

 神楽坂通りまでの中間地点の三叉路で、ここから両側とも横寺町です。三孝商店は住宅地図では「三孝酒店」。現在は自動販売機だけが営業しています。
 右側の「キムラヤのパン」は、住宅地図とやや位置が違うようですが「野田パン店」でしょう。この店も現在はありません。なお、ID 8314はID 458と比べて画角がやや広く、解像度も高くなっています。

  1. 三孝商店
    壁面看板「王酒 千福 三孝商店」「神體 三孝商店」「発売元 黄桜酒清酒造株式会社 黄桜 三孝商店」「代表清酒 山邑酒造株式会社蔵 櫻正宗 三孝商店」「白鷹 ハクタカ 三孝商店」「宮酒造〇 日本盛」
    店名「ビール 合資会社 三孝商店 リボンジュース」テント「サントリー」店先「サントリー」「あさひ本◯」「Cola」トイレットペーパーの山、「ニッカ」
  2. 倉庫につき駐車禁止
  3. 東京消防庁 消火栓 東京知事。消火栓広告「電気工事設計施工 上原電気設計事務所」
  4. (駐車禁止)
  1. 電柱看板「加藤質店  ここは横寺町46 」「ゴミ提出出の注意 一 ゴミは……」
  2. GINZA 木(トレードマーク) キムラヤのパン
  3. 電柱看板「内科・外科 皮膚科 泌尿器科 内野医院」「神楽坂 皮膚科」
  4. 突き出し看板「畳」(内山タタミ店)

現在の三孝商店跡

[D] 内野医院

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 461 裏通り、飯塚酒店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8315 横寺町

  ID 8315はID 461と比べて画角がやや広く、解像度も高くなっています。

  1. (内野医院)
  2. 東京消防庁 FIRE HYDRANT 消火栓 火事と救急車は 119。消火栓看板「神楽坂福屋店裏 毘沙門天〇 福屋不動産 フクヤ」
  3. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚 酒店」「塩」
  4. (駐車禁止)
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ
  1. 看板「ポンプ 衛生 水道 東京都〇水道工業所 東京都〇水道工業所〇〇・飯塚工業所」
  2. 電柱看板「 買入 丸越」「 右門の和菓子」
  3. 「(龍)門禅(寺)」
  4. 電柱看板「土地家屋 野口商会」「歯科 川畑」
  5. チェッカーボードに似た「歯(科 川)畑」

現在の内野医院

[E] スーパーアライ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 462 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 463 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 464 横寺町入口附近

 この場所は他の4箇所と逆で、朝日坂の下から上へ矢来町の方を向いて撮影しています。ID 463は撮影時期を「昭和45年3月」としています。立木の葉は枯れ落ち、右手前の八百屋にはミカンやイチゴが売られています。
 現在、八百屋は正蔵院の敷地になり、スーパーアライはマンションと「ろばたや次朗」に変わました。他の店も住宅になったり別の店になっています。

  1. 花輪(フラワー 一紀)開店祝い?
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る」。街灯(蛍光灯)
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  6. チェッカーボード様の「(川)畑」
  1. 盆栽。リンゴ、香川みかん(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 高知ピーマン、静岡みかん、キャベツ(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ 」
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. (消火栓)

現在のスーパーアライ

地蔵坂|天神町

文学と神楽坂

 新宿区の地蔵坂には神楽坂5丁目と袋町の坂と、矢来町や天神町に近い坂という二つの坂があります。天神町に近い地蔵坂は正確にはどうなっているのでしょうか。まず標柱は……

地 蔵 坂
(じぞうざか)
江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『すな残月ざんげつ』)。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。

 しかし、ここから100mも離れていない北方に渡邊坂があります。この渡邊坂については別の場所に書いています。ここでは地蔵坂について書いていきます。
 横関英一氏の「続江戸の坂 東京の坂」(有峰書店、昭和50年)では……

都内における古今の坂名、橋名の同じものを一括して揚げると、次のようになる。(中略)
地蔵坂(牛込、王子、志村、向島)
地蔵橋(築地川)

とほとんど何も書いてありません。
 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社、昭和46年)では……

地蔵坂(じぞうざか)
 矢来町交番の前の道(江戸川橋通り)を北に下る坂で、坂下は山吹町を通って江戸川橋に至る。坂上は通称矢来下とむかしからよばれた。『異本武江披抄』には「地蔵坂 酒井修理大夫下屋敷脇、天神町へ下る坂也。今此坂を地蔵坂といへど、むかし楠ふでんが害せられたるは、酒井の屋敷と御先手組屋敷の間なり、由井正雪が宅地は榎町済松寺脇、西丸御先手組の所なりといふ」とあり、袋町の地蔵坂の楠不伝暗殺の伝えを否定している。
「新撰束京名所図会」にはこのあたりのことを「昔の酒井邸は土手を築き、矢来を結び、老樹陰森として昼なほ暗く、夜は辻斬、迫剥出没せり、されば臆病者の武士は門前夜行なりがたく、帯刀の柄に手をかけて、一目散に駆け披けたりとの談柄あり」と述べ、また地蔵坂については「同町(矢来町)と東榎町の間を南に上る坂あり、地蔵坂といふ」とし、『異本武江披抄』が「天神町へ下る」としているのとは少しくい違いがあるようだ。

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では……

地蔵坂(天神町、矢来町交番前を西北へ東榎町へ下る坂)
  〈別名〉 三年坂
「長十三間巾二間」(東京府志料)
 交番前を左にカーブして下る早稲田通りの坂。三年坂の別名をもつのは、転べば三年の後には命を失うというほどの急坂であったと思われる。いまも、交番前は、どすんと落ちる急勾配である。
 坂下で早稲田通りの南側から奥の裏通りに入ると、露地を挾んで家がびっしりと並んでいる。向かい合った家の軒が、くっつかんばかりだ。
「矢来の坂を下りた所、天神町の裏通りには、結婚当時に住つてゐた。長屋住ひ見たいで、子供の泣声、台所のにほひ、便所通ひの気色まで此方へ通じるので、明窓浄几と云つたやうな、文人の生活趣味は、その借家では感ぜられなかった。」(正宗白鳥『心の焼跡』)(中略)
 明治は暗く、そして、泥ンこであった。
明窓浄几 めいそうじょうき。明るい窓と清潔な机。明るく清らかな書斎をいう。

『今昔東京の坂』に出てくる別名「三年坂」は、神楽坂の本多横丁とほぼ同じ名です。さて、天神町の地蔵坂に戻って、この場所は3冊とも本質的に同じ場所を指します。つまり坂が始まる牛込天神町交差点から坂が終わる(下図)までの地域です。
 ただし坂の始まりと終わりは現在と江戸時代で違うのが普通です。また、明治時代には、地蔵坂と渡邊坂が真っ直ぐな1本の道(江戸川橋通り)に改修しました。つまり江戸時代から明治時代まで2つの坂を少しずつ、凸凹は直し、クランクは止めて、なだらかな坂1つに替えました。また、現在の渡邊坂には、高低差は感じません。江戸時代は坂らしい坂ばずだ…と思います。

礫川牛込小日向絵図。嘉永2年~文久3年(1849-1863)これは蔓延元年(1860)の図

 なお、文京区の礫川牛込小日向絵図(嘉永5年、1852年)では天神町の道に階段がありました。すぐに階段はなくなりますが、この階段があると、坂下の天神町と坂上の矢来下で、2つの坂は別々になっても、一本には普通はできないと思います。

小日向絵図礫川牛込小日向絵図 尾張屋板 嘉永5年(1852)

 最後に現在の地蔵坂と渡邊坂、江戸川橋通りの地図です。江戸時代の絵図とは南北が逆で、天神町交差点は一番下になります。

牛込神楽坂駅(写真)平成31年 ID 14053-55

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14053~55は、平成31年(2019)1月、大江戸線の牛込神楽坂駅付近の地上の写真を撮ったものです。牛込神楽坂駅は、平成12年(2000年)12月12日開業し、大久保通りに沿って3つの出口があります。
 A3出口は神楽坂上交差点、神楽坂、岩戸町が最も近い場所です。A3出口は右手です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14053 牛込神楽坂駅

 A2出口は袖摺坂、南蔵院、「新蛇段々」などが最も近く、A2出口はこの写真では見えない場所です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14054 牛込神楽坂駅 A2出口と神楽坂上方面を望む

 つまり、交差点から右側に渡り、南蔵院事務所の影に入って、A2出口は現れます、

 A1出口は牛込北町の交差点寄りで、牛込箪笥区民センター(旧牛込区役所)にあります。横寺町、矢来町などに最も近く、A1も見えません。遠くに見える信号と横断歩道の手前、あるいは左の軽自動車バン付近で、視点から100メートルほど向こうに離れた場所です。なお、左のガラスの壁はタリーズコーヒージャパン本社です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14055 牛込神楽坂駅 箪笥町から牛込神楽坂駅を望む

[箪笥町]

地下鉄工事とその後

文学と神楽坂

 加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)です。加藤氏は大阪寿司「大〆おおじめ」を経営する娘で、父は大正6年(1917年)4月、通寺町(現、神楽坂6丁目)に大〆を開店。100年後の平成29年(2017年)7月、息子が閉店しています。これは、昭和39年12月、神楽坂に地下鉄の東西線が開通して、その前後の状況です。

 前にも一寸述べたように、鉄筋店舗を新築して3年目には既に地下鉄工事が始まった
 最近では、沿線の住民も慎重になって、先々の被害もその補償も事前に十分研究して、団結の力も強くなりそう安々と承諾しないと云う話である。
 この営団地下鉄との交渉では、何しろ経験のない事ではあり、公共事業ではあるし、不本意ながら承諾の判を押したような事であった。
 飯田橋から矢来町へかけて通る予定の路線工事の為、店に隣接する貸地二軒と、向い側の二軒の家はそれぞれ取り壊しとなり、仮住居へ移転した。
 大〆の店は幸か、不幸か取り壊されずに済んだ。当時は、仮店舗等の面倒もなくそのまま営業を続けていられると喜んでいた。
 処が、いざ工事が始まると思わぬ被害が出始めた。工事の際の建物の下受けの不備が原因か、とにかく鉄筋の建物の一部が二十糎余りも沈下して傾いた。
 この為の外壁、内壁の亀裂や傾斜等の被害を営団側では手直しと云う名目で修理はすると云う。
 店舗だけでなく、店舗の裏と横に面して建っている木造家屋も土台がずれて、この方がむしろ危険な状態になった。
 これも手直しはすると云うだけでは、実際に修理した家屋がこの先何年保つか不安である。
 この際、思い切って費用のかかるのは覚悟の上で、アパート併用の木造住宅を建てたのが、地下鉄工事が終って二年目の昭和40年であった。
 店舗の補修については、それ以上に被害も出ないだろうと手直しで我慢する事にした。
 その翌年、店の隣りに車庫と仕込場を作ってやっと一段落ついた。
 この地下鉄工事では、不安と焦燥の中で予期しなかった建物の被害のために、修理や普請が引き続き、こんなに疲れた事はなかった。
 考えて見るのに、如何に無駄な家屋の取り壊しや、建て直しを何度もやって来た事であろう。
 私達の代になってから今までに費した建築の費用をもってすれば、優に何階建てかの高層建築が出来ていた事であろう――
 しかし、此の地下鉄東西線が開通し、その後に有楽町線が通るようになって、益々交通の便がよくなって神楽坂近辺は地価も上昇するばかりのようである。
鉄筋店舗を新築 昭和35年1月でした。
地下鉄工事が始まった 「東京地下鉄道東西線建設史」(帝都高速度交通営団、昭和53年)によれば「昭和35年8月東西線中野・東陽町間の建設計画を決定し、昭和37年10月19日建設工事に着手した」
路線工事 昭和40年の住宅地図は下図。赤い線で書かれた店舗が大〆。

昭和40年 住宅地図。

工事が始まる 東西線はありませんが、有楽町で次の写真があります。

有楽町線 飯田橋-市ヶ谷間工事「有楽町線建設史」(平成8年)東京メトロアーカイブより

下受け 下請。したうけ。元請業者や元請負人の引き受けた仕事の全部や一部を、さらに請け負うこと。反意語は元請け。
営団 公共的事業経営のため特殊な非営利的な企業。第2次世界大戦中に多くの営団が設置。戦後、廃止か公団に改組、平成16年(2004)4月に、最後に残った帝都高速度交通営団は東京地下鉄株式会社(東京メトロ)に改組・民営化し、営団はなくなった。
地下鉄工事が終って 「東京地下鉄道東西線建設史」では「高田馬場・九段下は昭和39年12月23日に…運輸営業を開始した」と書いてあります。
普請 ふしん。道・橋などの土木工事。のち、建築工事一般もいう

神楽坂1丁目(写真)昭和6年 牛込橋 ID2

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 2は、昭和6年(1931年)頃、飯田橋駅西口付近より坂上方向を撮った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 2 飯田橋駅付近より坂上方向

 街灯は中央やや左に一個あります。解像度が悪いので識別しにくいですが、「神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)」とは違うもののようです。外堀通りの左側には「均一」という大きな文字と、その上に丸い屋号らしき看板があり、昔の「100円ショップ」である「10銭ストア」等でしょうか。右側でも大きな横文字の看板が見えます。
 牛込橋に向かって男性3人が同じ学生帽をかぶって歩いています。3人の他に多くの人も車道を歩いていて、歩道を歩く人は少数です。歩道には桜の木が何本も大きくなっています。歩道と車道を区切る縁石もあります。
 これは明治・大正名所 探訪記絵はがきの写真とよく似ています。特に外堀通りにある2店ではまず同じですが、ただ牛込橋の左側の桜の木は1本しか写っていないように見えます。絵はがきの方が時代が新しく、何らかの理由で失われたのかもしれません。

牛込神楽坂通

 早乙女勝元氏の『東京空襲写真集』を見ると左端の大きな木は葉が茂っていますが、神楽坂寄りの木は折れたようになっています。手前の木は戦後も生き残り、ID 55-56では太くなった特徴的な三股が確認できます。

 写真のキャプションでは……。なお、旧仮名づかいはすべて現代仮名づかいに代えています。

神楽坂 新宿が今日の繁昌をいたす以前は神楽坂は山の手の銀座として繁栄をうたわれたものである。しかし今日といえども早稲田という背景をもつがために決して衰微はしない。夜の神楽坂は露店と早稲田学生とそしてその中を彩る神楽坂芸者の艷しい姿でにぎやかだ。

 新宿歴史博物館によると、この本は仲摩照久編『日本地理風俗大系 第二巻 大東京篇』(新光社、昭和6年)だそうです。さっそく国立国会図書館からコピーをとってもらいました。

神楽坂と市ケ谷
 主要交通路は早稲田から飯田橋に至る路並に新宿から同じく飯田橋に行く線は、他の区でも同様であるが、都会の商業、事務の中心から放射状に出ているもので最も重要である。これに交わる電車の通されていない多少広い道路が次に重要な交通線である。尤も矢来町には途中まで電車が敷設された。それ等の中で殊に神楽坂附近はその最も盛な場所であって、関東大震災直後には大商店の分店がここに集って山の手銀座の名があったが、災害地の復興と新宿の繁栄などのために、一時程ではなくなった。
 この区は一般に住宅地で、大工場や大商店はあまりない。牛込区が東京市の一部分としての形態を備へ始めたのは極めて最近のことである。元禄の頃には現在の江戸川橋より西方は全く田であり、明治に入っても明治十七年参諜本部陸軍部測量局の測量の東京五千分一の地形図によって見ても、早稲田附近は全く田であり、当時の小日向新古川町附近までは今日の郊外のやうな人家の配列をなし、矢来町附近にも畑や竹藪が多かった。早稲田大学で人家が立並んだのは大正に入ってからのことである。
 その住宅地の間に陸軍関係の学校、その他が割合に広い面積を占めている。南部の市ヶ谷本村町には陸軍士官学校があり、河田町には陸軍経済学校戸山町陸軍幼年学校戸山学校近衛騎兵連隊がある。
 市ケ谷には市ケ谷刑務所があって、未決被告及び被疑者を収容している。
 病院の大きなものに済生会病院衛戌病院至誠病院などがある。
 市ケ谷八幡宮は士官学校の東隣にあって、文明年間太田道灌が築城の際に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものである。台地上にあって眺望がよい。

主要交通路 2つだそうです、一つ目は飯田橋から早稲田に行く道路、2つ目は新宿に行く道路です。

大正8年 東京市電。東京都交通局「かが街 わが都電」平成3年、東京都交通局

電車が敷設 矢来町から新橋までの都電の線路は敷設されていた。

昭和15年 東京市電。東京都交通局「かが街 わが都電」平成3年、東京都交通局

関東大震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に起きた。
大商店の分店 今 和次郎編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)では「三越の分店、松屋の臨時賣場、銀座の村松時計店と資生堂の出店さてはカフエ・プランタン等々一夜に失はれた下町の繁華が一手に押し寄せた観があった」。なお、松屋といっても銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。
江戸川橋 飯田橋付近から関口大洗堰までの神田川はかつては「江戸川」でした。 この江戸川にかかった、東京都文京区関口一丁目を渡る橋は「江戸川橋」と呼びました。
明治十七年参諜本部陸軍部測量局 参諜本部の業務は「機務密謀に参画し地図政誌を編輯し並に間諜通報等の事を掌る」です(明治4年、兵部省陸軍部内条例)。
全く田であり 明治17年の参諜本部陸軍部測量局では小日向西古川町から早稲田大学までは本当に田んぼでした。

明治17年参諜本部陸軍部測量局

小日向新古川町 小日向区東古川町と西古川町。現在の文京区関口1丁目の東の半分。

東京都文京区教育委員会編「ぶんきょうの町名由来」文京区教育委員会。1981年

矢来町附近 やはり矢来町附近は田んぼや畑が多かったといいます。

明治17年参諜本部陸軍部測量局 矢来町

陸軍士官学校 旧日本陸軍の現役将校養成学校。明治7年(1874)東京市ケ谷に設置。
陸軍経済学校 陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育や経理官への上級教育を行った。現在は東京女子医科大学の一部。
陸軍幼年学校 陸軍将校志願の少年に士官学校の予備的教育を施した学校。東京陸軍地方幼年学校の生徒数は約50名で、13歳から16歳で入校し3年間の教育が行われた

昭和5年。牛込区全図。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年。335頁

戸山学校 陸軍戸山学校。旧日本陸軍で、学生に体操、剣術、喇叭らっぱ譜などの訓練を施した学校。
近衛騎兵連隊 宮城の守護や儀仗ぎじょうを任務とした旧日本陸軍の師団のうち、主に騎兵の連隊。現在は学習院女子大学、戸塚第一中学校、戸山高校など
市ケ谷刑務所 刑務所で、大正11年から昭和12年まで東京市牛込区市谷富久町にあった
済生会病院 戸山3丁目にあり、牛込恩賜財団済生会病院(済生会病院麹町分院が改称)が移転した病院。
衛戌病院 えいじゅびょういん。旧日本陸軍の衛戍地(軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域)に設置された病院。陸軍病院の旧称。陸軍本病院は陸軍省の管轄であり、昭和4年(1929年)3月 新宿区戸山町(現在地)に移転。その後、国立東京第一病院から現在は国立国際医療研究センターに。
至誠病院 東京女医学校(現在の東京女子医科大学)の学長、吉岡弥生氏は関東大震災の後に下宮比町の至誠病院を入手し、繁栄したが、昭和20年4月、空襲で全焼した。今は東京厚生年金病院から東京新宿メディカルセンターとして発展中。
市ケ谷八幡宮 正しくは市谷亀岡八幡宮。新宿区市谷八幡町にある神社。鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったもの。「鶴岡」に対して「亀岡」八幡宮としている。
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。

福島中佐と単騎シベリヤ横断

文学と神楽坂

福島安正中佐

 一瀬幸三氏は「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」(新宿郷土会、新宿郷土研究史料叢書、平成2年)を書いています。氏は学者、郷土史家、教育者(近現代)でした。
 一方、福島中佐は明治・大正の陸軍軍人で、維新後、大学南校に入学して英語を習い、明治7年、陸軍省に入り、明治15年に朝鮮に派遣、翌年北京公使館付武官となり、満州とモンゴル方面を踏査。明治20年、駐独武官としてバルカン半島を視察、帰国の際、ロシアのシベリア鉄道建設の状況視察のため、明治25年2月からベルリンからウラジオストクへと、1年4カ月かけて単騎横断を行いました。
 では、一瀬氏の記載に行きましょう。

     はじめに
 私は最早や80歳を越えた老人であるが、少年の頃は、単騎シベリヤ横断の快挙をなし遂げた、福島中佐(安正・後の大将)を英雄として崇拝していたものである。
 それというのも小学生当時は寄るとさわると、「偉い人だったんだってねえ」と、話合ったものである。そんなことから私の蒐集癖は福島中佐に関するものを手当りしだいに集めてきた。今ここにそれらを整理して置こうと小冊子を出すことにした。
 私の小学校入学は、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)の谷村町高等尋常小学校で入学したのは、大正7年(1918年)4月であった。体操の時間や運動会には、必ずといっていいほど、福島中佐の作歌『波蘭(ポーランド)懐古』が、歌われこれに遊戯がついていて、いやでも自然に口遊むようになった。
 ところが、奇縁といおうか、福島中佐の居住地であった矢来町に近い山伏町に住むようになって、一層その念を強くして、ここにもはや忘れられた英雄の足跡を改めて記録しておこうと思ったことに外ならない。
都留市 地図参照
波蘭懐古 ポーランド懐古。明治の軍歌。作詞、落合直文。作曲、不詳。その1番は「ひと日ふた日は晴れたれど 三日四日五日は雨に風 道の悪しきに乗る駒も 踏みわづらひぬ野路山路」

 この勇姿はいろいろな形ででてきたという。著者蔵の例では……

雪の広野を行く福島中佐

壮挙を終え帰国した福島中佐

 福島中佐の快挙 明治25年(1892)2月11日ベルリンを出発して、単騎シベリヤ横断をおこなって、勇名を馳せた。福島安正陸軍中佐は、当時、牛込矢来三番地中の丸24号に居住していた。これについては後述する。
 中佐はドイツ駐在武官をしていた頃、陸軍省に対し、「中央アジアの政治・経済・国情の調査をして行かないと、国家百年の計は樹てられない」旨の上申を行い、これが軍部の容るところとなって、駐在武官の任期満了を機会に、明治25年2月11日を期して、単騎ベルリンを出発した。
 苦難の多いコース そして、ドイツ、ポーランド、欧露を横切って、オムスクに出て、それより馬をアルタイに向け、峻嶮をこえコブトウイヤスクタイウランバートルキヤクタイを経て、バイカル湖畔に出て、更にイルツクから再び引き返して、バイカル湖畔を東へと進み、ウェルフネウーヂンスクを通り、ブラゴエシチェンスクに至り、対岸の黒河より興安嶺山脈を横切って、チチハルに出て、ズンガリー(松花江)に沿って、キチリン(吉林)ニンクタコンジュン(琿春)を過ぎて、ボシエツト地方より、ウラジオストックに到着、ここでのその長途の騎馬旅行を終わっている。時に翌26年(1893年)6月であった。
オムスク ロシア連邦中南部の都市。カザフスタンとロシアにまたがるエルティシ川を通ってアルタイに向かう。
アルタイ 中央アジアの一地域
コブト ホブト。モンゴル西部ホブド県の県都。
ウイヤスクタイ ウリャスクタイ。モンゴル・ザブハン県の県都。
ウランバートル モンゴル国の首都。中国語ではクーロン(庫倫)。
キヤクタイ ロシア南部ブリヤート共和国のキャフタ市。
バイカル湖畔 ロシア南東部のシベリア連邦管区の三日月型の湖
イルツク イルクーツク。バイカル湖の西岸。
ウェルフネウーヂンスク 現在はウラン・ウデ。ヴェルフネウジンスク。東シベリアのロシア・ブリヤート共和国の首都。バイカル湖の南東約100km。
ブラゴエシチェンスク シベリア南部のアムール州の州都。対岸には中国黒河市がある。
黒河 中国黒竜江省の地級市。黒竜江右岸の河港都市。対岸にはシベリア南部ブラゴベシチェンスクがある。
興安嶺 こうあんれい。中国北東部にあるターシンアンリン(大興安嶺)山脈とシヤオシンアンリン(小興安嶺)山脈の総称。
チチハル 中国黒竜江省の直轄市。
キチリン(吉林) 中国東北部の省。省都は長春市。
ズンガリー(松花江) ソンホワチアン。松花江。しょうかこう。アムール川最大の支流。
ニンクタ 正しくはニングタ。寧古塔。現在は黒竜江省牡丹江市寧安市。
コンジュン(琿春) 中国吉林省の県級市
ボシエツト地方 クラスキノ町など。北朝鮮国境に近いポシェト湾岸に位置する。
ウラジオストック ロシアの極東部沿海地方の州都。
翌26年6月 全行程は1年4ヶ月かかったという。

アルタイ山脈の踏破。島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

福島中佐単騎旅行図絵

 それはそれとして、矢来町に住まわれるようになったのは、いつ頃からか不明であるが、単騎シベリヤ横断をなし遂げた頃は、すでに牛込区矢来町三番地に居住していた。
 ところが、この三番地というのは広範囲で現在の地図と比較すると、87番地から106番地までの広い区域である。
 しかし、中佐の居住を明細に記したものに明治43年(1910)10月の刊行になる中央電話局の「電話番号簿」には、
  番町 二四六 福島安正 牛、矢来三、中ノ丸24号
とある。そこで明治44年(1911)6月逓信協会の発行にかかわる「東京市牛込区」の地図を見ると矢来町中ノ丸は、現在の地名番地では、75番地に当たると見てよいだろう。ちょうど、新潮社のやや南横に当たるところである。
逓信協会「東京市牛込区」 これは新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』(昭和57年)326-7頁と同じ。「75番地に当たると見てよい」とはいえません。https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/search/uploads/2_ippanntizu.pdf

人間直木の美醜|鷲尾雨工

鷲尾雨工

文学と神楽坂

 直木三十五氏は、文壇ゴシップ欄で毒舌を振るい、『南国太平記』で流行作家になった人です。しかし、かつての同僚鷲尾雨工氏の見方は違っており、「人間直木の美醜」(中央公論。昭和9年4月号)では……

 牛込矢来江戸屋というおでん屋をやった時分から、僕と直木関係を知っていた人々は、なぜ直木を訪ねないのか、と訝しんだ。けれども僕が飢える場合、こちらから憐みを乞うまでもなく、先方からやって来て応分なことをしてくれるのが、我々の倫理観念からは当然すぎる事柄だと、僕は考えた。そんなわけで、彼が「南国太平記」を書き出すまでは、どんなに困っても、行かなかった。「南国太平記」の筆は冴えていたし(待て、彼の作品には触れるな、触れたら長くなる)、こちらは時々自殺という観念が頭に去来する情態だったので、僕は食べ物も喉へ素直に通らないほど苦慮した末ついに、木挽町の、直木・香西菊池と三枚の標札の懸つた豪奢な三階造りの待合風な建物を訪れた。昔に変わらぬボソボソとした彼の声が、二階から聞こえていた。話相手は、新聞記者らしかった。
 昔はとにかく、これだけ偉くなっているのだから、もっと早く訪ねなかった僕が悪かったかしら? 溺るる者は藁にも槌るという。僕はなんとも浅間しい情緒に支配されながら、玄関で待っていると、今は忙しいから会えないという御挨拶だ。来ている新聞記者は二、三名らしく、どこの天ぷ羅がどうだとかいう大声が、ちょうどその時、僕の鼓膜をあやしく顫動させた。
 だが渇き切った僕は、盗泉の水でもいい飲みたかった。そこで家へ帰ると、長い手紙を書いて、窮状をつぶさに訴え、若干の助けを依頼した。そして数日後に訪ねると、訪ねる時は電話をかけてから来い、という返辞だ。
 止んぬるかな、直木は、本当に忘恩の徒であった。
 けれども必要は無慈悲にも三度び木挽町を訪わせた。勿論、電話で都合を聞いて行ったのだ。だが、行って見ると、二時間後に来い。僕はその二時間に、早法新人戦のラヂオを、築地河岸の汚いミルクホールで、実にうら悲しく聞いたことを今でも生々しく憶えている。僕がそのあとで、貰った金は、30円であった。

関係 直木氏は鷲尾氏の最も親しい友人でした。しかし、直木氏の金銭的無軌道があり、仲違いし、生涯うち解けることはなかったようです。
応分なこと 身分や能力にふさわしいこと。その程度。分相応ぶんそうおう
当然すぎる事柄 直木氏のほうが「悪いことをした。金銭を貰ってほしい」と言ってくるのが普通だったと、鷲尾氏は思っていたようです。
南国太平記 直木三十五氏の長編小説。1930年(昭和5)6月から翌年10月にかけて『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』に連載。
木挽町 こびきちょう、東京都中央区銀座の東部の地名。現在、歌舞伎座がある。
香西 香西織恵。こうざいおりえ。直木三十五の生涯の愛人。
建物 昭和4年10月、文藝春秋社は京橋区木挽町八丁目一番に「文藝春秋社倶樂部」を設置。三階建ての日本家屋で、社友、直木三十五の執筆所を兼ねていて、直木三十五は離婚後、この「文藝春秋社倶樂部」に住み続けます。
溺るる者は藁にも槌る 溺れる者は藁をも掴む。おぼれるものはわらをもつかむ。危急に際しては、頼りにならないものにもすがろうとする。
盗泉の水 「渇しても盗泉の水を飲まず」とは「いくら困窮していても、不義・不正にはいささかたりとも関わるべきではない」。「盗泉の水」は「すこし不正があってもしょうがない」でしょうか。
止んぬるかな 已んぬる哉。もうおしまいだ。今となっては、どうにもしようがない。
忘恩の徒 ぼうおんのと。世話になった人に感謝することもなく、その恩を踏みにじるような人
築地河岸 つきじがし。築地の海軍省所有地を借り受け、臨時の魚市場を開設し、築地河岸から築地市場になりました。
ミルクホール 牛乳、パン、ケーキ類などを出す、手軽な飲食店。明治後期に、新聞・雑誌を自由に閲覧し、これから昭和初期にかけて流行した。やがて喫茶店やカフェに取って代わられた。
30円 昭和元年は、公務員初任給75円、ビール大瓶42銭、コーヒー10銭、牛乳1本8銭、アイスクリーム1個20銭、映画館入場料30銭、新聞代1ケ月1円。企業物価指数では昭和2年の1円は令和元年の636円。したがって、昭和初年の30円は約2万円です。

神楽坂の中心

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂の中心」というエッセイを頂きました。

 大正から昭和初期の神楽坂が最も栄えた時代、その中心は毘沙門さま周辺の3丁目から4丁目(旧・上宮比町)、5丁目(旧・肴町)にかけてだったそうです。表通りに石造りの立派な店が多く、裏にキメ細かな路地と賑やかな花町が広がっていました。

 当時の坂の中腹から下は、通り沿いこそ店が並んでいたものの、裏通りは住宅や倉庫、学校などが主だったようです。「古老の記憶による震災前の形」で1-2丁目の裏道の路地が描かれていないのも、坂下の「紀の善」が昔は職人相手の店だったのも、「田原屋」毘沙門天の隣で大いに栄え、兄弟店が少し離れた場所にあったのも、こうした表れのように感じます。


古老の記憶による震災前の形 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年に出ています。インターネットでみることも可。
職人相手の店 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号の冨田冨江氏の「神楽坂昔がたり」「紀の善と牡丹屋敷」では
 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは30人頼むとか、さようは雨だから5人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂では代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。

 江戸時代の商売は江戸城に薬草を届け、明治から戦前までは寿司、戦後は甘味処です。職人相手の店といえないと思います。
田原屋 毘沙門天の側は5丁目で長男、兄弟店は3丁目で3男がやっていました。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号「お便り投稿交差点」の奥田卯吉氏の「おれも江戸っ子、神楽坂」では
 神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた(中略)
 時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った味で知られる店だった。
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。

 戦後も毘沙門さまが中心だという意識は残っていました。神楽坂の夜店は「5の日の縁日」として限定的に復活し、昭和50年頃まで続いたと記憶します。しかし露店が並んだのは藁店から見番ぐらいがせいぜいで、坂下に賑わいは及びませんでした。1丁目の商店会会員は、そのことが不満だったそうです。

 様相が変わったのはビルが建ち、多くの貸店舗ができはじめた頃でしょう。飯田橋駅に近い坂下と、地下鉄東西線の神楽坂駅に近い6丁目(旧・通寺町)の店や事務所の家賃が、毘沙門さま周辺より高くなる「逆転現象」がおきました。

「神楽坂上」の位置づけが戦前・戦後で変わったことも影響していると思います。現在の神楽坂上の交差点から牛込北町にかけては戦前、牛込区役所(現・箪笥町特別出張所)を中心としたビジネス街で、牛込の中心と目されていたそうです。しかし戦後、区役所が新宿に移り、さらに地域交通の大動脈だった大久保通りの都電が撤去されると、一転して「不便な場所」「陸の孤島」になってしまいました。相対的に、飯田橋駅に近い坂下の価値が上がったのです。

 毘沙門さまの場所は飯田橋駅と神楽坂駅の中間で、ある意味「中途半端」です。坂下に比べると人通りも少ない。中心とは言いにくくなってしまいました。

 とはいえ新たな変化も芽生えています。近年、神楽坂がメディア等で紹介されて人気が高まった結果として、昔より広い範囲が「神楽坂」と認識されるようになりました。都営大江戸線の牛込神楽坂駅が坂上に開業したことも、それを後押ししています。今日、神楽坂として括られる範囲には、矢来町筑土八幡町中町南町まで含まれることがあります。しかし、さすがに区が違う千代田区富士見町は入りません。

 新しい広域の神楽坂の中心は、やはり毘沙門さまになるのではないでしようか。

限定的に復活 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007年)では「戦後は、縁日の出店がままならずにしばらくその火が消えていたが、昭和33年7月に、商店街の尽力で毘沙門の境内と門前に縁日がめでたく復活し、毎月5の日に開かれている」
地下鉄東西線の神楽坂駅 現在、地下鉄の飯田橋駅、神楽坂駅、牛込神楽坂駅があります。

千代田区富士見町 千代田の北西部に位置し、富士見一丁目と二丁目になる。


鷲尾浩(雨工)|矢来町

鷲尾浩

鷲尾浩

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』「矢来・江戸川」の一部です。ここで出てくる鷲尾わしお氏ってどんな人でしょう。
 私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲尾浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行く…
ダヌンチオ ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio)。イタリアの詩人、作家、劇作家。生年は1863年3月12日。享年は1938年3月1日
フランチェスカ 戯曲Francesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)は劇作家ダンヌンツィオの作品。
冬夏社 日本橋区本銀町2丁目8番地にありました。
書肆 書物を出版したり、売ったりする店。書店。本屋。
鷲尾浩 早稲田大学文学士。冬夏社を営んだため、自宅は冬夏社の住所と同じ。
白鷹 はくたか。灘の酒です。関東総代理店は神楽坂近くの升本酒店でした。

 また尾崎一雄氏の『学生物語』(1953年)の「神楽坂矢来の辺り」には
 矢来通リの、新潮社へ曲る角の曲ひ角を少し坂寄りの辺に、江戸屋といふおでん屋があった。鷲尾 (のちに雨工)氏夫妻が経営してゐた。
 大正15年の、秋の末だった。それまでに二三度は顔を出しでゐたその店へ私が一人で入って行くと、六七人の一座が、店中を占領したやうなおもむきで飲んでゐた。私は少し離れたところで、ちびりちびりやり始めた。
  空白1つがあります。「浩」がはいるはずでしたが。

 筆名の鷲尾雨工うこうという名前も出てきています。
 本名の鷲尾浩氏も「人間直木の美醜」(中央公論、昭和9年)でこう書いています。
 僕が牛込矢来で江戸屋というおでん屋をやった時分から、僕と直木(註。三十五氏)の関係を知っていた人々は、なぜ直木を訪ねないのか、と訝しんだ。
 まず「日本の古本屋」で「鷲尾浩」氏を引いてみます。鷲尾浩氏は「新亜細亜行進曲」を除いて、「男と女」「性の心理」「売淫と花柳病」「愛と苦痛」などはすべて大正10~11年、冬夏社から出た本で、性愛で一杯のものでした。
 一方、「鷲尾雨工」氏は違います。昭和10年、南北朝時代の武将・楠正儀を描いた「吉野朝太平記」を発表し、11年、それで第2回直木賞を受賞。「小説明智光秀」「関ケ原」「明智光秀」「伊逹政宗」「豊臣秀吉」「若き家康」「開拓者秀衡」「甲越軍記」「武家大名懐勘定物語」と書いていきます。つまり、本名の鷲尾浩氏はもっぱら性愛について書き、筆名の鷲尾雨工氏は、直木賞を受賞し、大衆文学の歴史物について書いていました。
 では江戸屋の場所は? 塩浦林也氏の「鷲尾雨工の生涯」(恒文社、平成4年)では
 大正14年5月、雨工は住まい探しのため一人で山卯の別宅等に幾日間か滞在して、六日付『都新聞』に「江戸家」の売り広告を見付け、それを居抜きのまま買った。住まいと生活手段とを、一挙に解決しようとしたのであろう。
 神楽坂から少し離れた矢来町の、それも最上等ではない江戸家にねらいをつけたというのは、「このたびの資金など親戚からも一文も出ず」、山卯も「それに対して資金の融通もしてくれなかった」ので、「殆んど無一文」(鷲尾倫子「私の記録」)だったからであるが、別に、学生時代以来熟知の土地で、山卯の別宅(西五軒町三番地。赤城神社右奥)にも近く、神楽坂周辺が早稲田膝元の繁華街として早稲田派文士の集まる所だと知っていたからでもある。

大正11年東京市牛込区(江戸屋)

大正11年東京市牛込区(江戸屋は赤点)


塩浦林也「鷲尾雨工の生涯」(恒文社、平成4年)から


 さらに「鷲尾雨工の生涯」を続けます。
 一家が江戸家に移ったのは大正14年5月末だった。
 江戸家の位置は、牛込区矢来町22番地の表通りに面した所(現・松下文具店の位置)である。ほぼ筋向かいの地にお住まいの岡田啓蔵氏によれば、岡田氏宅の正面が千葉博己宅だったとのことだから、22番地から20番地の間に5軒あったことになる。地図で見るとそれぞれの区画が約4間幅だから、若干の大小はあってもほどんどの家が約2間間口で、22番地にも、ともに2間間口の江戸家と金子洋服店が立っていた。
 江戸家の外見は、2階建の正面上部いっぱいに「江戸家」の横看板があり、入口にのれんが掛かっていたようだと岡田氏は語られる。家の内部は、「店の土間には板がはってあり、ガタ/\と歩くたびにうるさい音がするのです。その土間を上ったところが4畳半。それに台所が板敷きで、真中に水道の蛇口があって廻りを管のやうに囲んであり、坐ってお茶碗でも何でも洗ふのです。こんな台所も都合のよいものでした。2階が3畳、4畳半とあって老母2人で2階は一杯ですから、私共は4人(引用行注――雨エ、倫子、長男、二男)で4畳半。それも荷物の中に人間がはさまったやうな、あんな生活がよくも出来たものと唐寒さを覚えます」(「私の記録」)と倫子が書いている。
 なお、坂学会会長の山野氏の言では、中央の坂は「おぼろの坂」というようです。また、見にくいですが、隣のアイコン「おでん」は鷲尾氏の家を指しています。現在は「シーフードダイナーFINGERS神楽坂店」です。

山の手銀座の文人宿――神楽坂・和可菜

文学と神楽坂

泉麻人

泉麻人

 麻人あさと氏の「東京ディープな宿」(中央公論新社、2003年)です。
 氏は、慶応義塾大学商学部卒業。1979年4月、東京ニュース通信社に入社し、『週刊TVガイド』の編集部に所属。1984年7月に退社して、フリーランスに。雑誌のコラムやエッセイの執筆、テレビの評論などに従事しました。生年は1956年4月8日。

 神楽坂、というのは、いまどきの東京において”独特のポジション”にいる街である。いわゆる情報メディアで取りあげられる東京の街は、都心の銀座、それから六本木青山白金……といった港区勢、この港区を震源にした“オシャレ志向の街”は、渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川、さらに新宿を基点にした高円寺吉祥寺などの中央線沿線のグループと、大方東京の西部に点在する。
 こういった“山の手趣味”の面々に対して、人形町浅草谷中門前仲町柴又あたりまで含めた“下町”と冠されたスポットが東京東部に散りばめられて、ここに新進の湾岸都市・お台場が加わる――といった情勢である。
 地図を広げてみたときに、丸い山手線内の、しかも中央・総武線の上にぽつんとある神楽坂のポイントは、他から隔離されたような印象がある。都心のなかのブラックボックス、とでもいおうか。そんな、ふと忘れられがちなポジションが、おおよその東京の繁華街に飽きた通人の興味をそそる。「どこにアソビに行こうか?」なんてことになったときに、「神楽坂」の名を出すと、どことなく粋な印象が放たれる……そんな効果がある。

神楽坂 下図で、紫色の丸。
銀座六本木青山白金 黒丸で
渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川 赤丸で
新宿高円寺吉祥寺 ピンク色の丸で
人形町浅草谷中門前仲町柴又 青丸で
お台場 緑の丸で

地下鉄

地下鉄

 神楽坂は独特のポジションにいると氏はいいます。「山の手」でも「下町」でもなく、「他から隔離」して、「ブラックボックス」で、「忘れられがち」であっても、「粋」な場所。2000年までは「忘れらた」町、それ以降では、なぜか「粋」な町と書かれていることは確かに多くなってきました。

 ところで僕が神楽坂へ通うようになったのは、この10年来くらいの話である。通う、という表現はちょっと違うのだが、よく仕事をする新潮社が坂上の矢来町にある。オフィスの裏方に、古くから作家を“カンヅメ”にする屋敷があって、僕もそこを利用するようになってから、カンヅメ期間中、夜な夜な繰り出すようになった。
 そんな折、本多横丁周辺の小路をふらついていると、花街めいたなかなか味のある宿が見える。当初目をつけていたのは「かくれんぼ横丁」と名の付いた、クランク状の小路に見つけた「旅荘駒」という1軒だった。かくれんぼ、の名の如く裏道めいた場所と、「旅荘」という古風な冠にそそられたのだが、電話帳で調べて連絡すると、「予約はできません、夜10時からやってます」と、ぶっきらぼうに言われた。飛び込みオンリーの、いわゆる連れこみなのだ。
 ま、そういう所に1人で入るのも、ある意味で面白いかもしれないが、仮に満室で追い返されて、夜更けに1人路頭に迷う……なんてケースはやはり避けたい。もう1軒、編集者から「和可菜」という宿を聞いていた。僕は見落していたが、本多横丁の1本北方の小路に、黒塀を見せた趣きのある宿が建っている。取材の数日前、下見を兼ねてあたりを歩いたとき、門をくぐると感じの良さそうなおかみさんが出てきて、その場で宿泊の予約をとった。

屋敷 作者をカンヅメにする施設は新潮社クラブです。新潮社クラブ
旅荘駒 現在は「坂の上レストラン」にかわりました。

旅荘駒 かくれんぼ横丁

2000年ごろの旅荘駒

連れこみ 愛人を同伴し旅館等にはいり込むこと。
おかみさん 「和可菜」の女将さんは和田敏子氏でした。

 これで氏は「和可菜」に泊まってみました。

 お茶をいれにきたおかみさんに、この家の歴史などを伺ってみる。70くらい……と思しき彼女が、この宿を始めたのは昭和29年。うすうす噂は聞いていたが、昔から芸能関係者や作家……に親しまれた旅館だという。
「はじめの頃は、千恵蔵さんとか歌右衛門さん、東映の関係の役者さんやシナリオ作家の方に御聶厦にしていただきまして、そのうちにテレビが始まりましてね、『ダイヤル110番』『七人の刑事』のシナリオの方なんかがウチでよくカンヅメで仕事されてたんですよ」
 僕の年代が、ぎりぎりでわかる懐しい役者やテレビ番組の名前だ。
 その後、寅さんの山田洋次野坂昭如……と、お馴染みさんの名が挙げられた。作家でも、放送、芸能寄りの人々に愛されてきた宿のようである。(略)
 いわゆる“性事”をウリモノにした待合昭和33年の売春防止法の施行をもって廃止されたわけだが、芸者あそびをする料亭、の類いは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの頃まで盛況を博していた、という。
「だいたい、坂を3分の1上ったあたりから上が、そういう大人の遊び場だったんですよ」
 3分の1というと、おそらく神楽坂仲通りから上の一帯、だろう。
「いまはぞろぞろ上の方まで若い学生さんたちが歩いてますけど、昔の早稲田の学生さんたちは、坂の3分の1までしか上がってこなかったもんです」
 まあ多少色を付けた話なのだろうが、かつては、そういう街としての“境界”がハッキリしていた、ということなのだろう。

70くらい 和田敏子氏は1922年に誕生しました。この文章が書かれた2001年には79歳になっていました。
千恵蔵 片岡千恵蔵。時代劇の俳優。生年は明治36年3月30日、没年は昭和58年3月31日。享年は満79歳。
歌右衛門 中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日、没年は平成13年3月31日。享年は満84歳。
ダイヤル110番 1957年9月から1964年9月まで日本テレビで放送された刑事ドラマ。
七人の刑事 1961年10月から1969年4月までTBSで放送された刑事ドラマ
山田洋次 映画監督。『男はつらいよ』など。生年は1931年9月13日。
野坂昭如 作家、歌手。生年は昭和5年10月10日、没年は平成27年12月9日。享年は満84歳。
昭和33年の売春防止法 「この法律は、昭和32年4月1日から施行する」と書いてあります。昭和33年に赤線が廃止されました。赤線とは半ば公認で売春が行われていた地域です。
早稲田の学生さん おそらく東京理科大学のほうが多かったのでは。市電や都電ができると、多くの早稲田の学生さんが遊びに行くのは新宿でした。
 今の本によると、昭和初めの当時、神楽坂には演芸館や映画館が5、6軒ばかりあったようだ。宿のおかみさんの話でも、いまパラパラで有名なディスコ「ツインスター」の所は、かつて映画館だったらしい。現在、神楽坂のメインストリートに劇場は1軒も見られないが、並行するこの軽子坂の下の方に、「キンレイホール」と「くらら劇場」というのが2軒並んでいる。キンレイは通好みの洋画の類いをかける名画座、くららの方はポルノ館である。
 くらら、という名も面白いけれど、横っちょに張り出された上映作品の掲示を何とはなしに眺めていたら、奇妙なタイトルが目にとまった。
「痴漢電車 くい込む犬もも」
 犬もも? 特殊なマニア向きの路線、と考えられなくもないが、これはやはり「太もも」の書き損じだろう。
 そんなおかしな看板を見た帰りがけ、宿の近くの小路で、不思議な表札に出くわした。立派なお屋敷風の家の玄関の所に「牛腸」とぽつんと出ている。料亭のようにも見えるから、もしや店の屋号かもしれない。牛の腸料理でもウリモノにしているのだろうか……。しかし、台湾料理の店なんかだったらわかるが、おちついた料亭風の佇まいに「牛腸」というネタは馴染まない。文人宿 帰ってきてからインターネットで検索してみたら、「牛腸」と書いて“コチョウ”と読ませる姓を持つ人が、けっこう存在することを知った。とはいえ、この夜神楽坂で目撃した「犬もも」と「牛腸」のネームは、謎めいた暗号のように脳裡にこびりついた。

パラパラ パラパラダンス。1980年後半、日本由来のダンスミュージック。
ディスコ「ツインスター」 1992年12月~2003年、ディスコの神楽坂TwinStarがありました。
映画館 1952年~1967年、メトロ映画館がありました。
キンレイホール 1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら劇場 成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。地下で3本立てで行っていました。
牛腸 「牛腸」は普通の一軒家でした。場所はクランク坂下。現在は「ROJI神楽坂ビル」で、料理店4軒があります。西に寺内公園があります。
牛腸


鰻坂 合羽坂|河童出たとて鰻坂

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「鰻坂 合羽坂」を見ていきます。しかし、俳優の芦田伸介氏の家がどこにあるのか、これだけではわかりません。

鰻坂

鰻坂と合羽坂

「ね、右へ登る細い坂があったでしょう。」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裏には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」

「夜のタクシー」海老沢泰久

矢来町のほうへ 矢来町は牛込中央通りを北に動くと出てきます。鰻坂は市谷砂土原町と払方町を分ける坂です。「右へ登る細い坂を行くと矢来町になる」と考えると嘘になります。

矢来町と鰻坂

矢来町と鰻坂

いまの坂 牛込中央通りを南から来る場合、うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)です。逆に北から来る場合、右に曲がるのは遙か南の小路です。したがって、払方町の坂のほうが正しいのでしょう。しかし、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂とその上の坂。1990年

鰻坂とその上の坂。1990年

芦田伸介 あしだしんすけ。本名は蘆田義道。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年(1999年)1月9日。享年は満81歳。
河童のお化けが出た 実際は違うようです。『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では

右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候

この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てきます。そこで、風評通りに、これを河童坂と呼んできました。その後、誰かが合羽坂と書き間違えたのです。

カッパ坂 西北に上がる坂です。江戸時代(『御府内場末往還其外沿革図書』嘉永5年、1852年)は現在の合羽坂とほぼ同じです。しかし、ほかの坂を合羽坂とよんた時代もありました。

本村町と合羽坂

本村町、仲之町と合羽坂


 三島由紀夫が割腹を遂げた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地がある市谷本村町と西隣りの市谷仲之町との間を北上する坂合羽坂という。
 江戸時代、尾張藩の合羽干し場だったのでこの名がついたとするがあるが、『夜のタクシー』の運転手のいうように、河童説も有力である。
 というのも坂の下には古い大きな沼があり、河童が出たという伝説が生まれても不思議はないからである。
 永井荷風が『日和下駄』の中で本村町の坂の上から見る市ケ谷~小石川の景色が、東京中で最も美しいと述べているが、この坂の上とは、おそらく合羽坂のことであろう。
 鰻坂は、市谷砂土原町払方町の間を曲折している坂道。
 さらに砂土原町の一丁目と二丁目の境を市谷田町から払方町の方へのぼる長い坂が浄瑠璃坂。この浄瑠璃坂と合羽坂を「山の手だけど江戸らしい」と鏡花がほめている。
 また市谷左内町市谷加賀町の間の坂道を中根坂といい、外堀通り市ケ谷見附付近から市谷左内町へとのぼる坂を佐内坂という。
 このように市ヶ谷近辺は起伏に富んでいる。そして町名変更の波に洗われながらも旧称が残っており、同じ新宿区内でも整理され、旧町名が姿を消した新宿駅を中心とする地域とは全く異なった様相を呈している。

市谷本村町市谷仲之町 図を参照
北上する坂 現在の「北上する坂」は合羽坂ではなく、「外苑東通り」です。
 岡崎清記氏の「今昔 東京の坂」(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では「この坂名は、尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。」と書いてありました。
古い大きな沼 『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では「東方にはす池という大きな池」があり、また「今昔 東京の坂」では「河童坂の名の由来となった蓮池は、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となった」といっています。下の図で赤い丸でしょうか。

絵図・市谷御屋敷

新宿歴史博物館「尾張家への誘い」新宿区生涯学習財団。2006年10月。95頁

日和下駄 ひよりげた。歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。永井荷風の「日和下駄」(1915年)では裏町と横道を歩き、東京中を散策する随筆集。
日和下駄
東京中で最も美しいと述べている  永井荷風が書いた『日和下駄』「第四 地図」の一文です。

 私は四谷見附よつやみつけを出てから迂曲うきょくした外濠のつつみの、丁度その曲角まがりかどになっている本村町ほんむらちょうの坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込うしごめを経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡はちまんの桜早くも散って、ちゃ稲荷いなりの茶の木の生垣いけがき伸び茂る頃、濠端ほりばたづたいの道すがら、行手ゆくてに望む牛込小石川の高台かけて、みどりしたたる新樹のこずえに、ゆらゆらと初夏しょかの雲凉しに動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこのあたりを中心にして江戸の狂歌が勃興した天明てんめい時代の風流を思起おもいおこすのである。

おそらく合羽坂のこと 現在の命名では「外苑東通り」になります。
小石川 文京区の一部。1947年、小石川区と本郷区の2区を合併して文京区になりました。

旧区

アイランズ「東京の戦前 昔恋しい散歩地図」草思社、2004年

山の手だけど江戸らしい すみません。出典は不明です。

新潮社があることで知られる矢来町は、旧酒井邸の外垣に、矢来が組んであったことに由来するという。

②昭和四十五年十一月、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと共に市ヶ谷駐屯地にたてこもり、自衛隊員に決起をうながしたが、応じないのを知ると、割腹自殺をした。

③市谷砂土原町には児童書の偕成社さ・え・ら書房、詩集の出版で知られる思潮社をはじめ、小規模の出版社が多数ある。

市谷加賀町の半分近くを大日本印刷(株)が占めている。

⑤この外堀通りを境にして、新宿区と千代田区に分かれている。
 四ツ谷から市ヶ谷を通って飯田橋まで、外堀堤は桜と松の並木がつづく美しい散歩道である。桜吹雪の舞い散る中を散策するのは本当に素敵だ。

偕成社さ・え・ら書房思潮社 下図を参照。
偕成社、さ・え・ら書房、思潮社
大日本印刷(株) 1876年、秀英舎が創業。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。大日本印刷は市谷加賀町一丁目の全てを占め、ほかに市谷加賀町二丁目、市谷左内町、市谷鷹匠町の一部を持つ。
外堀通り 環状2号線・外堀通りです。

矢来町|江戸、明治、現在(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 矢来町の大部分は旧酒井若狭守の下屋敷でした。

 矢来(やらい)という言葉は、竹や丸太を組み、人が通れない程度に粗く作った柵のことです。正保元年(1644年)、江戸城本丸が火災になったときに、第3代江戸将軍の家光はこの下屋敷に逃げだし、御家人衆は抜き身の槍を持って昼夜警護したといいます。以来、酒井忠勝は垣を作らず、竹矢来を組んだままにしておきます。矢来は紫の紐、朱の房があり、やりを交差した名残りといわれました。

 江戸時代での酒井家矢来屋敷を示します。なお、酒井家屋敷北の早稲田通りから天神町に下る一帯を、俗に矢来下(やらいした)といっています。

矢来屋敷

 明治5年、早稲田通りの北部、つまり12番地から63番地までの先手組、持筒組屋敷などの士地と、1番地から11番地までの酒井家の下屋敷を合併し、牛込矢来町になりました。下図は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年。インターネットでは農研機構)。酒井累代墓なども細かく書いています。

五千分一東京図測量原図(農研機構)
https://www.arcgis.com/home/item.html?id=c864ac7332e1423f81b154bc56105c23

 明治18年ごろは下図。池があるので、かろうじて同じ場所だと分かります。何もない荒れた土地でした。なお、以下の地図は『地図で見る新宿区の移り変わり』(新宿区教育委員会、昭和57年)を使っています。

矢来町 明治

 明治28年頃(↓)になると、番号が出てきて、新興住宅らしくなっていきます。1番地は古くからの宅地(黄)、3番地は昔は畑地。7番地(水色)は長安寺の墓地だったところ。8、9番地(赤とピンク)は山林や竹藪、11番地は池でした。それが新しく宅地になります。

矢来町color

 3番地には(あざ)として旧殿、中の丸、山里の3つができます。旧殿は御殿の跡(右下の薄紫)、中の丸は中の丸御殿の跡(右上の濃紫)、山里は庭園の跡(左の青)でした。

矢来町の3個の字

矢来町の3個の字

 11番地は庭園で、ひたるがいけ(日下ヶ池)を囲んで、岸の茶屋、牛山書院、富士見台、沓懸櫻、一里塚などの由緒ある建物や、古跡などがありました。将軍家の御成も多かった名園でした。 矢来倶楽部は9番地(ピンク)にあり、明治二十五年頃に設立しました。

矢来倶楽部。東陽堂編『東京名所図会』第41編(1904、明治37年)

 最後に現代です。矢来町ハイツは日本興業銀行の寮からみずほ銀行社宅になっていきます。

矢来町 現在

 牛込中央通りを見た360°写真。上下左右を自由に動かすこともできます。正面が矢来ハイツ。

神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 神楽坂6丁目は神楽坂上から西に行き、矢来町になるまでの場所です。
 江戸時代は「とおりてらまち」と呼ばれていました。現在と比べると、神楽坂6-25などを中心とした小さな小さな町でした。下の地図では青色の四角が江戸時代の通寺町で、赤色で囲んだ多角形が明治時代の通寺町(昭和26年に名前が変わって神楽坂6丁目)でした。

神楽坂6丁目(明るい色の多角形)と通寺町

神楽坂6丁目(明るい色の多角形)と江戸時代の通寺町(青い四角)

 江戸時代、各町の地誌『町方書上』(文政8~11年、1825~28)を見ると

町之儀往古、武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之候處、其後町屋相成候、起立之義書留等焼失仕、相分り不申候、町名之起り牛込御門通、寺町有之候間、町名通寺町相唱申候

[現代語訳]この町は昔は武州豊島郡野方領の牛込村内にあったが、その後、町家になった。起立年は書き留めてあったが、焼失して、わからない。牛込見附を通る道(神楽坂通り)に面して、寺が多くて寺町になっていたため、通寺町と呼んだ。
 「当」の旧字体。

 明治時代、通寺町は拡大し、現在の神楽坂6丁目に相当するようになりました。東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

牛込通寺町 牛込肴町の西に在り。牛込うしごめはしとはり寺地なるを以てこのしようあり。當時とうじ狭少けふせうの一市街しがいなりしが、明治二年四月附近の寺地及あんやう、養善院.三光院、正蔵院の門前をあはせ.五年七月またくみしき其他士地をがつせり。

肴町 現在、神楽坂5丁目。
寺地 てらち。寺の敷地。寺の土地。
組屋敷 江戸時代、与力組や同心組など組に属する下級武士が居住していた屋敷地。

 安養寺船橋屋スーパーよしや花豊コボちゃんの像キムラヤ音楽之友社などは活動中。
 昔の店舗としては、いろは牛込亭ヤマニバー、舛屋、蝋燭屋などがあげられます。新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」(64頁)では

通寺町1番地に牛肉の第十八いろは、通寺町75番地(明進軒の先)に料理屋求友亭など。さすが花柳堺が近いので料亭も多かった。まだこの外にも牛込勧工場、呉服の浜野屋、瓦せんべいの近江屋、茶の明治園、蒲鉾の山崎、菓子の小まつ、紙の小松屋、洋酒の青木堂千とせ鮓、蒲焼の橋本、甘藷の児玉、しるこの松月、缶詰の越後屋、洋酒と煙草の青木堂、乾物の西川、洋傘の東条など目白押しに両側に並んでいたL、東裏通りには宮内省へ納めていた大阪鮨で有名な店があった。

神楽坂6丁目

神楽坂6丁目

kimuraya

Kimuraya



松葉ぼたん|水谷八重子

文学と神楽坂

 水谷八重子氏は明治38年8月1日に神楽坂で生まれました。この文章は氏の『松葉ぼたん』(鶴書房、昭和41年)から取ったものです。
 氏が5歳(昭和43年)のとき、父は死亡し、母は、長女と一緒に住むことになりました。長女は既に劇作家・演出家の水谷竹紫氏と結婚しています。つまり、竹紫氏は氏の義兄です。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項では、大正2年(8歳)頃から4年頃までは矢来町17 、大正5年頃(11歳)は矢来町11、大正6年頃(12歳)~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年(18歳)から大正15年頃は通寺町に住んでいました。氏が小学生だった時はこの矢来町に住んでいたのです。

神楽坂の思い出
 ――かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川――啄木の歌だが、私は東京牛込生まれの牛込育ち、ふるさとへの追慕は神楽坂界わいにつながる。思い出の坂、思い出の濠(ほり)に郷愁がわくのだ。先だっての晩も、おさげで日傘をさし、長い袖の衣物で舞扇を持ち、毘沙門様の裏手にある踊りのお師匠さんの所へ通う夢をみた。
 義兄竹紫(ちくし)の母校が早稲田だったからでもあろう。水谷の家矢来町横寺町と居をえても牛込を離れなかった。学び舎は郵便局の横を赤城神社の方ヘはいった赤城小学校……千田是也さんも同窓だったのだが、年配が違わないのに覚えていない。滝沢修さんから「私も赤城出ですよ」といわれた時は、懐かしくなった。

かにかくに あれこれと。何かにつけて。
渋民村 石川啄木の故郷。現在は岩手県盛岡市の一部。
追慕 ついぼ。死者や遠く離れて会えない人などをなつかしく思うこと。
郷愁 きょうしゅう。故郷を懐かしく思う気持ち。
おさげ 御下げ。少女の髪形。髪を左右に分けて編んで下げる。
舞扇 まいおうぎ。舞を舞うときに用いる扇。多くは、色彩の美しい大形の扇。
水谷の家 区編集の「区内に在住した文学者たち」では大正2年頃~4年頃まで矢来町17(左の赤い四角)、大正5年頃は矢来町11(中央の赤い多角形)、大正12頃~15年頃は通寺町61(右の赤い多角形)でした。
郵便局 青丸で書かれています。
赤城神社 緑の四角で。
赤城小学校 青の四角で。
千田是也 せんだこれや。演出家。俳優。1923年、築地小劇場の第1回研究生。44年、青山杉作らと俳優座を結成。戦後新劇のリーダーとして活躍。生年は明治37年7月15日。没年は平成6年12月21日。享年は満90歳。
滝沢修 たきざわおさむ。俳優、演出家。築地小劇場の第1回研究生。昭和25年、宇野重吉らと劇団民芸を結成。生年は明治39年11月13日、没年は平成12年6月22日。享年は満93歳。
 学校が終えると、矢来の家へ帰って着物をきかえ、肴(さかな)町から神楽坂へ出て、踊りのけいこへ……。お師匠さんは沢村流だった。藁店(わらだな)の『芸術俱楽部』が近いので松井須磨子さんもよくけいこに見えていた。それから私は坂を下り、『田原屋』のならび『赤瓢箪』(あかびょうたん・小料理屋)の横町を右に折れて、先々代富士田音蔵さんのお弟子さんのもとへ長唄の勉強に通うのが日課であった。神楽坂には本屋が多い。帰りは二、二軒寄っで立ち読みをする。あまり長く読みふけって追いたてられたことがある。その時は本気で、大きくなったら本屋の売り子になりたいと思った。乙女ごころはほほえましい。

沢村流 踊りの流派は現在200以上。「五大流派」は花柳流・藤間流・若柳流・西川流・坂東流。沢村流はその他の流派です。
田原屋 坂上にあった田原屋ではありません。戦前、神楽坂中腹にあった果実店です。右図では左から三番目の店舗です。現在は2店ともありません。
横町 おそらく神楽坂仲通りでしょう。
富士田音蔵 長唄唄方の名跡みょうせき。名跡とは代々継承される個人名。
長唄 三味線を伴奏楽器とする歌曲。
 藁店といえば、『芸術座』を連想する。島村抱月先生の『芸術倶楽部』はいまの『文学座』でアトリエ公演を特つけいこ場ぐらいの広さでばなかったろうか? そこで“闇の力”を上演したのは確か大正五年……小学生の私はアニュートカの役に借りられた。沢田正二郎さんの二キイタ、須磨子さんのアニィシャ。初日に楽屋で赤い鼻緒(はなお)のぞうりをはいて遊んでいたら、出(で)がきた。そのまま舞台へとびだして、はたと弱った。そっとぞうりを積みわらの陰にかくし、はだしになったが、あとで島村先生からほめられた記憶がある。

芸術座 新劇の劇団。大正2年、島村抱月・松井須磨子たちが結成。芸術座は藁店ではなく、横寺町にありました。
芸術倶楽部 東京牛込区横寺町にあった小劇場
アトリエ 画家、彫刻家、工芸家などの美術家の仕事場
鼻緒 下駄などの履物のひも(緒)で、足の指ではさむ部分。足にかけるひも
はたと弱った ロシアの少女が草履を履くのはおかしいでしょう。
 私の育った大正時代、神楽坂は山の手の盛り煬だった。『田原屋』の新鮮な果物、『紅屋』のお菓子と紅茶、『山本』のドーナッツ、それぞれ馴染みが深かった。『わかもの座』のころ私は双葉女学園に学ぶようになっていたが、麹町元園町の伴田邸が仲間の勉強室……友田恭助さんの兄さんのところへ集まっては野外劇、試演会のけいこをしたものである。帰路、外濠の土手へ出ては神楽坂をめざす。青山杉作先生も当時は矢来に住んでおられた。牛込見附の貸しボート……夏がくるたびに、あの葉桜を渡る緑の風を思い出す。
 関東大震災のあと、下町の大半が災火にあって、神楽坂が唯一の繁華境となった。早慶野球戦で早稲田が勝つと、応援団はきまってここへ流れたものである。稲門びいきの私たちは、先に球場をひきあげ、『紅屋』の二階に陣どる。旗をふりながらがいせんの人波に『都の西北』を歌ったのも、青春の一ページになるであろう。
 神楽坂の追憶が夏に結びつくのはどうしたわけだろう。やはり毘沙門様の縁日のせいだろうか? 風鈴屋の音色、走馬燈の影絵がいまだに私の目に残っている。
わかもの座 水谷八重子氏は民衆座『青い鳥』のチルチル役で注目され、共演した友田恭助と「わかもの座」を創立しました。
双葉女学園 現在の雙葉中学校・高等学校。設立母体は女子修道会「幼きイエス会」。住所は東京都千代田区六番町。
麹町元園町 現在の一番町・麹町1~4の一部。

麹町元園町

麹町元園町

友田恭助 新劇俳優。本名伴田五郎。大正8年、新劇協会で初舞台。翌年、水谷八重子らとわかもの座を創立。1924年、築地小劇場に創立同人。1932年、妻の田村秋子と築地座を創立。昭和12年、文学座の創立に加わったが、上海郊外で戦没。生年は明治32年10月30日、没年は昭和12年10月6日。享年は満39歳。
青山杉作 演出家、俳優。俳優座養成所所長。1920年(大正9年)、友田恭助、水谷八重子らが結成した「わかもの座」では演出家。
稲門 とうもん。早稲田大学卒業生の同窓会。


野田宇太郎|文学散歩
 牛込界隈①神楽坂


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。

   神楽坂

 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、20年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば20年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
富士見二丁目
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。
神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは国立図書館の「東京案内」の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。

警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。

最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治31年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治31年10月までは、東京専門学校から明治24年10月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治39年1月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。
東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和4年春からのことで、その後昭和8、9年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正12年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後24年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

 古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂3丁目5番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。

暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

夜のタクシー|海老沢泰久

文学と神楽坂

 海老沢泰久氏の「夜のタクシー」(「青春と読書」、集英社、昭和60年。文藝春秋、平成9年)です。
 氏は国学院大学折口博士記念古代研究所に勤務し、昭和49年、「乱」で小説新潮新人賞。昭和52年、文筆生活に。平成6年、「帰郷」で直木賞を受賞。自動車レースなどのスポーツもので注目を集めました。生年は1950年1月22日、没年は2009年8月13日。

「お客さん」
 運転手が前を向いたままで呼びかけていた。守谷良子が注意を向けると、左手の上を見てくださいと彼はいった。窓のすぐ上のところに読書灯がとりつけられていた。
「はい、それではうしろを見てください」
 振り向くと、シートのうしろに雑誌類がたくさん置いてあった。
「明りをつければ退屈しのぎになりますよ」
「ありがとう」
と彼女はいった。「でもわたし、車の中では本を読めないの。一ページも読まないうちに気分がわるくなるの」
 運転手は柤当の老人だった。彼女は背を伸ばしてタクシーの登録許可証を見てみた。個人タクシーだった。彼女はまた父親を思い出した。
「お客さん。いま通ったところね。右へ登る細い坂があったでしょう」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じやないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裹には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」
「はい、それじゃこんどは市ヶ谷駅ですよ。ちょうど左側です。このあたりは、お堀をはさんで、外側が牛込区、内側が麹町区といったんです。それが昭和二十二年三月十五日の区制改革で、牛込区と四谷区と淀橋区が一緒になって新宿区、麹町区と神田区が一緒になって千代田区になったんです。ということは、はい、中央線の駅名が市ヶ谷というのはおかしいことになりませんか。中央線はお堀の内側、麹町側を走ってるんですから。あ、ごめんなさい。お客さん、年よりのおしゃべり、うるさかありませんか?」
「いいえ」
と彼女はミラーの中の老運転手に笑いかけた。「きいておいて無駄になる話ってありませんもの」

いまの坂 うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)ですが、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂と北西の坂、昭和56年

芦田伸介 あしだしんすけ。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年1月9日。享年は満81歳。
区制改革 昭和22年、以前の35区から23区になりました。千代田区は麹町区と神田区から、中央区は日本橋区と京橋区から、 港区は芝区と麻布区と赤坂区から、新宿区は四谷区と牛込区と淀橋区から、文京区は小石川区と本郷区から、台東区は下谷区と浅草区から、墨田区は本所区と向島区から、江東区は深川区と城東区から、品川区は品川区と荏原区から、大田区は大森区と蒲田区から、北区は滝野川区と王子区から。板橋区は板橋区と練馬区に分離。目黒区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区は不変。

「そうですとも。あたしはね、書くことがうまくないもんですから、こうやって毎日お客さんに東京の話をしてるんですよ。一人でも多くの人に古い東京のことを覚えておいてもらいたいと思ってね。あ、右折車線に気がつかないでどうもすみません。あたしの不注意でした。だいじょうぶです。はい、出ました」
「さて、どこまで話しましたっけ。あ、そうそう、あたしは牛込弁天町の生れでしてね、いまは新宿区弁天町でちゃんと手紙が届きますが、あたしが子供のころはそうはいきませんでしてね。長々とこう書いたもんですよ。いいですか、東京府、東京市、牛込区、牛込弁天町。筆じゃなかなか一行に書けなくてね、そりゃあたいへんなもんでした。新宿といえば、大久保。なんでオオクボというか御存知ですか」
大久保彦左衛門のお屋敷でもあったのかしら?」
「いいえ、とんでもない。新宿なんてのは、ついこのあいだまでは“四谷から枯野へつづく馬糞かな”なんていわれてたぐらいでしてね、お武家が住むようなところじゃありませんでした。新宿がいかに田舎だったかという話をしましょう。あたしが小学生のとき、代々木八幡というところがありましょう。新宿から小田急で五分か十分のところ。あそこの八幡様へ遠足に行ったんですよ。ところがどうなったと思います。家も何もない野っ原でしてね、引率の先生が一日中そこらをさがしまわっても、当の八幡様が見つからなくて、日か暮れてあぶないから帰ろうって、そのまま帰ってきちゃいました。そんなところだったんです。さて、どこまで話しましたか」
「オオクボです」
「ああ、そうでした。あのオオクボは、大の字に荻窪の窪という字を書くんです。もうお分りですね。あのあたりは広大な窪地なんです。本当に退屈じゃありませんか? うるさいっていやがるお客さんもいるもんですから」
「いやじゃないわ」
 彼女はやさしく答えた。さっきからずっと父親のことを考えていたのである。父親もこうしてお客と愚にもつかない話をしているのだろうか。ときにはうるさいといやがられながら。もしそうだとしても誰にも責める権利はない。たった一人の話し相手だった娘に家を出られてしまったのだから。彼女はつまらぬことだと思いながら、老運転手にきいてみた。
「運転手さんは家族の人とご一緒に暮らしてるんですか?」
「いいえ。あたしはもうずっと一人です。息子も娘も、みんな外に出しちゃいましたから」
「さびしくない?」
「さびしいったって、あたしは家も財産も持ってないもんですからね。子供たちにしてやれることといったら、自由にしてやることだけなんですよ」
「おいくつ?」
「あたしですか。七十四です。でも、まだまだはたらけますよ」
「あのね、わるいんだけど」
 彼女は父親の顔を思いだしながらいった。
「行きさきを変えたいんだけど」
 老運転手が心配そうに振り向いた。
「失礼ですが、お客さん。さっきの男のところじゃないでしょうね」
「ちがうわ」
と彼女は笑った。「わたしの父も一人で住んでいて、わたしはもう半年も父と会っていないの」

 これで小説は終わりです。

牛込弁天町 下図を。

なんでオオクボというか 4説があり、①江戸時代、この地に大きな窪地があって大窪村と呼ばれた。②永福寺の山号である大窪山から。③小田原北条氏の家来である太田新六郎寄子衆に大久保という姓の者がいて、この地を領していた。④江戸幕府によって諸組の同心の総取締に大久保氏が任じられた。史料では大久保・諏訪・戸塚一帯を富塚(戸塚)村とされていたものが、ある時期を境に大久保村に置き換わっており、①の地形関係や②を由来とするのは不自然、④も元々の地名が変わるに足るような理由とは考えづらく、③がベスト。江戸時代は農村で、戦後、ロッテの工場や歌舞伎町の労働力として朝鮮系の人々が集まりだした。
四谷から枯野へつづく馬糞かな 正しくは「四ツ谷から馬糞のつづく枯野かな」(青蛾)
代々木八幡 代々木八幡宮のこと。渋谷区代々木5丁目1-1にある。

上田敏|横寺町

文学と神楽坂

 上田敏氏について知られていない事実があり(氏を知っている人はいる?)、子供時代は矢来町と横寺町に住んでいたのです。
 以下は安田保雄氏の『上田敏研究 増補新版-その生涯と業績』(有精堂、昭和44年)からの引用です。

 明治20年(14歳)4月、父が大蔵省に轉任することになつたので、一家とともに上京し、牛込區矢來町三番地に移り、六月、神田區錦町の私立東京英語學校に入學した。
 明治21年(15歳)、父は43歳で歿し、この年、彼は第一高等中學校の入學試験に合格したが、父の死のため入學を果さず、牛込區横寺町58番地の伯父乙骨太郎乙の邸内に移つた。(中略)
 明冶22年(16歳)9月、第一高等中學校(後の第一高等學校、當時は、五年制であつた)に入學、豫科英三級ニノ組に編入され、乙骨太郎乙の弟子である本郷區西片町十番地田口卯吉方に寄寓するやうになつた。

 まず矢来町三番地です。矢来町の90%は小浜藩酒井家の矢来屋敷でした。三番地はなかでも広く、図の赤い部分です。あまりにも大きく、このどれかに住んでいたのでしょうが、これ以上は不明です。

東京実測図(明治28年)

 次は横寺町58番地です。青い場所で、将来はこの1部分を牛込中央通りが通過し、完全に西半分だけが生き残ります。現在は下の地図での所です。

 以上、住んだのは短期間でしたが、上田敏氏も矢来町や横寺町に住んでいたのです。

矢来町|文士罷り通る

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。これは「江戸の名残り」の「矢来町」。

文士罷り通る
 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。

矢来町 下図を参照

名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。
発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 下図を参照

学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治20年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、24年からほぼ10年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治36年3月、本郷区千駄木町へ居を構えた。
竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて18歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正2年のことであった。
矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮


書かでもの記|永井荷風

文学と神楽坂


永井荷風

永井荷風

 大正7(1918)年、永井荷風氏が39歳の時に書いた『書かでもの記』です。矢来町で永井氏と師匠の広津柳浪氏が初めて出会いました。
 永井荷風は小説家で『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』などを執筆、耽美派の中心的存在になりました。また、花柳界の風俗を描写しています。生年は明治12年12月3日。没年は昭和34年4月30日。満79歳で死亡しました。

 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、すだれの月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町うしごめやらいちょうなる広津柳浪ひろつりゅうろう先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしがひとばしなる校舎におもむく日とてはまれにして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席よせを見歩きたまさかいえにあれば小説俳句漢詩狂歌のたわむれに耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念ようやく押へがたくなりければ遂に何人なんびとの紹介をもたず一日いちにち突然広津先生の寓居ぐうきょを尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしはあらかじめ電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中いまどしんじゅう』、『(くろ)蜥蜴とかげ』、『河内屋かわちや』、『亀さん(とう)の諸作は余の愛読してあたはざりしものにして余は当時紅葉こうよう眉山びざん露伴ろはん諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂かぐらざかを上りて寺町てらまちどおりをまつすぐに行く事数町すうちょうにして左へ曲りたる細き横町よこちょうの右側、格子戸造こうしどづくり平家ひらやにてたしか門構もんがまえはなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木すくなからず手水鉢ちょうずばちの鉢前には梅の古木の形面白くわだかまたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人長谷川濤涯はせがわとうがい机を置きぬ。)それより枚立まいだてふすまを境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。とこには遊女の立姿たちすがたかきし墨絵の一幅いっぷくいつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張いっかんばりの極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳のとの境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生へいぜい物に頓着とんじゃくせず襟懐きんかい常に洒々落々しゃしゃらくらくたりしを知るに足るべし。

簾の月 その原稿は今でも行方不明になったままで、荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものだという。
外国語学校 旧制東京外国語学校。現在は東京外国語大学。略称は外語大、外大、東京外大など
たまさか 思いがけず、そのような機会を得る。たまたま
 ぎ。たわむれ。面白半分にふざける
寓居 仮の住まい。わび住まい
今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描く
黒蜥蜴 くろとかげ。明治28年発表。醜女お都賀が無頼の(しゅうと)を毒殺し、自殺するまでの人生を描く。
河内屋 かわちや。明治29年発表。封建主義の制度下にある家の問題点を明るみにだす
亀さん 明治28年発表。遊女と遊んだ亀麿は、女性数名に強姦未遂を起こす。一方、遊女は火災で死亡する。
雅俗文 雅俗折衷文。がぞくせっちゅうぶん。地の文は文語文(雅文)で書き,会話は口語文(俗文)で書く文体
格子 対話体 話し言葉(口語文)の文体。
何番地 牛込矢来町3番地中の丸52号(http://www.library.shinjuku.tokyo.jp/jinbutuyukari/detail.php?id=63)でした。3番地は大きすぎて、大正か昭和になってから新しい番地をあてています。では新番地ではどこにあるのでしょうか。「広津和郎の生家」で考えをまとめて、73番地でした。
寺町 寺院が集中して配置された町。ここでは牛込区横寺町と通寺町のこと。
格子戸造 こうしどづくり。格子状の引き戸や扉が主の建造物。採光や通風もできる。
門構 もんがまえ。門をかまえていること
蟠り わだかまり。心の中に解消されないで残っている不信や疑念・不満など
手水鉢 ちょうずばち。手を洗ったり、口をすすいだりするための水(=手水)を溜めておく鉢。寺社の境内に置かれるほか、茶庭や日本庭園の重要な構成要素
長谷川濤涯 はせがわとうがい。明治40年から大正2年まで「東京の解剖」「誤られたる現代の女」「海外移住新発展地案内」「婦人と家庭」などを書いています
4枚立4枚立 よまいだち。柱と柱の間に4枚の襖が入るもの
一閑張 竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作り、柿渋や漆を塗る。食器や笠、机などの日用品に使いました。
襟懐 きんかい。心の中。胸のうち。
洒洒落落 しゃしゃらくらく。性質や言動がさっぱりして、物事にこだわらない

ライオネル・チャモレー日記|矢来町

文学と神楽坂

『英国人宣教師 ライオネル・チャモレー師の日記①(1888年ー1900年)』(日本聖公会文書保管委員会編集。聖公会出版。2015年)が出版されています。ちなみに、現在は「聖公会」といいますが、昔は「英国教会」「英国国教会」「イングランド国教会」などと呼んでいました。その最初の本文ページは……

ライオネル・チャモレー日記 1888 (明治21)年

 1888 (明治21)年1月1日(日曜日)
 ガンジツ 正月。良く晴れた朝。7時。月が明るく輝き、富士がくっきりと聳えていた。9時、エドワード・ビカステス主教*と私は牛込*の礼拝に向った。出席者は20人ほど。主教が短い説教をした。
 街は年始回りに出てきた兵士、高官、山高帽の紳士たちで賑わっていた。どこでも子供たちが凧を揚げていた。
 我々は英語礼拝*には遅刻したが、説教には間に合った。ロイド師*が説教し、主教がローブを着けて司式した。
 日本標準時が採用されたので、今朝、時間を修正した。時計を20分遅らせた。

(注)
 ビカステス主教(Edward Bickersteth 1850-1897 東京地方南部伝道区主教)
 牛込(昇天教会)
 英語礼拝(英国人信徒の礼拝)
 ロイド(Arthur Lloyd 1852-1911 英宣教師)

ライオネル・チャモレー Lionel Berners Cholmondeleyです。
牛込 牛込とは昇天教会のこと

この牛込の昇天教会はいったい どこにあったのでしょうか。現在だと簡単で、新宿区矢来町65番地(右図)です。でも、明治や大正では、どこだったのでしょうか。

インターネットで調べると、「新刊紹介 牛込宣教120周年記念特別号『光の矢』 日本聖公会 東京教区 牛込聖公会聖バルナバ教会」という記事が見つかりました。

 1873(明治6)年、英国の宣教団体SPG(福音宣布協会)のショーとライトの二宣教師が日本の地を踏んだ。ライト師は明治8年、牛込区四谷①箪笥町22番地に仮会堂を組織し、平日は普通教育、夜は伝道活動の拠点とした。これが聖十字仮会堂で、1878(明治11)年②市ヶ谷本村町に移転して市ヶ谷会堂と呼ばれた。ライト師によって洗礼を受けた牛込区居住者が同区古川町に講義所を設けて、これが同区③水道町2番地の会堂となっていく。聖バルナバ教会の前身となる「牛込昇天教会」である。
 1878(明治11)年5月に献堂式を挙げている。翌年、市ヶ谷会堂が暴風によって倒壊し、この会衆が牛込昇天教会に合流して同教会は大いに興隆した。1897(明治30)年、昇天教会が老朽化したため、牛込④赤城坂下に新会堂を建築、6月12日に「捧堂式」を行い、同時に名称を「聖バルナバ教会」と改めた。
 1945年(昭和20)、教会は空襲による戦火をうけて消失、跡地に建てられた牧師宅で礼拝が行われた。
 52年(昭和27)、現在の新宿区⑤矢来町65番地の地に、木造平屋建ての仮聖堂が建設され、以後約40年間にわたり礼拝が捧げられた。
 1982年(昭和57)、教会の将来計画を検討する「バルナバ特別委員会」が東京教区に設置されて構想を練り、聖バルナバ教会の土地に日本聖公会センターと聖バルナバ教会を共に建設することとなった。90年(平成2)約6億円の予算で建築工事が始まって2年後の92年2月15日に日本聖公会センターの落成式が、3月1日に聖バルナバ教会の献堂式が相次いで行われた。
(広報主事・鈴木 一)

どうも水道町2番地が牛込昇天教会の場所のようです。下図では赤い四角。

牛込区四谷箪笥町 牛込区四谷箪笥町22番地はなく、牛込区箪笥町22番地の間違いでしょう。
同区古川町 古川町なので、牛込区にはなく、小石川区小日向東古川町か、小日向西古川町なのでしょう。右図で青枠の場所。現在は文京区関口一丁目。
同区水道町2番地 右図で赤い四角。
牛込赤城坂下 聖バルナバ教会の場所はよくわからないのですが、仮に赤城下町とすると④です

神楽坂|アルバム 東京文學散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」の「神楽坂」(創元社、1954年)です。

 神樂坂

 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町尾崎紅葉が住み、矢来町広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。

貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷や家。

 大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。
 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。

飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在はが立っています。

東京理科大学(物理学校)裏。「アルバム 東京文學散歩」から

 北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道カダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。
「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。
 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。
 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。

神楽坂より牛込見附を望む

甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。明治22年(1889)4月11日に内藤新宿駅と立川駅との間に開通し、やがて御茶ノ水から、飯田町、新宿、八王子までに至りました。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。

東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代


 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンションに。


若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。
                        若宮会前会長 細川八郎

現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。馬場邸
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」

東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は第二次世界大戦で戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代

 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に。

     若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。

       若宮会前会長 細川八郎

 現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

馬場邸

最高裁判所長官公邸

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」


袋町

文学と神楽坂

 袋町は神楽坂から一歩離れた場所です。袋町の由来地蔵坂の由来について、さらに地蔵坂の散歩をします。

 現在は想像できませんが、桜は非常にきれいだったといいます。

 出版クラブ会館の話から、江戸時代に同じ場所にあった新暦調御用所、大正時代では一平荘について、さらにここで死亡したという真っ赤の嘘で有名な幡随院長兵衛について。

 新坂正雪の抜け穴光照寺都館と文士切支丹の仏像、活動写真の牛込館を扱います。

わが馴染みの横町|色川武大

文学と神楽坂

色川武大 色川武大氏が書いた「わが馴染みの横町 神楽坂」(『東京人』、1988年6月)です。

 氏は小説家で、昭和36年「黒い布」で文壇にデビュー。昭和52年「怪しい来客簿」で泉鏡花文学賞、昭和53年「離婚」で直木賞。また阿佐田哲也の筆名で「麻雀(マージヤン)放浪記」などのギャンブル小説も出しています。生年は昭和4年3月28日なので、この文章は59歳に書かれたものです。

 神楽坂は、震災で下町の盛り場が焼失したために賑やかになり、ターミナルの西方移動で新宿が勃興するまでの短期間、盛り場としてスポットライトが当ったらしい。私は昭和四年、牛込矢来町の生まれだから、盛りの頃の神楽坂を眺めて育ったことになる。
 その頃は、建物は小ぶりだが、白木屋高島屋、デパートが二つもストア風の出店を出しており、毎晩夜店が並び、車馬は通行止めだった。雑踏で道が埋まっていたといっても今の人は誰も信用しない。本当に、昭和に入ってからは街の変転が烈しくて、その変転の中で育った私自身、往時が夢のようだ。

震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に 起きた関東地方の地震とそれに続いた災害
矢来町 色川氏は矢来町80番に住んでいました。赤の地域で、矢来町80番の中には家屋が数軒あります。矢来町80
白木屋 しろきや。 東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。 かつて日本を代表した百貨店。 1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
高島屋 たかしまや。「神楽坂界隈の変遷」で新宿区教育委員会は「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で「震災直後高島屋十銭ストアーになった」とかいてあります」。以前は本屋の機山閣でした。
高島屋
「まちの想い出をたどって」第2集によれば

相川さん 三角堂の隣が「機山閣」という本屋さん。そこへ十銭ストアができた。
  神楽坂に高島屋があった
山下さん 『高島屋』が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいつちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。

 現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です

 カーブして津久戸の方に抜ける現大久保通りも、ストレートな大通りではなくて、市電がぎしぎしいいながら人家の中にわけ入っていったような記憶がある。いったいに道幅を拡げていた時期で、江戸風な小道が整理され、改正道路と称する舗装道路になっていった。改正される前のたたずまいがなつかしいのだけれど、私などの年齢では具体的な記憶がすくない。
 北町と肴町の間にある坂のあたりは、両側が崖のようになっていて、袋町の方面に昇る蛇段々という曲りくねった段々があった。ここは蝉とりの名所で、ひときわなつかしいが、今は何の風情もない舗装の坂道だ。往時のあの泥道というものは、ぬかるむと始末がわるいが、下駄に適合していた。舗装になって、下駄では頭に響いて歩きにくい。私は下駄が好きだから、泥道の柔らかさがなつかしい。
 夏の夜は、浴衣を着て親に手をひかれ、矢来の方から出て、夜店を眺めながら坂下まで散歩し、外濠のほとりで涼んだり、ボート遊びをしたりして、また同じ道を戻ってくる。なんということはないが、当時、恰好のリクリエーションだった。花火屋のおばさん、玉蜀黍売りの婆さん、古本の店、詰将棋、バナナ売り、盆栽屋、皆はっきりと顔が浮かんでくる。坂上の熊公焼きは特に有名だったが、単なるあんこ(、、、)巻きだ。

改正道路 明治時代から大正時代の都市計画を市区改正と呼んでいました。 東京市は道路幅員が狭く、上下水道など都市基盤の整備が遅れ、 大火も起こりました。改正道路とは市区改正で整備した新しい 道路のことです。
蛇段々 岩戸町の11番地と12番地で挟まれた南方が高い道路。鳥居秀敏氏が書いた「袖摺坂(そですりざか)って本当はどの坂?」(『まちの想い出をたどって』第二集)で「蛇段々」について書いています。
「蛇段々」というのをご存知の方いらっしゃいませんか? 私が愛日小学校を卒業したのは昭和十一年ですが、そのころまだS字状の広い車道の坂道はありませんでした。昭和十六年の地図を見てください。袖摺坂この地図の「町」の字のあるところが十一番地で小高い丘があり、隣の十二番地はレベッカビルです。そして十一番地と十二番地の間に細い道がありますね。この細い道を入りますと高い崖に突き当たります。高さ六メートル以上ある急な崖です。そこで左に曲がって斜めに登っていきます。そして登りきるとまた右へ曲がる細道があってそれを出ると南部さんの前に出ます。これが私の子供のころ蛇段々といわれていた細道です。学校の帰りに時々寄り道をしてこの蛇段々を下りて帰るというのが一つの楽しみでもありました。蛇段々という名前はおそらく坂でないところも含めて、うねうねと曲かっていますから、蛇を連想したのではないかと思います。しかしこの蛇段々は子供たちだけの呼び名で大人は袖摺坂と吁んでいたのかどうか、その点を私は知りません。しかし後ほど細かく申しますように、これが先ほどの新撰東京名所図会や御府内備考に書いてある地形とぴったり一致するのです。そのことから私はこの蛇段々が袖摺坂であったと、九十九パーセント確信しています。蛇段々
 これは蛇段々の模型です。十一番地と十ニ番地の間から登ります。すると相当急な高さ六メートル以上の崖に突き当たりますから真直には上れません。そこでその斜面を斜めに登ります。そしてまた右に曲がると南部さんの家の前に出ます。袋町も、北町も、多少大久保通りに向かって緩い傾斜をしていましたが、岩戸町の辺りはほとんど平担です。このあたりの台地は関東ローム層、いわゆる赤土ですから滑りやすい。仮に袋町の方から下りていったとします。崖縁を左に曲がりますと当然左側は高台です。それから右側は垣根かどうかは分かりませんが、十八メートルの間に六メートルも下るかなりの急な坂です。ですから滑らないように段々を作った。「岸地に雁木を設け折廻はしたる急峻の坂なり」という表現はこれにぴったり一致するわけです。
 蛇段々と袖摺坂とは同じなのか? 私は違うと思っています。これは別に書きます。
熊公焼き あんこ巻きのことです。細かくはここに

 では、これが終わりです。

 それ以上に名物的存在は、肴町電停前にいつも居る初老の人物で、古びた学帽をかぶり書生姿に高下駄。一定時間になるとカランコロン下駄の音を響かせ、通りを往復する。乞食ともちがうし浮浪者でもない。人々は親しみの眼でこの人物を眺めていた。世の中がのんびりしていてあの頃はこういう風物詩的な人物がよく居たものだ。
 戦災で残らず焼け、復興もおそく、長いこと、都心部の見捨てられた街と化していたが、最近歩いてみると、ここもビルラッシュ。至るところで建築の音がきこえてくる。古くからの老舗も、この変革の嵐の前にひとたまりもないのかどうか。
 裏通りの花柳界は、道筋だけは変らないが、内容は大きくさま変りしているらしく、三味線の音など絶滅し、カラオケと麻雀の音ばかり空疎にきこえてくる。
初老の人物 誰だか、わかりません。

疑惑|近松秋江

文学と神楽坂

近松秋江全集 第一巻。

 何か面白いことはないかと図書館で調べると、中谷吉隆氏の『神楽坂Story』(清流出版、2006年)に「神楽坂界隈が登場する明治・大正文学作品」がありました。明治、大正で神楽坂界隈を描く文学作品をリストでまとめたものです。中に近松秋江氏の小説、『疑惑』がすごい。なんと『疑惑』の中に赤城、赤城元町、矢来町、神楽坂の文言がきちんとはいっているのです。図書館で『近松秋江全集 第一巻』を借りて、調べてみました。『近松秋江全集 第一巻』の本はこの通り、典雅な、上品な本です。
 では本の内容は。ううううむ。この『疑惑』は、氏が書いた『別れたる妻に送る手紙』と全く同じ内容で、明治44年に別れた妻を捜す小説です。初版は大正2年。若い男性の篠田が妻と一緒に駆け落ちして、日光に行き、それを発見し、恨み言がこれでもかこれでもかと出てくる小説でした。しかも、ひとつひとつの土地の言葉は、ほんの一語ぐらいしか出てきません。なお、下の最後の文章は妻が喋る文章です。

 日光に行く旅費としてまた五円の金を拵へるに、頭が全然(すつかり)疲れて乱れ
てゐるから、三日も四日も掛つて僅かに十枚ばかりのつまらぬ物を書い
て、それで懇意な本屋の主人に拝むように言つて貸して貰った。
 さうしてそれを借りると、直ぐその足で、神楽阪の雑誌屋の店頭(みせさき)で旅
行案内を繰つて見て、上野のステーションに行つて、三時何十分かの汽
車に乗つた。それは五月の四日だつた。

 遣る瀬のない涙が(まなこ)(にじ)んだ。それでも私は、『草を分けても探し
出さずに置くものか。』と矢来の婆さんの処で、何度も歯を喰ひしばつ
た決心を、夕暮方の寒さと共に、ます〳〵強く胸に引締めて、宿屋に着
いて、夕飯を済ますと、すぐ(日光)警察署に行つた。

 その通り手帳に写し取らうと思つて尚ほよく見ると、宿処といふ処に、
『東京牛込区若松町何百何十何番地』
と書いて、二人一(ところ)にゐたらしい。見るに付け〳〵残念で堪らない。

 若松町にゐた時分のことが思はれてならぬ。篠田の奴二十(はたち)や二十一の
癖に、ひどい、酒の好きな奴だつた。
『こんな大きな家に入つて、詰らない。赤城で拾円の家賃さへ困つてゐ
たのに、貴下月々出来ますか。もう此度私に借金の言ひ訳をさしたら、
私はもう貴下の処にはゐませんよ。』



 ある地域を巡って回想や思い出などを一杯にして話す小説や随筆もあります。しかし、その地域の名前は出るけれどまたたく間に消えるものもあります。これも後者の方で、「神楽坂」を「上野」や「新宿」に変えても何の問題もありません。

 なお、若松町はとてもとても大きな場所です。何度か町や村の合併を繰り返し、女子医大など含む巨大な町になっていったようです。戦時中では陸軍が大きな場所を占めていました。下の図は若松町です。若松町

絹もすりん|森田たま

文学と神楽坂

森田たま 森田たま氏の『もめん随筆』(中央公論社、1936年、昭和11年)の「絹もすりん」です。
区内に在住した文学者たち』によれば、昭和13年頃~19年頃、矢来町41に住んでいました。しかし、20代でもここに住んでいたようです。1970年(75歳)、死亡しました。
 この随筆は、書きたいことだけを書くので、清純で、また綺麗です。

 十八の時初めて上京して、ふとした機会からのお稽古に通ふやうな事になつた。御縁があつて牛込の藤間勘次さんに教へて頂いたのであるが、踊などといふものは三つ四つの頃近所に若いお妾さんがゐて、退屈しのぎに私を借りていつては深川だの奴さんだのを教へてくれた事があるきりで、手の出しかた足の踏みかたてんで見当のつけやうもなく、つるつると滑つこい舞台の上を、ただ辷るまいといふ一心で浮腰に歩き廻つた。爪先立つていまにも転びさうな私の足許へぢつと眼をそそいでゐたお師匠さんは、やがて一緒にお茶を飲みなからさり気なく云はれるのである。
「おたまさん、あなたの足袋は幾なの」きかれても私は知らなかつた。
「家から送つてきたのをそのまま穿いてゐるんですけど、……」
「さう。道理で変だと思つた。その足袋はきつとあなたには大き過ぎるんですよ、一ぺん足袋屋へいつて寸法をはかつてお貰ひなさいよ。足袋だけはきつちりしたのを穿かなくつちやね。……」
 私はお師匠さんに教はつた通り早速通寺町美濃屋へ行つて寸法をはかつて貰つた。八文の足袋がきつちりと合つた。あらためて家から送つてよこしたのを調べると、こはぜに九文と刻んであつた。
 神楽坂の夜店に金魚売りや虫屋が幅をきかす頃になると、女の人の姿が眼に立つて美しくなり、散歩に出る人の数が急にふえてゆくやうに思はれた。人間洪水といつていいやうな凄まじい群集の間をくぐりぬけて、矢来のお師匠さんのところまで辿りつき、黒つぽい縞もすりん単衣からたたんだ手巾を出して顔を拭いてゐると、二階から降りて来たお師匠さんが私を見て「暑いでせう」と声をかけた。
「おくにでは今頃でもやつぱりさういふ風にもすりんを着てらつしやるの」
「ええ、……」と私はをひいて自分の衿を見るやうにした。
「夜のお稽古は浴衣でいいんですよ。……昼間だつてお稽古の時はねえ、汗になりますからねえ」
 夜の神楽坂を歩く女の人が急に美しく見え出したのは、くつきりと鮮やかな浴衣のせゐであつた事にやつと私は気づいたのである。

 おどり。音楽などに合わせて踊ること。
藤間勘次 森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生です。遠藤登喜子氏は『ここは牛込、神楽坂』第6号の「懐かしの神楽坂 心の故郷・神楽坂」を書き
 勘次師は、二代目藤間勘右衛門(後の勘翁)の門弟で、三代目勘右衛門、後の初代勘斎(松本幸四郎)は先代市川團十郎、松本白鴎、尾上松緑三兄弟の父君です。勘次師は、また作家の森田草平先生の奥さまで、花柳界のお弟子は全く取らず、名門の子女が多く、お嬢さま方がそのころ珍しかった自家用車に乗り、ばあやさんをお供にお稽古に来ておられました。
 藤間のお三方のご兄弟ももちろんこの頃は若く、踊りの手ほどきを勘次師にしていただくためよく来られました。私はまだ小学生で、時々お稽古場で豊(松緑)さんと顔が会うと、住まいが同じ渋谷だったので、お稽古の後、付人のみどりさんという若い男の子と三人で神楽坂をぶらぶら歩いて、よく履物の助六の下にあった白十字でアイスクリームなどをごちそうになったものです。

浮腰 腰が不安定な姿勢。へっぴり腰
 1文は2.4cmです。
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。
美濃屋 戦前の美濃屋は神楽坂6丁目にあって、戦後は5丁目に移ってきました。中小企業情報の『商店街めぐり-神楽坂』では1955年の美濃屋は創業から60年経った店でした。これが正しいと、1895年ごろに創業したのでしょう。上記の遠藤登喜子氏は
 肴町の交差点を渡って少し行くと、コーヒーを挽いているお店があり、よい香りが漂っていました。その先が足袋の美濃屋さんで、戦前は肴町を越したところにあったのです。広いお店は畳が敷き詰められ、小さいダンスの引出しが横にずうっと並び、大旦那がお客の足型を取ったり、店員さんが小さい台の上で足袋を裏返して、木槌でトントンとたたく音が聞こえていました。私の踊りの足袋も長い間、美濃屋さんのお世話になりました。

明治40年の5~6丁目

『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」で岡崎弘氏と河合慶子氏が書いた「遊び場だった『寺内』」の一部

 残念ながら、正確な神楽坂6丁目の地図も美濃屋の地図もありません。ただし、「タビヤ」の地図はあります。「茶ヤ」が「コーヒーを挽いているお店」でしょうか。

八文 19.2cmです。
こはぜ 小鉤。鞐。布に縫い付けられた爪型の小さな留め具
矢来 神楽坂上の台地にあり、以前は若狭小浜藩主の酒井讃岐守の敷地でした。矢来の名前は、この敷地の周囲を竹矢来で囲んでいたためです。北部に東西線の神楽坂駅があり、また新潮社もあります。
師匠 夏目漱石の手紙を読むと、森田草平氏と藤間勘次女史は矢来町62番地に住んでいました。

矢来町62番地

大正11年、東京市牛込区の地図

縞もすりん モスリンは羊毛等で織った毛織物。(しま)モスリンは2種以上の色糸を使って織り出した縦縞や横縞のモスリン
単衣 ひとえ。裏地のない和服。6月から9月までで着用しました。
 たもと。和服の袖付けから下で袋のように垂れたところ
くに 森田たま氏の故郷は北海道でした
 おとがい。下あご。あご。
浴衣 ゆかた。木綿の浴衣地でつくられた単衣の長着。家庭での湯上がりのくつろぎ着や、夏祭り、縁日、盆踊り、夕涼みなど夏の衣服として着用します


林原耕三|神楽坂今昔

文学と神楽坂

林原耕三

 林原(はやしばら)耕三(こうぞう)氏は自称最後の漱石門下生で、生年は1887年12月6日。没年は1975年4月23日。英文学者で俳人。1918年、東京帝国大学英文科卒。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介氏たちを漱石に紹介し、その後、法政大学、明治大学、専修大学、東京理科大学の教授になりました。
 なかでも東京理科大学の教授歴が長く、その結果、非常に神楽坂のことについては詳しい…はずです。しかし、昭和48年(85歳)に書いた『神楽坂今昔』では、ここかしこに、かなり記録の抜け落ちや嘘が出てきているようです。これは終わりに近い部分です。正しい点もたくさんあるのですが、うっかり抜けた内容がやっぱり出てきます。

 同じ側の矢来町には森田のおたまさんが住んでおり、彼女が三田へ移った跡は素木しづ子君が住んでゐたから、私には随分思ひ出が豊富である。森田草平氏の家も少し先の反対側の路地の奥にあって、思ひ出は一層深まる。最初の夫人お稲さん藤間勘衛門の高弟で、家中(かちゆう)踊舞台があり、そのお弟子が沢山あった。おたまさんもその一人だが、東大国文科に在学中のロシア人エリセイフ君も熱心で、筋がよかったやうだ。その頃、踊りに来たのではないが、少女時代の水谷八重子の「やっちゃん」がよく遊びに来た。それから文学の方で「まあちゃん」(本名豊田正子――今、ゲラに臨んで思ひ出した)といふ少女のお弟子が出入して、その処女作「綴方教室」といふ本が好評嘖々で、未来を大に嘱望されたが、不幸な結婚をして、その後筆を絶って、慧星の如く消えてしまった。
 私は、森田さんが忙しいので、頼まれておしづさんと長男の亮一君に英語を教へた。後におしづさんの自宅へ通はされた。そして、言はれるまゝに、洗濯物を持って行って、(おしづさんは隻脚なので)洗ふのはお毋アさん、縫ふのはおしづさんがしてくれた。森田家では文士の誰彼とも顔を合せ、後年深く交はった佐藤春夫君と相知ったのもこの家であった。森田さんが岩波版第一回漱石全集の校正主任の頃もあの家だから、勢ひ、その方の用件でも屢々訪問した。(略)
 私が大正十四年に都落ちして、昭和五年に東京へ舞ひ戻る五年間以外は生活の舞台はこゝにあったやうなものである。

三田 矢来町から三田にいった時間はわかりませんでした。森田たま氏の年譜はすかすかで、特に20代前半になるとまったくわかりません。森田たま氏も素木氏も矢来町から南榎町にいったことはわかっています。本当は南榎町ではないのでしょうか。たぶんこれも抜け落ちた内容でした。
路地の奥 『漱石全集』と『神楽坂界隈の変遷』によれば、森田草平氏は明治43年12月から大正9年1月にかけて牛込区矢来町62番地に住んでいました。下図では赤い場所です。
お稲さん 草平の妻。踊りの師匠としての名前は藤間勘次(女性です)。ただし草平とっては最初の夫人ではありません。
藤間勘衛門 正しくは藤間勘右衛門(ふじま かんえもん)。生年は天保11.2.12。没年は1925(大正14年)1.23。藤間流勘右衛門の家元。
踊舞台 おどりぶたい。踊りをする舞台
嘖々 さくさく。人々が口々に言いはやすさま。例は「好評嘖々」「評判嘖々たりし当代の佳人」など
森田 これは森田草平氏のほう
亮一 森田草平氏の長男
隻脚 せっきゃく。片足がなくなること。結核のためでした

『素木しづ作品集』によると……

「大正四、五の読売の『よみうり抄』と時事の『文芸消息』の記事から清貢・しづ関係の項を列挙する。(略)
<上野山清貢氏 牛込矢来町一番地二二号へ転居せり。>(『読売新聞』大正5・5・5)
<素木しづ子 上野山清貢氏と共に牛込区南榎町一五に転居した。>(『読売新聞』大正5・6・10)

 これから素木しづは矢来町1番地22号にいたとわかりました。しかし、1番地は巨大で、その22号はどこなのか、現在探すものはなく、全くわかりません。できれば緑の場所ならいいのですが、残念ながら、不明です。なお、赤い場所は森田草平氏が住んでいた場所です。大正11年矢来町

文学と神楽坂

福島安正|矢来町

文学と神楽坂

 広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた単騎でシベリアを横断した福島安正中佐が住んだ場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 これは泉鏡花さんに抱かれたよりも前のことと思うが、福島中佐がシベリヤ横断から帰って来て、馬に乗って自宅の門に入って行くところを、私は女中の背におぶわれて見たという記憶がある。
 福島安正中佐と云っても、今の多くの読者には知られていないことと思うが、日清戦争前に、シベリヤを馬に乗って単騎横断したというので、当時いわゆる「勇名」を天下に馳せた人であった。後には大将になった。
 矢来の表通から私の家のあった横町へ曲って来ると、だらだら登りの途中の左側に福島中佐の屋敷はあった。その後数年経って、私は中佐の息子たちと知合になって、よく屋敷に遊びに行ったが、あの頃は陸軍中佐があんな家に住むことができたのかと、今考えると不思議なほど、立派な広い屋敷であった。
 門の両側が堤になり、門は往来から少し引っ込んでいたが、その門前に近所の人々が人々を作っている前を、馬に乗った中佐が、軽く挙手の礼で人々の歓呼にこたえながら、しずかに門の内に入って行った光景を私は思えている…

福島中佐 福島安正。ふくしま やすまさ。生年は1852年10月27日(嘉永5年9月15日)。没年は1919年(大正8年)2月19日。陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
単騎横断 ただひとり馬に乗って横断すること。福島安正氏は1892年(明治25年)にシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、外蒙古、イルクーツク、東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査しています。この旅行が「シベリア単騎横断」と呼ばれています。
広い屋敷 豊田穣氏の『情報将校の先駆福島安正-ユーラシア大陸単騎横断』(1993年)では「明治九年、安正が石黒と同行して、アメリカから帰国して、安正が月四円の家賃の家に住んでいると聞くと、石黒は(安正が)神楽坂にある陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしてくれた」と書いてあります。ですから、この安正氏の家は軍医寮の1つで、たぶん広い屋敷だったのでしょう。なお、石黒忠悳(ただのり)は安正氏より七歳年上で、西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師になり、その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員になりました。
挙手の礼 右手を開いて指をそろえ、帽子のひさしの右端にあげて、相手に注目する敬礼。

福島中佐

新宿区地域文化部文化国際課『新宿文化絵図』(新宿区、2007年)

「矢来の表通から私の家のあった横町へ曲って来ると、だらだら登りの途中の左側に福島中佐の屋敷はあった。」を考えてみます。

 まず、広津和郎氏の家はこの濃青の四角の一部か全部です。「曲って」は、橙色の矢印を通って行き、「だらだら」は灰青色で書きました。

 なお、消防署が淡水色の場所にはありました。したがって、たぶん赤で書いた場所の1つが福島中佐の屋敷でしょう。

 また、明治37(1904)年の「新撰東京名所図会」によれば、福島中佐の住所は矢来町3丁目3の「中の丸24号」でした。

 以上おしまい……ではありません。福島中佐の屋敷を描いた地図が出てきました。これは地図資料編纂会編『地籍台帳・地籍地図』(東京市区調査会大正元年刊の複製、柏書房)です。これによれば、福島中佐の屋敷は矢来町8丁目で、その場所もはっきりと赤く書いてあります。なお、今までのここで推論したものは青色で書いてあります。矢来町1

 しかし、明治37年の「中の丸24号」は矢来町3丁目3にある(あざ)です。明治25年に単騎横断を行った時の住所は矢来町3丁目3(あざ)中の丸24号でした。矢来町8丁目ではありません。大正元年には福島中佐の住宅は矢来町8丁目に移りました。結局、広津和郎が覚えていることは正しかったと思います。以上これで本当に終わりです。

広津和郎の生家

文学と神楽坂

広津和郎 広津(ひろつ)和郎(かずお)氏は大正・昭和の作家、文芸評論家、翻訳家です。代表作は『神経病時代』『昭和初年のインテリ作家』『松川裁判』『年月のあしおと』など。広津氏は生まれた時期から少年期にいたるまで矢来町で過ごしました。でも、この矢来町は巨大な町なのです。いったいどこで過ごしたのでしょうか。

 籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』では、

和郎の生家が現在の矢来町90番地辺にあったことがわかる。和郎は頻繁に訪れた泉鏡花に抱っこされたこと、尾崎紅葉の堂々たる風格についても述べている。

と出てきます。そうなのでしょうか。

『年月のあしおと』では次の文章が出てきます。(下線は当方で書いたもの。以下同じ)

私の生れたのは牛込矢来町で、丁度今の新潮社(その頃は無論新潮社はなかった)の東側の裏通の、新潮社とウラハラになったあたりであるが、私はこの文章を書くのに、何かの緒を引き出すよすがともなればと思って、昨夜その附近を歩いて見た。
 神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。子供時分の記憶ではそれは「横町」ではなく、ちゃんとした「道」であったが、矢来通や、新潮社前の通が拡げられた今日では、昔のままのそこは「道」という感じではなく、「横町」という感じになってしまった。私はその幅を足ではかって見たが、並の歩幅で五歩余しかなかった。して見ると二間幅もないわけである。子供の時分には普通の往来のつもりでいたが、二間幅もなかったのかと今更のようにその狭さに驚かされた。
 その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

 では確かめてみましょう。「新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れる」は①です。「少しだらだらとした登り」は確かにだらだら坂を上って②。150メートルはほぼ+の場所です。

aaa

 新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の『出版おもいで話』(昭和11年)では

大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略)
 牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。

 これは上図に書きました。新潮社はまだ表通りには出てきません。なお、新潮社の左には漱石邸、右には広津邸がありました。これは次の文章(同じく佐藤義亮氏の『出版おもいで話』)によっています。

新潮社新社屋

新潮社新社屋

社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。
 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。

 つまり、漱石邸や広津邸などを一緒くたになって買い上げたのです。全部が矢来町71番地か73番地でした。新潮社や新潮社とウラハラになったあたりです。下図は昭和12年の「火災保険特殊地図」で、赤い範囲は新潮社とその社長、佐藤義亮氏がまとめて買った場所です。

新潮社と佐藤義亮氏がまとめて買った土地

昭和5年、牛込区全図

昭和5年、牛込区全図

 籠谷かごたに典子氏は矢来町90番地だと書いていますが、これよりもさらに南方にあります。90番地ではないでしょう。また広津和郎氏が書いた『鶴巻町』では「新潮社の裏側の細い通に行き、新潮社の囲いの中を指さして、「それはその囲いの中だ」と説明するより仕方がない。」となっています。

 以上、広津和郎の生家は、新潮社とウラハラになった東側の裏通で、曲がり角を数十メートルほど行った右側で、 新潮社の社長はこの五、六軒を一緒に買い受けた場所でした。曲がり角から150メートルほど行った場所ではないですが、他は現在の番地によくあっています。新番地になった場合、おそらく矢来町73番地でした。90番地は間違いです。

英国帰りの漱石|矢来町

文学と神楽坂

 英国から帰った明治36年1月24日(1903年、37歳)から3月3日まで、夏目漱石氏は妻の鏡子氏がいた牛込矢来町3番地中ノ丸の中根宅に滞在しました。

ここは牛込、神楽坂』の編集人だった立壁正子氏は第10号で「漱石夫人が悪妻だったなんて」を書き

旧姓中根キヨ(後に鏡子)。明治十年、中根重一の長女として福山に生まれる。中根家は代々福山藩の武士。明治維新後、父は藩の秀才として選抜され大学で経済学を学ぶことになり、それに必要なドイツ語を学ぶため医科へ。長女の鏡子さんが生まれる前後に、新潟の病院へ赴任。ドイツ人の院長の通訳を務め、後に副院長に。鏡子さんが五歳のときに帰京。牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地、いま新潮杜のあるところに住む。父上はその後官吏となり、鏡子さんが結婚する頃は貴族院の書記長をしていた。(『漱石の思い出』より)
 かくて鏡子さんは松山から上京した漱石と東京で見合。翌年、漱石の赴任先の熊本で結婚。そのとき鏡子さんは十九歳。
 以後、単子、恒子の二児をもうけ、漱石はイギリスヘ国費留学。鏡子さんは牛込矢来町の実家の離れで休職手当て二十五円で耐乏生活(実家も父上が相場で失敗、窮乏)。漱石が帰国した際は、衣類も夜具もぽろぽろという状態だった。

 矢来町について、夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』では極めて書いてあることは少なく、

そのころの中根の家は牛込矢来の、ちょうど今の新潮社のところで、あすこは私たち思い出の深い土地なのです。(略)
 それからすぐと矢来の、三年間畳替えもしなければ何の手入れもしない、ただ留守中雨露(うろ)(しの)いでいたというだけの荒れに荒れた家に入りました。

「漱石夫人が悪妻だったなんて」の話で出てきた「牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地」とありますが、二番地ではなく三番地でした。大正11年には、字「中の丸」は下の範囲でした。「六十、現七十一番地」は大正11年の地図ではわかりませんが、昭和5年の七十一番地はこうなっています。

 昭和5年の71番地と63番地の間を上下に続く道路は将来の「牛込中央通り」です。現代ではここの薄青の円が昔の71番地になります。

新潮社T11とS5と現代

 しかし漱石は「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根方」と書いたようです。また義父中根重一に対しても「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根重一」と書いたようです。つまり、「六十、現七十一番地」は誰が書いたのでしょうか?

 同書の中根眞太郎氏の「大伯母鏡子のいるところは花が咲いたようでした」によれば

矢来町の中根家のことは、小学校4年の頃、父と近くを通った際、あそこだと教えられたことがあります。いま新潮社の本社のあるあたりでしょうか。(略)
 大伯母の鏡子は、すばらしいおばあちゃんでした。江戸っ子気質で、ウイットがあって。彼女がいるところは周り中に花が咲いたようでした。弟子たちにも人気があって、よく面倒を見ていたようです。岩波書店の創立の際には株券で3千円を融通していますし、たいした人でした。

 さらに新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の「出版おもいで話」(昭和11(1936)年11月)では

大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略)
 牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村、加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。(中略)
 社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。
 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。そこで、九月一日の午後一時をもって新館開きの記念会を開き、文芸映画をはじめ各種の余興を揃え、御馳走も然るべく用意して、今やただ時間の来るのを待っている時に、待ち設けぬ大地震がやって来たのである。

中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早稲田大学教授。米国やドイツ等を外遊。近代劇の影響を受けて帰国。芸術座に参加。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満64歳。

漱石氏は1年強この矢来町にいました

 したがってこれから考えると、この赤く塗った場所が中根貴族院書記官長の住まいでしょう。漱石氏もしばらくいたことがある場所でした。(地図は新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』「明治」から)。大正になったころ番号が変わり、71番地でした。

新潮社と社長邸

 右に掲げた昭和12年の『火災保険特殊地図』では、当時の71番地には西方に新潮社、東方に住んだ新潮社の初代社長・佐藤義亮邸があり、東のほうが西の新潮社よりも大きかったようです。
 なお、これと違った地図もあります。新宿区の『漱石山房秋冬』です。しかし、⑥の場所は字「中の丸」ではなく「山里」になるので、違います。

漱石山房秋冬

 現在の71番地は3つに分かれています。写真は新潮社の本館です。漱石は「新潮社の本館」の北半分に住み、実際、新潮社本館の玄関の場所と、夏目漱石が使った玄関の場所は、よく似た場所にあったといえるでしょう。新潮社本館
新潮社の地図

 最後に寺田寅彦氏が書く「夏目漱石先生の追憶」(昭和7年)の一節です。

 帰朝当座の先生は矢来町(やらいちやう)の奥さんの実家中根氏邸に仮寓して居た。自分の訪ねた時は大きな木函に書物の一杯つまつた荷が着いて、土屋君といふ人がそれを開けて本を取出して居た。そのとき英国の美術館にある名画の写真を色々見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと云はれたので、レイノルヅの女の子の絵やムリリヨのマグダレナのマリアなどを貰つた。先生の手かばんの中から白薔薇の造花が一束出て来た。それは何ですかと聞いたら、人から貰つたんだと云はれた。たしか其時に(すし)の御馳走になつた。自分はちつとも気が附かなかつたが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻(のりまき)に箸をつけると自分も海苔巻を食ふ。先生が卵を食ふと自分も卵を取上げる。先生が海老(えび)を残したら、自分も海老を残したのださうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの喰ひ方」と覚書のしてあつたのは、比時のことらしい。

神楽坂の通りと坂に戻る

大東京繁昌記|早稲田神楽坂14|矢来・江戸川

文学と神楽坂


矢来・江戸川
 その頃のことを追想すると、私は今でも心のときめくような深い感慨をもよおさずにいられない。芸術座創立前後における、私達島村先生の周囲に集まった者等の異常な感激と昂奮とは別としても、私自身も一度は舞台に立とうかなどと考えて、同好同志の数氏と毎日その清風亭に集まり、島村先生や須磨子について脚本の朗読を試みたり、ゴルキイ「夜の宿」などを実際に稽古をしたりしたものだった。私はルカ老人の役にふんし、最早大分稽古も積んで、もう少しで神楽坂の藁店高等演芸館で試演を催そうとしかけたのであった。その高等演芸館が今の牛込館になったのであるが、当時そこには藤沢浅二郎俳優学校が設けられていたり、度々創作試演会が催されたりしたもので、清風亭は別として、この藁店の牛込高等演芸館といい余丁町坪内先生の文芸協会といい、横寺町の島村先生の芸術座といい、由来わが牛込は日本の新劇運動に非常に縁故の深い所だ。

矢来交番

芸術座 第一次は島村抱月(ほうげつ)、松井須磨子(すまこ)を中心とした芸術座。1913年(大正2年)、島村抱月松井須磨子とのスキャンダルがあり、坪内逍遥の文芸協会を脱退し、2人は相馬御風、水谷竹紫、沢田正二郎らと共に劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成。1918年(大正7年)11月、島村がインフルエンザ(スペイン風邪)で急死、2か月後には松井が後を追って自殺。芸術座は解散。
清風亭 この頃の清風亭は、赤城神社内ではなく、石切橋に新築しています。
ゴルキイ マクシム・ゴーリキー(Максим Горький)。ロシアの作家。生年は1868年3月28日(ユリウス暦3月16日)。享年は1936年6月18日。
夜の宿 劇は「どん底」と同じ。1902年作。帝制末期のモスクワの木賃宿に住むどん底の人々の生活を描きました。1910年(明治43)12月の自由劇場の公演名は「夜の宿」。1922年2月、1回だけ「どん底」に変更。1936年9月、新協劇団があらためて「どん底」と題し、 以後、その名で呼ばれることになります。
ルカ老人 「どん底」の登場人物ルカは60歳の巡礼者。途中から現れてどん底にいる住人たちを一人一人勇気づけ、未来への希望を願うといいます。
藁店 神楽坂通りに神楽坂五丁目の南に曲がる道を上に登る坂道のこと。標柱もあり、「この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた」と書いてあります。詳しくはここで
高等演芸館 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では「藁店わらだなに江戸期から和良わらだな亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設。
牛込館 藁店の中腹にあった映画館。以前は高等演芸館・東京俳優養成所。
藤沢浅二郎 ふじさわあさじろう。俳優、劇作家、ジャーナリスト。生年は慶応2年4月25日(グレゴリオ暦 1866年6月8日)。享年は1917年3月3日。
俳優学校 1908年(明治41年)11月11日、藤沢浅二郎は自費で牛込に東京俳優養成所を開設。1910年(明治43年)、東京俳優学校と改称、「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では「第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった」。詳しくはここで
余丁町 坪内逍遥が新劇活動を行った場所は余丁町7でした。「坪内逍遥旧居跡(文芸協会演劇研究所跡)」と書いた標識板もあります。
文芸協会 坪内逍遥、島村抱月を中心に結成された文化団体。新劇運動の母体になりました。
横寺町 新宿区の北東部の町。北部は神楽坂6丁目に接し、北東部は岩戸町、南東部は箪笥町、南部は北山伏町、西部は矢来町に接する。主に住宅地。

 矢来の通りは最近見違えるほどよくなった。神楽坂の繁華がいつか寺町の通りまで続いたが、やがてこの矢来の通りにまで延長して、更に江戸川の通りと連続すべき運命にあるように思われる。消防署附近に、矢来ビルディングなるハイカラな貸長屋が建ち、あたりも大変明るい感じになった。そしてカッフエその他の小飲食店も沢山軒を並べて、この辺はこの辺だけで又一廓の小盛り場をなすが如き観を呈しているが、ここまで来ると、その盛り場は最早純然たる早稲田の学生の領域である。私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲尾浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行くが、そののれんを外にくぐり出ると、真向の路地の入口にわが友水守亀之助君経営の人文会出版部標木が、闇にも白く浮出しているのが眼につくであろう。仰げば近く酒井邸前の矢来通りに、堂々たる新潮社の四層楼が、わが国現代文芸の興隆発達の功績の三分の一をその一身に背負っているとでもいいたげな様子に巍然ぎぜんとして空高く四方を圧し、経済雑誌界の権威たる天野博士の東洋経済新報社のビルディングが、やや離れて斜に之と相対しているが、やがてこの二大建築の中間に、丁度三角形の一角をなして、わが水守君の人文会の高層建築のそびえ立たん日のあるべきを期待することは甚だ愉快である。

矢来の通り 早稲田通りのうち牛込天神町交差点から矢来町の終わるまでの通り。
寺町の通り 早稲田通りのうち神楽坂6丁目(以前は通寺町)に入る通り。
江戸川の通り 牛込天神町交差点から江戸川橋交差点までの通り。現在は「江戸川橋通り」、あるいは「奥神楽坂」。ここには明治・大正の呼び方を書いておきます。
神楽坂・矢来・江戸川 消防署 矢来町104にありました。現在は「高齢者福祉施設 神楽坂」です。
矢来ビル… 場所は不明
ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。丈の高い襟という意味の英語「high collar(ハイカラー)」に由来します。明治時代に、西洋帰りの人や西洋の文化や服装を好む人が、ハイカラーのワイシャツを着ていたことから。
一廓 いっかく。一郭。一廓。一つの囲いの中の地域。あるひと続きの地域
学生の領域 戦前、早稲田大学は神楽坂に大きな力を持っていました。しかし、戦後になると、多くの早稲田学生は高田馬場や新宿に流れていきます。
ダヌンチオ ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio)。イタリアの詩人、作家、劇作家。生年は1863年3月12日。享年は1938年3月1日。
フランチェスカ 戯曲Francesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)は劇作家ダンヌンツィオの作品。ほかにはLa Città morta(死都、1898年)など。
冬夏社 日本橋区本銀町2丁目8番地にありました。
書肆 書物を出版したり、また、売ったりする店。書店。本屋。江戸期初め民間で出版活動がはじまってから明治初期までは、板元はんもと(版元、書肆しょし、本屋)が編集から製作、卸、小売、古書の売買を一手におこなっていました。
鷲尾浩 早稲田大学文学士でした。冬夏社を営んだため、自宅は冬夏社の住所と同じ。鷲尾浩氏の翻訳は『マーテルリンク全集』以外は、ほぼ性愛、性欲、色情に関するものばかり。『性愛の技巧』『性欲研究名著文庫』『風俗問題』『性慾生活』『色情表徴』『男と女』『恋愛発達史の新研究』『人間の性的撰択』『純潔の職能と性的抑制』『性的感覺』『性的道徳と結婚』『姙娠の心的状態』『愛と苦痛』『性教育と性愛の価値』『売淫と花柳病』。
江戸屋 尾崎一雄氏の『学生物語』(1953年)の「神楽坂矢来の辺り」には「矢来通リの、新潮社へ曲る角の曲ひ角を少し坂寄りの辺に、江戸屋といふおでん屋があった。鷲尾(のちに雨工)氏夫妻が経営してゐた。」と書いてあります。正確な場所は牛込区矢来町22番地です。
白鷹 はくたか。灘の酒です。関東総代理店は神楽坂近くの升本酒店でした。
水守亀之助 みずもりかめのすけ。大阪の医専を中退して、1907年、田山花袋に入門。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社し、『新潮』編集部に。編集者の傍ら、『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏といわれました。生年は1886年6月22日。没年は1958年12月15日。享年は72歳。
人文会出版部 国会図書館で調べると、人文会出版部の以前の住所は矢来町3番目。この3番目は大きすぎて、わかりません。しかし、新規の番号に再制定され、新しい番号は矢来町66番地でした。この図(火災保険特殊地図、昭和12年)では階段から上に登ったところが66番です。下の図では現在の66番ですが、ちょうど新潮社のLa Kaguの大きなテラスだけになっています。 人文会
標木 ひょうぼく。目印にする木
酒井邸 江戸時代は小浜藩酒井家。明治時代は酒井邸になります。
新潮社 昭和12年の「火災保険特殊地図」によれば、この当時の新潮社は矢来町71番地だけでした。(現在は膨大な場所です)。しかし下の図では下の青い四角。
巍然 ぎぜん。高くそびえ立つさま。抜きんでて偉大な様子。
天野 天野為之(あまの ためゆき)。明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任。生年は1861年2月6日(万延元年12月27日)。享年は 1938年(昭和13年)3月26日。
東洋経済新報社 1895年に創立し、『週刊東洋経済』や『会社四季報』などを手がけました。1907年から1931年までは牛込区天神町6番地に社屋がありました。下図では左上の青い四角です。中央の青い四角は人文会出版部、下の青い四角は新潮社です。

新潮社など

牛込区全図、昭和5年

 江戸川通りの発展こそは、わが牛込においては殆ど驚異的である。早稲田線の電車が来ない以前は、低湿穢小なる一細民窟に過ぎなかったが、交通機関の発展は、今やその地を神楽坂に次ぐの繁華な商店街となし、毎晩夜店が立って、その賑かさはむしろ神楽坂をしのぐの概がある。矢来交番前に立って、正面遠く久世山あたりまで一眸いちぼうに見渡した夜の光景も眼ざむるばかりに明るく活気に充ちているが、音羽護国寺前からここまで一直線に来るべき電車の開通も間があるまじくそれが完通の暁には、更に面目を一新して一層の繁華を増すことであろう。

低湿穢小 土地は低く、湿気は多く、きたなく、小さい
細民窟 貧しい人たちが集まり住んでいる地域。貧民窟
久世山 くぜやま。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では「八幡坂(はちまんざか)は音羽一丁目と小日向二丁目の境界にあたる。この坂の上は通称久世山とよぶ。小日向の高台で、江戸時代は下総国関宿の藩主久世氏の広大な下屋敷があったので久世山の名が起った」。久世山は小日向台地の1部です。
音羽護国寺前 最北部は交差点「護国寺前」。目白通りから南方に向かってくると音羽になります。
電車 都電(市電)のことで、「矢来下」停留場まで来ていました。
あるまじく あってはならない。
繁華 人が多く集まってにぎやかなこと

 それにつけて思い出されるのは江戸川の桜衰微である。これは東京名所の一つがほろびたものとして、何といっても惜しいことである。あの川をはさんだ両側の夜桜の風情の如き外には一寸見られぬものであったが、墨堤ぼくていの桜が往年の大洪水以来次第に枯れ衰えたと同様に、ここもまた洪水の犠牲となったものか、あの川の改修工事以来駄目になってしまった。その代りというわけでもないが、数年前に江戸川公園が出来て、児童の遊園地としてのみならず、早稲田や目白あたりの学生の好個の遊歩地としていつも賑っている。時節柄関口の滝の下の緑蔭下に、小舟にさおし遊ぶ者もかなり多いが、あれが江戸川橋からずっと下流の方まで、両側の葉桜の下の流れを埋めて入り乱れ続いていた一頃の如き賑いは見られないようだ。行く川の流れは元のままにしてしかも元の水にあらずか?

江戸川の桜 文京区の「江戸川公園」では次のようになっています。

明治17年(1884年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜の木を植えました。それがもとで、石切橋から大曲まで、約500メートルの両岸にソメイヨシノなどの桜が多いときで241本あり、新小金井といわれ夜桜見物の船も出て賑わっていました。その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られました。江戸川公園から上流の神田川沿いには、河川改修に伴い、昭和58年(1983年)に新たに桜の木が植えられ、現在では開花の時期になると多くの花見客で賑わっています。

衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退
墨堤 隅田川の土手
江戸川公園 関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園

江戸川公園

関口の滝 神田上水は、関口大洗堰で左右に分かれ、左側は上水、右側は余水の江戸川となり、関口から飯田橋までは江戸川、飯田橋から浅草橋までは神田川と呼びました。1965年(昭和40年)の法改正で、両川とも神田川に。『江戸名所図会』ではこの大洗堰は「目白下大洗堰」として紹介されています。1937年(昭和12)、改修時、大洗堰はなくなり、跡には大滝橋が架けられています。
緑蔭 木の青葉が茂ってできるひかげ。こかげ。季語は夏
葉桜 花が散って、若葉の出はじめた桜。季語は夏

夜の矢來|武田仰天子

文学と神楽坂

夜の矢來(やらい)

武田仰天子

「文芸界」 明治35年9月定期増刊号

夜の矢來  (きみ)何方(どちら)ですと(ひと)()はれて、()(やい)ですと答へると、その問うた人が()の句には、矢來は(ひろ)(ところ)ですねえと必ず言ふ、されど()のみ廣い處ではないのです。たゞ本鄕の西片(にしかた)(まち)と同樣で、一()番地の中は中々廣い、家数(やかず)の百餘戸(よこ)もある番地があります。()いては、何番何番地(あざ)何第何十何(がう)と言つたやうな鹽梅(あんばい)に、番地の下に字、字の下に號と、(すこぶ)(わづら)はしく小區分が()てあります。()う區別を()て置かなければ、家の所在が容易に分らないからです。故に始めて我が矢來へ來る人が、外町(ほかまち)の心得で、ただ番地だけ聞いて來た日には、さあ分らない、兩側に(うゑ)(つら)ねられた杉垣根の間を、彼方(あちら)(まは)り、此方(こちら)へ囘り、同じ所へ何度となく返つて來て、つまり指す家を()()()さないで帰つて(しま)ひます。よしまた號までを聞いて來たに()ても、その號がさ、次第好く順々に付いてない處があるのですから、やはり、多少迷付(まごつ)かなければなりません、また迷付(まごつ)くのが規則のやうになつて居るので、(たと)へば始めて訪れて來た人があると、その訪れられた家の者から一番最初に言出(いひだ)す御挨拶が、あなた()く分りましたねえと()うです。呆れ返つたものでせう。()く分つたと言つて不思議がるのですもの。それもさうです。大抵の來人は、二度目でもまだ迷付(まごつ)くので、まづ三四度目から、同じ杉垣根の中だけれど、あの家の筋向うには井戸があったとか、(くるま)宿(やど)から左へ取つて右へ曲つて(つき)(あた)たつて右側だとか、何か思い出して()(じるし)にするやうになりますからどうやら()うやら、折好(をりよ)行逢(いきあ)つた酒屋の小僧に問う世話(せわ)もなく、思ふ家へ行けると言ふもので、ですから()んな人達が、同じ道を何度も()(めぐ)つた足數(あしかず)(のべ)勘定(かんじやう)()て、大層歩いた、矢來は廣い、と()う思ふのですが、なあに、(たか)若州(じやくしう)()(ばま)洒井(さかゐ)家の(やしき)(あと)ですもの、廣さが幾許(いくら)あるもんですか。猫の額ほどの狹い土地です。それゆゑ別に夜の矢來と題を置いて、(こと)(ごと)しく書立てるほどの亊はないのです。ざつと書いて見やうなら、晝間(ひるま)でもこの通りに分り()ねる土地だから、夜始めて來た人は、(まる)八幡の籔へ入ッたやうなものだ、(くらゐ)でも()む事で、一向(つま)りませんけれど、その詰らないのを話の種に、六年(かり)(ずまひ)の矢來通をば、一番揮舞(ふりま)はして見ませうよ。(しか)無論(むろん)夜の分だけ。

左のみ そうむやみに、たいして
西片町 東京都文京区の町名。東京大学が近隣にあり、多数の学者や文化人が住んだため、学者町として知られる。関東大震災や第二次世界大戦の被害はなく、明治時代の雰囲気を残している。
車宿 車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。
若州小浜藩 若州とは若狭の異称。江戸時代、若狭わかさ遠敷おにゅう郡小浜(現、福井県小浜市)に藩庁をおいた。1871年(明治4)の廃藩置県で小浜県となり、敦賀県、81年福井県に編入
八幡の籔 八幡の藪知らずは、千葉県市川市八幡にある森の通称。古くから「禁足地」(入ってはならない場所)とされており、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である。

さて矢來の(うち)にも、軒並(のきなみ)商家(あきんど)のある所もあります。されど場末の(さび)れ町で、電燈や瓦斯(がす)燈といふ物は更になく、店の灯光(あかり)洋燈(らんぷ)持切(もちき)つて居て、そして(ひと)(どほ)りと言つても、早稲田邊から神樂阪の夜店へ行く人位の事で、詰らないのを話の種にするとは言いながら、(あま)り詰らなさ過ぎますから、所謂八幡の藪の(やしき)町の事だけを…それも街燈ちらほらの()暗い所ですから、目に見る物は()して、ただ耳に聞く物だけを選抜(よりぬ)いて(かゝ)げませう。聞く物は、下町とは樣子の(ことな)つた物がある上に、見る物が少くつて、自ら聞く事に(せん)一ですから、種々の音色が耳に()るのです。
(らい)  樹木(じゆもく)の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。夜の矢來町を夜籟町と書換へた方が適當(てきたう)でせう。何しろ栗や杉の喬木(げうぼく)が夜風を受けで、ざァーざッと騒ぐ樣は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。どうしても山居(さんきよ)心地(こゝち)がするので、(よく)には流水の(ひゞき)があつたらと、餅の皮を()きたくなる(くらゐ)です。
かと思うと、また野趣(やしゆ) (おぼ)しで夜の矢来2
(むし)()  は自慢です。秋の夕暮になると、垣根や()の下や草の中、何所(どこ)と限つた事はなく、種々樣樣の蟲が鳴出します。それが夜に入って露(しげ)なるに從ひ、次第に()()へて來て、何時(いつ)までも止間(やみま)がなく、東の空が(しら)むまで鳴通します。或は枕を(そばた)て、或は窓を()して、深夜にこの蟲の音を聞く(あぢはひ)といったら、(じつ)(なん)とも()へません。落月(らくげつ)微茫(びばう)の時はなほ()し、(やみ)()もまた惡くはない。下町の狹い軒端(のきば)で、(かご)に飼はれて居る蟲の音を聞くのとは、あはれさが違ひます。
蛙聲(あせい)  夏の()(どぶ)の中で蛙が鳴立てます。眞の田甫(たんぼ)の蛙聲と來ては、(やかま)しくつてなりませんが、山川の水がないやうに山の(どぶ)で水がないから、蛙も澤山(たくさん)には居ないです。()いては丁度()(ほど)に鳴きますから、(この)んで聞く氣にもなるので、(これ)はまた田舍(でんしや)心持(こゝろも)()ます。
鶏聲(けいせい)   (これ)もやはり田舍(でんしゃ)の趣味があつて、朝の三四時頃になると、遠近(をちこち)で鳴く一番(どり)、寝坊の私も(たま)には聞く事がありますが、何となく(いさ)ましいものです。

軒並 並んでいる家の一軒一軒。家ごと。「刑事が軒並に聞いてまわる」
 風が物にあたって発する音。
喬木 きょうぼく。 高木(こうぼく)と同じ。反対は低木=灌木(かんぼく)
 ほしがる気持ち。
野趣 自然のおもむき。また、田舎らしい素朴な味わい
 有り余るほど多い。ゆたか
 湿の旧字体。しめる。しめりけ
落月微茫 沈もうとする月はかすかでぼんやりしている
田舎 発音はこの時は「でんしゃ」。現在は「いなか」

()う數え立てゝ見ると、全く山村の趣味のみのやうですが、場末にも()ろ、(みやこ)(うち)には相違(さうゐ)ないだけに、鳴物(なりもの)も聞こえます。けれど下町から()ると、(おのづ)と野暮で、また自と(いや)しくはありません。
雅樂(ががく)  其筋(そのすぢ)樂人(がくじん)(すま)つて居て、自分でも練習を()家人(かじん)に教へても居ます。(あるひ)(くわん)()り、或は(げん)(かきなら)す時など、聞いて心が()むやうです。(しか)しトラヽタリラの()暗誦(あんしよう)は、耳に(はい)ると肩が()ります。
薩摩(さつま)())  是は師匠の家があつて、書生(れん)が夜稽古にも行き、稽古(がへ)りに琵琶(うた)を唄つても通り、また矢來倶樂部に折々琵琶會がありまして、江戸(まへ)意氣(いき)な歌は聞かれない代りに、この勇壯(いうさう)音曲(おんきよく)幾許(いくら)でも聞けるのですが、また聞くに()へたものです。
〇琴  垣根を(へだ)(やぶ)を隔てゝ、蘭燈(らんとう)の光の()れる(あた)り、(しづか)にして(さはや)かな琴の()が聞える時は、どんな(うる)はしい令嬢だらうと、自然その(ぬし)(しの)ばれます。實際逢つて見たら二度(びつく)で、(あら)(がほ)の、(ちゞ)れつ()の、(ふと)つてうの娘かも知れませんけれど、不思議に美人のやうに(おも)はするのは髙尚(かうしやう)な音色の(とく)でせうか。
謠曲(ようきよく)  一(たん)の流行が今に(すた)らないで、夜中(やちう)()小路(こうぢ)を散歩して見ても、(うたひ)(こゑ)の聞えない所はない位です。(なか)には聞くに()るのもありますけれど、大方(おほかた)は初心の下手(へた)(ぼへ)官吏(くわんり)會社員(くわいしやゐん)(おも)てすが、中に(なに)學士ともあらう人が、泣聲(なにごゑ)棒讀(ぼうよみ)()ては、(おん)(いたは)しや、あれでも大學出の先生かと、肩書の貫目(くわんめ)が疑はれます。(もとよ)り學者は(ただ)でも覺えは好いという理屈はありませんけれど、(ある)()(つたな)いと、總體(そうたい)を拙く見せるのは事實ですから、()した方が無難(ぶなん)で、もし執心(しうしん)なら、晝間(ひるま)世間の(さわ)がしい(うち)()つて(もら)ひたいものです。(さひは)此邊(このへん)では、下手(へた)義太(ぎた)を聞かされる(うれひ)だけはありませんが、この(うたひ)では()てられます。
(そう)々しい足音(あしおと)  毎日曜(まいにちえう)()、寄席の打出(はね)とも謂ふやうな大勢の足音が、丁度寄席の打出の刻限(こくげん)に聞えます。それは耶蘇(やそ)の教會堂から歸る人々ですが、土地に慣れない(あひだ)(あや)しまれました。(ちなみ)に言ひますが、この矢來町には、古來、佛寺(ぶつじ)という物はないのです。たゞ庵室(あんしつ)さへ、地蔵堂さへないほどの狹い土地に、新輸入の耶蘇曾堂のあるのが(めう)です。それにまた墓地のあるのがなほ妙です。併しその墓地は共有ではなく、今は同町全體の地主酒井家の專有(せんいう)で、何々院殿何々(だい)居士(こじ)(おほ)石碑(せきひ)が並んで居て、(かまへ)は極く(ちいさ)いけれど、樹木(じゆもく)(しん)々と(しげ)つてゐますから、女子供は、その傍を夜通るのを嫌ひます。
〇時の鐘  目白とは近く互に向合(むきあ)つた高臺(たかだい)ですから、彼所(あすこ)のが聞えるのは言ふまでもありませんけれど、夜が()けると、上野のゝも淺草のも聞えます。そしてもう一つ遠くつて大きい時の鐘、芝のだらうと思はれるのが聞えますが、これはまだ(しか)とは突止(つきと)めません。

鳴物 一般的には打楽器を中心とした楽器一般
 管楽器。横笛などの笛類
 弦楽器。琵琶・琴などの(いと)
薩摩琵琶 晴眼者が書き起こしたもの
蘭燈 美しい灯籠。美しいともしび
謠曲 ようきょく。能の詞章だけを謡う芸事。役者の動き・囃子・間狂言は除外し、詞章全体を一人で謡う。謡(うたい)。
貫目 かんめ。身に備わった威厳。貫禄
打出 うちだし、はね。芝居や相撲などの終りに太鼓をどんどん打って観客を追ひ出すこと。
耶蘇 イエス・キリスト。イエス(Jesus)の近代中国音訳語は「耶蘇」。日本では広くキリスト教やキリスト教徒の意味で用いられた。
庵室 僧、尼、隠遁者の質素な住まい。いおり

〇汽車の(ひゞき)  甲武の市内線と赤羽線とのが、夜はことに手に取るやうに聞えます。
〇汽船の汽笛  この事は人には(ちよつ)と信じませんけれど、私は以前築地に(すま)つて居て、聞覚えがあるから分るのですが、東風(こち)の吹く()は、大川から芝浦へ出入する汽船の汽笛が、びっびっびーと鮮やかに聞こえます。
賣聲(うりごゑ)  (もとよ)り賣れる場所ではありませんから、毎晩(きま)つて呼賣(よびうり)に來る商人(あきんど)はありません。不圖(ふと)すると、花林糖(くわりんたう)()が來る位の事。過日(いつか)でしたか、どう途惑(とまど)つてか、大層美聲(びせい)の辻(うら)(うり)が、淡路しま通ふ千鳥(ちどり)(なが)して來た事がありましたけれど、果して賣れなかつた爲か、たゞ一()(ぎり)でした。
杜鵑(ほとゞぎす)  たゞ一度(ぎり)、思ひ出したんですが、六年以来たゞ一(こゑ)、月夜の杜鵑を聞きました。この(へん)は、昔は()く鳴渡つたところださうですのに。
門附(かどづけ)  (これ)賣聲(うりごゑ)と同様で、(すま)ふ人が門附を呼止(よびと)める柄ではありませんから、(めつ)たに()つては來ませんけれど、(たま)義太夫(ぎだいう)新内(しんない)が…それも素通(すどほ)りの(なが)(ぞん)
按摩(あんま)  これは毎夜入りさうな土地で居て、やはり賣聲(うりごゑ)と同様で、笛の()(たま)により聞こえません。
(たき)(おと)  何分(なにぶん)巡査(じゆんさ)巡囘(じゆんくわい)の少い邊鄙(へんぴ)の事ですから、是は折々ある事で、おや、垣根で(へん)な音がすると思ふと、それ、往來(わうらい)の人が立止(たちどま)つて…
 あゝ、話が(した)()ちましたから、もうこの(へん)切上(きりあ)げせまう。

甲武の市内線 甲武鉄道は明治22年に開業した蒸気鉄道で、飯田町-中野間10.9キロの電化工事を起し、明治37年8月に完成した。
東風 東風(あゆ、こち、こちかぜ、とうふう、とんぷう、はるかぜ、ひがしかぜ)。東から吹いてくる風。
大川 通称で東京都を流れる隅田川の下流部
呼賣 行商人の一種。道々大きな声で客を呼びながら商う呼売がありました。江戸時代から都市で盛んになり、野菜や魚介類など少量の商品を扱っています。振売 (ふりうり) 、棒手振 (ぼてふり) とも呼び、大正期まで多くみられ、現在でも金魚売、豆腐売、焼芋売などが行商人。
花林糖 かりんとう。駄菓子の一種
門附 家の門口で雑芸(万歳・厄払い・人形回し・その他)を演じたり、経を読んで金品を乞う行為や人。
義太夫 義太夫節の略。浄瑠璃(三味線音楽における語り物の総称)の一流派
新内 しんないぶし。新内節。 浄瑠璃の一流派

文学と神楽坂

ヌエットと泉鏡花

文学と神楽坂

『婦系図』などの作者、泉鏡花氏は明治32(1899)年秋から明治36(1903)年2月、(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。

 泉鏡花氏が南榎町22に住んだ約50年後、詩人兼画家のノエル・ヌエット氏は、1952年(67歳)、()(らい)町の小さな家に住み、1961年(76歳)、フランスに戻るまで住んでいました。ヌエット氏は神楽坂の寺内公園で一部の人に有名な版画『神楽坂』を作っています。

 えっ、どこにつながりがあるの。実はこの二人の家、非常に近いのです。

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

 左の小さい22番は泉鏡花氏の家で、右の大きい12番はヌエット氏などの数軒がありました。

 南榎町22は江戸時代には「御先手同心大縄地」と呼ばれていました。ここで「(ご )(せん)(て )」とは先頭を進む軍隊、先陣、先鋒のことで、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤め、平時は江戸城の各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めました。「同心」は江戸幕府の下級役人のこと。「(おお)(なわ)(ち )」とは与力や同心などの拝領地のことで、敷地内の細かい区分ではなく一括して一区画の屋敷を与え、大縄は同役仲間で分けることで、その屋敷地を大縄地と呼びました。今の公務員団地。これを明治政府はまた細分化したので、この場所には小さな小さな家がたくさん建っています。

 一方、矢来町12は明治時代では「矢来町3番地 (あざ) 山里」と呼ばれました。「山里」は庭園の跡があるという意味ですが、実際には江戸時代にはこの場所では酒井家の武士が住んでいました。



ノエル・ヌエット|矢来町12

文学と神楽坂

 ヌエットノエル・ヌエット氏(Noël Nouët、1885年3月30日生まれ)は、フランス、ブルターニュ出身の詩人、画家、版画家で、40歳から75歳までの約36年間、日本でフランス語教師として諸学校で教えました。戦後になって、1952年(67歳)、牛込に小さな家を買い、教師の傍ら執筆活動を行っています。1961年(76歳)、フランスに戻り、1969年10月2日(85歳)、死亡しました。氏は神楽坂5丁目の寺内公園の説明で『神楽坂』という版画を描いています。

 Nouëtのtは多くは無音なので、フランス語で本来は「ヌエ」と読みます。実際に与謝野寛氏は、フランスで覚えてきたそのままで「ヌエ」を使っています。
 英語には「ヌエト」「ヌエット」などの発音があり、日本でも英語風になすと「ヌエト」「ヌエット」になります。さらに「ヌエ」には妖怪「鵺」の言葉があります。与謝野寛から12年後、フランス語教授兼友人の西條八十氏や木下杢太郎氏は「ヌエト」しか使っていません。
 日本に行くとそれが「ヌエット」となります。

 ヌエット氏は矢来町12に住んでいました。これは昭和22年の地図です。どこでもある普通の町でした。また左上は現在の地図で、同じ矢来町12に10軒内外が住んでいます。この地域のうち、ヌエット氏の家もあったはずです。

昭和22年の矢来町12。左上は現在。



蒲団|田山花袋

文学と神楽坂

田山花袋 明治40年(1907年)、田山花袋氏が書いた『蒲団』の1節です。

『蒲団』は口語体、文言一致体で書かれています。こんな重大ではない、なんでもない話で、セックスをしたいけれどできないという話で、本当に当時の人は大変だったなあと思いました。

 ちなみに今から60年も前、正宗白鳥氏は『文壇50年』を書き、そのなかでこう書いています。なるほど。

蒲団」は、清新な作品として敬意を持って読まれるよりも、嘲笑冷罵されるにふさわしいものであったが、それでもそれが、文学史上画期的の作品となったのだ。私はこのごろ回顧して特にそう思うようになった。
 何でもないような事が、フランス革命の動機となった。日本の文学も何とかしなければならぬという気運が漠然と起こりかけているとこへ「蒲団」がその気運に火をつける事になったのである。今読むと「こんな小説が何だ」と思われるような、つまらない小説であるが、このつまらない小説の巻き起した1つの傾向が、綿々と盡くるところなき有様である。

 では本文で神楽坂について書いている場所にいきましょう。

 夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来酒井の森にはからすの声がやかましく聞える。どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘の白い顔も見える。ボールを投げている少年もある。官吏らしい鰌髭どじょうひげの紳士が庇髪ひさしがみの若い細君をれて、神楽坂かぐらざかに散歩に出懸けるのにも幾組か邂逅でっくわした。時雄は激昂げっこうした心と泥酔した身体とにはげしく漂わされて、四辺あたりに見ゆるものが皆な別の世界のもののように思われた。両側の家も動くよう、地も脚の下に陥るよう、天も頭の上におおかぶさるように感じた。元からさ程強い酒量でないのに、無闇むやみにぐいぐいとあおったので、一時に酔が発したのであろう。ふと露西亜ロシア賤民せんみんの酒に酔って路傍に倒れて寝ているのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだからえらい、惑溺わくできするならあくまで惑溺せんければ駄目だと言ったことを思いだした。馬鹿な! 恋に師弟の別があって堪るものかと口へ出して言った。

矢来 矢来町です。江戸時代は小浜藩酒井家の牛込矢来やらい屋敷とよぶ下屋敷がありました。明治になって矢来町ができました。矢来屋敷は大きな場所を占めていました。
酒井 小浜藩酒井(さかい)家のこと
鰌髭 伸びた薄い口ひげ
庇髪 髪形の1つ、つめ物を入れて前髪を大きく膨らませ、ひさしのように前方へ突き出して結いました。日本髪よりも簡単に結うことができます。
激昂 身体は酔っているが、感情は逆に高ぶること
惑溺 夢中になって正常な判断ができなくなること。
 中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣ゆかたがぞろぞろと通る。煙草屋たばこやの前に若い細君が出ている。氷見世(こおりみせ)暖簾のれんが涼しそうに夕風になびく。時雄はこの夏の夜景をおぼろげに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅いみぞに落ちて膝頭ひざがしらをついたり、職工ていの男に、「酔漢奴よっぱらいめ! しっかり歩け!」とののしられたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞ひっそりとしていた。大きい古いけやきの樹と松の樹とが蔽い冠さって、左のすみ珊瑚樹さんごじゅの大きいのがしげっていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如いきなりその珊瑚樹の蔭に身をかくして、その根本の地上に身をよこたえた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬しっとの念にられながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。

中根坂 なかねざか。市谷加賀町と納戸町の境、大日本印刷会社の東を北または南に上がる坂道。中根坂は「左内坂町と加賀町1丁目の間に坂あり、中根坂といふ、以前坂の西側に旧幕府の旗本中根恵三郎の屋敷ありしかば、遂に坂名となる」(『新撰東京名所図会』)。場所はここ。

1857年と1849年の地図 江戸時代では北に上がる坂道(1849年)か南に上がる坂道(1857年)なのか、2つの考え方がありました。田山花袋の『蒲団』では南に上がる坂道だととらえています。区では北に上がる坂道だとしています。写真は北から南に見たもので、北に上がる坂道、逆に言うと南に下がる坂道です。中根坂道標では

(なか)()(ざか)  昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。


と書いてあります。いずれにしても、かつてはVの字のように下って、再び上がる急坂でした。それが現在のようにVの字はなくなり、最下部には橋が架かっています。一見では橋だとはわかりませんが、橋なのです。すべて区道です。
士官学校 江戸時代は名古屋藩徳川家の上屋敷でした。明治に入って陸軍士官学校になり、現在は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地になっています。1970年(昭和45年)11月25日、ここで三島事件が起こりました。日本の作家、三島由紀夫が自衛隊のクーデターを呼びかけ、割腹自殺をしました。
()(ない) 市谷左内町を市ケ谷見附の外濠通りから西北に上る急坂。場所はここ。坂名は「左内坂 市谷田町一丁目の濠端より左内坂町に上る坂あり、左内坂の名に呼ぶ。紫の一本云ふ。おなじく片町のうちなり、此所の名主島田左内といふ。坂の中に屋敷あり、此故に左内坂といふ」(『新撰東京名所図会』)。名主の島田左内氏から左内坂がでたようです。
 この島田左内重次は寛永3年(1626)に外堀端の田地を埋め立てて、市谷田町各町(1丁目から四丁目)に割り、同時に坂上にも町屋をつくり、初めは市谷坂町、後に市谷左内坂町と呼ばれるようになりました。1月3日には江戸城に登城して、年頭御礼の儀に参上しました。明治に至るまで市谷田町、同船河原町、左内坂町、寺町、牛込揚場町の五ヵ町の名主でした。
氷見世 かき氷を食べさせる店
右に折れて 左内坂上の南側に市谷八幡宮の裏参道があります。今では駿台の入口として使っていますが、裏を通り、佐内坂から市谷八幡宮に行く参道があります。下の左側の写真は駿台予備校が見えますが、本来は裏参道です。右側の写真を行くと裏参道です。
八幡宮
入口3
市ヶ谷八幡 市谷亀岡八幡宮です。下からだとすごく高い所にあると思いますが、でも小さいのでびっくりします。八幡宮
常夜燈 一晩中つけておく明かりのこと。街灯として街道の道しるべとして設置するものが多いようです。
珊瑚樹 サンゴジュ。スイカズラ科の常緑高木。庭木になります。千葉県以西まで野生します。市谷亀岡八幡宮で取った写真です。さんごじゅ

色川武大|矢来町

文学と神楽坂

 小説家、色川(いろかわ)武大(ぶだい)(あるいは麻雀作家、阿佐田(あさだ)哲也(てつや)、本名は色川武大(たけひろ))。生まれは1929(昭和4)年3月28日。逝去は1989(平成元)年4月10日。ここ矢来町で生まれ大きくなりました。
 本人の『寄せ書き帖』によれば

 私が生まれ育った牛込矢来町というところは、戦前の典型的住宅地であると同時に、色街の神楽坂に近かったせいか、昔、芸人さんがたくさん住んでいた。
 私の生家の隣ぐらいが曲独楽の三升紋弥(先代)一家で、横町ひとつ先が昔々亭桃太郎、後年、花島三郎、松旭斎スミエ夫妻が住んでいた家がある。ここいらには小桜京子も居て、ずっと以前に桃太郎グループに属して寄席に出ていたことがあるが、おシャマなかわいい娘だった。
 戦時中には左ト全が松葉杖をついて瓢々と歩いていたし、柳家金語楼も町内に大きな邸があった。柱三木助が居て、坂下には春風亭柳橋が居て、反対側の市ヶ谷寄りには現三遊亭小円馬がガキ大将で居た。ちなみに私たちは小円馬を森山さんのお兄さんと呼んでいた。現三升紋弥は細野さんのお兄さんである。

 以下は『生家へ』からの引用です。

 私は生家でうまれて生家で育った。それはもちろんだが、生家そのものがただの一度も、焼失も移転もしなかったから、私は三十八歳になるまで、ひとつ家に、ひとつ土地に居たことになる。日本人というようないいかたは、身体に訊いてみてぴんとした反応は返ってこないけれど、牛込の矢来町八〇という名称は、私にとって特別な響きをもっている。

 生家と隣り合って一軒の家作があった。二軒合わせてほぼ正方形の角地だったが、家作はその東北部の四分の1を占めていた。いずれも平家である。
 何代か住み手は変ったが、戦争がはじまってから、Tさん一家が来て、以降ずっと住みついた。未亡人の婆さんと、もう1人前に育った子供たちの1家だった。

 では牛込の矢来町80番はここです。左側は昭和15年の図、右側は現代の地図です。

矢来町の地図。色川武大氏

 また色川武大氏にはナルコレプシーという病気があります。『風と()とけむりたち』で

 私は“ナルコレプシー”という奇妙な持病があって、これは一言でいうと睡眠(すいみん)のリズムが(くる)ってしまう病気である。私の場合、持続睡眠が二三時間しかとれず、そのかわり1日に何度も暴力的な睡眠発作に(おそ)われる。生命を失なう危険はないようだが、疲労感(ひろうかん)が常人の四倍といわれ、集中力を欠き、また症状(しょうじょう)の1つとして幻視(げんし)幻覚(げんかく)を見る。なぜそうなるかまだ原因がわからない。しかし医者にいわせると、発病期はおおむね十(さい)前後だという。

 もうひとつ。『寄席放浪記』「ショボショボの小柳枝」の1節で「私は駄目な男だから」と書いてあります。「駄目な男だから」時間通りに起きられない、大変なことろで猛烈な眠気で眠ってしまう。これが10代に起こるので、次第次第にソフトで本人は物腰が柔らかくなってきます。色川武大氏も物腰は柔らかくなっていました。ぎすぎすしていたり、神経質になるのはナルコレプシーではないと考えてもいいでしょう。

柳家金語楼|矢来町

文学と神楽坂

 柳家金語楼(きんごろう)は、生まれは1901(明治34)年2月28日、本名は山下(やました)敬太郎(けいたろうで、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人でありました。戦前の吉本興業では最高給取りでした。戦時中になると、上からの圧力で落語家を廃業し、喜劇俳優になり、1940年、金語楼劇団を旗揚げします。戦後では、1953~68年のNHKテレビ『ジェスチャー』で白組キャプテン、1956年、TBSテレビとテレビ朝日『おトラさん』で主役。1968年、日本喜劇人協会会長に就任し、1972(昭和47)年10月22日、死去します。

 さて戦前に住んでいたところが矢来町です。山下武氏の『父・柳家金語楼』によれば

 四谷から牛込へ越すことになった原因が変わっています。吉本興業から借金して車を買うことになったものの、それまで住んでいた四谷伝馬町の家では車が置けません。そこでガレージを作れるほど庭の広い借家をさがした結果、牛込の矢来町に大きな古い借家を見つけたのでした。人間が住むほうは屋根さえあればどうでもよく、車を置くために借りた家ですから、こういうところにも享楽的な父の性格がのぞけます。凝り性といえばそうともいえますけれども、もともと父にはマイ・ホーム主義など破片(かけら)もありません。また、そんな雰囲気に浸るほどの時間的余裕(ゆとり)もないのです。なにせ、当時の父は目が回るほどの忙しさでしたから。
 矢来町の家は三百坪ほどもあったでしょうか。ガレージを作ってもなお大きな庭が余るのはいいのですが、家が古く、しかも暗くて陰気なのです。建坪(たてつぼ)だけでも百坪以上はあったでしょう。古い邸で、一部が二階になっているほかはあらかた平屋です。この二階建ての部分はあとで継ぎ足したものらしく、俗に“おかぐら”といって家相がよくないのは父も知っていたはずですが、ガレージが欲しいばかりに急いで越してしまったのです。怪異とまではいかないにせよ、この家に怪しい影がついて回ったのもそのせいではなかったかと思います。

 なお、“おかぐら”とは「御神楽」で、平屋だったものを、あとから2階を継ぎ足したもので、一階と二階には別々に作り、通し柱はありません。

 金語楼社の住所は矢来町34番地でした。ここが自宅の住所だとすると、

金語楼の屋敷(矢来)

 色川武大氏の『寄席書き帖』によれば

 私の生家のある牛込矢来町では、金語楼は特別な意味あいで有名人だった。というのは彼の本宅が町内にあったから。刑務所のように背の高い黒板塀で囲まれた大邸宅で、私どもは学校の行き帰りに山下敬太郎という表札をみてはクスクス笑い合ったものだ。たしか息子さんが一級上ぐらいに居たと思う。
 そうして、彼の妾宅が、附近に点在しているのを町の人々は皆知っていた。そのころの噂によると、金語楼は妾宅では、明治の元勲のようにいかめしい顔つきで口もきかずに酒を呑んでいたという。(略)
 私が感心したのは、酒が手に入った夜に必ず現れる、ということだ。
 Yさんの所ばかりではなく、町内の誰彼のところにも現れるらしい。当時、酒は貴重品で、やたらに誰のところでもあるわけではなかった。あっても他人に呑ませる的交際があったわけではあるまい。金語楼なら突然入ってきても歓待するということだったのだろう。
 同級生からもこういう話をきいた。
「不思議なんだよ。今夜、二合あるとするだろ。誰も二合なんてしゃべらないのに、金語楼さんが来て、わァッと家じゅうをわかしてさ、二合が出たなッと思うと、すうっと元の顔に戻って、帰っていくんだ」
「呼んだわけでもないのに来るのかい」
「そうだよ。夕方、町をぶらついて気配を見てるんじゃないかい」
 実にどうも、偉い。空襲でどこもかしこも焼けて、むろん自分の家も焼けて、日本が負けるかどうかというときにお酒一筋に気を凝らして、狙い定めてすうッと入っていく。
 偉いともなんともいいようがない。兵隊落語や映画で感じていた俗な顔つきはあれは営業用のもので、本人は俗どころか、超俗的なものを持っている。

 昭和20年5月25日、東京最後の大空襲でこの家は灰になりました。

漱石と『硝子戸の中』20|矢来町

文学と神楽坂

      二十

この豆腐屋の隣に寄席よせが一軒あったのを、私は夢幻ゆめうつつのようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場ひとよせばのあろうはずがないというのが、私の記憶にかすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
 その席亭の主人あるじというのは、町内の鳶頭とびがしらで、時々目暗縞めくらじまの腹掛に赤いすじの入った印袢纏しるしばんてんを着て、突っかけ草履ぞうりか何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤おふじさんという娘があって、その人の容色きりょうがよくうちのものの口にのぼった事も、まだ私の記憶を離れずにいる。のちには養子を貰ったが、それが口髭くちひげやした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席よせもやめて、しもうたになっていたようであるが、私はそこのうちの軒先にまだ薄暗い看板がさむしそうにかかっていた頃、よく母から小遣こづかいを貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟なんりんとかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男のうちはどこにあったか知らないが、どの見当けんとうから歩いて来るにしても、道普請みちぶしんができて、家並いえなみそろった今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし 花魁おいらんえ、と云われてはしなんざますえとふり返る、途端とたんに切り込むやいばの光」という変な文句は、私がその時分南麟からおすわったのか、それともあとになって落語家はなしかのやる講釈師真似まねから覚えたのか、今では混雑してよく分らない。

人寄場 日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。
鳶頭 土木・建築工事に従事する人の長、かしらです。明治以降も消防職員の俗称として使われました。
目暗縞 経糸緯糸とも紺染めにした最も細かい綿糸で織った無地の木綿の織物です。
印袢纏 襟・背などに,家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から,職人などが着用しました。
めくらじまと半纏
突っかけ草履 草履を足の指先にひっかけるようにして無造作に履くこと。
しもうた屋 仕舞た屋 (シモタヤ)と同じ。商店でない、普通の家。
南麟 講釈師の田辺南麟
見当 大体の方向・方角
道普請 道路を直したり、建設したりすること。道路工事
家並 立ち並んでいる家。その並び方。家ごと。どの家もみな。軒並み。よその家と同じ程度。世間なみ。
もうし 申し申し。もうしもうし。人に呼びかける時に用いる語。もしもし。
花魁 吉原遊廓の遊女で最高妓。広く遊女一般を指して花魁ということもある。
八ツ橋 元禄年間(1688~1704)百姓次郎左衛門が吉原の花魁・八ツ橋を殺した事件があった。多くの講談や戯曲になった。岩波書店の漱石全集によれば、「野州(栃木県)佐野の百姓次郎左衛門が江戸吉原大兵庫屋の花魁ハツ橋を殺害した江戸享保頃の事件は、『佐野八ツ橋』と称されて多くの小説や戯曲に作られた。ここで述べられているのは、その話を講談に仕組んだもの。歌舞伎脚本『籠釣瓶(かごつるべ)花街(さとの)酔醒(ゑひざめ)』(三世河竹新七作。明治二十一年初演)が有名。」
講釈師 軍談や講談の講釈を職業とする人。講談師。軍談師。小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げること

当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠ちゃばたけとか、竹藪たけやぶとかまたは長い田圃路たんぼみちとかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂かぐらざかまで出る例になっていたので、そうした必要にらされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来やらいの坂あがって酒井様の見櫓みやぐらを通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森いんしんとして、大空が曇ったように始終しじゅう薄暗かった。

矢来の坂  もちろん、牛込天神町交差点から東に上がって南に牛込中央通りがでるまでの通りですが、ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では違ったことが書いてあります。

滝の坂(たきのさか) 早稲田通から榎町四〇と四一番の間を南に上る坂で、坂上東に浄土宗大願寺がある。現矢来町一帯は、江戸時代は小浜藩主酒井氏の邸地で、明治維新後に分譲されて住宅地帯となった。……矢来の坂というのは現早稲田通りのことではなく、この滝の坂のことであったといわれ、酒井邸がまだ分譲されない明治初年のこのあたりの情景であった。

 しかし、子供の漱石が「矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出よう」とする場合、滝の坂だとすると方向は全く違います。やはり矢来の坂というのは現早稲田通り、交差点「牛込天神町」の坂のことでしょう。これから上に行って酒井様の火の見櫓を通るのでしょう。
矢来町 歴史 江戸時代
交差点「牛込天神町」
酒井様の火の見櫓 どこにあったのでしょうか。江戸時代の地図(上を見て下さい)を見ると、まず穴あき四角で書いたものは「自身番屋」です。自身番は町内警備と火の番を主な役割としています。火の見櫓もここに建てました。その後の文章で「町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった」を読んでも、ここ「自身番屋」でしかありません。自身番屋は末寺横丁と矢来下の交叉するところにありました。
寺町 「とおり寺町」と「横寺町」の2つをまとめて呼びます。ただし、通寺町を簡易にして寺町と書く場合もあったようです。自身番屋を越えると、まっすぐだと通寺町から神楽坂に行き、右に曲がると横寺町です。漱石の時代では通寺町ですが、今では通寺町は神楽坂6丁目に名前が変わっています。なお、自身番屋の左側は「矢来町」、右側は「通寺町」です。
五六町の一筋道 5町は545メートル、6町は655メートルです。交差点「牛込天神町」から真っ直ぐ行って曲がるまで、つまり音楽の友ホールの前で曲がるまで、約470メートルです。現在は早稲田通りの道幅は大きくなって、さんさんと太陽が照り、陰惨ではないでしょう。しかし、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)ではこう書いています。

酒井邸あたりは薄暗く、屋敷の横手には大樹のモミ並木があった。江戸市中では化け物が出るといわれた場所がたくさんあったか、特に矢来は有名で、「化け物を見たければ矢来のモミ並木へ行け」とまでいわれたほどである。
 明治になっても矢来は薄暗く、作家武田仰天子は、「夜の矢来」(「文芸界」、明治三十五年九月定期増刊号)につぎのように書いている。
 “樹木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換へた方が適当でせう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざァーざァと騒ぐ様は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。”

矢来町 漱石 現代

あの土手の上に二抱ふたかかえ三抱みかかえもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間すきま隙間をまた大きな竹藪でふさいでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄ひよりげたなどを穿いて出ようものなら、きっと非道ひどい目にあうにきまっていた。あすこの霜融しもどけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭にんでいる。
 そのくらい不便な所でも火事のおそれはあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子はしごが立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋いちぜんめしやもおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾なわのれんの隙間からあたたかそうな煮〆にしめにおいけむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮のもやけ込んで行くおもむきなども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かなという句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

HinomiYagura_06g4599sx日和下駄 もとは平足駄ひらあしだと呼んで、歯が低い足駄。晴天に使用された。
半鐘 火の見櫓ではよく見られる小型の釣り鐘。
一膳飯屋 一膳飯(盛り切りの飯)を食べさせる簡易食堂。
縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。なわのれん。店先に縄暖簾を下げたところから、居酒屋や一膳飯屋などのこと
煮〆 にしめ。煮染め。根菜・いも類・干ししいたけ・鶏肉・高野豆腐・こんにゃくなどに、しょうゆを主に砂糖・みりんなどで味つけした煮汁をしみ込ませ、煮汁の色がつくまで時間をかけて煮た、味の濃い煮物。おせちにも使う。
 おもむき。風情(ふぜい)のある様子
半鐘と並んで高き冬木哉 明治29年(1896)の作。

鏑木清方と矢来町

築地明石町

「築地明石町」の一部

文学と神楽坂

 鏑木(かぶらき)清方(きよかた)は生年は1878年(明治11年)8月31日、没年は1972年(昭和47年)3月2日で、死亡日は94歳でした。明治から昭和期の日本画家、兼浮世絵師でした。
 大正15年(48歳)からは矢来町に住み、昭和2年、最高の名作『築地明石町』で帝国美術院賞を受賞します。しかし、昭和20年(67歳)、空襲で家をなくし、鎌倉に移っていきます。
 さて矢来町の住所はどこにあったのでしょうか。鏑木清方自身が書いた『続こしかたの記』(中央公論美術出版)では

 この所在は神樂坂から(とほり)寺町(てらまち)を経て、道はやがて北へ下りて矢来下に續かうとするところに交番が立つ。矢来の交番は、この付近の目標になった。その一と小路手前を左へ折れると道はやがて小高く、その右側北下りの(がけ)上に立つのがわか家である。明治建築の洋風の應接室、それに續いた二階座敷が庭樹を越して通りから見られる。その建物とのつりあひはよく取れるが、私の住居としてはふさはしからぬ花崗(みかげ)石の大きい門柱が聳え立つので、わか家を訪ねる人の多くがこの石門を話題にした。台湾銀行理事久宗(ただす)の舊邸であって見れば無理はないが、どういふものか私は石の門柱に縁があって、それまで住んだ龍岡町の借家にも細いけれどやはり御影の石柱が立ってゐた。中外商業の記者外狩素心庵は矢来の家の門柱を気にして一文をかいたこともある。

 通寺町は神楽坂6丁目に変わりました。交番は現在も同じ場所にあります。
鏑木清方と矢来町崖

 その一つ前を曲がって、左側に行き、やがて崖になるところは赤で示しました。写真も出しています。
 地図の上から下に説明しているので、鏑木氏の住宅は道路の西側(左側)になります。崖の直上と書いていますので、地図上では現在の雨森歯科の「雨」の下にあるのでしょう。もしこの住宅が本当にそうだとすると、説明板をつけるとか、できなかったのでしょうか。(令和になってようやくができました。)なお、地図の下の「山里」とは当時使った(あざ)(市町村内を細分した区画の名)です。

矢来公園

文学と神楽坂

 矢来公園です。昭和44年に開園しました。

矢来公園全体像

 はいるとすぐに、リスの親子の像があり、その隣りに「小浜藩邸跡」と「杉田玄白生誕地」の記念碑があります。この碑は平成16年(2004年)、建立し、式典では酒井家19代目、玄白の6代目の子孫も出席しました。

杉田玄白の碑

 標柱には

小浜藩邸跡
杉田玄白生誕地
寄付者 小浜市 中島辰男
設置社 福井県 小浜市

 中島辰男氏は前福井県県立若狭歴史民俗資料館長です。


小浜藩邸跡
 若狭国(福井県)小浜藩主の酒井忠勝が、寛永5年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられました。
 もと屋敷内には、小堀遠州作になる庭園があり、蘭学者として著名な杉田玄白先生もこの屋敷内で生まれました。

 公園には子供の遊ぶ「砂遊び」の場所も決まっています。犬や鶏の糞が入らないよう(これはいいのですが)小さな小さな小さな小さな砂場です。

砂場

 また、「雨水(うすい)貯留(ちょりゅう)浸透(しんとう)施設」もあります。

雨水貯留

枡

酒井家矢来屋敷|矢来町

文学と神楽坂

 矢来町については別に書き、ここでは矢来屋敷を書いています。寛永5年(1628)、徳川将軍家より小浜藩酒井家は牛込矢来屋敷を拝領しました。

小浜藩 若狭わかさ)国(福井県)遠敷おにゅう郡小浜に置いた藩。

小浜藩

 安政4年(1857)から幕末までの矢来屋敷は下図の通りでした。北側が上です。この時代、小浜藩の上屋敷(右下の御上屋敷)としも屋敷(それ以外)が接近して建っています。黄色で書いた場所は御殿表向(おもてむき)(政務や公式行事を行う場所)、赤は奥向(おくむき)(藩主の私的な場所)です。他の茶色で書いた場所は家臣や武士の長屋が多く、ほかにもいろいろなことを行いました(たとえば学問所)。
矢来屋敷

 この図は新宿歴史博物館の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』(2010年)を参考にして作ったものです。博物館のものは無断転載ができませんので、この文書を参考にして新たに自分で作りました。間違いと思われる場所はなおしています。ダブルクリックするとpdfでも簡単に手に入ります。どうぞ使って下さい。

 また竹矢来も×で書きました。ただし、この「竹矢来」は37頁の「下屋敷図」(1697年)の竹矢来を拡大したものです。

竹矢来1

竹矢来

『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』31頁の「竹矢来図」(1837年)(↓)は、約140年も月日がたったため、全く普通の竹垣や門が描かれています。

竹矢来

竹矢来

新撰東京名所図会」では酒井家矢来屋敷について「藩邸の坂 三条あり、辻井の坂、鍋割坂、赤見の坂」があるといっています。この辻井つじいの坂、鍋割なべわり坂、赤見あかみの坂がどこにあるのか、その所在はわからなくなっています。

 中央やや右寄りで上下の道路は「牛込中央通り」とほとんど一緒です。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)では

 酒井邸の庭園は、築山山水式の優れたものであったが、戦後なくなった。旧庭園の様子は「名園五十種」にでている。

 この「名園五十種」は自宅のインターネットを使って国立図書館から無料で見ることができます。「酒井伯爵邸の庭」で123頁、コマ数で68になります。発行は1910年(明治43年)、編集は近藤正一氏です。ごく一部を紹介すると

 矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。
 弥生の朝の風軽く袂を吹く四月の七日、この園地の一覧を乞ふべく車を同邸に駆った。唯見る門内は一面の花で、わづかにその破風はふ作りの母屋の屋妻やづまが雲と靉靆たなびく桜の梢に見ゆる所は土佐の絵巻物にでも有りさうな樣で如何にも美い………(中略)
 如何にも心地の好い庭である。陽気な…晴れ晴れとした庭である。庭というものは樹木じゅもく鬱蒼うつさうとして深山しんざん幽谷いうこくの様を移すものとのみ考えている人には是非この庭を見せてやりたく思うた。

 では『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』に戻ります。

 酒井讃岐守忠勝が、三代将軍家光から牛込村に下屋敷を貰ったのは、寛永5年(1628)3月であった。周囲に土手を築き、表門の石垣から東の方42間(約83メートル)、西の方263間(約510メートル)を竹矢来にしていた。このため矢来町という町名の起りになった。これは寛永16年(1639)江戸城本丸の火災で、家光がこの下屋敷に難を避けた時に、まわりに竹矢来をつくり、御家人衆は抜身のやりをもって昼夜警護したことによるのである。
 それ以後酒井讃岐守忠勝は、これを永久に記念するために垣を造らず、塀を設けないで竹矢来にしたのである。その結び放した繩も、紫の紐、朱のふさ、やりとを交差した最初の名残りであるといわれ、江戸の名物の一つとなっていた。なお家光が、初めて酒井邸に立ち寄られたのは寛永12年8月22日で、以来数回訪問されたことがある。
 矢来町71番地あたり一帯は、明治末期まで、ひょうたん形の深くよどんだ池であった。これを「日下が池」とか「日足が池」とも書いて「ひたるがいけ」と読ませていた。長さが約108メートル、幅約36メートル、面積80坪(26.4アール)であった。池の周りには、沢桔梗、芦葦などが繁茂していた。これに長さ約12.メートルの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられたのである。

 いまではひたるが池は干上がり、池があったと分かりません。残るのは階段だけですが、確かに深くよどんだ池だったのでしょう。

ひたるが池

 明治になると、この巨大な酒井家の屋敷の敷地は縮小、南側だけになっていきます。最後の庭も戦後には日本興業銀行の社宅になり、統合のため、みずほ銀行社宅「矢来町ハイツ」になりました。コメントの指摘により、日本興業銀行の社宅になったのは昭和24年以前だと思えます。矢来町ハイツの門の場所には「造庭記念碑」が建っています。

造園碑

『名園五十種』にかかれた明治43年の酒井邸の庭園は遠州流で、武家茶道の代表です。茶室は江戸中期の書院造りで、幕末に水屋・手前席などを増築したものです。茶室は林丘亭として杉並区立柏の宮公園にあり、牛込屋敷が日本興行銀行の社宅となった時に当時の頭取がここに移築しました。名園1