合羽坂という坂道は、時代によって大きく違った坂でした。
まず『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では……
合羽坂ト唱申候右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候 |
[現代語訳]合羽坂と申します。この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などには獺が坂の近辺に出てくるので、風評通りに河童坂と呼び、その後、間違えて合羽坂と書いたということです。 |
横関英一氏の『続江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、昭和50年。中公文庫 昭和57年)の「市ヶ谷尾張屋敷に囲い込まれた六つの坂 」では……。(なお、図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年。下線は横関氏ではなく私です)
石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では
合羽坂(かっぱざか) 市谷本村町の自衛隊本部西わき、市谷仲之町の境を南へ下る坂で、坂下は靖国通りをまたぐ陸橋(曙橋)がかけられて四谷片町につらなっている。「新撰東京名所図会」は「合羽坂は四谷市谷片町の前より本村町に沿ふて仲之町に上る坂路をいふ。昔時此坂の東南は蓮池と称する大池あり。雨夜など獺しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思ひしより坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用ひ来りしといふ。」と記している。もとは谷間に下る急坂であったが、睦橋を架して道幅をひろげ、河童の伝説とはかけ離れた自動車道路となった。 |
また、芳賀善次郎著『新宿の散歩道』(三交社、昭和47年)では……
32、カッパの出る合羽坂 (市谷仲之町) 陸橋曙橋の手前右の坂を上る。この坂をカッパ坂という。住吉町低地は江戸時代には水田地帯で大小多くの池があった。その池に住むカッパ(漫画に出てくる空想の動物)がこの坂に出て夜の通行人を驚ろかすので力ッパ坂と名づけられ、あとで合羽の字をあてたのである。 しかし、これはカッパではなく、カワウソなのである。けろりとしてとぼけているカワウソから、架空のカッパが生み出されたのである。 江戸時代には、低湿地にはカワウソが多くいたらしく、今の新宿御苑の東を流れる渋谷川には、明治中期まで水車があったが、その水車付近で、明洽のはじめ、大きなカワウソがとれたという記録がある(四谷52参照)。 〔参考〕 御府内備考 新宿と伝説 |
戦前、大正~昭和では、合羽坂は大きな坂になります。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。
戦後、またまた位置が変わります。新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(新宿区教育委員会、昭和57年)によると、昭和56年は……
なんと、左の坂を「合羽坂」に入れています。左の坂は明治20年にはなかったのに。
歴史・文化のまちづくり研究会編の『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)では
現在の交差点を見ると、外苑東通りの交差点が「合羽坂」交差点、その右下の交差点が「合羽坂下」となっています。そして、「合羽坂」交差点と「合羽坂下」交差点をつなぐ坂が「合羽坂」です。
また、昭和58年3月、都は説明でこの合羽坂の頂上近くに、道標をたてています。下の図では元治元年(1864年)の「江戸切絵図」を紹介し、ここでは合羽坂は現在の合羽坂とほとんど同じ位置でした。
合羽坂
新撰東京名所図会によれば「合羽坂は四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思いしより坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。
昭和58年3月
東京都 |