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昭和10年代の神楽坂通り(写真)

文学と神楽坂

 昭和12年(1937年)、牛込三業会は「牛込華街読本」に「現在の神楽坂」という写真を提示しました。172頁です。新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」では、ID 1です。しかし、この写っている店の看板の多くは、聞き慣れないものです。

現在の神楽坂

 神楽坂1丁目があった昭和5年(「神楽坂と縁日市」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)では交差点「牛込見附」(現在の「神楽坂下」)から西に向かって「赤井足袋店、田中謄写堂、萩原傘店、山田屋文具、斉藤洋品店、みどりや、紀の善寿司」があったといいますが、この写真にはどこにもありません。大正11年ごろの「古老の記憶による関東大震災前の形」(神楽坂界隈の変遷、昭和45年新宿区教育委員会)でも「足袋・赤井、甘栗・堀内、提灯・萩原、山田屋文具、岩瀬糸店、甘味・紀の善」となり、「甘味・紀の善」を除くと、今ではありません。
 あとは昭和12年の都市製図社『火災保険特殊地図』だけです。

昭和12年。都市製図社『火災保険特殊地図』

 これでようやくわかりました。

  1. 「床ヤ」です。くるくる回る「サインポール」もあります。
  2. 「桃園」で、その上に「中華廣東料理」だと思える言葉があり、図の2も「支那料理」です。
  3. 松竹梅之酒蔵」。手軽な一杯飲み屋風でしょうか。ちなみに「紀の善」はここでは神楽小路にあって、この2つの関係は不明です。
  4.  現在の「神楽小路」です。
  5.  キッサ(喫茶)で、写真には「ローレ」という名前が見えます。
  6. 「和(不明)」。ある人によれば「和●淑女特価●」。図は多分「カスリヤ」か「カネリヤ」と読めます。
  7. 「タバコ」で、写真も同じで、震災前は棚橋たばこ店。
  8. 「瀧歯科医院」
  9.  写真では「寫眞撮」。「古老」では夏目写真館でした。
  10. 「浜野式」か「浅野式家」。店舗の何番目がそう見えるかは、わかりません
  11.  反対側に行き「須田町食堂」です。

 インターネットの「西村和夫の神楽坂」(東京理科大学理窓会埼玉支部)では

 戦後は消えてしまったが、坂下の「ブラジル・コーヒー」と「松竹梅酒蔵」の2軒はこれから神楽坂を漫遊しようという人がまず寄るところだった。席が空いていることは少なく、物理学校の生徒がノート整理に使っていた。「松竹梅酒蔵」は坂上の「官許どぶろく飯塚」と共に戦争中国民酒場として最後まで酒が飲めたところだ。戦後間もなくメトロ映画劇場ができたが、客の入りが芳しくなく廃めた。

 また「紀の善」はまだ神楽坂通りに顔を出ていなかったんだと思います。つまり、震災前の「古老の記憶」や昭和5年とは食い違いが目立ちます。ある人は「花街の人から聞き取ったんでしょうね。上宮比町も若宮町も、実に詳細です。それに比べて、坂下の(健全な)商店街が、やや物足りなくても仕方ないと思います」と言っています。一方、夏目写真館はもう通りに顔を出ています。
 あっと驚くことでは「キッサ」が多いこと。現在の「キッサ」は、茶を飲むことや 「喫茶店」しか載っておらず、ほかの定義は出ません。しかし関東大震災後から流行した風俗営業の「カフェ」も少なくなかったと思います。
 なぜか「日の丸」も多い。祝日だったのでしょうか。
 下水の暗渠もなぜか横に広い。これが普通なんですね。

↑ 東(下)大正11年頃昭和5年昭和12年
1山田紙店斉藤洋品店床ヤ
2岩瀬糸店みどりや支那料理
3甘味・紀の善紀の善寿司料理
4 神楽小路
5大畑パン店大畑菓子店キッサ
6吹野食料品富貴野食品カスリヤ
7棚橋タバコ屋隼人屋煙草タバコ
8瀧歯科医濫長軒瀧歯科医院
9 夏目写真館夏目写真館16
↓ 西(上)

 さらに別の写真もありました。東京商工会議所の「東京市内商店街ニ関スル調査」(昭和11年)に載った昭和10年12月19日の写真です。「須田町食堂」が左上に高く見えます。また、この写真は、前の写真に比べて、わずかにバックして撮っています。

  1. 「ぼんぼり」か「灯籠とうろう」では? 六角筒があり、光をともす場所になっている? 神楽坂五丁目でも同じようなランタン(図では3)が出ています。
  2.  紅白の飾り。飾りテープ。お祭り用品?

 お正月のお祝いではと思います。


神楽坂の今昔2|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家兼随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、働きながら、法政大学高等師範部を卒業しました。なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 学生は飲んで突いた
 豊かでない私たちは、安い店を選んで飲んだ。白十字の近くに樽平があった。お銚子の金印が二十銭、銀印が十五銭で、当時の安い店――須田町食堂渋谷食堂の八銭から十二銭にくらべると少し高いが、おと・・()を四品つけてくれるのが魅力であった。もちろん私たちは銀印であった。

白十字 現在はポルタ神楽坂に隠れてしまいました
樽平 現在はラーメン屋「天下一品」
金印 昔は中国の皇帝がその地位に応じて玉印・金印・銀印・銅印などが与えられました。これが元でしょうか。
須田町食堂 大正13年、須田町食堂は東京神田須田町で値段が手ごろな「簡易洋食」として創業しました。やがて、大きくなり、大衆食堂チェーンをつくりました。これが聚楽じゅらくの始まりです。
 神楽坂の須田町食堂は神楽坂一丁目10にありました。現在は、三経第22ビルという雑居ビルになっています。
 安井笛二氏は「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)で…

◇須田町食堂 れいの須田町食堂の神樂坂支店であります。此のへんに氣の利いた大衆たいしう食堂しよくだうがありませんので擧生やサラリーマンなとの人氣にんきを一手に引き受けてゐます。カツライス(十三錢)が人氣ものでよるはお酒(一本十三錢)に湯豆腐ゆどうふや肉なぺの客が多い。」と書いてあります。
 この図は、志満金などを中心に神楽坂下から上にかけて左側の商店だけを抜き出したものです。右図の左側は昭和5年頃、中央は平成8年12月、右側は平成29年の商店です。
1930年頃1995年2017年
はりまや喫茶夏目写真館ポルテ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽坂煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールY! mobile
樽平食堂ラーメン花の華天下一品
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴オザキヤ
三好屋食品志満金 鰻志満金
増屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服田口屋生花田口屋生花
渋谷食堂 渋谷区宇田川町にあった大衆食堂。
おとおし お通し。日本料理で、その注文を帳場へ通すときに出す、簡単な料理。
 右側の頂上近くの横丁に、東京亭というカフェーがあった。そこの女給さんが、私の友だちのS君にほれて、つれて来てくれと頼まれるのだが、彼は運げまわるのだから閉口した。若いころから私は運が悪かった。東京亭の近くのおでん屋いくよにはよく通った。
 学生の遊びとしては、まだ麻雀屋のない時代で、もっぱら悠長で上品な玉突きを楽しんでいた。地元の商店の若主人などもビリヤードのお客であった。
 右側の下から二つ目の横丁をまがった左側のビリヤードに、先代の林家正蔵がよく来ていた。神楽坂演芸場へ出演の合間の暇つぶしだったのだろう。彼は少しヤブニラミの気味だったがよく当たった。
東京亭 神楽坂仲通りにあったカフェーです。安井笛二氏の『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』では
白木屋横町――小食傷(せうしよくしやう)新道(しんみち)の観があって、おでん小皿盛りの「(はな)()」 カフェー「東京亭」 野球(やきう)おでんが看板(かんばん)の「グランド」 縄のれん式の()料理(れうり)「江戸源」 牛鳥鍋類の「笑鬼(しうき)」等が軒をつらねてゐます。
いくよ わかりません。近くにおでん屋「お豊」がありました。これと間違えていた?
玉突き ビリヤードのこと
先代の林家正蔵 6代目のこと。生年は1888年11月5日。1918年4月、6代目正蔵。没年は1929年4月25日。当たりネタは「居残り佐平次」
 ◆ 学生の娯楽は映画と寄席
 レストラン田原屋の裏に、洋画のセカンドランで有名な牛込館があった。弁士は、これも一流の徳川夢声山野一郎松井翠声で、学校をさぼった法政の学生でいつも満員だった。
 肴町都電通りを越えて、通寺町へはいった右側に、日本映画専門の文明館があった。坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸館があって、講語、落語がかかっていた。当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの落語をあみだして、これも人気があった。

セカンドラン 映画を封切り館後の二番目に上映すること。
肴町 神楽坂五丁目のこと
都電通り 大久保通りのこと
通寺町 神楽坂六丁目のこと
◆ 歩行者天国のはしり
 神楽坂は、私の知るかぎり、空気が汚染されていない数十年前から、歩行者天国を実行していた。冬は午後五時、夏は六時ごろから夜中まで、諸車通行止の札が立てられた。たしか麻布十番と八丁堀も、同じように歩行者天国を実行していた。
 夏になると、たいていの家では、夕食後一家そろって、浴衣がけで神楽坂へ出たものだ。背広で歩いているのは、会社の帰りか、用事のある人であった。だから、遠くから眺めると、一本の白い帯のように見えた。
 歩道と車道の区別はなかったから、道いっぱいにあふれた人たちが、両側にぎっしり並んでいる夜店をひやかしながら、アセチレン灯に照らされて、一度ではなく、二度、三度往復したものだ。
アセチレン灯 アセチレンを燃料とする照明用の灯火。すすが多く、独特の臭いがある。