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逆転式一方通行・再考(写真)

文学と神楽坂

 逆転式一方通行について、 地元の方は…

 このブログで過去に逆転式一方通行の導入時期を検証した時には、諸説あって判定しがたいという結果だったと思います。
 ずっと気になっていたのですが、一枚の写真に大きなヒントがありました。新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」のID:5510(昭和35年頃)です(下図、ダブルクリックで拡大)。

5510 神楽坂下 昭和35年頃。新宿歴史博物館

 戦後、対面通行だった神楽坂で、下り坂の途中の店に自動車が飛び込む事故が発生しました。このため1956年(昭和31年)から、坂は上り一方通行に規制されたという経緯が過去記事に詳しく書いてあります。
 ところが ID:5510 を見ると、タクシーとオート三輪が坂を下っています。向かって右側にはヤマザキパンの納品車と、ポンネットを明けた車が駐車しています。いずれも禁止されていた下り方向です。さらに向かって左のトラックは明らかに坂を上っていますから、対面通行になっています。
 おかしいと思って標識をよく見ると、意外なことが分かります。坂の入り口、向かって右側の標識は「一方通行 ONE WAY」です。下の補助標識は読みづらいのですが、目をこらしてみると「正午 NOON – 午後 PM 12:00/自動車 MOTER CARS」と書いてあるようです。
 逆側の標識を見てみましょう。「駐車禁止」の手前に別の標識が立っています。「自動車通行止」とあり、その下に「一方通行出口」。補助標識は右のものとよく似ていて 「午前 AM 0:00 – 正午 NOON/自動車 MOTER CARS」と読めます。
 この矛盾した標識こそ、逆転式一方通行の証拠です。

7002 神楽坂昭和34年頃。新宿歴史博物館

 さらに「写真で見る新宿」のID:7002と、ID:31(神楽坂下夜景)は、いずれも昭和34年ですが、同じ標識が見えます。もちろん撮影年を間違えている恐れもありますが、複数のミスは考えにくい。写っている店の看板や街灯の形をメトロ映画の記事中の写真と比べても矛盾はない。『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』の1962年6月の写真では街灯の形式が変わっているので、それ以前の撮影であることは明らかです。
 外堀通り手前の車道の停止線にも注目したい。ID:5510 では向かって右の路面だけ白線が描かれていて(緑色の円内)、左はありません。ID:7002 も同じです。  これは対面通行仕様の路面標識です。想像ですが、警察は昭和31年の自動車の飛び込み事故後、暫定措置として「坂の下り」を禁止した。その後、路面標識を修正しないまま(あまり期間を置かずに)逆転式を導入したのではないでしょうか。
 以上のことから、逆転式の導入は東京新聞調べの1958年(昭和33年)が正しいと考えます。
 ではなぜ、ID:5510 は対面通行なのか。これは正午ちょうど、一方通行が逆転した時に撮影した写真だからでしょう。現在は逆転の間、12:00-13:00に歩行者天国をはさみます。当時は、その仕組みがありませんでした。昼のホコ天は「ランチタイム・プロムナード」と呼ばれていて、写真の上では「写真で見る新宿」のID:9109(昭和51年8月26日)(下図)で確認できます。歩行者天国の標識の下にフォークとナイフ、ティーカップの独特のマークです。ID:65(昭和48年2月)には、このマークはありません。

9109 神楽坂下交差点 昭和51年8月26日。新宿歴史博物館


 神楽坂の逆転式一方通行が早稲田通りの九段高校前まで延長されたのは、さらに後のことです。

対面通行 往復方向に車両の通行がある道路で走行をすること。
事故が発生 昭和31年、神楽坂二丁目の陶器店「陶柿園」で、一方通行下りの車の突入事故が起きた

 地元の方や逆転式一方通行の考え方をまとめると、東京新聞やウィキメディアの考え方のほうが正しいと思っています。

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
対面通行昭和31年以前
*陶器店での交通事故 昭和31年
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年不明
逆転式一方通行を実行中昭和34年頃(ID 7002、ID 31)、昭和35年頃(ID 5510)
歩行者天国も実行中昭和51年頃(ID 9101)
逆転式一方通行の範囲拡大不明不明昭和54年


神楽坂下から揚場町まで

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、1962年、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。



➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)