牛込駅の通路新設[明治の市区改正](明治28年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 甲武鉄道(現・JR中央線)は明治22年(1889年)に新宿-八王子間で開業。東京市内への延長は外堀の一部を埋め立てる方法を採用し、明治27年10月に新宿-牛込間が開業しました。さらに段階的に工事を進め、明治37年にお茶の水まで延伸しました。
 牛込駅の隣の飯田町駅が終点だった明治28年、甲武鉄道は四谷駅市ヶ谷駅牛込駅3駅の「通路新設」を願い出ます。
 いずれも改札口から別方向への出口の新設で、外堀の土手の使用許可を求めたものでした。牛込駅を分かりやすく加工して詳しく見ます。

 堀端の「停車場道」が、もともと駅と神楽坂を結んでいました。牛込見附の土堤は坂になっていて、橋の部分で鉄道を越えます。駅からは跨線橋で上がり、線路をまたいで反対側に行けるようにする計画でした。
土提 どてい。どて。土を小高くもった土の堤。水や風、敵などを防ぐ。土手どて
跨線橋 こせんきょう。鉄道線路を立体交差で越えるための橋。

 跨線橋である「牛込渡橋」の図面も残っています。向かって左が神楽坂側、右が新設する土手上の出口です。

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

 明治28年6月25日、東京市区改正委員会第118号会議で、この問題を議論します。議事録を読みやすく抜き書きすると

17番委員「通路に当たるところの樹木は何本ほど伐採せらるべきや」
25番委員「樹木にはかからぬはずなり」
15番委員「双方(両側)に通路を設けるに、従来のはいかが(どうする?)」
25番委員「現今は1カ所なるが、便利のため更に2カ所を開くとのこと」
24番委員「本案は別に調査委員にて調ぶる方がよからん。土堤を使用するには美観を損せざる様にとの主意なりしに、かくのごとく見苦しき階段を付しては、それらの点もいかがや」
17番委員「賛成。樹木を伐採せぬとは判然とせぬ。十分調査せらるるよう」

と、今日でいう環境問題から結論が先送りされました。
 調査委員の実地調査の結果、「樹木に支障なき」として原案通りに決まったのは2カ月後の第119号会議でした。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

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