藁店は「わらだな」と呼んでいます。現在は固有名詞として使っていますが、本来は、一般名詞の「わらを売る店」のことでした。このわらを売る店、どこにあったのでしょうか。いったい何軒あったのでしょう。
明治20年の内務省地理局の地図をみてみましょう。ここには「わら店横町」がでています。また、坂は地蔵坂です。さらに一個の「・」がついた「わら店」がありました。
『西村和夫の神楽坂』では江戸時代、「善国寺の裏一帯は藁店という菰筵を商う町屋があり賑わいをみせていた」と書いています。藁店は一戸か数軒か、わかりません。
なお、菰筵とは藁やイグサ、真菰などの草で編んだむしろのことで、むしろとは、漢字で書くと、筵、莚、蓆、席となり、敷物の一種で、わら、藺、菅、竹などを編んで作るものです。
「東京神楽坂ガイド」では「その藁店が多いから藁坂なのかと想像しています」と書き、ウィキペディアでは「江戸時代には地蔵坂に牛込肴町に属する町屋があり、藁を売る店が多かったことから『藁店』と呼ばれた」と書いています。 これらは数軒あったとかいています。
一方、「東京10000歩ウォーキング」では「『藁店』の呼称は坂上に近い小林石工店の付近で藁を売っていたからだ」と書いています。一軒でもおかしくありません。
大げさに言うとかたや数軒、かたや1軒で、すごく大違いがあると思いますよね。 しかし、一番正確な説明は『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会です。ここで山本犬猫病院の山本氏と小林石工店の小林氏が登場します。
山本氏 藁店というのは、昔、石屋の小林さんあたりで、藁を売っていたからなんですね。というのは、この先の出版社や三沢さんというお宅があるあたりの両側は馬が水を飲むところだったんです。これは区で調べれば分かります。で、馬や牛が通ったわけですが、昔は蹄鉄なんてありませんから、藁を使ったんでしょう。人間のわらじというより、おそらく馬や牛のための藁を商うところがあったんだと思います。
小林氏 で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。うちも確か20年くらい前までは、藁店さん、石鐵さんと呼ばれていました。
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2013年では小林石工店は開いていましたが
2018年はマンションの「石鐵」に変わって、小林石工店はありません。
文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば
里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候 |
と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。
なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。
どうも「藁店」は石工店の前で、藁を売っていたのは従業員は多くても石工店の前なので一軒、せいぜい二軒もあればよかったと思います。内務省地理局の地図を見るとわら店は1軒だけで、ほかの多数は「わら店横町」になったことも可能です。で、私は、わら店は1軒だけだと考えて、一票を入れたいと思います。まあ、どうでもいいことでした。
最後に360VRパノラマフォトをつくりました。を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンは360度動きます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。
神楽坂の通りと坂に戻る場合は……