ここが「拝啓、父上様」1回目で出てきた駐車場です。
この階段の左下に車が止まっており、主役の「田原一平」役の二宮和也は車をスタートして、熱海湯の下まで先輩板前2人を向かえに行き、築地市場で魚を買いに行く。ここから熱海湯に行くのは……まあできるか。
「坂下」・駐車場
ワゴン車に乗り込み、バックさせる一平。
語「この町の料亭”坂下”で、板前の修業をずっとしており」 |
現在は食事を楽しむビルになっています。
もっと遠くから見ると寺内公園がみえてきます。(昔はこの地域を地内と呼ぶこともありました)
この案内板を読みましょう。
寺内公園の由来 この「寺内公園」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。
江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行元寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。) 行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、昆沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。 文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王・柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。 日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。 いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの「寺内公園」に託し、末永く皆様の思い出の場として大切に護り育てましょう。 平成15年3月吉日 新宿区
|
写真についは
「当時の寺内の風俗を描いたといわれる」
ノエル・ヌエット(仏)画『神楽坂』(昭和12年) 作品提供/クロスチャン・ポラック |
写真はクリックすると大きくなります。なおノエル・ヌエット氏の『東京のシルエット』については別の項で。
また、この上の版画『神楽坂』は下の写真とよく似ていませんか? 寺内横丁で詳しく書いています。
もう一つ、ノエル・ヌエット氏は木版画の前に必ずペン画を作っています。これは1937(昭和12)年1月30日に描いています。
ここで出てきた人物を簡単に紹介します。
柳家金語楼は落語家や喜劇俳優、 NHKテレビ『ジェスチャー』などで有名、1972年、死亡。
山下敬二郎は金語楼の息子でロカビリー歌手、2011年1月で胆管がんで死去。
花柳小菊は予定は神楽坂の芸者、しかしマキノ正博にスカウトされ、映画で主演し、テレビドラマ・舞台で活躍。2011年1月、死亡。しかし、神楽坂5丁目だという談もあります。
勝新太郎は日本の俳優。『座頭市物語』で主演。1997年6月、死亡。
神楽坂はん子は昭和の芸者歌手。『ゲイシャ・ワルツ』は大ヒット。1995年6月死亡。
本当は行元寺と芸者の路地だったのですが、その雰囲気はまったくありません。