島村抱月(2/2)

文学と神楽坂

 明治42(1909)年、坪内逍遥は大隅重信が作った文芸協会を再開し、また、俳優養成を目的にして演劇研究所を設立します。そして、島村抱月氏はその指導講師になります。
 4月18日、演劇研究科の入学試験。合格者は男子12人、女子2人。松井須磨子も1期生でした。
 大学の講義は抱月自身あくびがでるようなつまらない講義でも、演劇研究科の講義になると、抱月の熱意があったといいます。
 大学の講義について、広津和郎氏の『同時代の作家たち』のなかで抱月の講義がいかにもつまらなかったと書いています。

 私は島村抱月(ほうげつ)さんから早稲田で美学の講義を聞いたが、その美学の講義はお座なりで、月並で、そう独創のあるものとは思えなかった。
 島村さんはそれ以前にはもっと勤勉な先生だった時代があるのかも知れないが、私が早稲田で講義を聞いた明治四十三、四年頃には、それは氏の教授としての末期に近い頃であったが、ちょいと類のないほど怠けものの先生であった。学校には休講掲示場なるものがあって先生たちが講義を休む場合には、前以てその旨休講掲示場に掲示するのであるが、島村教授に限って、その休講掲示場に出講掲示がはり出されるのである。つまり何の掲示もない時には島村教授の講義は常に休みであり、たまにめずらしく出講する時には、それが余りに例外な事なので、出講掲示が張り出されるのである。
 私の学生の頃、島村さんは文芸評論家の第一人者の如くいわれていたので、私は島村さんの評論集を読んだ事があったが、たしか「人生観上の自然主義を論ず」という一文には、島村さんの生活の裏側が出ていて、個人から家族、社会と拡がって行く生の重荷に対する憂鬱な溜息を聞く思いがして惹き入れられたが、それ以外は余りにお座なりなので意外な気がした。恐らく島村さんは他人の文学などをこつこつと読み、それを批評するような熱は、文芸批評家としても持っていなかったのであろうと思う。
 島村さんにはまた幾つかの脚本の試作があるが、それも器用にテーマの上をかい撫でた程度のもので、人を打つような創作的熱情は少しも示していない。
 このように講義の美学は中途半端なものであり、評論にも創作にも心を打たれるものはないのに、私は僅かばかり氏の講義に出席して、氏の風貌や述懐から受けた印象が深く心に刻まれ、いまだに忘れられないのである。――それは一つの孤独な生活者、人生の積極面をでなく、その消極面をまじまじと見まもり、その行手に虚無の洞穴(ほらあな)が待っている事を知っていながら、どうしてもそこに向って足をはこんで行かなければならない運命の人の姿を氏に感じたからである。

 自分でも同じことを書いています。

書卓の上
 今朝もテーブルに向つて腰かけたまゝ懐手をして二時間以上ぼんやりしてゐた。何をする気も出ない。かたはらの台の上に取り散してある新刊の雑誌や書籍を、1つ2つ抽き出して明けて見たが、一向に面白くない。
(明治44年)

 何が起こっていたのか。翌年になるとはっきりします。
 大正1(1912)年8月2日、抱月の妻と長女は島村抱月と松井須磨子の関係はどうもおかしいと気がついて、松井須磨子の家を見張っていました。やがで、彼女の家から盛装した須磨子が出てきます。後を追っていくと、新宿駅から高田馬場まで行き、抱月と逢っていました。妻は抱月の「襟元をふんづかまえ」ると、須磨子は「申しわけないことをしました。死んでお詫びします」といい、抱月は須磨子を自宅に帰し、抱月は妻に「死なしてくれ」という、まあ事件が起こります。
 翌日、抱月が前夜に書いた恋文を妻が発見します。「抱きしめて抱きしめて、セップンして、セップンして。死ぬまで接吻してる気持になりたい。まァちゃんへ、キッス、キッス」(妻が中山晋平に命じて写し取らせたもの。河竹繁俊著『逍遥、抱月、須磨子の悲劇』)
 11月、抱月は奈良京都に旅行します。本人がそうしたかったのではなく、頭を冷やせという大学の命令でした。しかし、抱月は途中で東京に帰ってしまいます。
 大正2(1913)年5月31日、須磨子は26歳で演劇研究所の論旨退会になり、抱月も42歳で早稲田大学に辞表を提出。6月4日 抱月と須磨子で結婚を誓う誓紙を交わします。6月9日、坪内と島村などを交えた会見をします。
 事情を完全にはわからないため、早稲田のOBは島村のほうを応援します。結構マスコミも騒いでいたようです。7月3日、抱月と須磨子を中心に「芸術座」の旗揚げが決まります。
 11月、早稲田大学は正式に抱月の辞表を受理します。
 大正4(1915)年8月、芸術倶楽部が完成します。

24時間と僕の生き方
 私も書物に遠ざかつてから、もう三年まぢかになる。其頃の私は、毎日必ず少くとも一度づゝは書斎に閉ぢ籠つて何某教授の何哲學の系統といふやうな厳めしい洋書を引くりかへすのが職業であつた。どちらを向いても削り落としたやうな岩石の谷底に石子責になった心地で論理神経を痛めながら其間を拾って歩く。可なり強かった私の知識慾も後には疲れ切って了つた。私がまだ學校にゐた頃は、此等先哲の蹤を慕ふて、宇宙を包括するやうな高大な哲學系統を、自分の手で建てゝ見たり、壊して見たりして、其事に衷心の敬慕を棒けることが出来た。あの頃の心持も今から考へて憎いものではない。併し私は、段々其『系統』といふものに不快を感することを禁じ得なくなった。學者が最も苦心し努力した所は其『系統』をもとめた點にある。けれどもその結果は決して凡人の到り難いものでも何でもない、剋明に年月を累ねて統理してさへ行けば、私にでも出来る。機織女が、細い絲目を並べて尺を成し丈を成すのと大した相違は無い。
(大正5年『時事新報』)


石子責 罪人を穴に落としてその上に石を載せ続けて殺す、中世、近世の日本の刑罰。

 大正7(1918)年11月5日、抱月はスペイン風邪、インフルエンザで死亡します。47歳でした。

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