袖摺坂です。新宿区の『地図で見る新宿区の移り変わり–牛込編』から取った地図です。新板江戸外絵図(寛文12年、1672年)では神楽坂の袖摺坂はここを示します。現在の袖摺坂と同じですね。
以下は年代と地図です。右図は簡単な段差があると示します。
延報7年(1679年)から明治12年(1879年)までは地図ではなく、簡単な絵です。現在の大久保通りから北に上る坂があり、ここは袖摺坂だというがよくわかります。
明治20年から28年も袖摺坂を示しますが、袖摺坂のほかに左に新たに道ができたのがわかります。この新しく作った坂は五味坂、ゴミ坂と呼んでいるようです。
さらに下の図は明治20年の絵です。袖摺坂は乞食坂ともいっているんですね。また大久保通りの一部の弁天坂もあります。
明治29年はさらに袖摺坂(青い矢印)の右下に新しい坂(赤い矢印)ができます。かなり急な坂だと思います。この坂は「蛇段々」と言われました。蛇段々が実は袖摺坂だという意見もあります。例えば鳥居秀敏さんの『袖摺坂って本当はどの坂?』(寺田弘、岩井美幸編「神楽坂アーカイブズチーム第3集」NPO法人粋なまちづくり倶楽部、2009年)です。しかし蛇段々は明治20年以前にはなかったので、この説は難しいと思っています。
昭和5年はかわりませんが、昭和16年、さらにもう1つ坂がでます。名前はありません。昭和22年、終戦でもあまり変化がありません。一応、ここを「新蛇段々」と仮称します。
さらに進めていき、昭和56年は… まず、昔の急な坂「蛇段々」がなくなり、新しい坂だけが残ります。それから、あれれ、こまった、あれれ、こまった。袖摺坂の位置が違う。新しい坂が袖摺坂になっている。弁天坂も違う。
うーん。うーん、そこで、困った時は新宿歴史博物館。そこで聞きました。答えは
新宿区が袖摺坂としている根拠について 『御府内備考』御箪笥町の書き上げに 「坂、上り凡そ十間程、右町内(御箪笥町)東の方肴町境にこれ有り。里族袖摺坂または乞食坂とも唱え申し候。袖摺坂は片側高台片側垣根にして、両脇とも至ってせまく、往来人、通り違いの父子、袖摺合わせ候。」とあります。 江戸時代、肴町は、当時武家地を間に挟んで5か所に散在する町屋でしたが、明治5年に北部を残して、その大部分は武家地とともに岩戸町に編入され、一部は横寺町に編入されました。 『御府内備考』の示す肴町は、横寺町に編入され「横寺町65番地」となったところです。 袖摺坂の位置については、『御府内備考』の内容の解釈違いによるものと思われます。 以上が、新宿区が袖摺坂を特定している根拠です。 なお、坂の位置は新宿区教育委員会発行の『地図で見る新宿区の移り変わり』牛込編 で確認できます。 新宿歴史博物館 佐藤
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なるほど。これでまったくいいようです。新宿歴史博物館の佐藤氏に感謝します。でも、そうじゃないとおかしいよなあ。昔の絵図には現在の地図と全く違わない坂があるからなあ。以上、現在のほうが正しく、昭和56年の地図は間違いでした。
また『地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編』の矢代氏が書いた「土地に刻まれた歴史」で「袖摺坂」は「蛇段々」とそれを新しくした坂の間違いだと思います。
土地に刻まれた歴史 矢代和也
袋町の高台から現在の大久保通りに向って、急峻な段坂が屈折しながら下っていた。石段や敷石の部分を除くと、雨の時には足を滑らせそうな細々とした坂道で、両側には階段状に小さな家々が建っていた。「袖摺坂」である。(違います。じつは蛇段々の坂です。)この坂道は「安政絵図」にも、それ以後の絵図・地図にも表記されていず、一八九六(明治二九)年の「東京市牛込区全図」、「帝都復興東京市全図」(『新宿区地図集』)に道路拡張の予定地としてはじめて記されている。しかし、この程度の道幅の段坂でも、たとえば、柳町の通りの寿司屋の角から甲良町の方へぬける名もない段坂が、すでに「安政絵図」に表記されているので、きわめて不思議な坂道に思われる。 私の小学校の上級のころ、「袖摺坂」の道路拡張の工事がはじまった。家屡が立退かされ、赤土の高い崖が露出した。悪童たちの絶好の遊び場が一つ増えることとなった。学校の禁を犯して、急崖をすべり下り、また上る、泥のぶつけ合い。中腹に糾めに生えた木にのぼって、ユサユサとゆすって、下級生に悲鳴をあげさせたり、親の洗濯の苦労も知らずに、頭の天頂まで、泥まみれになって遊んだものである。 やがて、太平洋戦争もはじまろうというころ、砂利敷ではあるが、現況のような道路が姿をあらわし、一九四一(昭和一六)年の『牛込区詳細図』に、拡張道路として表記されることになった。(こちらはS状の新蛇段々の坂です) |