月別アーカイブ: 2013年2月

神楽坂|本多横丁 由来

文学と神楽坂

 本多横丁の由来になった旗本「本多家」のことです。まず標柱では

本多横丁
Honda-yokocho
江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であった。

 国立国会図書館の御府内沿革図第11巻切絵図のコマ番号180では、「本多修理屋敷脇横丁」とあります。

 ここは西側にも武家屋敷の並ぶ道でした。
 昭和24年頃、商店会は「スズラン横丁」に変更しました。しかし、旧名の本多横丁の復活を望む声が多く、昭和27年頃、本多横丁商店会に変えています。実際、明治20年も同じ本多横丁でした。

 竹田真砂子氏の『ここは牛込、神楽坂』第2号の「振り返れば明日が見える2…銀杏は見ている」ではこう書いています。

 本多横丁の由来になっている旗本の本多家は、幕末になって、大名の列に加えられた。知行地は三河国西端藩、現在の愛知県碧南市である。
 維新直後、本多家当主は藩知事になったが、廃藩置県にともなって免職となり、東京と改称した江戸に戻った。
 ここには実際に本多家最後の当主を覚えている人の話もあります。
 ご母堂の智氷子刀自は、今年83才。本多家最後の当主を見覚えている。「お目にかかったのは、多分、昭和の初め頃」であったという。
 本多の屋敷跡は、明治十五、六年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正十年十月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。
ここは牛込、神楽坂』第5号で中井啓隆氏の『本多横丁の変遷について』では
 神楽坂の本多家は、本家筋からは分家のそのまた分家の家筋に当たります。本家筋では、徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が知られていますが、系譜をさかのぼれば、藤原兼通(六代関白925~979)につながります。
 名家藤原の末裔の姓が本多に変わっていく経緯にまでは手が届きませんでしたが、いつの頃か、三河国宝飯郡伊奈郷に移り住んだという記録があります。分家の六代目本多康俊(元和九年1623没)が伊奈城主だったのも興味のあるところです。この康俊の二男忠相(修理 美作守 八千石 天和二年 1682没)が分家からまた分かれ、神楽坂の本多家の初代となります。
 本家も分家も代々城持大名ですが、分家の分家は上級旗本として幕府に仕えていくことになります。
 初代忠相は、慶長10年(1605)七才の時に三河國西尾より江戸に下向し、将軍秀忠に拝謁を許されます。元和元年(1615)父に従い大阪夏の陣で功をあげ小姓番となり碧海郡(現碧南市)に知行干石を給わり、84才で没する時には、ハ干石の旗本になっています。
 以下、少し系図を追ってみますと、初代忠相→二代忠将(修理 対馬守備前守 御書院番頭 九千石 元禄四年1691没)→三代忠能(修理 因幡守 定火消 大番頭 延享元年1744没)→四代忠敞(修理 播磨守 定火消 御書院番頭 延享2年1745没)→五代忠栄(左京 対馬守 定火消 百人組頭 大番頭 伏見奉行 安永5年1776没)→略→忠鵬(明治2年頃、三河國碧海郡西端藩 1万500石 子爵)…となります。
 6代は本多忠直、7代は本多忠盈、8代は本多忠和、9代は本多忠興です。
 ウィキメディアでは
 元治元年(1864年)、9000石を知行していた本多忠寛が、江戸警備の功績などから1万500石に石直しを許され、ここに本多氏は諸侯に列して西端藩が立藩した。慶応3年(1867年)5月20日、忠寛は病気を理由に隠居し、嫡男の本多忠鵬が後を継いだ。忠鵬は明治元年(1868年)、新政府に与して陣屋を兵営として貸し与えた。
 翌年6月、農民兵を募集して様式訓練を行うなどの藩政改革を行ない始めた。同年6月23日、版籍奉還で忠鵬は藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で西端藩は廃藩となった。その後、西端県を経て額田県、そして愛知県に編入されたのである。
ここは牛込、神楽坂』第5号『本多横丁の変遷について』にもどります。
 神楽坂の本多家は、禄高も役職も、最上級旗本だったことが判ります。ここで注目したいのは、三代忠能から定火消の役を代々引き継いでいることで、この本多家が神楽坂に居を移してきた理由と時期に、関係があるのではないかと思えます。
定火消 江戸幕府の職名。火消の一つ。明暦の大火後の1658年に従来の大名火消のほかに設けられ、江戸市中の消防と非常警備を行った。初め4組、一時15組、1704年以後10組の組織が確立し「十人火消」といわれた。

 この(じょう)()(けし)については籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の「新宿区 神楽坂・弁天町コース」にある程度載っています。
 本多家の始祖は徳川四天王の筆頭本多平八郎忠勝(ただかつ)(1548~1610)と伝えられ、分家六代目の本多康俊(やすとし)の次男忠相(ただすけ)(1598~1682)が旗本の身分と千石の知行を安堵されて分家した。やがて八千石を拝領した忠和が神楽坂の本多家初代になるが、神楽坂に50間四万の広大な屋敷地を賜ったのは、元禄五(1692)年に三代目を襲封した忠能(1744年歿)がじょうけしの役務を任じた後と目されている。忠能は江戸城の西北部、つまり神楽坂方面の防火と警備を担当した




神楽坂5丁目

文学と神楽坂

神楽坂6丁目

神楽坂五丁目から藁店を通り、袋町。右側の「もん」も八百屋「丸喜屋」もなくなりました。

 毘沙門天から先の神楽坂5丁目は昔は武器、兵器庫があり、このあたりは「兵庫(ひょうご)」と呼ばれていました。徳川3代将軍家光の鷹狩りの帰途のたびごとに、町民は魚を献上し、家光は酒井讃岐守忠勝に命じ「(さかな)(まち)」と地名変更をさせました。このため明治、大正、戦争前は肴町でした。たとえば明治20年の地図では肴町です。「神楽坂5丁目」に変わったのは昭和26年です。理由は文京区の肴町と誤認されやすいことなどが上げられています。
「玄品ふぐ神楽坂の関」の所にかつては田原屋」が開いていました。「五十鈴」は現在もあります。

 さらに行くと、左に高くなる「藁店(わらだな)」です。かつては上に行く途中で寄席の牛込亭や映画の牛込館がありました。これを藁店横町ともいいますが、藁店のほうが普通です。
相馬屋」は現役。その隣にかつては酒屋の「万長」と「紅谷」が店を出していました。河合陶器店もなくなりました。
 旧万長の横は寺内(じない)と呼ぶ地域があります。昔は地内とも呼びました。その場所はここここからすこし向こうに寺内公園があり、その場所は巨大な高層マンションがあります。明治40年(1907)まで、高層マンションではなく、行元寺という寺があり、その跡地を「寺内」「地内」と呼んでいました。

 ほかに近江屋山せみキッコ美濃屋かアジアンタワンくるみ、本の武田芳進堂マルゲリータなど。
 最後に現在「神楽坂上」の交差点は当然昔は「肴町」の交差点になっていました。交叉点の名前は横の交通は「大久保通り」、縦の交通は「神楽坂」か「早稲田通り」です。標高14mほど。
 坂上の信号機を渡り、つまり大久保通りを渡ると、右側は神楽坂6丁目ですが、左側の数軒はまだ神楽坂5丁目です。戦前にはデンキヤホールもここにありました。



善国寺|毘沙門天

文学と神楽坂


善國寺

 善國寺ぜんこくじです。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。

 この前に標柱があります。

かぐざか
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

となっています。詳しくはここで

 では中に入ると……

 善國寺毘沙門天(びしゃもんてん)です。別名を多聞(たもん)天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。

 明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。

 昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の仮本堂と毘沙門堂を再建します。昭和46年に新しい本堂と庫裡、書院などを建てていて、落慶式を行いました。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。

 1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。

 文化財についてはここに。4月頃、藤棚が開きます。

「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。ema 『続日本紀』には神の乗り物、(しん/じん)()を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。

 木柾もくしょうを叩いて読経します。

「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足(むかで)ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。

 中を読むと

 往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足(むかで)と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。
このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。
皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。

ひめ小判

 小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は

神楽坂
令百由旬内無諸衰患
南無 開運・除厄 大毘沙門天守
受持法華名者福不可量
善国寺

と書いてあります。
 さらにひめこばんについて、まとめてみました。

児玉誉士夫建之

山門の右側の柱に「児玉誉士夫建之」

 ロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前があります。一つは山門の右側の柱で
  昭和46年5月12日 児玉誉士夫建之
と書いてありました。

 もう一つは境内のトイレのそばで
 ○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主

とかかれた慰霊塔の
 昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫

と書いてありました。

ireihi

 家畜慰霊碑は

東京都食肉環境衛生同業組合 牛込支部

と書いてあります。

浄行菩薩jpg 本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。

 またその奥、出世稲荷に小さな社があります。
 また書院では隔月で落語をやっています。
拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では

毘沙門前
   通りをつっ切り境内へ入る一平。


毘沙門に

 最後に下図は1993年の神楽坂。

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)


神楽坂3丁目 熱海湯階段

文学と神楽坂

いかにも私道に見えるほうに進みましょう。私たちの方角では左のほうで、見番横丁とは反対の方向です。この路地にはいっていきます。熱海湯に行く道
 下図について、矢印(手のアイコン)を叩くと地図は奥に進み、それ以外の場所をにぎって動かすと、360度回ります。

この正面を右側に回ると、下に行く階段が出てきます。
フランス坂1フランス

ととととと歩くと…
フランス坂3熱海湯階段
 それで終わりです。この階段や路地は「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「フランスの坂」、「芸者小路」、「カラン坂」などと呼んでいます。

なぜ有名になったのか? やはりテレビ番組「拝啓、父上様」ではないでしょうか? それまではこの階段、まあ有名でも、ものすごく有名ではありませんでした。それが、階段を下りる「ナオミ」の持つ箱からりんごが何十個かこぼれて落ちて、主役の「田原一平」役の二宮和也はリンゴを何個も拾い上げて、 これで田原君は1目ぼれです。 なぜナオミはこの階段にいたの? りんごはどこで買ったの? りんごをどこにもっていくの? などとは聞かないこと。しかし、この階段、和可奈の兵庫横丁よりも沢山でてきます。

なお、2017年以前のいつかから、少し変わりました。テラスができたのです。

しかし、この階段が大好きな人もいます。たとえばパリジェンヌのドラ・トーザンです。『東京のプチ・パリですてきな街暮らし』の一節で

私は熱海湯のところから鳥茶屋別邸を横に見て上がっていく坂をフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。

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当時「熱海湯」を上がった芸者はここを通って神楽坂に行ったといいます。この下に音声ガイドつきの「芸者小路」がありますが、行ったときは電話の相手は不通になっていました。なお、芸者はここで書いています。



もとに戻って神楽坂4丁目へ行く場合は
見番横丁に行く場合は
神楽坂の通りと坂をご覧ください

神楽坂|御旅所について

文学と神楽坂

 さらに神楽坂通りを上がりますが、左に細い路地があります。ここを入ってみます。かのテレビドラマ「拝啓、父上様」でリンゴが20個ぐらい転がった階段がここにあるのです。
 しかし、そこに行く前に……
 最初は「高田穴八幡()旅所(たびしょ)」について。下の絵では四角で囲んだ場所が3つあり、上は「毘沙門堂」、右は「こんぴら」、左下は「高田八まん御旅所」です。また、この画讃には『月毎の寅の日には参詣夥しく植木等の諸商人市をなして賑へり』と書かれています。御旅所
 御旅所とは神(一般には神体を乗せた神輿みこし)が巡幸の途中で休憩や宿泊する場所です。
 この「高田八まん御旅所」は、安政4年改「市ヶ谷牛込絵図」(1857年)では「穴八幡旅所」ときちんと書いてあります。西早稲田にある穴八幡宮からの神輿がこの御旅所にやって来て、神輿はよく奏し、これが神楽坂の名前になったという説があります。
 この御旅所の場所はヤマダヤ丸岡陶苑などがある場所でした。

地図18571

 ちなみに1860年、御旅所はもうなくなっています。下に青色の代地の隣にあったはずです。いったいどうしたのでしょうか。不思議です。

絵図

 しかし、「不思議です」と書いていながら、明治6年には御旅所はまだありました。小栗横丁を向いて、現在は「神楽坂かつのとうふ」などがあります。

神楽坂 長~い3丁目

文学と神楽坂

 昔は神楽坂は坂ではなく、階段でしたが、明治初期になくなりました。明治20年の神楽()三丁目はここ


 現在、3丁目は菱屋龍公亭助六丸岡陶苑ヤマダヤ椿屋五十番(五十番は2016年から4丁目になりました)などがあります。

 2丁目から3丁目に入った場所で、神楽坂通りの上を向いて右側の歩道で、歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。

 また、昔の木村屋(今は上島珈琲店)、二葉神楽坂演芸場があったところです。

 神楽坂通りで丸岡陶苑のあたりが最大の高さです。これから神楽坂上に行っても下がることになります。三沢浩氏の『神楽坂まちの手帖』「神楽坂、坂と路地の変化40年④」によれば

外堀通りの角、元「アカイ」前の道端を0mとすると、坂上の「丸岡陶苑」と向かいの「ナカノ洋裁」が12m230の最高所。毘沙門天から大久保通りへ向こうに連れて6m余りも下がる。

と書かれています。

 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では

 最高点から神楽坂下を見たところは…

最高点 最高点。神楽坂下を見たところ

 最高点から神楽坂上を見たところは…

最高点上 最高点。神楽坂上を見たところ

 左にはいると見番横丁です。

 すこし先に行くとまた左側に行く三叉路があります。ここを左側に曲がって、10mぐらい歩くと左手に駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。これは寄席の1つで、柳家きんろうなどが有名でした。

駐車場

 では三叉路に戻りましょう。すこし上に歩くと、右側に「本多横丁」が顔を出してきました。ここを超えると神楽坂通りの4丁目です。ちなみに神楽坂通りの左側は3丁目から直接5丁目になってしまいます。4丁目は一番歴史も雰囲気もいっぱいある、そんな土地です。

 本多横丁です。

本多横丁

 なお、5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱UFJ銀行の間には「毘沙門横丁」と呼ぶ小さな路地が出てきます。このあたりは芸妓が沢山いた場所です。


北原白秋|物理学校裏

文学と神楽坂

 石川啄木はこう書いています。

明治41年10年29日 啄木の日記から。
北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。

深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家で、新詩社脱退事件の1人でした。

 この「物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える」については、北原白秋氏は詩集『東京景物詩及其他』の「物理学校裏」でこう描いています。

物理学校裏

Borum. Bromun. Calcium.
Chromium. Manganum. Kalium. Phosphor.
Barium. Iodium. Platinum. Hydrogenium.
Sulphur. Chlorum. Strontium……….
(寂しい声がきこえる、そして不可思議な……)

Borumの1行 ラテン語で金属元素のホウ素。次は正しくはbromumで臭素。カルシウム。
Chromiumの1行 クロム、マンガン、カリウム、リン
Bariumの1行 バリウム、ヨード、プラチナ、水素
Sulphurの1行 硫黄、 塩素、ストロンチウム

日が暮れた、うすい銀と紫——
蒸し暑い六月の空に
暮れのこる棕梠の花の悩ましさ。
黄色い、新しい花穂ふさ聚団あつまり
暗い裂けた葉の陰影かげからせるやうに光る。
さうして深い吐息といき腋臭わきがとを放つ
歯痛しつうの色のきな沃土ホルムきな、粉つぽい亢奮きな

C2H2O2N2+NaOH=CH4+Na2CO3………
蒼白い白熱瓦斯の情調ムウド曇硝子を透して流れる。
角窓のそのひとつの内 部インテリオル
光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。
肺病院のやう東京物理学校うす青 灰 色せいくわいしよくの壁に
いつしかあるかなきかの月光がしたるる。

棕梠 シュロ。普通のヤシのこと。写真は…シュロ
花穂 かすい。穂のような形で咲く花のこと。ススキ、エノコログサ、ケイトウなど
聚団 しゅうだん。聚は「しゅう」か「じゅう」で、「多くのものを一所に集める」
 九州で「黄色」のことを「きな」と呼びます。(きな)()もそう。
沃土ホルム ヨードホルム。殺菌剤などに使う。
亢奮 興奮/昂奮/亢奮は物事に感じて気持ちが高ぶること。 刺激によって神経の働きが活発になること
C2H2O2N2・ 正しくはCH3COONa(酢酸ナトリウム) +NaOH(水酸化ナトリウム)→CH4(メタン)+Na2CO3(炭酸ナトリウム)
ムウド ムード
くもりガラス すりガラス
メタン 燃料用のガスになります
東京物理学校 現在の東京理科大学

Tîn ……tîn……tîn. n. n. n……tîn.n ……
tire……tire……tîn. n. n. n. …… syn ……
t……t……t……t……tote……tsn. n.……
syn.n.n.n.n………

静かな悩ましい晩!
何処かにお稽古けいこの琴の音がきこえて、
崖下の小さい平家ひらやの亜鉛屋根に
コルタアが青く光り、
やはらかい草いきれの底に Lamp の黄色い赤みが点る。
その上の、見よ、すこしばかりの空地あきちには
湿しめつた胡瓜と茄子の鄙びた新らしいにほひ
あわただしい市街生活の哀 愁あいしゆうに縺れる…………

Tînの1行 琴の音でしょうか
コルタア コールタール。トタン屋根の塗料として使う
Lamp ランプ
胡瓜と茄子 キュウリとナス

汽笛が鳴る……四谷を出た汽車のCadence(カダンス)が近づく…………
暮れ悩む官能の棕梠
そのわかわかしい花穂ふさにほひが暗みながらむせぶ、
歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。

Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。

寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な…………
そこここのあかるい角窻のなかから。
Sin……, Cosin…….Tan……,Cotan…….Sec……,Cosec……. etc ……
Ion. Dynamo. Roentgen. Boyle. Newton.
Lens. Siphon. Spectrum. Tesla の火花
摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or, Archimedes. etc, etc…………
棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、
無意味な琴の音のをさなびた Sentiment
何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。
汽笛が鳴る……濠端ほりばたうすい銀と紫との空に
停車とまつた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。
静かな三分間。

角窓 カクマド。四角形の窓
sinの一行 サイン、コサイン、タンジェント、コタンジェント、セカント、コセカントで三角関数です
ionの一行 イオン、発電機、レントゲン、ボイル、ニュートン
lensの一行 レンズ、サイホン、スペクトル、テスラ(磁束密度の単位)
Bunsenの一行 ブンゼン、電位、アルキメデス
Sentiment センチメント。情緒,情操
せうことなし しょうことなし。すべき手段がない。しかたない

悩ましい棕梠の花の官能に、今、
蒸し暑い魔睡がもつれ、
暗い裂けた葉のふちから銀の憂 欝メランコリイがしたたる。
その陰影かげ捕捉とらへがたき Passion の色、
歯痛の色のきな、沃土ホルムのきな、粉つぽい亢奮のきな

Neon. Flourum. Magnesium.
Natrium. Silicium. Oxygenium.
Nitrogenium. Cadimium. or, Stibium.
etc., etc.………… 四十三年三月

メランコリイ メランコリー。落ち込んだ気分
Passion パッション。情念, 感情, 激情, 熱情
Neonの一行 ネオン、ラテン語のfluorumが正しくフッ素、マグネシウム
Natriumの一行 ナトリウム、ケイ素、酸素
Nitrogeniumの一行 窒素、カドミウム、スチビウム

泉鏡花・北原白秋旧居跡|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 ここでで「千年こうじや」のすこし先をみてみます。場所はここ

泉鏡花・北原白秋旧居跡

 この背後も東京理科大学の施設ですが、先の方を少しあるくと、「泉鏡花北原白秋旧居跡」が出てきます。みえますか?

泉鏡花・北原白秋旧居跡

 360°カメラでも撮ってみました。

 現在の言葉は…

       新宿区指定史跡

いずみ鏡花きょうか旧居きゅうきょあと  所在地 神楽坂2丁目22番地

 このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花の旧居跡である。
 明治32年、硯友社の新年会で神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず)と親しくなり友人から借金をして明治36年3月、ここの借家に彼女と同棲するようになった。しかし師である尾崎紅葉に同棲が知られると厳しく叱責を受け、すずは一時鏡花のもとを去る。
 この体験は「婦系図」に大きく生かされ、このすずがお蔦のモデルでもある。同年10月紅葉が没すると、すずを正式に妻として迎え明治39年7月までこの地に住んだ。

 硯友社(けんゆうしゃ)は文学結社で、明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉山田美妙石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多がらくた文庫』を発行し、たちまち明治文壇の一大結社になりました。

 泉鏡花氏の「婦系図」の山場の一つは別のブログで。なお『てくてく牛込神楽坂』には、泉鏡花氏の略歴南榎町にいた話ヌエットと泉鏡花の話があり、大正14年に結構、難しい『神楽坂の唄』(補注もあります)、うを徳の開店披露の話(補注付き)、『神楽坂七不思議』(補注付き)、小品『草あやめ』(補注付き)、『春着』(補注付き)、『龍膽と撫子』(補注付き)をだしています。泉鏡花氏と絡んだ他の作者の作品として、『てくてく牛込神楽坂』では、柳田国男氏の故郷七十年、谷崎潤一郎氏の文壇昔ばなし、里見弴氏の私の一日二人の作家もあります。

北原きたはら白秋はくしゅう旧居(きゅうきょ)(あと)  所在地 神楽坂2丁目22番地

 泉鏡花の旧居地であるこの場所は、北原白秋の旧居地でもある。
 白秋は鏡花より遅れて明治41年10月から翌年10月に本郷動坂に転居するまでの約1年間をここで過ごしたが、その間の活動も素晴らしいものがあった。
 当地に在学中の同42年5月に短歌「もののあはれ」63首を発表しており、このころから歌作にも力をそぞぐようになった。なおこの辺りは物理学校(現・東京理科大学)の裏手にあたることから、「物理学校裏」(大正2年7月刊「東京景物詩及其他」)という詩も残している。

 北原白秋の詩として「物理学校裏」という詩も有名です。

 なお、泉鏡花氏と北原白秋氏が同じ家に住んでいたとは限りません。「神楽坂2丁目22番地」が示す場所は相当大きいのです。

神楽坂2丁目22番地




神楽坂1丁目 神楽坂下

文学と神楽坂

 神楽坂を神楽坂通りの向かい側から見ています。交差点は「神楽坂下」です。1980年代初頭までは「牛込見附」という名称の交差点でした。
 南北(横)の道路は「外堀通り」です。 東西(縦)の道路は「神楽坂通り」、あるいは「早稲田通り」です。神楽坂下の標高は6m。ここを真っ直ぐに上がっていくのが「神楽坂」で、現在は「神楽坂1丁目」。かつては「神楽一丁目」でした。神楽坂下
 その前に左を見ると、スターバックスが見えます。(前にはパチンコ店でした)。さらに昔(江戸時代)のスターバックスは牛込「牡丹屋敷」でした。道路の右側に神楽坂の標柱があります。神楽坂のいわれを書いたものです。神楽坂

かぐざか  坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
平成14年3月 新宿区教育委員会

 これ以外にも諸説があります。
 ほかには全部のお店を描いたものがあり、これはインターネットでもでています。http://kagurazaka.in/map/kagurazakamap2017.pdf

 江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏は、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で

 神楽坂1丁目 これは戦後の改称であって戦前は神楽町1丁目と称していた。現在では外濠の電車も取払われて,牛込橋を下って神楽坂を上る両側坂口が1丁目となっている。右端軽子坂より左は庾嶺坂まで1丁目である。江戸時代此の辺は片側町屋で、坂の右側は武家地であった。嘉永切図を見ても分る通り、右角松平祐之亟、その上近藤儀八郎、国領正太郎の屋敷があって、右へ曲って新小川町の通りとなる。軽子坂の上を新小川町へ下ると此処が三年坂又は三念坂という。だが1丁目は薄っぺらな町で三念坂の通りは今2丁目になっている。1丁目、坂の入口の左側の角には牡丹屋敷があった。そのあとに戦前は本所亀沢町で有名な最中を売っていた寿徳庵の支店があったが戦後はない。

 石黒敬章氏が編集した『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)では

牛込神楽坂。明治35~39年頃。

【牛込神楽坂】
 元来急坂だったものが明治10年代後半になだらかに改修され、以後賑わい始めたという。特に明治末から大正の神楽坂は、花街と毘沙門天の縁日で繁栄を謳歌した。にもかかわらず、当時の写真はほとんどない。これは牛込見附(現飯田橋駅西口付近)より写したもの。手前は外堀通り。明治35~39年頃。

神楽坂1丁目

 平成14年(2002年)、電線はなくなりました。

神楽坂上を見て左側
昭和5年頃

平成8年

令和2年
陶仙亭中華田口屋花屋
東京堂洋品炭火串焼やき龍三経第22ビル
須田町食堂翁庵 そば會田ビル
翁庵 そば清水貸衣裳モスバーガー 神楽坂下店
伊勢屋乾物
空き家エイブル 飯田橋店
畔柳氷店
壽徳庵ニューパリースターバックス コーヒー

神楽坂上を見て右側
昭和5年頃

平成8年

令和2年
紀の善寿司紀の善甘味
小間物 みどりや不二家洋菓子
斎藤洋品店地下鉄
山田屋文具のレン
萩原傘店薬ヒグチ
田中謄写堂カレーボナッ
赤井足袋店カフェベーカリー
ル・レーブ
アパマンショップ