日別アーカイブ: 2013年3月6日

芸妓と料亭

文学と神楽坂

 神楽坂の花柳界は幕末の安政4年(1857)行元寺の横丁を入ったあたりに神楽坂花街(牛込花街)として出現しました。しかし、本格的に発展したのは明治になってからです。11年後の明治元年(1868)、以降は町人の街となり商業の発展とともに花街も発展していきます。
 しかし、明治の花街はいばらの道でありまして、最初は4流の場所でした。
 夏目漱石の『硝子戸の中』(大正4年)ではこう書いています。

「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」
「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家あずまやってね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

行元寺

 この(あずま)家は寺内の吾妻(あずま)家のことで、『ここは牛込、神楽坂』でここだと書いています。

 さて西村和夫氏の『雑学神楽坂』によると

日清戦争の始まる前はわずか7~8軒だった待合は戦争の終わる頃には(わずか2年で)15~16軒と倍近くにまで増加した。さらに明治37、8年の日清戦争の景気は神楽坂の待合の数を一挙に50軒に増やし、芸者の数も増えていった。

 大正12年の関東大震災は幸いに神楽坂は火災を免れ、さらに賑わいを増しました。

 昭和初期は神楽坂の検番は旧検と新検との2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒であり、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。もっとも発展した時期です。

 第2次世界戦争が始まり、昭和30年3月の『新宿区史』では

当然の事乍ら昭和19年に料理店、待合、芸妓置屋、カフエー、バー等に営業停止令が出された。神楽坂、荒木町、十二社の芸妓は女子挺身隊として、軍事工場を重点として各種重要産業部門に向けられた。…4月に入って、13日・14日に160機のB29攻撃を受けて、四谷、牛込、淀橋の大部を焼失した。…5月25日に絨毯爆撃によって、四谷、牛込、淀橋地区の残存の大部を焼失した。そして、29日にはその残りを失ってしまった。

 しかし、戦争後、朝鮮戦争で再び花街のブームに火がつきました。また、1952年(昭和27年)、神楽坂はん子『ゲイシャ・ワルツ』が大ヒット。(『ゲイシャ・ワルツ』は次の動画で聞くことが出来ます)

 しかし、昭和33年、売春防止法以来、環境が急に変化していきます。

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

高度成長期、接待費がふんだんにある企業がお馴染みさんになって神楽坂の景気を導いた。だからバブルがはじけるとたちまちお馴染みさんとの関係は切れ客足は引いていった。

 平成9年8月には料亭5軒と芸妓25名だけになりました。平成13年は料亭は4軒だけです。

各4軒について

「うを徳」は大正9年創業。25,000円(通常平均)、20,000円(宴会平均)、15,000円(ランチ平均)。

千月」は昭和10年創業。コースは26,250円。

「牧」は21,000円、カウンターは10,500円。

「幸本」は昭和23年創業。10,500円。席料3,150円~(税込)(クレジットだと「一見さんお断りの料亭」でもOKです)。
四軒についてはhttp://www.kagurazaka-kumiai.net/ryotei.html

神楽坂の由来は?

文学と神楽坂

 この神楽(かぐら)坂の由来は区の標柱では

  1. 坂の途中にあった穴八幡旅所(たびしょ)で神楽を奏したから(江戸名所図会、大日本地名辞書)
  2. 津久戸明神(築土明神)が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから(江戸名所図会、新編江戸志)
  3. 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから(江戸名所図会、江戸鹿子)
  4. この坂に赤城明神の神楽堂があったから(望海毎談

神楽坂の由来

がありますが、どれがいいのか、江戸時代にもうわからなくなっています。
 江戸名所図会は次の通り。なお、割注は()で書いています。

同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975)

 望海毎談ぼうかいまいだんは、江戸時代中期に、江戸名所旧跡の伝説を描き、作者は不明。「燕石十種第3」5輯に出ています。以下は「望海毎談」です。

牛込行願寺
牛込通りの行願寺と云る天台宗は東叡山開闢よりはるか古よりの大寺にて今の牛込御堀端より西手は酒井空印の御屋敷邊まで此寺の境内なり神楽坂と云は赤城明神の神楽堂の有し所のよしも赤城明神は行願寺の地守なり今の社地は元の宮所にあらず尤行願寺の持を退たり此寺東叡山の末寺にして香衣の院家の地なり今以て二千餘坪の地面にて借地せし人多し

 江戸志(別名、新編江戸志)を引用した御府内備考では……

市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志

 ほかにも

  1. 市谷八幡の祭礼に、輿こしは牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したから(江戸砂子
  2. かる坂にあわせてかくら坂になった(新宿区教育委員会「新宿区文化財」)
  3. 穴八幡の旅所がここに来る以前から、祭礼のときはこの場所で神楽を行っていた。その後、穴八幡の旅所ができて、さらに神楽をおこなうので神楽坂と呼んだ(牛込町方書上)。あるいは
  4. 築土明神あげさかで御輿が重くなり、この地に供物を備え神楽を行い、揚場坂は神楽坂といった(牛込町方書上)
  5. 猿楽練習説(神楽坂界隈20周年記念号、みずのまさを)
  6. 「かぐら」は高く聳えているものを見上げるときに命名する。断崖のこと。(班目文雄「神楽坂は神楽に非ず」『ここは牛込、神楽坂』)
  7. カミクラ坂(カミは神、クラは谷・崖)だったのが江戸弁でミがなくなった。

hatiman ここでたびしょとは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に輿こしを鎮座しておく場所。神輿が本宮から旅して仮にとどまるところです。穴八幡の御旅所は、毘沙門天とは遠くない場所にありました。(ただし穴八幡の正確な位置は地図によって違います)。この『江戸名所図会』の前半10冊は天保5年(1834)、後半10冊は天保7年に書かれています。
寛政1789寛政1789年
1818文政文政1818年


 ここは渡辺功一氏の後を追いかけ、7番が一番よさそうですが、まあ、どれでもいいですね。