日別アーカイブ: 2013年3月16日

神楽坂|五十番 売れればOK(転居)

文学と神楽坂

 本多横丁の北側には「五十番」が見えます。創業は昭和32年(1957年)。肉まんや中華料理が有名です。肉まんはほかのと比べて生地が厚くて、肉はちょっと少ない。場所はここ
 2016年3月、本店の五十番は本多横丁の6丁目にうつって「元祖 五十番 神楽坂本店」になり、かわって、反対側の4丁目に「神楽坂五十番 総本店」がでてきました。
 昔の3丁目の本店は…

五十番2

 4丁目の総本店は…

五十番

 6丁目の「五十番 神楽坂本店」は…

ヤマダヤ|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

「神楽坂上」に向かって左側のヤマダヤは洋傘と帽子の店。4代目。明治10年(1877年)創業しました。場所はここ
ヤマダヤ

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丸岡陶苑|神楽坂3丁目 人形が可愛い

文学と神楽坂

「神楽坂上」に向かって左側の「丸岡陶苑」は和陶器を売る店です。

 創業は明治24~25年(1891~92年)。場所はここ

 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年、和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」とあります。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には…

「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」

丸岡

 右側のショーウインドウは、陶器でつくった人形がテーマになっています。例えば、2月はお花祭りでした。これは12月です。価格は決して高くはありません。小さい人形は1000円から3000円までです。丸岡陶苑

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二葉[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

「上島珈琲館」から「神楽坂上」に向かって右側に少し奥に入ると、「二葉」になりました。ここは初めて「ばらちらし」が誕生した店です。昭和6年創業。地図はここ

「二葉」の「ばらちらし」は、江戸前のちらし寿司はすし飯のうえにもみ海苔をふって魚を並べたもの。それに比べるとネタが細かくきざまれています。呉服商の依頼で、着物に醤油がとばないようにしたようです。ばらちらしは昼は1500円のみ、夜は2500円から。残念ながら、2015年に廃業しました。新しい店舗は2016年6月22日に開業した居酒屋「こんぶや」です。

二葉

 あるブログには

奥で食券買ってくださいと、お帳場で。おばあちゃんから黄色い札をもらって着席すると、やがて、ばらちらしが運ばれてきます。ランチ時にはこの単品メニューだけなのに、なぜこういうシステムなのか? あらま、不思議

と書いてありました。

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神楽坂木村屋(昔)

文学と神楽坂

 神楽坂3丁目にある「上島珈琲店」は以前は「神楽坂木村屋」でした。

「神楽坂木村屋」は酒種あんぱんなどのパンを作っていました。創業は明治39年(1906)。終戦では下記の如し。平成17年(2005)になり、閉店しました。銀座木村屋の唯一の分家でした。場所はここ

 やはりコーヒーが一番うまい店はこの「上島珈琲店」か神楽坂6丁目の「珈琲館」だと思います。まあ、高いけど。上島珈琲店はパンも心持ち美味しい。ちなみにパンが一番うまい店はメゾンカイザー(場所は箪笥町)です。メゾンカイザーの普通のコーヒーです。

助六|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 助六は神楽坂3丁目にある履物の店です。明治40年(1907年)、場所はここ。履物博覧会で1等賞を取り、創業は明治43年(1910年)です。

 助六の前に若松亭という浪花節の定席があったようです。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第1号で『お店の履歴書 履物の老舗「助六」さん』では

 先代である今は亡き父上の要氏は、若い頃、横山町の下駄屋さんで働いていた。でもその界隈で商売するだけでは埒があかないと、東京中の花柳界を回るように。
「それまでの駒下駄はもっと歯が厚かったんです。でもそれじゃ花柳界では不粋だからって、親父は歯を薄くして。いまのような駒下駄にしたわけです」
 先代が考案した小粋な下駄が世に広まる契機となったのが、明治四十年、東京で開かれた履物博覧会だった。
「ええ、いいあんばいに一等賞をいただいて」

助六

 また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『助六』の創業は明治四三年、創業者は石井要氏である……
 当店は創業の頃から傘と下駄を扱ってきた。出来合いの傘だけではなく、注文に応じた品も作らせていた。下駄のサイズは一つしかなく、鼻緒のすげ方で二一cmから二五cmまで対応する。鼻緒をお客さんの足に合うように挿げるのは一番大切な仕事で、足を見ただけで文数がわかるようにならなければだめだ、と言われた。顧客のなかには与謝野晶子宮城道雄菊地寛西条八十川合玉堂などもいて、自宅に注文をとりに行き納品することもあった……
 草履にはふつう畳表をはるが、要氏が皮張りの草履を考案した。昭和の初め頃には、様々な色を使ったエナメルの草履なども作っていた。その頃、有楽町宝塚劇場のサロンのウィンドウに商品の見本を出せることになり、それを見て買いに来るお客さんが増えたこともある。また昭和二九年から昭和五六年頃まで、新宿伊勢丹の「さつき会」という催事(母の日を含む1ヵ月間)の際に出店していた。デパートの売り場の中でとてもよい場所とされる一階に店を出し、実際にたいへんよく売れた。
 花柳界が近く、また一般のお客さんも多いため、現在の店には様々な好みに合わせられる珍しい希少商品や、オリジナル商品を置いている。


龍公亭|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

龍公亭

 龍公亭は中華料理で四代目がやっています。創業は明治31年(1898年)。創業当時は「あやめ寿司」という寿司屋でした。大正13年の改装を機に2階で中華料理店「龍公亭」をスタート。初代の中華のシェフは楊澤林氏。本格的な中華料理店は山の手で初めての開店だといいます。じきに中華のみの営業に変わりました。かき氷の「あずきアイス」はここで生まれました。

 開店時の看板メニュー、ラーメンの「あやめそば」や初代シェフが娘さんの名前を取って名付けた「桂春麺」もあります。

 4代目のオーナーシェフは周富徳氏が料理長を務める赤坂璃宮で3年修業をしてきました。全面的な改装を行い、外がよく見えるようになっています。1代目から初めてのオーナーシェフです。

 今からうん年前、3代目のシェフのときに食べに行き、2回ほど行き、うううんと。それからは行きませんでした。4代目のシェフになって、初めて行き、うまい。どれも古典的な中華ですが、ひとくち、いい点がある。なんとまあ。名前は同じでも中身はまったく違うものもある。デザートもちょっと違っています。絵葉書や本も売っています。すぐに人で一杯になるのもわかります。場所はここで。

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菱屋|神楽坂3丁目 昔は糸を扱う店 今は…不動産です

文学と神楽坂

 このひしも歴史があります。創業は明治5年(1872)。場所はここ

菱屋

「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。店がよく栄えたのは二代目。肴町(現在の5丁目)では大家になっています。

 現在は天利義一さんが社長。そして「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが何かを狙って並んでいます。本当に利益が出るのだろうか?

 「菱屋糸屋」は現在不動産の賃貸業です。天利海によれば賃貸物件は

  • 東京都新宿区神楽坂 3-2
  • 東京都新宿区神楽坂 5-12(7ヶ所)
  • 東京都新宿区矢来町 125(3ヶ所)※
  • 東京都新宿区原町 1-59
  • 東京都豊島区高田南町 1-25(2ヶ所)

たとえば大久保通り角のビルもこの不動産の物件になっています。

牛込神楽坂之図の碑

文学と神楽坂

 神楽坂通りの上を向いて右側の歩道には歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。そこには拡大図もあります。

牛込神楽坂の図

 さらにその下には

神楽坂の由来については
坂の途中にあった
 穴八幡御旅所で
  神楽を奏したから
津久戸明神が
 移転してきた時に
  この坂で
   神楽を奏したから
若宮八幡の神楽が
 この坂まで
  聞こえてきたから
この坂に赤城明神の
 神楽堂があったから
などの説があります。

と書かれています。なお、戦前の津久戸明神筑土八幡神社の隣りにありました。

4神社

神楽坂|ファミリーマート 昔は牛込會館

文学と神楽坂


サークルK

 1階は「ファミリーマート」、2階は「ロイヤルホスト」、それ以上はマンションです。


 この範囲は江戸時代では土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で囲まれた本多屋敷がありました。その後「温泉山」という地域の銭湯「イソベ温泉」や歯医者になり、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の少し前には貸し座敷「牛込會館」に変わります。

 同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。

 その後、牛込会館は白木屋デパートが営業しましたがほとんど客が入らず廃業になりました。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

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神楽坂仲通りに行くには
小栗横町に行くには
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神楽坂|太陽堂 ブリキは仮の姿かな

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目の「太陽堂」も本来は陶器店ですが、ブリキなどレトロなものを置いています。これは中国産のものが大半です。場所は左端のここ
 これも50年は古そうですが、よくはわかりません。
 1952年の「火災保険特殊地図」(昭和27年)は加藤陶磁店と出ています。1960年頃の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)では「瀬戸物 太陽堂」です。加藤陶磁店と太陽堂とは同じ経営陣ではないかと思います。違う場合もありますが。
 さらに昔に行き、1937年(昭和12年)の「火災保険特殊地図」は名前は書いていません。
 昭和5年(1930年)は「甲斐屋布団」になっています(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」)。おそらく太陽堂は終戦後にできたものではないでしょうか。

taiyodo

昭和5年頃平成8年令和2年
甲斐屋布団太陽堂陶器
大川時計店増田屋食肉
八幡小間物松屋 牛丼
村田煙草店
山岸玩具店安曇野食堂ポルタ神楽坂
伊沢袴店
盛光堂煎餅十奈美化粧
酒場ユリカ
三好屋玩具喫茶パウワウ
カフェ神養軒
三好質屋バーゲン場


神楽坂|肉のますだや すごく客が一杯の店

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目の「肉のますだや」は、戦後同じ場所で、ここに。味も価格も昔ながらのものを売って、店ですき焼き、牛鍋、しゃぶしゃぶを食べることもできます。少し安くて、少しおいしくって、人がいつも一杯の店です。50年は古そうで、戦後すぐにできたものだと思います。

ますだや

昭和5年頃平成8年令和2年
甲斐屋布団太陽堂陶器
大川時計店増田屋食肉
八幡小間物松屋 牛丼
村田煙草店
山岸玩具店安曇野食堂ポルタ神楽坂
伊沢袴店
盛光堂煎餅十奈美化粧
酒場ユリカ
三好屋玩具喫茶パウワウ
カフェ神養軒
三好質屋バーゲン場


神楽坂|陶柿園、写真館、さわや

文学と神楽坂

 最初は陶柿園とうしえんです。陶磁器をおいています。昭和23年、開業しました。1階は手頃なもの、2階は高級品を選んでいるようです。陶磁器以外にガラス製品も売れています。場所はここ

 昭和31年、陶柿園に車が突っ込む交通事故が発生し、ここから逆転式一方通行になりました。

 この3階は「神楽坂写真館」、つまり「旧夏目写真館」で、場所はここ。やはり1世紀以上続く写真館です。昔、この写真館は反対側のここでした。もっと昔は陶柿園が現在いる場所にでています。

 つまり、坂上を上に見ると、最初は夏目写真館は右で、第2次世界大戦後では左に、そのあと、2011年、「ポルタ神楽坂」ができると、また右に移ります。

 しかし「2023年8月末日をもちまして、神楽坂写真館は閉館いたします」と案内が出て、現在は「神楽坂やまもと内科クリニック」に変わっています。

tousien

さわやは資生堂の一店舗として化粧品を置いています。しかし、創業はなんと大正2年。本来はかんざし、櫛、かもじを扱う店でした。場所はここ
さわや

 令和6年(2024)末には「さわや」も廃業します。11月23日には閉まっていました。

梅花亭|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

「神楽坂 梅花亭」の創業は1935年(昭和10年)ですが、でも、いいですか、ここで始まっているわけではありません。場所は池袋です。もちろんみんなに聞けばちゃーんと教えてくれます。

 神楽坂の出店は08年。11年にポルタ神楽坂店を開店。池袋などは閉店し、現在は神楽坂の2店舗のみになりました。場所はここです。もちろん和菓子です。けっこうおいしい。

梅花亭


千年こうじや|神楽坂 うぃっと

文学と神楽坂

「千年こうじや」は新潟県魚沼の地酒「八海山」の酒蔵・八海醸造の子会社です。場所はここ

「千年こうじや」は12年3月3日に麻布十番、10月20日に神楽坂にオープンしました。

 八海醸造の創業は1922年(大正11年)です。清酒以外では発酵食品企業として『米・麹・発酵』をコンセプトにしています。

 酒のアイスクリームはおいしい。うぃっと、酔いました。でもうまい。

 ほかの店は神楽坂通りを前にしてしますが、「千年こうじや」は裏通りの小栗横丁を前にしています。

こうじや


神楽坂|二丁目食堂トレド なんでもやったる

文学と神楽坂

「二丁目食堂トレド」は創業は昭和47年(1972年)です。場所はここ

 ここ神楽坂で始まり、まえのビルがないと消え、新しい建物ができると戻ってきました。

 以前も裏通りで、今度も裏通りです。「継ぎ足しカレー」で有名です。

トレド


神楽坂|紀の善 おいしいけど難点はたかい(閉店)

文学と神楽坂

 ぜんは「令和4年9月30日をもちまして店舗を閉店させて頂きました」。理由は「店主の高齢化や諸般の事情」のためでした。あーあ… 閉店は「紀の善の閉店」で。

 新しい店舗は「しんぱち食堂」。前書きに「炭火焼干物定食」。和食ファーストフードチェーンです。別に書くとして、今日は紀の善についてです。

「紀の善」は東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋でした。場所はここです。
 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では……

「文久・慶応年間(1861-1868年)「紀ノ善」創業。口入業

 口入業とは職業周旋業者のこと。これと違って創業の年は嘉永年間(1848-1854)だとするもあります。

創業の幕を開けたのはおおよそ七十余年前(「食行脚 東京の巻」協文館、大正14年

 大正14年(1925年)から70余年前は嘉永年間(1848-1854)です。しかし、どちらも引用文献はなく、正確にはわかりません。
 冨田冨江氏の「私が生まれ育つたまち」(「ここは牛込、神楽坂」第16号、平成12年)では……

 戦前うちはお寿司屋だったの。それも宮内省の御用で、立ち食い寿司でなくて御用御膳寿司といっていた。

 同じく「紀の善と牡丹屋敷」(「ここは牛込、神楽坂」第17号、平成12年)では……

 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは三十人頼むとか、きょうは雨だから五人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂で代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。
 その後、牡丹屋敷は町屋になりますが、ずっと牡丹屋敷と呼ばれていたようです。で、紀の善はご維新後、寿司屋に転向しましたが、そのときはこの絵柄から、花蝶寿司といっていました」

 明治維新後は「紀の善・花蝶寿司」。それまで牛込壕端沿いに住んでいたのですが、大地主升本喜兵衛に薦められ、現在の場所に移りました。

 宮内省の御用達になると、「御膳寿司紀の善」に変更。

 なお新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、関東大震災前の当時、大正11(1922)年頃は「神楽小路」のことを「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

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 明治41年1月、北原白秋吉井勇木下杢太郎など七人はこの2階で新詩社の脱退を決めました。かわって『パンの会』を作ります。これは長田幹彦氏の「わが青春の記」に書いてあります

 また出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では

 紀の善の店(さき)には印絆纒(かんはん)を着た下足番が床几に腰かけて路行(みちゆ)く人を眺めてゐる、上框(あがりかまち)には山の手式の書生下駄が四五(そく)珠數繋(じゆずつなぎ)にされてゐて、拭きこんだ板間(いたま)に梯子段が見える。田舎者で(とほ)つた早稲田の(がく)(せい)も此處のやすけが戀しくなれば()づ江戸つ子の()としたもの

印絆纒 シルシバンテン。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏
床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け
上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 たかげたとも。10センチ以上視線が高くなります
珠數繋 数珠(じゅず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎは、糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋の名は弥助やすけでした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした
 それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では昭和11年2月26日、2・26事件の時に「神楽坂が鎮圧部隊の駐屯地にされた時、紀の善が鎮圧部隊の司令部になった」と書かれています。戒厳司令部は軍人会館(現九段会館)なので別で、あくまでも「鎮圧部隊」の司令部でしょう。

 建物は戦争で焼失し先々代の女将が中心となって今の甘味処「紀の善」に変わりました。刺青から甘味処に変わったのです。(内緒にしようっと。)最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。

 赤井儀平氏の『神楽坂界隈の変遷』「古老談話・あれこれ」(新宿区立図書館、1970年)では

 昔は早稲田の運動会は向島でやったものです。その時は学生達は思い思いのふん裝で会場へ乗り込むのですが、四十七士もいれば児島高徳を気取って鎧の上から蓑を着て来る学生もいました。弁当は学校から出るんですが、「紀の善」で一手にひき受けていたらしく、何でも3,000人分くらいだそうで洗い方煮方炊さ方詰め方と分業で手分けをして徹夜で戦争のような騒ぎでした。こんな騒ぎは大正の末頃まで続きました。今では近くにも大きな大学が沢山できましたが、昔の早大と神楽坂の様なつながりを持った学校は一つもありません。

紀の善(中村武志『神楽坂の今昔』毎日新聞社、昭和46年)

紀の善(中村武志『神楽坂の今昔』毎日新聞社、昭和46年)



神楽坂|不二家 かわいいペコちゃん でもペコちゃん焼は…

文学と神楽坂

 地下鉄の出入り口の先には「不二家」のフランチャイズ店があります。昔は岩瀬糸店でしたが、小間物みどりや、パンの神楽堂になり、昭和42年(1967年)、ケーキ・洋菓子などの不二家になりました。場所はここです。

fujiya

 わずか105円の「ペコちゃん焼」が有名です。現在はここにしか残っていません。05年、鉄板を新しくしたのを機に「ポコちゃん焼」が登場しました。かわいいペコちゃん、りりしいポコちゃん、新しい鉄板、きれいな店構え、ペコちゃん「焼」もうっとりするほど可愛くなりました。(若干、うそです)。

 決して甘すぎるものはないので大丈夫。なお、店の前のペコちゃんはしょっちゅう衣装が変わります。

 この平松南社長は父がフランチャイズの社長で、本人は講談社の社員でした。祖父と兄はなくなり、本人がここの社長になりました。ここ神楽坂が大好きな社長として書籍の出版などもやっていました。現在はインターネットが中心です。


神楽坂|のレン 山田紙店[昔]

文学と神楽坂

「のレン 神楽坂店」は、2016年12月に開店したスーベニアショップです。

 その会社は株式会社コラゾンで、元々は海外在住経験のある創業チームが「人々をワクワクさせるようなまだ知られてない日本の魅力を国内外に伝えたい」と、2008年に京都市内に祇園店を開店しました。現在は、京都嵐山/四条通り、東京浅草、横浜赤レンガ倉庫、愛知中部国際空港など観光地やゲートウェイに10店舗を展開しています。

 この半分は地下鉄の駅につながっています。

のレン

現在の『のレン』

 その前は「山田紙店」でした。この「紙店」とは文房具屋のことです。平成28(2016)年9月に閉店しました。

 この「山田紙店」の創業は中小企業情報の『商店街めぐり-神楽坂』(1955年、昭和30年)によれば、明治22年(1889年)。江戸時代は木版師ついで絵草紙屋でした。場所はここ

 その後、煙草の販売店と一緒になっていました。中には「原稿用紙」も売られていましたが、ほとんどの人は煙草を買う時に立ち寄り、煙草以外のものを売っているとわからないでしょう。実際、煙草はものすごく、ものすごーく売れていました。しかし、ここでのポイントはあくまでも「原稿用紙」。

 はるか昔から「原稿用紙」が有名な二店のうち一店なのでした。夏目漱石、川端康成、吉行淳之介などの作家たちは山田紙店の原稿用紙を愛用したといわれています。

山田紙店

過去の『山田紙店』

『拝啓、父上様』の第1話で

一平 神楽坂上ったとこに、相馬屋っていう有名な文房具の店があってな。そこの原稿用紙買って来て書くとすらすら文章が書けるって云うぞ
時夫 本当かよ
一平 夏目漱石とか、ア! 仲々書けない筆の遅い奴はな、坂下の山田屋の用紙がいいらしい。井上ひさしなンて人はそこらしいって云ってた
時夫 ――いい話聞いた

 いつになるかはわかりませんが、遠い時間の先で「のレン」はなくなります


神楽坂|オザキヤ靴店 数なら負けない

文学と神楽坂

 靴のオザキヤ「オザキヤ靴店」について、ただただもう大量な靴があります。場所はここ

 西村和夫氏は『雑学 神楽坂』にこう書いています。

 日本人が靴を履き始めた時代から100年にわたる靴屋だ。明治末、創業者が洋行帰りの人から履き潰した靴を貰い受けて、それをばらして構造を研究して製造販売から修理まで行った。まだ既製品の靴がない時代全てがオーダーメイドで、昭和の初め頃まで『銀座に劣らぬ職人がいる』と、神楽坂は山の手の政治家や文化人に贔屓にされた。

 創業は明治33年(1900)。現在は3代目です。


昭和5年頃平成8年令和2年
はりまや喫茶夏目写真館ポルタ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽屋煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールチャイハネ インド服
樽平食堂ラーメン花の華天下一品 中華そば
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴
三好屋食品志満金 鰻
增屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服
田日屋生花店


神楽坂|志満金 鰻は絶滅危惧種1B類になったけど 

文学と神楽坂

 志満金は昔は島金でした。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。場所はここ

 さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。

 実は初めは神楽坂通りではなく、小栗横丁(鏡花横丁)にでていた時もあったのです。

 新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では…

志満金

 泉鏡花の『神樂坂七不思議』にこの話が出ていますが、仕立屋と書いてあるのは「洋服 ハ木下」に間違えて入っていったのでしょう。

島金しまきん辻行燈つじあんどう
いへ小路せうぢ引込ひつこんでとほりのかどに「蒲燒かばやき」といた行燈あんどうばかりあり。はややつがむやみと飛込とびこむと仕立屋したてやなりしぞ不思議ふしぎなる。

 実際にはこの頃は島金(志満金)は小栗横丁(鏡花横丁)のほうに顔を出していたのです。

昭和5年頃平成8年令和2年
はりまや喫茶夏目写真館ポルタ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽屋煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールチャイハネ インド服
樽平食堂ラーメン花の華天下一品 中華そば
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴
三好屋食品志満金 鰻
增屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服
田日屋生花店