月別アーカイブ: 2015年9月

三越|関東大震災直後

文学と神楽坂

 古くは昭和45(1970)年の新宿区教育委員会編『神楽坂界隈の変遷』の「古老の記憶による関東大震災前の形」では「震災直後 飯田橋病院の敷地に、三越マーケットができた。(日本橋の本店は改修中であった)」としています。

『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)の「新宿・神楽坂暮らし80年②」で水野正雄氏は関東大震災直後の「三越」を現在の大久保通りにあるとしています。図は…

白銀町2

 さらに『まちの想い出をたどって 第1集』(NPO法人 粋なまちづくり倶楽部、神楽坂アーカイブズチーム、2007年)の水野正雄氏の「神楽坂を語る」によれば、「場所は現消防署のあたり、当時はガス会社の出張所だった。日本橋の復興後すぐに引き払ったようだ」と書いています。

 また新宿歴史博物館編の「新宿風景―明治・大正・昭和の記憶」(2009年)では写真が出ています。

三越の牛込マーケット(大正12年から14年まで)

三越の牛込マーケット(大正12年から14年まで)

 現在の牛込消防署を右から見ると…。ここに三越牛込マーケットがはいっていたのですね。消防署 消防署

「コボちゃん」と思うブロンズ像

文学と神楽坂

コボちゃん@神楽坂6丁目

コボちゃん@神楽坂6丁目

 2015年8月16日、何かのブロンズ像が神楽坂6丁目に登場しました。これはなんなのと聞いてもわからないものになっています。たぶん「コボちゃん」ですが、自信はありません。どこにも名前は書いていません。いずれ名前をつけたプレートができると信じます。どこにもないもんなあ。作者の植田まさしさんはここに住んでいるのこと。

 なお、以前はここはサトーヤでした。

 すいません、名前は後に描いてありました。でも最初はなかったと思う。ほんとかなあ。場所はここ
コボちゃんと植田まさし

続こしかたの記|鏑木清方

文学と神楽坂

 鏑木(かぶらき)清方氏が書いた『続こしかたの記』の「夜蕾(やらい)亭雑記(1)」では

 前記田原屋に並んで太田屋といふ半襟店があつた。銀座には襟善ゑり圓の專門店もあるが、この土地には太田屋が繁昌して、山川はそこの主人と心安く、圖案の相談にも乘つてゐたやうである。半襟に數奇(こら)したのは明治、大正を盛りとしてその後、だんだん影を消した。紙の相馬屋、菓子喫茶の紅谷も土地の名物であつた。神樂坂通から電車道を越す通寺町には今は見かけぬ砂糖屋 蝋燭屋の專門店もあつた。

 ここでは砂糖屋と蝋燭屋はどこにあるの、というのが問題です。でも、その前に、他の問題もやっておきます。

田原屋 神楽坂5丁目南側にあった1階は果物屋、2階は洋食屋。現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。
太田屋 河合慶子氏は『ここ牛込、神楽坂』第3号の『懐かしの神楽坂』で「肴町界隈のこと」を書き、

ワラ店の角の「太田半衿店」。箱にきれいに並んだ半衿の、赤・黄・緑と色とりどりの鮮やかさ。

 現在は和菓子の『五十鈴(いすず)』です。
半襟 半襟装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢(じゅばん)などの(えり)の上に縫いつけた替え襟。
襟善 ゑり善。えり善。中央区銀座5丁目6-7。和服店。
ゑり圓 ゑり円。えり円。中央区銀座4丁目6−10。和服店
山川 秀峰。やまかわ しゅうほう。生まれは明治31年〈1898年〉4月3日。死亡は昭和19年〈1944年〉12月29日)。日本画家、版画家。美人画で有名です。大正2年(1913年)に清方に入門し美人画を学びました。
数奇 すうき。ふしあわせ。不運。運命がさまざまに変化すること…となるのですが、おかしい。数奇ではなく、数寄だとすると…数寄は「すき」と読み、風流・風雅に心を寄せること。数寄(すき)を凝らす。建物・道具などに、風流な工夫を隅々までほどこすことと…このほうが正しいと思っています。一瞬、私が書いたものが違ったではと不安でしたが、鏑木清方氏からして違っていました。
相馬屋 神楽坂5丁目北側にある文房具屋。現在も健全です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。現在の大久保通り。昔はここに路面電車ができていました
通寺町 現在の神楽坂6丁目のこと。

太田半衿

砂糖屋 『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった『寺内』」を書き、そこに「サトーヤ」が出ています。これが砂糖屋だったのでしょうか。

サトーヤ
 『ここは牛込、神楽坂』第15号の「続こしからの記」の解説で、「砂糖屋は砂糖問屋の升屋、蝋燭屋は、現模型店の駿河屋」と書いてあります。『地籍台帳・地籍地図[東京]6・地図編2』(大正元年)で調べると、神楽坂6丁目59番地には舛屋砂糖店と書いていました。(ます)屋砂糖店、あるいは(ます)屋砂糖店は、江戸時代に砂糖を取り扱った問屋でした。明治以後、中国・オランダ以外に欧米諸国からの輸入も開始、輸入品の値段が下がり、砂糖問屋は大打撃を受けて、多くが没落することになりました。舛屋はここです。

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 都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和12年)と平成10年の『ゼンリン住宅地図』では下の通りです。上の四角、59番地が砂糖屋さんでした。
 2015年に立てられたコボちゃんの像も書いています。
砂糖・蝋燭 2
蝋燭屋 場所は神楽坂6丁目64番地です。蝋燭とは、糸や紙縒りを芯にして、蝋を固めた円柱状の灯火用具。この蝋燭屋は、模型店の駿河屋に変わります。駿河屋については雑誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」(03)「神楽坂6丁目辺り」

古く、落ち着いた建物に、模型やフィギュアなども置いてあって、ショーウインドーを覗く楽しみがあった。適度な明るさと、ホッとするような懐かしさが混在していた。閉店前の1カ月は、バーゲンセールで、なぜかロシア製とドイツ製の戦車が売れ残っていたので半額で買いました。でも、まだ組み立てていません。

 駿河屋も今はなく、東京パーク神楽坂第1駐車場に変わり、さらに現在は自転車の「SAKULA」などに変わりました。下の写真は、左側がSAKULA、右側は昔の砂糖屋です。今はパークリュクスです。
砂糖と蝋燭 現在

伝統の店々|昭和30年 (1/4)

文学と神楽坂

『中小企業情報』に書かれていた『商店街めぐり-神楽坂』(中小企業情報編集部、1955年、昭和30年)を読んでみます。

伝統の店々

 以上は、戦後における神楽坂の現況を示したものであるが、この街は既述したとおり、明治、大正の時代より極めて古き歴史をもった街だけに、また伝統ある古いのれんをもつ店々もまことに多く、これらの店々がこの街に多くの人々を呼び入れる一つの魅力ともなっている。
 この神楽坂の坂をのぼりつつ昔からの老舗をたずねてみると、まず坂の入口にある山田紙店は、明治二十二年創業でいま二代目、江戸時代は木版師ついで絵草紙屋であった。

山田紙店 現在はスーベニアショップ「のレン」に変わりました。創業は明治22年だそうですが、そうでしょうか。まずこの『商店街めぐり-神楽坂』(1955年)では明治22年。新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)でも「右角から二三軒行ったところに今でもある山田紙店(1丁目12番地)が明治22年頃からの創業であった。主人は関西の人とかいう事である」。渡辺功一氏が書いた『神楽坂がまるごとわかる本』では「明治二十三年『山田紙店』創業。初代山田栄吉。江戸時代は木版師、絵草紙屋。文具は物理学校(東京理科大)の学生御用達、作家の原稿用紙でも有名」と書いています。より古くが正しいとすると明治二十二年創業でしょう。他の点についてはここで

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和27年

 紀の善は戦後汁粉屋になっているが、もとは、すしやで著名な店であった。幕末頃の創業で大名邸へ出入りしていたすし屋で、初代紀国屋善兵衛といわれている。すし屋は、しのだすし亀井すしの支店が次にならんでいる。メトロ映画劇場は二十七年一月元日を期して開場。次に山本薬局は文化五年創業以来この坂の中腹で連綿のれんを掲げている老舗で、今六代目、また向側のコーヒーの七福は元割烹の末吉、明治中頃の創業で今三代目、糸の菱屋は昔通りの貫録を示して繁昌している、明治三年創業。

紀の善 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)では

その一軒おいた隣に紀の善 ここも今は甘い物やになっているが,明治の30年代は料亭であった。幕末頃はすしやであったという(当時から1丁目12番地)

 渡辺功一氏が書いた『神楽坂がまるごとわかる本』(2007年)では

文久・慶応年間(一八六一~六八)『紀ノ善』創業。口入業、紀州出身の初代紀ノ国屋善兵衛、維新後には、『紀の善 花蝶寿司』、戦後は汁粉屋、いまの甘味処『紀の善』

 西村和夫氏の『雑学 神楽坂』(角川学芸出版、平成22年)では

天皇機関説の美濃部達吉は寿司屋紀の善を愛して度々来店した。達吉には四六時中警察の尾行がついて、店を出るとすぐあとに警官が来て『誰と会っていた』『何を話していた』など根掘り葉掘り聞いて帰った

 牛込倶楽部が発行する『ここは牛込、神楽坂』平成11年第16号の富田冨江氏の『私が生まれ育ったまち』では

 うちがお汁粉やるようになった、戦後の話ですけどね。そう、戦前うちはお寿司屋だったの。それも宮内省の御用で、立ち食い寿司でなくて御用御膳寿司といっていた。そもそもうちの祖先は、紀国屋善兵衛といって、紀州の吉宗が江戸に出てくるとき一緒についてきたんです。いまの職安みたいな仕事で、若い男の人を六十人くらい連れて。だから「紀の善」なんですけど

 ほかにここで

しのだすし 昭和27年の『火災保険特殊地図』(都市製図社)では「メトロ映画劇場」の西側に「しのだすし」と出ています。
 また、山本祥三氏の『東京風物画集』(雪華社、昭和38年、下図)で「志乃寿司」も同じものでしょう。地図を見ると、「しのだすし」は1970年にはありますが、73年にはなくなっています。場所はここで。
 東京風物画集(雪華社、昭和38年)東京風物画集

亀井すし 昭和27年の『火災保険特殊地図』の左側に「(料)かほる」と「小間物 さ和屋」で挟まれて「亀すし」があります。ここでしょうか。時代が少し代わって、別の住宅地図(1960年、昭和30年)を見ると「寿司亀井」と書いてあります。
 1970年「亀井寿司」は確かにありましたが、「さわや」に買い取られて、1973年以降の住宅地図や、1985年の「神楽坂まっぷ」ではこの寿司はなくなっています。1990年11月、新しい6階建てのさわやビルの竣工を行いました。

山本薬局 昭和27年の『火災保険特殊地図』では「しのだすし」の左側の「山本」がありますが、これは新宿区郷土研究会が書いた『神楽坂界隈』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」では「山本油店」のようです。したがって違います。また上の1962年の写真で「山一薬品」も違います。
 直上の写真ではわかりませんが、昭和27年の『火災保険特殊地図』(一番上の絵)では、ちょうど「美容院マーサ-」の対面に「山本薬品」がでています。
 久保たかし氏が書いた『坂・神楽坂』(平成2年)では

山本薬局、もとは漬物やさんで、文化5年の創業というから相当なもの。ここには女の子が二人居た。中学の頃には女学校の上級生で、二人並んで、きれいなおべべを着て、しゃなりしゃなり歩いていた。はでであったので良く人眼をひいた。私も、又歩いてやがると思いながらも眼はその姿を追っていた。きれいで華やかだとデモであっても見ていて楽しい。

 現在は神楽坂山本ビルで、神楽坂会計やデンタルクリニック神楽坂などが店舗をだしています。

七福 雑誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」の「神楽坂1丁目~二丁目辺り」で「七福」は仲通りの地図にはでています(中央の図)。しかし文章はありません。また、「七福ビル」というビルの名前は現在の地図(左図)でも出ています。

七福2七福


 しかし、「向側のコーヒーの七福」とは合いません。国会図書館の新宿区の地図1960年によればかなり位置が違い、写真では神楽坂通りに近い場所、美容室マーサの隣りにあったようです。

七福1

菱屋 菱屋も歴史があります。創業はこの本の『商店街めぐり』によれば明治3年(1870年)。新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)によれば明治四年、創業者は天利吉夫氏。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。『新宿区の民俗(5)』で「店がよく栄えたのは大正・昭和初年頃で、二代目の庄次郎氏のころだった。関東大震災のときは米の買い出しに行き、近所に分けたこともあったという。震災後は神楽坂が最もにぎやかな時代で、道を横切れないほどの人出があった」

菱屋1

 上図も同じで、右側に大きく菱屋が取り上げられています。
「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが何かを狙って並んでいます。本当に利益が出るのだろうか? 「菱屋糸屋」は現在不動産の賃貸業が主になりました。

伝統の店々|昭和30年(2/4)

文学と神楽坂

「中小企業情報」の「商店街めぐり 神楽坂」『伝統の店々』(昭和30年)で、まず助六、丸岡、塩瀬、柏屋、サムライ堂です。

その向いは履物の助六、その名のごとく江戸趣味豊かな粋な履物で有名な店である。大正三年創業で昔の不粋なさつま下駄を改め歯を薄く背を低くした粋な下駄を創案して履物界に大いなる改革を与え、花柳界は勿論、高松宮山階宮の愛顧をうけ、また吉右衛門玉堂菊池寛等と文士著名人の愛用も多かつたといわれている。

さつま下駄 薩摩(さつま)下駄(げた)。駒下駄に似た形で、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多く杉材で作る。ちなみに、(こま)下駄(げた)は台も歯も1枚の板からくりぬいて作ったもの。雨天だけではなく晴天にも履ける。17世紀末期に登場し、広く男女の平装として用いられた。明治以前におけるもっとも一般的な下駄。日和(ひより)下駄(げた)は歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。雨天にも爪皮(つまかわ)をつけて用いる。
高松宮 かつて存在した日本の皇室の宮家。1913年(大正2年)7月6日創設。
山階宮 山階(やましなの)(みや)。江戸時代末期、伏見宮邦家親王の王子、(あきら)親王が創設した宮家。なお、山階芳麿氏は山階鳥類研究所を創設し所長に
吉右衛門 中村(なかむら)吉右衛門(きちえもん)。初代。生まれは1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。若宮町31~2番地に住みました。若宮会と若宮町自治会が書いた『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)です。吉右衛門と川合玉堂が道を接して住んでいました。なお、新坂はここで若宮町

頼戸物の丸岡は、創業六十年、三代目。和菓子の塩瀬は、明治四十四年塩頼総本家の神楽坂支店としてこの地にできたものである。呉服の柏屋の主人山浦岩男氏は神楽坂振興会々長として、戦後の神楽坂振興のために多大の尽力貢献をした人で神楽坂一丁目から六丁目までの統合から軍用道路徹回や車留制夜店の復活請願等老齢にもかかわらず昔の神楽坂の繁栄を呼びもどさんと積極果敢な活躍をつづけている。向いの洋品のサムライ堂は明治四十年創業で、今三代目「御値切お断り申上候」の正札主義で看板に偽りなし、武士道精神を商道に生かすものとして当時は乃木大将お気に入りの洋品店で、良品堅実な店という評判が高い。
3丁目1

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

丸岡 丸岡陶苑。創業明治24~25年。渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」と書いてあります。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」
丸岡
塩瀬 雑誌『かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では
「築地の有名な老舗の支店があった。来客用の上等な和菓子は塩瀬で買ったけど、揚げ煎やおかきのような庶民的なものもおいしかった」
 久保たかし氏の『坂・神楽坂』(平成2年)では「和菓子の老舗「塩瀬」がつい最近まであったが、今は無い」塩瀬
柏屋 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第5号「本多横丁」によれば創業は大正7(1918)年。振袖、訪問着、染帯、染額の作品を展示。現在は「芸者新路」にありますが、『ここは牛込、神楽坂』第5号の平成7(1995)年には、本多横丁に。さらに昔の昭和30年には「向いの洋品のサムライ堂」となっています。つまり、この時代、柏屋とサムライ堂とは神楽坂通りの対面、では言い過ぎで、斜向かいになり、柏屋は神楽坂3丁目のタバコ中西屋と菓子塩瀬の間に入りました。

1960年、3丁目北側最西部の歴史

1960年。住宅地図

軍用道路 軍隊の移動,補給など軍事上の目的によりつくられた道路。戦略的には国防道路で、平時の軍隊の高速移動、補給、軍事施設への通行のため、直線、立体交差を原則としました。形、幅、勾配、カーブ、路面、路床を、機械化部隊の連続移動に耐えうるよう頑強につくります。日本にも第二次大戦前は軍港や要塞への軍用道路がありました。しかし、神楽坂通りは戦後の進駐軍の専用道路でした。
『まちの想い出をたどって』第4集の岡崎公一氏は「神楽坂の夜店」を書き

 戦後は、神楽坂に闇市が出なかった。それは、神楽坂下のたもとに神楽坂瞥察署があり、また神楽坂の通りが進駐軍の専用道路(立川方面)となったためでもある。ただ、昭和二十四年十月十五日発行の露店商の縁日暦(非売品)によれば、神社、佛閣の境内などに縁日が出ていた。神楽坂でも、若宮八幡神社、筑土八幡神社、赤城神社などにも毎月、日によって出ていた。
神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私が振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家があり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一家)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた

車留制夜店 くるまどめ。車を禁止し、夜店を出すこと。
サムライ堂 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では

 洋品店のサムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

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 また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『サムライ堂』の創業は明治年間(岩動景爾『東京風物名物誌』によると明治四〇年)、創業者は伊賀上野出身の英二郎氏である。はじめは神楽坂の検番近くで娘二人とともに西洋料理店を営業していたが、その後当地に唐物(輸入品)を扱う店を開いた。そのころ乃木希典が当店の軍足を愛用し、店名を『サムライ堂』と命名したと伝えられる。
 店で扱った商品は、シルクハツト・麦わら帽子・パナマ帽・カンカン帽などの他、ステッキやゴルフ用のニッカボッカなどであった。伊勢丹にない物がここにはある、とお洒落なお客さんが多くやってきた。下着も上等品を置き、ラクダの上下などにはサムライ堂で独自に作ったタグを付けて売っていた。店員は男女あわせて12~3人ほどいた。ほとんどが縁故採用で、店員はみんな店の上階にあった店員用の部屋に住み込んでいた。店員は字を書く機会が多いので、暇なときはいつも習字の練習をしていたという。店員たちの娯楽は、仕事が終わってから銭湯へ行くことであった。
 関東大震災の直後、朝方に店を開けると下着やシャツを求める人々が並んで待っていた。店には在庫が沢山あったので、仕入れに困るということもなく、このような需要にも応えることができた。
 サムライ堂の看板は青銅製で、馬に乗った武士を描いていた。戦時下に金属を供出することになり、これを出版クラブの所まで運んで行った。戦争が始まってから店員もだんだん少なくなってゆき、終戦の時点では二人が残っていた。
 四代目の店主が平成三年に亡くなり洋品店は閉店したが、五代目の当主が平成九年にインポートショップ「woods」を開店した。

 これは平成10年の「ゼンリン住宅地図」ではサムライ堂ビルになります。これは、2014年か15年に建て替えし、現在、このビルにはWorld Wine Barなどがはいっています。

伝統の店々|昭和30年 (3/4)

文学と神楽坂

 そばの春月永坂更科池端蓮玉と共に東都三老舗と謳われたのれんで、更科とやぶの中間を行くのが特徴とされている。また毘沙門天との間を横丁に入るとうなぎの橋本、神楽坂随一の繁栄と格を有する料亭松ケ枝がある。また表通りの毘沙門天安置する善国寺は始め麹町にあり、家康自ら鎮護山善国寺と命名したもので、代々将軍家および江戸市民の信仰篤く二百三十余年前此地に移ってより、その緑日の賑わいは一層名高く、神楽坂繁栄の一因をなしたことは人形町水天宮と好一対をなすものといえよう。その隣りが果物の田原屋。明治四十年頃創業、明治末年日本で始めてのフルーツパーラーを始めたものである。

永坂更科 子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」で竹内薫兵氏は
 私の一番いいのは、月並だが矢張り、麻布(あざぶ)永坂(ながさか)の「更科(さらしな)」で、あのうちの更科そばには何んともいえない風味がある。はじめは「並の盛り」といういわゆる駄そばばかりを食った。しかしこれを段々やっている中にあの白い細い更科の方がよろしくなる。駄そばの方もうまいにはうまいが、味が重いし、舌へ残る気持も、少しべとりッとする。更科は少しあっさりとしすぎる位に、淡々たるところがいいようである。
 子母沢寛氏の「寸刻の味」では
 永坂の「更科」も先生のおっしゃる通り。だがわたしは「さらしな」よりは、駄蕎麦の方が好きである。書生の頃十二銭の大盛、あれをよく食べた。一度に大盛三つを注文したら、女中さんに笑われた。「とても三つは無理ですから二つにしては」「いや、いいから持って来てくれ」、がやっぱり二つで閉口していると、その美しい女中さんがざる(、、)蕎麦につく「わさび」を持って来て「これを入れると食べられます」という。が、遂に駄目であった。駄蕎麦一筋で「さらしな」は余り淡泊すぎて、味をぬいた素麺をたべてるような、ただ、下地に何にかつけて食べてるというようなそんな感じで感心しなかった。この頃は「更科」へ行かないので、どんな事になっているか知らない。
 終戦後しばらくは営業をやっていますが、昭和30年には空き地になります。
池端蓮玉 子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」の竹内薫兵氏は
下谷池の端の「蓮玉庵」もなかなかうまいもので、十四、五年前は、そば食いたちは東京第一の折紙をつけ、私なども毎日のように通ったが、これも今はいけない。そばそのものの味と下地の味とが、どうもぴったりと来ないようになったのである。
 子母沢寛氏の「寸刻の味」では
池の端の蓮玉庵の、蕎麦と下地の関係については、それからずいぶん長い間通ったが、いつ行っても行く度に先生の言柴を思い出して感心した。しかし考えて見ればこれが蓮玉庵というものの独自の「味」だったかも知れない。

東都三老舗 へー、そうなんだ。実は辞書で「東都三老舗」を調べてみても何もありません。現在の江戸そばの三老舗は普通、砂場、更科、薮です。
やぶ 藪蕎麦は醤油の味がつよい、塩からいそばつゆ。一方、更科蕎麦は蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦。中間というのは、そばつゆなのか、蕎麦粉なのか、あるいは両方なのか、全体なのか、どれをさすのかはっきりしません。

 都市製図社の「火災保険特殊地図」(昭和27年)で赤で囲んだ場所はここで出てきた場所です。蕎麦の春月、蒲焼の橋本、松ケ枝、毘沙門天、田原屋
橋本 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では
◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。
 現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。
橋本

現在は石かわ


松ケ枝 創業は明治38年。水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、
「松ヶ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」
松ケ枝

現在はマンション


毘沙門天 仏教で天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
安置 丁重に据え置くこと。特に、神仏の像などを据え祭ること
善国寺 新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院
麹町 千代田区の地名で、旧麹町区にあたる。
緑日 神仏との有縁(うえん)の日。この日に参詣(さんけい)すれば特に御利益があると信じられています
人形町 中央区の地名で、旧日本橋区にあたる

伝統の店々|昭和30年 (4/4)

文学と神楽坂

 昭和30年(1955年)に『商店街めぐり-神楽坂』を書いています。

五十鈴は戦後成功した和菓子としるこの店、この辺では凝ったきれいな店である。足袋の美濃屋は創業六十年、乾物の伊勢屋は文久年闇、この向側の原稿用紙の相馬屋は創業三百年、九代目の伝統をもち、この街では最古参株、尾崎紅葉の愛顧した店で紅葉のいろいろの指示注文で苦心して原稿用紙を作ったので、いよいよ独特の良いものができるようになり普く文士連に愛用され、相馬屋の名は天下に鳴響いた。隣の万長は創業五十年の古いのれんであり、すき焼の恵比寿亭は戦争以来肉の小売業、明治四十二年江戸橋に創業、大震災後この地に移ったものである。このように神楽坂としての古いのれんの店々或はまたこの街にふさわしき店々が最近軒をつらねている。またこの店々の裏側には料亭街或はまた柳家金語楼金プロがある。

 以上で『伝統の店々』はおしまいです。

五十鈴 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第4号で金田理恵氏の「おいしいもの大好きおばさんの神楽坂ガイド」では「ちょっと塩気の効いた『五十鈴』の豆大福もいいし…(いけない、糖尿のこと忘れてた)」

5丁目1

都市製図社の「火災保険特殊地図」(昭和27年)で赤で囲んだ場所はここで出てきた場所です。

美濃屋 遠藤登喜子氏は『ここは牛込、神楽坂』第6号の「懐かしの神楽坂 心の故郷・神楽坂」を書き、

 その先は足袋(たび)の美濃屋さんで、戦前は肴町を越したところにあったのです。広いお店は畳が敷き詰められ、小さいタンスの引出しがよこにずうっと並び、大旦那がお客の足型を取ったり、店員さんが小さい台の上で足袋を裏返して、木槌でトントンとたたく音が聞こえていました。その頃見かけた金ボタンの学生服を着た小学生が先頃亡くなったご主人だったわけです。私の踊りの足袋も長い間、美濃屋さんのお世話になりました。

Asian Tawan

昔は美濃屋

美濃屋。神楽坂地区まちづくりの会「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、1995年)

 また、大島歌織氏の『ここは牛込、神楽坂』第8号の「神楽坂で見つけた」では

明治初期から続く美濃屋さんのご主人(三代目)は、六年前に「六十四歳になる手前で」亡くなられて。いまは外の職人さんに頼んでいるとのこと。その職人さんがやって来るのは、金曜日の夜七時。誂えたい人は、その時分に型をとってもらわなればなりませぬ。

 現在は2階の「Asian Tawan」などです。

相馬屋 大谷峯子氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号で「六本木在住者の神楽坂ひとり暮らしショッピング』を書き、「相馬屋でオサムグッズの新物をチェックする』と書いています。ここで「オサムグッズ(OSAMU GOODS)」って。これはイラストレーター原田治氏が制作して1976年に誕生。「可愛い」をキーワードにシンプルな線で描かれたデザイン。80~90年代の女子学生に人気を獲得しました。

オサムグッズ1

オサムグッズ

 また、『ここは牛込、神楽坂』第2号の「お店の履歴書」では

 鴎外が、逍遥が使った原稿用紙
 そして日露戦争の頃は、筆、墨、紙に手拭などを入れた相馬屋特製の慰問袋が大ヒット。その後のヒット商品が有名な原稿用紙だ。そもそもは和紙に木版刷りで薄い桃色の罫をいれたのが始まりで、それが売れに売れて、活版で刷るようになり、やがては、ひょんなことから洋紙の原稿用紙が生まれるいきさつも、区の資料に詳しく記されている。要は、断ち損じた洋紙を無駄にしないための窮余の一策だったという。
 これには横寺町にいた尾崎紅葉の助言もあったらしい。だから当然紅葉氏は愛用したはずだが、ほかにはどんな方が?「森鴎外さんがいまの国立医療センター、昔の陸軍第一病院の院長さんをやっていた頃、よくお見えになったと聞いています。買物のときはご自分でお金を出さず、奥様がみんな払っていらしたとか」

指示注文 新宿区立図書館資料室紀要4の『神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)で「古老談話・あれこれ」を書き、『古い番頭氏が語る神楽坂の相馬屋』について
原稿用紙もその時この断ちそこないの紙を使ったのがもとで大当りをとった事は確かですが、一説には当時横寺のお住いの尾崎紅葉先生も入れ智恵があったんだといいますが、私はそいつは覚えていません。ただよく店へ来られて「勝どんちょっと来てくれ、こんな年賀状を作りたいんが引受けてくれよ」なんてご註文がありますと、私がすぐお納戸町の石版屋へとんで行っては刷らせたことはまだよく覚えています。

恵比寿亭 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では
ゑびす亭―入口に下足番が頑張つてゐるあたり、昔風の牛鳥料理です。

 雑誌「まちの想い出をたどって」第3集の「肴町よもやま話③」では

山下さん 次は恵比寿亭で間口が三間ぐらいありましたね。
馬場さん これは二階が全部座敷があってね。恵比寿亭ってのは、いまの「三竹屋」さんのところ?
相川さん そうです。裏玄関が私のうちのところまできていたんです。
馬場さん その恵比寿亭さんってのは何年ごろできたんですか?
相川さん 関東大震災の明くる年にできた。その普請中に関東大震災がグラグラつときで、もろに横丁の方へ倒れた。

 現在は「手打ちそば 山せみ」です。

山せみ

昔は恵比寿亭。今は山せみ

柳家金語楼 やなぎや きんごろう。生まれは1901(明治34)年2月28日、死亡は1972(昭和47)年10月22日。喜劇俳優、落語家、落語作家・脚本家(筆名・有崎勉)、発明家、陶芸家です。
 大久保孝氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号の「懐かしの神楽坂」で『その路地の奥に』を書き、

神楽坂演芸場
 本多横丁の手前、盛文堂という本屋と宮坂金物店の間の道を入るとすぐに「神楽坂演芸場」があった。ここは芸術協会の砦であったから、金語楼、柳橋、柳好(先代)、金馬、小文治、桃太郎などが出ており、講談では一竜斎貞山、大島伯鶴、神田伯竜、小金井芦州など、その他色ものでは、新内の富士松宮古太夫など。
金語楼はもっぱら兵隊もの。
 暮は客が入らないので、木戸銭を十銭にしたが、あまり入らない。でも金語楼が怪しげな日本舞踊をやったり、柳橋が座ぶとんをひっくりかえして、紙をめくって次の出演者を知らせたり、お茶をだしたりするのがおかしかった。

金プロ 「金星プロダクション」が正しいと思います。略して「金プロ」かな。『神楽坂まちの手帖』(けやき舎)第5号の「花街・神楽坂の中心だった料亭『松ケ枝』」で水野正雄氏は

神楽坂はん子さんの隣りが金語楼のお妾さんの家で、今の読売新聞販売所の所です。金語楼の息子、山下敬二郎はあそこで生まれて、いっつも路地でくるくる回って遊んでいたの。金語楼の弟で昔々亭(せきせきてい)桃太郎(ももたろう)というのが横寺に住んでましたが。金語楼も桃太郎も家のお客でしたが、勘定ぱらいが悪くてね。

 現在の読売新聞販売所は上の地図では赤い変形六角で囲んだ場所です。昔は「(料)山下」と書いてありました。おそらく金星プロダクションもこの場所か近傍ではないのでしょうか。なお、金語楼の本名は山下敬太郎です。

読売新聞

この辺りに金プロ。現在は読売新聞販売所

 しかし、2016年1月、読売新聞販売所はなくなり、2020年には、焼き鳥屋「酉刻」に変わっていました。

旧読売販売所