月別アーカイブ: 2016年5月

軽い心|神楽坂二丁目

文学と神楽坂

 昭和42年までには神楽坂二丁目に「メトロ映画館」がありましたが、この年、この「メトロ映画館」と「バーみなみ」「麻雀」はなくなり、「CLUB 軽い心」が開店します。
 この地図は国立国会図書館の住宅地図(発行は住宅協会地図部)から取っています。軽い心(S42とS45)
 さらに昭和44年には「喫茶 軽い心」と「パブ・ハッピージャック」に変わります。インターネットで熊谷興業の歴史を読むと、昭和43年(1968年)、レストラン「ハッピージャック」開店、昭和44年(1969年)、純喫茶「軽い心」を開店と書いてあります。そして、昭和57年(1982年)には「カグラヒルズ」に変わり、「軽い心」はなくなりました。
 新修新宿区史編集委員会『新修新宿区史』(新宿区役所、昭和42年)を見ると、昭和42年、この写真が出ています。新修新宿区史(昭和42年)。飯田橋駅の方から見た神楽坂
「神楽坂まちの手帖」の第1号で講談社の小田島雅和氏は

 club軽い心。遠景九時頃に句会が終わると、まだまだ話し足りなくて、坂下近くにあった「軽い心」という喫茶店に流れることが多かった。この店はかつてキャバレーだったそうで、格別珈琲がおいしいわけでもなかったが、キャバレーの造りそのままで、ボックスごとの仕切りがやたらに高く、隣のボックスが見えないようになっている。喫茶店としては何とも妙で、それが気に入って、私は個人的にもよく利用した。

「神楽坂まちの手帖」第4号の「神楽坂まちかど画廊」で
 最近でこそ奇想天外な店名に驚かなくなったが、「軽い心」の看板は当時はずいぶんと人目を引いた。ではいったいなんの店か。知っている人は、神楽坂の古いなじみである。クラブとあるが、平たくいって、いまはほとんど死語となったキャバレーである。昭和30年代前半のある日の風景である。
「神楽坂まちの手帖」第5号の「読者のページ」で高瀬進氏は
 「軽い心」、キャバレー時代、1度覗いたことがあります。爆笑王林家三平さんが、本当に面白く、腹を抱えて笑ったものです。「軽い心」はその後、喫茶店になり、よく昼寝したのを覚えています。場内が広く、そして暗かったので妙に落ち着けました。
「神楽坂まちの手帖」第7号の「神楽坂、坂と路地の変化40年」で三沢浩氏は
 1980年1月の日曜日。歩行者天国の終わる5時前。今の「カグラヒルズ」の位置には、キャバレー「軽い心」の大きな間口があった。一度だけ誘われて入ったが、天井の高い巨大な空間で、美女が各テーブルに坐り、ある客たちは音楽に合わせて踊っていた。脂粉の香り、酒の匂いが満ちて、神楽坂の栄華がそこにあった。それは夜の世界、神楽坂の路地には料亭が並び、芸者の数も多かった。
 また神吉拓郎氏の『東京気侭地図』に随筆「神楽坂の灯」があります。
 喫茶店の名前にもいろいろあるけれど、「軽い心」というのをご存じだろうか。
 中央線の電車が、飯田橋の駅にかかるとき、神楽坂の見当を一瞥すると、丁度そのあたりに「軽い心」と大きな看板が上っている。
 昭和47年、加藤倉吉氏がつくった銅版画「神楽坂」もここに掲載します。このころは「喫茶 軽い心」になっています。

銅版画の『神楽坂』。写真ではありません。版画です。

銅版画の『神楽坂』

「カグラヒルズ」に変わった時、壁面看板「各階 名店ぞろいの! カグラヒルズへどうぞ」と売り込み、また、1階はハンバーガーの「ウェンディーズ」になり、しかし、「ウェンディーズ」は日本で撤退し、かわって平成26年(2014年)には「マクドナルド」に、さらに平成28年(2016年)からはドラッグストア「マツモトキヨシ」に変わっています。

漱石山房の推移1

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」の一部です。

早稲田界隈の盛り場

 そういう世相だったので、一方では景気がよくて学生が俄かにふえたのだろう、さて早稲田に入って下宿屋探ししてみると、早稲田界限から牛込の神楽坂にかけては、これはという下宿屋は満員で非常に払底していた。辛うじて下戸塚法栄館という小さな下宿屋の一室か空いていたので、ひとまずそこへ下宿した。大正末期に川崎長太郎が小説が売れだしたので、のちに夜逃げするに到ったが、偶然とぐろを巻いていた下宿屋である。朝夕を戸山ヶ原練兵場を往復する兵隊が軍歌を歌って通り、またその頃の学生には尺八を吹く者が多く、神戸の町なかに育ったぼくは、当座、なんだか田舎の旅宿に泊っているような心細さを覚えたものだ。

払底 ふってい。すっかりなくなること。乏しくなること。
下戸塚  豊多摩郡戸塚町大字下戸塚は淀橋区になるときは戸塚町1丁目になりますが、新宿区ができる時に戸塚町1丁目はばらばらになってしまいます。そのまま戸塚1丁目として残った部分①と、西早稲田1、2、3丁目②~⑤になった部分です。

新宿区教育委員会。「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」昭和57年

新宿区教育委員会。「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」昭和57年

法栄館 東京旅館組合本部編の『東京旅館下宿名簿』(大正11年)ではわかりませんでした。
とぐろを巻く 蛇などがからだを渦巻き状に巻く。何人かが特に何をするでもなく、ある場所に集まる。ある場所に腰をすえて、動かない。
戸山ヶ原 とやまがはら。江戸時代には尾張徳川家の下屋敷で、今も残る箱根山は当時の築山で東京市内で最高地の44.6メートル。箱根山に見立てて、庭内を旅する趣向にしていました。明治以降は陸軍戸山学校や陸軍の射撃場・練兵場に。現在は住宅・文教地区。
練兵場 れんぺいじょう。兵隊を訓練する場所。陸軍戸山学校の練兵場は下図に。

現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

 当時は早稲田界隈の盛り場というと神楽坂で、新宿はまだ寂しい場末町だった。新宿が賑やかになりだしたのは、大正十二年の関東大震災以後である。新学期が始まるとぼつぼつ学生が下宿屋の移動をはじめ、まもなくぼくは神楽坂界隈の下宿屋に引越した。その下宿屋は赤城神社の境内にあって、長生館といった。下宿してから知ったのだが、正宗白鳥近松秋江などの坪内逍遙門下がよく会合を開いていた貸席の跡で、下宿屋になってからも、秋江は下宿していたことがあるということだった。出世作「別れた妻に送る手紙」に書かれている、最初の夫人と別れた後のどん底の貧乏時代だったらしく、夏など、着た切り雀の浴衣まで質屋へいれてしまって、猿股一つで暮らしていたこともあるという、本当か嘘か知らぬがそんなエピソードまで残っていた。それから少し遅れて、片上伸加能作次郎なども下宿していた。のち、太平洋戦争の頃、「新潮」の編集者だった楢崎勤を所用あって訪ねたら、長生館がいつかなくなってしまっていて、その跡に建った借家の一軒に住んでいて意外な気がした。楢崎君はそこで戦災を蒙ったのである。

赤城神社 新宿区赤城元町にある神社
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷
別れた妻に送る手紙 正しくは「別れたる妻に送る手紙」。情痴におぼれる自己を赤裸々に描く作品。もっと詳しくはここで。

漱石山房の推移2

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」のその2です。

下宿屋と早稲田派
 こんなことを書きだしたのは、その頃は好況時代で、従ってインフレで、下宿代など、一、二年のうちに倍近くあがったものの、とにかく下宿屋全盛時代で、古い下宿屋がまだたくさん残っていて、神楽坂界隈の古い下宿屋には、文士たちのエピソードじみたものが少なからず語り伝えられたり、近所にその旧居がそのまま原型をとどめていたりしたことを指楠したかったからである。ぼくは神楽坂を中心に随分下宿屋を転々したが、牛込矢来にあった若松館という、会津藩の家老の娘あがりの婆さんが経営していた古ぼけた下宿屋には鏡花斜汀の泉兄弟がかつて下宿していたというし、くだっては外語仏語科時代の大杉栄がここから外語へ通っていたというので、ぼくが下宿した時にも外語の連中が大勢下宿していた。そこへは下宿しなかったが、松井須磨子が首をくくった横寺町にあった芸術座倶楽部が、やはり下宿屋になっていた。出版を始めて武者小路全集を出していた広津和郎氏も、神楽坂の横丁の三階建ての下宿屋に、大勢の社員たちと一緒にたむろしていた。
 下宿屋文学の代表的なものは、芝公園で野垂れ死にした藤沢清造の「根津権現裏」である。また、芥川竜之介などは、早稲田派の文士は下宿屋で煮豆ばかり食っているから、唯美的な作品が生まれないのだと皮肉を飛ばしていた。それほど、大正末期までは、下宿屋というものが天下を風靡していた。ところが、やがて世界不況が襲来するに及んで、アパートや貸し間、引いては食堂の氾濫となり、下宿屋は慌ててどんどん下宿代をさげだしたか、しだいに衰微を辿るに到った。
若松館 大正11年、東京旅館組合『東京旅館下宿名簿』によれば、井上まさ氏が経営するこの下宿は矢来町3大字山里55号にありました。しかし、この場合、山里のうち55号がどこにあるのかわかりません。
外語仏語科 旧外語の校地は一ツ橋通町1番地(現千代田区一ツ橋2丁目)に置かれました(一ツ橋校舎)。下図の右下、赤い四角は当時の外語を示します。左側は矢来町なので、市電がないと大変です。

矢来町と外語仏語科(現在は如水会館)

矢来町と外語仏語科(現在は如水会館)

芸術座倶楽部 正しくは芸術倶楽部です。
下宿屋 神楽館です。
下宿屋で煮豆 志賀直哉氏の「沓掛にて―芥川君のこと」では

 早稲田の或る作家に就て芥川君が「煮豆ばかり食つて居やがつて」と云つたと云ふ。これは谷崎君に聞いた話だが一寸面白かつた。多少でも貧乏つたらしい感じは嫌ひだつたに違ひない。

 この「ある作家」について、琉球大学の教育学部教育実践総合センター紀要15号で小澤保博氏は

 芥川龍之介は、「MENSURAZOILI」(「新思潮」大正六年一月)で文学作品判定器械なる装置を登場させる事で、坪内道遥退職後に自然主義文学、社会主義文学の牙城となった「早稲田文学」を槍玉に挙げている。
「しかし、その測定器の評価が、確だと云ふ事は、どうして、決めるのです。」
「それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパツサンの『女の一生』でも載せて見れば、すぐ針が最高価値を指しますからな。」
 これは、当時早稲田系の代表的な同時代作家、広津和郎「女の一生」(「植竹書院」大正二年十月)に対する芥川龍之介の皮肉である。志賀直哉「沓掛にて」(「中央公論」昭和二年九月)で回想されている芥川龍之介の発言で「煮豆ばかり食つて居やがつて」と潮笑されれている早稲田派の作家というのは、言うまでも無く広津和郎の事である。

 早稲田派の単数の「ある作家」では広津和郎なのでしょう。一方、水守亀之助氏の『わが文壇紀行』では「連中」と複数です。

「早稲田の連中は下宿屋で煮豆とガンモドキばかり食わされていたんだからね」と、芥川が冷嘲したのは、当時知れわたった話だ。

 どちらにしても自然主義を標榜する早稲田グループに対する皮肉でした。

衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退

漱石山房の推移3

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」のその3です。

漱石山房の名残り

 ところで、この一文の本当の目的は、この前芥川のことを書いたので、そのころ瞥見した漱石山房の推移をちょっとしるして置きたかったのである。というのは、たまたま漱石山房より数軒しか離れていない牛込弁天町の豊陽館という下宿屋に、ぼくは割りに長く下宿していて、始終その前を通っていたからである。
 “矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方へ折れ、少し行くと右に曲って弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、七番地のである”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
 ぼくが豊陽館に下宿したのは大正十一年頃で、その時はもう改築されていたが、早稲田に入った大正八年に初めてその前を通った時には、まだ大正五年に亡くなった漱石の在世の時の儘だった。狭い坂道に面して高く地盛りした上に、赤い新芽を持った青々としたカナメモチの低い生垣がつづき、その生垣越しに、芭蕉など植わっているちょっとした庭を隔てて書斎のガラス戸か光って見えた。が、さして広くない古ぼけたひら家で、その質素振りに驚いたものだった。


豊陽館 大正11年、東京旅館組合『東京旅館下宿名簿』では豊陽館は弁天町8にありました。下図で赤い丸が弁天町8に当たります
漱石の家 緑色の右端は矢来の坂下です。左の緑の丸は漱石の家です。青い色は川を示し、そこに弁天橋がかかっていました。

地図。昭和5年の牛込区全図。緑色は矢来の坂下から漱石山房の行き方。赤色は弁天町の豊陽館。ピンクは床屋。

昭和5年の牛込区全図の一部。

瞥見 べっけん。ちらっと見ること。
カナメモチ バラ科の常緑小高木。樹高は3~5m。
芭蕉 バショウ科の多年草。英名をジャパニーズ・バナナ。高さは2~3m。花や果実はバナナとよく似ています。耐寒性にあり、関東地方以南では露地植えも可能。主に観賞用。種子が大きく、タンニン分を多く含み、多くは食用には不適。

カナメモチとバショウ

カナメモチとバショウ

 ところか、改築されたものは、カナメモチの生垣は屋根を持った高い土塀にかわり、大きな冠木門の奥には、洋館もある宏壮な二階家がそびえ、すっかり見違えるように立派になっていた。ぼくはいささかがっかりしたものの、しかし、あたりの風物は、漱石在世当時とたいして変わっていないふうだったので、せめてそれを満足に思った。「硝子戸の中」に書かれている小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていたし、漱石がそこの人力車によく乗ったという、薄汚い車宿も門のまん前に健在だった。ただ、この車宿の連中は改築に反感をもったのだろう、漱石未亡人のことを余りよくいわなかった。そのほか、「三四郎」を思いついた田中三四郎(石垣綾子さんのお父さんだという)いう家も、「彼岸過まで」の中の須永を思いついた須永という産婆の家も、まだ近所にあった。
 が、終戦後である。じつに久し振りでその小路を辿ったら、漱石山房はすっかり戦災で焼けうせ、白い安手の都営アパートがその跡に建っていて驚いた。片隅にコスモスがさき乱れていたが、そこに漱石の出世作「吾輩は猫である」の五輪塔の猫の墓が焼けただれて残っており、それが碌かに漱石山房の名残りをとどめているに過ぎなかった。

床屋 夏目漱石は『硝子戸の中』16で、

(うち)の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈かって貰った事がある。
と書いています。この文章の「床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた」と一緒に考えると、前の図で桃色の四角の範囲に床屋はあったと考えます。
田中三四郎 石垣綾子氏の『わが愛の木に花みてり』(婦人画報社、昭和62年)では
 わたし、生まれたのは市谷ですけれど、二歳になったとき、早稲田南町に移って、それから長く住むことになります。この町名はまだ残っていますね。あの頃はまだ庭にホタルが見られたくらいでしたけど、その辺は中産階級の住宅地として開けつつあった頃でした。ほんの三軒か四軒か先に夏目漱石のお宅があって、聞くところによると漱石は、わたしの父の“田中三四郎”という表札を見て、『三四郎』の主人公の名前にされたんだそうです。たぶん散歩姿なんかも目にしているんでしょうけれど、今みたいにマスコミで顔を知られる世の中じゃありませんから、わたし全然記憶はありませんね。ただ、お嬢さんの愛子さんとは早稲田小学校でど一緒でしたけど、あちらは背が小さかったし、わたしは高い方で席も離れてましたから、そう親しくはしていませんでした。でも、長女の筆子さんてかたは、わたしの姉と仲よしで、よく家にも遊びにいらしてたようですよ。
 で、この早稲田南町の家は、広い芝生の庭にひょうたん池があったんです。その辺りで姉とわたしは鬼ごっこするんですけど、姉は身軽に、その池のくぴれた辺りにある中島から向こうへ飛び移るんです。わたしはできないんですよ。立ち止まっちゃう。そうすると姉は、向こうの築山からわたしを見おろして、「のろまさん、捕まえてごらん」ってはやし立てるの。悔しかったものですよ。

早稲田南町の一部

早稲田南町の一部

 早稲田南町は漱石公園を含む広大な敷地です。ひょうたん池はまったくわかりません。また、同氏の『いのちは燃える』(偕成社、1973年)では

 早稲田(わせだ)南町のわが家から数軒(すうけん)さきに、夏目(なつめ)漱石(そうせき)(1867~1916年)のお宅があった。()(がき)をめぐらした屋敷で木の(しげ)る広い庭にとりかこまれていた。三百(つぼ)(約1000平方メートル)の、家賃三十五円の借家(しやくや)だということだが、うっそうとしていて暗く、神秘的(しんぴてき)(かん)じであった。(略)
 私の父は田中三四郎といって、漱石の『三四郎』という小説とおなじ名前である。漱石は散歩のとき、父の標札に目をとめて、『三四郎』の題名を思いついたということである。
 父は科学者で教育家であった。軍人の士官(しかん)を養成する幼年(ようねん)学校をふりだしに、岡山と山形の旧制高校で物理を教え、晩年は中央大学につとめた。八十七才で亡くなる直前まで、教壇を離れようとしなかった。
 家庭では五百坪(約1650平方メートル)の早稲田の家を支配する絶対の権威者(けんいしや)であった。私は父を尊敬はしても、厳格なその前ではびくびくした。言葉使いも、よそゆきのていねいさで話しかけなければならない。

昭和5年の牛込区全図。緑色は漱石が住んだ場所。青色はおそらく田中三四郎の場所

牛込区全図、昭和5年

 田中三四郎氏の建物は500坪で、漱石(緑色の場所)は300坪。これからすると、田中氏はたぶん青色で囲った場所(の一部)でしょう。

 一方、『ここは牛込、神楽坂』第10号(平成9年、1997年)で、河合正氏が「魚屋などが申し上げることではあるませんので……」では

 うちは創業が亨保十七年で、はじめは三河屋三四郎でしたが、その後肴屋三四郎を名乗るようになり、代々当主がその名を継いできました。
 漱石先生の『三四郎』とのことは昭和の終わり頃、毎日新聞にも出たことがありますが、そのときは肴屋風情が何をというようなお叱りがあちこちからきて。漱石先生には熱心な読者や研究者がいますからね。もうそのことには触れないことにしているんですよ。」

これについて『ここは牛込、神楽坂』の編集部は
 ご主人はいかにも江戸っ子という感じの方で、お店は榎町交差点そば榎町児童館の隣。念のため毎日新聞で調べてもらいましたが10年以上前のことらしくわかりませんでした。『三四郎』の名は漱石の家の近くにいた田中三四郎(石垣綾子さんの父上とか)から思いついたという説がありますが、地方出の若者にご近所のご主人の名を?という疑問もあり、やはり近くの江戸前の肴屋三四郎さんに親近感をもって付けたというほうが妥当な気がします。

現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

 で、漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)です。かなり離れています。
 もし近所で名前をつける場合、私は単に近所で肴屋三四郎よりも田中三四郎のほうに軍配を上げてしまいます。
 また、漱石氏の卒業生に堀川三四郎という人もいました。これは明治38年4月10日の漱石氏から大谷繞石宛の手紙に出ています。三四郎のモデルはわからないといった方が正しいのでしょう。
都営アパート 都営アパートは区営の早稲田南町第3アパートになりましたが、29年7月に予定する「漱石山房記念館」の建設のため、解体されてしまいました。
冠木門 冠木を渡した、屋根のない門
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。

[夏目漱石]

三孫質店[昔]|神楽坂二丁目

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目に質屋の三孫がありました。お店の地図はここ。『まちの手帳』第3号の水野正雄氏の『新宿・神楽坂暮らし80年』で

一家で神楽坂に越してきて、祖父は神楽坂2丁目の「三孫(さんまご)」という質屋の通い番頭、長男は質屋に奉公、次男は質屋に婿養子、三男は着物の整理屋へ奉公に出ていたのを、三男だった親父を呼び戻して39年「湯のし屋」を始めた。

「さんまご」と読み、「さんそん」とは読まないようです。

 邦枝完治氏が書いた「恋あやめ」(朝日新聞、1953年)には……

 牛込見附の石垣に弁慶蟹が這って、飯田町駅を出た甲武鉄道の汽車の煙が、夕焼空に吸われて行った六時近く、神楽坂裏の質屋三孫ののれんをくぐったのは、ふろしき包を小脇に抱えた、四十がらみの肥ったおかみさん。
弁慶蟹 弁慶蟹はイワガニ科で海岸の湿地にすみ、約3センチ。本州中部以南に分布。今では蟹はこのあたりにはいません。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
質屋三孫 質屋「三孫」(さんまご)の場所は下図で。現在はポルタ神楽坂になりました。

三猿(さんまご)質店

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

階段の話|神楽坂

文学と神楽坂


 神楽坂の坂に江戸時代には階段があったが、明治になると普通の坂になったという話です。
 平成22年、新宿歴史博物館「新修 新宿区町名誌」によれば、神楽坂は
神楽坂は江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。
 明治四年(一八七一)六月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽かぐらちょうとしたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、特に関東大震災以降、東京における有名な繁華街であった。大正一四年(一九二五)坂が舗装された。神楽坂のこの道は毎朝近衛兵が皇居から戸塚の練兵場(現在の学習院女子大学)に行く道で、軍馬の通り道であった。舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、二年ほどして御影石に筋を入れた舗装に変わった。
 また、石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』で……
 やはりむかしは相当な急坂であったのを明治になって改修したもの。明治13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。

  牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。

 また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……(なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人で、大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主です。)

相川さん 古い資料を見ると、昔の神楽坂ってのは階段だったらしいね。
山下さん 牛込見附から上かってくる方ですね。
相川さん 商店街ができるからってんで階段を坂にしたら、えらい坂が急勾配になったんで、「車力も辛い神楽坂」っで歌ができたくらいなんです。それを天利さん(注)ショウジロウさんって区会議長をやった人が、ハンコを関係各機関からもらって、区のお金を使って坂を下げたんです。下げたら今度は下の方から苦情が来て。坂を下げて勾配をずうっと河合さんの方までもってくる予定で設計図はできていた。ところがあんまり喧喧囂囂(けんけんごうごう)で収まりがつかなくなって、それでピタッとやめたんで、天利さんの前のところだけグッと上がっちやった。あれが忘れ形見だ。注:菱屋さんの先代店主
佐藤さん そういえばそうですね。最後のいちばん登りきるところが基点(起点?)なんですね。
馬場さん 自分の家の前に来ちゃった。ヘヘヘ。
相川さん 「工事中止」ってんでね。ということは、坂下の方の店(本道?)は階段じゃないとお店へ入れない。階段の商店街になっちゃうのはまずいってんで、それであそこでピシッと切った。歩いていてもわかるでしよ? 上がりきったな、と思うと、またグッと上がる。それがちょうど天利さんの前へ来ていた(笑)。区会議長やってる時分に天利さんはお釈迦様(注)の後ろへうちを買い足して、ご隠居しちゃったんです。
(注)弁天町にある宗相寺
馬場さん ああ、弁天町のね。
相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。

車力も辛い神楽坂 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌は「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
 上州屋は5丁目の下駄屋で、以降は藪そば、ampm、最後はとんかつさくらに変わります。
 同じく2010年(平成22年)の西村和夫氏の『雑学 神楽坂』によれば…

 江戸期は階段が作られるほど急な神楽坂だったが、明治になって何回となく改修され、工事の度ごとに緩やかになっていった。階段がいつなくなったのかわからないが、明治の初めと考えて間違いはなさそうだ。
 坂上は明治10年代に平坦にされたが、坂下は勾配をそのままにして先に商店街が出来てしまった。傾斜した道路の店があったのでは商売がやりづらいと、サークルKの先、当時糸屋を営んでいた菱屋が中心になって牛込区役所に働きかけ、坂を剃り勾配を緩くした。ところが、工事が進むにつれて坂上の商店ほど道との高低差が広がり、再び埋め直すという笑えぬ失敗があったという。こんな苦労を何度も繰り返し、神楽坂は今の勾配になったようである。
 芸者新道の入口の傾斜はそのままにされたので階段が作られて、手すりがないと上がれないような急坂が現在まで残り、昔の神楽坂の急勾配の様子をうかがわせる。

『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイの赤井義松氏は(この店はなくなりました)
 よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。
 中村武志氏も『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)で同じ話を書いています。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物の佐和屋あたりに、昔は段があった

段があった 陶柿園と「さわや」の前にある縁石を比べます。

陶柿園とさわやの縁石

江戸名所図絵の牛込神楽坂

江戸名所図絵の牛込神楽坂

 江戸時代の(だん)(ざか)については、天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した『江戸名所』「牛込神楽坂」では10数段の階段になっています。
 なお、この画讃の上には『月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり』と書いています。
 また平成14年(2002年)になってから電線もなくなりました。

川鉄|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 川鉄は肴町27番地にありました。場所はここ。以前は万世庵というソバ屋でした。

『ここは牛込、神楽坂』第10号の「漱石と神楽坂」21頁には編集部の言として「なお川鐵は左の場所が正しいとご指摘をいただきました」と書いてあり、下の絵もありました。確かに正しい場所です。しかし、もう少し大久保通りに近い場所でした。

川鉄

「かしわ料理」については、『かしわ(黄鶏)』とは日本在来種のニワトリで、本来褐色の羽色があり、鶏肉一般の名称になったようです。

川鉄(昭和12年と現在)

川鉄(昭和12年と現在)

川鉄

川鉄があったところ

徳田秋声氏の『光を追うて』では

その時分等は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町(さかなまち)の万世庵で、猪口(ちよく)を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていた……

 加能作次郎氏の『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」の「花街」では

川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。

 出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では

肴町停留所前の鳥屋の河鐡かはてつ、とりや独特の「とり」といふ字に河鐡と崩した文字の掛行燈かけあんどんを潜ると、くらい細長いいしだたみがあつて直ぐ廊下になつてゐる。そとから見ると春雨はるさめの夜の遣瀬なさ土地柄れず絲に言はせる歌姫うたひめもがなと思はれるが、そこは可成堅いうちの事とて学生は安心して御自慢の鳥がへるといつてゐる。

肴町停留所 現在は都バスの「牛込神楽坂前」停留所になりました
掛行燈 家の入り口・店先・廊下の柱などにかけておくあんどん
石甃 板石を敷き詰めたところ
遣瀬ない 遣る瀬無い。やるせない。意味は「つらくて悲しい」
土地柄 その土地に特有の風習
絲に言わせる これは恋(旧字体では戀)の意味を指しているのでしょう。つまり「絲に言はせる歌姫」は「戀される歌姫」(恋をさせる歌姫)に変わるのです。
もがな があればいいなあ。であってほしいなあ。以上をこの文をまとめて訳すと「春雨の夜でつらく悲しいので、この神楽坂に特有なやり方で恋を歌う歌手があればいいなあと思う」
可成 かなり
安心して 川鉄は芸者を入れませんでした。それで安心できたのです。

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

肴町の電車通りを左へ、僅かに引込んで古くからある山手一流の鳥料理屋。特にこゝの鳥鍋は美味しいので有名で、一時は文壇の有名人が盛んに出入して痛飲したものです

 野口冨士男氏の「私のなかの東京」(1978年)では

路地奥に鳥料理の川鉄があって、そこの蓋のついた正方形の塗りものの箱に入っていた親子は美味で、私の家でもよく出前させていたが、それもその後めぐり合ったことのないものの一つである。ひとくちに言えば、細かく切った鶏肉がよく煮こまれていて、()り玉子と程よくまぜ合わせてあった。

つくば商事、すし好、マルゲリータ

文学と神楽坂

 神楽坂上の南側には、交番がありました。左図は岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」です。明治40年ごろですが、「交バン」がわかります。右図は昭和27年の都市製図社「火災保険特殊地図」です。赤い矢印で示しますが、戦後になってもしばらくの間、交番はそこにありました。

s12 交番

都市製図社「火災保険特殊地図」 昭和12年

 建物としては、尾張屋銀行がありました。昭和2年、尾張屋銀行は昭和銀行に買収され、左図は昭和12年の都市製図社「火災保険特殊地図」ですが、昭和銀行支店になっています。

 場所は尾張屋銀行空き地益美屋を示します。

「遊び場だった『寺内』」の中で、岡崎弘氏は

それから神楽坂上のこの角が「尾張屋銀行」。隣の「東屋洋傘店」には三人兄弟がいて、一緒に戸山ヶ原まで遊びに行ったりしてましたよ。そして、「益美屋」、袴屋、乾物の「近江屋」、「紅谷」が並んでいました。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……。なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主。(現、Miss Urbanのところで営業していた)

つくばとすし好

尾張屋銀行はつくば商事に、空き地はすし好に

マルゲリータ

益美屋はピザのマルゲリータパリアッチョに。

相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。それで角は交番があって、尾張屋銀行があって、これが関東大震災で潰れたあとに復旧して。レンガでできていたんですね。関東大震災で一メートルぐらいレンガのクズが河合さんの方ヘダーツといっちゃってね。神楽坂をふさいじゃったんです。三尺ぐらいしか通路がなくて。尾張屋銀行が交番を潰したっていうんで、鉄筋で今度は交番を作った。
山下さん あの丸いのね。
相川さん その前は木でできたボックスだったんです。
佐藤さん それであの丸い交番がずっと戦後も残っていたわけですか。
馬場さん 袋町の交番は木ですよね。
相川さん 木でしたね。
佐藤さん 昔のトーチカじやないけど、すごい(木が)厚いですよね。その記憶はあります。
相川さん 夏は西陽があたるでしよ。お巡りさんが立っていて、一日中西陽で気の毒だってんで、町内で六月になると日よけを寄付するんです。町内から金もらって、その仕事はうちでやった。窓のところヘ上げ下げの葦簾を下げて、夜になると上げる。鉄筋だもんだから、焼けちゃうと暑くて中にいられないんです。天井が低いでしよ。あの上に葦簾を広げて周りに垂らす。カラカラっと巻き上げのね。
山下さん 終戦後は交番はあったけどお巡りさんはいなかったことがあったね。
相川さん ええ、そうなんです。
山下さん そのころ天利さんの仮小屋のところへ泥棒が入ってね。よく覚えてるけど、交番にお巡りさんがいなかったんだよね。目と鼻の先なのに。
相川さん この戦争後に交番もずいぶんなくなったんですよ。厚生年金病院にも交番があったし、袋町にあったし。大曲のところはいまだに残っていますね。
馬場さん ああ、ありますね。場所はちょっと移動したけどね。
相川さん あそこは寒いんですってさ。川の風が吹き上げてくるから。あそこは苦手だ、島流しだってね(笑)。確かに寒いや。それでこの隣はトウグ(陶具?)屋さんがあったんですが、そこを担保に取られて空き地になったんです。
馬場さん ここのところはあんまりはっきりしなかったんですよ。相川さんがいちばんよく知っているんだ。なんで空き地だったの?
相川さん 昭和銀行が建てるんで、担保に取った家だから、空き地にしといた。塀が二間ぐらいあって。だからお祭りやるときに、いつもその塀を壊してお神酒所にした。奥深いでしよ、だから表にお神輿をおいて、後ろがたまり場になっている。独立でできたんですよ。

東京区分職業土地便覧. 牛込区之部。大日本都市調査会。大正4年

新版私説東京繁昌記|小林信彦

文学と神楽坂

 平成4年(1992年)、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出ています。いろいろな場所を紹介して、神楽坂の初めは

 山の手の街で、心を惹かれるとまではいわぬものの、気になる通りがあるとしたら、神楽坂である。それに、横寺町には荒木氏のオフィスがある。
 神楽坂の大通りをはさんで、その左右に幾筋となく入り乱れている横町という横町、路地という路地を大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏が痛くなるほどくたびれた。
 ――右の一行は、盗用である。すなわち、1928年(大正三年)の小説から盗用しても、さほど不自然ではないところに、神楽坂のユニークさがある。原文は左の如し。
〈神楽坂の大通を挟んで其の左右に幾筋となく入乱れてゐる横町といふ横町、路地といふ路地をば大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏の痛くなるほどくたぶれた。〉(永井荷風「夏すがた」)

 以下、加能作次郎「大東京繁昌記」山手篇の〈早稲田神楽坂〉からの引用、サトウ・ハチロー「僕の東京地図」からの引用、野ロ冨士男氏「私のなかの東京」(名前の紹介だけ)があり、続いて

 神楽坂について古い書物をめくっていると、しばしば、〈神楽坂気分〉という表現を眼にする。いわゆる、とか、ご存じの、という感じで使われており、私にはほぼわかる…

「山の手銀座」はよく聞きますが、「神楽坂気分」という言葉は加能作次郎氏が作った文章を別として、初めて聞いた言葉です。少なくとも神楽坂気分という表現はなく、国立図書館にもありません。しかし、新聞、雑誌などでよく耳に聞いた言葉なのかもしれません。さて、後半です。

 荒木氏のオフイスは新潮社の左側の横町を入った所にあり、いわば早稲田寄りになるので、いったん、飯田橋駅に近い濠端に出てしまうことに決めた。
 そして、神楽坂通りより一つ東側の道、軽子坂を上ることにした。神楽坂のメイン・ストリートは、 いまや、あまりにも、きんきらきん(、、、、、、)であり、良くない、と判定したためである。
 軽子坂は、ポルノ映画館などがあるものの、私の考えるある種の空気(、、、、、、)が残っている部分で、本多横町 (毘沙門さまの斜め向いを右に入る道の俗称)を覗いてから、あちこちの路地に足を踏み入れる。同じ山の手の花街である四谷荒木町の裏通りに似たところがあるが、こちらのほうが、オリンピック以前の東京が息づいている。黒塀が多いのも、花街の名残りらしく、しかも、いずれは殺風景な建物に変るのが眼に見えている。
大久保通りを横切って、白銀(しろがね)公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱してい るのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。
「女の子の顔がきれいだ」
 と、荒木氏が断言した。
白銀坂 おかしいかもしれませんが、白銀坂っていったいどこなの? 瓢箪坂や相生坂なら知っています。白銀坂なんて、聞いたことはないのでした。と書いた後で明治20年の地図にありました。へー、こんなところを白銀坂っていうんだ。知りませんでした。ただし、この白銀坂は行きたい場所から垂直にずれています。
きれい 白銀公園を越えてそこで女の子がきれいだというのもちょっとおかしい。神楽坂5丁目ならわかるのですが。

 言うまでもないことだが、花街の近くの幼女は奇妙におとなびた顔をしている。吉原の近くで生れた荒木氏と柳橋の近くで生れた私は、どうしてそうなるのかを、幼時体験として知っているのだ。
 赤城神社のある赤城元町、赤城下町と、道は行きどまるかに見えて、どこまでも続く。昭和三十年代ではないかと錯覚させる玩具と駄菓子と雑貨の店(ピンク、、、レディ(、、、)の写真が売られているのが凄い)があり、物を買いに入ってゆく女の子がいる。〈陽の当る表通り〉と隔絶した人間の営みがこの谷間にあり、 荒木氏も私も、こちらが本当の東京の姿だと心の中で眩きながら、言葉にすることができない。
 なぜなら、言葉にしたとたんに、それは白々しくなり、しかも、ブーメランのように私たちを襲うのが確実だからだ。私たちは——いや、少くとも、私は、そうした生活から遁走しおおせたかに見える贋の山の手人種であり、〈陽の当る表通り〉を離れることができぬ日常を送っている。そうしたうさん臭い人間は、早々に、谷間を立ち去らなければならない。
 若い女を男が追いかけてゆき、争っている。「つきまとわないでください」と、セーターにスラックス姿の女が叫ぶ。ちかごろ、めったに見かけぬ光景である。
 男はしつこくつきまとい、女が逃げる。一本道だから、私たちを追い抜いて走るしかない。
 やがて、諦めたのか、男は昂奮した様子で戻ってきた。
 少し歩くと、女が公衆電話をかけているのが見えた。
 私たちは、やがて、悪趣味なビルが見える表通りに出た。

どこまでも続く う~ん、かなり先に歩いてきたのではないでしょうか。神楽坂ではないと断言できないのですが。そうか、最近の言葉でいうと、裏神楽坂なんだ。
表通り おそらく牛込天神町のど真ん中から西の早稲田通りに出たのでしょう。

 これで終わりです。なお、写真は1枚を出すと……(全部を出す場合には……神楽坂の写真

 これは神楽坂通りそのものの写真です。場所は神楽坂3丁目で、この万平ビルは現在、クレール神楽坂になりました。

1990年の神楽坂

1990年の神楽坂

紅谷|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 菓子屋「紅谷」の2つの図を出します。左は新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)です。ここで、仐とは第四水準の漢字で「サン」「かさ」と読みます。右は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」の一部で、それを書き直ししたものです。

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神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」を読むと……(なお、「相川さん」は大正二年生まれで、棟梁で街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。)

馬場さん ここのところはあんまりはっきりしなかったんですよ。相川さんがいちばんよく知っているんだ。なんて空き地だったの?
相川さん 昭和銀行が建てるんで、担保に取った家だから、空き地にしといた。塀が二間ぐらいあって。だからお祭りやるときに、いつもその塀を壊してお神酒所にした。奥深いでしよ、だから表にお神輿をおいて、後ろがたまり場になっている。独立でできたんですよ。
馬場さん お祭りのときに、寺内のところでもお賽銭をもってきたっていうのは?
相川さん それはもっと前だね、これができない前だね。またぎでね、いまの万長さんと恵比寿亭との間(注)に、下を人が通れるようにって橋をこしらえて、お祭りのときにお囃子をやったんだ。
(注)現在の第一勧信とauショップの間の道
馬場さん 安藤さんと「東京靴下」の社長の北沢さんところの二軒、買ったんだね、ここから。
相川さん いや、これはマスミヤさんのものなの。東京靴下もみんな同級生なの。この半襟屋さんのうちで、傘屋さんのあったうちを。
馬場さん 「高橋洋傘店」?
相川さん そう、これを「紅谷」さんが間口を広げるというので、ここに空き家があったでしょ。ここは「伊藤はかま店」だった。ここが空き家になったんで、マスミヤさんもどけるとちょうど一角(いっかく)になるからって、こっちを買ってマスミヤさんにどいてもらった。これも三階建ての木造でね。ここの紅谷さんの二軒分は喫茶店にした。店はそのまんま。

またぎ 「またぎき」でしょう。又聞き。伝え聞く。間接的に聞くこと。ちなみに、またぎは、東北地方などの山間部に住む古い猟法を守って狩りを行う狩猟者のこと。

 なにかよくわかりませんが、紅谷については全てです。紅谷店では、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)を見る限り、大正10年に3階建てに改築し、以降は改装はなく、これで終わりです。紅谷がこれ以上変更なく、その後、空襲でなくなりました。

なお、「空き地」は上の右図に出てくるものでしょう。「昭和銀行」は昭和2年に尾張屋銀行を買収しました

さて、マスミヤの推移です。上の2図では「益見屋」と「益みや」。上の対談では「マスミヤ」です。益見屋から土地を少しもらったのでしょうか。

別の地図で、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では次の図が出ています。「益見屋洋店 半襟店」が再び登場しています。

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さらに都市製図社制の火災保険特殊地図の 昭和12年(左)と昭和27年(右)は下の絵です。ちなみに益()屋は昭和12年の地図に出ています。

s12+s27

結局、「益見屋」「益みや」「マスミヤ」「益見屋洋品 半襟店」「益(屋」さんはどうなったのでしょう? 紅谷に売って、隣に新しい益見屋を買ったのでしょうか? それとも店舗は昔から変わらず、紅谷はハカマ屋だけを買ったのでしょうか。正確にはわかりません。

なぜ、小説家の収入は大正八年に劇的に急増したのか

山本芳明

文学と神楽坂

 山本芳明氏が書いた『カネと文学 日本近代文学の経済史』です。

 氏は学習院大学教授で近代文学研究者。生年は1955年です。

 第一章 大正八年、文壇の黄金時代のはじまり

 一、あがる原稿料
 なぜ、岩野泡鳴の収入は、大正八年に劇的に急増したのだろうか。
 その原因として、第一にあげるべきなのは、原稿料の高騰である。大正八年四月に総合雑誌「改造」、六月に「解放」が創刊されたのを契機として、コンテンツを確保するために、原稿料が上昇したのである。
 小説家の広津和郎の回想によれば、「『改造』『解放』等が原稿料を余計出したので、どこの雑誌も原稿料を急激に値上げし始めた。これもこの年の特徴であった。参考のために自分の原稿料の上り方を書いて見ると、大正六年に『中央公論』にはじめて書いた時は一円であり、その後『文章世界』に書いたら六十銭、『新潮』は七十銭、『太陽』が八〇銭、そんな工合合で大正七年まで来たのに、大正八年になって、『改心』が一円八〇銭、『解放』が二円出したので、次ぎに『中央公論』に書いたら、『改造はいくら出しましたか』と滝田氏(注:号は樗陰。「中央公論」編集長)は訊ねた上で、今までの一円を二円にした。それまでは原稿料の値上げは、十銭とか、二十銭とか宛であったのに、それからは五十銭、一円の値上げとなり、大正十二年の震災前に五円になった。その後、少しずつ値上りして、八円という時代が十年以上続き、大東亜戦争の始まる少し前頃、十円になった。これは私の貰った原稿料で、他の人気作家は、もっとずっと払って貰っていたかも知れないと思う。」(「六十二 大正八年という年」『年月のあしおと』昭38・8刊 引川は平1・5刊の中央公論社普及版全集第12巻による)ということになる。

 つまり、原稿料は40枚で400円になりました。年に10作をつくると、4000円です。さらに近松秋江氏がこう書いていると山本芳明氏はいいます。

碌々(ろくろく)学校もやらない島田清次郎が僅かに二十二か三歳で、一挙にして数万円の印税を()得たなどは、漸く十八九歳の前垂れ掛けの小僧でも(うま)く一つ当れば一夜にして、(たちま)ち、巨富を成すことの出来る相場師仲間以外にはとても見られぬ図である」(「年の暮文士貧富論」「時事新報」大11・12・21)。
 近松が、浅薄な「文運の降盛」の代表者として言及した島田清次郎は、「本年二十三歳の島田君の預金が川崎銀行に五万円◇尚続々その『地上』第一部乃至第三部から上って来る月々の印税千円を下らず」(「書架の前」「読売新聞」大10・11・20)といったゴシップが流れるほどの流行作家だった。島田については、後に詳しく述べるが、黄金時代を代表する作家の一人といっていいだろう。大正文学の代表的な作家といえば、芥川龍之介志賀直哉のような短編小説を得意とする作家たちが思い浮かぶ。しかし、実際のところ、黄金時代を支えた重要な文学作品=商品は、島田清次郎の『地上』シリーズを代表とする書き下ろし長編小説だったのである。
 近松は、島田のような若造に『巨富』を得させる「文運の隆盛」の浅薄さを、昔気質の文士らしく嘆いているかのようだ。しかし、彼の本当の悩みは別のところにあった。彼を困らせていたのは、「初めて税務署から決定書をさし付けて来た」ことだった。貧乏で売っていた近松も「文運の降盛」のおかげを被っていたのである。こうした税金をめぐるトラブル(?)はこの時期の重要な文壇ゴシップだった。
 たとえば、上司小剣は「著作物に対する不定の報酬は課税の目的物となるべきや」(「読売新聞」大9・11・30)という文章で、[従来六百円]だったのに、「先月末品川税務署から三千円の決定書を送られ」「再審査を請求しても間に合わんので」、税金を「其のまま二回納め」たという体験と、税務署の関心が作家に突然向けられたことの困惑を語っていた。
 ちなみに、大正九年の内閣総理大臣の月給は千円、東京府知事の年俸は六千円、国会議員の年額報酬は三千円、第一銀行の大卒の初任給は四五円から五〇円、小学校教員の初任給(諸手当を含まない基本給)は四〇円から五五円だった。そばは八から一〇銭、味噌は二八銭、醤油は八四銭である。
 まさに、作家たちは成金となったのである。

贏つ かつ。勝つ。克つ。相手より優位な立場を占める。競争相手を負かす。勝利を得る。

 小説家の年収は10作で、四千円。国会議員の年額報酬は三千円。小説家たちは成金になりました。


 もうひとつ、出版ジャーナリズムが出てきたものも別の理由です。杉森久英氏の「天才と狂人の間」(河出文庫)の解説で川村湊氏は

 しかし、杉森久英氏が指摘しているもう一つの、〈島田清次郎現象〉すなわち『地上』ブームの要因がある。それはほかでもなく、この頃に出版社主導型の大衆ジャーナリズムが拡大したということである。二十歳の無名青年の長篇小説が、いくら生田長江の強力な推輓があったとしても、当時すでに文芸物の出版社として定評を得ていた新潮社から大々的に出版されることは、おそらく数年前にはほとんど考えられなかったことだ。社内の賛否両論を抑え、出版を決裁したのは社長の佐藤義亮だったという。彼は出版人としての商売人的なカンによって、この小説は売れると踏んだのだろう。無名であり、新人であり、若いからこそ、「現代」にアッピールする。新聞に大きく広告を出し、自社系出版物にも大きく広告を打ち「堂々二千枚の大長篇ということ」「著者がまだ二一歳の年少作家だということ」を強調し、「島田清次郎」という名前を一般読者、大衆層に向けて記憶させ、浸透させようとしたのである。(もっとも成功しなかった場合のことも考え、第一部「地に潜むもの」の印税はなしというように、細心な商売人根性も見せている。)
 つまり、島田清次郎は「新潮社」という出版ジャーナリズムによって作られた「文壇の寵児」なのであって、それは尾崎紅葉の門下から泉鏡花小栗風葉が、漱石門下から芥川龍之介森田草平が新進作家として登場してくるといった、明治・大正文壇の新人作家の登場の仕方とは異質であり、異端的なものであったのである。

推輓 すいばん。車を()したり引いたりすること。転じて人を推挙すること

新潮社社長の佐藤義亮氏が書いた『出版おもいで話』(1936年)では

島田清次郎氏の『地上』
「多少ながらいいものをもっているようです。会ってやって下さい」
 という意味の生田長江氏の紹介状を持って、きわめて謙譲で、無口な青年が、私を訪ねて来た。それが島田清次郎氏であった。大正八年の春のことである。
 持って来た原稿を、社の二、三の人たちに読んでもらった。相当見られるというのと、いや、大したもんじゃないという、二様の意見だった。結局冒険して出すこともなかろうとの説に帰したが、私が読んでみると、なるほど稚拙な点は否めないが、しかもどこか不思議な迫力があり、いい意味の大衆性をもっているので、未練があって棄てかねる。で、初めの方を二、三度読みかえして見てから、とうとう出すことに決め、郵便で出版承諾の旨を言ってやると、彼は飛んで来た。非常な喜び方だったことはいうまでもない。
 この時の素朴な感謝に溢れた彼と、後の傲岸(ごうがん)無比な彼とが同一人であったということは、今考えても不思議なくらいである。
 かくして、『地上』第一巻が生まれた(大正八年六月)。
 初版は三千部刷ったが、初めの売行きは普通だった。それが二十日ばかり経ってから俄然売れ出し、徳富蘇峰翁や堺枯川氏などの激賞をきっかけに、各新聞雑誌における評判は、文字どおり嘖々(さくさく)たるものであった。十版、二十版と増刷して、発売高は三万部に達した。
 つづいて『地上』第二巻を出したが、これも初版一万部が、たった二日間で売れ尽す盛況であった。
 この奇蹟以上の売行きに、あの謙虚寡黙だった青年が私に向かって、
「自分の小説が、これほど世に迎えられようとは実際思っていなかった。それにしても、第二巻などはあまり売れ過ぎるように思う。これは恐らく、政友会で買い占めをやっているのであろう。現代日本の人気者は、政友会出身の内相原敬であるが、今や新しく一世の人気を贏ち得ようとする者に小説家島田清次郎がある。これは政友会の堪え得るところでない。で、政友会はこの上、島田清次郎を民衆に知らしめないために、ひそかに『地上』の買い占めをやっているに相違ない……。」
と語った。これには私も、すこしヘンだぞと思わざるを得なかった。
 第三巻は、本が出来てから初めて読んで、その支離滅裂さに驚き、すこしへんだぞと思った予感が、まさに的中して来たことを情けなく思った。それでも初版の三万部は事なく消化されてしまった。
 第四巻の出版にはかなり躊躇されたが、騎虎の勢どうにもならないで出した。やはり相当に売れた。
「日本の若き文豪が、民意を代表して欧米各国を訪れるのである」と豪語して、海外漫遊に出かけたのはその頃であるが、あちらで奇矯な振舞いをして、在留の同胞に殴られたという噂をしばしば耳にした。
 帰ってからは、あの「島清事件」だ。一遍にぴしゃんと凹まされてしまって、彼は再び起つことが出来なかった。
 盛名を馳せた人で悲惨な末路を見せるものは珍しくないが、彗星のように突如現われて四辺を眩惑し、わずか両三年にして、また、たちまち彗星のように消え去った、島田清次郎の如きは、恐らく空前にして、絶後というべきであろう。

嘖々 ほめること
政友会 立憲政友会。明治33年(1900)伊藤博文が旧自由党系の憲政党を吸収して結成し、5・15事件の後に衰退し、昭和15年(1940)解党。
内相 ないしょう。内務大臣のこと
贏ち得る かちえる。努力の結果として得る。
騎虎の勢 きこのいきおい。虎に乗った者は、降りると虎に食べられてしまうので、乗り続けるしかない。一度勢いがついてしまうと、途中でやめることが出来ないたとえ

メトロ映画[昔]

文学と神楽坂

メトロ映画劇場

 昭和27年(1952年)1月元日を期して神楽坂2丁目に開場しました。場所はここです。

http://towa33.com/?eid=8195

 神楽坂アーカイブズチームが書いた『まちの想い出をたどって 第4集』(2011年)では、「坂の右側に見える映画の看板はかつてあった神楽坂メトロのもの」と出て、写真2枚をだしています。
 1つは新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 58にもありますが、写真の北西方向に「トリスバー」「コーヒーリオン」が見えます。映画のメーン作品は「修羅しゅら八荒はっこう」で、公開は昭和33年11月11日。「神州天馬侠 完結篇」は昭和33年9月23日。「裸の太陽」は昭和33年10月1日。どれも昭和33年の映画です。

昭和30年後半の神楽坂通り(新宿歴史博物館提供)

昭和30年後半の神楽坂通り(新宿歴史博物館提供)新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 58

 別の写真はこれで、修道社の『東京都-県別・写真・観光日本案内』(1961年)からとったものです。遠くにこの映画館が見えます。近くに見える神楽堂は現在の不二家飯田橋店です。

 毎日新聞社の本『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』では下のような写真が出ています。昭和37年(1962年)の写真です。またコーヒーリオンは「BAR みなみ」に変わっています。
映画館

 山本祥三氏の『東京風物画集 PARTⅡ』(雪華社、昭和38年)では本の前半(109)にイラストとメモ、後半(23)には文章が出ています。イラストとメモには映画館はありませんが、文章に出ています。しのだ寿司

109 神 楽 坂
Kagurazaka
繁栄を誇った神楽坂も今は新宿に押されて小
ぢんまりした小盛り場になってしまいました。
それでも街に流れている空気は山の手らしい
上品さです。
東京風物画集

東京風物画集

シネマスコープ(神楽坂メトロ)大人120 同伴95 学生55 学生科金が普通料金の半値なのはこの街らしい
ジャズ喫茶、トリスバー、ダンス教室、気のきいた喫茶店などが目に付く
山手でも下町でもない神楽坂の雰囲気
戦前に繁栄した盛り場のカンロクが残っている
戦災ですっかりイタメつけられたこの街も、昔日のおもかげはないにしても軒を並べた商店は皆小綺麗で感じがいい 山手の上品さと下町の気安さとを持つこの街
街の中程はこぢんまりした毘沙門天の境内に子供の遊び場。

 1967年当初、「メトロ神楽坂」と「バーみなみ」などはありますが、同年になくなり、より巨大なパブ「ハッピージャック」と喫茶「軽い心」に代わっています。

三好野|神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 三好野(みよしの)は、おしるこなどの甘味屋でした。神楽坂4丁目で、現在はレディースファッションAWAYAです。場所はここ

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

毘沙門の向ふ側に以前からある、例の三好野式の大衆甘味ホールで、お汁粉、おはぎ等のほかに稲荷ずし、喫茶の類も揃つてゐますが、他に類似の店が尠いので、婦人子供達にも評判がよろしく、毘沙門參詣者の休み場所のやうな形になつてゐます

 三好野は1952年までにはなくなっています。「家は3階建て。遊びに行った時、高そうな鉄道のおもちゃを見せられた」とある私信。

 1960年頃までは「洋品マケヌ屋」、1978年頃までは「阿質屋洋品」、1980年頃からはレディースファッション「あわや」になっています。

「あわや」と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』の地名では「ごくぼその路地」、牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」「名もなきままの小路」。最も狭い路地で、しかし、先には狭い路に面して居酒屋もあります。神楽坂通りに出る方の路地はわずか91cm、四つ角にぶつかる方は122cmでした。(詳細はここで)

「拝啓、父上様」第一回で田原一平は奥からここをすり抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会うエピソードがあります。

神楽坂通り
  ケイタイをかけつつ歩く一平。
一平「動いてないな。ようし見えてきた。後1分だ。一分で着くからな」


ごくほそ1

コインランドリーで洗濯をしていた田原一平は洗濯物を持って「ごくぼその路地」を抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会う

春月[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

春月。飯田公子。かぐらむら。67号。

 春月はそば屋さんでした。明治より古くから営業し、終戦後も、しばらくは営業して、たとえば、昭和27年、都市製図社の火災保険特殊地図ではやっていますが、昭和30年代には隣の三菱銀行の駐車場になり、昭和35年には合併しています。場所は三菱UFJ銀行の一部です。地図はここです。
 地元の話では「3丁目の三菱銀行は、戦後しばらくして隣地を買い取りました。石造りの旧店舗は、周辺への通知と道路の通行止めをした上で爆破して取り壊しました。ちょっとしたイベントでした。現店舗は駐車場を地下にして建て直したものです」

春月

現在は三菱UFJ銀行の一部

 歌舞伎役者の三代目中村仲蔵氏が書いた『手前味噌』(昭和19年)で、弘化4(1847)年9月には

 挑灯の用意すれど蝋燭を買ふ家なく、四辺は屋敷町ゆゑ、探らぬばかりにして、牛込山伏町より神楽坂の通りへ出る。ヤレ嬉しやと春月庵といふ蕎麦屋へ這入り、蕎麦を喰ふ。それより堀端へ出で、順路猿若町の自宅へ帰る時に、四ツなりし。お千賀、お紋も留守中の難渋さぞかしと、互ひに難儀話に時を移し、我れ土産は少しだがといって金十両出す。女ども涙を飜して大悦び、その夜は足を延ばして緩々旅の労れを休めけり。
 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では
春月――毘沙門並びの角店。二階に座敷もある立派なそば屋ですが、時勢は喫茶を一諸にさせてゐます。

 子母沢寛氏の『味覚極楽』(昭和32年、インタビューは昭和2年、他も同じ)「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」では
牛込神楽坂の「春月」もいい。もり、ざるそば、何んでもいいが、あのうちの下地に特徴がある。この方の通人にいわせると、そばは下地をちょっぴりとつけて、するすると吸い込むものだというけれども、私は矢張り下地を適当につけて、囗八分目に入れて行くのがいいと思っている。

 以上は竹内薫兵氏の話ですが、これを受けて子母沢寛自身も「寸刻の味」を書いています。
 神楽坂の「春月」は書生の頃から久しく通った。はじめ何んの気なしに入ったらうまい。通っている中に気がついたのだが、よく天ぷらだの何んだの、吸タネでお酒をのんでいる人が大変多い。大抵行く度にこういう人を見る。天ぷら、五目、鴨なん(、、)というようなものの下地だけをとって酒をのんでいる。後ちに酒のみの先輩にこれを話したら「酒というものは蕎麦でのむと大層うま味が減るものだ、だから蕎麦屋では大抵飛切り上等のものを置く、酒のみは酒をのむためにここへ入る。蕎麦をとっても酒をのみ終えてから御愛想に食う位のものだ。吸タネで酒をのむなどはところがら粋な奴が多いのだろうし、酒も余っ程いいのを出しているな」といった。

 また、子母沢寛氏の『味覚極楽』の「四谷馬方蕎麦 彫刻家 高村光雲翁の話」の高村光雲氏は
 麻布永坂の「更科」、池の端の「蓮玉座」、団子坂の「薮そば」はその頃から有名で、神楽坂の「春月」は二八そば随一のうまさだなどといわれたものだ。

 二八そばとは2x8=16銭で食べさせたそばのこと。あるいは、うどん粉とそば粉の割合を2対8でつくったそば。また、そば粉2、うどん粉8の割合でつくった下等なそば。この二八そばの語源はほかにもいろいろあります。
 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第4号の「語らい広場」では
『手前味噌』の中に見つけた神楽坂のこと

 昆沙門様の隣、三菱銀行の角地に銀行ができるまで「春月」といふそばやさんがありました。戦前からあったお店だったと思ひますが、その頃のことはおぼえてゐません。昭和二十年代、まだ麺類外食券なんてものが必要だった時代(そんなこともあったのです)に、随分よく通ったものです。きりっとした、いはゆる小股の切れ上がったといふお内儀さんがいかにも江戸前といふ感じで、いつも和服で店内を切り廻してゐました。銀行の進出で消えてしまひ残念な思ひがしたことをおぼえてゐます。はやった店だったのに。
田邊孝治

船橋屋[昔]

文学と神楽坂

 和菓子「船橋屋」はかつて神楽坂6丁目67にあった店舗で、現在は名前は変わり、「神楽坂FNビル」に変わりました。これは、1984年竣工、10階建ての賃貸オフィスビルです。なぜかシャッターはいつも閉まったままです。場所はここ

FNビル

FNビル

 昭和13年4月号の「製菓実験」では

      船橋屋
倉本
 入口のアイランド・ケース[鳥型欄]は、客の出入に邪魔になる。どうせ、この店の構えでは、このケースの品は賣れることが少いので、經營者は大したものと考へてはゐないのであろうけれど、商賣の上から行くと、この入口の二本のケースのある場所は一番大切なところなので、氣の利いた店ならばここにオトリ(、、、)ワナ(、、)を、しかけることになつてゐるのである。かゝる最上の場所をイヽカゲンにすることは許されない。陳列窻の中も、これではよくない。見たところ、相當大きな店らしいのに、如何にも殘念なこととおもふ。

 取り立てゝいゝ處も無い代りに、大きな缺點も無い店である。
 欄間の構造をも少し軽快に造つたならば、上から壓迫されるやうな感じが無くなつて、もつと入りよい店になるであらう。入口の二箇のシヨーケースは目立つて相當効果はあると思はれるが、場合に依つてはこの爲に入りにくゝいてゐるとも考へられる。このまゝではガラス戸は是非全部開放して置かないと中との連結が斷たれる恐れがあらう。

 広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では

私は肴町の角に出る少し手前の通寺町通の右側に、「船橋屋本店」という小さな菓子屋の看板を見つけると、そこに入って行った。これは私の子供の時分から知っている店で、よくオヤツの菓子を買いに来たものである。私はそこまで来る間にも、昔知っていた店が残っているかと思って、町の両側の店々を注意して眺めて来たが、どこも記憶にない店名ばかりであった。そこに船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。
 私は店番をしている店員に訊いた。
「ここは昔の船橋屋か知ら」
「はい、昔の船橋屋でございます」と店員は答えた。
「代替りはしていないの」
「はい、代替りはして居りません。何でも五代続いているそうでございます」
 私は店員に大福を包んで貰った。

 野口冨士男著の『私のなかの東京』「神楽坂から早稲田まで」(昭和53年)では

現在では餅菓子の製造販売はやめてしまったらしく、セロファンの袋に包んだ半生菓子類がならべてあった。日本人の嗜好の変化も一因かもしれないが、生菓子をおかなくなったのは、寺町通りのさびれ方にも作用されているのではなかろうか。

かぐらむら』によれば

 船橋屋(通寺町『製菓実験』昭和13年4月号/国立国会図書館蔵)
 創業明治3年の和菓子と喫茶の店である。船橋屋本店として相当に繁盛していたことが、3階建ての店舗から伺える。ひさしの上に植木が並べられているのが、いかにも「昔」の風景だ。1階、向かって右の階段(植物の蔭)が、喫茶の入口だったのだろう。春先らしく、桜もち、草もちと大書きされた紙が貼られている。
 船橋屋は、通寺町67番地にあった。戦後も営業が続けられていたが、今は「FNビル」というオフィスビルになっている。

牛込駅から飯田橋駅

文学と神楽坂

 牛込駅の開業は明治27年(1894)10月9日。廃業は昭和3年(1928)11月15日。風俗画報臨時増刊「新撰東京名所図会」の「牛込区之部 上」は明治37年に発行したもので、その「牛込停車場」です。

●牛込停車場
牛込停車場は。牛込濠の東畔を埋めて設備したる甲武鐵道線の驛にて。飯田町の次に在る停車場なり。其の結構四谷停車場と大差なし。但當所の閣道は驛の西側に在りて。直ちに牛込門南の乗車券賣場に行くべく。右に下れば四谷、新宿行のブラットホームに至るべし。飯田町行は改札所前にて。閣道を攀るの煩なし。
當所の土手には。四谷の如く多くの躑躅花なきも。秋夜叢露の中に宿りし蟲の聲ゆかしく聞ゆ。
今や電車の準備中なれば。長蛇の黒煙を噴て走るの異觀はなきに至るべきか。但隄松には電車の方よろしきか。

[現代語訳]牛込停車場は、牛込堀の東側を埋めて設備した甲武鉄道線の駅であり、飯田町の次に来る停車場だ。その構成は四谷停車場と大差はない。ただし、当所の階上の廊下は、駅の西側にあり、直ちに旧牛込門の南口の乗車券売り場に行く場合、右の下に行けばよく、四谷や新宿に行くブラットホームになる。飯田町行は改札所の前で、跨線橋を登るわずらわしさはない。
 当所の土手には四谷と違って多くのつつじの花はないが、秋の夜、草むらのつゆのなかで、虫の音は心がひかれる。
 現在は電車の準備中で、長い黒煙を吹いて走る奇観はないといえよう。なお、土手の松では電車のほうがよくはないか。

甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
飯田町 牛込駅の建設が終わると、下の橋も利用可。飯田町の場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

結構 全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
閣道 かくどう。地上高くしつらえられた廊下
 旧
攀る よじる。よじ登る。
躑躅 つつじ。

 明治初期(おそらく明治10年以前)、まだ牛込橋は1つだけです。

 明治後期になって、小林清親氏が描いた「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」

 牛込見附の桜花について、石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)は

明治34年、牛込御門の前に明治34年架橋の牛込橋。右手にあった牛込御門は明治5年に渡櫓が撤去され、明治35年には門構えも収り壊された。左手は神楽坂になる。右に甲武鉄道が走るが飯田橋駅(明治3年11年15日開業)はまだなかった。この写真で右後方に牛込停車場があった。ルーペで覗くと右橋脚の中程に線路が見える。橋上の人は桜見物を演出するためのサクラのようだ。

 同じく石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」で

これと同じ牛込橋だ。現JR中央線飯田橋駅西口付近である。赤坂溜池からの水(南側)と江戸川から導いた水(北側)の境目で、堀の水位に高低差があった。今も観察すると水に高低があることが分かる。

 関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、1928年(昭和3年)11月15日、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 新光社「日本地理風俗大系 II」(昭和6年)では……

牛込見附

 江戸開府以来江戸城の防備には非常な考慮が繞らされている。濠の内側には要所要所に幾多の関門を設けて厳重を極めた。今やその遺趾が大方跡形もないが山手方面には当時が偲れる石堰や陸橋が残っている。写真は牛込見附で石垣が完全に保存されている。

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「首都圏の鉄道と駅の写真」には

 山高登氏の「東京昭和百景」(星雲社、2014)では 昭和48年(1973年)頃の牛込橋の絵画です。

山高登「東京昭和百景」星雲社。2014。「牛込見附夕景」は1973年

 牛込見附夕景(1973年)
JR飯田橋駅のホームから描いた。市ヶ谷堀から来た水が落ちるところが揚場町の堀だった。此の河岸は文字通り建築材料や材木を陸揚げする岸で、外堀は飯田橋で神田川に合流していた。右手の灰色の建物は近くの警察病院の病棟の分室。正面の神楽坂口を出ると左にはいくつか学校があって学生の乗降が多かった。

警察病院の病棟の分室 正しくは警察官の牛込寮でした。

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

 以前の飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。

 また、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。

新飯田橋駅

20/7/12から http://blog.livedoor.jp/schulze/archives/52256026.html

 新しい西口駅舎

善國寺の文化財

文学と神楽坂

では本堂に走る前に、文化財の説明を見てみましょう。

文化財愛護シンボルマーク

新宿区指定有形文化財 彫刻
善國寺(ぜんこくじ)毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)
所在地 新宿区神楽坂5丁目36番地
指定年月日 昭和60年7月5日
「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高30センチ、右手に鉾、左手に宝塔(ほうとう)を持ち、磐座(いわざ)に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の(まもり)本尊(ほんぞん)だったとも、土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄4年(1595)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は、別名を多聞(たもん)天と称し、持国(じこく)天・増長(ぞうちょう)天・広目(こうもく)天と共に四天王の1つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は、江戸の3毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。

平成21年12月    新宿区教育委員会

毘沙門天の生まれは寅の年、寅の日、寅の刻といわれ、化身である寅の石像は1対境内に向かい合って鎮座しています。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財
善國寺の石虎(いしとら)
所在地 新宿区神楽坂5丁目36番地
指定年月日 平成21年11月6日
G 安山岩製の虎の石像で、像高は阿形あぎょう(右)が82センチ、吽形うんぎょう(左)は85センチで、台石、基壇部も含めた総高は、両像ともに2メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店わらだな」「神楽坂」「肴町さかなまち」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者は善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳村長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。まら、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号きごう水準点で、残存している数は全国的にも少ない。
平成21年12月  新宿区教育委員会

この刻印は「几」と書いて「キ」と読むもので、高低几号または几号高低標とも漢字の「不」に似ているので不号水準点ともいわれるようです。

「大江戸歴史散歩を楽しむ会」(https://wako226.exblog.jp/16086315/)によれば

明治7年(1874)に開始した几号高低測量で刻まれた標高は18m76㎝44㎜であった。その後、大正12年(1923)関東大震災(-86㎜)、平成23年3月11日東北大震災(-24㎜)の地盤沈下(国会議事堂前の日本水準原点)を参考にすると虎石像台座の標高は現在18m65㎝44㎜となる。

神楽坂|東京繁昌記

文学と神楽坂

 木村荘八氏が書いた『東京繁昌記』という本があり、私は区の図書館で借りて読みました。A4判で、厚さは2.5cm。重さは1.6kgもあります。おっきい。全体で246頁なので、1頁1頁が相当に重たい。区の本は昭和33年に発行した演劇出版社の複製で、昭和62年に国書刊行会が再発行しています。
 氏は洋画家であり、生家は牛鍋屋いろは。岸田劉生氏とフューザン会・草土社を結成。小説の挿絵で有名で、『東京繁昌記』の画文は芸術院恩賜賞を受けました。生年は明治26年8月21日。没年は昭和33年11月18日。享年は満65歳でした。
 で、これほどの重い本だと「神楽坂」の文章も多いのではと思いましたが、文字は1頁以下でした。昭和30年、読売新聞の「師走風景帖」の文章で神楽坂を描いています。

東京繁昌記 尾崎紅葉の句に「寒参り闇にちんちん千鳥かな」。その白装束の寒参りを点景として神楽坂を描いた絵を見たことがあるが、九段坂には車のあと押しの「立ちんぼ」を配するなど、明治の人の風景描写は叙情細やかだった。上五を忘れたけれども「――つらりと酔ふて花の春」これも紅葉の句で、その注解に、一夜明けると、紅葉は門下生に羽織と着ものの「おしきせ」を出し、それを着つれた連中がほろ酔いで肩をそろえ、目白押しに神楽坂に行くところ、とあった。
 明治の神楽坂は硯友社の勢力範囲だった。今の神楽坂は早稲田と法政のなわ張りだろう――山の手の地形はここ(牛込)も麻布と同じく、到底後からの人工では出来ない(あが)り・(さが)りに豊富で、坂の名は、昔市ヶ谷八幡の祭礼にこの坂の近くで神楽を奏したからこの名があるといわれ、あるいは若宮八幡の神楽がこの坂まで聞えたからともいわれる。

 12月9日

寒参り闇にちんちん千鳥かな 岩波書店の『紅葉全集』第九巻を調べましたが、「寒詣翔るちん/\千鳥哉」だけが全集にはありました。
――つらりと酔ふて花の春 『紅葉全集』第九巻にはなさそうです。
目白押し めじろおし。メジロが樹上に押し合うように並んでとまるところから。多人数が込み合って並ぶこと。

 反対側の頁にはA4判全てを使って白黒の絵を描いています。パチンコマリーは現在のゲームセンター「セガ神楽坂」(場所はここ)に当たります。

木村荘八氏の「神楽坂」

木村荘八氏の「神楽坂」


毘沙門児童遊園

文学と神楽坂

 毘沙門天の一角に児童遊園がありました。新宿区のマークも付いているので、公的なのですが、あるのは椅子2つとトイレ。せめてスイング遊具にしてもいいのにね。場所はここです。

児童遊園

 山本祥三氏の『東京風物画集 PARTⅡ』(雪華社、昭和56年)では「街の中程はこぢんまりした毘沙門天の境内に子供の遊び場。」と書かれています。

 なお「神楽のさくら」という標柱が毘沙門児童遊園の奥にあります。なぜ「神楽のさくら」がたったのか不明です。「神楽のさくら」は筑土八幡神社にもあるのですが、これは理由がはっきりしています。

美濃屋[昔]とアジアンタワン

文学と神楽坂

美濃屋

 神楽坂5丁目30番で昔は菱屋分店、戦後は足袋の美濃屋に変わりましたが、1990年代に消え、今ではアジアンタワンなどに変わっています。
アジアンタワン

 場所はここ

 昭和45年新宿区教育委員会が書いた「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」では「糸・菱屋」になっています。

 右の下図は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」からで、絵は読みにくくなっているので、書き直ししました。
古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会より美濃屋1
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」の本文では

相川さん すぐ隣が菱屋さんの。これも天利さんと同じだけど、三丁目のと親戚でね。
馬場さん そういえば「菱屋分店」って書いてあった。

 天利氏は菱屋の店主です。戦後は神楽坂6丁目から美濃屋がはいってきました。

 大島歌織氏の『ここは牛込、神楽坂』第8号の「神楽坂で見つけた」(平成8年9月)では

足袋について

 美濃屋さんの前は、何度となく通っていて、入ってみたいと思いつつ、なかなか果せないでいました。足袋屋さんて、目的が限定される分、ほかの店のように「ちょっと見せてください」って軽く言えないんだな。
 でも、そろそろ足袋を買おうと思ってたとこでもあり、このページのことを囗実にして…と、ついに敷居をまたいだのでした。ドキドキ。(略)
 明治初期から続く美濃屋さんのご主人(三代目)は、六年前に「六十四歳になる手前で」亡くなられて。いまは外の職人さんに頼んでいるとのこと。その職人さんがやって来るのは、金曜日の夜七時。誂えたい人は、その時分に型をとってもらわなればなりませぬ。

美濃屋。神楽坂地区まちづくりの会「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、1995年)

 平成8年12月、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では美濃屋はなくなっています。その後、ビデオレンタルなどに変わり、現在は二階のタイ料理「Asian Tawan」や地下一階の「魚がしどまん中神楽坂店」などがはいっています。

資生堂[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では、関東大震災後の資生堂は、今の椿屋珈琲店にあったようです。地図はここに

椿屋珈琲店2

 今ではこの地に立っていた建物をまとめると……
① 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では、おそらく大正11年頃で、荒物屋と白十字
② 「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」で、関東大震災後の一定時間に、資生堂がはいります。
③ 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)で岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃、蒲焼こめや
④ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和12年で、明治食堂と白十字堂
⑤ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和27年で、堀田肉店
⑥ 1960年の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)でレストラン神楽坂と神楽坂フードセンター
⑦ 国立図書館で住宅協会の新宿区西部[1960]では神楽坂フードセンター
⑧ 1964年(昭和39年)におおとりパチンコになりました。

「肴町よもやま話③」の絵のほうが簡単にわかりやすく、でています。資生堂は白十字になり、明治食堂と一緒になって、堀田肉店になり、これはパチンコおおとり、パチンコ・スロットのゴードンになって、現在は椿屋珈琲店です。

Gold-On

今はないGold-On

 安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

○白十字――(はく)()の神樂坂分店で、以前は(さか)(あが)(ぐち)にあったものです。他の白十字同樣(どうやう)喫茶、菓子、(かる)い食事等。
サラリーマン、學生が多く、二階は(しづ)かに落ちつけますので御同伴(ごどうはん)や、商談客に()に入られてゐます。(なん)となく、クラシツクな氣分(きぶん)の家。
○こめや――蒲焼料理、一寸(ちよつと)氣のきいた日本風の構へですが、蒲焼(かばやき)、うな丼、柳川各(卅錢)と、大衆をそらさぬやり方です。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

相川さん その大田の半襟屋の隣が荒物屋さんだったね。それで、その隣が米屋さんのあとへ「明治食堂」っていう食堂が来た。その食堂のある時分に明治製菓が借りて、そのあとへ「白十字」が来た。白十字は戦争の最中にあったんだよ。
馬場さん そうです。白十字はありました。
山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。そうすると、荒物屋さんは明治食堂に変わって、堀田さんになった。
相川さん そうそう。
馬場さん それから、大田さんの半分の方が「亀沢菓子店」?
相川さん いや、この明治製菓のところが亀沢の菓子屋。
相川さん(ママ) だから、大田さんは半分ずつでしょう。広くないんだから。亀沢の菓子屋のあとは資生堂が来たわけ?
相川さん そうそう。
馬場さん 資生堂が来て、明治製菓になって、白十字になった、と。で、白十字のときには、隣はまだ明治食堂じゃなかった?
相川さん 明治食堂。
馬場さん だから、白十字と明治食堂がいまのオオトリさんのところにあって、それで戦災にあっているわけだ。終戦後は、「メイカ」が来てたよ。
相川さん メイカって明治製菓じゃないですよ。食堂、食堂。権利が残っていだからでしょ。
馬場さん それで「神楽坂食品」が出たけど失敗したりして。
相川さん それで、そのあとへ堀田さんが来た。堀田の肉屋がね。
馬場さん そのあとに堀田さんか来たの? ふーん、それで失敗して。
相川さん そのあとへパチンコ屋さん。
馬場さん それでオオトリさん。
相川さん オオトリさんだって、いまのオオトリさんの前が二つぐらい違うのがあるものね。同じパチンコ屋でも。
高須さん ああ、そうですか。
相川さん うちの中が違ってもね。

村松時計店[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」で、関東大震災後、村松時計店は現在の鮒忠にあったようです。地図はここに。鮒忠はここに。今ではこの地に立っていた建物をまとめると……

➀ 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では、おそらく大正11年頃、小間物・浅井。

➁ 「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」で、関東大震災後の一定時間に、村松時計店がはいります。

➂ 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)で岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃、船橋屋本店。これはお汁粉屋でした。

➃ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和12年で、クスリヤ。薬屋です。

➄ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和27年で、西川菓子店(チョコレート屋)

➅ 以降は 昭和30年頃から、鮒忠です

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

鮒忠

鮒忠

馬場さん それで通りを一つ隔てて、いまの「鮒忠」さんのところ。これがたいへんなんですよね。何やってもうまくいかないんだ
山下さん 西沢さんだ。チョコレート屋さんだったね。
馬場さん 何やってもうまくいかないところでね。
相川さん ここは浅井平八郎さんという小間物屋さんで。
山下さん あの大きなところを全部使っていたの?
相川さん 全部使っていた。
馬場さん 昔、酒屋があったって話を聞いたけど。
相川さん いや、酒屋はない。あんまり昔じゃ私もわからないけど。
馬場さん これは大きい酒屋だったって。万長なんかとは比べ物にならないんだって。それで潰れているんだって。
相川さん この「船橋屋」というのはお汁粉屋。これは、戦争中に「シンセイ堂」つていう薬局があったんです。船橋屋のあとに。そのあとが小間物屋。小間物屋さんが店を閉めるについて、一時、銀座の「村松時計店」が大きくあそこに入っていた。これも銀座の方に新しく(店舗が)できたからってんで引き上げた。そのあとに船橋屋が来た。
馬場さん それから薬屋で、戦災で焼けたときにはなんだったんですか?
相川さん 薬屋でおしまいになったんでしよ。
馬場さん 嘘だよ、薬屋じゃないよ。焼けるときは薬屋じゃなかったよ、ここは。
山下さん それで、戦後はどうですか? いちばん最初は「ノーブル」?
相川さん 「ノーブル」。喫茶をやっていた。
馬場さん ノーブルさんのあとへすぐ鮒忠ですか?
相川さん そうですね。


鮒忠

くるみ|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂5丁目に「伊勢屋」がありました。現在は「広島お好み焼き・くるみ」です。その場所はここ。

① 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では、おそらく大正11年頃で、鰹節・伊勢屋。
② 昭和27年、都市製図社の「火災保険特殊地図」で、伊勢屋食品。
③ 1995年に「イセヤビル」になり、平成14年(2002年)、広島市出身の永川まり氏が店長の「広島お好み焼き・くるみ」になっています。しかし、その前の八百屋は同じ経営陣なのでしょうか。

くるみ

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

くるみ

くるみ

相川さん その隣が「伊勢屋」さんね。伊勢屋さん(注)は坂下のうちにおじいさんが奉公していてこっちが分店になった。(注。神楽坂の2丁目に店があった乾物屋さん)
馬場さん 下って、二丁目かどこかの?
相川さん そう、二丁目。
馬場さん ああ、それでこちらへ。これは昭和の何年ごろのこと?
相川さん 私か覚えているより前からあったから、大正の初期にあそこへ店を開いたんじやないですか。伊勢屋さんの娘さんをもらってあのおじいさんとご夫婦にして。

「ここは牛込、神楽坂」第4号の長澤美智代氏の「神楽坂ガイド」では

『伊勢屋』さんは江戸時代から続く老舗で、乾物類がずらり。ふだんの買物のほか黒豆、昆布などお正月のお節の材料はこのお店で揃えます。ここで見つけた羅臼(らうす)昆布は身が厚くおいしくて。お値段は少々張りますがこれで作る昆布巻きは抜群。

田原屋[昔]

田原屋の写真 田原屋は神楽坂を代表する洋食屋でした。現在は玄品ふぐの店。

 その場所はここ。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では対談を行っています。ここで出てくる人は、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。「高須さん」はレストラン田原屋の店主。

馬場さん それでいよいよ隣りの「田原屋」(*)さんにいくわけね。田原屋さんていうのはどうなんですか?
相川さん これは昔「静岡屋」という魚屋さんだった。魚屋さんのあとを買ったんです。
馬場さん 静岡屋さんつてのは知ってる、頭?
相川さん 知らない。相当前だ。大正初期。あそこで牛肉屋をやったのね、あがり屋を。
高須さん 牛肉屋は潰れたはずですよね。それで屋号をさかさまにして田原屋にしたっていう話は聞いているんですけど。
相川さん 牛肉屋のあがり屋さんをやっていたときに女中さんできたのがおばあちゃんなんですよ。それでウヘイさんと見合いして一緒になって。
馬場さん 「原田屋」はウヘイさんのおとっつぁんなの?
相川さん お父さんは金魚屋だったの。それは赤城下にいた。
高須さん だけど、ウヘイさんは金魚屋やったり質屋に丁稚奉公したりしていた。
相川さん ああ、二丁目の質屋さんだね。山本さんの連れ合いの。
高須さん ウヘイさんのお父さんというのは下の弟さんのほうを可愛がっていて、ウヘイさんとはうまくいかなかったんですよ。
相川さん 水道町の高田さんに話を聞いたところでは、昭和四、五年のころ、要するに恐慌が来ていたときですね、ウヘイさんはいまの経済理論なんか知っている人じやないけれども、「不景気ってのは金持ちと貧乏人がますます差が開くことだ、これからの田原屋は貧乏人相手ではなくて金持ちだけを相手に商売をしよう」ということで、ガラッと商売を替えたんだという話を間きましだけどね。貧乏人を相手にしていてもダメだと。金持ちを相手にして、昭和五、六年の恐慌を乗り越えたという話があって。非常にわかりやすい(笑)。
高須さん あれ、質屋に勤めていて勉強したんじやないですか? 質屋の小僧がよく下のお堀で船に乗って京橋におつかいに行ったって。
馬場さん 質屋さんというのは一種の金融業者ですから、経済の動きってものがよくわかるんだ。
高須さん 質屋の小僧さんをやっていたんですよ。じいさんと一緒に金魚屋やって、そのあと質屋に丁稚奉公に行って、それから店をもった。
相川さん だけど、よくああいう商売をポッと考えたものですね。
高須さん じいさんが生きていたときはもう晩年でほとんど無口になっていますから、話を直接は聞いてないですけどね。よく聞いたのは、関東大震災のおかけで神楽坂はよくなったって。
相川さん そうそうそう。あれで下町は全部焼けたからね。

あがり屋 不明。「揚がり屋」は「浴場の衣服を脱いだり着たりする所。脱衣。江戸時代では「武士、僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋」。「あがる」には「御飯を食べる」という意味があります。
ウヘイ 宇平です。高須宇平でした。

 美味しいものなら量は少なくても価格は高くてもいい。しかし、本当に美味しいの? 美味しくない場合には残念ながら閉店です。

 安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)で、マカロニは少量、カレーライスも少量、スイカの匙は貧弱だといわれてしまいます。

M   「もうその邉で手つ取り早く食べ物の評に移らうぢやあないか。マカロニチーズ(三十錢)のチーズは却々よいのを使つてゐるが、マカロニは少し分量を儉約し過ぎてゐる」
H   「特別カレーライス(五十錢)お値段も相常だが、流石にうまく、第一カレーがいゝや、それに小皿に盛つてくる副菜の洒落てゐること、大いに推賞したいね。がたゞ僕の方も量を少々増して欲しいと思ふ。この一皿で一食分にはどうも少な過ぎるから」
S   「西瓜(三十錢)の味は無類、但しこの貧弱な匙はどうです、頸が折れ相で、その方に氣を取られる。この頃は百貨店でも大抵特別の匙を添へるのだから」
小が武 「アイスクリーム(二十錢)は餘りほめられません。どうも果物屋のクリームは千疋屋にしても美味くないし、こゝも感心しない」
M   「果物屋ではシャーベットをお食べと云ふ洒落かね」

 牛込倶楽部が発行する「ここは牛込、神楽坂」別冊『神楽坂宴会ガイド』(1999年)です。

 単品でのおすすめ料理は、ハヤシライス(1800円)ビーフクリームコロッケ(1200円)ビーフカツレツ(2400円)など。ちょっと贅沢にというときには「牛ヒレ肉田原屋ふう煮込み」であるところのビーフストロガノフ(6000円)が最高。

 ここでハヤシライス(1800円)が出ています。四半世紀を越えて、物価1800円は2000円以上です。しかし、本当に2000円以上に相当する味があったのでしょうか。ビーフストロガノフはなんと6000円。結局、コックの力量です。

 最後は大河内昭爾氏の氏の『かえらざるもの』から。氏は武蔵野大学名誉教授で文芸評論家です。やっぱり悲しい。

神楽坂「田原屋」が消えた

 神楽坂「田原屋」が昨年姿を消した。いつも愛想よく声をかけてくれていたおばあさんが店に出られなくなったせいであろう。店の前を通っても欠かさず愛想をいってくれた。
 昭和四十年。公団住宅に激烈な競争をくぐり抜けて当選したというだけで、あと先かまわず東京西郊のコンクリートばっかりの殺風景なところに引越した。そしてわずか半年で退散、こんどはうって変わって石畳の路地と黒板塀のある、あこがれの牛込神楽坂近くに引越しが出来た。友人の持ち家の古ぼけたしもた屋の、隣家からは三味線の音も聞こえてくるという路地裏であった。大学以来なじみの界隈であるが、郊外暮らしが性にあわなかった分だけ、まさに蘇生のおもいをした。それ故家族をひきつれて神楽坂「田原屋」へ出むくのが、当時の私の最高の贅沢だった。「この店のなつかしさ サトーハチロー」という大ぶりなマッチ箱にデザインされた文字がのびのびと躍っていて、見事に私の気持を代弁してくれていた。
 月の五の日には毘沙門さんの植木市を中心とした門前市が全盛の頃で、子供の手をひいて雑踏の神楽坂歩きはいっそう楽しかった。
「田原屋」は階下が華やかな果物屋で、二階がレストランだった。濃厚な風味を誇ったハヤシライスがあって、それがいかにも洋食屋といった風情にかなっていた。私はかねてレストランならぬ「洋食屋」を証明するものとしてハヤシライスの有無ということを言っていたか、「田原屋」を根拠にそれを口にしていたような気がする。鳥羽直送と壁に貼りだした生ガキの知らせは季節の風物詩だった。

(「東京人」平成16年1月号)