国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)で、新宿のいろいろな事柄を書いています。この文章は色町たる神楽坂を描いています。
城跡と色町(昭和47年1月)
「お元日ね、そりゃ忙しかった。ご祝儀は背中に入れてもらうんです。家に帰ってね帯をほどくとバサって落ちるほど」 |
北側高台 袋町にありました。北側ではないと思う。
脂粉 べにとおしろい。転じて、化粧。
さて、この文章は簡素なものですが、問題は同時に付く写真です。下の「大正時代の神楽坂通り」はどこなのでしょうか。左手の前方には「琴三味線洋楽器」が見えます。続いて「正確なメガネ」が見え、さらに後方には「ほていや」が見えます。新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)によれば「ほていや呉服店」はかつて肴町(現、神楽坂5丁目)にありました。しかし、これ以外はなにもわかりません。
では、岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」の肴町(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)を見てみると、
昭和五年頃、「ほていや」は同じように出てきますが、他に昭和5年頃に「菊岡三味線」が出てきます。写真に出てくる「琴三味線洋楽器」はこれではないでしょうか。しかも、店舗には「岡」の文字が浮かんでいます。その右側に「菊」もすこしだけ写っています。
さらに逆さまの「岡菊」の隣の店舗は「本」を売っているのではないでしょうか。これは上の写真で店舗には機山閣(KIZAN-KAKU)と書いていると思います。
また、神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では「三角堂」というめがね屋もありました。右端に「三角」が出ています。店舗の上にも「堂角三」と書いてあるようです。
もう一つ、虫眼鏡を使って見ていきます。左側から「ほていや」の一軒隣は濱田メリヤス。その次が上田屋履物店。巨大な矢印は? ほかには何もないので不明。〇に翼の生えたようなマークは有名なブランドか、と地元の方。その川崎第百銀行があり、キリンビールがあるのは田原屋でしょう。望楼、つまり遠くを見るための高いやぐらがある建物は不明ですが、白十字か恵比寿亭かも、と地元の方。
以上、この写真は肴町(現、神楽坂5丁目)から坂下の方向を見た写真だと思っています。