江戸城の外郭につくった城門を橋自体も含めて「見附」「見付」といいます。「牛込見附」は「牛込御門」「牛込門」と同じです。また明治初期から現在まで牛込橋の半分は新宿区のものでした(東京都「飯田橋 夢あたらし」平成8年)。なお、牛込土橋は牛込橋と同じ意味に使っていますが、本来は城郭の一構成要素であり、堀を横断する一種の橋です。
見附は要所に置かれた枡形(升形)がある城門の外側で、本義は城門を警固する番兵の見張所ですが、転じて城門の意味となりました。
牛込門 これも外濠守備のための門で、現千代田区富士見町二丁目の北西端にあたる位置にあった。これを牛込口・番町方・牛込方・楓の御門とも称した。 寛永13年(1636年)蜂須賀氏により枡形が築かれ、同16年に門が建てられた。警備用備え付け武器は、前述小石川門と同じ(鉄砲5・弓3・長柄槍5・持筒2・弓1組を常備)で、 3千石以上1万石未満の者がその任にあたった。(小野武雄著『江戸絵図巡り』展望社、1981) |
「枡形」とは石垣や土塁(土を盛りあげ堤防状にした防御施設)、水堀や空堀で四方を囲った防衛施設です。二方に出入口をつけ、もう二方へは進めないようにしました。高麗門をくぐって枡形に入った正面に小番所が、渡櫓下の大門を抜けた正面に大番所が置かれ、警固の武士が昼夜詰めていました。
外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永13年(1636年)に建設しました。田安門から上州道への要衝にあたります。別名「楓の御門」「紅葉御門」とも呼びますが、紅葉御門の証拠はないと書かれています(東京名所図会、第41編、東陽堂、1904年)。
千代田区は……
史跡 江戸城外堀跡
牛込見附(牛込御門)跡 正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のようにふたつの門を直角に配置した「桝形門」という形式をとっています。 この牛込見附は、外堀が完成した寛永13年(1636)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。 これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。 江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。 その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、左図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。 足元には、かつての牛込見附の跡をイメ一ジし、舗装の一部に取り入れています。 千代田区
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松平阿波守 下の注釈のように「阿波乃國」「阿波乃門」や「阿波守内」のように色々な読み方が出ていました。現在「阿波守内」が一番いいようです。下の右図は加藤建設株式会社の「史跡江戶城外堀跡 牛込門跡石垣修理工事報告」(飯田橋駅西口地区市街地再開発組合・千代田区、2014)です。
鈴木謙一著「江戸城三十六見附を歩く」(わらび書房、2003年)では
また野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では
長軸方向(控)の一辺に偏在して、「入阿波守内」の五文字が彫られている。文字は、全長が三尺六寸(108cm)あり、個々は、五寸から六寸(15~16cm)とやや大きくしかも深く彫られているために鮮明に読み取ることができる。冒頭の「入」の文字は、いりがしらの上端が小口面の端部に達しており、後に続く「阿波守内」の文字よりも幾分、右側に寄っている。画数が二画と少ないことから判然としないが、波や守の字体とは異なるようにもみえる。 |
なお「牛込見附」という言葉はこれだけではありません。市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができると市電の駅(停留所)をも指し、さらに「神楽坂下」交差点も一時「牛込見附」交差点と呼び、交差点や、この一帯の場所も「牛込見附」と呼びました。
例えば、『東京地名小辞典』(三省堂、昭和49年)では、「牛込見附」として「江戸城外堀をまたぐ城門にちなむ地区名。江戸城内から繁華街神楽坂に至る通路上に位置する」と書いてあります。1984年になると「神楽坂下」になっていますので、おそらく1980年初頭までは地区名として「牛込見附」という言葉は使っていたようです。下の写真では「牛込見附」交差点として使っています。