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骨|有島武郎①

文学と神楽坂

 有島武郎氏は小説家、評論家で、父が横浜税関長。学習院を経て札幌農学校に入り、ハバフォード大学大学院、ハーバード大学に学び、欧州巡歴を経て、帰国。明治43年「白樺」にくわわり、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」などを発表しました。

 この『骨』は大正12年4月、個人雑誌『泉』に発表しました。同年6月9日、氏は軽井沢で波多野秋子氏と心中。

 この小説で、「私」は有島氏自身だとすると46歳。「おんつぁん」は社会主義運動を行った30代前半で、モデルの本名は田所篤三郎。「勃凸」は20歳前後で問題が多い青年で、モデルは十文字仁。神楽坂で、この青年の送別会で、青年は、母親の骨をどこかになくしてしまいます。社会の異分子が奏でる哀歌です。

 小説の出だしからスタートです。

 たうとう勃凸は四年を終へない中に中学を退学した。退学させられた。学校といふものが彼にはさつぱり理解出来なかつたのだ。教室の中では飛行機を操縦するまねや、活動写真の人殺しのまねばかりしてゐた。勃凸にはそんなことが、興味といへば唯一の興味だつたのだ。
 どこにも行かずに家の中でごろ/\してゐる中におやぢとの不和が無性に嵩じて、碌でもない口喧嘩から、おやぢにしたゝか打ちのめされた揚句あげく、みぞれの降りしきる往来に塵のやうに掃き出されてしまつた。勃凸は退屈を持てあますやうな風付で、濡れたまゝぞべ/\とその友達の下宿にころがり込んだ。
 安菓子を滅茶々々に腹の中につめ込んだり、飲めもしない酒をやけらしくあふつて、水のしたゝるやうにぎすましたジヤック・ナイフをあてもなく振り廻したりして、することもなく夜更しをするのが、彼に取つてはせめてもの自由だつた。
 その中に勃凸は妙なことに興味を持ち出した。廊下一つ隔てた向ひの部屋に、これもくすぶり込んでゐるらしい一人の客が、十二時近くなると毎晩下から沢庵漬を取りよせて酒を飲むのだつたが、いかにも歯切れのよささうなばり/\といふ音と、生ぬるいらしい酒をずるつと啜り込む音とが堪らなく気持がよかつたのだ。胡坐をかいたまゝ、勃凸は鼠の眼のやうな可愛らしい眼で、強度の近眼鏡越しに友達の顔を見詰めながら、向ひの部屋の物音に聞き耳を立てた。
「あれ、今沢庵を喰つたあ。をつかしい奴だなあ……ほれ、今酒を飲んだべ」
 その沢庵漬で酒を飲むのが、あとで勃凸と腐れ縁を結ぶやうになつた「おんつぁん」だつた。
 いつとはなく二人は帳場で顔を見合すやうになつた。勃凸はおんつぁんを流動体のやうに感じた。勃凸には三十そこ/\のおんつぁんが生れる前からの父親のやうに思はれたのだつた。而してどつちから引き寄せるともなく勃凸はおんつぁんの部屋に入りびたるやうになつた。

勃凸 「ぼつとつ」と読むのでしょう。モデルは十文字仁。
ぞべぞべ 緊張感がなく だらしない。ぞべらぞべら。
くすぶる 家や田舎に引きこもって、目立った活動もしないで過ごす。世にうもれている状態で暮らす。
胡坐 あぐら。両ひざを左右に開き、両足首を組み合わせて座る座り方。
をつかしい 現在語では「おっかしい」でしょう。おかしい。思わず笑いたくなる。
おんつぁん 田所篤三郎がモデル。有島氏の出資で古書店を経営。

「おんつぁん」は小さな貸本屋を開き、一般の読者には不向きな書物も貸していました。警察の捜索を受け、「おんつぁん」たちは四日間、留置場に拘留。証拠不十分で放免になりますが、札幌での営業は停止。「おんつぁん」は東京にやって来きます。跡を追うように「勃凸」もやってきます。

 或る日、おんつぁんが来たと取り次がれたので、私は例の書斎に通すやうに云つておいて、暫くしてから行つて見ると、おんつぁんではない生若い青年だつた。背丈は尋常だが肩幅の狭い、骨細な体に何所か締りのぬけた着物の着かたをして、椅子にもかけかねる程気兼きがねをしながら、おんつぁんからの用事をいひ終ると、
「ぢや帰るから」
 といつて、止めるのも聴かずにどん/\帰つて行つてしまつた。私はすぐその男だなと思つたが、互に名乗り合ふこともしなかつた。
 二三日するとおんつぁんが来て、何か紛失物はなかつたかと聞くのだつた。あすこに行つたら記念に屹度何かくすねて来る積りだつたが、何んだか気がさして、その気になれなかつたと云つてはゐたが、あいつのことだから何が何んだか分らないといふのだ。然し勿論何にも無くなつてはゐなかつた。
めんこいとっつあんだ。額と手とがまるっでめんこくて俺らもう少しで舐めるところだつた。ありやとっつぁんぼっちやんだなあ」
 ともいつたさうだ。私は笑つた。而して私がとっつぁんぼっちやんなら、あの男はぼっちやんとっちやんだといつた。而してそれから私達の間でその男のことを勃凸、私のことを凸勃といふやうになつたのだ。だから勃凸とは札幌時代からの彼の異名ではない。
 その後勃凸と私との交渉はさして濃くなつて行くやうなこともなく、唯おんつぁんを通じて、彼が如何に女に愛着されるか、如何に放漫であるか、いざとなれば如何に抜け目のない強烈さを発揮するかといふことなどを聞かされるだけだつたが、今年になつて、突然勃凸と接近する機会が持ち上つた。

生若い青年 勃凸でしょう
めんこい かわいらしい。小さい。

 それは急におんつぁんが九州に旅立ち、その旅先きから又世界のどのはづれに行くかも知れないやうな事件が起つたからだ。勃凸の買つて来た赤皮の靴が法外に大き過ぎると冗談めいた口小言をいひながらも、おんつぁんはさすがに何処か緊張してゐた。私達は身にしみ通る夜風に顔をしかめながら、八時の夜行に間に合ふやうにと東京駅に急いだ。そこには先着の勃凸が、ハンティングを眉深かにおろし、トンビを高く立てゝ私達を待ち受けてゐた。おんつぁんは始終あたりに眼をくばらなければならないやうな境涯にゐたのだ。
 三等車は込み合つてゐたけれども、先に乗りこんで座席を占めてゐた勃凸の機転で、おんつぁんはやうやく窓に近いところに坐ることが出来た。おんつぁんはいつものやうに笑つて勃凸と話した。私は少し遠ざかつてゐた。勃凸がを拇指の根のところで拭き取つてゐるのがあやにくに見えた。おんつぁんの顔には油汗のやうなものが浮いて、見るも痛ましい程青白くなつてゐた。飽きも飽かれもしない妻と子とを残して、何んといつても住心地のいゝ日本から、どんな窮乏と危険とが待ち受けてゐるかも知れないいづこかに、盲者のやうに自分を投げ出して行かうとする。行かねばならないおんつぁんを、親身に送るものは、不良青年の極印を押された勃凸が一人ゐるばかりなのだ。こんな旅人とこんな見送り人とは、東京駅の長い歩廊にも恐らく又とはゐまい。私は思はずも感傷的になつてしまつた。而してその下らない感情を追ひ払ふためにセメントの床の上をこつ/\と寒さに首を縮めながら歩きまはつた。
  勃凸との話が途切れるとおんつぁんはぐつたりして客車の天井を眺めてゐた。勃凸はハンティングとトンビの襟との間にすつかり顔を隠して石のやうに突つ立つてゐた。
 長い事々しい警鈴の音、それは勃凸の胸をゑぐつたらう。列車は旅客を満載して闇の中へと動き出した。私達は他人同士のやうに知らん顔をし合つて別れた。
 勃凸と私と而してもう一人の仲間なるIは黙つたまゝ高い石造の建築物のはざまを歩いた。二人は私の行く方へと従つて来た。日比谷の停留場に来て、私は鳥料理の大きな店へと押し上つた。三人が通されたのはむさ苦しい六畳だつた。何しろ土曜日の晩だから、宴会客で店中が湧くやうだつたのだ。
 驚いたのは、暗闇から明るい電灯の下に現れ出た勃凸の姿だつた。私の心には歩廊の陰惨な光景がまだうろついてゐたのに、彼の顔は無恥な位晴れ/″\してゐた。
「たまげたなあ。とつても素晴らしいところだなあ」

ハンティング ハンチング帽。19世紀半ばからイギリスで用いた狩猟用の帽子
 ひさし。帽子で額の上に突き出た部分。
トンビ 外套の一種。袖が無く、ケープの背中部分がコートの背中部分と一体化して、スコットランド北部インバネス地方で着用され、インバネスコートとして広まった。日本では明治初年に輸入、和服の上に着用しやすい形に考案されて、「とんび」「二重まわし」とよんだ。
 えり。くびに当たる衣服の部分
 なみだ
あやにく 予期に反して思いどおりにならない。不本意。折あしく不都合
極印 ごくいん。永久に残るしるし。いつまでも消えない証拠。刻印。
歩廊 プラットホームのこと。2列の柱の間につくった通路。回廊

うを徳開店披露|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花が大正九年三月に書いた「うを徳」の開店披露の祝辞です。「うを徳」は料亭で、現在も神楽坂3丁目にあります。ミシュラン1つ星を取ったときもありましたが、現在、ミシュランの星はありません。
 この祝辞の終わりに現代文をつけています。

うを徳

 魚德うをとく開店かいてん披露ひろう

 それあたり四季しき眺望ながめは、築土つくどゆき赤城あかぎはな若宮わかみやつき目白めじろかね神樂坂かぐらざかから見附みつけ晴嵐せいらん緣日えんにちあるきの裾模樣すそもやう左褄ひだりづま緋縮緬ひぢりめんけてはよるあめとなる。おほり水鳥みづとり揚場あげばふね八景はつけい一霞ひとかすみ三筋みすぢいと連彈つれびきにて、はるまくまつうち本舞臺ほんぶたい高臺たかだいに、しやちほこならぬ金看板きんかんばん老舗しにせさらあたらしく新築しんちく開店みせびらき御料理おんれうり魚德うをとくと、たこひゞききにぞ名告なのりたる。うをよし、さけよし、鹽梅あんばいよし、最一もひと威勢ゐせいことは、此屋ここ亭主ていしゆ俠勢きほひにして、人間にんげんきたる松魚かつをごとし。烏帽子ゑぼしことや、蓬萊ほうらい床飾とこかざりつるくちばしまなばしの、心得こゝろえはありながら、素袍すはうにあらぬ向顱巻むかうはちまき半纏はんてんまくに、庖丁はうちやううでたゝ。よしそれ見得みえわすれ、虚飾かざりてて、只管ひたすらきやく專一せんいつの、獻立こんだて心意氣こゝろいき割烹かつぽう御仕出おんしだしは正月しやうぐわつより、さて引續ひきつゞ建増たてましの、うめやなぎいろ座敷ざしき五分ごぶすかさぬ四疊半よでふはんひらくや彌生やよひ大廣間おほひろま、おん對向さしむかひも、御宴會ごえんくわいも、お取持とりもち萬端ばんたんきよらかに、お湯殿ゆどのしつらへました。これもみな贔屓ごひいき愈々いよ/\かげかうむたさ。お心置こゝろおきなく手輕てがるに、永當えいたう々々/\御入おんいらせを、ひとへねがたてまつる、と口上こうじやうひたかろう、なん魚德うをとくどうだ、とへば、亭主ていしゆ割膝わりひざひざつて、ちげえねえ、とほりだ、とほりだ、えねえと、威張ゐばるばかりで卷舌まきじたゆゑ、つゝしんだくちかれず、こゝおい馴染なじみがひに、略儀りやくぎにはさふらへど、一寸ちよいと代理だいり御挨拶ごあいさつ
(大正九年三月吉日)

 翻訳はなにか非常に難しい。言葉の洒脱と、中身よりもリズムがいい五七調や七五調などでできています。翻訳はやらないのが正解でしたが…。

[現代語訳]このあたりで、四季を眺めてみよう。筑土町には雪、赤城町では桜、若宮町は月、目白は鐘で、神楽坂から牛込見附にかけては霞だ。
 縁日、歩いていると、裾に模様をつけた芸者は、左の褄に緋色の縮緬をきている。夜になると、雨が降ってくる。お堀には水鳥、揚場には船だ。この八景にも霞がかかっている。三味線の連奏が聞こえてくる。
 春がくる前に、正月で松飾りがある間に、この老舗はさらに新築の店を開く。晴れの舞台の高台に上がって、看板は金文字、料理店の「魚徳」だと、凧の響きに似て、そう名乗ろう。
 魚の生きがよく、酒はいいし、味もうまい。もうひとつ、威勢がいいのは、ここの亭主だ。気っ風がよく、まるで活きたカツオのようだ。
 烏帽子もいいが、床の間を飾るのは蓬莱(台湾)製だ。鉄の工具も、まな箸も、その心得はできている。礼服の素袍ではなく向こう鉢巻をかぶり、半纏の腕まくり、包丁で腕をたたく。見栄を忘れ、飾りを棄て、ただひとつ、お客様のことだけを考えて、気構えは献立をつくること。正月からこの割烹店は仕出しする。
 更に「梅の香」「柳の色」の座敷は建て増しする予定だ。四畳半は小声だって通さない。そこを開けると「弥生」の大広間。差し向かいでも、宴会でも、もてなしはどこをとっても清らかに。お風呂もつくりました。皆様、ますますもってご贔屓を賜りますように、来店の時には気兼ねは不要、お手軽に、末永く、お願いします……
 と、挨拶はこう言いたいところだ。魚徳、どうだ、と聞くと、亭主は正座して見栄をはり「違いねえ、その通りだ、違いねえ、その通りだ」と、威張るだけ。巻き舌があるので、うやうやしい口はできない。よく知っている亭主だし、ここで、略式ではありますが、ちょいと代理のご挨拶。

魚徳 当時は魚屋です。現在は料亭「うを徳」です。
築土赤城若宮目白見附揚場 全て周辺地域の名前です。
 目白下新長谷寺(旧目白不動)の鐘は、江戸時代に時刻を知らせる「時の鐘」の1つでした。
晴嵐 晴れた日に山にかかるかすみ。晴れた日に吹く山風
裾模様 着物の上半分を地染めした無地のままに残し、裾回りにだけ模様を置いたもの。衣装全体に模様を施すより手間が省ける。
左褄 和服の左の褄。褄は長着のすその左右両端の部分。
緋縮緬 ひぢりめん。緋色にそめた縮緬。多く婦人の長襦袢じばん、腰巻などに使う。縮緬とは表面に細かいしぼのある絹織物。
八景 八つのすぐれた景色。中国の瀟湘しようしよう八景が起源。日本では近江八景や金沢八景など。
一霞 一面におおうかすみ。一すじのかすみ。いっそう。ひとしお。見渡すかぎり。
三筋 三味線。三本のすじ。
連弾 つれびき。琴・三味線などを二人以上で奏すること。連奏。添え弾き。
松の内 正月の松飾りのある間。元旦から7日か15日まで。
本舞台  歌舞伎の劇場で、花道・付け舞台などを除いた正面の舞台。地方の劇場の舞台に対して、中央の劇場の舞台。本式に事を行う晴れの場所。ひのき舞台。
高台 周囲の土地よりも高くて、頂上が平らになっている所。実際にお濠よりは高くなっています。
 城などの屋根の大棟おおむねの両端につける想像上の海獣をかたどった金属製・瓦製などの飾り物。
金看板 金文字を彫り込んだ看板。世間に対して誇らしく掲げるしるし。世間に堂々と示す主義・主張・商品など。
塩梅 あんばい。飲食物の調味に使う塩と梅酢。食物の味かげん。
俠勢 「俠」は「おとこぎ。俠気」。「勢」は「いきおい。力。」。「任侠」は弱い者を助け、強い者をくじき、命を惜しまない気風。
松魚 カツオ。鰹。堅魚。たたき、煮物、かつお節、缶詰などに使う。
烏帽子 日本における男子の被り物の一種
蓬莱 ホウライ。台湾の異称。
床飾 掛物をかけたり、花・置物などを置いて、床の間を飾ること。その掛物など。
鶴の嘴 つるはし。鶴嘴。堅い土を掘り起こすときなどに用いる鉄製の工具。
まなばし 真魚箸。魚を料理するときに用いる長い箸。
素袍 上下二部式の衣服。武士が常服として用いた。
向こう鉢巻 結び目が額の前にくるようにして締めた鉢巻き。
半纏 半天。和服の一種。労務用と防寒用。普通の羽織と異なる点は、襟返しがないこと、前結びの紐がないこと。
捲り手 まくりで。腕まくり。袖まくり。
敲く 手や手に持った固い物で、物や体に強い衝撃を与える。打つ。目的は、破壊、音を出す、攻撃、注意を喚起、確認、その他いろいろ。
見得 見た目。外見。みば。みかけ。体裁。人の目を気にして、うわべ・外見を実際よりよく見せようとする態度。
専一 せんいつ。せんいち。他の事を考えずに、ただ一つの事柄に心を注ぐこと。
献立 料理の種類、内容、供する順序。
心意気 物事に積極的に取り組もうとする気構え。意気込み。気概。
割烹 食物の調理。料理。日本料理店。
建増 たてまし。現在ある建物に新しく部屋などを建て加えること。増築。
五分 ごくわずかな量・程度
彌生 弥生。草木がますます生い茂ること。陰暦3月。
対向 向き合うこと
取持 人をもてなすこと。もてなし。
万端 ある物事についての、すべての事柄。諸般。
湯殿 入浴するための部屋。浴室。風呂場。
しつらえる ある目的のための設備をある場所に設ける。
贔屓 気に入った人に特に目をかけ世話をすること。気に入ったものを特にかわいがること。
おかげ 御陰。他人の助力。援助。庇護。
蒙る こうむる。他人から、行為や恩恵などを受ける。
心置きない 気兼ねや遠慮がない。
手軽 手数がかからず、簡単。
永当 えいとう。興行などで、見物人が大勢つめかけるさま。
 ひとえに。ただそのことだけをする。いちずに。ひたすら。
奉る その動作の対象を敬う謙譲表現をつくる。
口上 興行で、俳優または頭取が観客に対して、舞台から述べる挨拶をいう。
割膝 わりひざ。膝頭を離して正座すること。男子の正しい座り方とされた。
肘を張る ひじをはる。肘を突っ張っていかにも強そうなようすをする。威張る。気負う。意地を張る。肩肘かたひじ張る。
卷舌 巻き舌、巻舌。舌の先を巻くようにして、威勢よく話す口調。江戸っ子に特有。
謹んで つつしんで。かしこまって。うやうやしく。
略儀 正式の手続きを省略したやり方。略式。

骨|有島武郎②

文学と神楽坂

 鳥料理の店で「勃凸」は「おんつぁん」のことや、勃凸の母親、母親の骨の話をします。

 勃凸は説明するやうにかういつて更に語りつゞけるのだつた。
「(中略)その晩俺はおんつぁんの作つてくれた風呂敷包を全部質において、料理屋さ行つてうつと飲んで女を買つたら、次ぐの朝払ひが足らなかつた。仕方なしに牛太郎と一緒におやぢのとこさ行つたらお袋が危篤で俺らこと捜しぬいてるところだつた。
 それから三日目にお袋が死んぢやつたさ。俺のお袋はいゝお袋だつたなあ。おやぢに始終ぶつたゝかれながら俺達をめんこがつてくれたさ。獣物けだものが自分のをめんこがるやうなもんだ。何んにもわからねえでめんこがつてゐたんだ。だから俺はこんなに馬鹿になつたども、俺はお袋だけは好きだつた。
 死水をやれつて皆んながいふべ。お袋の口をあけてコップの水をうつと流しこんでやつたら、ごゝゝと三度むせた。それだけよ。……それつきりさ」
 勃凸は他人事ひとごとのやうに笑つた。Iも私も思はず釣りこまれて笑つたが、すぐその笑ひは引つ込んでしまつた。
 気がついて見ると店の中は存外客少なになつてゐた。時計を見るといつの間にか十時近くなつてゐるので、私は家に帰ることを思つたが、勃凸はお互ひが別れ/\になるのをひどつ淋しがるやうに見えた。
 それでも勘定だけはしておかうと思つて、女中を呼んで払ひのために懐中物を出しにかゝつた時、勃凸も気がついたやうに蟆口がまぐちを取り出した。Iが金がないのにしやれたまねをするとからかつた。勃凸は耳もかさずに蟆口をひねり開けて、半紙の切れ端に包んだ小さなものを取り出した。
「これだ」
 と私達の目の前に出さうとするのを、Iがまた手で遮つて、
「おい/\御自慢のSの名刺か。もうやめてくれよ」
 といふのも構はず、それを開くと折り目のところに小さな歯のやうなものがころがつてゐた。
「何んだいそれは」
 今度は私が聞いて見た。
「これ……お袋の骨だあ」
 と勃凸は珍らしくもないものでも見せるやうにつまらなさうな顔をして紙包みを私達の眼の前にさし出した。
 私達はまた暫く黙つた。と、突然Iが袂の中のハンケチを取り出す間もおそしと眼がしらに持つて行つた。
 勃凸はやがてまたそれを蟆口の中にはふり込んだ。その時私は彼の顔にちらりと悒鬱いふうつな色が漲つたやうに思つた。おんつぁんが危険な色だといつたのはあれだなと思つた。
「俺は何んにもすることがないから何んでもするさ。糞つ、何んでもするぞ。見てれ。だどもおやぢの生きてる中は矢張駄目だ。俺はあいつを憎んでゐるども、あいつがゐる間は矢張駄目だ。……おんつぁんがゐねえばもう俺は滅茶苦茶さ。……馬鹿野郎……」
 勃凸は誰に又何に向けていふともなく、「馬鹿野郎」といふ言葉を、押しつぶしたやうな物凄い声で云つた。

牛太郎 遊女屋の客引き。妓夫ぎふ。妓夫太郎。
めんこがる 「めんこい」から、かわいらしい。小さい。
死水 死に水を取る。死に際の人の唇を水でしめしてやる。臨終まで介抱する。
ひどつ 「ひとつ」や「ひどく」を間違えて使った?
Sの名刺 本文で「おんつぁん」の言葉として「勃凸の奴、Sの名刺を貰つて来て、壁に張りつけておいて、朝晩礼拝をしてゐるんだからやりきれやしない」と書いてあります。これ以上の説明はなく、なぜ、どうしてそうするのか、わかりません。
悒鬱 ゆううつ。憂鬱。幽鬱。悒鬱。気持ちがふさいで、晴れないこと

骨|有島武郎④

文学と神楽坂

 このままこの小説は終わりになります。

 私達もそれに続いてその家を出た。神楽坂の往来はびしよ/\にぬかるんで夜風が寒かつた。而して人通りが途絶えてゐた。私達は下駄の上に泥の乗るのも忘れて、冗談口をたゝきながら毘沙門の裏通りへと折れ曲つた。屋台鮨の暖簾に顔をつツこむと、会計役を承つた勃凸があとから支払ひをした。
 たうとう私達は盛り花のしてあるやうな家のをまたいだ。ビールの瓶と前後して三人ばかりの女がそこに現はれた。すぐそのあとで、山出し風な肥つた女中がはいつて来て、勃凸に何かさゝやいた。勃凸は、
「軽蔑するない。今夜は持つてるぞ。ほれ、これ見れ」
 といひながら皆の見てゐる前で蟆口がまぐちから五円札の何枚かを取り出して見せてゐたが、急に顔色をかへて、慌てゝ蟆口から根こそぎ中のものを取り出して、
「あれつ」
 といふと立ち上つた。
「何んだ」
 先程から全く固くなつてしまつてゐたIが、自分の出る幕が来たかのやうに真面目にかう尋ねた。
 勃凸は自分の身のまはりから、坐つてゐた座蒲団まで調べてゐたが、そのまゝ何んにも云はないで部屋を出て行つた。
「勃凸の馬鹿野郎、あいつはよくあんな変なまねをするんだ。まるで狐つきださ」
 と云つておんつぁんは左程怪訝けげんに思ふ風もなかつた。
「本当に剽軽へうきんな奴だなあ、あいつは又何か僕達をひつかけようとしてゐるんだらう」
 Iもさういつて笑ひながら合槌あひづちをうつた。
 やゝ暫くしてから勃凸は少し息をはずませながら帰つて来たが、思ひなしか元気が薄れてゐた。
「何か落したか」
 とおんつぁんが尋ねた。
 勃凸は鼠の眼のやうな眼と、愛嬌のある乱杭歯とで上べツ面のやうな微笑を漂はしながら、
「うん」
 と頭を強く縦にゆすつた。
「何を」
「こつを……」
「こつ?」
「骨さ。ほれ、お袋のよ」
 私達は顔を見合はせた。一座はしらけた。何んの訳かその場の仕儀の分らない女達の一人は、帯の間からお守りを出して、それを額のところに一寸あてゝ、毒をうけないおまじなひをしてゐた。
 勃凸はふとそれに眼をつけた。
「おい、それ俺にくれや」
「これ? これは上げられませんわ」
 とその女はいかにもしとやかに答へた。
「したら、名刺でいゝから」
 女はいはれるまゝに、小さな千社札のやうな木版刷りの、名刺を一枚食卓の上においた。
「どうぞよろしく」
 勃凸はそれを取り上げると蟆口の底の方に押し込んだ。而して急に元気づいたやうな声で、
「畜生! 駄目だ俺。おんつぁん、俺この方が似合ふべ、なあ」
 と呼びながら、蟆口を懐に抛りこんでその上を平手で軽くたゝいた。而して風呂場へと立つて行つた。
 おんつぁんの顔が歪んだと思ふと、大粒の涙が流れ出て来た。
 女達は不思議さうにおんつぁんを見守つてゐた。

毘沙門の裏通り おそらく『毘沙門横丁』でしょう。
盛り花 自由花とも。明治末期の自然主義時代に発生した。丈の低い口の広い花器に盛るようにして生ける生け方。
 敷居
山出し 田舎の出身。田舎から出てきたままで洗練されていない。
根こそぎ 草木を根ごと引き抜くこと。転じて、すべて取ること。
狐つき 狐付き。狐憑き。キツネツキ。狐の霊がとりついたという、精神の異常な状態。
剽軽 ひょうきん、気軽で滑稽。おどけること。
乱杭歯 らんぐいば。ひどくふぞろいに生えている歯。歯並びの特に悪い歯。
上べツ面 「上辺っ面」か? 表面。外見。見かけ。
仕儀 しぎ。事のなりゆき。事情。特に、思わしくないことについていう。
千社札 千社詣での人が寺社の柱、天井などにはりつける刷り札。「千社詣」は巡礼の一種で、1000の神社に参拝する。
この方 「がま口に入れるのは、骨はダメ。名刺のほうがよく似合う」と考えているのでしょう。
大粒の涙 「勃凸も母の子だ」と思い、様々な生活や人生の問題を思って、泣いたのでしょうか?

骨|有島武郎③

文学と神楽坂

 ところが、「おんつぁん」は1週間ほど経って、東京に戻ってきます。二人は一緒になって生活し、「勃凸」は運転手になるため、自動車学校に入ります。

 或る晩、勃凸が大森の方に下宿するから、送別のために出て来ないかといふ招きが来た。それはもう九時過ぎだつたけれども私は神楽坂の或る飲食店へと出かけて行つた。
「お待ちかねでした」といつて案内する女中に導かれて三階の一室にはいつて行つた時には、おんつぁんも、勃凸も、Iも最上の元気で食卓を囲んでゐた。
 勃凸は体中がはずみ上るやうな声を出して叫んだ。
「ほれえ、おんつぁん、凸勃が来たな。畜生! いゝなあ。おい、おんつぁん、騒げ、うつと騒げ、なあI、もつと騒げつたら」
「うむ、騒ぐ、騒ぐ」(中略)
「僕立派な運転手になつて見せるから……芸者が来ないでねえか。畜生」
 丁度その時二人の芸者がはいつて来た。さういふところに来る芸者だから、三味線もよく弾けないやうな人達だつたけれども、その中の一人は、まだ十八九にしか見えない小柄な女の癖に、あばずれきかん気の人らしかつた。
「私ハイカラに結つたら酔はないことにしてゐるんだけれども、お座敷が面白さうだから飲むわ。ついで頂戴」
 といひながら、そこにあつた椀の中のものを盃洗にあけると、もう一人の芸者に酌をさせて、一と息に半分がた飲み干した。
「馬鹿でねえかこいつ」
 もう眼の据つたおんつぁんがその女をたしなめるやうに見やりながら云つた。
田舎もんね、あちら」
「畜生! 田舎もんがどうした。こつちに来い」
 と勃凸が居丈ゐたけ高になつた。
「田舎もん結構よ」
 さういひながらその女は、私のそばから立ち上つて、勃凸とIとの間に割つてはいつた。
 座敷はまるで滅茶苦茶だつた。私はおんつぁんと何かいひながらも、勃凸とその芸者との会話に注意してゐた。
「お前どつち―――だ」
「卑しい稼業よ」
「芸者づらしやがつて威張いばるない」
「いつ私が威張つて。こんな土地で芸者してゐるからには、―――――――――――――上げるわよ」
「お前は女郎を馬鹿にしてるだべ」
「いつ私が……」
「見ろ、畜生!」
「畜生たあ何」
「俺は世の中で―――一番好きなんだ。いつでも女郎を一番馬鹿にするのはお前等ださ。……糞、見つたくも無え」
「何んてこちらは独り合点な……」
「いゝなあ、おい、おんつぁん、とろつとしてよ、とろつと淋しい顔してよ。いゝなあ―――――――――、俺まるつで本当の家に帰つたやうだあ。畜生こんな高慢ちきな奴。……」
「憎らしいねえ、まあお聞きなさいつたら。……学生さんでせう、こちら」
「お前なんか学生とふざけてゐれや丁度いゝべさ」
「よく/\根性まがりの意地悪だねえ……ごまかしたつて駄目よ。まあお聞きなさいよ。私これでも二十三よ。姉さんぶるわけぢやないけど、修業中だけはお謹みなさいね」
「馬鹿々々々々々々……ぶんなぐるぞ」
「なぐれると思ふならなぐつて頂戴、さ」
 勃凸は本当にその芸者の肩に手をかけてなぐりさうな気勢を示した。おんつぁんとIとが本気になつて止めた。その芸者も腹を立てたやうにつうつと立つてまた私のわきに来てしまつた。そしてこれ見よがしに私にへばりつき始めた。私はそれだけ勃凸の作戦の巧妙なのに感心した。巧妙な作戦といふよりも、あふれてゆく彼の性格のほとばしりであるのを知つた。(中略)
 勃凸は大童とでもいふやうな前はだけな取り乱した姿で、私の首玉にかじりつくと、何処といふきらひもなく私の顔を舐めまはした。芸者までが腹をかゝへて笑つた。
「今度はお前ことキスするんだ、なあ」
 勃凸はさつきの芸者の方に迫つて行つた。芸者はうまく勃凸の手をすりぬけて二人とも帰つて行つてしまつた。

凸勃 「勃凸」ではなく、「凸勃」は「私」のこと。
芸者 宴席で三味線、舞、笛、鼓、太鼓などの芸を披露する職業女性。
さういうところに来る芸者 明治大正時代、牛肉屋や蕎麦屋にまで出る芸者は三流四流の芸者でした。詳しくは西村酔夢氏の「夜の神楽坂」を。
女郎 遊女。遊郭で遊客と枕をともにした女。おいらん。娼妓。売春婦。
あばずれ 阿婆擦れ。悪く人ずれしていて、厚かましい女。古くは男にも使った。
きかん気 人に負けたり言いなりになるのを嫌う性質
ハイカラ 西洋風に結った髪。ハイカラ髪。反対は日本髪。
お座敷 芸者・芸人などが呼ばれる酒宴の席
盃洗 はいせん。杯洗。酒宴の席で、人に酒をさす前に杯をすすぐ器。杯洗い。
一と息 ひと息。一気に。
田舎もん 田舎で育った人を侮蔑する表現
居丈け高 居丈高。威丈高。人を威圧するような態度をとる。
上げる 正確にはわかりません。「宴会1回分の玉代(遊興料)があがる」でしょうか?
独り合点 ひとりがてん。自分だけで、よくわかったつもりになること。ひとりのみこみ。ひとりがってん。
修業中だけはお謹みなさい 勉強中に芸者と遊ばないこと
前はだけ 着衣の合せ目が開く

青春物語|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 明治44年、谷崎潤一郎氏は『中央公論』の編集者である滝田樗陰氏に連れられて、新年会に行き、初めて泉鏡花徳田秋声に会ったことを書いています。

 谷崎氏は24歳、滝田氏は28歳、泉氏は37歳、徳田氏は39歳、内田魯庵氏は43歳でした。

此の、私が新進作家として今が賣り出しの最中と云ふ得意の絶頂にある時、明治四十四年の正月に、紅葉館で新年宴會があつたのは、たしか讀賣新聞社の主催だつたかと思ふ。招待を受けたのは、都下の美術家、評論家、小説家等で、大家と新進とを概ね網羅し、非常に廣い範圍に亙つてゐた。「新思潮」からは、私一人であつたか、外にも誰か行つたか、記憶がない。私は瀧田樗陰君が誘ひに來てくれる約束だつたので、氏の來訪を待つて、一緒に出掛けた。その頃のことだから勿論自動車などへは乘らない。神保町から電車で芝の山内へ行つたのだが、瀧田君は吊り革にぶら下りながら、私の姿を見上げ見下ろして、「谷崎さん、今日はあなた、すっかり見違へましたね」と云ふのであつた。それと云ふのが、私は紋附きの羽織がなかつたものだから、その晩の衣裳として偕樂園から頗る上等の羽織袴縞御召二枚(かざ)等一切を借用してゐた。ぜんたい私は、第一囘の「パンの會」の頃までは髮の毛をぼう/\と生やして、さながら山賊の如き物凄い形相をして、「君の顏はアウグスト・ストリンドベルグに似てゐるね」などゝ云はれていゝ氣になってゐたものなんだが、さてそんな衣裳を借りてみると、その薄汚いパルチザン式の容貌ではどうにも映りが惡いものだから、當日の朝床屋へ行って良く伸びた髮を適當に刈つて貫ひ、下町の若旦那と云った風に綺麗に分けて、それから借り着を一着に及び、二重廻しに山高帽と云ふ.まるで今までとは打って變ったいでたちをしてゐた。

縞御召

紅葉館 東京の芝区芝公園20号地にあった会員制の高級料亭。空襲で消滅し、跡地には東京タワーが建っている。
新思潮 文芸雑誌。明治40年、小山内薫が海外の新思潮紹介を目的に創刊。東大文科の同人雑誌。第二次で谷崎潤一郎、第四次で芥川竜之介が出た。
芝の山内 芝公園増上寺の山内。山内さんないとは神社・寺院の敷地内部。
偕楽園 明治10年代から日本橋区にあった中華料理店。関東大震災から伝通院前に移動。谷崎氏と園の長男は同級生で親友。
頗る すこぶる。非常に。たいそう。
縞御召 しまおめし。御召は紬や絣などと同じく織の着物。最高級なシルクの着物。縞御召は、様々な縞模様を織り出した御召のこと。
二枚襲ね 二枚重ね。和服の盛装。長着ながぎ2枚を重ねて着ること。
アウグスト・ストリンドベルグ アウグスト・ストリンドベリ。スウェーデンの劇作家、小説家。『真夏の夢』など。
パルチザン 外国軍や国内の反革命軍に対して自発的に武器をとって戦う、正規軍に入っていない遊撃兵のこと。
二重廻し 二重回し。男性用の和装防寒コート。
打って変わる 前の状態と全く変わる。がらりと変わる。

私は八方から盃を貰ひ、いろいろの人から讃辭や激勵の言葉を浴びせられ、次第に有頂天になつて、瀧田君を促しつゝ徳田秋聲氏の前へ挨拶に行つた。と、秋謦氏は、其處へ蹣跚(まんさん)と通りかゝつた痩せぎすの和服の醉客を呼び止めて、「君、泉君、いゝ人を紹介してやらう――これが谷崎君だと」と云はれると、我が泉氏ははつ(、、)と云つてピタリと臀餅(しりもち)()くやうにすわつた。私は、自分の書くものを泉氏が讀んでゐて下さるかどうかと云ふことが始終氣になつてゐたゞけに、此の秋聲氏の親切は身に沁みて有難かつた。秋聲氏はその上に言葉を添へて、「ねえ、泉君、君は谷崎君が好きだろ?」と云はれる。私は紅葉門下の二巨星の間に挟まつて、眞に光榮身に餘る氣がした。殊に秋聲氏の態度には、後進を勞はる老藝術家の温情がにじみ出てゐるやうに覺えた。けれども残念なことには、泉氏はもうたわい、、、がなくなつてゐて、「あゝ谷崎君、―――」と云つたきり、醉眼朦朧たる瞳をちよつと私の方へ向けながら、受け取つた名刺を紙人れへ収めようとされた途端に、すう、、つとうしろへつてしまはれた。「泉は醉ふと此の調子で、何も分らなくなつちまふんでね」と、秋聲氏は氣の毒さうに執り成された。私は此の二人の大作家に會つた勢ひで、叉瀧田君を促して、今度は内田魯庵翁に盃を貰ひに行つた。翁は恐らく富夜の參會者中、文壇方面に於ける第一の名大家、横綱格の大先葷だつたであらう。

蹣跚 まんさん。よろよろと歩く
身に余る 処遇が自分の身分や業績を超えてよすぎる。過分である。身に過ぎる。
たわい 正体なく酒に酔うこと。酩酊
酔眼朦朧 酒に酔って、目先がぼんやりしている様子
 

漱石山房記念館

文学と神楽坂

2017年9月24日、漱石山房記念館が開館します。

今日(8月15日)、そのパンフレットが自宅にやって来ました。


神楽坂七不思議|泉鏡花

文学と神楽坂

 明治28年、泉鏡花氏の「神楽坂七不思議」です。地図と比べてみます。

神樂坂(かぐらざか)(なゝ)不思議(ふしぎ)

なか何事なにごと不思議ふしぎなり、「おい、ちよいと煙草屋たばこやむすめはアノ眼色めつき不思議ふしぎぢやあないか。」とふはべつツあるといふ意味いみにあらず、「春狐子しゆんこしうでごす、彼處あすこ會席くわいせき不思議ふしぎくはせやすぜ。」とふもやうひねのなり。ひとありて、もし「イヤ不思議ふしぎね、日本につぽん不思議ふしぎだよ、うも。」とかたらむか、「此奴こいつ失敬しつけいなことをいふ、陛下へいか稜威みいづ軍士ぐんし忠勇ちうゆうつなアおめえあたりまへだ、なに不思議ふしぎなことあねえ。」とムキになるのはおほきに野暮やぼ號外がうぐわいてぴしや/\とひたひたゝき、「不思議ふしぎ不思議ふしぎだ」といつたとてつたが不思議ふしぎであてにはならぬといふにはあらず、こゝの道理だうり噛分かみわけてさ、この七不思議なゝふしぎたまへや。


眼色 目つき。物を見るときの目のようす。また、普段の目の表情。
春狐子 「春狐」は人の名前で、誰かは不明。泉鏡花だとも。子は「名前の下に付けて親しみか、自分の名には、卑下する意味」。
会席 日本料理の形式の一つ。江戸時代以降に発達した酒宴の料理。現在では日本料理の主流に。
捻る いろいろと悩みながら考えをめぐらす。わざと変わった趣向や考案をする。苦心して俳句や歌などを作る。
勝つ 日清戦争で勝ったこと。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因に。
稜威 天子の威光。御厳(みいつ)

東西とうざい最初さいしよきゝたつしまするは、
しゝでらのもゝんぢい。」
これ弓場だいきうば爺樣ぢいさんなり。ひとへば顏相がんさうをくづし、一種いつしゆ特有とくいうこゑはつして、「えひゝゝ。」と愛想あいさうわらひをなす、其顏そのかほては泣出なきださぬ嬰兒こどもを――、「あいつあ不思議ふしぎだよ。」とお花主とくい可愛かはいがる。
次が、
勸工場くわんこうば逆戻ぎやくもどり。」
東京とうきやういたところにいづれも一二いちに勸工場くわんこうばあり、みな入口いりぐち出口でぐちことにす、ひと牛込うしごめ勸工場くわんこうば出口でぐち入口いりぐち同一ひとつなり、「だから不思議ふしぎさ。」といてればつまらぬこと。
それから、
藪蕎麥やぶそば青天井あをてんじやう。」
下谷したや團子坂だんござか出店でみせなり。なつ屋根やねうへはしらて、むしろきてきやくせうず。時々とき/″\夕立ゆふだち蕎麥そばさらはる、とおまけはねば不思議ふしぎにならず。

しし寺 獅子寺。通寺町(現在の神楽坂六丁目)にあった曹洞宗保善寺のこと。江戸幕府三代将軍である徳川家光が牛込の酒井家を訪問し、ここに立寄り、獅子に似た犬を下賜しました。以来「獅子寺」と呼んでいます。明治39年、保善寺は中野区上高田に移転しました。

東京実測図。明治18-20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。獅子寺は赤い丸。

弓場 弓の稽古場。
顔相 占いで、顔の外面に現れた運勢・吉凶のきざしを見ること。
花主 こう書く熟語はありません。「得意」は「いつも商品を買ってもらったり取引したりする相手、顧客、お得意、親しい友」。「花」は花のように美しいもの。「主」は一家の長、主人。
勧工場 かんこうば。明治・大正時代、一つの建物の中に各種商店が連合して商品を陳列し正札販売した一種のマーケット。「牛込勧工場」は六丁目にあり、現在はスーパーの「よしや」
逆戻 再びもとの場所・状態に戻ること。
藪蕎麦 今は神田、浅草、上野が「藪そば」の御三家。神田藪の本家がここ団子坂にありました。神楽坂の場所は不明ですが、岡崎弘氏と河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」の図で明治40年前後の肴町のソバヤ(下図の中央)を書いています。ここでしょうか。

ソバヤ

青天井 青空。空。空を天井に見立てていう。
下谷 上野駅を中心とした地域で、1878年(明治11)、下谷区が成立。1947年(昭和22)、浅草区と合併して台東区に。
団子坂 文京区千駄木町二丁目と三丁目の境にある坂道。明治時代、坂の両側に菊人形が展示、東京名物の一つに。
攫う 掠う。さらう。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
いろは)のことなり、れば大廈たいか嵬然くわいぜんとしてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
島金しまきん辻行燈つじあんどう。」
いへ小路せうぢ引込ひつこんで、とほりのかどに「蒲燒かばやき」といた行燈あんどうばかりあり。はややつがむやみと飛込とびこむと仕立屋したてやなりしぞ不思議ふしぎなる。
菓子屋くわしや鹽餡しほあんむすめ。」
餅菓子店もちぐわしやみせにツンとましてる婦人をんななり。生娘きむすめそでたれてか雉子きじこゑで、ケンもほろゝ無愛嬌者ぶあいけうもの其癖そのくせあまいから不思議ふしぎだとさ。
さてどんじりが、
繪草紙屋ゑざうしや四十しじふ島田しまだ。」
女主人をんなあるじにてなか/\の曲者くせものなり、「小僧こぞうや、紅葉さん御家へ參つて……」などと一面識いちめんしきもない大家たいかこえよがしにひやかしおどかすやつれないから不思議ふしぎなり。
明治二十八年三月


いろは 昔は牛肉店「いろは」でした。現在は神楽坂6丁目1で、道路の拡幅で、なくなりました。
 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。
辻行燈 江戸時代、辻番所の前に立ててあった灯籠形の行灯

辻行灯

仕立屋 「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」では「洋服・八木下」と書いてあります。この時は「島金」(現、志満金)は小栗横丁(鏡花横丁)にでていました。
菓子屋 菓子屋は1~3丁目だけでも9店がありました。不明です。
塩餡 塩で味をつけた餡
雉子の声 雄の雉は春になると「けんけん」と甲高く鳴いて雌を呼びます
曳く 物に手をかけて近くへ寄せる。無理について来させて、ある場所に移動させる。
けんもほろろ 「けん」「ほろろ」はともに雉の鳴き声。頼みや相談などを、冷淡に断ること。
絵草紙 挿絵を多く入れた大衆向けの読物。絵草紙屋は大久保通り西側にある神楽坂5丁目(京屋)や「ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」では3丁目(図)にありました。また、絵葉書屋は3丁目北側最西部(開成堂)にありました。

島田 島田まげ。未婚の女性の髪形の1つ。
曲者 一筋縄ではいかない人。ひとくせある人。
ひやかす 相手が恥ずかしがったり当惑したりするような冗談を言う。からかう。
気が知れない 相手が何を考えているのかわからない。相手の考え・意図が理解できない。

河童考|柳田国男

文学と神楽坂


 ケシ坊主の話からカッパ(河童)の話に移ることにしよう。話が面倒になるが、じつはこの間漫畫家の淸水崑君に會つたとき「淸水片、君は惡いことをしてゐるね。白い女河童なんか描いて、河童をたうとうエロチックなものにしてしまつて……。河童には性別はないはずだよ」といふと「いや議論をするとなか/\長くなりますから……」と逃げ口上で話を避けてしまつた。
 河童といふ言葉は川童かはらんべでもと/\川の子供といふことなのだから、男女があつてはをかしいのではないかと思ふ。しかし九州などには河童が婿入りをしたなどといふ話もあるが、大體において性的な問題はないやうに思ふ。
 私の河童研究は非常に古く、明治四十一年九州へ行つたころから。二、三年位が絶頂であつた。今でも崑君なんかが利用してゐる「水虎考略」これは必ずしも珍らしい本ではないが、「河童は支那にいはゆる水虎なり」といふ説からこの本が出来、寫本も出てゐる。その中に大變値打があると思ふ話も四つか五つある。麹町の外堀で見つけたのはこんなのだとか、どこそこのはかうだとかみんな達つた河童が描いてある。幕末のごく末に朝川善庵といふ學者があつて、この人の本から引用してゐるのもある。頭がお河童で、背中に甲羅のある、まるで龜の子のやうなものから、褌をしめて素裸になつてつつ立つてゐるものなど、五つくらゐあつたと思ふ。
 後に内閣文庫を探してゐたら、同じ水虎考略といひながら四册本になつたのが見つかつた。一册はもとのそれを入れ、あとの三册は九州の書生さんが、興に乗じて方々からの話を集めたもので、書翰體になつてゐた。多くは九州の話だつたが、それは面白い本であつた。九州のは群をなしてゐて、一匹で獨立してゐるのはない。極端な場合には馬の足型だけの水溜りがあれば千匹もゐるなどといふことまでいふ。とにかく狹い所に群をなしてゐるものらしい。東北もしくは關東地方もさうだがこちらは一つ一つ獨立してゐて大變違つてゐた。河童はこんなに種類は違ひながら名前にはどこでも全部童兒、ワラベといふ言葉がついてゐるのである。
 私の郷里の方ではらうとよぶが、この區域は存外廣くない。大阪あたりでも通用しないことはないが、例の東海道膝栗毛の道中記が出たころから河大郎といふ名稱に差障りが出来たらしい。大阪に河内屋太郎兵衛といふ豪奢な者が出て、通稱河太郎といってゐたので、それに氣兼ねをしたため、「がたらう」といひにくゝなつたものであらう。京都あたりでは何といつてゐたか、やはり「がたらう」といつてゐたのではないかと思ふ。

ケシ坊主 子供の頭髪で、頭頂だけ毛を残し、まわりを全部そったもの。ある伝承では、河童の頭部がこの髪形だいう。おかっぱ頭。
清水崑 漫画家。岡本一平に師事し、挿絵画家として認知、「週刊朝日」に連載された「かっぱ天国」が人気を得る。生年は大正元年9月22日、没年は昭和49年3月27日。享年は満61歳。
川童 「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合し、「かわわっぱ」。それが変化したもの。
水虎考略 すいここうりゃく。水虎とは河童のことで、江戸時代の文政3年(1820)の河童研究書。
朝川善庵 江戸時代後期の儒者。江戸で私塾を営む。文化12年清の船が下田に漂着したとき筆談した。詩文集「楽我室遺稿」など。生年は天明元年4月18日、没年は嘉永2年2月7日。享年は満69歳。
水虎 水虎とは河童のこと
突っ立つ まっすぐに立つ。
内閣文庫 明治17年、太政官に創設された官庁図書館
河太郎 かわたろう。河童のこと。
東海道膝栗毛 正しくは「東海道中膝栗毛」。十返舎一九の滑稽本。1802~14年刊。弥次郎兵衛と喜多八が失敗を繰り返しながら東海道・京都・大坂を旅する。
河内屋太郎兵衛 江戸時代中期の浪華の豪商。
豪奢 非常にぜいたくで、はでなこと

三百人の作家④|間宮茂輔

文学と神楽坂

 そんな賑やかさの中に、坂本紅蓮洞という特異の人物が、時おりまざったことも書き残しておいていいことであろう。通称「ぐれさん」の坂本紅蓮洞はもとより作家ではなく、そうかといって演出家でもない、何が専門であったのかわたしなどにはわからなかったが、ともかく芝居、劇団の方面では一種の木戸御免的な存在で、いつも酒の匂いをぷんぷんさせ、江戸っ児らしい巻き舌でものを言っていた。「ぐれさん」こと坂本紅蓮洞は当時もうかなりの年輩で、アルコール中毒らしい舌のもつれを危かしい腰つきに老残といったふうな哀しみが感じられた。広津和郎は時どきウイスキーなど奢ってやっていたようである。
 この暗い紅蓮洞と全くちがい、ふさふさした白髮のおカッパ頭をして眼の可愛らしいひとが、坂下のコーヒー店へ来ていつも独りで腰かけていた。噂によると、何んでも目白とか雑司ヶ谷とか遠いところから神楽坂まで毎日こつこつと歩いて来て、一杯のコーヒーを、ゆっくり味うと、十銭銀貨をテーブルの上において、また目白の方角へ帰って行くというのである。やがてわたしはこの童話にでて来るおじさんのような人が、じつは秋田雨雀であることを知った。
 大正十二年のそのころ、秋田雨雀はどんな立場にいてどんな仕事していたのだろうか。この追想記ではわたしはいっさい年譜や年鑑の類にたよらない建前なので、当時の秋田雨雀についてはハッキリとはわからない。しかし日本の新劇運動に心を傾けて来たこの人は、数々の劇作戯曲や演劇研究の大きな功績にもかかわらず、いつも静かで、つつましやかで、一杯のコーヒーにたのしい憩いを求めるかのようにみえた。秋田雨雀はそのうちわたしや長田などとも話をするようになり、するとわたしたちはこの先輩にコーヒーを二杯のめるようにするため、自分らのテーブルへ招じることもあるようになった。
 「秋田さん、こっちへいらっしゃい」
 そしてその勘定をわたしらが払えば、秋田雨雀は自分でさらに一杯のめるわけになる。というのも、うそか本当か、彼は奥さんから毎日十銭ずつコーヒー代をもらって散歩に出て来るのだという噂が伝わっていたからである。新劇運動に一生を捧げたこの人が今日もなお八十歳の高齢で、俳優や演出家の育成に当っていることはたれにも知られているとおもう。

 浅見淵氏が書く『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「未明と雨雀」では

 その頃の神楽坂の登場人物で忘れられないのに、小川未明のほかに、なお秋田雨雀がいる。小躯に茶色のコールテン服をまとい、午後の二時頃になると、雑司ケ谷の奥から、これまた判で押したように、神楽坂の山本という床が板敷きの学生専門の珈琲店に、決まって端整な顔を現わした。そこで一休みすると、またテクテクてくって銀座方面に出かけ、新劇の楽屋をひと回りしてくるのである。つまり、雑司ヶ谷から銀座のあいだを往復するわけだが、じつにこれが毎日なのだ。その頃、雨雀はなんの仕事もしておらず、つまりそれが毎日の日課だったのだ。昔は畸人がいたものである。
コールテン

コールテン

木戸御免 相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
かなりの年輩 大正12年で年齢は56~57歳でした。
老残 ろうざん。老いぼれて生きながらえていること。
当時の秋田雨雀 年齢は40歳。やはり童話、戯曲を書き、プロレタリア芸術運動に参加しています。
コールテン 布地の一種。丈夫でビロードに似た木綿織りで、表がうね織りのもの。英語のコーデュロイ corduroyから。レコード拭きにも利用した。
畸人 きじん。奇人。性質や言動が常人と異なっている人。変人。

三百人の作家③|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「神楽坂生活序曲」です。

 そのいっぽう神楽館では、広津を中心に、片岡長田島田、わたしなどが一室に膳をならべて食事をとるような一種の共同生活がつづいていた。食事や雑談にはいろんな雑誌の編集者をはじめ、それぞれの友人たちが絶えずくわわった。たとえば片岡鉄兵のところへは横光川端なども訪ねて来たが、彼等の往来はのちに新感覚主義の運動が展開される土台づくりであったのかも知れない。
 当時の神楽坂はまだ旧東京のおちつきと、花柳界的な色彩とが、自然に溶け合い、一筋の坂みちながら独特の雰囲気があった。フルーツ・パーラーの田原屋や、坂下のコーヒー店に坐っていると、初々しいほど頬のあかい水谷八重子が兄夫婦に守られながら通って行く。初々しい八重子はせいぜい二十一か二であったろう。そうかとおもうと、新劇俳優の東屋三郎が歩いている。後に三宅艶子と結婚した画家の阿部金剛が、パラヒン・ノイズだとわたしたちが蔭で綽名をつけた愛人とならんで散歩している。同じく画家の上野山清貢が、水野仙子との仲に出来た赤ん坊を半纒ぐるみにおぶって通って行く。貧乏で、牛ばかり描いていたこの画家は、作家でもあった愛妻と死別したあとの哀しみを文字どおりの蓬頭垢面にかくしているようにみえた。(上野山かあのころおンぶしていた赤ん坊も、健在ならばすでに四十近いのではあるまいか)
 神楽坂はまた矢来の新潮社へいく道すじでもあって、「文士」の往来が絶えなかった。雑誌「新潮」の編集者として、「中央公論」の滝田檽蔭としばしばならび称された中村武羅夫や、同じく「新潮」の編集者であった水守亀之助‥‥一名「ドロ亀さん」などが、よく通った。容貌魁偉の中村武羅夫がわたしにはひどくこわいものにみえてならなかった。
 矢来に住んでいる谷崎精二が、夕方になると、細身のステッキを腕にひっかけて、そろりそろりと神楽坂に現われる。同じく矢来在住の加能作次郎もおじさん風の姿をみせた。佐々木茂索はその頃まだ時事新報の文芸部にいたが、これも矢来に住んでおり、渋い和服の着流しに、やはりステッキを持ち、草履ばきという粋なかっこうであさに晩に通って行く。色白なメガネの顔に短い囗ひげを立てた佐々木茂索には、神楽坂の芸者で血みちをあげているのがいた。
矢来に住んでいる 谷崎精二氏や加能作次郎氏、佐々木茂索氏は矢来町に住んでいたのでしょうか。現在、わかる限り、谷崎精二氏や加能作次郎氏は確かに矢来町の近傍に住んでいましたが、矢来町には住んでいないようです。浅見淵氏の『昭和文壇側面史』を読むと、佐々木茂索氏では若いときに「矢来町の洋館に住んでいた」と書かれていますが、ここも天神町でした。

長田重男 芸術社の幹部。鎌倉の旅館「海月」の息子。英語が巧く、久米正雄や里見弴を知っていた。
島田 芸術社の番頭。他は不明。
三宅艶子 小説家、評論家。三宅恒方の長女。画家阿部金剛と結婚、阿部艶子名で執筆し、離婚後は三宅姓。昭和33年随筆集「男性飼育法」を発表、ユニークなタイトルで女性の人気をよんだ。生年は大正元年11月23日、没年は平成6年1月17日。享年は満81歳。
阿部金剛 あべこんごう。洋画家。阿部浩の長男。岡田三郎助にまなぶ。フランスでビシエールに師事し、藤田嗣治らの影響をうける。以後、超現実主義的な作品を発表。生年は明治33年6月26日、没年は昭和43年11月20日。享年は68歳。
パラヒン・ノイズ パラヒンはParaffin。現在のパラフィン。蝋紙とも。パラフィン紙とは、紙にパラフィンを塗り、耐水性を付与した紙。甲高い声なのでしょうか。
新感覚主義 横光利一、川端康成、片岡鉄兵、中河与一、稲垣足穂らの、大正末~昭和初期の文学流派。自然主義リアリズムから解放し、新しい感覚と表現技法、翻訳小説と似た新奇な文体が特徴。
蓬頭垢面 ほうとうこうめん。乱れた髪とあかで汚れた顔。身だしなみに無頓着なこと。
 

三百人の作家②|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「鎌倉建長寺境内」です。
 間宮茂輔氏は小説家で、「不同調」の同人から「文芸戦線」、ナップ(全日本無産者芸術連盟)に加わり、昭和8年に投獄され、10年、転向して出獄。12年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載し、第6回芥川龍之介賞候補に選出。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に努めました。

 当時、相馬泰三は、牛込横寺町の、叢文閣書店の斜向いに新婚の夫人と住んでいた。才色兼備の夫人‥‥神垣とり子については後でふれる機会があるかもしれない。ともかくわたしは相馬家の常連みたいになって、そこの二階でいろんな作家たちに紹介された。
 或る日もわたしが遊びに行っていると、三人の作家が訪ねて来たが、頭髪のもじゃもじゃな背の低い醜男が菊池寛であり、おじさんみたような感じで顔に薄いの残つている人が加納作次郎であり、いちばん若い、五分刈の、紺ガスリを着た眼光のするどい人が広津和郎であった。三人は小説家協会という相互扶助の団体を創立するため相馬泰三を勧誘に来たのである。いうまでもなくこの小説家協会が発展して戦前の文芸家協会になり、戦争ちゅうはさらに変身して日本文芸報国会となったことはだれでも知っているが、その出発に当って菊池、広津、加納その他の人びとが、足をはこんで一人ずつ勧誘して歩いた努力は記憶されていいことだろう。
「そう‥‥そんなものがあれば便利だろうし、べつに無くても差支えはないだろうね」
と、相馬が一流の皮肉な答えかたをしたのをわたしはおぼえている。
 英訳ではあるが、チェーホフの飜訳紹介で功績のある秋葉俊彦にも同じ二階でひきあわされた。わたしなど新潮社版の秋葉訳でチェーホフに取りついたようなものである。有名な東海寺(品川)の住職でもあるこの人には、だれが考えたものか、アキーバ・トシヒコーフという巧い綽名があった。
 谷崎精二には神楽坂の路上で紹介された。すでに早大の講師か教授かであったこの作家は、兄の潤一郎とはちがい、見るから真面目そうであったが、駄じゃれの名人であり、矢来の奥から細身のステッキをついて現われ、神楽坂をよく散歩していた。しかし下町生れの東京児らしいところもないではなく、いつもぞろっとした風に和服を着流し中折れをちょいと横に被った長身が、何か役者のような印象であった。

叢文閣書店 大正7(1918)年から、この書店は神楽坂2-11にありました。それ以前にはよくわかりませんが、恐らく間違えています。横寺町にあった書店は文海堂(28番地、緑色)か聚英閣(43番地、青色)でした。

住んでいた 住所は横寺町36。上図で赤色。
神垣とり子 生年は1899年(明治32年)。貸座敷「住吉楼」の娘。相馬泰三氏の別れた妻。相馬氏が死亡する直前に再会し、亡くなるまで傍にいました。
紺ガスリ 紺絣。紺地に絣を白く染め抜いた模様か、その模様がある織物や染め物。耐久性があるので仕事着や普段着に普及。
小説家協会 1921年、発足。
文芸家協会 1926年、発足。小説家協会と劇作家協会が合併してできたもの。文学者の職能擁護団体。戦時中は日本文芸報国会で吸収。1945年、日本文芸家協会として再発足。
日本文芸報国会 1932年(昭和7年)内閣情報局の指導の下に結成。戦意高揚、国策宣伝が目的。45年、終戦直後に解散。
秋葉俊彦 詩人として文壇に。大正の初めから中頃までにチェーホフの諸短篇を訳し、名訳者と。
ぞろっと 羽織・袴をつけない着物だけの姿で
着流し 袴や羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり
中折れ 中折れ帽子。中折れ帽。山高帽の頂を前後にくぼませてかぶるフェルト製の紳士帽。

三百人の作家①|間宮茂輔

文学と神楽坂

まえがき

 これはわたしの自伝ではない。わたしはまだ自伝を書くほどの仕事もしていないし、それにたかの知れた男の生きて来た経過などが、たれの興味をそそるとも思えない。
 ただ、わたしは自分が文学を通して割に多くの作家たちと知り合って来たことか自分の独り占めに終らせない方がいいのではないかと考えついたのである。そこで自分が一体どれ位の作家を知っているかと数えてみた。すると、概略でも四百人以上になることがわかった。勿論その中には無名のまま逝った者も、中途で文学から去った者も、職場サークルの人も、残らず含まれる。
 この本でも初めわたしはそのような人たちをも書きたかった。しかし書きはじめてみて、名前や顔を覚えているだけでは具体的にその悉くを描くことは不可能だという点に心ついた。第一それでは読者にわからないし、わかるように描くとなれば小説になってしまう。そこでどうしても名のある作家だけを取上げることになったが、名のある作家といっても、例えばこの本に書いている小島昻という作家について現在どれ位の読者が記憶しているものか考えると心細いのてある。
 わたしは読者の便宜をも頭に入れながら、そして自分自身の歩いて来た道を筋として通しながら、その筋みちに沿うて接触のあった人びとを取上げて来た。

たかの知れた 高が知れた。大したことはない。程度がわかっている。
たれ 誰。不定称の人代名詞。だれ。
悉く ことごとく。残らず。すべて。
心つく 心付く。こころつく。気がつく。
小島昻 小島昻の名前は全く、どこにも出てこない、と現在ではその通り。「三百人の作家」の『「文戦」にて』で小島昻の名前がこう出てきます。

 しかしまた同時に、どのグループとも特別な関係をもたずに、いわば一本立ちでいる人たちもいないではなかった。作家の小鳥昴、評論家の青木壮一郎宗十三郎、詩人の今村桓夫、戯曲家の伊藤貞助などがそれであった。(中略)
 このとき小島昂はわたしなどよりはるかに強く、そして具体的に「文戦」のあいまいさを痛感していたことが後になってわかった。序にいいそえると、小鳥昴には「ケルンの鐘」という優れた作品があり、彼の妹は横光利一の恋女房で、横光が「春は馬車に乗って」でその死を描いている。(中略)
「コーヒーでも飲もうか」
「そうですね」
 小鳥もコーヒー党で、わたしが誘うと洋服に着かえ、忘れずにサッカリンを紙に包んでポケッ卜に入れた。彼は糖尿病なので医者から砂糖を禁じられているからであった。

文戦 「文芸戦線」の略。
青木壮一郎 『三百人の作家』では「青木壮一郎は動きそうじゃないかと、いろいろ意見を持ち寄りもしたが、(同士になる)望みがなかった。」と書いています。
宗十三郎 不明
今村桓夫 いまむらつねお。詩人。「文芸戦線」などに詩作を発表し、日本プロレタリア作家同盟(ナップ)に加わる。昭和7年、共産党に入党。8年、小林多喜二とともに逮捕。収監中に病状が悪化し、保釈。生年は明治41年1月15日、没年は昭和11年12月9日。享年は満29歳。
伊藤貞助 東洋大在学中から劇作を志し、昭和2年「文芸戦線」などに劇作を発表。5年、ナップに参加。共産党再建の嫌疑で2回検挙。戦後は俳優座文芸部員として活躍。生年は明治34年9月30日。没年は昭和22年3月7日。享年は満45歳。
その死 恋女房の死
サッカリン saccharin。人工甘味料の一つ。発癌性があるとされたが、現在はないと考えられる。

 過去をふりかえると、わたしは或る意味では不運な作家であるが、しかし別な意味からは幸福な作家のように思える。何故ならわたしは一八九九年、つまり十九世紀の終りに生まれたが十九世紀の人間とはいえない。自然主義文学はわたしが赤ん坊から少年になる間に隆昌期から衰退則に向ったが、しかし或る程度の影響は与えられた。そうしてわたしが青年に達する頃には、いわゆる大正期の自由主義的風潮は衰弱しはじめたが、影響としてはやはりわたしの内にとどまった。しかも同時に労慟者の文学は、自然発生的なところから意識的なところへと発展しつつあって、その影響もうけずにはすまなかった、というふうなのである。一言にいってわたしはいろんな文学的傾向を時代の変遷とともに不徹底な形でうけつぎながら歩いて来なければならなかった。
「三百人の作家」はそのようなわたしが、さまざまにゆさぶられながら歩みこして来たその巾だけ接触のあった作家を書いたものである。
 与謝野寛芥川龍之介葛西善蔵宮島資夫片岡鉄兵嘉村礒多徳田秋声島崎藤村正宗白鳥秋田雨雀広津和郎徳永直宮本百合子宇野浩二中山義秀島木健作‥‥こんなに多方面、多傾向の作家と知りあうことが出来たのは、何んといってもわたしの幸福であった、といえないだろうか。

自然主義文学 自然の事実を観察し、いかなる美化も否定する文学。日本では20世紀前半に見られた。
自由主義 集団による統制に対して、個人の自由を尊重して自由な活動を重んずる思想的立場。
労慟者の文学 プロレタリア文学。ブルジョア文学に対して、労働者階級の自覚と要求、思想と感情に根ざした、社会主義的、共産主義的な文学。