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善国寺|由来

文学と神楽坂

 善国寺の由来を調べようと思って、『江戸名所図会』を見ても「毘沙門天」「善国寺」の項はまったくありません。「神楽坂」では「高田穴八幡神社」「津久戸明神」「若宮八幡」はありますが、「善国寺」はまったくありません。「行元寺」「松源寺」はあるのですが「毘沙門天」も「善国寺」もありません。なお、挿絵はでてきます。『江府名勝志』にもありません。つまり、善国寺は江戸時代はあまり知られていなかったのです。

 まず『江戸名所図会』で「神楽坂」は…

○神楽坂
同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所たびしょあり。祭礼の時は神輿しんよこの所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)
[現代語訳。主に新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」平成12年を参照]
○神楽坂
この神楽坂は牛込御門から外に行く坂である。坂の中途の右側に、穴八幡神社の御旅所がある。祭礼の時は神輿がここに渡ってくる。その時に神楽を奏するのでこう呼ばれたという。(あるいは、津久戸明神が田安の地から現在地に移った時、この坂で神楽を奏したため、または若宮八幡が近く、いつも神楽の音が坂まで聞こえたためとも伝えられる)

 なお、画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。これだけです。

 新宿歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』(平成12年)では

 神楽坂が最も栄えたのは、明治時代になってからのことで、甲武鉄道の牛込停車場ができたのをきっかけとして商店街となり、毘沙門天の縁日の賑わいとも相まって、大正時代にかけて「山の手銀座」と呼ばれました。

 また、槌田満文氏の『東京文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)では

 神楽坂毘沙門。神楽坂上の毘沙門天は牛込区肴町〔新宿区神楽坂五丁目〕の善国寺(鎮護山・日蓮宗)境内にあり、本尊は加藤清正の守護仏と伝えられる。縁日は寅の日で、明治28年に甲武鉄道(明治39年から中央線)の牛込駅が出来てからは特に参詣者が急増した。

 つまり、明治28年、甲武鉄道の牛込停車場(つまり牛込駅)ができてから、善国寺の参詣者も増えてきたといいます。

新撰東京名所図会 第41編』(1904)では

●善國寺
善國寺は肴町三十六番地に在り。日蓮宗池上本門寺の末にして鎭護山と號す。
當寺古は馬喰町馬場西北の側に在りしが。寛文十年庚辰二月朔火災に罹り。麹町六丁目の横手に移る。(今の善國寺谷)寛政九年壬子七月二十一日麻布笄橋の大火に際し。烏有となり。同五年癸丑此地に轉ぜり。
西門を入れぱ玄關あり。日蓮宗錄所の標札を掲ぐ。東門を入れば毘砂門堂あり。其の結構大ならざるも。種々の彫鏤を施して甚だ端麗なり。左に出世稻荷の小祠右に水屋あり。
本尊毘砂門天は。加藤清正の守佛なりといふ。江戸砂子に毘砂門天土中より出現霊驗いちじるしとあり。孔雀經に云。北方有大天王名曰多聞陀羅尼集に云。北方天王像其身量一肘種々天衣。左手。右手佛塔。長一丈八尺。今の所謂毘砂門天の像は即ち是なり賢愚經等に據るに。三界に餘る程のを持ち給ひ。善根の人に之を與ふといふ。是れ我邦にて七福神の一に數ふる所以か。此本尊に参詣する者多きも亦寳を獲むとの爲めなるべし。東都歳事記に。芝金杉二丁目正傳寺と此善國寺の毘砂門詣りのことを掲記して右の二ケ所分て詣人多く。諸商人出る。正五九月の初寅開帳あり。三ツあれば中寅にあり。」とあれぱ明治以前より繁昌せしものと知られたり。
[現代語訳]善国寺は肴町36番地で、日蓮宗池上本門寺の末寺であり、号は鎮護山という。昔は馬喰町馬場の西北側にいたが、寛文10年(1669年)2月に火災が起こり、麹町六丁目の横に移動した(今の善国寺谷)。寛政9年(1797年)7月21日、麻布笄橋の大火では、全て焼失。同五年、ここに移動した。
西門を入ると玄関で、日蓮宗の登録所という標札がある。東門を入ると毘沙門堂だ。この構成は大きくはないが、種々の彫刻があり、はなはだ綺麗だ。左に出世稻荷の小さな神社があり、右に手を洗い清める所がある。
本尊の毘沙門天は、加藤清正の守護仏だという。「江戸砂子」では毘沙門天は土中より出現し、霊験はいちじるしく、「孔雀経」では、北方には大天王があり、名前は多聞天という。「陀羅尼集」では北方の天王像では背丈は前腕の長さで、種々な天衣を付け、左の腕は伸ばし、地は支え、右の肘は屈し、仏教の塔を高く持っているという。長さは一丈八尺。今のいわゆる毘沙門天の像はつまり道理にかなっている。「賢愚経」等によると三界にあまる程の宝を持ち、善行が多い人ではこの宝を与えるという。わが国で七福神の一つになる由縁だろうか。この本尊に参詣する者が多いのもこの宝を取りたいためだろう。「東都歳事記」には芝金杉二丁目の正伝寺とこの善国寺の毘沙門詣りのことを記し、この二か所の参詣人は多く、いろいろな商人も出ているという。正月、五月、九月の初寅の日に毘沙門天を開帳する。三つともあれば、「中寅」になるという。明治以前から繁昌したと、知られている。

寛文十年 1670年。江戸幕府将軍は第四代、徳川家綱。
寛政九年 1797年。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。
烏有 うゆう。何も存在しないこと。
日蓮宗錄所 日蓮宗の僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職
結構 もくろみ。計画。
彫鏤 ちょうる。ちょうろう。細かい模様を彫りちりばめること。
水屋 社寺で、参詣人が口をすすぎ手を洗い清める所。みたらし。
江戸砂子 菊岡沾凉せんりよう著。1732年(享保17)万屋清兵衛刊。6巻。府内の地名、寺社、名所などを掲げて解説。
孔雀経 すべての恐れや災いを除き安楽をもたらすという孔雀明王の神呪を説いた経
北方有大天王名曰多聞 北方は大天王有り。名は多聞と曰く
陀羅尼集 諸仏菩薩の種々の陀羅尼の功徳を説いたもの
種々天衣 種々天衣を著す
天衣 てんい。天人・天女の着る衣服
臂執稍拄 臂は伸し稍は執し地は拄す。直訳では「腕は伸ばし、すこし心にかけ、地は支える」。よくわかりません。
 ヒ。肩から手首までの部分。腕
 しっす。深く心にかける。とらわれる。執着する。尊重する。大切に扱う。敬意を表する
 やや。ようやく。小さい。
 体・頭を支える
肘擎佛塔 肘は屈し、佛塔に於いて擎つ。直訳では「ひじは曲がり、仏教の塔では高く持ち続ける」。よくわかりません。
 かかげる。力をこめて物を高く持ち続ける。
是なり ぜなり。道理にかなっている。正しい
賢愚経 けんぐきょう。書跡。中国北魏ほくぎ慧覚えかく等訳の小乗経で全13巻。仏の本生ほんしょう、賢者、愚者に関する譬喩的な小話69編を集める。
 たから。宝の旧字体。貴重な物。
善根 ぜんこん。仏語。よい報いを招くもとになる行為。
東都歳事記 近世後期の江戸と近郊の年中行事を月順に配列し略説した板本。斎藤月岑げつしん編。1838年(天保9年)、江戸の須原屋茂兵衛、伊八が刊行。半紙本5冊。
初寅 正月最初の寅の日。毘沙門天に参詣する風習がある。福寅。
三ツ 正月、5月、9月の最初の寅の日でしょうか。
●毘沙門の緣日
舊暦を用ゐざる吾曹記者は。けふは寅の日なるや。はた午の日なるやを知らず。甲武線の汽車に搭し。牛込停車場に至るに隨ひ。神樂阪に當り。皷笛人を動し。燭火天を燒くのありさまを見。始て其の日なるを解す。乃ち車を下りて濠畔に出れば槖駝師の奇異草を陳じで之を鬻くあり。競賣商の高く價を呼て客を集るあり。諸店はけふを晴れと飾りて大利を博せむとし。露肆は巧みに雜貨を列ねで衆庶を釣らむとす。肩摩轂鑿、漸く阪に上り。身を挺して寺門に入れば毘砂門堂には萬燈輝き。賽貨雨の如し。境内西隅には常に改良劔舞等の看場を開き。玄関の傍にも種々の看場ありて。幾むと立錐の地なし。去て門前の勧業場靜岡館の楼上に登りて俯瞰すれば。賽者の魚貫鱗次の景況。亦一奇観なり。
境内に出世稲荷あるを以て近来午の日にも縁日を開くこととしたれば。一層の繁昌を添たり。年中この兩緣日にはか丶る景況なるも。殊に夏夜を熱閙とす。當區辯天町に辨財天ましませども。一向に參詣者なし。蓋し神の繁昌を招くにあらずして。人が神を藉りに繁昌ならしひるに因るなり。
[現代語訳] 旧暦を使っていない、われわれ記者は、今日は寅の日か、それとも午の日かわからない。そこで甲武線の汽車(今の中央本線)に乗り、牛込駅に行き、神楽坂にたどり着いて、見ると、太鼓と笛が空を舞い、燭火は天を衝き、この様子を見て、初めてその日だとわかった。お堀のほとりに出てみると、奇妙な花や変わった草を売る植木屋がいる。声高く値段を呼び、客を集める競売商もいる。今日は晴れの日だと着飾って、大利を生むとする店もいる。巧みに雑貨を売り、大衆から金を釣ろうとしている露店もある。人や車馬の往来が激しいが、なんとか神楽坂の坂に上がり、寺門に入ると、毘沙門堂には仏前に点す灯明が無数に輝き、宝の貨はまるで雨のようだ。境内の西隅には常に改良剣舞の見世物屋は開き、玄関の傍にも種々の小屋がある。立錐の余地もない。そこで門前の勧業場の静岡館の楼上に登り、俯瞰すると、お参りする人が、列をなし、並んでいる景況が見える。ほかでは見られないような風景だ。
 境内には出世稲荷があり、最近、午の日にも縁日を開くようになり、一層、繁昌している。年中、特にこの両縁日にはこんな景況が見えるが、殊に夏の夜は騒がしい。当区の弁天町にも弁財天があるが、参詣者は一向にいない。つまり神の繁昌を招くのではなく、人が神樣にいいわけをして、繁昌しているのだ。

吾曹 われわれ。われら。吾人
搭し とうする。乗る。上にのせる。積み込む。
隨ふ したがう
皷笛 こてき。太鼓と笛
槖駝師 タクダシ。植木屋の異称。ラクダの異称。
 くさ。草の総称
鬻く ひさぐ、売る
露肆 ほしみせ。露店。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
肩摩轂鑿 人や車馬の往来が激しく、混雑しているさま。
挺する 他よりぬきん出る。人の先頭に立って進む。
看場 かんば。注意してよくみる場所。見世物小屋など。
魚貫 ぎょかん。魚が串刺しに連なったように、たくさんの人々などが列をなして行くこと
鱗次 りんじ。うろこのように並びつづくこと。
近来 午の日も縁日になった日はいつなのでしょうか。『新撰東京名所図会 第41編』は明治37年(1904年)よりも昔です。区の「新宿区史・史料編」(昭和31年)の「古老談話」によれば「明治中頃」です。
熱閙 ネットウ。 人が込みあって騒がしいこと。
奇観 珍しい眺め。ほかでは見られないような風景。
藉る かりる。よる。お陰をこうむる。「藉口しゃこう」とは口実をもうけていいわけをすること。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑦

文学と神楽坂

   赤城の丘
 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。
モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
パリ市街の展望 右の写真は「サクレクール寺院を眺めよう!(3)」から。サクレクール寺院からパリを眺たもの。

神田駿河台 御茶ノ水駅南方の地区。標高約17mの台地がある。由来は駿府の武士を住まわせたこと。江戸時代は旗本屋敷が多く、見晴らしがよかった。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。左の写真は戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)から。

 パリでのそうした経験を再び思い出しだのは、筑土八幡宮の裏から横寺町に向うために白銀町の高台に出て、清潔で広々とした感じの白銀公園の前を通ったときであった。
 ところで、駿河台の丘はしばしば通る機会もあるが、赤城神社の丘はもう随分長い間行ってみない。まだ戦災の跡も生々しい頃以来ではなかろうか。横寺町から矢来町に出たわたくしは、これも大正二年創立以来の文壇旧跡には違いない出版社の新潮社脇から、嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若き日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。
白銀町の高台 右図は筑土八幡宮から白銀公園までの道路。白銀公園の周りを高台といったのでしょう。
小路 広津柳浪氏や永井荷風氏は左図のように通ったはずです。青丸はおそらく広津柳浪氏の家。しかし、現在は右図で真ん中の道路はなくなってしまいました。そこで、道路をまず北に進み、それから東に入っていきます。  
 戦災後の人心変化で信仰心が急激にうすらいだせいもあろうが、わたくしが戦後はじめて訪れた頃に比べて大した変化はない。変化がないのはいよいよさみしくなっていることである。持参した『新東京文学散歩』を出してみると「赤城の丘」と題したその一節に、そのときのことをわたくしは書いている。――「赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔の姿をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の欝蒼たる樹立はすつかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。それでもどうやら分厚な皮膚だけが、銀杏の木膚の色をみせてこの黒と灰白色とのコントラストは、青い空の色をバックにして、私にダリの絵の構図を思ひ出させる。ダリのやうに真紅な絵具を使はないだけ、まだこの自然のシュウルレアリスムは藝術的で日本的だと思つた。」

ダリ スペインの画家。シュルレアリスムの最も著名な画家の一人。生年は1904年5月11日、没年は1989年1月23日。享年は満88歳。
シュルレアリスム 超現実主義。芸術作品から合理的、理性的、論理的な秩序を排除し、代りに無意識の表現を定着すること。
 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。
標石 目印の石。道標に立てた石。測量で、三角点や水準点に埋設される石。多く花崗岩の角柱が用いられる。
石灯籠 日本の戸外照明用具。石の枠に、中に火をともしたもの。
 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖に面した空地は、明治三十八年に坪内逍遙が易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらいて、はじめて自作の「妹山背山」を試演した、清風亭という貸席のあったところである。その前明治三十七年十二月には、雑誌「文庫」の「新体詩同好会」も開かれた家であったが、加能作次郎が昭和三年刊の『大東京繁昌記』山手篇に書いた「早稲田神楽坂」によると、明治末年からはもう清風亭は長生館という下宿屋に変り、「たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てゝ小石川の高台を望んだ静かな家」であった長生館には、早稲田大学の片上伸や、近松秋江や、加能作次郎自身も一時下宿したことがあったという。その前の清風亭はつぶれたのではなく、その経営者があらたに江戸川べりに新らしい清風亭を構えて移っていて、坪内逍遙の文藝協会以来の縁故からでもあったろうが、江戸川べりに移った清風亭では、島村抱月松井須磨子が逍遥の許を去って大正二年秋に藝術座を起した、その計画打合せなどがひそかに行われたらしい、とこれも加納作次郎の「早稲田神楽坂」に書かれている。
日露戦役 明治37年2月から翌年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州の支配をめぐって戦った戦争。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷。それを業とする家。
文庫 明治28年(1895年)、河井醉茗が詩誌『文庫』を創刊。伊良子清白、横瀬夜雨などが活動。
新体詩 明治時代の文語定型詩。多くは七五調。
江戸川の谷 江戸川橋周辺から江戸川橋通りにかけての低地。
江戸川べり 江戸川は現在神田川と呼びますが、その神田川で石切橋の近く(文京区水道町27)に清風亭跡があります。
 清風亭はもちろん、長生館も戦災と共に消えた。赤城の丘から赤城下町へ、急な石段を下りてゆくと、いきなり谷間のような坂道の十字路に出た。そこから右へだらだらと坂が下り、左は曲折をもつ上り坂となる。わたくしは左の上り坂を辿って矢来町ぞいの道を右へ折れた。左は崖上、右の崖下には赤城下町がひろがっている。崖下の小路の銭湯から、湯上りの若い女が一人、赤い容器に入れた洗面道具を小腋こわきに抱いて、ことことと石段を上って来たかと思うと、そのままわたくしの前を春風に吹かれながらさも快げに歩き、すぐ近くの、崖下の小さいアパートの中に姿を消した。
 赤城の丘ではかなく消えていたモンマルトルの思い出が、また何となくよみがえる一瞬でもあった。
坂道の十字路 正確には十字路ではないはず(図)。ここに「赤城坂」という標柱があります。
左の上り坂を辿って… 下図を参照
銭湯 1967年の住宅地図によれば、中里町の金成湯でしょう。北側の小路には銭湯はなく、中里町13番地にありました。

野田宇太郎|文学散歩
 牛込界隈⑥紅葉十千万堂跡

文学と神楽坂

   紅葉十千万堂跡

 飯塚酒店藝術倶楽部の思い出を右にしてそのまま南へまっすぐに横寺町を歩くと、左に箪笥町への道がわかれ、その先は都電通りに出る。その道の右側に大信寺という罹災した古寺があり、その寺の裹が丁度ちょうど尾崎紅葉終焉の家となった十千万堂の跡である。十千万堂というのは紅葉の俳号で、戦災焼失後は紅葉の家主だった鳥居氏の住宅が建てられた。その表入口は横寺町の通りにあって、最近新らしく造られた鉄製の透し門の中に、新宿区で今年の三月に新らしく建て直したばかりの「尾崎紅葉旧居跡」と書いた、史跡でなく旧跡の木札標識がある。そこへ入った奥の左側の、鳥居と表札のある家の屋敷内が、ほぼ十千万堂の跡に当る。
 紅葉が祖父の荒木氏と共に横寺町四十七番地にそれぞれ隣りあわせて一軒ずつの貸家を借りて住みついたのは、明冶二十四年二月頃である。
 明冶二十二年の新著百種第一冊『二人比丘尼色懺悔』が作家としての出世作となった紅葉ではあったがすでにその頃は硯友社を率いる新進作家と云ってよかった。樺島喜久を妻に迎えたのは明治二十四年三月、横寺町に移って間もなくの二十五歳のときである。

都電通り 大久保通りです。
大信寺 新宿区横寺町にある浄土宗寺院です。図では赤い矢印。詳しくはここに

終焉の家 図では「尾崎紅葉旧居跡」です。
今年 昭和44年です
木札標識 現在は「新宿区指定史跡」になりました。詳しくはここで
新著百種 1889年に吉岡書籍店で刊行しました。
二人比丘尼色懺悔 ににんびくにいろざんげ。尾崎紅葉氏の出世作。ある草庵に出逢った2人の尼が過去の懺悔として語る悲しい話。

 泉鏡花が紅葉門人第一号として入門したのもその年十月で、鏡花は先ず尾崎家の書生として同居し、明治二十七年には父の死を迎えて金沢に帰郷し、貧苦の中に「義血侠血」などを書いた期間もあったが、大凡二十八年二月まで、約四年間を紅葉の許で薫陶を受けた。鏡花につづいて柳川春葉小栗風葉徳田秋聲などが硯友社の門を潜って紅葉に師事し、やがて鏡花、秋聲、風葉は次代の文壇に新風を捲き起すと共に、紅葉門の三羽烏とも呼ばれるようになった。そのうちの小栗風葉が中心となって、十千万堂裏の、少し低くなった箪笥町の一角に文学塾が開かれたのは明治三十年十二月からである。
 紅葉は入門者があると一時この文学塾に入れるのが常であった。その塾では秋聲も明治三十二年二月に筑土八幡下に移るまで梁山泊のような生活をしたことがある。
 明治三十年一月から三十五年五月に亙り読売新聞に継続連載し、三十六年一月から三月までは「新小説」にその続篇を書きつづけた『金色夜叉』を最後に、紅葉が胃癌のために歿したのは明治三十六年十月三十日で、まだ三十七歳の若さであった。だがその死は悟りに徹したともいえる大往生で、「死なば秋露のひぬ間ぞ面白き」という辞世の句をのこしている。
義血侠血 旅芸人の女性がある青年を金銭的に援助する。その女性がある男性を過失で殺し、検事になった青年が断罪する。最後は2人ともに自殺で終わる。「瀧の白糸」の原作。
大凡 おおよそ。細部にこだわらず概略を判断する。だいたい。大ざっぱに。およそ。
薫陶 人徳・品位などで人を感化し、よい方に導くこと。香をたいて薫りを染み込ませ、陶器を作り上げる意から。
文学塾 十千万堂塾、または詩星堂。詳しくは徳田秋声の「‎光を追うて」で
梁山泊 りょうざんぱく。中国山東省済寧市梁山県の沼。『水滸伝』ではここに住む人々を主人公とした小説。転じて、豪傑や野心家の集まる場所。
金色夜叉 『読売新聞』連載。未完。鴫沢しぎさわ宮はいいなずけである一高生のはざま貫一を捨てて富豪の富山と結婚する。貫一は復讐のために高利貸の手代となる。
ひぬ 干ぬ。乾く。

 わたくしが昭和二十六年にはじめて紅葉住居跡をたずねたときは、秋聾が昭和八年に書いた「和解」という小説に、K(鏡花)と共にその附近を久しぶりに歩いたことがほぼ事実通りに書かれているので、それを頼りに焼け跡の大信寺で横寺町四十七番地の紅葉住居跡を尋ねると、中年の婦人が紅葉の大家でもあったという寺の裏の鳥居という家を教えてくれた。
 鳥居家は焼け跡に建てられたばかりの、まだ新らしい家であったが、紅葉歿後の十千万堂のことを知る老婦人がいて、昔の玄関や母家の在り方まで詳しく語った。紅葉遺著の『十千万堂目録』の扉に描かれている玄関口の簡単なスケッチなどを記憶して訪れたわたくしに、玄関前の木はモチの木で、その木は戦災で焼けたが、根株だけはまだ掘らずに残しているからと、わざわざ上土を取り除けてその黒い根株を見せてくれたりもした。
 そして十千万堂の襖の下張りから出て来たという、よれよれに痛んだ鳥の子紙の一枚には、「初冬や髭もそりたてのをとこぶり 十千万」、もう一枚には「はしたものいはひすきたる雑煮かな 十千万堂紅葉」と、紅葉の癖のある書体でまだ下書きらしい句が一つずつ書かれていた。それをやっとのことで読むと、紅葉葬儀の写貞や「尾崎德太郎」と印刷した細長い洒落た名刺一枚なども奥から出して見せてくれた。……
 あれから十八年が過ぎていると思うと歳月のへだたりはすでにはるかだが、十千万堂跡が新宿区の旧跡に指定されて見学者が多くなっているほかは、鳥居家の容子もあまり変らず、老婦人もさすがに頭髪はうすくなり白いものもふえているが、依然として元気で、久しぶりに訪れたわたくしをよく覚えていて、快く迎えてくれた。
根株 ねかぶ。木の切り株。
上土 うわつち。表面の土。
下張り したばり。ふすま屏風びょうぶなどの下地。
初冬や髭もそりたてのをとこぶり 初冬や髭剃りたての男ぶり
はしたもの 端者。半者。召使いで、身分は中程度。それほど身分の低くない召使いの女。
いはひ 祝い。めでたい出来事を喜ぶこと。

芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)

へだたり 隔たること。その度合い。
容子 様子。外から見てわかる物事のありさま。状況。状態。身なり。態度。そぶり。

わが青春の記|長田幹彦

文学と神楽坂

 長田幹彦全集別巻にある「わが青春の記」(中央公論、昭和11年)です。氏がこれを書いたのは49歳。「スバル」の発行は22歳、明治42年です。ある出版社では、ボツになった氏の原稿をトイレットペーパーとして使用したという話です。

 新詩社しんししゃは中堅詩人の脱退によつて、それから間もなく崩壊してしまつた。それは與謝野氏の力が足りなかつたゝめでも何んでもない。時代は刻々こく/\轉換てんくわんして、詩そのものが既に貧困時代に入つてきたためであつた。
 脱退組はそれから辯護士だつた平出修氏の盡力じんりよくによつて、森鷗外先生を盟主にあをいで、「スバル」を發行はつかうし、それを牙城がじやうとして、更に一段の躍進をげた。僕も今度こそは出直でなほして、いよいよ小説を書かうと思ひ立ち、一生懸命になつて、「うみまち」といふものを仕上げた。明星時代と違つて、今度は僕もいくらか認めてもらへるだらうと自惚うぬぼれて、その「海邉の街」を「スバル」へもつていくと、これは編輯へんしふ委貫の吉井よしゐ君の手にひつかゝつてまんまと没書ぼつしよになつてしまつた。あんまり腹が立つたから、後年新進作家になつてから、そのまゝそつくり「太陽」へ出してやつた。これは相當さうとう評判のよかつた作品であつた。
 もうひとつほかに「へびつかひ」といふものをかいて某誌へ持ち込んだが、この作品位悲慘な最期をとげたものはない。持ち込んでから三つきたつても、四つきたつても、うんだともつぶれたともいつて來ないので、おそる恐る催促にいつてみると、編輯當事者とうじしやは、そんな原稿は受け取つた覺えはないと、劍もほろゝな挨拶である。そこで仕方がなしに、すごすご歸つてきたが、その時便所をかりくなつたので、その店の便所へ入つてみると、どうだらう、僕がずにかいた作品が無慘にも四ツりにされて尻を拭く紙になつてゐるではないか。僕はこゑをあげて號泣がうきふしたいほど無名作家のなさけなさを感じて、全くほねきざまれるやうな思ひがした。で、殘つてゐる分を切り取つてもつてかへり、そのまゝ今でも保存してゐるが、心のゆるむ時には、それを取出して今だに發奮はつぷんよすがとしてゐるのである。尤もその時分は改良半紙手刷でずけいをおいた原稿用紙だつたから、尻を拭くにはもつて來いだつたかも知れない。
 それから何年かの後、僕がいよ/\新進作家としてはなやかに文壇にデビユーすると、その雜誌からもむろんれいあつうして原稿を依賴してきたので、それに似た作品をかいて、一枚きん圓也えんなりで賣つてやつた。無名作家と有名作家の對照たいせうはかくの如くに浮世の裏表うらおもてである。滿天下まんてんかの無名作家諸氏よ、原稿がぼつをくつたとて、ゆめいかたまふな。今は西洋紙の原稿用紙であるから諸君の鏤心るしんてうたく、、の名作品が、尻を拭く紙にされないだけでもまだしもである。

新詩社 詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月に創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。
転換 別のものに変える。特に、傾向・方針などを違った方向に変える。
尽力 ある事をなすために、力をつくすこと。努力すること。ほねおり。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。
牙城 城中で主将のいる所。本丸。組織や勢力の中心となる所。本拠。
明星 詩歌雑誌。与謝野鉄幹主宰の新詩社の機関誌。明治33年(1900)4月創刊、明治41年(1908)11月廃刊。
没書 新聞・雑誌などに送った原稿が採用されないでしまうこと。没。
太陽 月刊総合雑誌。博文館発行。1895年1月―1928年2月。臨時増刊号86冊を含め全531冊。日清戦争時の国威高揚に呼応し、刊行中の雑誌を統合して創刊。
けんもほろろ 「けん」と「ほろろ」はきじの鳴き声。人の頼み事や相談事などを無愛想に拒絶するさま。取りつくしまもないさま。
夜の目も寝ない よのめもねない。一晩じゅう眠らない。
号泣 大声をあげて泣き叫ぶこと。
発奮 気持ちをふるい起こすこと。
よすが 物事をするのに、たよりとなること。よりどころ。てがかり。
改良半紙 駿河半紙を漂白して作った半紙。明治以降、水酸化ナトリウムの煮熟、さらし粉の漂白で、すぐれた半紙がつくられるようになり、改良半紙とよんだ。
手刷り 木版などを1枚1枚手で刷ること。軽便な印刷機を手で動かして印刷すること。
 文字をそろえて書くために、紙上に一定の間隔で引いた線。罫線。
裏表 物の表面と裏面。表面と内情。
満天下 天下全体。国中。世界中。
鏤心彫たく るしんちょうたく。非常に苦心して詩文などを作り上げること。鏤はちりばめる。鏤めるとは、金銀・宝石などを一面に散らすようにはめこむ。比喩的に、文章のところどころに美しい言葉などを交える。彫心鏤骨とは、ちょうしんるこつ、心に彫りつけ骨に刻み込む。彫琢は、ちょうたく、宝石などを加工研磨すること。

赤城神社|赤城元町

文学と神楽坂

 牛込区赤城元町〔新宿区赤城元町〕の赤城神社は始めは赤城明神。『江戸名所図会』では

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚とうかくと号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版
別当 別当寺。神社の境内にあり、供僧が祭祀・読経・加持祈禱を行い、神社の管理経営を行った寺。
東覚寺 神仏分離で廃寺。当時、神職はなく、別当坊だけが神務を執行中だった。
重泰  牛込村へ移住して牛込姓に改めたのは宮内少輔重行(江戸氏牛込氏文書)か、重行の子勝行(寛政重修諸家譜)の時で、家系では重泰の名前はない。

赤城神社

赤城神社

[現代語訳]牛込の鎮守で、神社の境内の寺は天台宗東覚寺。祭神は上野国赤城山と同じで、本地仏は将軍地蔵菩薩という。昔、大胡氏がこの神を深く信仰し、始めは領地に祀って近戸明神と称した。その子孫重泰が武蔵国に移って牛込に住み、姓を改めて牛込氏とし(城館は牛込藁店の辺。先に話した。)代々信仰してきたこの神を移し祀ったものである。祭礼は9月19日。(始めに祀った場所は目白の下関口領の田圃の中であった。今も少しばかりの木立があり、これを赤城の森と呼んでいる)

 正安年(1300年)、群馬県赤城山赤城神社の分霊を早稲田の田島村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、元赤城神社)に勧請。寛正元年(1460年)、牛込へ移動。明治6年に郷社に。郷社とは神社の社格で、府県社の下、村社の上に位置する神社。例祭日は毎年9月19日。
新撰東京名所図会』牛込区(明治37年)では

 赤城神社は赤城元町十六番地に鎮座す。社格郷社、石の鳥居あり、表門は南に面す、総朱塗、柱間二間、左に門番所あり、間口一間半奥行二間半、門内甃石一條、左に茶亭あり、赤城亭と稱し、参拝人の休憩所に充てたり。側らに藤棚一架及び桜を植ゑたり、右に卜者の宅並に格子造に住みなしたる家一と棟あり。更に進む事二十餘武、右に末社北野神社、出世稲荷、葵神社の小祠宇あり(中略)
本社間口三間奥行二間半、社の後、石の玉垣を繞らす慶応二丙寅年十一月築造する所。此辺樹木、鬱として昼猶暗し。皆年経たるなり。即ち境内の北隅、崖に臨んで清風亭あり。

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
赤城亭 最近は2005年7月、神饌しんせん(お供え物)料理店が開店。2008年3月、閉店。
甃石 しきいし。道路・庭などに敷き並べた平らな石
祠宇 しう。やしろ。神社。
繞らす めぐる。周りを回る。とりまく。
慶応二丙寅年 1866年です。
 もみ。マツ科の常緑大高木。

 清風亭は貸座敷で、江戸川(現、神田川)の文京区水道町27(芳賀善次郎著『新宿の散歩道』三光社、昭和47年)に移ります。そのあとは下宿の長生館でした。明治36年、近松秋江氏は清風亭で慟く大貫ますと同棲し、明治40年6月、ますに赤城元町七番地で小間物屋を経営させていました。明治42年8月、ますに去られ、氏は『別れたる妻に送る手紙』(大正2年)を刊行し、また、大正2年10月から長生館に下宿しています。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑤

文学と神楽坂

   横寺町

 筑土八幡宮裏から白銀町に出て、白銀公園の前を南へゆくと、もうそこは以前の通寺町、現在は神楽坂六丁目である。神楽坂通りを横切って、その南側の横寺町に入った。
 横寺町は尾崎紅葉島村抱月、抱月の後を追った松井須磨子劇的な終焉しゆうえんの町で、昭和八年頃わたくしもしばらく間借生活をしたことがあり、とくに『新東京文学散歩』執筆以来はしばしば訪れるようになった馴染み深い町と云ってよい。戦災がひどく、道の両側に並んだ寺々と共に商家などにも戦前の面影は更にないか、ほぼこの町の中央にあった飯塚酒店が、戦前の官許にごりの店でなく普通の酒類店としてではあるが、復興も早かったことは、横寺町に辿る文学史の一つのたしかな道標でもあった。
 戦前の飯塚酒店は貧乏な文士や画家などが、労働者に混って安心して酒にひたった店で、酒豪を以て自ら任じ、やがては板橋の養老院で孤独な老死をとげた、日本のヴェルレーヌともいえそうな詩人の兒玉花外も、その店の常連であった。それに飯塚家は坪内逍遙の弟子筋に当る演劇研究家、飯塚友一郎の生家で、牛込の旧家でもあったから、官許にごりの酒店と共に、脇には質屋と米店も営んでいて、貧乏な藝術家などに重宝がられた。その飯塚家の裏側に、坪内逍遙文藝協会を離れ早稲田大学教授を辞職した島村抱月と、女優松井須磨子との藝術座の本拠として藝術倶楽部が出現したのは大正四年秋であった。藝術座はそれより先大正二年(一九一三)九月の有楽座ける「モンナ・ワンナ」の旗揚げ興業と共に松井須磨子をプリマ・ドンナとしてスタートし、オペラ形式をとった新演劇として全国津々浦々にその名声をひろめていった。(中略)中でも須磨子の演じた「復活」で抱月が作詞した「カチューシャ唱歌」や、北原白秋作詞による「さすらひの唄」「にくいあん畜生」「こんど生れたら」などの「生ける屍」の唄、「煙草のめのめ」「酒場の唄」「恋の鳥」などの「カルメン」の唄は、抱月の書生をしていた中山晋平の作曲で、流行歌としても全国を風靡ふうびした。九州の田舎に生れたわたくしなども、幼い時分に横井須磨子のうたった「カチューシャ唱歌」のレコードから「カチューシャ可愛や別れのつらさ……」などと、つい覚え込んでしまったほどである。(後略)


劇的な終焉 島村抱月氏はインフルエンザで大正7年7月7日に死亡し、大正8年1月5日、松井須磨子氏は後を追うように縊死で自殺。
にごり 発酵した米を酒袋の中にしぼって抽出し、おりを取り除き、さらにろ過するが、にごり酒は澱を残したままにするもの。
文芸協会  1909年、劇界の刷新をはかり新芸術を振興する文化団体として発足。会長は坪内逍遥。11年第1回公演として『ハムレット』などを上演。13年、松井須磨子、島村抱月が退会し、その後、解散。芸術座、無名会、舞台協会、新国劇などに分れた。
プリマ・ドンナ prima donna(第一の女性)。オペラの主役女性歌手。ソプラノ歌手が多い。オペラ以外でも使う。
オペラ形式 歌手が扮装して演技をしつつ管弦楽と共に歌う音楽劇。芸術座は確かに一部はオペラ形式でしたが、全部が全部ではなかったと思います。
風靡 風が草木をなびかせるように、多くの者をなびき従わせること。