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沼地だった大曲付近|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 42.沼地だった大曲付近」を見ていきます。「昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである」という考え方。

沼地だった大曲付近
     (新小川町一、二、三丁目
 大曲一帯は、江戸時代初期には白鳥沼という大きな沼であった。また前にのべたが飯田橋あたりは大沼という沼地であった(11参照)。それを、万治年間(1658ー60)、お茶の水堀を掘る時、掘りとった土や白銀町の台地(御殿山)を崩した土で埋めたてたのである。そして神田小川町の武家屋敷をここに移したので新小川町と名づけられた。大曲のところの橋を白鳥橋というのは、昔の白鳥沼の名前をとったのである。
 神田川は、このあたり低地を蛇行して流れていた。大雨の時などは川が氾濫して、まわりの田畑は洪水の害を受けることが多かった。
 そこで昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである。新小川町などは、はじめ文京区の小石川地区であったが、明治13年11月に牛込区に編入されたものである。
 落合から下流飯田橋までをはじめ江戸川と呼んでいたが、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことになった。下流のお茶の水、浅草橋、隅田川までは、江戸時代に江戸城外堀として掘られた人工の川である。
 お茶の水堀ができない前は、神田川は、白鳥沼から大沼、小石川橋九段下神田橋常盤橋日本橋鎧橋を通って江戸湾に注いでいた。古くは大沼から一ツ橋あたりまでを上平川、それから下流を下平川と呼んでいた。
 神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年である。
〔参考〕江戸砂子 沈み行く東京 江戸町づくし稿中巻
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていること。その場所。新宿区と文京区では神田川の流路がほぼ直角に曲がっている所。
新小川町一、二、三丁目 現在は昭和57年(1982)の住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合、なくなり、新小川町だけになりました。
白鳥沼 小石川大沼の上流の池。
大沼 小石川大沼。江戸初期以前では神田川(平川)と小石川の合流地点。湿地帯だった。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色を改変)

埋めたてた 「御府内備考」「牛込之一」「総論」では

万治のころ松平陸奥守綱宗仰をうけて浅草川より柳原を経て御茶の水通り吉祥寺の脇へかけてほりぬき水戸家の前をすき牛込御門の際まで堀しかははしめて牛込へ船入もいてきしこのほり上たる土を以て小日向の築地小川町の築地なり武士の居やしきをもたてり、この築地ならさる前は赤城の明神より自白の不動まで家居一軒もあらて畑はかりなりしか、是より武士の屋敷商人の家居も出来たり
 新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)では
新小川町は、明暦四年(1658)の3月、安藤対馬守が奉行となり、筑土八幡町の御殿山を崩して埋め立てたのである。また、万治年中(1658一60)には仙台の伊達綱宗がお茶の水堀を掘って神田川の水を隅田川に通ずる工事をした時、その掘り土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋め立て地を新小川町といった。
 新宿区生涯学習財団「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では
万治年中(1658-61)には仙台藩伊達家が御茶ノ水堀を掘って神田川の水を隅田川に通す工事をした際、その堀土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋立地を俗に新小川町と呼んだ。
 東京市麹町区編「麹町区史」(昭和10年)では
 翌万治3年2月10日、有名な神田川開疏が行われ、伊達家の担当で牛込から此の門(筋違橋門)際舟入りとなる。

昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐに 間違えています。寛文11-13年(1671-73)からは、氾濫がない場合に、江戸川橋より下流では今とほぼ同じ流路でした。

新板江戸外絵図。寛文11-13年。(1671-1674)

昭和22年 住宅地図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

昔の江戸川の流路 何が原因で区境になったのでしょうか? 正保元年(1644)か2年の正保年中江戸絵図を見てみます(下図)。前図からさらに古い地図ですが、神田川は江戸川橋から東方になっても蛇行をしているようです。

正保年中江戸絵図。嘉永6年(1853)に模写。原図は正保元年(1644)か2年に作成か

 そこで伏目弘氏は『牛込改代町とその周辺』(自己出版、平成16年)で「仮称『江戸川大沼』の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは」と考えています。

交錯する江戸川橋付近の区境 現在の江戸川橋交差点付近には、神田川を境に文京区と新宿区の区境が錯綜している地域がある。文京区は、昭和39年から42年にかけて、町成立の歴史認識を無視し、町名変更を実施したのである。
 旧町名の小日向町・東古川町・西古川町・松ヶ枝町・関口水道町・関口町の六カ町は、一律に関口一丁目・二丁目となったのである。これらの旧町と新宿区の町境を歩いてみると、まるで迷路のようである。ここで仮説を交え、その原因を探ってみる。
 単純に立地条件を考慮してみると、江戸川橋交差点付近は往古は沼地であったと推定できる。西北に、目白関口台地と続いて雑司谷があり、雑司谷を水源とした野川は蛇行して音羽の谷に流水し、小日向台地下に弦巻川大下水を形成し、目白関口台地下には鼠谷大下水があった。
 他方南の牛込台地の流水は、音羽の谷(現江戸川橋交差点)に自然集水し、沼地となっていたと思われる。やがて江戸期になり神田上水と江戸川改修で沼地は耕作地帯に変貌し、明治期に区制が成立した際に区境の位置が問題になり、往古の仮称「江戸川大沼」の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは、と推測をするのである。

 別の考え方には「蟹川」があり、その流路は図の最低標高線になり、そして2区の境界になったと考えられます。

東京実測図。明治18-20年。参謀本部陸軍部測量局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

牛込区に編入 岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)には

 明治5年7月に、旧称をそのまま町名として、東から一、二、三丁目と分けた。その当時は小石川区に属していたが、明治13年11月から牛込区に編入された。

江戸川 神田川中流。かつては文京区水道関口のおおあらいぜきからふなわらばしまでの神田川を「江戸川」と呼んだが、昭和39年制定の新河川法で、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことに。名前の由来は、1603年に徳川家康が上水を整備した際に橋も建設したから。井の頭公園はその源流。以前は関口大滝橋までの上流を「神田上水」、船河原橋からの下流を「神田川」と呼んだ。
小石川橋 千代田区飯田橋と文京区後楽との橋。
九段下 千代田区のかつての町名。現在の九段北・九段南に相当する。
神田橋 千代田区の日比谷通りの橋。右岸は大手町一丁目、左岸上流側は神田錦町二丁目、下流は内神田一丁目など。
常盤橋 ときわばし。千代田区大手町と中央区日本橋本石町との橋。
日本橋 中央区の橋。江戸時代1603年(慶長8年)、江戸で最初に町割りが行われた場所にあった川の木造の橋。現在の橋は1911年(明治44年)に竣工した石造りの2連アーチ橋
鎧橋 よろいばし。中央区の橋。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、下流は日本橋茅場町など。

日本橋川 [8303040045] 荒川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット


一ツ橋 千代田区の日本橋川の橋。一ツ橋一丁目と大手町一丁目の間から一ツ橋二丁目と神田錦町三丁目の間までの橋。
上平川下平川 平川とは日本橋川のこと。平川は武蔵国豊嶋郡と荏原郡との境界であり、江戸市中へ物資を運ぶ輸送路、江戸城を守る濠として利用された。
神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年 首都高速5号池袋線(千代田区の竹橋ジャンクションから埼玉県戸田市のジャンクションまで)だけが神田川の上を走ります。西神田出入口と護国寺出入口との間の開通は1969年(昭和44年)6月27日でした。