「恋慕ながし」は小栗風葉の小説で、明治31年9月1日、読売新聞で連載。12月1日、70回で中断し、完成は明治33年5月。琴古流尺八の天才青年秦純之介とバイオリニストの五十棲葉子の純恋で始まり、2人は師の家を明けたために破門、流しに。葉子の世話を任された銀次は彼女に惚れ改心。陰謀に巻き込まれ絶望した葉子は自殺。銀次も人足頭の熊五郎を刺して、死亡。純之介だけが生き残る。波瀾万丈の大活劇ですが、心に残るものはない。木賃宿、売春という醜い現実も描いています。
ここでは「恋慕ながし」の原本に国立図書館の本を参照し、その2頁に多分尺八の楽譜があって、見るだけで頭が痛くなります。
この時代、本来の漢字の読みとルビは別々なので、ルビはそれこそ自由につけてもよかったようです。
なお「恋慕ながし」や「鈴慕流し」は、禅宗のうち普化宗の僧、虚無僧が尺八の曲「鈴慕」を吹きながら托鉢、つまり鉢を携えて人々に食物や金銭を乞う修行法です。
「未だ縁日は在るでせうね。露店でも見ながら、其処まで一緒に送って行くわ。」 二人は相伴って宿を出た。山手一と謂れる爰の毘沙門天の縁日は、寺町の通から神楽坂の下へ懸けて両側に火の埓を使っている。宵の間の一景気に比べては多少寂れたが、仍此辺には希しい人出で、下駄の音、金鼓の声、境内の見世物小屋は言立の吭を涸して、鳴物の響を尽して、此退色の人の潮を要留めようと躁っている。お葉の先ず目に着いたのは、往復う群衆の、女の円髷の凄じく大いのと、口髯を生やした男の極めて多いのとで。 唯ある曲角の、太白飴の蔭の薄暗所に薄縁を敷いて、由ある者の果かとも覚しき女乞食の三曲を合奏するのがあった。此道には何れも少からぬ嗜好を有っている2人は、言い合せたように立停ると、彼等は迎えるが如く調子を昂めて「男髪」を弾き出したので、純之助は先ず満らなそうに退いて了う。続いてお葉も立去ろうとする其気勢を察してか、丁度自分の母と同じ年頃の、加も髪毛の護摩塩までが匹似の琴弾が、真白な見えぬ目を瞪って睖と瞻げたのが、喩様のないが加厭な心持がして、彼は手疾く財囊の小銭を投げて退いた。 |
爰 エン。ひく。ここに。ここにおいて。これ
寺町 通寺町。とおりてらまち。昭和26年5月1日、神楽坂6丁目と改称。
埓 らち。仕切りの垣。囲い。範囲。限界。
仍 よる。したがう。かさねる。しきりに。しばしば
希しい 読み方としては「めずらしい」はありませんでした。読み方は「キ。ケ。まれ。ねがう。こいねがう」です。めったにない。希有。
金鼓 きんこ。こんく。鉦と太鼓。鰐口は、金口、金鼓とも呼ばれ、仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種。鈴を扁平にした金属製梵音具。
言立 いいたて。宣伝の口上。それをする人
吭 のど。咽頭。喉頭。
涸す からす。枯す。嗄す。乾燥させる。かわかして水分をなくす。
鳴物 なりもの。楽器の総称。音曲。器楽。
退色 色がだんだん薄くなること。色があせること
潮 月や太陽の引力によって周期的に起こる海面の昇降。うしお。海水。潮流。海流。事をするのによい機会。
要留める 「食い止める」。辞書では「要留」はありません。
躁ぐ ソウ。さわぐ。さわがしい。あわただしい。うごく。
円髷 江戸時代から明治時代を通じて最も代表的な既婚女性の髪形。
太白飴 たいはくあめ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴。
薄縁 畳の表だけを敷物にした物。
嗜好 しこう。たしなむこと。このみ。taste
気勢 きせい。意気込んだ気持。いきおい。気迫、気宇、勢い、力強さ
護摩塩 護摩行で祈祷されたお清めの塩。護摩塩頭は黒い髪の毛に白髪のまじった頭。しらがまじりの頭。
匹似 ひつじ。
琴弾 きんだん。ことひき。琴をひくこと。その人
瞪る みはる。目を大きく開いて見る
睖 チョウ。リョウ。まっすぐ見る。じっと見つめる。
瞻る まばる。みる。見上げる。あおぎみる。
手疾く 手早く。動きが素早い
財囊 ざいのう。金銭を入れる袋。財布。銭入れ。ぜにいれ。銭を入れるもの。財布・がまぐちなど
純之助は神楽坂の下口を左へ曲るのが近道であるが、仍坂下には観すべき店もあるので、回道とは知りつゝも坂を下る。と其上口から左へ揚場の片側は一面の植木屋、春は未だ遅咲の藤の梢を去らぬのに、早や爰の牡丹は価も貧しく、闌れて了って、菖蒲の紫や、瞿麥の紅や、百合花、紫陽花、鉄線花の花物から、青梅、青柚などの実物葉物、総て夏の色であつた。 |
闌ける たける。盛りの時期・状態になる。たけなわになる。
瞿麥 なでしこ。撫子。瞿麦。ナデシコ科の多年草。夏から秋、淡紅色の花を開く。秋の七草。
鉄線花 てっせんか。キンポウゲ科の蔓性植物。
青柚 あおゆ。ユズの未熟果実。
今度は銀次の話です。
彼は遂に帰途を神楽坂へ出たのである。場末ながらも爰等辺は有繋に狭斜の地、時間過ぎの鳴物こそ歇んだが、未だ寂れもやらぬ茶屋、待合の二階には華やかな灯の影法師も映って、お手の鳴る音、拳の声、漫はしげな笑語の軒竝、褄を取った媚かしい姿が連りに出入して、春の夜の巷の酒臭い人にも逢う。唯ある新道の間の、御贔屓様、御一枚と柝を鳴してゐる仮声使の後を曲って、銀次は梅廼家と謂う御神灯の出た江一格子の門まで来たが、見れば入口の戸の一枚だけ鎖懸てあって、早や印灯も退かれているので、彼は今更に躊躇の足を停めて、惘然軒下に佇んだ。 |
歇む やむ。つきる。ケツ。カツ。アツ。やむ。おしとめる。やめる。つきる。ない。むなしい
寂れ 寂れる。活気がなくなって寂しくなる。ひっそりする。勢いが衰える
灯 ともしび。とうか。とぼし。ともし火。明かり。灯火。
拳 二人以上が、手や指でいろいろの形を作って勝敗を争う遊戯。
漫はし そぞろはし。心が落ち着かない。いやな気分である
笑語 しょうご。笑いながら話す。笑い話
軒竝 のきなみ。屋根が外壁よりも外側に出て、左右に並んでいる様子。
褄 つま。長着の裾の左右両端の部分。長着の袷や綿入れの褄先にできる丸みの部分。「左褄を取る」は「芸者勤めをする」
媚かしい こびる。こび。うつくしい。女が男に対して色気を示すこと。現代は「なまめかしい」は「艶めかしい」
連り つがり。連。鎖。つらなり続くこと。この小説では「しきりと」と読ませ「たびたび。しばしば。ひっきりなしに」
巷 ちまた。町の中の道路。にぎやかな所。まちなか。
御贔屓様 ごひいきさま。芝居や芸人などを特に目をかけて可愛がってくれる人を、芸人の側から呼ぶことば。ひいき筋。
御一枚 相撲や役者の番付、看板で、1枚に一人を書くので、一人。ある仕事や役割を行なう一人。
柝 き。拍子木のこと。長さ20~30cmのかしの角棒を2本打合せる。楽屋内の合図、幕の開閉などに用いる。
仮声使い こわいろづかい。声色遣。役者などの声や口調をまねること。その人。声色屋
梅廼家 うめのや。おそらく花街の待合などの1店舗。
御神灯 ごしんとう。神前に供えるあかり。芸人の家や芸者屋などで、縁起をかついで戸口につるした提灯
江一格子 えいちごうし。細い桟を縦にごく狭い間隔で打ちつけた窓格子。中からは外が見えるが、外からは見えにくい。
鎖懸 しかけ。戸じまり。外敵の侵入を防ぐ要所。要害
印灯 かんぱん。不明。商標付きのあかり?
停め とどめる。留める。移動をそこでやめさせ、その状態を保たせる
惘然 ぼうぜん。もうぜん。呆然。あっけにとられているさま。気抜けしてぼんやりしているさま。