文学と神楽坂
1975年9月30日、『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」で牛込館について出ています。初めて神楽坂の牛込館の外部、内部や観客席も写真で撮っています。
むかしの映画館は、胸をわくわくさせる夢をつむぐ館であった。暗闇にぼおっと銀色の幻を描いた。 東京・神楽坂にあった牛込館もそういった活動写真館の一つだった。もちろん、今は姿かたちもない。写真を見ると、いかにも派手な大正のしゃれた映画館に見える。 これを、請け負ったのは清水組。その下で働いていた薄井熊蔵さんが建てた。薄井さんはことし五月、九十四歳で亡くなった。できた当時のことを、聞くすべもない。さいわい、つれそいの薄井たつさん(八四)が世田谷の三軒茶屋近くに健在だときいて訪れた。
「さあね、大正十年ぐらいじゃなかったかね。そのころ広尾に住んでましたけど、いい映画館を造ったのだと言って、そのころ珍しい自動車に乗せられて見に行きましたよ、ええ。まだ興行はやってなかったけど、正面玄関とか館内にはいって見てきましたよ。シャンデリアつて言うのですか、電灯のピカピカついたのがさがっていましたし、たいしたもんでしたよ。行ったのは、それ一回でしたけどねえ」 なんでも当時の帝国劇場を参考にして、それをまねて造ったというのだが……。 |
観客席
帝国劇場のことが少し入り
この牛込館が十年ごろ完成したことになると、震災の時はどうだったのか。あるいはその後ではなかったのか。たつさんの記憶もたしかではない。もっとも神楽坂方面は震災の被害は少なかったともいわれるが……。
文士が住んだ街
昭和の初期、この館を利用した人は多い。映画プロデューサー永島一朗さんも、そのひとりだ。 「そうねえ、そのころ二番館か三番館だったかな。私は新宿の角筈に住んでいて、中学生だったかな、七銭の市電に乗るのがもったいなくて、歩いて行ったものですよ。当時は封切館は五十銭だったが、牛込館は二十銭だった。新宿御苑の前に大黒館という封切館がありましたよ。 どんな映画を見たか、それはちょっと覚えてないなあ。牛込館はしゃれた造りではあったが、椅子の下はたしか土間だったですよ」 おもちゃ研究家の斎藤良輔さんも昭和五、六年ごろから十年にかけて早稲田の学生だったので、ここによく通ったそうだ。 「なんだか〝ベルサイユのばら〟のオスカルが舞台から出てくるような、古めかしいが、なんだかしゃれた感じがありましたよ。そのころ万世橋のシネマパレスとこの牛込館が二番館か三番館として有名で、われわれが見のこした洋画のいいのをやっていました。客は早稲田と法政の学生が多かったな。神楽坂のキレイどころは昼間も余りきてなかったな。ちょうど神楽坂演芸場という寄席ができて、そこに芸術協会の金語楼なんかが出ていて、そっちへ行ってたようだ」 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和四年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。関東大震災前から昭和十年にかけて、六大学野球はリーグ戦の華やかなころ、法政が優勝すると、軒なみ法政のちょうちんが並び、花吹雪が舞った。早稲田が勝てば、Wを描いたちょうちんで優勝のデモを迎えた。 また日夏耿之介、三上於莵吉、西条八十、宇野浩二、森田草平、泉鏡花、北原白秋などの文士がこの街に住み、芸術的ふん囲気も濃く、文学作品の舞台にもしばしばこの街は登場している。 だから、牛込館はそういった街の空気を象徴するものでもあった。 明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向こうに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。 かつての牛込館あとをたずねて歩いた。年配のおばあちゃんにたずねると、土地の人らしく、「ええ、おぼえてますとも」と言って目をかがやかせる。空襲で焼かれるずっと前に、牛込館はこわされて、消えて行った。そのあとに、今も残っている旅館が二軒。それがかつて若い人たちが、西欧の幻影を追いもとめた夢まぼろしの跡である。
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二番館 一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館
写真は最初の1枚を入れて4枚。
牛込館の内部
牛込館の前で記念撮影
現在の リバティハウスと神楽坂センタービル。この2館が旧牛込館の場所に立っている。360°カメラです。
最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。