文学と神楽坂
明治22年、満22歳で、尾崎紅葉氏は「裸美人」を、読売新聞に2回連載しました。雅俗折衷体で書かれており、文語体の地の文はきらびやかで、一方、口語体の会話は完全に現代人の言葉になっています。この点で、この文章は古文とは全く違っています。
これは完全なユーモア小説です。尾崎紅葉氏にはこんな小説もあったのです。知りませんでした。
裸美人
曲線美! 曲線美! 曲線の好配合から成立所の、女人の裸體は「美」の神髄である! あい、あい、左様でござい。我は美術家の某とて、夙に「裸美宗」に帰依するものなり。あはれ、此宗旨の難有い処を、弘めてくればやと思ふに、世には偽聖人多く、裸美の実相を観もせで、世教風俗を紊乱すと、一言にいひ消す事こそ心得ね。いでや奮つて、俗眼凡慮の迷霧を払はむ!
《こらよ、こらよ》
《はい、お呼びなさいましたか》と現はれたる美形は、此間もらうた花嫁子なり。
《あい、話しておいた通り、明日は新婚びろめをするのだが、其に就ては少しお前の量見を聞きたいて》
《はい》
《何なりと私のいふ事は背きはしまいね》
《はい》
《それならば話すが、明日は朝野の名士が数十名も集るので、また新婚弘めといふのだから一生に一度の曠の宴会だ》
《はい随分麁想のないやうに致します》
《頼みますよ》
《はい、それで、あの、明日はどういふ衣装をいたしましたら宜しうございましやうか、母様が伺つて参れとおつしやいました》
《なるほど淇処だて。夫には大いに註文があるのだが、其前になほ聞きたい事がある。うウと……お前は私を一体どういふ人物と思つてるね》
美形は夫の顔を不思儀さうに見て、もぢ/\返詞なければ、
《政治家か、文学家か、または……》
《美術家!》
《其一言! 美術家。美術家ならば其目的とする所は「美」の一字の研究である、といふ事は承知だらう》
《はい》
《それなら、美術研究上、私の参考とも、利益ともなる事を、お前が私に為し得るならば、一身を犠牲にして、私の研究を助けておくれだらうね》
《御用に立ます事なら……》
《あゝ、持つ可きものは女房! 必らず其言葉に嘘言はあるまいね》
《はい》
《丸裸になつてくれ》
《えゝ!》
《衣物を被てはならん、丸裸で臨席してくれ》
《えゝ!》
《さゝ、其驚愕は道理だ、道理だけれど、まゝ、落附いて子細を聞てくれ》
此時隣家にて、合方きつぱりとはゆかねど、ぴあのゝ音がするに、先生此処ぞと容を正し、
《扨て改めて説くまでもない、女人の裸體は、美の神髄である、此はお前も美術家の妻たる以上は、承知であらう。悲しい哉、我国民は未開である、美術思想の乏しい事といふたら、輿論が我「裸美宗」に抗抵するのを見ても知れる。あつぱれ一匹の美術家でござると、法隆寺の和尚を従弟に持つたやうな顔をして居る奴等までが俗人と雷同して……どうも情ない、此宗旨を信仰するものは、実に私一人くらゐのものだ。 |
当時は、テレビも、ラジオも、インターネットもまだなく、新聞だけが、微笑を伝えてくれるのです。
神髄 物事の最もかんじんな点。その道の奥義。
夙 つと。昔から。早い時期から。
帰依 神仏や高僧などのすぐれた者を信じて、すがること
世教 せいきょう。世に行われている教え。
紊乱 びんらん。乱れること。乱すこと。
言い消す いいけす。他人の言葉を否定する。
心得る こころえる。ある物事について、こうであると理解する。わかる。
俗眼 ぞくがん。世間の普通の人の見方。俗人の見方。
凡慮 ぼんりょ。凡人の考え。平凡な考え。
迷霧 方角のわからないほどの深い霧。迷いの境地を霧にたとえた語。
量見 りょうけん。料簡。了見。了簡。考え選ぶこと。思慮、考え、分別。
朝野 ちょうや。政府と民間。官民。
曠 こう。広々として何もない。
麁想 そそう。粗相。麁相。不注意から起こす失敗。軽率なあやまち。
臨席 りんせき。その席に臨むこと。会合や式に出ること。出席。
合方 あいかた。邦楽で、唄や踊りを伴わず、主に三味線だけを聞かせる部分。能で、謡のリズム型に伴奏を合わせる合わせ方。
輿論 よろん。世論。世間一般の人の考え。
雷同 らいどう。自分自身の考えがなく、すぐに他人の説に同調すること。
夢中になつて説き諭せば、花嫁はめそ/\泣くばかり、一向不承知のやうすなれば、先生赫と怒り、
《お前はさつき何と言つた。美術研究上、私の参考になり、利益になる事なら、一身を犠牲にしても苦しくないと、いつたではないか。夫の言葉を用ゐんやうなものは、女房でない! 離縁する!》
《御……御免……遊ばしまして……》
《知らん》
《ど……どうぞ、お放し……》
《あぶ……な……放さぬか……非常な腕力だ……あいた、た、つねるナ。》
《覚悟をきめました》
《きめるナ、そんな事をきめるな。もしお母さァん》
《私は死ます………死ます》
《死ではいけん、お母さァん》 |
一向 すべて。全部。
最後は深夜に花嫁、姑、下女は花嫁の家に行ってしまいます。最初は姑、次は下女です。
《すこし子細があつて嫁の里まで行くのだけれど……》
《其子細は存じて居ります。どうぞ私もお連れ遊ばしまして……》
《其子細を知てるとか》(中略)
願ひたき程のお家、昨日の且那様のお言葉にて、解けかねし不審がすつぱり解けました。百円頂いても、こればかりは出来ませぬ。女の心掛けはさもあるべきことなり。何はともあれ、かれめ、目覚ましなば面倒、仕度はよきか、
《そんなら母様》
《お二方様》 ち、ち、ちんと三時鳴る
裸美人 終 |
かれめ 「彼め」?「彼目」?「枯れめ」? 不明です。
三時 午前3時です。