神楽坂6丁目に「ヤマニバー」があるとわかったのは、「西村和夫の神楽坂」の「神楽坂界隈」連載13号でした。2004/7/15にかいてありました。神楽坂6丁目の情景で……
広げられた道路にはすき焼屋を初め飲食店が多くカフェの前身というか当時はやりのバーなる洋式の飲み屋が縄のれんに仲間入りしてきた時代だ。とりわけ肴町の電停付近は夜遅くまで人通りが絶えなかった。 ヤマニバーは現代のチエン店で、当時市内の何処にでもあり、国産の安ウイスキーが売り出されて間もない頃で、新しもの好きの客でかなり繁盛していた。 |
ふーん、何かのバーだな、ぐらいの感じでした。でも、どこにあるの? 肴町は現在の神楽坂5丁目のことです。電停は、昔あった都電の停車場で、「神楽坂上」にありました。なんとなく、ヤマニバーはこの肴町の電停付近だなと思っていました。
しかし、これはまったく違いました。加能作次郎氏の『早稲田神楽坂』では
寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。 その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみごみした狭いきたない通りだが… |
どうもヤマニバーは「寺町の郵便局下」(神楽坂6丁目にある旧郵便局の下)で、その向いには第一銀行支店があるとわかってきました。
サトウハチロー著の『僕の東京地図』では同じように……
長じて、おふくろと住むようになってからは、…ヤマニバーにもっぱら通うようになった。ヤマニバーは御存知もあろう、文明館の先の右側だ。ヤマニバーの前にいま第一銀行がある。 |
さらに昭和12年の「火災保険特殊地図」を見るとスーパーのキムラの反対側で、直線ではなく左の斜線にあるようです。
つまり、道路から北を向いて菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物がヤマニバーでした。立ち飲みだけなのでしょうね。結局、人がすぐ満杯になるのも無理ないなあ。
なお、都内には現在も営業を続けるヤマニバーもあります。なお、ヤマニは「仐」の「十」を「二」に変えたものなんですね。
ヤマニバーは現在の横寺町7にあった飯塚酒店の経営していた一杯飲みと食堂を指し、横寺町7丁目の酒造蔵の隣に立ち飲み(最近は角打ち?というらしいが、本来はかぶとという。角打ちは関西の言い方で、江戸ではかぶとというのが正しい)が本店。最盛期は都内だけで300余店を展開していた。酒は飯塚酒造自慢の「官許にごり酒」で有名文人がこぞって飲みに来ていたそうである。東京芸術座のパトロンもしていた飯塚酒造は、島村抱月や松井須磨子をはじめ、山田五十鈴や小暮美千代、神楽坂はんこ、三国廉太郎などの芸人から、乃木大将、夏目漱石、尾崎紅葉、佐藤八郎、や河合玉堂、鏑木清方などが常連でいた。
ヤマニバーと飯塚酒店と同じ系列だと言われていますが、理由はどこにあるのでしょうか。