小坂多喜子 昭和11年 牛込砂土原町

文学と神楽坂

 さか多喜子たきこ氏の「わたしの神戸、わたしの青春ーわたしの逢った作家たち」(昭和61年、三信図書)では、1年程、住んだ牛込砂土原町について簡単に書いています。

 牛込砂土原町の家に引越していったのは昭和11年頃のことで、それは二・二六事件に遭遇した上高田の家から引越していったことだけは確かであった。牛込矢来町から新見付にぬけるバス通りを一寸はいったところの崖下にある薄暗い陰気な家で、六畳に玄関三畳台所と二間ほどの小さな家だった。『日暦』同人の古我菊治が日暦の編集所兼住居として、かなり永い間住んでいた家で、そのすぐあとを私達が借りたのだった。
二・二六事件 昭和11年2月26~29日、皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデター
上高田 東京都中野区の地名。
新見附 新見附交差点。新宿区市谷田町二丁目にある交差点
バス通り 現在は牛込中央通り
日暦 ひごよみ。創刊号は昭和8年9月。出版元は春陽堂。編集発行人は古我菊治氏。昭和16年まで続き、第2次世界大戦のため休刊。昭和26年9月の22号は復刊1号。出版元は日暦社、編集発行人は石光葆氏。終刊は84号で平成元年12月。1933年から1989年まで56年に渡って続いた。
古我菊治 こがきくじ。当時は無職。昭和25年から東京書籍。「日暦」の同人は渋川驍、荒木巍、高見順、新田潤、大谷藤子、石光葆、白川渥、甲田正夫、古我菊治。

 小坂たき子氏の次女、堀江朋子氏の本「夢前川」(図書新聞、2007年)では……

 昭和11年6月、上高田の家から牛込砂土原町2ー7へ引っ越した。牛込矢来町から新見附にぬけるバス通り(鰻坂)を少し入ったところの崖下にある薄暗い陰気な家たった。六畳に三畳、それに玄関、台所の付いた小さな家で、せまい前庭があった。裏表同じ間取りの二間長屋であった。「日暦」同人の古我菊治が編集所兼住まいとして使っていたところだった。古我菊治は同じ路地の二軒先の家に移り、上高田で隣に住んでいた古澤元真喜夫妻も近くに越してきた。武田麟太郎・留女夫妻は長男文章を連れて日本橋茅場町会館から砂土原町から道ひとつ隔てた麹町下二番町へ越して来ていた。多喜子は、買い物がてら、しばしば神楽坂を散歩した。女たちや神楽坂芸者を観察するのが、多喜子の楽しみのひとつ。
鰻坂 バス通り(牛込中央通り)と、上向きに曲がって現れる鰻坂は別々の通りです。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

古澤元 ふるさわげん。同人誌「人民文庫」の同人。「戦旗社」編集部員。昭和20年、軍兵に。22年5月、戦後、シベリアで栄養失調死。
真喜 まき。作家を志し、古澤元と結婚。昭和47年、脳血栓で寝たきり。昭和49年~52年、同人誌「星霜」に自伝小説「蒼き湖は彼方」を発表。10年後、死亡。昭和57年、夫婦の遺稿集「びしやもんだて夜話」
武田麟太郎 たけだりんたろう。小説家。東京帝国大学仏文科を卒業し、プロレタリア文学だったが、転向し『日本三文オペラ』などの「市井事もの」で有名に。死亡。生年は明治37年5月9日、没年は昭和21年3月31日。42歳、肝硬変で死亡
麹町下二番町 麹町区下二番町の起立は1872年(明治5年)、廃止は1938年(昭和13年)7月31日。

 川端要壽氏の「昭和文学の胎動 ー 同人雑誌『日暦』初期ノート」(福武書店、1991)では、同じ古我菊治氏の住所が出ています。

7年3月には砂土原町へと移った。牛込区砂土原町2ノ7番地である。
 市ヶ谷新見付から飯田橋に向かって濠端を行き、砂土原坂を左折し、牛込北町に向かって納戸町にいたる切石を放射状に敷きつめたゆるやかな坂道を、市ヶ谷駅から十二、三分ぐらい歩いていくと、左側の角に炭屋があり、その炭屋の裏側に古我の家はあった。
 その頃、この砂土原坂には市営の黄バスが通っていた。新橋駅から市ヶ谷駅前を通って、この砂土原坂を抜けて牛込北町、新潮社前から江戸川を下り、音羽から女子大横を通って目白駅に達する路線であった。
 半坪ほどの玄関を上がると、とっつきが三畳間、その左手に六畳と四畳半が続き、その六畳と四畳半を抱えるように小さな庭がついていて、三畳間の押入れの裏側が台所になっており、台所と六畳間と連なって、隣家がちょうど古我の家を裏返したようにくっついている二軒長屋であった。家賃は十五円だった。
砂土原坂 現在は「牛込中央通り」
切石 正方形や長方形に切り出した石を積んで作る
目白駅に達する路線 [橋68]は新橋駅前ー虎ノ門ー溜池ー赤坂見附ー四谷駅西口ー市ヶ谷駅ー矢来町ー江戸川橋ー護国寺前ー目白駅前の路線だった。
二軒長屋 3件の長屋のどれかでしょう。引っ越しは終わった後で、1方は小坂たき子氏、他方は古我菊治氏です。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

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