芸術倶楽部跡|横寺町

文学と神楽坂

芸術倶楽部跡横寺町2

 標柱を朝日坂を上に向かって(地図では南西方向ですが)行くと、飯塚酒場、さらに内野医院がそのあとにあり、さらに「ビニール工業所」とアパートを越えると、坂はほとんど終わっている場所ですが、この奥に芸術倶楽部があります。

 平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。正しくは、9-10番地を買って、一部を9番地に変えたのです。以下に述べました。

新宿区指定史跡

芸術げいじゅつ倶楽部くらぶあと島村しまむら抱月ほうげつしゅうえん
         所 在 地 新宿区横寺町9・10・11番地
         指定年月日 平成3年11月6日
 この地は、評論家・劇作家・演出家・小説家など、多彩な活動を行った島村抱月(1871~1918)が、女優松井須磨子とともに、近代演劇や文学・音楽・芙術の普及.発表、交流のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点「芸術倶楽部」の跡である.
 抱月は、幼名を瀧太郎といい、現在の島根県浜田市に生まれた。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学び、卒業後は母校の講師となり、イギリスやドイツに留学、帰国後は創作活動に入った。
 明治39年(1906)には、坪内つぼうち逍遙しょうようの文芸協会に参加し、西欧せいおう演劇えんげきの移植に努めたが、大正2年(1913)内紛ないふんから同協会を脱会し、芸術座を結成した。
 その拠点芸術倶楽部は、木造二階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 しかし、大正7年11月5日、スペイン風邪から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で急死した。享年47歳であった。傷心の須磨子は翌年1月5日、この倶楽部の道具部屋で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散となった。
 平成28年3月25日
新宿区教育委員会

スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)

島村抱月

島村抱月の終焉

これは旧史跡です。

文化財愛護シンボルマーク

史跡
(げい)(じゅつ)()()()(あと)(しま)(むら)(ほう)(げつ)終焉(しゅうえん)()
所在地 新宿区横寺町九・十・十一番地

 演出家島村抱月(1871~1918)が女優松井須磨子(1886~1919)とともに、近代劇の普及のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点芸術倶楽部の跡である。
 抱月は本名を滝太郎といい、島根県に生れ、東京専門学校(現早稲田大学)文学部を卒業した。その後同校講師となりイギリス・ドイツに留学、帰国後は評論家・演出家として活躍した。
 明治39年(1906)には、坪内逍遥の文芸協会に参加し、西欧演劇の移植に努めたが、大正2年内紛から同協会を脱会し、芸術座を組織した。その拠点芸術倶楽部は、木造2階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 抱月は大正7年11月15日、流行性感冒から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で死去した。享年は47歳であった。傷心の須磨子は翌8年1月5日この倶楽部で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散された。
  平成三年十一月
       東京都新宿区教育委員会

新宿区文化財
  旧跡 芸術倶楽部くらぶ
 島村抱月、松井須麿子らは坪内逍遙の文芸協会から離れて、大正2年7月新たに芸術座を結成して近代劇を広めた。とくにトルストイ―原作の「復活」は通俗的人気を集めた。
 芸術倶楽部はその根拠地で、建物は木造2階建、大正4年秋の建築である。所在地は横寺町9・10番地、この前あたりである。
 大正7年11月5日、抱月は流行性感冒から肺炎を併発し、倶楽部の1室で没した。47歳であった。傷心の須麿子は翌8年1月5日、倶楽部で抱月のあとを追った。34歳であった。これにより芸術座は解散した。
 なお抱月の墓は雑司ケ谷墓地、須麿子は弁天町100多聞院たもんいんにある。
   昭和53年3月
      東京都新宿区教育委員会

場所はどこ?

 では芸術倶楽部はどこにあったのでしょうか。ところが➀ 住所、➁ 方角についてまちまちです。
 住所は
▼「横寺町9番地」と書くもの
  ❍佐渡谷重信氏『抱月島村滝太郎論』明治書院 昭和55年
  ❍新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
  ❍新宿区横寺町校友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年)
▼「横寺町8・9・10番地」と書くもの
  ❍高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』
▼「横寺町9・10番地」と書くもの
  ❍昭和53年、新宿区文化財
▼「横寺町9・10・11番地」と書くもの
  ❍平成3年、新宿区指定史跡
  ❍籠谷典子『東京10000歩ウォーキング』真珠書院、平成18年
などがあがります。

 最古の「火災保険特殊地図」(都市製図社、昭和12年)では大正8年(1919年)に芸術倶楽部は改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図で、この図も「小林 9」、つまり小林アパートで9番地だと書いています。
 高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』は「芸術倶楽部の建坪は二階建て百八十余坪ある」と当時の「演劇画報」から引用しています。

 8、9、10、11番地の広さは198、199、178、180坪です。また東京区分職業土地便覧. 牛込区之部(大正4年)では、8番地の所有者は飯塚八重氏、9、10番地は株式会社東銀行、11番地は安田銀行でした。これから住所は横寺町9番地1筆か、あるいは9、10番地を合わせて2筆なのでしょう。「一般論では、199坪の土地に180坪を建てるのは困難で 、9、10番地にまたがっていた」と地元の人。そうなんでしょうね。芸術倶楽部や、そこに住んだ島村抱月・松井須磨子は当時の資料で「横寺町9」と書かれていますが、土地をまたいだ建物は一方の番地で呼ぶのが普通なので、その点では納得できます(下図)。
 ただし、新宿区のように、途中から11番地が加わり(昭和53年から平成3年)、公式文書になってしまうのは、あーあ……と思っています。
 つまり、芸術倶楽部は9、10番地の2筆を株式会社東銀行から買って、土地登録は(9、10番地を合わせて)9番地という1筆だけで、8番地と11番地は無関係だったと思います。

 次は芸術倶楽部の方角、つまり向きです。芸術倶楽部の向きは朝日坂の向きと平行(A)か直角(B)です。松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)200頁では長手方向が朝日坂に並行(A)としています。他はすべて長手方向は朝日坂から奥に向かって(B)伸びています。入り口は(B)の黒い四角以外はないでしょう。同様に『日本新劇史』以外の資料はかすべて、朝日坂から一歩奥に入ったところに建物があると記述しています。さらに高橋春人氏は当時の「演劇画報」に「将来、建物前の空地に増築、そこでバーを開く予定」と書いてあります。

芸術倶楽部の方角。新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)

昭和12年の地図

 昭和12年の地図の番地は、大正元年に比べて入り組んでいます。これは10番地(かその一部)がまず9番地(芸術倶楽部)になり、橙色は芸術倶楽部の想像図で約180坪(上図)、さらに分かれたり、一緒になったりした結果が現在の図(下図)になりました。

 以上をまとめると、芸術倶楽部は横寺町9+10の一部を東銀行から買って、全体を横寺町9として登録した。横寺町9も10も1部分は別の人の資産として残っている。例えば、横寺町9の1部は加藤商店として残ったはず。建物は(B)しかありえない。

 坪内祐三氏の「極私的東京名所案内増補版」にはこんな一文が載っています。

 古書展に行くと時おり、戦前に刊行された『世界演劇史』全六巻(平凡社)や『歌舞伎細見』(1926年・第一書房)といった本を目にすることがある。実は飯塚酒場は、それらの本の著者飯塚友一郎の生家だった。飯塚にはまた、斎藤昌三の書物展望社から出した『腰越帖』(昭和12年)という随筆集があって、そこに収められた「松井須磨子の臨終」という一文で彼は、こういう秘話を披露している。先にも書いたように飯塚の生家は芸術倶楽部に隣接していた。それは飯塚が東京帝大法学部に通っていたころ、松井須磨子が首つり自殺をした大正8年1月5日の未明のことだった。
私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段気にも止めず、又、ぐつすり寝込んで、少し寝坊して九時頃起きると、隣りの様子が何となくざわめいてゐる。そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞込んでくる。
「物置で椅子卓子を踏台にして首を縊つたのだとさ。」と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した」
 自殺を決意した須磨子は三通の遺書を(したた)めた。その内一通は坪内逍遥宛のものだった。須磨子の兄が牛込余丁町(よちょうまち)の坪内家へ持参すると、逍遙夫妻は熱海の別宅双柿舎(そうししゃ)に出掛けて不在で、代わりに養女のくに(鹿島清兵衛の二女)がその遺書を受け取った。のちに彼女は、不思議な運命のめぐり合わせで、飯塚友一郎の妻となる(この文章が『彷書月刊』に載った直後、何と飯塚くに——95歳——の回想集が中央公論社から刊行され、それを私が『週刊朝日』で書評したことが縁となって文庫化の際には解説を書かせていただいた)。

 また今和次郎氏の『新版 大東京案内』(ちくま学芸文庫、元は昭和四年の刊)では

 書き落してならないのは、神楽坂本通りからすこし離れこそすれ、こゝも昔ながらの山手風のさみしい横町の横寺町、第一銀行(現在のキムラヤ)について曲るとやがて東京でも安値で品質のよろしい公衆食堂。それから縄暖簾で隠れもない飯塚、その他にもう一軒。プロレタリアの華客が、夜昼ともにこの横町へ足を入れるのだ。独身の下級俸給生活者、労働者、貧しい学生の連中にとって、10銭の朝食、15銭の昼夕食は忘れ得ないもの。この横町には松井須磨子で有名な芸術座の跡、その芸術クラブの建物は大正博覧会の演芸館を移したもので、沢正なども須磨子と「闇の力」を演じて識者を唸らせたことも一昔半。その小屋で島村抱月が死するとすぐ須磨子が縊死したことも一場の夢。今はいかゞはしい(やみ)の女などが室借りをするといふアパートになった。変れば変る世の中。


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