投稿者「yamamogura」のアーカイブ

甲武鉄道の複線化(明治28年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 甲武鉄道(現・JR中央線)は明治26年(1893年)、新宿から都心に向けた「市街線」=新線の建設に乗り出しました。「甲武鉄道市街線紀要」(明29.10)によれば、建設は以下のように進みました

年表
明治26年3月新線敷設の本免状
7月着工
明治27年9月青山軍用停車(現・国立競技場付近)完成、
日清戦争の部隊が出征
10月新宿-牛込間を開業
本社・技術部を飯田町に移転
明治28年4月牛込-飯田町間を開業
5月複線敷設を願出
7月上記の許可、着工
12月複線開業

 つまり牛込駅開業から1年ちょっとで複線化します。あらかじめ計画しておいたから可能なスピードでした。

……新線開通の結果は、素望むなしからず(計画倒れではない)と言えども、単線のみなるを以て乗客の便利を満たすあたわざる(満たせない)を認め、当初の計画に基づき複線敷設の願書を提出し……(新字・新かなで適宜修正)

 なぜ最初から複線にしなかったのかは分かりません。東京市区改正委員会が外濠の土手の木を切らないよう注文をつけたことや、地元に一部反対運動があったことも関係しているかも知れません。複線化着工の直前に社債を発行しているので、資金面の問題だったとも考えられます。
 市街線は途中に4箇所のトンネルと多数の橋がありました。牛込橋は土堤の一部を切り崩して鉄橋をかけ、線路を下に通しました。新見附は土堤部分にトンネルを作りました。これらは当初から複線を想定していました。

 新見附の「四番町トンネル」の図面や事故時の写真を見ると複線とは思いにくいようです。なお四番町トンネルの建設は、新見附橋そのものを民間資金で建設していたのと同時期です。民間の代表者と甲武鉄道の間に、なんらかの連絡があったのでしょう。

 しかし当時の短い車両には十分でした(左下、甲武鉄道四谷トンネル)。今も現役のトンネルは単線に変更して使われています(右下)。

 甲武鉄道が国有化された中央線は、昭和4年ごろに複々線に転換する大工事をします。この時にトンネルや橋は大きく姿を変えます。それまでは小さな汽車や電車が外堀を行き来していました。

市ヶ谷見附付近の桜(花の東京 絵葉書)


小川一真出版部「東京風景」(明治44年)四谷見附より市ヶ谷方面を望む

飯田橋の五叉路[明治の市区改正](明治40年ごろ)

文学と神楽坂

地元の方からです

 五叉路の交差点は十字路に比べて交通信号が変則です。神楽坂周辺には五叉路が連続している区間があります。このふたつは明治の市区改正で作られた大久保通りが関係しています。
 西側にある筑土八幡町交差点については、筑土八幡神社前(写真)の記事で記述しています。

東京市区改正全図(明治23年)五叉路 赤の実線や破線が市区改正の道路計画

 ここでは東側の飯田橋交差点の成り立ちを見ます。
 明治22年、市区改正委員会は現在の大久保通りを第四等道路に指定します。神楽坂通りを通すと急坂になるので、北側にバイパスとして設ける計画でした。

第四等道路
 第三十五、牛込揚場町第二等線より津久戸前町に至り、左折して肴町・山伏町通り、原町等を経て、戸山学校に至るの路線。

 この市区改正設計は「道路事業がほとんど進まず、最低限の項目を選んで拾い上げた新設計案が作成されました」(東京の都市づくりのあゆみ 1章06 032頁左下、2019)

大久保通り 飯田橋付近 比較図 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査明治40年1月調査


 明治36年に改められた新設計でも、大久保通りは「第十四」と番号が変わり、同じ内容で残りました。
 注目すべきは起点が「揚場町」であることです。同時期に第四等道路に指定された現在の目白通りは

第四等道路
 第五、飯田橋外より江戸川に沿い、江戸川橋際に至るの路線。

と「飯田橋外」と書いてあります。確かに道路計画図では、大久保通りは飯田橋交差点と少しずれて描かれています。
 しかし実際の大久保通りは揚場町より北側、下宮比町が起点となりました。新しい道は明治40年までに開通し、この工事に伴うと見られる移転などが相次いでいます。

出来事
明治36年市区改正新設計決まる
二条基弘公爵邸(津久戸前町16)(→牛込若松町に転居)
明治37年二条邸跡に津久戸小学校開校
明治40年宮比神社が筑土八幡宮境内に遷座
行元寺が西五反田に移転
明治43年牛込区議会、飯田橋-新宿車庫間の路面電車の促成の意見書
大正元年飯田橋-牛込柳町方面の市電開業

 なぜ起点を下宮比町に変更したのか。ネット公開している市区改正委員会の議事録の範囲では理由は分かりません。おそらく急速に市民権を得ていた市電の敷設が関係していたのでしょう。

携帯番地入東京區分地圖(明治42.11)21コマ 飯田橋付近 破線は市電の計画線。大久保通りは不正確

東京五案 内(大正3)13コマ 飯田橋付近 市電は延伸途中。中央線飯田町駅との乗り換え拠点に

 飯田橋は5方面から市電が集まる結節点となり、複雑に軌道が敷かれていました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録のうち明治33年までを国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

神楽河岸の踏切計画[明治の市区改正](明治25年)

文学と神楽坂

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 甲武鉄道(現在のJR中央線)は明治22年(1889年)に内藤新宿駅と立川駅との間で開業。次いで都心に延伸する「市街線」を計画します。紆余曲折の末に路線案を図面にし、内務大臣から市区改正委員会に意見を求めたのは明治25年でした。
 委員会はこれに4つの条件をつけて同意します。甲武鉄道側の記録をもとに列挙すると次のようなものです。

1)市区改正道路に支障あるものは(改修の)費用の会社負担を確約する。
2)牛込見附付近の線路を市と協議して変更する。
3)四谷-市ヶ谷間(のカーブ部分)をトンネルに変更する。
4)樹木はなるべく伐採しない。
甲武鉄道市街線紀要(明治29年10月)を意訳

 市街線は、外濠の土塁を削って線路を敷設します。委員会では

明治25年(1888年)10月19日開催 第85号会議
19番委員 四谷-牛込間の眺望、実に無類の風致を有し、全市の美観を添えるものなれば、工事においても十分な注意を。
(新字・新かなで適宜省略)

などの議論が盛り上がりました。具体的には3)のカーブ部分は直線より土手を大きく削ってしまうので、トンネルにしろと注文をつけたわけです。このトンネルは現在はありません。

 もう1点の2)は、現在の神楽河岸に踏切を計画していたことを問題視しました。

19番委員 五等道路を斜めに踏切り不都合。後来、大なる差しつかえを生ずべし。
11番委員 道路を少し濠の方へ寄せ、軌道を土手の方へ寄せなば衝突を免れん。
19番委員 桝形へ(線路を)寄せなば石垣の地盤に変動を生ずる恐れあり。このへんは協議を要す。
(新字・新かなで適宜省略)

議事録掲載の図面を加工

 さらに道路を変更する費用負担や、どの程度の樹木を守るかについても議論が紛糾し、委員会が4条件をまとめたのは次の第86号会議でした。甲武鉄道側は条件をすべて受け入れ、翌明治26年3月にようやく鉄道延伸の免許を取得します。牛込駅まで開業したのは明治27年10月でした。

 甲武鉄道は開業を記念し「線路に数百株の桜樹を植え付け」て、風致に配慮します。これが外濠の土手の名物になりました。
 神楽河岸の踏切はどうなったのでしょう。協議の結果は議事録に見えませんが、明治28年7月調査の地図によれば、線路と道路は交わっていないようです。

 もっとも、この道路は行き止まりなので、ほとんど利用されなかったと思われます。昭和になって飯田濠が再開発されるまでは、燃料会社の寮や倉庫などの目立たない建物ばかりでした。(ID 493

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

神楽坂通りの迂回[明治の市区改正](明治21年)

文学と神楽坂

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 早稲田通りは、千代田区九段北の田安門交差点から神楽坂や高田馬場を通り、杉並区上井草までの道路の通称です。神楽坂上交差点を境に東側(都心側)は千代田区と新宿区の区道、西が都道になっています。この原点となったと思われる決定が、明治政府の市区改正委員会の議事録にあります。
 市区改正は東京市内の道路を区間ごとに第一等~第五等と指定し、道幅を広げる計画でした。現在の内堀通りや中央通りは第一等、外濠通りは場所によって第一等または第二等です。明治21年10月、原案は次のようになっていました。

・第二等道路(幅12間=21.6m)
・第三等道路(幅10間=18m)

東京市区改正全図。明治23年3月

 神楽坂通りは第三等道路に指定され、拡幅される予定でした。この原案に異議がありました。

明治21年(1888年)10月12日開催
1番委員 この路線は飯田橋より少しく西により筑土通りの道をとる方が平坦にして実施上も便宜ならん。
24番委員 説のごとく成すときは迂回するならん。(遠回りではないか)
1番委員 いや、かえって迂回を避けうべし。
25番委員 説は至極と考える。もし路線を変更するも8間道(14.4m)にて十分。
1番、2番委員 賛成す。
(新字・新かなで適宜省略)

 賛成多数で、神楽坂通りは第四等道路に格下げになりました。しかし、次の会議でさらに修正されたのです。

明治21年(1888年)10月15日開催
1番委員 実況を調べし。神楽坂通りを肴町まで取り広げるは、はなはだしき坂路のみならず、牛込の繁盛を幾分か傷つくるきらいなしとせぬ。これを少しく北に移し、飯田橋の外の下宮比町と揚場町との間を過ぎ、筑土前町および肴町を貫き、岩戸町の四等線(第四等道路)に接続せば、急坂を避け、(道路の)改良の効果を奏すべし。路線を修正されたし。
(新字・新かなで適宜省略)

 神楽坂は急なので工事が大変だし、商店を立ち退かせるのは損だ。坂を迂回し、北側に新しい道を作ればいい-という意見です。委員会は全会一致で原案の変更を決定し、神楽坂通りは第四等道路からも外れました。
 迂回を提案した1番委員は桜井勉といい、内務省地理局長でした。全国に気象観測網を整備したことから「日本の天気予報の創始者」ともされています。

 神楽坂の迂回路となったのが、現在の飯田橋-筑八幡町-神楽坂上を結ぶ大久保通りです。地図を見ると、この区間は家を立ち退かせて道を作ったようです。

 牛込区史(昭和5年)によれば、神楽坂通りは

・第五等道路(幅6間=10.8m)
第八十二 牛込門外より神楽坂通り矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

に指定されました。ところが、この計画は明治36年の市区改正の修正で

・第五等道路
第六 牛込肴町より矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

へと短縮され、通りの神楽坂1-5丁目は東京市の管理を外れます。

神楽坂上~坂下路幅
明治21年10月(原案)市区改正・第三等道路18m
10月12日市区改正・第四等道路に格下げ14.4m
10月15日市区改正・第四等道路から格下げ
明治22年5月市区改正・五等道路10.8m
明治36年3月市区改正の対象外

 その頃には神楽坂の商店街を拡幅するのは難しくなっていいたのでしょう。神楽坂1-5丁目が都道になっていないのは、この時の決定の影響と考えられます。
 また現在の道幅は約12mですが、これは明治期から変わっていないと言われます。神楽坂が急坂だったために都市計画から外れ、古い風情が残ったというのは、とても興味深いことです。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

新見附の前史[明治の市区改正](明治21年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 市区改正委員会の初期、東京の道路計画の立案時に以下の議論がありました。

明治21年(1888年)10月15日開催 第7号会議
19番委員 (靖国神社裏の路線に)一項を加えたし。外濠に新たな橋を架し、この路線を新設せば、すこぶる便宜なるべし。
2番委員 しからば新架橋を要するや。
19番委員 しかり。市ヶ谷門と牛込門との間は8丁ほどにして、その間に橋梁なく、かつ(千代田区側の)番町あたりは道路少なき。1カ所くらいは新架橋を設けて可なり。
(新字・新かなで適宜省略)
※8丁(約870m、実際の牛込橋-市ヶ谷橋間は約1km)

関東平野迅速測図。1896(明治19)年 外濠付近

 提案した19番委員は銀林綱男という明治政府の官僚です。意欲的な人だったらしく、他の道路でも積極的に追加や改変を意見しています。後に官選第6代埼玉県知事、東京商品取引所(東京米穀取引所と合併し戦時統制で解散)初代理事長などを務めました。

明治27年(1894)10月 東京商品取引所設立、初代理事長銀林綱男。上場商品(塩、雑穀、肥料、砂糖、油、金属、木綿、棉花、綿糸)の直取引、延取引、定期取引を為すもの

 曾孫に政治家の片山さつき氏がいます。

片山(さつき)大臣……取引所につきましては、私は大変感慨深いものがございまして、東京商品取引所というのが明治時代に最初に日本にできたときの初代の理事長が私の曾祖父の銀林綱男でございまして…

 さて、もとに戻って……銀林委員の架橋提案は賛成を得られませんでした。

25番委員 新架橋を要すれば私は不同意なり。
委員長  19番の説には賛成者なきをもって消滅に属す。

 明治26年、この構想は民間資金で市区改正委員会の許可を得て実現し、後に新見附と呼ばれるようになります。銀林はすでに委員を外れていました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

筑土八幡神社(写真)参道 昭和44年頃 ID 8261, 8289, 14155

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8261、ID 8289、ID 14155は筑土八幡神社の参道です。撮影時期は昭和44年頃(ID 14155は「昭和44年頃か」)です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8261 筑土八幡神社 石段

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8289 筑土八幡神社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14155 筑土八幡神社 扁額

 石段脇に「筑土八幡神社」の石標。角を鋼材で保護し、衝突防止のための石柵で囲っています。
 7段ほど上ったところに一の鳥居。石柱(注連しめばしら)に横木を渡しただけの簡素なものです。「納」の彫り込みがあり、右の柱は「奉」でしょう。
 鳥居の手前の石灯籠には「奉納 筑土自治会 新小川町」。さらに石段を上ると、途中に二の鳥居となる石鳥居があります。石鳥居には扁額へんがく「筑土八幡神社」がかかっています。
 鳥居や石灯籠は、新撰東京名所図会第41編 牛込区の部 上(明治37年)の挿画や、東京市編纂「東京案内」(明治40年)の写真とほぼ同じです。石の社名標はそれ以降に作られたものでしょう。
 一方、明治期と異なるのは参道右側のガケです。明治期は二の鳥居までだった石垣が、ID 8261とID 8289では一の鳥居の近くまで張り出し、新たな石垣が高く組まれています。この石垣の上は昭和41年に新宿区が「こどもの遊び場」(ID 7451)を開設しました。
 終戦直後の写真を見ると、空襲で焼かれた中でふたつの鳥居と石灯籠、石標は焼け残っています。

 戦後しばらくは、そのまま使っていたでしょう。ID 8261とID 8289の石灯籠は、大正期の写真と細部で違い白っぽいので、少し前に新しくされたのかも知れません。

東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯 69コマ これは築土神社。筑土八幡神社は右の石灯籠が見える

 石標は焼けてもろくなったので保護していたと考えられます。現在は、石標や一の鳥居の石柱も新しいものに置き換えられています。
 ID 8289の左半分は戦前まで築土神社が並んで鎮座していました。この写真(D 8289)当時は、地図によれば合気道の道場でした。後にカトリックの修道院「みことばの家」になります。(ID 7428
 戦前の築土神社(左)は筑土八幡(右)と並んで社殿がありました。動座後に神社の後を掘り下げて、ID 8289の左側の建物が建ったと思われます。

湯島写真場「江戸の今昔」昭和7年。

 

筑土八幡神社(写真)境内 昭和44年 ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8297, 8290, 14156, 14157

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8290, 14156, 14157は筑土八幡神社境内の写真です。撮影は昭和44年ごろ。
 1枚ずつ見ていきます。最初はID 8255です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 筑土八幡神社

 左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥の囲いは純米大吟醸「白鷹」の積み樽です。白鷹は灘の蔵元の清酒ですが、明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛に見出され、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 左奥に駐車車両2台。表参道は石の階段ですが、左手の裏参道では車が通行可能です。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。玉垣の内に狛犬が一対。拝殿は昭和20年の戦災で焼失し、しかし、昭和38年、氏子の浄財で再建されました。また神前幕しんぜんまくで前を覆われています。
 右には筑土会館。会合のための施設です。手前に自動車があり、その前に注連しめなわをかけた銀杏の樹。銀杏の根本には百度参りをする時に標識する百度石ひゃくどいし
 右端は手水ちょうずばち。現在は手水が建っていますが、この時はなかったようです。
 一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。

 続いてID 8258です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8258 筑土八幡神社

 左手前から拝殿と筑土会館を狙っています。拡大すると玉垣に書かれた寄進者もよく読めます。寄進額の多い角柱は「氏子総代 牧田甚ー」「崇敬会会長 升本喜兵衛」。その他の太い柱は「筑土自治会」「新小川町自治会」「飯田橋自治会」と読めます。
 左右の柱に竹を1本ずつくくりつけてあるのは門松の一種でしょう。
 田口氏「歩いて見ました東京の街」 05-00-10-2 筑土八幡社殿の遠景 (1968-07-13)では、この玉垣はありません。撮影はそれ以降で、おそらく昭和44年(1969年)1月でしょう。

筑土八幡社殿遠景 1968-07-13 歩いて見ました東京の街

 次のID 8259は、玉垣のすぐ手前から右側の狛犬(阿形)をアップで撮影しています。

新宿歴史博物善え館「データベース 写真で見る新宿」ID 8259 筑土八幡神社 狛犬(阿形)

 狛犬は1810(文化7)年に奉納されました。台石には「津久戸」と「奉」が刻まれています。写真には見えませんが、対になる左側の吽形の台石は「津久戸」と「納」です。門柱では「崇敬会々長 升本喜兵衛」。「崇敬すうけい」とは神仏や立派な人などをあがめること。

 ID 8260ではやや引いて、参道から境内の右側を見ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8260 筑土八幡神社 境内

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まい。銀杏の木の向こう、白い雨戸が閉じているのが神楽を奏する神楽かぐら殿でん。神楽殿の手前は境内社の宮比みやび神社と鳥居。銀杏の根元の百度石と庚申塔。庚申塔は現在は銀杏に向かって右側に移されました。屋根のない手水鉢ちょうずばちには白銀町と掘ってあります。一番右は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。

 ID 8297はID 8260の左側に寄った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8297 筑土八幡神社 庚申塔(側面)

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まいで、御守りの言葉「一陽来復/〇〇〇」が見える。その右に伝言板。竹2本と切った木々と葉。黒い壁と民家があり、白い壁の神楽殿。庚申塔と鳥居があり、その前に注連縄がある御神木と、葉がない木々。

 次はID 14156とID 14157です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14156 筑土八幡神社 御供水

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14157築土八幡神社 御供水鉢 寄進者名陰刻(一部)

 手水舎の裏に御供水が見えます。「ごくうすい」「おこうすい」と読むようです。御供水とは神仏に供える水のこと。八角形の石とフタからできていて、新宿文化観光資源案内サイトでは天保5年(1834)8月に奉納されたのこと。
 ID 14157の陰刻とは文字や模様をくぼませた彫り方。ID 14157の真ん中に「川喜田新右ェ門」という陰刻があります。また文政10年(1827年)に提出した「牛込町方書上」では神楽坂5丁目と6丁目の間に川喜田屋横丁があって「川喜田屋久右ェ門」がそこに住んでいたといいます。この2件は7年しか離れていないし、2人はなにか関係があれば面白いと思います。また、ほかの氏名でも「〇〇屋」が多く、奉納する人は商人が多かったことがわかります。

筑土八幡神社 御供水 Google

筑土八幡神社 御供水

 最後はID 8290です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8290 筑土八幡神社境内 田村虎蔵顕彰碑

 参道の石段を登り切ると、最初に左側にこの「田村虎藏先生をたたえる碑」があります。昭和40年12月に設置したものです。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があります。顕彰けんしょうとは「隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰すること」。碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」。視学しがくとは、旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たること。

筑土八幡神社(写真)庚申塔 昭和44年 ID 8256, 8257, 8291, 8296

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256、8257、8291、8296は筑土八幡神社の庚申塔こうしんとうと周辺の写真です。昭和44年ごろとしていますが、陽差しの違いなどからすべてが同日の撮影ではないと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256 筑土八幡神社 庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8257 筑土八幡神社 庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8291 筑土八幡神社庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8296 筑土八幡神社庚申塔

 庚申信仰については、目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は……

 庚申こうしん信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申かのえさるの日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった

 庚申塔は新宿区の区指定有形民俗文化財であり、区は……

 寛文四年(1664)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186センチ、黒褐色安山岩。最上部に日月、中央部に雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がって実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。牡猿の左手首及び牝猿の顔面の破損は昭和20年の戦災によるといわれている。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、貴重である

 石造いしぞう鳥居の左側に庚申塔の説明板があります。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財

庚申塔こうしんとう  この石段を上った右側にあります。
         指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(一六六四)に奉納された舟型ふながた光背型こうはいがた)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月にちげつ、中央部には一対の雌雄しゆうの猿と桃の木を配する。右側のおす猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側のめす猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
   平成九年五月
新宿区教育委員会

 下に男女名10人が刻まれていて、さらにその下には水鉢みずばちがあり、その両脇に花立用の穴があります。
 右に注連しめなわをかけた御神木のイチョウ。このイチョウについては……

イチョウの葉は水分を多く含む。落葉した黄葉でさえ、落葉焚きができないほどだ。かつての建造物が、木と紙の本体に、檜皮や萱など燃えやすい屋根材で出来ていたことを考えれば、背が高く元気の良いイチョウが火災による輻射熱を遮り、火の粉を含んだ風も遮り、防火壁の役目を果たした。

 ID 8257では右端に百度ひゃくどいし。これは百度参りをする時に標識する石のこと。
 左後にある境内社の宮比みやび神社。鳥居をくぐると、上には見えていない本坪鈴ほんつぼすずと、そこから垂れた紐。境内にある説明板では……

 宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめの みこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治40年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和37年に再建したものである。こちらは宮殿の平安を守る女神である、大宮おおみやの売命めのみことをお祀りしています。

善国寺(写真)大正12年

文学と神楽坂

 大正12年、東京市公園課は「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」を出版し、その74は肴町の善国寺を撮った写真です。写真帖の発行日は5月1日で、同年9月の関東大震災の直前でした。

毘舍門天

 1頁前の説明文は「日蓮宗池上本門寺である。文禄麴町に創建し、寛政年間此地に移る。僧日惺の開祖で日蓮宗録所である。本尊毘門天の縁日寅の日には賽者熱閙繁昌を極めて居る」

 末寺。本山(本寺)の支配下にある寺院。江戸幕府は、本山・末寺関係を制度化して、寺院支配を行った。
文禄 1592年から1596年まで
麴町 東京都千代田区西部の地名。皇居の半蔵門から西にのびる新宿通り(甲州街道)をはさんで東西に広がる。
寛政 1789年から1801年まで
日惺 にっせい。安土桃山時代の日蓮宗の僧。
録所 そうろく。一般に寺院を統轄し、人事をつかさどる僧職名
 しゃ。梵語の音写。舎利とは仏陀の遺骨のこと
賽者 さいじん。神社仏閣に参詣する人。
熱閙 ねっとう。ねっどう。人がこみあって騒がしいこと。

 ほぼ同じ画角の牛込区史(昭和5年)掲載の写真と比べながら詳しく見ます。
 境内を囲む石囲いには1本ずつ寄進者の名が刻まれています。左右の門柱にはアーチ状に樹木を透かし彫りにした飾りがあります。中央の灯籠型の門灯は「◯門」か「◯川」と読めます。アーチは牛込区史にも見えますが、戦災で失われたようです。門柱と石囲いは戦後の昭和46年、再建まで使われました(ID 8299)。
 門柱の前には一対の屋根付き提灯。右は「大毘沙門天」、左は同じものが横を向いていて「(奉)納」。この提灯は石囲いの中に立つ柱で支えており、「牛込区史」にもあるので常設のもの思われます。
 境内に入りましょう。5列の石畳が本堂に通じ、その両側に背の高い灯籠が4灯ずつ。左右対称ではなく互い違いに配置されています。灯籠の下に碍子がいしらしきものがあるので電球だったでしょう。この灯りは牛込区史では中央一列の傘型照明に変わっています。
 正面の賽銭箱の左右の隅には「牛込」と小さく切り文字がありますが、中央の大きな字は判読できません。上から本坪鈴ほんつぼすずが垂れています。本堂は入母屋屋根で、破風が正面を向いています。
 手前の石畳の左右にも別の建物があり、本堂の右にも大きな屋根が見えます。木は裸になっているものもあり、この写真は冬か初春でしょう。

「新見附」はいつから?

文学と神楽坂

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 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は「江戸城三十六見附」にはなく、民間資本で作られた新しい橋です。明治26年(1893年)の新設許可は単に「新道」でした。
 この橋はいつ完成し、いつごろから「新見附」と呼ばれるようになったのでしょう。
 明治28年7月調査の地図には橋が描かれており、2年足らずで完成したと思われます。しかし牛込門や市ヶ谷門と違い、名前は書いてありません。

東亰市麹町區全圖 新見附付近 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088845/5

 明治31年11月の新撰東京名所図会第17編 麹町区の部・中には「新開道」として出てきます。「名づく」とあるので、これが名前だったとも思われます。

新開道 靖国神社南側の通りを一直線に進み、市ヶ谷に至るの間。堤丘を開窄(開削)し、壕水を埋没し、もって道路とせるところを名づく。(新字・新かなに変更)

 また明治32年6月の新撰東京名所図会第19編では、絵図に描かれているにもかかわらず何も書かれていません。一口坂についても記事がありません。

 明治30年代の地図には新見附自体が描かれていないものが多く、「地元民しか知らない橋」であったようです。
 一転して明治39年8月の新撰東京名所図会第四十三編 牛込区の部・下では地図に「新見附」が明記されます。

 これ以降、他の地図でも新見附が見られるようになります。何が変わったのでしょうか。
 それは路面電車の開業です。東京電気鉄道の外濠線(後の都電3系統)が延伸され、橋のたもとに新見附停留所ができたのは明治38年8月でした。

 新撰東京名所図会の市谷田町の説明にも

電車外濠線往復し、新見附停留所あり。商家軒を連ねたり

と出てきます。
 すでに地元で新見附と呼ばれていたのか、外濠線が新しい名を考えたのかは分かりません。ただ停留所名は公文書にも記載されるため、新見附の名が定着したと思われます。

 新見附の大半は土堤でできた土橋です。大正9年9月30日の暴風雨で崩壊し、橋の下を通っていた中央線の電車(現・JR)が壕側にずり落ちる大事故がありました。崩れた部分から、土中の水道管や電線が見えます。現在は鉄道の上は鉄橋で、昭和4年(1929)7月にかけられました。

一口坂を下りきった新見附交差点から、新宿区市谷田町に向かって、JR中央・総武線を越え、外濠の水を横切っている橋です。明治中頃、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて橋が造られ、旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られました。その結果、外濠は二つに仕切られ、下流の牛込橋寄りは牛込濠、上流の市ヶ谷橋寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。現在の橋は昭和4年(1929)7月6日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋です。
千代田区観光協会

 この説明に従えば、千代田区側の橋のたもとが「新見附交差点」です。ただ外濠通りの信号(新宿区)の交差点名表示も「新見附」とあります。
 牛込見附や市ヶ谷見附の橋が「牛込橋」「市ヶ谷橋」であるのに対し、新見附は「新見附橋」と「見附」が橋の名になっています。

外濠通り「新見附」Google

注:国や東京都、他の道路地図では、外濠通りの交差点を「新見附」交差点と呼びます。また橋は「新見附橋」と呼び、普通「新見附」とは呼びません。

新見附の新設[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂

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 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は、明治期の新しい橋(土橋)から生まれた地名です。旧江戸城の三十六見附ではないため知名度が低く、資料も少ないようです。見附といっても門も桝形もないので、橋全体が「新見附」と呼ばれることもあります。
 東京市区改正委員会が「麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路ノ自費開設願」を審議したのは、明治26年(1893年)9月22日開催の第百号会議でした。

東京市区改正委員会議事録 第6巻81コマ 新見附開設 麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路新設之図

 市区改正は重要度順に、第1等から第5等に分けて道路建設を計画していました。その計画にない「等外」道路を、民間が自費で建設するプランです。「新見附」という名もありません。
 当時の東京府知事は、以下の内容を文書で市区改正委員会に意見を求めました

 新道開設の儀につき、福永儀八ほか22名の者より出願あり。
 麹町牛込両区を貫通する中央枢要の路線にして、将来一般の便益少なからず。かつ新道に要する土積は、目下、牛込門外壕内浚渫等の土、その他不用土を生ずべき見込みもあり。
 この不用土をもって漸次、築設することに致せば、幸いに多額の工費を要せず。工費2,486円余をもって竣工し得べきことに相成り。
 工費は願人その他有志者より悉皆寄付致すべき旨、申し出あり。建物の移転料を要せずして開設し得べき。等外道路幅員4間(7.2m)として開設可と致し候。ご意見承知したく。
新字・新カナで適宜省略

 出願者の代表である福永儀八は、市谷田町で呉服商「あまざけや」を営んでいました。橋の必要は切実だったでしょう。

 新見附橋の大部分を占める土堤が不用土処分場を兼ねていたというのも興味深いでしょう。「牛込門外壕内浚渫」とは、おそらく飯田壕の揚場の舟運のためでしょう。神楽河岸に土砂や石など建築廃材の集積場があったことも、新道の開設工事を容易にしたと思います。
 この提案に対し、委員会では次のように議論されました。

7番委員 牛込市ヶ谷間はずいぶん長きところなれば、道路の新設は誠に賛成なり。
企望(希望)は、俗に一口坂とか言うすこぶる急な坂あるが、この坂を改正(改修)せば便利を増す。この際、ともに坂路を改正せられなば大なる便宜ならんと信ず。
21番委員 本案は最初、牛込区において大いに尽力せられ、麹町区にも内談ありし。
麹町区においても等外道路として取り広げ、馬車等をも通せしむる様したいと、寄付金を募りすでに出願せんとす。その節には可決せられんことを。
新字・新カナで適宜省略

 新道の先、現在の千代田区側は都市計画道路にはないけれど、寄付金で坂をなだらかにする工事ができそうだから許可しよう-ということです。古い地図を見ると、確かに一口坂には大きなガケがあります。

明治東京全図 明治9年(1876)一口坂付近 緑斜線がガケ

 出席者に異議はなく、東京府の決定を「是認」しました。この道路の新設により、外濠は牛込壕と新見附壕に分けられました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

あまざけやと福永儀八氏 市谷田町

文学と神楽坂

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 大正期まで市谷田町にあった呉服商「あまざけや」は、福永儀八氏の経営でした。福永氏は明治時代に、外濠の新見附を民間資金で新設した時の代表者です。

 あまざけやは江戸期から続く老舗で、紳士録や名鑑などに見られます。古典落語にも登場します。「落語の中の言葉」では……

落語の中の言葉138「あまざけ屋」
 実在の「あまざけ屋」は呉服屋で、品揃えが豊富で普通の店では置いていない御殿向の物まで揃えていたという。
「市ヶ谷のあまざけ屋は、御殿向のものが一切揃えてありましたが、あまざけ屋は御用達ではありませんでした。」(三田村鳶魚「御殿女中」春陽堂、昭和5年)
「四谷市ヶ谷にあった呉服の老舗「あまざけ屋」は、店頭に大釜をかけておき、入って来るお客に甘酒を進呈していたことで人気があった。この店の屋号は福永屋であったが、誰もほんとうの屋号を呼ばず「あまざけ屋」で通っていた。(増田太次郎『引札絵ビラ風俗史』青蛙房 1981)」

 新撰東京名所図会第43編「牛込区の部」下(東陽堂、明治39年8月)33頁に伝説めいた記事があります。

●あまざけ屋
市谷田陶二丁目十四番地、呉服商、福永商店、屋号あまぎけや電話番町一二五。山手の老舗なり、或人云、往時田町の堀端に甘酒売を渡世とする老爺あり、人あり之を憐み、奚すれぞ百年の計を爲さざると、爺、口を開いて笑つて曰く、説くことを止めよ、卿に一女あり、才色優れたりと、幸に愚老に許すあらば請ふ謹んで其誨を聞かむと、其人家に帰り、之を女に謀るに、女頗る喜色あり、即ち之を嫁す、爺少婦を得て同棲し、田町下二丁目に呉服店を開く、日ならずして店頭繁栄し、遂に老舗となれり、是に於てか甘洒屋を屋号とするとぞ。

 この牛込区の部・下には「市谷田町2丁目通り」の写真があります。この並びにあまざけやがあったと思います。

 福永氏は、渋沢栄一会頭時代の東京商業会議所(現・商工会議所)の会員選挙に当選し、委員を務めました。人望もあったでしょう。

 一方、あまざけやは明治28年に伊勢丹に買収されましたが、大正期まで事業を続けました。

 その後、あまざけやにあった「朝日弁財天」は伊勢丹の新宿本店に移され、屋上に祀られているそうです。

屋上の朝日弁財天。(photo: Pochi)
http://pochipress.blog20.fc2.com/blog-entry-82.html

朝日弁財天の由来

旧東京厚生年金病院(写真)昭和44年頃 ID 14154

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14154は、筑土八幡神社の石造鳥居の陰から津久戸町の旧東京厚生年金病院(現在はJCHO 東京新宿メディカルセンター)を撮った写真です。撮影時期は「昭和44年頃か」と不正確です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14154 遠方に津久戸町旧東京厚生年金病院

 鳥居は石段の参道の途中にあり、区内最古として新宿区登録有形文化財に指定されています。

住宅地図。1973年

 鳥居の額束に(見えないが)「筑土八幡神社」が刻印されていて、柱の銘にはコントラストを変えると奉納者は「享保十一丙午歳十一月十五日 従四位下行(豊)前守◯治真人」 と読めます。写真は古い鳥居と現代的な病院建築の対比を狙ったのかも知れません。鳥居のすぐ向こうの金網は、区が昭和41年9月16日に開設した「こどもの遊び場」(ID 7451)を囲むものです。
 東京厚生年金病院の旧本館は、武道館や京都タワーを手がけた建築家の山田守氏の代表作のひとつで、昭和28年(1953年)の芸術選奨で文部大臣賞を受賞しました。
「Y字型のみるからに明るいモダンな病院」(石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」修道社、昭和36年)と評されました。屋上の丸い建物は展望室で、その下はらせんのスロープになっています。

東京厚生年金病院 建替説明図。東京厚生年金病院からJCHO東京新宿メディカルセンターに

http://onlyjustfadeaway.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f165.html

 沿革を見ると

時期内容病床数
昭和27年10月病院開設
昭和27年11月整形外科 外科 内科 診療開始66床
昭和28年10月南棟4階58床増設124床
昭和28年10月西棟3、4、5階改造319床
昭和32年9月別館増築290床増床普通510床 伝染6床
昭和33年4月高等看護学院開院
昭和40年10月別館神経科病棟16床増床。伝染6床廃止526床

建替説明図。東京厚生年金病院からJCHO東京新宿メディカルセンターに 赤字の説明は引用元にはない
http://onlyjustfadeaway.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f165.html

 その後、この旧館はY字の一辺ごとに解体・建て直しする難工事によって建て替えられました。沿革に基づけば13年間を要しました。

時期内容病棟
昭和62年6月南棟解体
平成元年10月A棟竣工(本館)地下4階地上8階
平成2年3月西棟解体
平成5年10月
B棟竣工(本館)地下4階地上8階
平成10年1月東棟解体
平成12年3月外来棟竣工地下4階地上1階

 新本館も設計は山田守建築事務所で、屋上に丸い展望室があります。

筑土八幡神社(写真)昭和44年 ID 8255-8256

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255-8256は筑土八幡神社の写真です。撮影時期は「昭和44年頃か」(1969年頃)と不正確です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 築土八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256 築土八幡神社 庚申塔

 ID 8255について、左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥には見えないが純米大吟醸「白鷹」の積み樽。明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛は倉庫に白鷹を発見し、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 境内に駐車車両。筑土八幡の表参道は石の階段。しかし、正面左手の裏参道では車は通行可。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。拝殿は昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和38年、氏子の浄財で再建。拝殿前には1810(文化7)年に奉納された狛犬2匹。左は口を閉じた吽形うんぎょう、右は口を開いた阿形あぎょうの狛犬。
 右には社務所。その前に見えませんが、神楽を奏する神楽かぐら殿でん。これも見えない宮比神社。注連しめなわをかけた銀杏が見え、前にある百度ひゃくどいしは百度参りをする時に標識する石。またも見えない庚申塔こうしんとう。右で見切れている手水舎ちょうずやの一部。一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。
 ID 8256は庚申塔こうしんとう。目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は、「庚申こうしん信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申かのえさるの日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった」。この庚申塔では、猿1匹は桃の実を取り、別の1匹は手に持っており、下に男女名10人が刻まれていました。

筑土八幡神社前(写真)昭和41~昭和45年 ID 7161, 7428, 8253-8254, 8288

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7161、ID 7428、ID 8253-8254、ID 8288は筑土八幡神社前の写真です。ID 7161とID 8288とは全く同一の写真でしたので、以下はID 7161しか使いません。撮影時期はID 7161とID 8288が昭和40年代前半、ID 8253-8254は「昭和44年頃か」(1969年頃)と不正確で、ID 7428は昭和45年3月26日で、写真解説は「昭和40年代は、明治以来庶民の足であった都電が次々に廃止された時代にあたる。写真は、3月末の廃止目前に、筑土八幡町を走る都電13系統(新宿駅―岩本町)の様子」でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7161 筑土八幡町 昭和40年代前半

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8288 筑土八幡神社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7428

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8253 築土八幡神社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8254 築土八幡神社前

 どの写真も左右の道は大久保通りで、都電のレールが敷かれています。横断歩道と信号から右は「筑土八幡町」交差点です。電柱の「筑土八幡町」は路面電車の停留所を示します。信号機にはゼブラ柄の背面板がある一方、横断歩道にはゼブラ塗装をしていません。この場所には、よく似た複数の写真があるので比較します。

 大久保通りのこの区間は、地下鉄東西線建設のため掘り返され(ID 6998)ました。東西線が昭和39年12月に開業後、開削工法の路面は埋め戻され、都電のレール回りも綺麗にアスファルト舗装されています。それ以前は石敷きでした。
 それ以外の細かな違いを見ていきます。一番、新しいのはID 7428です。目立っているのは、右の丘の上のコンクリートの建物に「みことばの家」の看板が出たことです。ここはカトリックの御受難修道会の東京修道院として2017年頃まで使われました。

みことばの家 門柱

 ID 7161は、左の信号機の柱の看板が傷ついて読みにくくなっています。ID 8253-8254はきれいな状態なので、ID 8253-8254の方が古い写真だと分かります。
 また筑土八幡神社の参道脇(階段の途中の石鳥居の右側)に、区が昭和41年9月16日に開設した「こどもの遊び場」(ID 7451)があります。この時に設置した転落防止の金網がID 7161とID 8253-8254で確認できるので、撮影時期はそれ以降です。
 筑土八幡交差点は今も昔も変則五叉路です。商店街のような街灯は見えませんが、高い位置に街路灯があったでしょう。右奥の道は目白通りの大曲付近につながります。ただ新隆慶橋につながる道が開通したのは平成28年でした。
 さらに神楽坂の本多横丁につながる道(三年坂)の出口もここです。

筑土八幡五叉路(都建設局資料に加工)

田口氏「歩いて見ました東京の街05-14-17-1 大曲付近・都電最後の日 1968-09-28

 ID 7428、ID 7161、ID 8253を左から右に見ていきます。

  1. ノームラテックス マツダ HO◯◯(峰岸モータース)
  2. (末広家割烹)
  3. しゃれっと(洋装品)オーダー 承ります<神楽坂>=〇〇ドライクリーニング
  4. 花電車(ID 7428)「新宿駅ー岩本町 が3月27日から廃止になります ながい間ご愛用ありがとうごさいました 東京都交通局」
  5. 看板「通学路です/児童を守ろう」飯田橋ライオンズクラブ
  6. 不明(養神館道場)=みことばの家
  7. 灯籠(奉納、筑戸自治会 新小川町)、筑土八幡神社、参道(石鳥居と額「筑土八幡神社」)、「こどもの遊び場」(田中久一)、唱歌 金太郎 作曲者 田中
  8. 路面電車の駅「筑土八幡町 旅館 筑土/←神楽坂 筑土八幡町 飯田橋→ /週刊朝日 毎週水曜発売」「八月九日◯◯◯」筑戸自治会 横断歩道の旗
  9. パーマ。筑土美容院
  10. 「みんなで歩いているときも一人一人がよくちゅうい 牛込警察署 筑戸自治会」
  11. 8ー20 駐車禁止
  12. ロッテ(菓子)
  13. 電柱広告「歯科 田中」

住宅地図。1969年

紀の善(明治・大正)寿司屋時代

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂下の紀の善は、戦前は寿司屋でした。

広瀬光太郎編 東京飲食店独案内 明治23年

 明治23年1月刊行の東京市内の店名・所在地のリストに「神楽町2丁目 花ずし 紀乃善」とあります。明治初期の町域は今と異なり、1丁目は神楽坂通りの南側だけでした。
 明治20年には北側と南側の両方に出現します。紀の善が今と同じ場所だったとしても「2丁目」は納得できます。町域が改まったのは明治20年なので、明治23年の「東京飲食店独案内」は古い情報で出版されたと考えてもいいでしょう。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 また「昭和10年代の神楽坂通り(写真)」では、紀の善はまだ神楽坂の本通りではなく、現在の神楽小路に面していたようです。
食行脚 東京の巻」(協文館、大正14年)に記事があります。著者の奥田優曇華は巻頭言で「生来の食いしん坊ぶりを発揮して、あさり歩いた漫録」として「見たこと聞いたことを、書き綴ってみた」と記しています。なお、適宜新字・新かな等に修正しました。

食行脚. 東京の巻(大正14))82コマ「紀の善」

紀の善(神楽坂)
 花蝶寿司でその名を知られている。
 牛込の牡丹屋敷と言われた旗本のお屋敷から、格別のひいきを受けていた紀の善は、その恩顧を記念するため、牡丹の花に蝶をちなんで、家業の寿司に「花蝶」と名付けた。
 創業の幕を開けたのはおおよそ七十余年前。宮家や諸官庁の御用のほか、古いお得意では本郷の前田侯(爵)、小石川の細川侯(爵)、牛込の酒井子(爵)をはじめ、お屋敷の注文が年ごとに増えてきだした。
 一人前50銭、80銭、1円に分かれ、階下は食卓、2階は小座敷が4室、客のお望みとあれば、これも神楽坂名物のが「こんばんわ…」。(神楽町1-12、電話牛込1343番)

三味線

 さお。三味線の糸を張る部分(ギターではネック)。紫檀棹(したんざお)とは、紫檀の木で作った三味線の棹。転じて、三味線か芸者。

 大正14年(1925年)から70年前はおおよそ嘉永年間(1848-1854)で「文久・慶応年間(1861-1868年)「紀ノ善」創業。口入業」という他の記事と符合しません。
 現在は周知のように甘味処です。

白銀公園(写真)昭和30年代後半と令和2年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6554-6555、7169、13535は昭和30年代後半(1960年代前半)、ID 14916は令和2年(2020年)5月、白銀しろがね公園を狙った写真です。またID 7169は「白銀公園 遊具で遊ぶ子どもたち」としてこのデータベースの写真が紹介されています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13535 白銀公園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6554 白銀公園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6555 白銀公園

 昭和18年4月東京市立公園として開園し、「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年、新宿区役所)によれば、昭和25年1月1日、新宿区に移管されました。昭和36年では区20か所のうち面積で5番目(4167㎡)に大きく、牛込地域では1番目でした。ID 13535、ID 6554と6555では、昭和35年にコンクリート製の「石の山」が整備されました。昭和36年、「石の山」と「オーシャンウェーブ」、ブランコ、シ-ソー、はしご各々1つだけで、現在では寒々した遊具です。かわりにベンチ22個があり、区では2番目です。
 ID 6554-6555は晴天で陽差しが強く、ID 13535は曇天のようです。どちらも地面は四角いブロック敷き。子どもは長袖、木々の葉は落ちていて冬ですが、おそらく違う時間の撮影です。

石の山全景「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年、新宿区役所)

「新宿区15年のあゆみ」には当時のカラー写真もあります。「石の山」は石垣や手すりに囲まれています。別の区域ではヤシ科と思える植物は数本並び、樹木は若木になっています。
 当時の様子を国土地理院が公開している航空写真で見ると、園内が4つのエリアに区切られていることが分かります。十文字の道のコーナーの黒っぽく写っている部分が石垣と手すりです。「石の山全景」は下図のカメラ位置からの撮影でしょう。
 この区切りや石垣は現在はなく、園内は平らになっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7169 白銀公園 遊具で遊ぶ子どもたち

 ID 7169の「オーシャンウェーブ」について、地理院地図の航空写真では左にある丸い遊具でしょう。ある人は「かなりのデンジャラスなしろもので高速回転の遠心力に耐え切れず吹き飛ばされる者、わっかと支柱に挟まれる者などケガ人続出で、うちの学校では高学年しか使用できない玄人用の遊具でした」。したがって「石の山」が現在もあるのに「オーシャンウェーブ」は短命だったと思います。
 また、「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年、新宿区役所)では、昭和36年、初めて地面を播く時に砂の代わりに砕石ダストを使っています。しかし時期は「昭和30年代後半」だけなので、写真を撮った時点で砕石ダストを使ったのか不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14916 白銀公園

 令和2年5月のID 14916でも「石の山」は健在で、子どもに人気です。青々と木が茂り、全員半袖です。奥にはグローブジャングル、手前にジグザグ平均台が見えます。
 地面は石灰ダストの舗装をしています。これは石灰岩を細かく砕いた砂粒で、それを固めた舗装です。「石灰岩」は「塩化カリウム」を含んでいて、雑草などを取り除いてくれます。
「石の山」は白銀公園の象徴的存在で、意外なシーンにも登場します。

白銀公園 1977年 TV「気まぐれ本格派」第32話

牛込駅の通路新設[明治の市区改正](明治28年)

文学と神楽坂

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 甲武鉄道(現・JR中央線)は明治22年(1889年)に新宿-八王子間で開業。東京市内への延長は外堀の一部を埋め立てる方法を採用し、明治27年10月に新宿-牛込間が開業しました。さらに段階的に工事を進め、明治37年にお茶の水まで延伸しました。
 牛込駅の隣の飯田町駅が終点だった明治28年、甲武鉄道は四谷駅市ヶ谷駅牛込駅3駅の「通路新設」を願い出ます。
 いずれも改札口から別方向への出口の新設で、外堀の土手の使用許可を求めたものでした。牛込駅を分かりやすく加工して詳しく見ます。

 堀端の「停車場道」が、もともと駅と神楽坂を結んでいました。牛込見附の土堤は坂になっていて、橋の部分で鉄道を越えます。駅からは跨線橋で上がり、線路をまたいで反対側に行けるようにする計画でした。
土提 どてい。どて。土を小高くもった土の堤。水や風、敵などを防ぐ。土手どて
跨線橋 こせんきょう。鉄道線路を立体交差で越えるための橋。

 跨線橋である「牛込渡橋」の図面も残っています。向かって左が神楽坂側、右が新設する土手上の出口です。

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

 明治28年6月25日、東京市区改正委員会第118号会議で、この問題を議論します。議事録を読みやすく抜き書きすると

17番委員「通路に当たるところの樹木は何本ほど伐採せらるべきや」
25番委員「樹木にはかからぬはずなり」
15番委員「双方(両側)に通路を設けるに、従来のはいかが(どうする?)」
25番委員「現今は1カ所なるが、便利のため更に2カ所を開くとのこと」
24番委員「本案は別に調査委員にて調ぶる方がよからん。土堤を使用するには美観を損せざる様にとの主意なりしに、かくのごとく見苦しき階段を付しては、それらの点もいかがや」
17番委員「賛成。樹木を伐採せぬとは判然とせぬ。十分調査せらるるよう」

と、今日でいう環境問題から結論が先送りされました。
 調査委員の実地調査の結果、「樹木に支障なき」として原案通りに決まったのは2カ月後の第119号会議でした。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

尾澤薬局(昔)神楽坂4丁目

文学と神楽坂

『かぐらむら』(サザンカンパニー、1998~2018年)の「記憶の中の神楽坂」で尾澤薬局が取り上げられたことがあります。

(『大正初期の神楽坂上、尾澤薬舖 尾澤豊太郎翁追想録』昭和7年) 筑土八幡9番地にあった尾澤良甫の薬舖は、江戸市中で高名な薬種店であり、脈をとらせても当代一と謳われた。明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した。販売も戦略的で、イボ、ホクロ取りという、その頃としては珍奇な売薬を扱うことで「神楽坂尾澤薬舖に行けばどんな薬もある」との評判を得、薬局といえば「山の手では尾澤、下町では遠山」と呼ばれる様になった。大正2年、独立させていた店員、親族の店を、チェーンストアに組織化し、東京医薬商会を設立する。自社工場で大量生産したものを各店に配る方式は、当時においては大変に斬新であった。大正7 b年夏、拡大した事業の整理を行い神楽坂店を譲渡し、払方町19番地に移転後は薬業に専念した。

尾澤薬局 店内(『大正初期の神楽坂上、尾澤薬舖 尾澤豊太郎翁追想録』昭和7年)
 日露戦争後は、長壽丹全治水が売れに売れて、30人の店員が、店先にずらりと並んで後から後からと黒山の様に押しながら立て込んで来るお客を捌いたそうだ。大きな銭函にお金を放り込むチャリンチャリンの音と「いらっしゃいまし」「ありがとうございます」と、挨拶する声は、神楽坂の名物に数えられていた。

 尾澤のもう一つの名物は、中元歳末の七日間に行われる「売り出し」であった。明治41年頃に、日本新聞社主催の神楽坂商店の総合売り出しで好成績だったことに端を発して、単独で行われる様になったという。豊富で実用的な景品(鏡台、反物、火鉢、薬缶、ちり取りなど)を店頭に積み上げ、くじは紅白モナカに入れ、蓄音機で興を添えた。景品が出る度に、伊三さんという店員が見振りおかしく鈴を打ち振って「大当たり、大当たり」と踊るのも売り出しの一風景だった。売り出しが始まると、かなり遠方の店まで薬や化粧品の売り上げが減ったという。
長壽丹 長寿丹。寿命と関係する薬
全治水 皮膚病の薬。効能は「にきび・ぜにかさ・そばかす・しもやけ・ふきでもの・毒虫刺され・いんきん田虫・水虫」

 私は「尾澤豊太郎翁追想録」を引用できると考えて新宿区歴史博物館に行きました。ところが引用はできないものでした。「尾澤豊太郎翁追想録」の中身は「記憶の中の神楽坂」とは無関係でした。おそらく話した人は多分いたと思いますが、普通この本は引用元とはいえません。
 さらに驚く理由がもうひとつ。「記憶の中の神楽坂」のほうが生き生きして、逸話も精彩をだしていたのです。

大久保通りの拡幅[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂


地元の方からです

 牛込区史(昭和5年)によれば、東京市区改正委員会は明治22年(1889年)、「道路の新設拡張が70線」を主体とする「市区改正設計」を決めました。その中に「第四等道路」として次の計画があります。

第三十五、牛込揚場町第二等線より津久戸前町に至り、左折して肴町・山伏町通り、原町等を経て、戸山学校に至るの路線。

 これが後の大久保通りです。「第二等線」は同時に計画した外堀通りを指します。
「市区改正設計」には実現しなかったものも多いですが、大久保通りはおおよそ完成しました。多くの部分は、屋敷や寺社の間を通る細い道を何度かに分けて広げたものです。
 たとえば明治22年4月16日開催の東京市区改正委員会29号会議で「牛込肴町他2カ町道路取拡」を決めています。火事で焼けた跡の再建を許さず、東京府が買い上げる内容です。

当府牛込区牛込肴町今暁消失ニ罹リ候場所ハ市区改正審査ニ於テ第三四等道路ニ決定ノ路線ニ係リ候……

 また明治26年(1893年)には、この時の広い道路を南西に少し伸ばして下水を新設することを決めました。「道幅八間」とあるので14.4メートルです。

 本格的に道を広げる計画は明治26年10月19日開催の第102号会議で決定しました。議第179号の7として岩戸町から現在の牛込柳町まで、議179号の8として柳町から南側(現在の外苑東通り)を拡幅します。予算は両計画合計で5万507円17銭5厘を計上しました。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784706/123
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784706/124
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784706/125

 この3図を結合したものに今の地名を書き込みました。太線または二重線が当時の道、青線は拡張予定の道です。旧・牛込区役所は、道だったところに敷地を拡張しました。

 大久保通りの拡幅計画の図はシンプルですが、牛込北町と神楽坂上の中間付近に線が3本になって分かりにくい部分があります。ここは原資料に間違いがあると思われるので、拡大して修正した図をつけます(下図)。

南蔵院付近 道路台帳

 この修正図と、区が公表している道路台帳を突き合わせると、明治の道路拡幅がしっかり実施されたことが分かります。

南蔵院付近 道路台帳

 大久保通りと外苑東通りは現在、終戦後に策定した都市計画に従って新たな拡幅工事が進んでいます。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

松平定安伯爵の神楽坂邸(昔)神楽坂3丁目

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂3丁目には「出羽様」と呼ばれた大きな邸がありました。邸の主は出雲松江藩の第10代(最後)の藩主であった松平定安で、官位は出羽守、明治維新後は伯爵に叙せられました。私家版の詳細な伝記(昭和9年刊)が残っています。
 この中から、神楽坂邸に関する部分を拾い読みします。新字・新かなに改め、適宜省略しています。
 明治3年10月、旧藩主時代から江戸にあった官邸・私邸の「拝借期限」が向こう3カ月間だと明治政府から通達されます。

 これにおいて東京府内に適当の邸宅を物色し、翌4年8月朔日(明治4年8月1日)に至り、牛込神楽町3丁目3番地(原注。後6番地と改まる)の邸地を購入し、もって新邸を営むに至れり。すなわち該地は旧旗本高木義太郎・筧四郎・押田求馬の邸宅なりしが(中略)その代金として1,755円を交付せり。
 更に隣地武沢楠之助の邸宅を購入してこれを合併せり。(中略)宅地2374坪4勺、崖地105坪4合8勺と定められる。

 買い取ったうち武沢・筧・押田の3邸は「若宮通り」と書いてあります。松平定安は同年9月19日に、この神楽坂の新邸に入りました。
 松平家は続けて、周辺に土地を求めます。

(明治)4年12月19日には、牛込肴町において屋宇1カ所を購入し、これを質貸の店にあて…
 7年12月13日にいたり、牛込岩戸町3番地内において、本邸地に接続せる地所102坪1合6勺ならびに土蔵・納屋を購入し、翌8年3月、同町2番地(原注、鈴木重右衛門所有地)191坪9合7勺ならびに土蔵を購入せり。

 この肴町の「質貸の店」については別に記述があります。

 旧藩士中の東京に居住せる者にとり、幸いにひとつの金融機関を得、おおいに生活上に利便を受くるに至れり。

 つまり家禄を失った旧藩士を救済するための質屋でした。この店は明治9年3月10日に閉鎖し、後に別の場所で続けられました。
 また、この時代の岩戸町は神楽町3丁目の松平邸に隣接していました。ここに邸を広げたのでしょう。現在の三菱UFJ銀行神楽坂支店の裏に当たります。

明治東京全図(明治9年)松平邸付近、「花」は華族

 松平定安伯は、この神楽坂邸を本邸として過ごします。明治5年の年譜には

5月2日、松江邸の鎮守たりし稲荷社および八重垣社を神楽坂邸に安置す。

 とあります。明治16年の「五千分一東京図測量原図」では、松平邸内の最も東側(坂下側)に参道らしきものと、その周辺に社寺がいくつかあります。いずれかが「稲荷社」と思われ、これが見番横丁に今もある「伏見火防稲荷神社」のルーツです。

稲荷社 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

 松平定安伯は一度は養子・直応に家督を譲ったものの復帰、明治15年11月に再び隠居します。

28日、(定安は後継者である)優之丞公をして、神楽坂邸に起居せしめんとし、この日来、同邸に修繕を加えし

 その直後の12月1日、別邸の根岸邸で急逝します。享年48歳。
 実子の優之丞は伯爵を継いで松平直亮と改名。貴族院議員などとして活躍しました。明治25年10月版の華族名鑑(博公書院)では神楽町に住所があります。明治26年3月版では四谷に転居しています。

 神楽坂の「出羽様」の邸跡には明治26年に新たな道路が作られ、芸者屋や料理屋が林立する花街に姿を変えました。それでも中央部に「神楽坂演芸場」があったのは、元が大邸宅だったため比較的まとまった土地が確保できたからかも知れません。牛込町誌 第1巻(大正10年)によれば、神楽町3丁目6番地の2,773.65坪の所有者は松平直亮氏ひとりでした。つまり芸者屋も寄席も地代を納めることで、四谷に引っ越した松平伯爵家の生活を支えていたのです。

牛込町誌 第1巻(大正10年)「神楽坂演芸場」

見番横丁の開設[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂3丁目のうち1番地と6番地は他の番地に比べて広く、宅配便の業者を困らせることがあります。江戸期の大名屋敷などをひとつの番地にしたことが原因と思われます。

明治7年の神楽坂(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 6番地は旧・松平出羽守の邸で、明治維新後も華族として住んでいたようです。立ち退き後、今もある路地が開設されます。その資料があります。

東京市区改正委員会議事録 第6巻151コマ 牛込区神楽町三丁目民有道路開設 180°回転

 明治26年、現在の見番けんばん横丁と、それに続く三叉路を「開設」したことが分かります。神楽坂通りと「若宮町通り」への出口は道幅「二間半」、途中は「三間」と広くとっています。
 図には「民有道路開設之図」とあります。これが私道を意味するかどうか分かりません。現在の新宿区道路台帳では、この道路はすべて区道です。途中から幅が広くなる様子などは計画通りと思われます。ただ見番横丁の現在の入り口は3.16メートルしかなく、計画の2.5間(4.5メートル)よりもかなり狭まっています。
 もう1点、注目したいのは「六番ノ内 崖」「若宮町通り」という記載です。
 「六番ノ内 崖」のは、南側にある小栗横丁の道ではありません。小栗横丁と見番横丁の間に今もあるガケでした。

新宿区道路台帳 見番横丁と小栗横丁

 つまり松平出羽守の邸のガケ下に民家がありました。崖下は一部を除いて若宮町です。後に、このガケを東側から降りるために熱海湯の階段が作られました。
 また、この図の「若宮町通り」という表記は他の資料に出てきません。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂附近の地名」では「出羽様下」と記載しています。ただ位置関係から見て、本来の「出羽様下」はガケ下一帯、現在の小栗横丁の西側入り口付近の民家を指していたと考える方が自然に思えます。

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

「牛込区神楽町三丁目民有道路開設」は東京市区改正委員会の「報第47号幹事会」で処理し、明治26年10月19日開催の「第102号会議」に報告されました。大久保通りの拡幅を決めたのと同じ会議でした。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)によれば、崖に接したのは道路ではなく等高線でした。

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

出羽様下 「出羽様下」では不明ですが、牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第2号の竹田真砂子氏の「銀杏は見ている」によれば「出羽様」は……

(本多横丁の)反対側、今の宮坂金物店(現・椿屋)の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。

  ただ市区改正の地図に基づけば、旧松平出羽守の屋敷があった時には宮坂金物店の横丁は出来ていなかったことになります。

下宮比町(飯田橋)交差点

文学と神楽坂


地元の方です

 目白通りと外堀通り、そして大久保通りが交わる五叉路を、地元では「下宮比町の交差点」と呼ぶことが多かったと記憶します。
 しかし戦後の地図を見ると、一貫して「飯田橋」と書かれています。この理由を考察しました。
 交差点は全域が外堀の外で、新宿区内になります。隣接する千代田区の地名「飯田橋」は不適当とも言えます。しかしながら、かつては都電の結節点として交差点を取り囲むように飯田橋停留所があったことから、飯田橋と呼ぶことに抵抗は少なかったはずです。

住宅地図。飯田橋交差点 1962

 ひとつの可能性は信号機に交差点名が表示されていなかったことでしょう。単に「下宮比町のあたり」と呼ばれていたことはありそうです。
 もうひとつは、この交差点に1970年代に設置された「飯田橋歩道橋」の住所表示です。田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の写真には大きく地名が書かれています。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-1 船河原橋西詰から 1976-12-02

 実は信号機の交差点名の表示も始まっています。よほど目立たなかったのでしょう。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-2 船河原橋南詰から 1976-12-02 赤囲みが交差点名

 現在でも同様な表示はあるのですが、いくぶん文字を小さするなど誤解を避ける工夫をしているようです。


四谷・市ヶ谷見附の桝形撤却[明治の市区改正](明治32年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 旧江戸城の城門のうち、内郭(内堀より内側)は皇居なので、古い姿をよく残しています。これに対して外郭(外堀沿い)の門は交通の障害になるとして順次、取り壊されました。
 そのうち四谷見附と市ヶ谷見附の桝形の「撤却」資料があります。両案とも明治32年(1899年)8月14日開催の東京市区改正委員会159号会議で異議なく決定しました。

拡大図。青線は撤却を決めた石垣

 両者とも石垣すべてではなく、道路にかかる部分を選んで取り壊します。ただ市ヶ谷見附が旧見附橋の部分に新しい橋をかけるのに対し、四谷見附は旧橋の脇に新たな橋をかける計画でした。つまり門によって橋の位置は昔と違うのです。
 明治37年(1904年)、両門のすぐ外の橋の下に甲武鉄道(現・中央線)が開通します。参考までに市ヶ谷門の図面を回転し、現在の地図と並べてみると、中央線も靖国通りも当時は計画すらなかったことが分かります。

市ヶ谷見附 比較図

 牛込門の桝形撤却は両門より少し後で、残念ながら資料は公開されていません。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

靖国通り 両国橋から皇居の北の丸公園、靖国神社、防衛省等を通り、新宿駅北の大ガードまでの延長8kmの道路。この路線は東京中央部を南北に分ける。

飯田濠(写真)昭和27年頃 ID 16566

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16566は、飯田橋の橋から飯田ぼり、遠くは牛込橋周辺までを見たものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16566 牛込神楽河岸

 発表日時は不明ですが、新宿歴史博物館「新宿の歴史と文化」(平成25年)によれば「昭和27年頃」です。よく似たものとして新宿区役所「新宿區史」(昭和30年)があります。はしけ船の数などから撮影時期は違いますが、周囲の様子はほぼ同じに見えます。

 この当時、神楽河岸には建設廃材の集積所があり、神田川経由で東京湾に運びました。中央に見える掘に突きだした三角と、その向こうの斜めに掘に崩れているように見えるのは、この拠点だった土辰資材置場でしょう。右端の建物は東京都牛込清掃事務所と思われます。
 資材置場の奥には倉庫らしき建物が何棟も並び、その先には大郷材木店もあると思われますが、よく見えません。
 掘にははしけ船をつなぎとめる竹竿のようなものがたくさん立っています。左奥の水面が白く、さざ波が広がるように見えるのは牛込橋の下の「どんどん」から水が落ちているためです。
 中央やや右、屋根より高い位置にメトロ映画の甲板が見えます。その右の建物の屋根にも大きな看板があり、さらに右には2階屋くらいの壁が見えます。
 この2階屋は、位置関係からみて田口氏が撮影した升本酒店の隣の建物であるかもしれません。だとすれば隣に見える大きな看板は軽子坂に面した映画館「銀鈴座」である可能性があります。
 メトロ映画は昭和27年(1952年)1月に開業。「銀鈴座」は昭和33年12月に火災で全焼し、5階建ての銀鈴会館が昭和35年ごろ完成しました。この写真では銀鈴会館は見えないので、撮影時期は昭和27~33年ごろと考えられます。

住宅地図。昭和38年

渡邊坂の廃道[明治の市区改正]明治29年

文学と神楽坂

地元の人からです。

 神楽坂から早稲田へ行く途中の「渡邊坂」について、ブログの記事で詳細に検討しています。
 それを裏付ける史料がありました。

渡邊坂廃道

 分かりやすく向きを変え、修正したのが下図です。現在の江戸川橋通りの整備と、周辺の道を廃道にすることが描かれています。

渡邊坂廃道

 渡辺坂の廃道は、東京市区改正委員会の「報第66号幹事会」で処理し、明治29年3月31日開催の「第126号会議」に報告されました。「号」は「回号」を意味します。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています

青木堂と木全信次郎氏

文学と神楽坂


 地元の方が主に青木堂と経営者の木全信次郎氏について書いてくれました。

 明治から大正期に通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった食料品商・青木堂の歴史を、経営者である木全信次郎氏とともに追っていきます。
 まず木全氏のプロファイルから。

木全信次郎 靑木堂、洋酒食料品商 東京府平民
 君は東京府平民木全善三郎の長男にして明治二年四月二十二日を以て生れ同十三年六月家督を相続す 洋酒食料品商を營み屋号を靑木堂と稱し直接國税五百八十餘圓を納む【家族は省略】【東京、牛込、通寺町五一 電話番町二七五】
『人事興信録』第3版(人事興信所、明44.4)

 青木堂の開業年は分かりません。ただ明治30-31年と続けて、高額納税者を掲載する日本紳士録(交詢社)に木全氏の名が出ます。この時の住所は通寺町25番地で、ここに青木堂があったと想像されます。
 明治33年ごろ、旧店舗向かい側の通寺町51番地の新店舗に移転し、商売を大きくしました。電話は番町電話局(番)275番を自前で備えました。電話を持つことがステータスだった時代です。
 紳士録に「青木堂」の名と電話が掲載されるのは明治35年です。納税額も増えました。
 データには欠落も多いのですが、以後の木全氏の納税額をグラフ化しました。明治41年からは営業税(現在の事業税)も大きな額です。青木堂は木全氏の個人事業なので、業績が伸びれば納税額も増えます。変動はあるものの、明治末期から大正初期にかけては事業が成功していたようです。

木全氏の納税額の推移

 この時期、木全氏の社会的地位を示す史料が選挙人名簿です。当時は制限選挙で、投票権のある高額納税者が尊敬されました。通寺町の名簿には選挙人として72人の氏名と職業、納税額が記載されています。51番地で「雑貨」を商う木全氏は371円21銭と、町のトップでした。令和初期の貨幣価値だと2,000万円くらいでしょうか 1)。ただ他の町には、もっと高額の納税者がいました。

東京市衆議院議員選挙人名簿(明治45年2月)財務協会

 状況が変わるのは大正5年。木全氏は青木堂を経営したまま「米山サイダ株式会社取締役」に就任しました。事業拡大を狙ったのか、別の目的があったのかは分かりません。大正9年には米山サイダー取締役と青木堂を兼務したまま、過去最高額の納税をしています。

①初掲載 通寺町25(明30) ②「青木堂」電話(▲)取得 通寺町51(明35) ③納税額急上昇(明41) ④順調だった頃(大1) ⑤米山サイダ取締役に(大5)⑥過去最多納税(大9) ⑦納税額大幅減 通寺町57 電話なくなる(大10) ⑧食料品商廃業 米山サイダー社長に 最後の掲載(大11)

 大正10年、状況が激変します。紳士録では莨(タバコ)食料品商は変わらないものの「青木堂」の屋号が消えます。所在地が通寺町57なのは誤植かも知れません。しかし納税額は10分の1に激減し、事業税も電話もなくなりました。事業継続が困難になったと想像されます。
 翌大正11年の紳士録では店が記載されなくなり、木全氏は米山サイダーの社長になっています。店舗ではないので営業税はありません。そして、これが木全氏が紳士録に掲載された最後になりました。
 青木堂の土地所有者を調べると、借店だったことが分かります。富裕だった頃の木全氏が自前の店にしていたら、危機への対処も違う結果になったかも知れません。
 また、大正12年は関東大震災の年としても有名です。青木堂の被害は、あっても、どれぐらいの規模になるのか不明です。すでに閉店になっていた可能性もあります。一般的にいえば、牛込区の被害はほとんどありませんでした。

      ◇

 木全氏が社長になった米山サイダー(株)は清涼飲料水のメーカーで、麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)4丁目1番地に本社がありました。大正13年版の東京市商工名鑑では代表者は「中村喜作」とあり、木全氏が社長だった期間は短かったと推察されます。
 青木堂の跡はどうなったのでしょうか。電話帳や紳士録には通寺町51番地に「小川食品・小川倉吉」の名があります。電話は青木堂とは別の番号です。

 
図・青木堂から小川商店へ。①東京特選電話名簿. 上巻(大正11)青木堂 ②職業別電話名簿. 東京・横浜(大正12)小川商店 ③人事興信録 第8版(昭和3年)小川倉吉

 紳士録や人事興信録によれば、小川倉吉氏は先代と当代の2人がいました。神田で食料品商を営む一方、菓子メーカーの取締役を兼ねていました。同業の青木堂を買収するなどして引き継いだのでしょう。昭和3年の時点では通寺町51に店があったことが分かります。小川氏は昭和16年に菓子メーカー監査役となり、居宅は杉並区に変わりました。戦時下で事業を閉じたように思われます。

      ◇

 青木堂があったのは、遅くとも大正11年(1922年)。廃業から1世紀が経ちました。しかし実は、今も法的には存在しています。法務局の登記情報を「青木堂」で検索すると、次の2つが出てきます。

青木堂 商号登記

青木堂 法人登記

 前者は商標権のみ、後者は会社法に基づく法人で、いずれも有効な登記です。類似商号を認めた最近の法改正まで、新宿区内で「青木堂」という同業の店や会社は設立できませんでした。木全氏が法人を設立したのは、通寺町の青木堂が消滅する2年ほど前。本店所在地も通寺町ではありません。迫り来る経営難を予期し、再起を図る準備をしていたのでしょうか。
 株式会社は一定の期間、登記に変更がないと行政権限で強制解散させられます。合資会社には、その制度がありません。木全氏の青木堂は今後も、ひそかに存続するでしょう。

I) 政府予算の税収を見ると、現在は約12万倍です。
・大正元年度 5億円   ・令和元年度 61兆円(国債含まず)
一方、大正期の物価を見ると、現在は1万倍程度と思われます。
コーヒーやドーナツ5銭   ・アイスクリーム8銭
両者の間を取って6万倍で推定しました。

青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目

文学と神楽坂


 地元の方が主に青木堂について書いてくれました。

 青木堂は明治中期から大正にかけて、通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった食料品商です。酒や洋菓子、タバコ、西洋雑貨を手広く扱いました。当時の表記はすべて旧字の「靑木堂」です。
 所在地は通寺町24番地から51番地。経営者は木全信次郎氏でした。

青木堂 日本之名勝(明治34年)

 写真は漆喰塗りの蔵造りを思わせる重厚な店でした。左の荷車は「牛込區通寺町/西洋酒/食料品」と読めます。は商標で、店の看板の左右にも描かれています。店内にはガラス瓶や缶詰らしきものが数多く見えます。

     ◇

「日本之名勝」は史伝編纂所の発行による明治時代の写真入り観光案内です。明治34年(1901)発行の第三版「地の部」に青木堂の紹介があります。なお、句読点は補ってあります。

  靑木堂食料品店(
 東京牛込通寺町に在り。和洋煙草、洋酒、罐詰の類いを鬻ぐ。店内甚だ広壮ならずと雖も其繁栄の一事に至つては實に區内第一なり(中略)
 他店に比して多きは二割少も一割の低價なるより客足自から同店に向ふ(中略)
 初め其對側に蕞爾たる小店を開きしより一二年にして其兩隣を併せ有し今は更に其前面に店舗を移して數倍大の擴張をなし終に宮内、陸軍、兩省の用達を務むる(以下略)

日本之名勝(1901)374コマ ⇒

 これから分かることは…
・良品を他店より1-2割安く売って繁盛した
・最初は小さな店を出し、短期間で両隣に広げた
・さらに向かい側に大きな店を開いて移転した
・宮内省と陸軍省を得意先にしていた
 経営者の木全信次郎氏が、高額納税者を掲載する紳士録に初めて掲載された明治30年①は「通寺町25」でした。明治32年②も同じでした。明治35年②「日本之名勝」に掲載されたのは拡張・移転した直後と思われます。

(左)日本紳士録 第4版(明30)交詢社 (中央)大日本商工名鑑(明32)商業興信所(右)日本紳士録 第8版(明治35年)交詢社

 大正時代、販売は順調に進んでいます。

(左)東京区分職業土地便覧 牛込区之部(大正4年)(右)帝国飲食料同業名鑑(大正5年)

 なお、大正5年の「東京ガイド」(写真通信会)は、おそらく広告を兼ねていて、青木堂は「和洋酒」「化粧品雑貨」等の2業種でエントリーしたと思われます。現代のNTTの職業別電話帳(タウンページ)では、費用を払えば複数業種での掲載や、別途の広告掲載ができます。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

      ◇

 大正時代の東京・大阪・京都の観光案内「三府及近郊名所名物案内」の上巻にも記事があります。同書は大正7年が初版で、何度か重版されました。なお、句読点を付け、ルビを省略しています。

三府及近郊名所名物案内(大正7年)54コマ

食料品と靑木堂商店 

 西洋酒、食料品、和洋煙草、雑品の販賣舗として多大の信用を博し山の手随一の評判となつてゐる。(中略)
 何れも確實な物品を選び安價を主眼として販賣してゐる。従って店頭は常に顧客雲集して大盛況を呈してゐる。(中略)
 御進物品は美麗で且體裁を飾り切手も調進し、市内各方面からも電話又は郵便はがきで注文すれば早速配達する(中略)
 宮内省の御用達として用命を蒙つている……

 内容はほぼ同じですが
・電話や郵便で贈答品として発送する
ことが加わっています。読者の注文を期待したのでしょう。

      ◇

 観光案内も宣伝の色彩が濃く、広告費を払って記事を掲載する「ペイド・パブ(記事風広告)」だった可能性が高いでしょう。「宮内省御用達」を前面に出すなど商売上手だったことがうかがえます。

牛込見附と桜の木(大正11-12年)

文学と神楽坂


「牛込見附」の写真について地元の方が解説をしました。

 東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖は、当時の東京市役所公園の手による関東大震災直前の写真集です。「序」には「都市改造ノ業益進」む中で「真景ヲ留」める目的とあります。精細なコピーが国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。
「牛込見附」は第1集4(コマ番号11)で、以下の写真と解説があります。


 麴町區富士見町より牛込神樂坂に通ずる門で、牛込口または牛込門ともいひ、此邊に楓樹があったので俗に紅葉門とも呼んだことがある。寛永十三年幕府が江戸城の修築を諸侯に命じた時、此見附は蜂須賀忠秀が營んだもので、恐らく此時新たに出来た見附と思はれる。今は殆んど舊態を失ひ、僅かに石垣のみに其名残を留めて居る。

 牛込見附については、このブログの別記事で詳細に検討されています。
 ここでは、写真帖の牛込見附の写真を見ていきます。牛込橋は神楽坂の反対側を左手前から上にあがり、欄干がでています。その先の木柵部分は千代田区側で、下を中央線(旧・甲武鉄道)がくぐっていると思われます。正面右の石垣手前に立つ白いポールは鉄道の信号機でしょう。線路らしきものも確認できます。この右側が旧・牛込駅(後に廃止)になります。積雪があるので季節は冬でしょう。
 道路の舗装部分から外れると土手で、右はガケになります。ガケの下は現在のカナルカフェです。土手の電柱の広告は篠崎インキの「万年筆用ライトインキ」。牛込周辺の学生をターゲットとしたものでしょう。
 電柱はたくさん立っていますが、街灯らしきものは見えません。牛込土橋の店もなく、夜は真っ暗だったでしょう。赤井足袋店の赤井儀平氏の回想に一致します。

 土手の中央に桜の木があります。この三股が特徴的な桜は時代を超えて、いくつかの写真に登場します。
・昭和6年 ID 2 飯田橋駅付近より坂上方向
 左端の木で、太くなりました。土手は歩道として整備されました。
・昭和20年 早乙女勝元『東京空襲写真集』
 左端で見切れています。
・昭和37年頃 ID 55-56 飯田橋駅付近より坂上方向
・昭和37年 ID 5993-5994 神楽坂入口をのぞむ
 店ができています。歩道を半分占めるほどの大樹に。
その後、おそらくジャマになって切り倒されました。
・昭和42年 田口氏05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を
桜の木を基準にすると、牛込橋の幅が徐々に広がっていったことが分かります。

飯田橋交差点(写真)信号機 昭和28年 ID 13030

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030は、昭和28年(1953年)、飯田橋交差点(当時は下宮比町交差点)から東南から西北を、つまりしも宮比みやび町を見た写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030 飯田橋交差点

 新宿未来創造財団の「新宿風景Ⅱ」(新宿区立新宿歴史博物館、平成31年)では……

120 飯田橋交差点 昭和28年(1953)
左手奥が大久保通りで、かすかに津久戸小学校が見える。左手建物の屋上に見える丸い建物は、東京厚生年金病院。

 交差点は五叉路(東西に目白通り、南北に外堀通り、大久保通り)ですが、見えているのは左奥に坂を上る大久保通りだけ。左に立つ電柱の右側に隠れるような黒い影が、説明文にある津久戸小学校の校舎です。
 中央の縦に並んだ信号機は交差点の中の土台の上に立っています。信号機の背面板と土台は注意喚起のゼブラ柄。「自動交通信号機設置記念」の看板は緑門のように青葉で囲まれているようです。読めない文字は自治体名か警察署名でしょう。
 同時期のID 23(昭和27年頃)では、隣接する牛込見附交差点(現・神楽坂下交差点)に信号機が見えません。都内の信号機の多くは戦災で失われました。それが復旧した記念の写真と思われます。
 しかし、もう一つ重要な意味があります。戦後、この交差点はロータリー交差点に変わったのです。しかし、「朝夕のラッシュ時には車のこう水になり、ひどいときには500台ぐらいが五つの道にひしめいて歩行者も命がけで横断する」(読売新聞、昭和28年12月1日)状態になったのです。ロータリーをやめ、代わりに普通の五叉路に戻って、それが完成したのがこの写真でした。細かくはロータリーの廃止を見てください。
 右上に煙突が2本。手前は「工場」、その奥は「クリーニング」です。この一帯は牛込台地から見ると川沿いの低地です。通りに面して店が並んでいますが、裏に回ると工場や倉庫が多く立地していました。
 大久保通りをバスが何台か下ってきています。交差点に近い黒バスは分かりませんが、少し後ろは都バスと思われます。富士TR014X-2のようです。
 飯田橋交差点は都電3系統が交わる交通の要でした。路面電車は写っていませんが、空中には縦横に架線が渡っています。車道と歩道の間はガードレールではなく歩車道分離柵でした。
 正面のひときわ偉容を放つのは東京厚生年金病院です。昭和27年10月に開設、11月に診療開始。南棟を増設し、昭和28年に完成しました。5階建てで、屋上の丸い建物の下はぐるぐる回るらせん階段でした。35年後の昭和62年に建て替えのため南棟を解体し、平成10年に東棟を解体して旧館の取り壊しが終了。平成26年、東京新宿メディカルセンターに改称。

 以下、左から右に。

    大久保通り手前側

  1. 質王 陣屋 質と金融
  2. 立て看板「横断(歩道)/見」
    大久保通り向こう側

  1. 大野屋武道具店
  2. 第一銀行(現・みずほ銀行飯田橋支店)
  3. や〇處
  4. 〇マニ(ヤマニ飲食店?)
  5. 不明
  6. 建屋越しの看板「旅館タカラ」(多加良)
  7. 不明、2階窓に干し物
  8. 電柱広告「たから」(多加良)
  9. 不明
  10. 山口のパン
  11. 飯田橋ビヤホール 中華料理 キリン
  12. パーマネント (L)ady
  13. 森永キャラメル づぼ屋

下宮比町。人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

赤城神社(写真) 遠望 昭和28年 ID 564、13029 

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 564は昭和27年(1952年)の、ID 13029は、昭和28-29年の、赤城神社の台地からの遠望写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 564 赤城神社より早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13029 赤城神社より遠望

 以下は地元の方の解説です。へーっと驚くことばかり。たとえば、台地と上の建物、これってなんでしょう。

 ID 13029では、写真左の水平線に早稲田大学の校舎と大隈講堂が見えます。正面の高台は文京区の関口台で、植物に覆われた斜面は現在の文京区立江戸川公園です。明治以来ソメイヨシノの名所として知られ、この斜面に沿って神田川が流れています。
 台地の上はホテル椿山荘です。戦災で三重塔以外が焼け落ちましたが、戦後に椿山荘は建物を再建して昭和28年3月に営業再開しました。ID 12145(昭和36年)の最遠部でも確認できます。
 さらに右側の白い建物は分かりませんが、獨協学園の校舎と思われます。右端の水平線のビルは講談社かもしれません。
 つまり撮影したのは北西方向でした。この台地の眺望を野田宇太郎は「文学散歩」でパリのモンマルトルの丘に例えました。現在はビルですっかり視界が狭まりましたが、ID 14051(平成31年)のように、まだ眼下に「赤城下町」を見ることが出来ます。
 一帯は戦災焼失区域ですが、戦後10年にならないのに家で埋め尽くされています。ただ終戦直後のにわか作りと思われる平屋が目立ちます。煙突が多数あることも印象的です。銭湯ばかりでなく店や会社が自前でゴミ焼却炉を備えていた時代でした。 
 正面手前、細い鉄柱からポールが伸び、最上部に黒っぽい丸い玉がついているものは、恐らく航空障害塔です。夜には赤い光を発したでしょう。赤城台が、それだけ高く感じられていたことだと思います。
 ID 564は、ID 13029と似た写真ですが、少し左を向いています。大きな煙突が左端に写り、大隈講堂の塔も右に寄った位置に写っています。

ゴミ焼却炉 環境省の「日本の廃棄物処理の歴史と現状」(2014年)を簡単にまとめると

  1. 以前にごみと関係する問題として、河川等の投棄や野積み。排出量の急増。手車での収集のため道路に飛散。ハエや蚊の大量発生。伝染病の拡大。[赤城神社(写真)昭和28年 ID 13029 遠望 もこの頃]
  2. 1954年 「清掃法」制定
  3. 1958年 東京都の第五清掃工場(大型焼却炉6基。生ごみ等の焼却前乾燥。ベルトコンベヤの焼却灰搬出装置。地元に温水給湯サービス)。つまり、ごみの改良がいくつも進む。
  4. 1963年「生活環境施設整備緊急措置法」

航空障害灯 航空機に対し、航行の障害となる高い建物などの存在を知らせるために設置する灯火。昭和35年から高さ60m以上の物件。その以前の高さは未詳。

地下鉄飯田橋駅 (写真)昭和54年 ID 641, 12016

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 641とID 12016は昭和54年(1979年)2月、地下鉄飯田橋駅を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 641 地下鉄飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12016 地下鉄東西線飯田橋駅

 飯田橋駅は1964年(昭和39年)営団地下鉄東西線、1974年(昭和49年)有楽町線、1996年(平成8年)南北線、2000年(平成12年)都営大江戸線の駅が開業しました。昭和54年には東西線と有楽町線の駅がありました。
 東西線は複線の路線を2つのホームが挟む相対式、他はホームの両側を線路が走る島式です。したがって、この写真は東西線です。正面の駅員の奥に柱らしきものが見えますが、これは九段下側の出口です。電車は大手町など都心に向けて走ります。

飯田橋駅の東口と西口

 写真で見えるものは…

  1. 扉の閉まった電車に「JNR」マーク。旧国鉄の東西線乗り入れ車両でした。
  2. 左端は「←のりかえ/Trasfer/有楽町線/Yurakucho line/国鉄線/JNR line」。バックライト広告「きもの英」、案内ボード、駅名標「飯田橋」、広告付きベンチ、あとは同じようなものが続きます。
  3. ベンチとボードと間の腰高の四角いものは灰皿、奥にある低い丸いものは中に水が入った吸いがら入れです。営団地下鉄が全駅構内で終日禁煙を実施したのは1988年(昭和63年)でした。
  4. ホームの番線表示は「1」。「大手町・日本橋・東陽町/浦安・西船橋・津田沼 方面」と読めます。
  5. 天井にシーリングファン。まだ駅も車両も冷房化されていませんでした。
  6. ホームの番線表示の奥は「電車標準時刻表」。その右は電車接近表示で「今度の電車は(かぐらざかを)出ました」
  7. さらに奥は電光式の行き先案内版。次が「西船橋」行き、その次は「快速西船橋」行きでした。
  8. ホーム中央に、視覚障害者向けの誘導路(いわゆる「黄色い線」)。この当時はホームの端を基準に「白線よりお下がり下さい」とアナウンスしていました。

飯田橋駅東口2(写真)ID 480, 11455, 494, 11469 昭和51年

文学と神楽坂

 新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 480とID 494は、昭和51年8月に飯田橋駅東口と飯田橋交差点を撮った写真です。
・飯田橋駅東口(写真)ID 481~483
・失われた新宿区(写真)ID 484
の撮影で、おそらく再開発前の同地区の様子を記録したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 480 揚場町、飯田橋駅前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11455 飯田橋交差点、飯田橋駅ホーム

 ID 480とID 11455は、飯田橋交差点の西側からを東側を狙っています。左右方向が外堀通り。手前の横断歩道は大久保通り。左側の高架の下が目白通りです。
 歩道橋の右、日除けテントの古い建物はこの当時、新宿区に属していました。後に区境変更で千代田区になります。
 その右は取り壊されて空地になり、フェンスで囲まれています。フェンス越しに見えているのは外堀の向こう岸にある飯田橋駅駅舎の2階部分。その上にはホームの屋根が左右に続いています。駅舎の手前、右の平屋は東京燃料林産の建物でした。一番奥の数棟のビルも千代田区です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 494 飯田橋駅ガード下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11469 飯田橋駅高架下 目白通り

 ID 490とID 11469は、ID 480の左側の歩道橋の上から飯田橋駅の高架ホームを撮影しています。JRの発足は1987年(昭和62年)4月なので、撮影当時は「国電」でした。高架橋の案内看板には「JNR(日本国有鉄道) 飯田橋駅→」と書かれています。駅前のタクシー乗り場は、今も同じ場所にあります。
 飯田橋駅のホームは、この写真の右側に200メートルほど移転し、2020年7月12日に新しく開業しました。今も高架橋は変わっていませんが、すでに写真の部分はホームとしては使われていません。
 撮影位置は新宿区の最も外れで、写っているのはすべて千代田区です。
 なお、現在の飯田橋駅の出入口は、始めの一か所から、変遷の末、北東の出入口と南西の出入口になりました。北東の出入口を東口、南西は西口と呼び、さらに現在は無数の改札があります。

飯田橋駅の東口と西口

  1. 道路標識(最高速度40)大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  2. 陸橋。道路標識「大型最徐行」
  3. JRのプラットホーム。中央線 JNR 飯田橋駅
  4. タクシーのりば
  5. 新聞売り場
  6. チラシ「催眠療法。赤面対人恐怖どもり」
  7. 歩道橋。当時は「エ」の形をしていた。
  8. 交差点。名前は「飯田橋」。縦に並んだ信号機があるが、理由は不明。
  9. 店舗。シームレス(後ろ中央に縫い目のない婦人用長靴下)を販売。
  10. 店舗。立喰いそば 富士
  11. 空地、
  12. 立て看板「〇くださ(い)/ゴミをすてて(は)/いけません/〇〇)
  13. 飯田橋駅駅舎(二階建ての家)
  14. 歩行者用信号機
  15. 東京燃料林産(一階建ての家)

豊来亭?|大正時代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「新宿風景Ⅱ」(新宿歴史博物館、平成31年)に「関東大震災前の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」と「震災後の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」がでています。個人が提供したものです。なお、関東大震災は大正12年9月に起こりました。

 これについて地元の方は……

「豊来亭」の名は「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」をはじめ各種資料では見かけません。また、この写真では場所を特定できません。ただ26の右ののれんの上の横書き看板は、無理に読むと「洋食屋/豊来亭」のようにも見えます。

 国立国会図書館デジタルコレクションで公開している「職業別電話名簿 東京・横浜」の大正11年版で調べてみました。西洋料理業の項に「寶来軒」があります。新字体なら「宝来軒」ですが、旧字の「寶」は「豊」と誤読しやすいです。

職業別電話名簿 東京・横浜。大正11年

 この店の所在地は「牛、矢来26」-すなわち牛込区矢来町26番地です。現在の地下鉄神楽坂駅あたりですが、ここに「寶来軒」がありました。ただし大正11年の地図では、このあたりは非常に細かく区画されていて、26番地は角地でもないようです。複数の区画に建つ人気店だったかも知れません。

東京市牛込区。大正11年。(地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会)ただし


 では27はどうでしょうか。

「震災後に再建した店の様子」と説明がありますが、そもそも神楽坂は関東大震災では被災せず、それが戦前の繁栄につながりました。
 26が左右に出入り口を持つ角店なのに対して、27は間口が狭く、同じ場所には見えません。27の店名看板は「西洋料理 御〇」「御国洋食部」、正面電柱の左側の看板も「御国洋食部」と読めます。
 さらに店名の左右には「電話本所 五九九一番」と書いてあります。つまり27は本所区(現・墨田区)にあった洋食店で、神楽坂ではありません。本所は関東大震災で大きな被害を受けた地区なので「再建」もしっくりきます。
 なぜ、これらの写真が「豊来亭」になったのでしょう。実は職業別電話名簿の「寶来軒」の隣に「寶来亭」が掲載されています。所在地は「本所、中ノ郷八軒23」-本所区中ノ郷八軒町23番です。
「寶来軒」と「寶来亭」の間にのれん分けなどの関係があったのか、「寶来軒」の料理人が震災後に「御国洋食部」に転職したのか。それとも単純ミスか。真相は分かりません。
 なお関東大震災後の「職業別電話名簿」大正15年版にも「寶来軒」「寶来亭」は両方とも掲載されています。

 矢来町26番地について。昭和初期に矢来町だけが番地の分配や再分配を行いました。もともとは明治35年の「夜の矢来」の訳では「君はどちらから来たのですかと他人に問われて、矢来ですと答えると、その人が二の句を発し、矢來は広い所ですねえと必ずいう。でも、そんなに広い所ではないのです。ただ本鄕の西片町と同様で、一か所、番地のなかは中々広い、家が数百ケ戸もある番地があります」。つまり、旧酒井若狭守の下屋敷です。
 明治時代には下屋敷は巨大で過疎地域になり、逆に庶民は小さな平屋に住んでいました。昭和12年になると、この庶民の町は小さな家屋や店舗が一杯に並んだ地域となり、新しい番地が告示され、下の地図も登場します。矢来町26番地はおそらく矢来町126番地になったのでしょう。しかし厳密にいえば、矢来町26番地はどこにあったのか分からない時代になります。しかし、写真26はどう見ても26番地とは違うと感じます。

矢来町。都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

メイセンヤの変遷

文学と神楽坂

 メイセンヤについて、地元の方がエッセイを書いてくれました。

 このブログには「メイセンヤ」という、現代では聞き慣れない店が何カ所か出てきます。とくに「古老の記憶による震災前の形」の地図には、神楽坂2丁目に「銘仙屋」があり、混乱しがちです。

メイセン屋。古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会

「銘仙」は織物の種類だそうです。ソバを食べさせる店を「ソバ屋」と呼ぶように、単に「生地屋」という意味なのでしょうか。
 国立国会図書館デジタルコレクションで、大正から昭和初期の東京近郊の職業別電話帳が公開されています。この中に「銘仙屋」が出てきます。
 電話帳の右側は「東京特選電話名簿」(三友協会、大正11年)。それによると「銘仙屋平本合資会社」が正式名称で、本社は神田区鍋町13(現・千代田区神田鍛冶町付近)にありました。「第一支店」が牛込区神楽町2-10(現・神楽坂2丁目)、四谷支店が四谷区傳馬町3-18(四谷伝馬町、現・四谷付近)にあったことが分かります。

銘仙屋の比較・昭和10年と大正11年

 左側は13年後の「職業別電話名簿. 第25版」(日本商工通信社、昭和10年)です。銘仙屋平本合資会社の社名は同じで、電話番号478番のままですが、本社は四谷区傳馬町に移っています。また第一支店は「牛込支店」と名を変え、牛込区上宮比町2(現・神楽坂4丁目)に移転したことが分かります。電話番号3143番は神楽町2-10の時と同じです。

 つまり「古老の記憶」は、別の時代の「銘仙屋」の支店を同じ地図上に記載してしまっていると思われます。屋号は商品名そのままの「銘仙屋」で正しく、メイセンを扱う代表的な店だったのかも知れません。
「銘仙屋」は戦後の地図には書かれていません。戦時中になくなったと想像されます。

 メモですが、岡崎公一氏は「神楽坂と縁日市」(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)で、昭和5年頃は、神楽坂2丁目の銘仙屋は大木堂パンに変わり、一方、神楽坂4丁目はメイセンヤのままだとしています。
 また、銘仙という絹織物は優しい色、お嬢様学校の柄、洋風の普段着として、昭和初期に全盛期になりました。
 最後に、漢字の銘仙屋から片仮名のメイセンヤに変わった理由は、おそらくメイセンヤのほうが綺麗で、おしゃれで、粋だったためでしょう。

神楽坂1丁目(写真)平成23年 ID 16075, 16710, 16711

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 16075, 16710, 16711は、平成23年(2011)、牛込橋と神楽坂下交差点から、坂上に向けて写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16075 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16710 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16711 神楽坂入口

 四つ角は「神楽坂下」交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。平成7年(1995)のID 16074と比べると整備が進みました。
 交差点名は信号機とは別に上に表示されています。「牛込見附交差点」の表示は信号機にくっついていました。
 牛込橋の土橋部分には街路樹と、その足元の植栽ができました。街路樹は落葉樹で、葉を落としています。ID 16075の右側の大きく茂っている木々は街路樹ではなく、隣接する飯田橋セントラルプラザの緑地です。
 街灯は6角形の2灯用ランタンから逆正4角錐の街灯に変わりました。この街灯は平成15年(2003)に完成したものです。
 さらに大きな違いは、ID 16074に見られる架空の電線が地中化されたことです。これに伴い、地中線を管理する地上機器(ID 16075の左側歩道の2個の緑色の小型ボックス)が設置されています。分かりにくいですが、神楽坂通りの電柱も地中化されています。
 歩道はブロック(インターロッキング)で舗装されています。歩行者の衣服はどれも冬用でした。
 ID 16074で外堀通りの角にあったマクドナルドは、カグラヒルズに移転しています。また、道路標識はここでは省略します。

神楽坂1丁目(平成23年)
  1. アパート・マンション Mini Mini
  2. はんこ屋さん21 (事務所向けサービス)
  3. アパート・マンション(ニューハウス)
  4. 親子丼・うどん な(か卯)
  5. (メガネドラッグ)
  6. (カナルカフェ)
  7. (外堀通り)
  8. New Paris スロット 新台 入替「新台 アントニオ猪木が 元気にする パチスロ後」
    (→左)(サカイ書店)
    (→左)三河屋酒店
  9. エイブル
  10. モスバーガー「MOS BURGER この下すぐ モスバーガー神楽坂下店」
  11. 15 いちご ナビ 高収入  検索
  12. 神楽坂 翁庵「24時間営業 まんが喫茶 ゲラゲラ 4階」「神楽坂 吉 5F|まんが喫茶 4F|リーチ麻〇 ふじ 3F|きそば 神楽坂 翁庵 1・2F|〇B1」
  13. 駅前留学 NOVA こども駅前留学 NOVA KIDS
  14. 志満金
  1. (都のシンボルマーク)と  (東京都飯田橋庁舎の案内看板)
  2. (外堀通り)
  3. アパマンショップ(不動産仲介業)
  4. ボナ(カレーショップ)
  5. 文具 原稿用紙 山田紙店
  6. 不二家 ドトールコーヒー Doutor 「J Soul Brothers 12.01 デビュー第2弾シングル」「BOOK OFF 250m」
  7. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  8. カグラヒルズ 「Tokyo Walker 角川文庫」各階 カグ「カラオケの鉄人 AM/11:00~AM/6:00」「McDonald’s|にんにく 鶏 おでん まんま|(カラオケ)の鉄人 3F」

住宅地図。2010年

神楽坂1丁目(写真)平成7年 ID 16074

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 16074は、平成7年(1995)、牛込橋から神楽坂に向けて写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16074 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下(旧・牛込見附)交差点ですが、信号機に交差点名の表示はありません。左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通り(早稲田通り)です。
 最初に写真の手前から見ていきます。左右の歩道には植木やガードレールはなく、工事用の柵で車道と仕切っています。交差点に最も近い場所に街灯(2灯用ランタン、上向きの6角形の外灯と歩道に近く下向きのやや小さい6角形の外灯、正面から見ると卍に似てる)があり、腕木に緑色の「神楽坂」の文字が見えます。一方、手前の左側には仮設の照明と電気盤でした。
 撮影位置の背中側には牛込橋があり、戦前から使っていた石橋を現在の鉄橋に架け替え、平成8年(1996年)に完成しました。写真では橋は工事中でした。
 次に外堀通り。街路樹は葉を落としています。高所から左右を照らす街路灯が車道の中央に建っています。商店街の街灯ではありません。
 最後に神楽坂通りの奥。神楽坂通りは歩行者天国中で、車道は注意喚起のギラギラ塗装で赤くなっています。ここの街路樹も裸木です。
 信号の奥には緑色の「神楽坂」の標識ポールがあり、その向こうには信号手前と同じ2灯用ランタンの街灯が続いています。道路標識も沢山ありますが、ここでは省略します。
 現在は晩秋から早春です。

神楽坂1丁目(平成7年)
  1. 名代 うどんそば
  2. 白鷹 特製とんかつ 森川
  3. メガネドラッグ ホントにホントに安い!
  4. マクドナルド ハンバーガー
  5. 外堀通り
  6. (パチ)ンコ ニューバリー
  7. 神楽坂 翁庵 ジャンプ
  8. 5Fカラオケ

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 1年間保険付 ホントにホントに安い!
  2. 地下鉄 SUBWAY 飯田橋駅
  3. 外堀通り
  4. AKAI
  5. 薬 ヒグチ
  6. 紙店
  7. 不二家
  8. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  9. カグラヒルズ 各階名店ぞろい 英会話ECC 飯田橋校
  10. TWIN STAR Disco &

神楽坂1丁目(写真)令和2年 ID 14799, 14915, 14917

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14799, 14915, 14917は、令和2年(2020)、牛込橋から神楽坂下交差点、さらに神楽坂の坂上まで写真を撮ったものです。撮影した日はID 14799は3月21日、ID 14915とID 14917は5月24日でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14799 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14915神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14917 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」。
 街路樹は、3月はまだ裸木だけですが、5月に若葉や青葉が一杯になっています。
 左右の歩道の縁石側に、神楽坂通りと同じ上を向いて逆正4角錐の街灯(アイ ツインアークが光源)があります。ここはちょうど千代田区との区境で、手前右上の下向きの正六角体の街灯は千代田区側で、3月の写真では街灯の時計が見えていて、午前9時27分でした。
 左側にある2個の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。左右の街路樹の下には植え込みがあり、歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。
 歩く人はほぼ全員がマスクを付けています。この年の1月末にクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号で新型コロナウイルス感染が流行し、4月に初の緊急事態宣言が発せられました。このため外出時のマスク着用が定着しています。

神楽坂1丁目(令和2年)
  1. アパート・マンション Mini Mini
  2. ▶消火栓 Fire Hydrant パチンコ店スロット PRESAS プレサス「お部屋探しは/ミニミニへ」「大学生協指定店」
  3. はんこ屋さん 21 激安 「実は、はんこ/以外も〇〇/名刺 〇 〇/ご予定と〇〇を教えてください 〇〇通りさせて頂きます!」
  4. 〇貸・売買(ニューハウス 不動産会社)
  5. (不明)
  6. ▶街灯に旗「神楽坂」
  7. 名代 富士そば。のぼり旗「生蕎麦」
  8. ⓘ(カナルカフェ)
  9. (歩行者横断禁止)
  10. 最高速度30km (駐車禁止)
  11. 外堀通り
  12. ▶警告(道路に関する立て看板)
  13. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  14. (STARBUCKS COFFEEのトレードマーク)(喫茶店)
  15. エイブル(不動産会社)
  16. モスバーガー
  17. 屋上広告「インターネット まんが喫茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  18. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  19. (志)満金(うなぎ店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 警告 この道路は駐車禁止です。運転者が乗車中でも取締りを行います。牛込警察署 新宿区
  2. 神楽坂
  3. 東京都飯田橋庁舎
  4. Free WiFi 公衆電話ボックス
  5. 千代田区の街灯と時計
  6. 神楽坂の絵
  7. アパマンショップ(不動産会社)
  8. (一方通行)「自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」
  9. のレン NOREN MURO 室(生活用品店)
  10. (一方通行入口)「12-24」
  11. ▶消(火栓) Fi(re Hydrant)
  12. ▶地下鉄のマーク(入口)
  13. Fujiya GINZA ペコちゃん焼
  14. 「ドトールコーヒー」「300m ホットヨガ/カルド神楽坂」「未〇〇」
  15. 右に「神楽坂 あんみつ」「紀の善」
  16. カグラヒルズ デジタルサイネージ「女性の顔 〇〇〇」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」(薬屋)「ミライザカ」(唐揚)

善国寺(写真)昭和44年頃 ID 14126-28

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126~28は、善国寺の写真を撮ったものです。撮影の年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。
 この時期、善国寺には昭和45年 ID 8299-ID 8300昭和44年 ID 8271-ID 8272などがあり、これらを元として解説します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126 善国寺

 境内の隅から斜めに撮影しています。手前右側の四角い石はおそらく建物の基礎で、戦前にはこの場所には建物があり、東京名所絵図(明治37年)の挿絵には賽銭箱なども描かれています。その奥の建物は基礎がない仮設の小屋と思われ、商店街のセールの福引所などに使われました。
 T字に並んだ敷石は参道です。戦前のものと思われ、凹凸が目立ちます。左手間は毘沙門横丁側の門につながり、左側は本堂(毘沙門堂)に、右は正門に続いています。
 参道の向こうに四角い石があります。このあたりも戦前は建物があったので、礎石の一部かもしれません。左には屋外灯と旗の掲揚塔。さらに左は石虎で、土台に「奉」の一文字が掘られています。
 その奥の手すりは、写真には写っていない石造滑り台から降りてくる子どものための安全柵です。黒っぼい角柱は日よけの支柱で、その足元は砂場。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。いずれも区立毘沙門児童遊園の施設です。
 最も左奥の建物には「易占えきせん/毘沙門天/易断所」という看板がかかり、そこで易者が占っていました。
ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14127 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14128 善国寺

 ID 14127とID 14128は、いずれも北側の正門の外から本堂を見ています。左側にはベンチと、わずかに見えるくじ引き用の抽選器。その上には「餅花もちばな」を模した小さな正月向けの飾り。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習でした。軒下には提灯が並びます。
 中央の5列の敷石は参道。右は門柱で、大きく欠けているようにも見えます。いずれも戦前から残存したものでしょう、
 屋外灯、石虎、中央奥には本堂と鈴紐すずのお、賽銭箱には右書きで「奉納」と「神楽坂振興会」。石虎の右奥は、背もたれが独特なベンチでしょう。
 参拝者はコートを着ています、時期は年末で「陽差しから見ても、ID 8299と同時撮影でしょう。本堂は昭和46年に再建されるので、その建築前、おそらく昭和44年の年末でしょう」と地元の方。

善國寺。住宅地図。1970年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

地蔵坂|天神町

文学と神楽坂

 新宿区の地蔵坂には神楽坂5丁目と袋町の坂と、矢来町や天神町に近い坂という二つの坂があります。天神町に近い地蔵坂は正確にはどうなっているのでしょうか。まず標柱は……

地 蔵 坂
(じぞうざか)
江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『すな残月ざんげつ』)。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。

 しかし、ここから100mも離れていない北方に渡邊坂があります。この渡邊坂については別の場所に書いています。ここでは地蔵坂について書いていきます。
 横関英一氏の「続江戸の坂 東京の坂」(有峰書店、昭和50年)では……

都内における古今の坂名、橋名の同じものを一括して揚げると、次のようになる。(中略)
地蔵坂(牛込、王子、志村、向島)
地蔵橋(築地川)

とほとんど何も書いてありません。
 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社、昭和46年)では……

地蔵坂(じぞうざか)
 矢来町交番の前の道(江戸川橋通り)を北に下る坂で、坂下は山吹町を通って江戸川橋に至る。坂上は通称矢来下とむかしからよばれた。『異本武江披抄』には「地蔵坂 酒井修理大夫下屋敷脇、天神町へ下る坂也。今此坂を地蔵坂といへど、むかし楠ふでんが害せられたるは、酒井の屋敷と御先手組屋敷の間なり、由井正雪が宅地は榎町済松寺脇、西丸御先手組の所なりといふ」とあり、袋町の地蔵坂の楠不伝暗殺の伝えを否定している。
「新撰束京名所図会」にはこのあたりのことを「昔の酒井邸は土手を築き、矢来を結び、老樹陰森として昼なほ暗く、夜は辻斬、迫剥出没せり、されば臆病者の武士は門前夜行なりがたく、帯刀の柄に手をかけて、一目散に駆け披けたりとの談柄あり」と述べ、また地蔵坂については「同町(矢来町)と東榎町の間を南に上る坂あり、地蔵坂といふ」とし、『異本武江披抄』が「天神町へ下る」としているのとは少しくい違いがあるようだ。

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では……

地蔵坂(天神町、矢来町交番前を西北へ東榎町へ下る坂)
  〈別名〉 三年坂
「長十三間巾二間」(東京府志料)
 交番前を左にカーブして下る早稲田通りの坂。三年坂の別名をもつのは、転べば三年の後には命を失うというほどの急坂であったと思われる。いまも、交番前は、どすんと落ちる急勾配である。
 坂下で早稲田通りの南側から奥の裏通りに入ると、露地を挾んで家がびっしりと並んでいる。向かい合った家の軒が、くっつかんばかりだ。
「矢来の坂を下りた所、天神町の裏通りには、結婚当時に住つてゐた。長屋住ひ見たいで、子供の泣声、台所のにほひ、便所通ひの気色まで此方へ通じるので、明窓浄几と云つたやうな、文人の生活趣味は、その借家では感ぜられなかった。」(正宗白鳥『心の焼跡』)(中略)
 明治は暗く、そして、泥ンこであった。
明窓浄几 めいそうじょうき。明るい窓と清潔な机。明るく清らかな書斎をいう。

『今昔東京の坂』に出てくる別名「三年坂」は、神楽坂の本多横丁とほぼ同じ名です。さて、天神町の地蔵坂に戻って、この場所は3冊とも本質的に同じ場所を指します。つまり坂が始まる牛込天神町交差点から坂が終わる(下図)までの地域です。
 ただし坂の始まりと終わりは現在と江戸時代で違うのが普通です。また、明治時代には、地蔵坂と渡邊坂が真っ直ぐな1本の道(江戸川橋通り)に改修しました。つまり江戸時代から明治時代まで2つの坂を少しずつ、凸凹は直し、クランクは止めて、なだらかな坂1つに替えました。また、現在の渡邊坂には、高低差は感じません。江戸時代は坂らしい坂ばずだ…と思います。

礫川牛込小日向絵図。嘉永2年~文久3年(1849-1863)これは蔓延元年(1860)の図

 なお、文京区の礫川牛込小日向絵図(嘉永5年、1852年)では天神町の道に階段がありました。すぐに階段はなくなりますが、この階段があると、坂下の天神町と坂上の矢来下で、2つの坂は別々になっても、一本には普通はできないと思います。

小日向絵図礫川牛込小日向絵図 尾張屋板 嘉永5年(1852)

 最後に現在の地蔵坂と渡邊坂、江戸川橋通りの地図です。江戸時代の絵図とは南北が逆で、天神町交差点は一番下になります。

若宮八幡神社(写真)昭和44年 ID 14124~25

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14124と14125は、若宮公園(若宮八幡神社と境内)の写真を撮ったものです。写真と撮った年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14124 若宮公園(若宮八幡神社)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14125 若宮公園、若宮八幡神社境内

 以下について地元の人は……

 同時期の昭和44年秋に若宮八幡神社を撮ったID 8245~ID 8252があります。全体の雰囲気はよく似ていますが、以下の点が違います。
 ・陽差しが違う。ID 14124-25は曇天らしく影がない。
 ・稲荷社の神前幕、内陣を仕切る木柵、三宝の供物や御幣などが細かく違う。
 これから撮影時期は異なると推測できます。
ID 14124
 写真の正面左は流造ながれづくり拝殿。左はおそらく松の木で、右は裸木。左に見える「自動車 駐車禁止」の看板は道路を挟んで向こう側の家のブロック塀にあるもの。つまり神社と公園には塀も柵もない。写真の右手前にはブランコ、奥にすべり台。数人の子どもが冬服を着ている。中央に1本の屋外灯があり、ランプは下がやや狭い直円錐で丸い傘がある。
拝殿 はいでん。「本殿」を拝するための社殿。 本殿は神のための建物。 拝殿は人間のための建物。

ID 14125
 左にブランコとすべり台。正面には摂社の「正1位稲荷大神」の稲荷神社。奥に丸紅(株)若宮寮。右側に社務所。針葉樹と広葉樹が混ざっている。
摂社 せっしゃ。神社の格式の一つ。本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社。本殿に祀られている神様がメインの神様(主祭神)。境内にあるほこら、つまり小さな社殿にあるのはサブの神様。サブの神様を祀る小規模の社殿を「摂社」または「末社まっしゃ」と呼ぶ。

五軒町(写真)平成31年 ID 14059-62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14059から14062までとID 14196は、平成31年(2019)東五軒町と西五軒町から、相生坂の方面の写真を撮ったものです。道路の右側は西五軒町、左側は東五軒町です。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14059 西五軒町 西五軒町6-12から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14060 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14196 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14061 西五軒町 真清浄寺から相生坂を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14062西五軒町 東五軒町から西五軒町を望む

 5枚の写真をID 14059は➀、ID 14060とID 14196は②、ID 14061は③、ID 14062は➃として地図に撮影した場所を書き込むと、以下のようになります。➃の道路の右側は「ラ・トゥール神楽坂」という地上24階、地下2階建の賃貸マンションです。

 新宿区は、何を目的にこの場所を撮影したのでしょうか。
 この界隈は印刷製本の町でした。昭和39年(1964年)の東京オリンピックや、昭和44年(1969年)の首都高速5号池袋線の共用開始の頃から、小さな印刷工場が店じまいしてマンションを建てる動きが目立ち始めました。芳賀善次郎著『新宿の散歩道』(三交社、1972)では……

印刷製本工業地帯          (神田川ぞい)
 新小川町から神田川にそった両岸一帯は、上流の戸塚まで、印刷製本の盛んな地域である。東京における四大印刷工業地帯の一で、文京区の小石川低地一帯、神田神保町一帯、中央区京橋裏通り一帯とともに有名である。
 これは、神田の本屋街に近いためであるが、牛込にも代表的な印刷、出版会社がある。これと関連して見のがすことのできないものに、その印刷した紙をたたむ仕事や内職をする「折り子」が多かったことである。しかし、製本の機械化がしだいに進み、さらに昭和四十四年神田川にそった道路上に高速道路ができると、道路拡張が行なわれ、会社が高層ビル化するとともに近代化が促進されて手工業の姿は姿を消した。
 地理学者田中啓爾は、つぎのよういっている。「小石川地区や牛込地区の印刷工場の周囲は、谷間も完全に住宅地や商店街となってしまっている。それでもこの印刷工場は、住宅地や商店街と両立しないことはない。
 この印刷工場のようなものは、周囲にめいわくをかけない文化工業であるからである。こんな文化工業は、山の手方面にいつまでも残ることができる。」
 〔参考〕東京都新誌

 現在では、すっかり住宅街に変わっています。歴史上の価値がある何かが写っているのか、定点観測か、それとも単に「相生坂」を撮影したのか、目的がよくわかりません。
 なお、新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)は、相生坂は一つだけと読めそうです。

 白銀町から東五軒町と西五軒町の間を下る坂を俗に相生坂あいおいざかという。また別名鼓坂つづみざかともいう。赤城元町の赤城神社西側の赤城坂と相対しているので、相生坂と一対にして鼓の両側になるという意味で鼓坂と名付けたという(町名誌)

 つまり、西五軒町と東五軒町の間だけを相生坂だとしているようです。ただ東側に並行するもう一本の坂も相生坂と呼ばれており、教育委員会による標柱は二つあります。

渡邊坂(写真)平成31年 ID 14057-58

文学と神楽坂

  神楽坂通りを上り切ってそのまま西へ進み、地下鉄神楽坂駅を過ぎると「逆転式一方通行」の区間が終わり、ゆるやかな下り坂の対面式になります。その道が突き当たるような三角形の変則交差点が「牛込天神町交差点」です。
 この交差点を右折し、北に下る坂に標柱「地蔵坂」が建っています。さらに100mほど進むと標柱「渡邊坂」にやってきます。「マティーニバーガー」の前です。

わた なべ ざか  江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年(一六六七)に市谷鷹匠町の屋敷と引換えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。

渡邊坂。北から望む。

御書院番 江戸幕府の職名のひとつ。若年寄の下で、営内を警備、 将軍外出の際には行列に従い警護にあたるほか、遠国出張や交替で駿府在番などを務める。

 でもおかしな問題があります。「地蔵坂」と「渡邊坂」、どこが違うの? 東京の坂について書いてある3冊を調べました。
 まず、横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、1970年)によれば……

渡辺坂 新宿区天神町と中里町の境を南へ矢来のほうへ上る坂。昔、坂のふもと東側、中里町に「渡部源蔵」の屋敷があった(万延元年図)

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)の本とほとんど同じで……

渡辺わたなべ(天神町、中里町の境)
 矢来町二七、矢来町派出所前を、早稲田通りと分かれて、北に下る広い道。なだらかに下る。この道をそのまま進むと、山吹町を経て、江戸川橋にいたる。
 むかし、坂下東側、中里町に渡辺源蔵の屋敷があった。『江戸切絵図』(尾張屋版)に、中里町から矢来下に向かう道の東側に、渡辺源蔵の名が見える。道に、坂のマークはついていない。現在、坂の東側に、「渡辺歯科」がある。源蔵さんの家系か。

 これは岡崎清記氏の図ですが、渡邊坂は大きな場所を占め、地蔵坂はここではなく右側の場所が正しいと書かれています。

岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)

 では、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)によると……

渡辺坂(わたなべざか)
 中里町と天神町の境を南へ、天神町三四番と三五番の間を入って南に上る。坂上は同町二六番と二七番の間に出て、東西に延びる崖下の狭い道につき当たる。裏町の露地という感じの道である。坂名の起りは、むかし、この坂のふもとに旗本渡辺源蔵の屋敷があったことによる。『諸家系譜』によると、渡辺源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年に市谷鷹匠町の屋敷と引き替えに通称天神下の御書院番組屋敷の内を賜った。

 こんどは渡邊坂と地蔵坂、180°正反対です。

石川悌二氏『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)

 これは歴史から調べないとだめ。万延元年では旗本渡部源蔵はここにありました。

万延元年

 上と左の辺が道路になり、上辺はほぼ水平なので、坂をつくるのには左辺しかありません。

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

 明治20年の地図は下のようになっています。なるほど二つのT字型交差点の間を結んで「渡邊坂」があったんですね。つまり、天神町から「渡邊坂」はクランク状で、まっすぐの道ではないのでした。

明治20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 ところが明治29年、このクランクが改修されます。「渡邊坂」の西、地図で言うと左側に新たな道の建設が始まったのです。

 明治40年の地図では完成しており、この道路が令和になるまでそのままです。

明治40年地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 つまり、渡邊坂は今ではありません。

 最後に2019年、新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の渡邊坂です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14057 渡邊坂 「山吹町」交差点から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14058 渡邊坂 新宿天神局前から北方面を望む


神楽坂5丁目(写真)平成31年 ID 14056

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14056は、平成31年(2019)神楽坂5丁目から神楽坂上交差点をはさんで神楽坂6丁目方面の写真を撮ったものです。交差点の向こうは左側が5丁目、右側が6丁目になります。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14056 神楽坂上交差点から神楽坂六丁目方面を望む

 四つ角は神楽坂上交差点、左右の道路は大久保通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」
 左右の歩道の縁石側に、上を向いて逆正4角錐の街灯(光源はアイ ツインアーク)があります。横木には「神楽坂」を染め抜いた紫の旗が下がっています。
 神楽坂上交差点を越えると、左の5丁目も右の6丁目も同じ街灯(やじろべえ型)になります。やはり「神楽坂」の旗が見えますが、違うデザインで、色も赤く変わります。
 電灯はなく、左側の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。
 大久保通りの拡幅計画のため、交差点の右前にあった河合陶器店山下漆器店はなくなり、2019年にみんなの買い取りプラザがなくなり、2020年にはアマリージュもなくなりました。
 ケヤキは裸木で、人々は厚い上着を掛け、おそらく季節は晩秋から冬。買い取りプラザは2019年4月のストリートビューでは取り壊されているので、2019年1~2月の撮影と推定されます。

神楽坂5丁目→6丁目(平成31年)
  1. (くすりの福太郎)。垂れ幕「24時間年中無休のフィットネスジム ANYTIME FITNESS 2階」「FITNESS」
  2. (駐車禁止)
  3. マルゲリータパリアッチョ(Margherita Pagliaccio)神楽坂店。PAZZERIA & TRATTORIA。薪の数束。
  4. TSUKIJI 築地すし(好)SUSHIKO
  5. (つくば商事)
  6. ▶神楽坂通り
  7. 大久保通り。
  8. 神楽坂上交差点。
  9. 信号機。
  10. ココカラファイン(薬)。JOY FIT(2階)
  11. (神楽坂)商事
  12. ( 歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. みんなの買い取りプラザ「お売りください 高価買取 無料査(定)/かしこい 生前整理 遺品整理 ご予約受付中/貴金属・ダイヤ・色石・ブランド品・時計/骨董品・美術(品) 中国骨董(・刀剣) 掛け軸(・絵画) 茶道具・書道具 象牙・珊瑚(・翡翠) 着物・帯・(毛皮)」
  2. アマリージュ
  3. 仮設のパイプ柵と緑色のネット(店舗の撤去跡)
  4. 大久保通り。
  5. 「↑ 280m  地下鉄駅 神楽坂駅」「← 100m 地下鉄駅 牛込神楽坂駅」「牛込消防署→ 160m」
  6. 安養寺
  7. 五十番
  8. (一方通行)12-24
  9. 株式会社アドバリュー2・3F(広告代理店)。株式会社ケイ・トゥー・ワン2F(デザイン会社)。証明写真(55 Station)。
  10. (Panasonic しのはらでんき)

住宅地図。平成27年。

牛込神楽坂駅(写真)平成31年 ID 14053-55

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14053~55は、平成31年(2019)1月、大江戸線の牛込神楽坂駅付近の地上の写真を撮ったものです。牛込神楽坂駅は、平成12年(2000年)12月12日開業し、大久保通りに沿って3つの出口があります。
 A3出口は神楽坂上交差点、神楽坂、岩戸町が最も近い場所です。A3出口は右手です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14053 牛込神楽坂駅

 A2出口は袖摺坂、南蔵院、「新蛇段々」などが最も近く、A2出口はこの写真では見えない場所です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14054 牛込神楽坂駅 A2出口と神楽坂上方面を望む

 つまり、交差点から右側に渡り、南蔵院事務所の影に入って、A2出口は現れます、

 A1出口は牛込北町の交差点寄りで、牛込箪笥区民センター(旧牛込区役所)にあります。横寺町、矢来町などに最も近く、A1も見えません。遠くに見える信号と横断歩道の手前、あるいは左の軽自動車バン付近で、視点から100メートルほど向こうに離れた場所です。なお、左のガラスの壁はタリーズコーヒージャパン本社です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14055 牛込神楽坂駅 箪笥町から牛込神楽坂駅を望む

[箪笥町]

兵庫横丁(写真)平成31年 ID 14052

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14052は、平成31年(2019)1月、兵庫横丁の北の入り口から南方を見て写真を撮ったものです。影が長いので夕方の撮影のようです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14052 神楽坂から南方面を望む

 前方の石畳が兵庫横丁、手前のアスファルトが公道で名前はありません。左側のゆるやかな上りは2番目の四つ角から下り坂になり、この坂は軽子坂です。右側の先、曲がり角からは和泉屋横町です。斜め後方は材木横丁。兵庫横丁と材木横丁の大部分は私有地です。

道路台帳平面図

 兵庫横丁の石畳には歩行者用の白線はなく、車を想定していません。ただ荷運びなどで例外的に車が入ることはあるようで、この写真でもバンが停まっています。
 石畳の中央部は扇形に並んでいますが、左右は少し違っています。これについて地元の人の解説は……

 石畳は路地の歴史を色濃く残します。この写真の右側には雨水を流す側溝があり、境石を挟んでモザイクのような石敷になっています。石畳とアスファルトの境に正方形の金属製プレートがあり、おそらく土地の境界標です。建物を建てる時に路地を広げて側溝を作ったと想像できます。
 左の家の前は、幅40センチくらいにわたって石畳が直線的に敷かれています。よく見ると赤い三角ポール(駐車禁止)の左側に窪みがあります。この窪みは別の写真で見ると排水溝です。昔はこの位置が路地の端で、今の建物を建てたときに後退して石畳を追加したことが分かります。
 私有地では、こうした側溝や上下水道は路地に面した家が費用を負担して整備します。おそらく下水管は路地の中央にあり、公道に出たところのマンホールにつながっています。
 工事で石畳を部分的に掘削した時は、そこを石畳に戻すのがルールです。従って時代を経るにつれて石畳は傷んでいきます。ちなみに神楽坂通りの歩道のインターロッキングは公道ですが、工事した店が掘削部分を同じ材料で復旧する義務を負っています。
 私有地である路地でも、住人が区に共同で申請すれば上下水道や石畳の整備に補助がもらえます。住人の意見がまとまらない場所では、徐々に石畳を維持できなくなっていくようです。
境石 きょうせき。境界石。きょうかいせき。隣の敷地や道路との境界ライン。素材はコンクリート、金属、プラスチック、鋲など。境界標と同じ
石敷 平たい石を敷き詰めて舗装した所。ピンコロ石より大きい。
境界標 目に見えない境界点を現地で示す標識

https://to-ki.jp/center/useful/kiso010.asp

 左の家1軒目はイタリア料理店ラストリカート(意味は石畳)で、2軒目は「おいしんぼ」です。中央部には旅館「和可菜」があります。ここで終わりに見えても右側に小路があり、さらに奥にはいっています。上の絵(ID 14052)も電柱があり、やはり奥にはいけないという幻想があります。ここから心理的には昭和初期、ちょっと怖くて、わくわくする世界が始まります。

兵庫横丁 住宅地図 2017年

 遠景のビルは左は島田ビル(地上6階、1階はワヰン酒場)、右はオザワビル(地上7階と地下1階、1階は郵便局とカフェ・ベローチェ)です。どちらも神楽坂通りに接しますが、縦横高さの大きさでもオザワビルのほうが巨大です。

赤城神社(写真)平成31年 ID 14051

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14051は、平成31年(2019)1月、赤城神社駐車場から写真を撮ったものです。なお「データベース」には「赤城神社から早稲田方面を望む」と書いてありました。また平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14051 赤城神社から早稲田方面を望む

赤城神社と豊島区のビル

 はい、早稲田はもっと左側なので、方向が違っています。
 近くの赤い建物は「ライオンズマンション神楽坂第三」です。遠くの高いビルは左から豊島区役所などの「としまエコミューゼタウン」(地上49階)、ライズシティ池袋の「エアライズタワー」(地上42階)、最も高いのが「サンシャイン60」(地上60階)、重なって見えるのが「アウルタワー」(地上52階)と池袋周辺のビルです。最も右は少し手前で、音羽の講談社(地上26階)のようです。

14051b 赤城神社から池袋方向を望む

 ではなぜこの場所を撮ったのでしょうか。野田宇太郎氏の『文学散歩』「牛込界隈」「赤城の丘」(初稿は昭和44年)を読むと分かってきます。

   赤城の丘
 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。(中略)
 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。
 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。

モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社の3神社を建立。

TV「気まぐれ本格派」 29 神社の恋の物語、1977年

若宮町(写真)平成31年 ID 14050

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14050は、平成31年(2019)1月、若宮町から善国寺方面を望んで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む

 新宿区の「新宿区史・昭和30年」「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています。この3枚目(下図)が、実は同じ場所です。時間は65年ほど離れています。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

 中央の「毘沙門横丁」は石畳からアスファルト舗装に変わっています。右側は神楽坂3丁目、左側は若宮町で、町のかつての料亭「松ヶ枝」はクレアシティ神楽坂若宮町というマンションになりました。
 この写真の少し後、2019年(令和元年)7月7日にメロン専門工房「果房 メロンとロマン」が開店しました。場所は右から2軒目(地図のジャスバー「もりのいえ」の隣)です。

若宮町 住宅地図 2017年

神楽坂1丁目(写真)平成31年 ID 14049

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14049は、平成31年(2019)1月、牛込橋から神楽坂通りをのぞんで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14049 牛込橋から神楽坂通りをのぞむ

 四つ角は神楽坂下交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」
 左右の歩道の縁石側に、神楽坂通りと同じ上を向いて逆正4角錐の街灯(アイ ツインアークが光源)があります。ここはちょうど千代田区との区境で、手前右上の下向きの正六角体の街灯は千代田区側でしょう。左側にある2個の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。左右に背の低いお花畑があり、歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。

神楽坂1丁目(平成31年)
  1. ニューハウス(不動産会社)か?
  2. 神楽坂バル Lasana
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. 名代 富士そば。のぼり旗「生蕎麦」
  5. (カナルカフェ)
  6. (歩行者横断禁止)
  7. 最高速度30km (駐車禁止)
  8. 外堀通り
  9. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  10. (STARBUCKS COFFEEのトレードマーク)(喫茶店)
  11. エイブル(不動産会社)
  12. 屋上広告「(インター)ネット (まん)が喫茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  13. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  14. (志満)金(うなぎ店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 千代田区の街灯
  2. 神楽坂の絵
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. ▶消火栓
  5. アパマンショップ(不動産仲介業)
  6. その右に「りそな銀行」、さらに「リアット」(靴修理)
  7. (一方通行)「自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  8. のレン(生活用品店)
  9. 「ドトールコーヒー」「 ホットヨガ/カルド神楽坂」 ONE DX BOCX
  10. 右に「神楽坂 あんみつ」「紀の善」
  11. カグラヒルズ デジタルサイネージ「盾の勇者の成り上がり シリーズ〇〇1~20巻 絶賛発売中 ファンタシー 2019年1月〇日よりTV アニメ放映」「カラオケの鉄人 11:00~AM/6:00」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」(薬屋)「ミライザカ」(唐揚)

神楽坂下のガス灯

文学と神楽坂

 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」の赤井儀平氏のガス灯です。赤井足袋店は外堀通りにあった神楽坂1丁目の角で、専門は足袋、戦後にはシャツも行いました。現在は閉店し、表札は今も「赤井」ですが、店はアパマンショップ(不動産会社)に変わりました。

 見附のつき当りは石垣ですからまっ暗でした。手前共の2代目がガス灯をつけました。橋の向いがわとこちらがわにです。そうすれば麹町のお屋敷の女中さん達も淋しがらずに出て来られるだらうというわけです。その頃はまだ電灯のない時代です。皆ランプでした。ガス灯は古い写真をごらんになるとおわかりになりますが、ひさしヘガラス張りの箱形の軒先灯がつけてありまして、点灯人夫が夕方になると脚立をかついで火をつけに来るんです。日本点灯会社というのが肴町にありまして点火、掃除、油差しを請け負っていました。勿論軒先灯だけではなく街灯もありましたが、照明が暗いだけでなく夜になると通りの店はみんな「あげ戸」を下してしまうものですから通りは暗くて、宅などは上の1枚だけを障子にしておきまして、窓をつけてございましたから、遅くいらっしゃるお客様にはその窓越しにあきないをいたしておりました。街灯といっても何本もありませんでしたので、そこだけは幾分か明うございましたがそれ以外の所はまっくらでした。それがだんだん電灯がつく様になりますと表にガラス障子がはまり、屋内の明りが外に出るようになりまして通りも大変あかるくなりました。それまで神楽坂もひどうございました。
あげ戸  揚げ戸。揚戸。縦溝に沿って上下に開閉する戸。戸の上端に蝶番ちょうつがいなどを取り付け、つり上げて開ける戸。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7641 赤井足袋店

 私はこれこそがガス灯で、神楽坂唯一で最古のものだったと考えました。しかし、地元の1人は、これがガス灯かも知れないと、言い方は微妙に違っています。つまり…

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7640-41に赤井足袋店と街灯が写っています。独特の形状で、これがガス灯かも知れません。撮影時期は『明治中期以降(推定)』としていますが、電柱と電線も写っており、撮影したのは大正初期の可能性もあります。

赤井足袋 ID 7640-7641

神楽坂1丁目(写真)昭和29年 ID 14048

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14048を見ましょう。撮影時期は1953年(昭和28年)頃と書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14048 神楽坂

 本当に28年に撮影したのでしょうか。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年ですので、昭和28年というのはありえません。この写真は「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)でも出ています。また「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。おそらく昭和29年が正しいのでしょう。
 写真はプリントではなく、「新宿区史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)から複写したものでしょう。また、ID 5190ID 21は昭和28年、ID 23はさらに昔です。

新宿区史・昭和30年

新宿區史(昭和30年)784頁

神楽坂1~2丁目(昭和29年)
  1. 外堀通りと都電の軌道
  2. 標識ポール「神楽坂」
  3. ゼブラ柄の背面板の信号機
  4. 街灯は鈴蘭灯
  5. (伊藤菓子店)
  6. (植木洋服店)
  7. 清(水衣)裳店
  1. 信号機の裏側。
  2. 看板「水野外科」
  3. 看板「産婦人科 加藤医院
  4. 外堀通りと都電の軌道
  5. フチを2色縞で強調した看板
  6. 赤井商店)(下の菓子屋は多分間違い。足袋が専門で、シャツは戦後)
  7. (その右側)「さ(くらや靴店)」
  8. 看板「茶」(東京円茶)
  9. 屋上看板「メトロ映画(燃える上海と謎の黄金島)」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

若宮八幡神社(写真)昭和36年 ID 13987, 88, 90

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で若宮八幡神社(若宮公園)のID 13987、ID 13988、ID 13990を見ましょう。撮影時期は1961年(昭和36年)の秋です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13987 神楽坂若宮八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13988 神楽坂若宮八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13990 神楽坂若宮八幡神社

 8年後の1969年(昭和44年)秋のID 8248と比較します。正面に流造(ながれづくり)の簡素な拝殿、狛犬と石灯籠が左右に1対ずつ。3列の敷石の参道。向かって右には笠をかぶった境内灯と、滑り台とブランコの遊具。敷地の奥には丸紅(株)若宮寮など、ほとんど同じです。
 昭和36年の場合は、区の「若宮児童遊園」の看板が右側の狛犬の向こうにあること。参道の左右に柳らしい木が見えますが、8年後にはなくなっていて別の木が大きく育っています。

神楽坂?(写真)昭和20年代 「祭風景」 ID 13794-99

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13794からID 13799までの写真を見ましょう。撮影時期は昭和20年代で、題名は「祭風景」です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13794 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13795 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13796 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13797 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13798 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13799 祭風景

 私には難しいので、地元の方はどう見ているのでしょうか。

 紅白幕のテントの中に、たくさんの僧侶が座っています。僧侶を取り囲む人々は肩袈裟をして「団扇太鼓」(「法華の太鼓」)を手にしているので、日蓮宗のイベントでしょう。地面はおそらく舗装されておらず、後方は隣家との間に木塀があります。大きなフラッシュのカメラで祭を記録しています。ID 13794の賽銭箱を拡大すると「日光ホテル」の墨書があります。
 別のテントには烏帽子や天冠をかぶった子どもらが稚児行列の出番を待っているようです。秋のイベントである日蓮宗の「お会式」と思われます。
 この写真が神楽坂と結びつくかどうか。毘沙門天善國寺は日蓮宗で「お会式」を挙行しますが、ID 13794の賽銭箱と木塀の位置関係やID 13799の本堂は違うようです。
 地下鉄神楽坂駅から少し離れた榎町の宗柏寺(矢来のお釈迦さま)も日蓮宗で、秋に「お会式」があります。民家に囲まれて奥まった場所に本堂があります。こちらのイベントだった可能性があります。

団扇太鼓 うちわだいこ。円形の枠に1枚の膜を張った太鼓。日蓮宗・法華宗などが多く、通称「法華ほっけの太鼓」

お会式 おえしき。日蓮門下の諸派で日蓮の命日の10月13日等にあわせて行われる法要

神楽坂(写真)昭和20年代 ID 13793

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」に「神楽坂付近か」として写真ID 13793があります。撮影時期は昭和20年代です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13793 神楽坂付近か

 奥には家があり、屋根の左側はあまり長くはなく、下がり棟が始まっています。前の2軒とはほぼ直角になり、10段内外で奥の家のほうが高くなっています(高さで2~3m)。前の2軒同士の間隔は30cmもないようですが、しかし、ゼロではなさそうです。一番前の家にはひょうたんの絵が型抜きされています。
 ではこれとよく似た場所を探しましょう。都市製図社の『火災保険特殊地図』しか残っていません。探していくとクランク坂だと……と書いてきましたが、実は『火災保険特殊地図』は正しいのですが、昭和27年ではなく、昭和12年を探していました。大間違いです、はい。クランク坂も大間違いで、改めて探しています。では、地元の方はどう考えるのかは……。

 ID 13793の場所は分かりません。ただ360度VRカメラで「クランク坂」を数えると15段あります。1段は16-18cm(20cmだと急すぎる)ので、「クランク坂」の高低差は2.5mくらい。この写真の段差は人の背丈や軒より低いので「クランク坂」とは違うように思います。
 階段を上がったところに門灯(裸電球)がついています。この路地は袋地で、階段は突き当たりの家のもののように感じます。同時代と思われるID 1379113792に比べて路地が未舗装で雨水用の側溝がないのも、路地が行き止まりで整備されていないためかも知れません。
 地形的には「かくれんぼ横丁」の突き当たりなど、裏道の袋地の奥が1mくらい高くなっている場所がいくつかあります。特定は出来ませんが、そうした路地の写真ではないかと思います。

神楽坂1丁目(写真)昭和33年頃? ID 13505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13505は、神楽坂通りの入口の夜景を撮ったものです。撮影は昭和33年(1958)10月だといいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13505 神楽坂通り入口 夜景

 これと非常によく似たID 59から63までの夜景の写真があります。とくにID 62はそっくりです。新宿歴史博物館は昭和37年(1962)頃だといいます。地域ごとのファイルは「1962年頃」、フィルムごとのファイルには「昭和33年10年」と書いてありました。
 この5枚は詳細に検討していて、昭和34年の撮影だろうと結論しています。とくに左方の標識ポールの柱(下図)は昭和34年(1959)のID 47(ID 5510)ID 50(ID 7002)では見えないので、それより早く写真を撮ったはずです。

 ではID 13505が昭和33年10月というのは正しいのでしょうか? 判断材料はID 59-63と同じで、ネオンサインの見えている大島毛糸のビルが完成したのは昭和34年(1959年)5月です。まだ建築中なのにネオンだけ点灯したという特別な理由でも無い限り(たとえば店舗の1、2階の完成は早く終わった、あるいはネオンだけが終わったなど)、昭和33年10月はおかしいと思います。
 ID 31-35(夜景)ID 36-39(夜景)と同じようにID 59から63まで(夜景、昭和37年?)とID 13505(夜景、昭和33年?)は実は昭和34年に撮影したと考えると、全てはっきりします。

神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13318

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13318は、令和元年(2019)6月、牛込橋あたりから神楽坂入口を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13318 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下交差点、左右に流れる道路は外堀通り、前後に流れる道路は神楽坂通りです。手前の舗装が違う部分は牛込橋です。戦前からの石橋を、平成8年(1996年)に鉄橋に掛け替えました。道路との間に黒いゴムを挟んでいて、小さな段差があるように見えます。おそらくコンクリートで舗装しています。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、意味は「駐車禁止」。
 縁石に近い歩道から左右で上を向いて茶色に塗った街灯があります。新宿区の街灯とは違うので、千代田区の街灯でしょう。

街灯。Google

 次に「神楽坂通り」がここから始まり、さらに道路標識が続きます。

高 田 馬 場
Takadanobaba
市 谷
Ichigaya

飯田橋
Iidabashi
◀━   外堀通り  ━▶
牛込橋→神楽坂1丁目(令和元年)
  1. ▶街灯
  2. ▶神楽坂通り
  3. ▶道路標識
  4. 部屋探し/(mini) mini/xx9-x532(賃貸物件仲介)
  5. ▶消火栓
  6. 名刺 印鑑(「はんこ屋さん」)
    ――神楽坂下交差点
  7. (STARBUCKS COFFEE)
  8. (エイブル)
  9. モスバーガー
  10. 屋上広告「いちごナビ 「ねぇ 15pay 知ってる?」「いちごナビ求人」(風俗求人情報)「(インターネッ)ト (まんが喫)茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  11. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  12. 志満金(うなぎ)

▶がある場合は歩道上で車道寄りに、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. ――神楽坂下交差点
  2. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  3. (車両進入禁止)が2つ
  4. カグラヒル(ズ)「ひとりぼっちの まる まる生活 TVアニメ NOW ON AIR」「カラオケ(の鉄人)」「インター(ネット) まんが(喫茶 自遊空間)」「マツモト(キヨシ)」
  5. 遠くの高層ビルは「ヴァンテ・アン神楽坂」(3丁目・マーサ美容室跡/10階建て、1998年完成)と「神楽坂アインスタワー」(5丁目・寺内地区再開発/26階建て、2003年完成)

神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13298

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13298は、令和元年(2019)5月、「神楽坂入口」を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13298 神楽坂入口

 交差点名は「神楽坂下」。信号機にはゼブラ柄の背面板はありません、車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、「駐車禁止」の意味です。街灯の柱は灰色で、光源はアイ ツインアーク(水銀ランプと高圧ナトリウムランプ)で、逆さまの正四角錐で包まれています。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。
 横断歩道の奥の車道が赤く舗装されています。通称「ギラギラ舗装」で、交差点付近の駐停車禁止の注意喚起を目的に東京都が平成13年頃から導入しています。ただし交通標識や路面標示のような全国一律のルールではないので、道路管理者が判断しているようです。この部分は新宿区道です。
 左右に走る外堀通りは、いつか都市計画で拡幅されます。このため写真手前の建物は2階建てで、少し奥の建物から高くなっています。左側の建物が斜めに切れたようになっているのは、その部分まで道路が広がることを意味しています。

神楽坂1丁目→坂上(令和元年)
  1. ▶看板「交通事故多発 取締強化路線」
  2. STARBUCKS COFFEE(喫茶店)パチンコニューバリー跡
  3. ▶交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」信号機。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  4. エイブル(不動産会社)田原屋フルーツパーラー跡
  5. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  6. モスバーガー(ハンバーガー屋)清水衣裳店跡
  7. 翁庵1・2F。梨々苑(焼肉)B1。「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」「Darts bar」
  8. 屋上広告「インターネット まんが喫茶 自遊空間」(向かいのカグラヒルズに入居)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 情報満載お部屋探し♪ Dramatic Communication アパマンショップ Network 飯田橋店(不動産仲介会社)赤井足袋店跡
  2. (車両進入禁止)自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  3. カレーショップ ボナッ
  4. ▶消火栓
  5. ▶神楽坂通り
  6. ▶標柱、三角コーン
  7. のレン 室(米麹食品専門店)白十字診療所跡
  8. ▶街灯。横断幕・「神楽坂」
  9. のレン(生活用品店)山田紙店跡
  10. ▶地下鉄 神楽坂駅
  11. 地下鉄 神楽坂駅出入口
  12. 「ドトールコーヒー Finest Quality Doutor 1F 34席 2F 41席 3F 57席」「300m ホットカルドカルド神楽坂」「パク・ボゴム」「ペ(コちゃん)」突き出し看板「ペコちゃん」「ペコ(ちゃん焼)日本で(ここだけ!)」
  13. カグラヒル。屋上にあるのはKADOKAWAのデジタルサイネージ広告で、この時に表示されていたのは…「とんび」の重松清x堤真一が贈る感動作 泣くな赤鬼。6.14 FRI ROADSHOW 堤真一/柳楽優弥/川栄李奈。原作:重松清「せ(んせい。)」「(カラオケの)鉄人」「地域最〇 SEG(A)神楽坂」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」

デジタルサイネージ広告 デジタル技術を活用し、平面ディスプレイやプロジェクタなどで映像や文字を表す情報・広告媒体。英語でDigital Signage(電子看板)

料亭「松ヶ枝」(写真)昭和20年代 ID 13791

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13791は「昭和20年代 神楽坂付近か」とあり、時代と場所を特定していません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13791 神楽坂付近か

 右手は毘沙門横丁の今はなき料亭「松ヶ枝」だと考えています。写真の道路の突き当たりは一段高く、手前に来るほどゆっくりと低くなっています。この地形は現在も同じで、奥の親子連れの向こうの塀は若宮町の料亭街です。
 都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年によれば、カメラはおそらく赤丸に置き、写真を撮ったのでしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 さて、以下は地元の方の説明です。

 向かって左の奥の塀の木戸は人間には大きすぎて、自動車のための駐車場でしょう。手前の潜り戸は別の店の入り口で、花街らしい黒塀が続いています。これに対して右は土塀で、腰高まで貼り石の化粧があります。これが松ヶ枝の塀で、格式の高さが写真からも分かります。
新宿区史・昭和30年」の3枚目は、ちょうど反対側から撮った写真です。黒塀の潜り戸は同じですが、駐車場の木戸は4枚になっています。
 それ以外にも、いくつか違いがあります。ID 13791の松ヶ枝の塀から棒が飛び出し、そこに笠のついた電球が見えます。また左の駐車場の角にもボール状の灯りがあります。街灯が十分に整備されておらず、私設の外灯で来店客に便宜を図っていたと思われます。
 またID 13791の土塀はコンクリートで塗り固めたような外観ですが「新宿区史・昭和30年」では肩高より上を白い漆喰で塗っていて、貼り石との間に化粧していない壁が出ています。ここは後の時代のID 11841ではすっかり貼り石で覆われます。
 ID 13791の中央手前には、うっすらと丸い下水のマンホールが見えます。舗装はしているようですが、かなり荒れています。左手前には側溝のようなものがチラりと見えます。一方「新宿区史・昭和30年」では松ヶ枝の側に側溝を掘り、小さな石橋を架けていますが、これはID 13791には見えません。雨が降った時は、黒塀の前の少しくぼんだ部分を雨水が流れていたでしょう。
「新宿区史・昭和30年」の写真は同じ昭和20年代に撮影しているはずですが、ID 13791の方が古い時代と思われます。
潜り戸 門の扉や壁などに設けられた、背の低く幅のせまい小さな戸のこと
黒塀 黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。黒い塗装は渋墨しぶずみ塗といって、日本古来の伝統技術で柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもの。防虫・防腐・防湿効果があるため建物の化粧として用いられた。
貼り石 建造物の壁に薄い石
化粧 建物の表面に、白など、見栄えのする色の塗料を塗ること

善国寺(写真)平成22年 ID 13351

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13351は平成22年(2010年)3月に、神楽坂4丁目にあるちんざんしゃもんてんぜんこくを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13351 神楽坂毘沙門天

 車道はアスファルト舗装、側溝はL型で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色で意味は「駐車禁止」。歩道もアスファルトのインターロッキング(interlocking)ブロック舗装。
 街灯は戦後4代目で、水銀と高圧ナトリウムの2つのランプ。この街灯は令和4年に更新され、古い街灯が本堂前の境内灯として再利用されました。続いて三角コーンがあり、次の標柱の内容はここで解説しています。
 石囲いは無地で、左端に「毘沙門寄席」の看板があります。ちなみに神楽坂毘沙門寄席の第一回は2005(平成17)年11月、22年7月では50回以上だそうです。看板は「七日の出演者」、<昼席 十三時半開場 十四時開演>は五街道彌助、三遊亭遊雀、柳家喜多八、<仲入り>、松旭斉 美智 美登、柳家花緑。<夜席 十八時開場 十八時半開演>古今亭菊六、金原亭馬遊、柳家さん喬、<仲入り>、三遊亭小円歌、林家たい平。下に行って<十三日の出演者 出演順>春風亭一之輔、入船亭扇辰、柳亭市馬、林家正楽、古今亭菊之丞、立川らく次、三遊亭白鳥、古今亭志ん輔、柳亭小菊、立川志らく、<十四日の出演者 出演順>柳家三之助、桃月庵白酒、林屋正雀。その右側に白と青のポスターが2枚、「墓地売出中」と読めます。門前を歩く人は背広、ダウンジャケット、上着を手に持った人などで、肌寒かったと想像します。
 赤い山門は平成6年(1994)に作られたものです。梁の間に「毘沙門天」「善國寺」の提灯が多数。左側の門柱には「毘沙門天」、右側の門柱は「善國寺」と銘板「神楽坂興隆会」。
 山門を潜り、境内にはいると 左の青銅色の屋根は浄行菩薩。境内灯は街灯とは違い、傘と円筒形の照明でした。本堂前の2体の石虎(右は阿形あぎょう、左は吽形うんぎょう)。その右に読めない看板、さらに右には石虎を描いた絵馬やおみくじを結ぶ棚があり、さらにその上は藤棚で、境内はアスファルト舗装されています。さらに右、門脇の石囲いの中はしだれ桜ですが、こちらもシーズン前です。
 最後は本堂(左、おみく[じ]と読める)と庫裏くり(右、住職や家族の住む場所)です。本堂と庫裏とは渡り廊下でつながっています。また庫裏の受付でおみくじが買えます。

和可菜|新宿歴史博物館

文学と神楽坂

 旅館「和可菜わかな」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き旅館」として有名でした。2015年末に一時閉店、隈研吾設計事務所の手を借りて、2022年、再出発、営業再開予定ですが、22年7月。再開はまだのようです。
 和可菜は路地の小さなクランクに印象的な看板を出しています。ここは曲がり角というより、兵庫横丁が狭くなっている場所です。
 路地の石畳は水道工事などで部分的に掘り返すことがあります。ID 13350の左下の石畳が少し新しく見えるのは、そうした工事のせいかもしれません。
 ここでは新宿歴史博物館がカメラで撮った写真を4枚(2008年、2010年、2014年、2017年)収録します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13350 旅館和可菜 平成20年(2008)3月

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13691 旅館 和可菜 平成22年(2010)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13255 旅館 和可菜 平成26年(2014)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13984 旅館和可菜 平成29年(2017)

 なお、平成29年のID 13984では前半分が他の建物です。

和可菜 住宅地図 2017年

 では現在の和可菜の写真です。少し化粧直しをして看板を新しくした以外は、変わっていないようです。

和可菜 2022/7/8

和可菜 2022/7/8