石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。 ここは「かくれんぼ横丁」です。
は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』で渡辺功一氏が発言したものの一部です。は私の説明です。また図の上下左右360度で動き、を叩くと地図は奥に進みます。
残念ながら、家のすぐ傍の土地を覆う石畳は中央を流れる石畳と流れは違っています。左側は扇の文様ですが、右側は一直線です。
これは「みなし道路」のためですね。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物建物は後ろに下げて作るのです。が、このセットバックで、路地は破壊してします。
しかし、左の流れは一見すると中央の流れと同じように見えますが、ここも違うようで、後から来た人が丹念に前と同じようにピンコロを填めていったのでしょう。残念ながマンホールは違います。
わかまつについて
今はない「わかまつ」です。2007年3月19日、火災で焼失。「神楽坂まちの手帖」第17号(けやき舎、2007年)では……
「かくれんぼ横丁」の情緒の復活を願う神楽坂の人々
持田晃(神楽坂三丁目・かくれんぼ横丁在住)
3月19目、午後12時50分ごろ、神楽坂3丁目の通称「かくれんぼ横丁」で火災が発生。火元となった「わかまつ」は、昭和30年代に建てられた古い木造家屋だったため、火はまたたく間に右隣の料亭「志の田」、左隣の馳走「紺屋」へと燃え広がりました。(中略) |
下の地図は2000年頃。「わかまつ」は赤い四角です。
「神楽坂まちの手帖」第15号の「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」(けやき舎、2007年)のイラストでは
神楽坂地区まちづくりの会「まちづくりキーワード集」(神楽坂地区まちづくりの会、1997年)では
「神楽坂の夜と昼」(アサヒグラフ、昭和63年6月3日、朝日新聞)では
* ピンコロ石とはこぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。