神楽坂3丁目」カテゴリーアーカイブ

石畳|神楽坂|かくれんぼ横丁(360°カメラ)

文学と神楽坂

 石畳を使った(うろこ)張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。 ここは「かくれんぼ横丁」です。


 は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』で渡辺功一氏が発言したものの一部です。は私の説明です。また図の上下左右360度で動き、を叩くと地図は奥に進みます。

 残念ながら、家のすぐ傍の土地を覆う石畳は中央を流れる石畳と流れは違っています。左側は扇の文様ですが、右側は一直線です。

石畳とかくれんぼ

 これは「みなし道路」のためですね。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物建物は後ろに下げて作るのです。が、このセットバックで、路地は破壊してします。

石畳とかくれんぼ2

 しかし、左の流れは一見すると中央の流れと同じように見えますが、ここも違うようで、後から来た人が丹念に前と同じようにピンコロを填めていったのでしょう。残念ながマンホールは違います。

わかまつについて

 今はない「わかまつ」です。2007年3月19日、火災で焼失。「神楽坂まちの手帖」第17号(けやき舎、2007年)では……

「かくれんぼ横丁」の情緒の復活を願う神楽坂の人々

持田晃(神楽坂三丁目・かくれんぼ横丁在住)

 3月19目、午後12時50分ごろ、神楽坂3丁目の通称「かくれんぼ横丁」で火災が発生。火元となった「わかまつ」は、昭和30年代に建てられた古い木造家屋だったため、火はまたたく間に右隣の料亭「志の田」、左隣の馳走「紺屋」へと燃え広がりました。(中略)
 一年前に閉店した旅荘「駒」が、外観の雰囲気を保つたまま「神楽坂しなり」に変わったのでほっとしていたら、この1月には、料亭「高藤」の閉店と早早の取り壊し。せっかくの横丁に、吏地がぽっかりと口をあけたところへ、今回の火災です。路地の持つ「ゆったり」とした零囲気が、あっという間に火われてしまい、住民の1人として残念としか言いようがありません。
 復興がどのような経路をたどるか私にはわかりませんが、50年間保たれてきた路地らしい情緒も残ってくれることを、切に願っております。

 下の地図は2000年頃。「わかまつ」は赤い四角です。

「神楽坂まちの手帖」第15号の「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」(けやき舎、2007年)のイラストでは

 神楽坂地区まちづくりの会「まちづくりキーワード集」(神楽坂地区まちづくりの会、1997年)では

わかまつ

「神楽坂の夜と昼」(アサヒグラフ、昭和63年6月3日、朝日新聞)では

 花街の路地にひっそりとある店。「先代は芸者置屋をやっていまして、養女のわたしも芸者で出たことがありますが、先代が亡くなったあと、昭和44年におにぎり屋になりました」と諸橋佐起子さん。下谷生まれのシャキシャキしたおばさんだ。作るものは焼きおにぎり(1個300円)ただ1種。「使っているお米も調味料も秘密よ」。カウンターは7~8人も座ればいっぱい。歌舞伎座や近所の料亭などへも出前している。香ばしい、なかなかおいしいおにぎりである。営業19~23時。日曜祝日休み。

* ピンコロ石とはこぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。



毘沙門横丁|名前

文学と神楽坂


毘沙門

 名前について「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間にある小さな路地のことです。場所はここ。明治20年も同じ呼び名の毘沙門横丁です。「毘沙門横丁」「おびしゃ様の横丁」はついこの間まで呼んでいた名前です。これ以上簡単なものはありません。
 野口冨士夫の『私のなかの東京』では

 三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶三が下谷のおばけ横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちがいないが、ここから裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

と書いています。昔の地図でも出ています。

新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)

 一方、「毘沙門横丁」なのに、「大手門通り」という言い方があります。これは不思議な名称です。ここ10年程昔から使ってきたようです。牛込城「大手門跡」に行くと書いていますが、この「大手門跡」は具体的にはどこなのでしょうか。本当にそれは「大手門跡」なのでしょうか?
 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

神楽坂から地蔵坂を上る辺りに牛込城の大手門があったと伝えられる

と書き、『神楽坂界隈』平成9年の水野正雄氏の「中世の神楽坂とその周辺」では

大手門…一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか

と書いています。

 また「牛込城跡」について東京都新宿区教育委員会の説明では

光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される

御府内備考」では

おもふに今善國寺なとある邊若宮八幡と行願寺の間住古の道にてそこに向ひて城門を立てしなるべし

と推考を書いています。

 大手門はどこにあったのか、明らかになってはいません。ある学説や風説としてはいいのでしょうが、あまり使いたくはない名前です。

拝啓、父上様」の第1話では

毘沙門前
  通りをつっ切り境内へ入る一平。
  その目に――
  ザックを背負って肉マンを喰っている一人の若者。
  中川時夫。
  ――ケイタイを耳に当てている。
一平「(歩きつつ、ケイタイに)よし。お前だな。肉まんを喰ってるお前だな」
  若者の前に立ち、ケイタイを切る。
一平「時夫君か」
時夫「(変に明るい)オス! 一平か」
一平(ムッとする)
時夫「(食いつつ)この町凄えな! 外国人に逢っちやったぜ」
一平「―――」
  間
一平「ついて来い(歩き出す)」
時夫「オス! 何だそっちか。全然逆の方探してたなハハ。――いくつだ一平」
一平「(ムッと)お前は」
時夫「十九。高枚中退だ」
  短い間。
一平「俺は二十三だ」
時夫「それにしちゃ可愛いな。ヒヒッ、ま、よろしく頼まァ!」
一平「こっちだ!(曲る)」
時夫「オス!」
  音楽――「板場のテーマ」ダイナミックに、イン。


毘沙門横丁




熱海湯|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

熱海湯

 熱海湯は千鳥破風造りの銭湯で、昭和29年に創業しました。今も薪で湯を焚いているそうです。

拝啓、父上様」で田原一平がよく利用する銭湯もコインランドリーもここ。「熱海湯」正面の階段で料亭「坂下」の大女将、坂下夢子がよく猫にエサをやっていた路地もここ。上から田原一平が朝やってくるのもここです。

 ただし、上に行っても有名なホテル「アグネスホテル」がでるくらいです。蔵のようなものがあったところなので日本路地・横丁学会の人たちは「お蔵坂」と呼ぶのはどうかと言っています。

 細かくはお蔵坂で。360°カメラもあります。

atamiyu1atamiyu2
神楽坂通り3丁目
小栗横丁 アグネスホテル

神楽坂|東京神楽坂組合

文学と神楽坂

 伏見火防稲荷神社があり、次に「見番けんばん横丁」の標柱があります。この標柱には

見番横丁
Kenban-yokocho
芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる

と書いてあります。平成23年(2011年)12月22日に新宿区はここから図では左手の方向に見える路地を見番横丁という名前を付けました。 

青い標柱の裏の建物は、全く普通の建物ですが、これが見番を行う建物です。場所はここ。見番は検番とも書き、芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所や稽古場のことです。東京神楽坂組合の稽古場はこの上の建物になっています。

見番5

 少し左を見て、この建物も東京神楽坂組合の建物で、事務所に当たります。

 なお、東京神楽坂組合は田中角栄が建てた家としても有名ですね。
 ここで 熱海湯階段に行く場合は ここ
 見番横丁に行く場合は ここ
 伏見火防稲荷神社

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

かくれんぼ横丁・から傘横丁|由来

文学と神楽坂

 この路地裏が「かくれんぼ横丁」という名前になったのは2つの、まあいえる理由があります。

 一つは、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(2007年、展望社)では、

 この路地内には、東京都で初の五つ子の母の実家がある。この五つ子ちゃんが歩けるようになって、実家の路地内でかくれんぼ遊びをしていたことから「かくれんぼ横丁」と呼ぶようになった。

 または、2007年『神楽坂まちの手帖』15号「最版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』(けやき舎)で渡辺功一氏は

「かくれんぼ横丁」という名前の名づけ親は、この路地にお住まいだった森川安男さんです。お孫さんとかくれんぼをしたりして遊ぶということで、この名前をつけたそうです。

 あるいは、2007年『神楽坂まちの手帖』15号「最版神楽坂の路地その魅力のすべて」で田中ひとみ氏は

孫たちが遊んでいる姿を見て、石畳の路地に「かくれんぼ横丁」という名前を付けられたという森川安男さん。残念ながらご高齢のため数年前に亡くなられました。

 もう1つは、山口則彦氏の案(お亡くなりになりました)で

 やはり料亭街のこの名前は、子供たちがかくれんぼをして遊んだからという説もあるんですが、お忍びで遊びに来たような人を後ろからつけていても、横にちょっと入るといきなり目の前から消えてしまうから、というのが本当のようです。

というものです。

 西村和夫氏は『雑学 神楽坂』では

入り組んだ街中で突然前方を歩く人が、家並に隠れて見えなくなるという町に遊び心から地域の住人が付けた愛称である。

「神楽坂まちの手帖」第15号の座談会「路地歩きAtoZ」では……。なお、持田氏はかくれんぼ横丁在住49年のアマチュア写真家。金原氏は法政大学教授。平松氏は手帖の編集長です。

持田 うちの路地をみんな「かくれんぼ横丁」って呼ぶんですけど、あれは住んでる人間が知らないうちに名前がついてたんですね。
金原 誰がつけたんでしょうね。
持田 二十四、五年前に、うちの奥の森川さんって家に五つ子ちゃんが生まれたんです。日本テレビがずっと追いかけて番組を作ったんですけど、その時に森川さんのおじいさんが名付けたそうです。孫たちとかくれんぼして遊ぶから、かくれんぼ横丁って。それがテレビで広まったんですね。
平松 勝手に名前がついちゃうっていうのは、そこに住んでる側としていやなものですか。
持田 べつに悪い名前じゃないですし、愛称があったほうが親しみやすいと思いますよ。

 やはり『森川さんが「かくれんぼ横丁」と呼んだ』ほうが正しいようです。

 なお、『ここは牛込、神楽坂』では「寿司幸」のある路を『から傘横丁』と名前をつけています。理由は傘がほしてあったから。なるほど。なお、寿司幸は2018年一杯で閉店しました。

かくれんぼnew

神楽坂|かくれんぼ横丁

文学と神楽坂

 かくれんぼ横丁はもっとも古い建物が残っている路地裏です。ただし第2次世界大戦で、ことごとく灰になり、すべてが戦後の建物です。しかし、戦後の花街として昭和30年代には繁栄しました。
 かくれんぼ横丁のほどんどは料亭・待合・芸妓屋として残っておらず、割烹、料理店、懐石料理に変わっています。ここで06年9月、日本建築学会で水井氏が「花街建築」の外観的要素として20項目を挙げ、うち料亭・待合は14項目、芸妓屋は9項目が重要だと考えました。(水井七奈子「遺構調査に基づいた花街建築に関する研究(その1)」日本建築学会大会学術講演梗概集。2006)
 が重要な項目です。

項目料亭・待合芸妓屋
庭・庭木あり
庭に松・竹・梅のいずれかあり
石畳か灯篭とうろうを配置
黒塀・木塀か刳貫くりぬきがあるモルタル塀
玄関や門構えが重厚
柱材が細い(3-4寸角)
格子こうしが開口部に設置
玄関戸上部や外壁等に扇や松の型の刳貫や竹材等の細工あり
2階に縁がある場合、擬宝珠ぎぼしが付くか装飾的な浮彫うきぼりがある[擬宝珠付きは1棟のみ]
戸袋とぶくろが装飾的
照明に装飾か屋号入りの照明
装飾的な青銅製のとい
開ロ部に深いひさし[木製庇]
前項に加えて庇裏が装飾的
階高が高いか総2階[2階建てがほとんど]
建具が装飾的
その他、装飾的な細工あり
屋根形状が入母屋いりもや錣葺しころぶき[切妻屋根がほとんど]
のき
屋根のむくり(屋根を凸状に反らす)

 古い花街建築(大震災直後から昭和初期)ほど、より多くの装飾があったといいます。神楽坂は残った家屋がほぼない地域です。したがって戦後にできた新しい建物で、残念ながら装飾は少なくなっています。

かく5

 ここは普通の建物ですが、それでも一番きれいです。左手には黒塀があり、奥の右手では路地と玄関の間に塀で囲まれた木戸を作っています。
 青銅製の樋と入母屋造がはっきりと見えます。かくれんぼ1
かく6

 格子状の意匠があり、左には黒塀があり…
かく4 玄関前の屋号の照明、戸の内部に竹材の細工が見られます。また入口は木戸からさらに奥です。山路は今は一軒家のホテルです。
 ちなみに「拝啓、父上様」で第1話でこの(正確には仲通りの)料亭「千月」とかくれんぼ横丁がでてきました。

仲通り
  を走って「千月」の前に立つ。
  見廻すがテキがいない。
  路地へとびこむ。


千月2かく7

神楽坂の通りと坂に戻る場合は…



ヤマダヤ|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

「神楽坂上」に向かって左側のヤマダヤは洋傘と帽子の店。4代目。明治10年(1877年)創業しました。場所はここ
ヤマダヤ

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丸岡陶苑|神楽坂3丁目 人形が可愛い

文学と神楽坂

「神楽坂上」に向かって左側の「丸岡陶苑」は和陶器を売る店です。

 創業は明治24~25年(1891~92年)。場所はここ

 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年、和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」とあります。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には…

「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」

丸岡

 右側のショーウインドウは、陶器でつくった人形がテーマになっています。例えば、2月はお花祭りでした。これは12月です。価格は決して高くはありません。小さい人形は1000円から3000円までです。丸岡陶苑

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二葉[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

「上島珈琲館」から「神楽坂上」に向かって右側に少し奥に入ると、「二葉」になりました。ここは初めて「ばらちらし」が誕生した店です。昭和6年創業。地図はここ

「二葉」の「ばらちらし」は、江戸前のちらし寿司はすし飯のうえにもみ海苔をふって魚を並べたもの。それに比べるとネタが細かくきざまれています。呉服商の依頼で、着物に醤油がとばないようにしたようです。ばらちらしは昼は1500円のみ、夜は2500円から。残念ながら、2015年に廃業しました。新しい店舗は2016年6月22日に開業した居酒屋「こんぶや」です。

二葉

 あるブログには

奥で食券買ってくださいと、お帳場で。おばあちゃんから黄色い札をもらって着席すると、やがて、ばらちらしが運ばれてきます。ランチ時にはこの単品メニューだけなのに、なぜこういうシステムなのか? あらま、不思議

と書いてありました。

神楽坂3丁目に戻る場合
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神楽坂木村屋(昔)

文学と神楽坂

 神楽坂3丁目にある「上島珈琲店」は以前は「神楽坂木村屋」でした。

「神楽坂木村屋」は酒種あんぱんなどのパンを作っていました。創業は明治39年(1906)。終戦では下記の如し。平成17年(2005)になり、閉店しました。銀座木村屋の唯一の分家でした。場所はここ

 やはりコーヒーが一番うまい店はこの「上島珈琲店」か神楽坂6丁目の「珈琲館」だと思います。まあ、高いけど。上島珈琲店はパンも心持ち美味しい。ちなみにパンが一番うまい店はメゾンカイザー(場所は箪笥町)です。メゾンカイザーの普通のコーヒーです。

助六|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 助六は神楽坂3丁目にある履物の店です。明治40年(1907年)、場所はここ。履物博覧会で1等賞を取り、創業は明治43年(1910年)です。

 助六の前に若松亭という浪花節の定席があったようです。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第1号で『お店の履歴書 履物の老舗「助六」さん』では

 先代である今は亡き父上の要氏は、若い頃、横山町の下駄屋さんで働いていた。でもその界隈で商売するだけでは埒があかないと、東京中の花柳界を回るように。
「それまでの駒下駄はもっと歯が厚かったんです。でもそれじゃ花柳界では不粋だからって、親父は歯を薄くして。いまのような駒下駄にしたわけです」
 先代が考案した小粋な下駄が世に広まる契機となったのが、明治四十年、東京で開かれた履物博覧会だった。
「ええ、いいあんばいに一等賞をいただいて」

助六

 また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『助六』の創業は明治四三年、創業者は石井要氏である……
 当店は創業の頃から傘と下駄を扱ってきた。出来合いの傘だけではなく、注文に応じた品も作らせていた。下駄のサイズは一つしかなく、鼻緒のすげ方で二一cmから二五cmまで対応する。鼻緒をお客さんの足に合うように挿げるのは一番大切な仕事で、足を見ただけで文数がわかるようにならなければだめだ、と言われた。顧客のなかには与謝野晶子宮城道雄菊地寛西条八十川合玉堂などもいて、自宅に注文をとりに行き納品することもあった……
 草履にはふつう畳表をはるが、要氏が皮張りの草履を考案した。昭和の初め頃には、様々な色を使ったエナメルの草履なども作っていた。その頃、有楽町宝塚劇場のサロンのウィンドウに商品の見本を出せることになり、それを見て買いに来るお客さんが増えたこともある。また昭和二九年から昭和五六年頃まで、新宿伊勢丹の「さつき会」という催事(母の日を含む1ヵ月間)の際に出店していた。デパートの売り場の中でとてもよい場所とされる一階に店を出し、実際にたいへんよく売れた。
 花柳界が近く、また一般のお客さんも多いため、現在の店には様々な好みに合わせられる珍しい希少商品や、オリジナル商品を置いている。


龍公亭|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

龍公亭

 龍公亭は中華料理で四代目がやっています。創業は明治31年(1898年)。創業当時は「あやめ寿司」という寿司屋でした。大正13年の改装を機に2階で中華料理店「龍公亭」をスタート。初代の中華のシェフは楊澤林氏。本格的な中華料理店は山の手で初めての開店だといいます。じきに中華のみの営業に変わりました。かき氷の「あずきアイス」はここで生まれました。

 開店時の看板メニュー、ラーメンの「あやめそば」や初代シェフが娘さんの名前を取って名付けた「桂春麺」もあります。

 4代目のオーナーシェフは周富徳氏が料理長を務める赤坂璃宮で3年修業をしてきました。全面的な改装を行い、外がよく見えるようになっています。1代目から初めてのオーナーシェフです。

 今からうん年前、3代目のシェフのときに食べに行き、2回ほど行き、うううんと。それからは行きませんでした。4代目のシェフになって、初めて行き、うまい。どれも古典的な中華ですが、ひとくち、いい点がある。なんとまあ。名前は同じでも中身はまったく違うものもある。デザートもちょっと違っています。絵葉書や本も売っています。すぐに人で一杯になるのもわかります。場所はここで。

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菱屋|神楽坂3丁目 昔は糸を扱う店 今は…不動産です

文学と神楽坂

 このひしも歴史があります。創業は明治5年(1872)。場所はここ

菱屋

「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。店がよく栄えたのは二代目。肴町(現在の5丁目)では大家になっています。

 現在は天利義一さんが社長。そして「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが何かを狙って並んでいます。本当に利益が出るのだろうか?

 「菱屋糸屋」は現在不動産の賃貸業です。天利海によれば賃貸物件は

  • 東京都新宿区神楽坂 3-2
  • 東京都新宿区神楽坂 5-12(7ヶ所)
  • 東京都新宿区矢来町 125(3ヶ所)※
  • 東京都新宿区原町 1-59
  • 東京都豊島区高田南町 1-25(2ヶ所)

たとえば大久保通り角のビルもこの不動産の物件になっています。

牛込神楽坂之図の碑

文学と神楽坂

 神楽坂通りの上を向いて右側の歩道には歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。そこには拡大図もあります。

牛込神楽坂の図

 さらにその下には

神楽坂の由来については
坂の途中にあった
 穴八幡御旅所で
  神楽を奏したから
津久戸明神が
 移転してきた時に
  この坂で
   神楽を奏したから
若宮八幡の神楽が
 この坂まで
  聞こえてきたから
この坂に赤城明神の
 神楽堂があったから
などの説があります。

と書かれています。なお、戦前の津久戸明神筑土八幡神社の隣りにありました。

4神社

神楽坂|ファミリーマート 昔は牛込會館

文学と神楽坂


サークルK

 1階は「ファミリーマート」、2階は「ロイヤルホスト」、それ以上はマンションです。


 この範囲は江戸時代では土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で囲まれた本多屋敷がありました。その後「温泉山」という地域の銭湯「イソベ温泉」や歯医者になり、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の少し前には貸し座敷「牛込會館」に変わります。

 同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。

 その後、牛込会館は白木屋デパートが営業しましたがほとんど客が入らず廃業になりました。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

神楽坂3丁目に戻る場合
神楽坂仲通りに行くには
小栗横町に行くには
神楽坂の通りと坂に戻る場合は


芸妓の言葉

文学と神楽坂

三業   さんぎょう。料亭(料)・待合茶屋(待)・芸妓置屋(妓)の3業種。
二業   料亭と芸妓置屋
花街   かがい。はなまち。いろまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。遊郭。花柳街
花柳界  かりゅうかい。芸者・遊女などの社会。遊里。花柳の(ちまた)
料亭   主として日本料理を出す高級な料理屋
置屋   おきや。正確には女郎置屋や芸者置屋。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
待合   まちあい。待合茶屋。まちあいぢゃや。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。ウィキペディアによると、板場がないので料理の提供はなく、仕出し屋などから取り寄せる。収入源は席料と、料理などの手数料。客の宿泊用に寝具を備えた部屋があり、ここで芸妓や私娼と一夜を過ごす客も多かった(娼妓は遊郭以外で営業できない東京では不可)
芸妓   歌や三味線、舞踊など、芸の習得に厳しい稽古を積み、酒宴で披露して客をもてなす女性。遊女とは一線を画す。
見番   けんばん。検番、見番。三業組合の事務所。遊里で芸者の取り次ぎや送迎、玉代(ぎよくだい)の精算などをした所。現在の例は見番横丁で。
箱屋   はこや。三味線などを持って客席に出る芸者に従って行く男衆。見番に属する。箱まわし。箱持ち
半玉   まだ一人前として扱われず、玉代(ぎよくだい)も半人分の芸者。雛妓(おしゃく)とも。踊りと太鼓を演じるが、三味線は弾かない。大半は16歳で芸者に
源氏名  遊女や芸者の妓名。バーのホステスなどの呼び名でも使う、

毘沙門横丁|路地

文学と神楽坂

「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱UFJ銀行の間にある小さな路地です。名前についてはここで。すこし行くと石畳が現れます。
石畳 毘沙門横丁
 この通りは2つ路地があり、どちらも石畳で覆っています。最初の路地はここです。なにもなそうですが、昔はこの路地も料亭が一杯で、以前はどちらも大量の料亭がありました。
 2本のうち、先が行き止まりの路地を「ひぐらし小路」(場所はここ)と名付けようと、『ここは牛込、神楽坂』は提案しています。理由は「なんか夏になると、ひぐらし蝉が鳴くような気がして」。石畳(ひぐらし小路)

 このまま道を辿っていくと道は左に曲がります。この正面はアフリカ料理(でした。転居。)現在は「西洋バル フルール フィオーレ」に変わりました。松ケ枝があったマンション 右側にはマンションがあります。このマンションに以前の料亭松ケ枝まつがえがありました。この料亭の創業は明治38年。昭和50年代にこの料亭はなくなり、現在はこのマンションに変わっています。
 左に曲がると、路地は「出羽様下」に変わります。

 

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

内務省地理局(上図、新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「神楽坂付近の地名」45頁。1970年)では「出羽様下」と書いています。『ここは牛込、神楽坂』の竹田真砂子の「振り返れば明日が見える」では同じようなことを書いていますが、違う点もあり、松平出羽守は宮坂金物店(今のお香の店「椿屋」)の横丁を入った所に屋敷を構えて、この辺りを「出羽様」といったそうです。
 松平出羽守は明治7年の「東京大小區分絵図」(1874年、下図。新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」298ページを参照)では本多家に並ぶ大きさがありました。

明治7年の神楽坂

神楽坂|御旅所について

文学と神楽坂

 さらに神楽坂通りを上がりますが、左に細い路地があります。ここを入ってみます。かのテレビドラマ「拝啓、父上様」でリンゴが20個ぐらい転がった階段がここにあるのです。
 しかし、そこに行く前に……
 最初は「高田穴八幡()旅所(たびしょ)」について。下の絵では四角で囲んだ場所が3つあり、上は「毘沙門堂」、右は「こんぴら」、左下は「高田八まん御旅所」です。また、この画讃には『月毎の寅の日には参詣夥しく植木等の諸商人市をなして賑へり』と書かれています。御旅所
 御旅所とは神(一般には神体を乗せた神輿みこし)が巡幸の途中で休憩や宿泊する場所です。
 この「高田八まん御旅所」は、安政4年改「市ヶ谷牛込絵図」(1857年)では「穴八幡旅所」ときちんと書いてあります。西早稲田にある穴八幡宮からの神輿がこの御旅所にやって来て、神輿はよく奏し、これが神楽坂の名前になったという説があります。
 この御旅所の場所はヤマダヤ丸岡陶苑などがある場所でした。

地図18571

 ちなみに1860年、御旅所はもうなくなっています。下に青色の代地の隣にあったはずです。いったいどうしたのでしょうか。不思議です。

絵図

 しかし、「不思議です」と書いていながら、明治6年には御旅所はまだありました。小栗横丁を向いて、現在は「神楽坂かつのとうふ」などがあります。

神楽坂 長~い3丁目

文学と神楽坂

 昔は神楽坂は坂ではなく、階段でしたが、明治初期になくなりました。明治20年の神楽()三丁目はここ


 現在、3丁目は菱屋龍公亭助六丸岡陶苑ヤマダヤ椿屋五十番(五十番は2016年から4丁目になりました)などがあります。

 2丁目から3丁目に入った場所で、神楽坂通りの上を向いて右側の歩道で、歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。

 また、昔の木村屋(今は上島珈琲店)、二葉神楽坂演芸場があったところです。

 神楽坂通りで丸岡陶苑のあたりが最大の高さです。これから神楽坂上に行っても下がることになります。三沢浩氏の『神楽坂まちの手帖』「神楽坂、坂と路地の変化40年④」によれば

外堀通りの角、元「アカイ」前の道端を0mとすると、坂上の「丸岡陶苑」と向かいの「ナカノ洋裁」が12m230の最高所。毘沙門天から大久保通りへ向こうに連れて6m余りも下がる。

と書かれています。

 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では

 最高点から神楽坂下を見たところは…

最高点 最高点。神楽坂下を見たところ

 最高点から神楽坂上を見たところは…

最高点上 最高点。神楽坂上を見たところ

 左にはいると見番横丁です。

 すこし先に行くとまた左側に行く三叉路があります。ここを左側に曲がって、10mぐらい歩くと左手に駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。これは寄席の1つで、柳家きんろうなどが有名でした。

駐車場

 では三叉路に戻りましょう。すこし上に歩くと、右側に「本多横丁」が顔を出してきました。ここを超えると神楽坂通りの4丁目です。ちなみに神楽坂通りの左側は3丁目から直接5丁目になってしまいます。4丁目は一番歴史も雰囲気もいっぱいある、そんな土地です。

 本多横丁です。

本多横丁

 なお、5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱UFJ銀行の間には「毘沙門横丁」と呼ぶ小さな路地が出てきます。このあたりは芸妓が沢山いた場所です。