大正7(1918)年、永井荷風氏が39歳の時に書いた『書かでもの記』です。矢来町で永井氏と師匠の広津柳浪氏が初めて出会いました。
永井荷風は小説家で『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』などを執筆、耽美派の中心的存在になりました。また、花柳界の風俗を描写しています。生年は明治12年12月3日。没年は昭和34年4月30日。満79歳で死亡しました。
そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、『簾の月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一ツ橋なる校舎に赴く日とては罕にして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席を見歩きたまさか家にあれば小説俳句漢詩狂歌の戯に耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念漸く押へがたくなりければ遂に何人の紹介をも俟たず一日突然広津先生の寓居を尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしは予め電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中』、『黒蜥蜴』、『河内屋』、『亀さん』等の諸作は余の愛読して措く能はざりしものにして余は当時紅葉眉山露伴諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂を上りて寺町通をまつすぐに行く事数町にして左へ曲りたる細き横町の右側、格子戸造の平家にてたしか門構はなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木尠からず手水鉢の鉢前には梅の古木の形面白く蟠りたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人長谷川濤涯机を置きぬ。)それより四枚立の襖を境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。床の間には遊女の立姿かきし墨絵の一幅いつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張の極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳の間との境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生物に頓着せず襟懐常に洒々落々たりしを知るに足るべし。 |
簾の月 その原稿は今でも行方不明になったままで、荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものだという。
外国語学校 旧制東京外国語学校。現在は東京外国語大学。略称は外語大、外大、東京外大など
たまさか 思いがけず、そのような機会を得る。たまたま
戯 ぎ。たわむれ。面白半分にふざける
寓居 仮の住まい。わび住まい
今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描く
黒蜥蜴 くろとかげ。明治28年発表。醜女お都賀が無頼の舅を毒殺し、自殺するまでの人生を描く。
河内屋 かわちや。明治29年発表。封建主義の制度下にある家の問題点を明るみにだす
亀さん 明治28年発表。遊女と遊んだ亀麿は、女性数名に強姦未遂を起こす。一方、遊女は火災で死亡する。
雅俗文 雅俗折衷文。がぞくせっちゅうぶん。地の文は文語文(雅文)で書き,会話は口語文(俗文)で書く文体
対話体 話し言葉(口語文)の文体。
何番地 牛込矢来町3番地中の丸52号でした。3番地は大きすぎて、大正か昭和になってから新しい番地をあてています。では新番地ではどこにあるのでしょうか。「広津和郎の生家」で考えをまとめていて、新番地は73番地でした。
寺町 寺院が集中して配置された町。ここでは牛込区横寺町と通寺町のこと。
格子戸造 こうしどづくり。格子状の引き戸や扉が主の建造物。採光や通風もできる。
門構 もんがまえ。門をかまえていること
蟠り わだかまり。心の中に解消されないで残っている不信や疑念・不満など
手水鉢 ちょうずばち。手を洗ったり、口をすすいだりするための水(=手水)を溜めておく鉢。寺社の境内に置かれるほか、茶庭や日本庭園の重要な構成要素
門人 弟子。門弟。門下生。
長谷川濤涯 はせがわとうがい。明治40年から大正2年まで「東京の解剖」「誤られたる現代の女」「海外移住新発展地案内」「婦人と家庭」などを書いています
4枚立 よまいだち。柱と柱の間に4枚の襖が入るもの
一閑張 竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作り、柿渋や漆を塗る。食器や笠、机などの日用品に使いました。
襟懐 きんかい。心の中。胸のうち。
洒洒落落 しゃしゃらくらく。性質や言動がさっぱりして、物事にこだわらない