文学と神楽坂
昭和56年(1981年)、35年もの昔、神吉拓郎氏が書いた『東京気侭地図』の一節です。神吉氏は小説家、俳人、随筆家で、昭和24年NHKにはいり、ラジオ番組「日曜娯楽版」などの放送台本を手がけ、昭和59年、都会生活の哀歓を軽妙な文体で描いた「私生活」で直木賞。生年は 1928年(昭和3年)9月11日、没年は1994年(平成6年)6月28日で、53歳でした。
神楽坂の灯 喫茶店の名前にもいろいろあるけれど、「軽い心」というのをご存じだろうか。 中央線の電車が、飯田橋の駅にかかるとき、神楽坂の見当を一瞥すると、丁度そのあたりに「軽い心」と大きな看板が上っている。 夜はネオンが灯って、その文字がいっそう目立つ。そばに、喫茶と書き添えてあるけれども、その方は、あまり目に入らない。「軽い心」の方に目を奪われてしまうからである。 どういう人が名付けたのか知らないが、面白い命名をしたものだと思った。なんとなく気になる名前である。 〽青い背広で心も軽く…… の、あの時代を思わせる。もしかしたら、あの時代を懐しむ気持が、その名を付けさせたのかもしれない。 「ぼくはキャバレーかと思ってました」 やはり、あの名前を気にしていた人も他にいて、その一人のO君は、てっきり、ムンムンムレムレのキャバレーに違いないと決めこんでいたのだそうだ。 「いつか入ってやろうと思ってたんですがね。そうか……、喫茶店かあ」 O君は残念そうであった。あとで人に教えて貰ったところによると、O君の勘はみごとに当っていて、十年前まではキャバレーだったそうである。命名者は、同じ飯田橋の映画館「佳作座」の持主でもある。これもいい名前だ。 その「軽い心」と並んで目立つのは、「東京ワンタン本舗」のこれまた大きな看板である。中央線の車中から眺めている限りでは、神楽坂は「軽い心」と「東京ワンタン」に占領されているようでなんだか可笑しい。 |
軽い心 場所は
ここです。「神楽坂まちの手帖」の第1号で講談社の小田島雅和氏は
九時頃に句会が終わると、まだまだ話し足りなくて、坂下近くにあった「軽い心」という喫茶店に流れることが多かった。この店はかつてキャバレーだったそうで、格別珈琲がおいしいわけでもなかったが、キャバレーの造りそのままで、ボックスごとの仕切りがやたらに高く、隣のボックスが見えないようになっている。喫茶店としては何とも妙で、それが気に入って、私は個人的にもよく利用した。 |
「神楽坂まちの手帖」第4号の「神楽坂まちかど画廊」で
最近でこそ奇想天外な店名に驚かなくなったが、「軽い心」の看板は当時はずいぶんと人目を引いた。ではいったいなんの店か。知っている人は、神楽坂の古いなじみである。クラブとあるが、平たくいって、いまはほとんど死語となったキャバレーである。昭和30年代前半のある日の風景である。 |
昭和42年の「新修新宿区史」(新修新宿区史編集委員会、昭和42年)の写真でも、「CLUB 軽い心」でした(下図)。なお、銅版画は別に書きました。
「神楽坂まちの手帖」第5号の「読者のページ」で高瀬進氏は
「軽い心」、キャバレー時代、1度覗いたことがあります。爆笑王林家三平さんが、本当に面白く、腹を抱えて笑ったものです。「軽い心」はその後、喫茶店になり、よく昼寝したのを覚えています。場内が広く、そして暗かったので妙に落ち着けました。 |
インターネットで熊谷興業の歴史を読むと、1969年(昭和44年)、純喫茶「軽い心」を開店と書いてあります。 直前は神楽坂下の「マクドナルド」でしたが、現在、この店は閉鎖し、マツモトキヨシになりました。
ムンムン においや熱気などが息苦しいまでに強くたちこめているさま。むっと。
ムレムレ 風通しが悪く熱気がこもる。空気が通らないので熱気や湿気がこもる。
青い背広で 「青い背広で」は昭和12年(1937)の歌で、歌手・藤山一郎が軽快なリズムで歌い上げます。藤山氏がダークグリーン、つまり緑の背広を着ているのを見た作詞家の佐藤氏が、即興でこの詩を書き上げたといわれています。神吉氏が9歳になった時に、はやりました。
青い背広で 心も軽く
街へあの娘と
行こうじゃないか
紅い椿で ひとみも濡れる
若い僕らの 生命の春よ
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作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
佳作座 外堀通りに面しています。ここも熊谷興業が経営していました。開館は1957年(昭和32年)10月、閉館は1988年(昭和63年)4月です。場所はここです。
池田信「1960年代の東京」毎日新聞社、2008
http://photozou.jp/photo/show/1962745/195020592
また「まちの思い出をたどって」第2集では白黒写真がでています。
阿奈井文彦「名画座時代」(岩波書店、2006年)
現在はパチンコ店の「オアシス飯田橋店」です。
ワンタン本舗 場所はわかりませんでした……と書いたのですが、kenji氏の投稿により、この看板はギンレイホールの屋上にあったんだと、わかりました。
最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。