文学と神楽坂
昭和23年、稲垣足穂氏は「方南 かたなみ の人」を発表しました。 この主役は「俺」とヤマニバーで働いていた女性トシちゃんです。彼女は神楽坂をやめると、しばらくの間、杉並区方南に住んでいました。
ヤマニバー の、ヒビ割れの上に草花をペンキで描いた鏡の傍に、褐色を主調にした油絵の小さな風景画が懸かっている。「これはあたしのお父さんの友達が描いたのよ」と彼女は教えた。それは清水銀太郎 と云って、俺の二十歳頃に聞えていたオペラ役者 である。「あれは分家 の弟だ」とは、縄暖簾 のおかみさんの言葉である。「縄暖簾」というのは、彼女らが本店と呼んでいる横寺町 のどぶろく 屋のことである。この古い酒造家と表通りのヤマニバーとは同姓 であるが、そうかと云って、常連が知ったか振りに吹聴しているような繋り は別にないらしい。其処がどうなっているのか見当が付かぬけれど、然し何にせよ、彼女の家庭を今のように想像してみると、俺の眼前には下げ髪 姿の少女が浮ぶ。立込んだ低い家並 の向うの茜 の夕空。縄飛び。千代紙。ビイ玉。そしてまた〽勘平さまも時折は ……。 横寺片隅 の孤りぼっちの起臥 は、昔馴染の曲々のおさらいをさせた。俺の口から知らず知らずに、〽千鳥の声も我袖も涙にしおるる磯枕 ………が出ていたらしい。トシちゃんが近付いてきて、「あら、謡曲 ね」と云った。彼女は「うたい」とも「お能」とも云わなかった。「謡曲ね」と云ったのである。また彼女は何時だって「酔払ったのね」とは云わない。「ご酪酊 ね」である。
方南 東京都杉並区南東部の地名。方南一丁目と方南二丁目。地名は「ほうなん」ですが、この小説では「かたなみ」と読みます。
それ 「清水銀太郎」は「お父さん」か「友達」ですが、全体を見ると、おそらくこのお父さんが清水銀太郎なのでしょう。なお、このオペラ役者の詳細は不明です。
オペラ役者 歌って、演技する声楽家。現在は「オペラ歌手」のほうがより普通です。
分家 家族員がこれまで属した家から分離し、新たにつくった家。なお、元の家は本家。
縄暖簾 飯塚酒場 のこと。横寺町にありました。
どぶろく 日本酒と同じく米
麹こうじ 、蒸し米と水で仕込み、発酵したもろみを濾過はなくそのまま飲む。
同姓 どちらも「飯塚」だったのでしょう。
繋り 現在は「繋がり」。つながり。結びつき。関係があること。
下げ髪 さげがみ。髪をそのまま、あるいは
髻もとどり で束ねて後方に垂れ下げた女性の髪形。
家並 いえなみ。家が続いて並んでいること。
茜 あかね。黄みを帯びた沈んだ赤色。暗赤色。
〽勘平さまも… おそらく「仮名手本忠臣蔵」から。
謡曲ようきょく の一種でしょう。
横寺片隅 稲垣足穂氏の住所は「横寺町37番地 東京高等数学塾気付」でした。
起臥 きが。起きることと寝ること。生活すること。
〽千鳥の声も… 能楽「
敦盛あつもり 」の一節。源平の合戦から数年後、源氏の武将、熊谷直実は平敦盛の菩提を弔うため、須磨の浦に行き、敦盛の霊に出会う。正しくは「千鳥の声も我が袖も波に
凋しお るる磯枕」
謡曲 能の脚本部分。声楽部分、つまり
謡うたい をさすことも。
酩酊 めいてい。非常に酔うこと。
白銀町 から赤城神社境内へ抜ける鈎の手 が続いた通路。紅い蔦 に絡まれた箱形洋館の脇からはいって行く小径。幾重にも折れ曲っだ落葉の道。何時だって人影が無い。トシちゃんはいまどんな用事をしているであろう? 「洗濯物なんか神楽坂の姐さんが控えているじゃないか」と銀座裏の社長 が云った。 「それにはお白粉が入用なんだ」 「おしろいまで買わせるのか」ちょび髭の森谷氏はそう云って、別に札を一枚出し、これで向いの店で適当なのを買ってこい、と校正係の若者に命じた。白粉はトシちゃん行きではない。沖縄乙女のヨッちゃんの為にである。 縄暖簾を潜ると、武田麟太郎 が白馬 を飲んでいた。約束の金を持ってきてくれたのである。五、六本明けてからヤマニ ヘ引張って行く。 「師匠から女の子を見せられようとは、これはおどろいた!」 そう云いながら、彼は濁り酒 を四本明けた。いっしょに日活館 の前まで来たが、此処で彼の姿は児雷也 のように、急に何処かへ消え失せてしまった。
鉤の手 かぎのて。
鉤かぎ (鈎)の形に曲がっていること。ほぼ直角に曲がっていること。
蔦 つた。ブドウ科のつる性落葉木本。
社長 森谷均。1897~1969。編集者。昭森社を創業。神保町に喫茶店や画廊を開き、出版社を二階に移転。思潮社の小田久郎氏やユリイカの伊達得夫氏は同社の出身。
白馬 しろうま。どぶろくと同じ。ほかに、濁り酒、濁酒、もろみ酒も。
濁り酒 にごりざけ。これもどぶろくと同じ。
日活館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地にあった映画館。日活館。現在はスーパーの「よしや」
児雷也 じらいや。江戸時代の読本・草双紙・歌舞伎などに現れる怪盗。中国明代の小説で門扉に「自来也」と書き残す盗賊の我来也があり、翻案による人物。
蟇がま の妖術を使う。
そのトシちゃんがヤマニバーをやめ、神楽坂からも消えてしまいます。
トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂上を去った。きょうも時刻が来て、酒呑連の行列がどッとヤマニヘなだれこんだ時、何処かのおっさんが、混乱の渦の真中で、「背の高い女中が居ないと駄目だあ!」と呶鳴った けれど、その、客捌き の鮮かな、優い、背の高い女中は最早このバーヘは帰ってこないのである。足掛六年の月日だった。俺には未だよく思い出せない数々のことが、今となってよく手繰り 出せない事共がひと餅 になっている。暑い日も寒い日も変りなく立働いていたトシちゃん。「おひたし? おしたじ ? いったいどっちなの?」と甲高い声でたずねてくれるトシちゃん。俺が痩せ細った寒鴉 になり、金具の取れた布バンドを巻くようになっても態度の変らなかった唯一の人。何時だって、あの突当りに前田医院 の青銅円蓋が見える所へ帰ってきた時に、俺の心を明るくした女性。朋輩が次々に入れ変っても一人居残って、永久に此処に居そうに見えた彼女は、とうとう神楽坂を去った。
都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)
呶鳴る どなる。激しく言葉をだす。
客捌き きゃくさばき。客に対応して手際よく処理する。
手繰り てぐり。工夫して都合をつけること。やり繰り。
ひと餅 不明。「一緒になって」でしょうか。
おしたじ 御下地。醬油のこと。
寒鴉 かんあ。冬の
烏からす 。かんがらす。
前田医院 神楽坂6丁目32にありました。現在は菊池医院に変わっています。
昭和20(1945)年4月13日午後8時頃から、米軍による東京大空襲がありました。
正面に緑青 の吹いた鹿鳴館 風の円屋根 が見える神楽坂上の書割 は、いまは荒涼としていた。これも永くは続かなかった。俺がトシちゃんへご機嫌奉仕をし、合せて電車通 の天使的富美子さんの上に、郵便局横丁 のみどりさんの上に、そのすじ向いの菊代嬢に、日活会館 前のギー坊に、肴町 のヨッちゃんの上に、さては「矢来小町」の喜美江さんを繞って 、それぞれに明暗物語が進捗 していた時、旧神楽坂はその周辺なる親しき誰彼にいまはの別れを告げていたのだ。電車道の東側から始まった取壊し作業の鳶口 が、既に無住のヤマニバーまで届かぬうちに、四月半ばの生暖い深更 に、牛込一帯は天降った火竜群 の舌々によって砥め尽されてしまった。お湯屋 の煙突と、消防本部 の格子塔と、そして新潮社 のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜 の煙に。そして起伏した一望の焼野原。ヤマニの前に敷詰められた鱗形の割栗 ばかりが昔なりけり――になってしまった。
鹿鳴館
緑青 ろくしょう。金属の銅から出た緑色の錆。腐食の進行を妨げる働きがある。
鹿鳴館 ろくめいかん。明治16年(1883)、英国人コンドルの設計で完成した洋館。煉瓦造り、二階建て。高官や華族の夜会や舞踏会を開催。
円屋根 稲垣足穂氏は「世界の巌」(昭和31年)で「彼らの思い出の神楽坂、正面にM医院の鹿鳴館式の青銅の円蓋が見える書割は、――あの1935年の秋、霧立ちこめる神戸沖の幻影ファントム 艦隊フリート と共に――いまはどこに求めるよすがも無い。」と書いています。したがって、これも前田医院の描写なのでしょう。
書割 かきわり。芝居の大道具。木製の枠に紙や布を張り、建物や風景などを描き、背景にする。
繞る めぐる。まわりをぐるりと回る。とりまく。
進捗 物事が進みはかどること。
電車通 現「大久保通り」のこと。
郵便局横丁 郵便局は通寺町(現神楽坂6丁目)30番地でした。前の図で右側の横丁を指すのでしょう。
日活会館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地。
肴町 現「神楽坂5丁目」
鳶口 とびぐち。竹や木製の棒の先端に鉄製の鉤かぎ をつけ、破壊消防、木材の積立・搬出・流送などを行う道具。
深更 しんこう。夜ふけ。深夜。
天降った火竜群 航空機B29による無差別爆撃と、焼夷弾による爆発と炎上がありました。
牛込区詳細図。昭和16年
お湯屋 「藤乃湯」が横寺町13にありました。
消防本部 消防本部は矢来町108にありました。
新潮社 新潮社は矢来町71にありました。
半夜 まよなか。夜半。
割栗 割栗石。わりぐりいし。岩石や玉石を割った砕石。直径は10〜20cm。基礎工事の地盤改良などで利用した。
それから戦後数年たって、トシちゃんの話が出てきます。
武蔵野館 の前を曲りながら、近頃休みがちの店が本日も閉っていることを願わずに居られなかった。タール 塗の小屋の表には然し暖簾 が出ていた。俺は横丁へ逸れて、通り過ぎながら、勝手口から奥を窺った。俯いて何かやっている小柄な、痩ぎすの姿があった。 「奥さん」と俺は声を掛げた。「表は未だなのですか?」 顔を上げて、それからおかみは戸口まで出てきた。 持前のちょっと皮肉な笑みを浮べると、 「まだ氷がはいらないので、お午からです」 五、六秒の間があった。 「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」 「それはお目出度い……」と俺は受け継いでいた。このおかみの肌の木目 が細かいこと、物を云いかけるたびに、揃いの金歯がよく光ることに今更ながら気が付いた。 「東京ですか」と自動的に俺は口に出した。 「いいえ田舎で――」 その田舎は……? とは、はずみに もせよ口には出なかった。この上は何時かひょっくり逢えばよいのだ。逢わなくてもよいのである。 その代り接穂 は次のようになった。 「姉さんの方はどちらに?」 「千葉とか聞いています」 「こちらは相変らずの宿無しで」と、俺は吃り気味に、此場から離れる為に言葉を引張り出した。 「――いま、戸塚の旅館にいるんですよ」それはまあ! という風におかみは頷いた。 「ではまた」と云って、俺は歩き出した。
武蔵野館 前後の流れを読むと、神楽坂6丁目にあった日活館で、それが戦後になって「武蔵野館」に変わったものではなく、新宿の「武蔵野館」でしょう。
タール コールタール。石炭の高温乾留で得られる黒色の油状液体。そのまま防腐塗料として使う。
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。部屋の入り口や仕切りにたらす短い布。
木目 皮膚や物の表面の細かいあや。また、それに触れたときの感じ。
はずみに そのときの思いがけない勢い。その場のなりゆき。
接穂 つぎほ。話を続けて行くきっかけ。言葉をつぐ機会。
次で小説は終わりです。
「涙が零れた のよ」釣革 を持った婦人同士の会話中に、こんな言葉が洩れ聞えた。僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年 八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々 終ったことを知るのだった。 電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。
零れる こぼれる。液体が容器から出て外へ落ちる。抑え切れなくて、外に表れる。
釣革 つり革。吊革。吊り手。つりて。電車・バスなどの中で、乗客が体を支えるためにつかまる、上から吊り下げられた輪。
1947年 足穂氏は46歳でした。なお、終戦の日は1945年8月15日です。
愈々 いよいよ。待望していた物事が成立したり実現したりするさま。とうとう。ついに。
文学と神楽坂
『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会・今昔史編集委員会、2000年)の「横寺町と近代文芸」で、鳥居秀敏氏が稲垣足穂 氏の作品を取り上げています。足穂氏は戦前に横寺町にいた異質の小説家です。また、鳥居氏は横寺町の、まあ言ってみればこの時代の長老格で、『よこてらまち今昔史』の編集顧問であり、さらに鳥居一家は小説家の尾崎紅葉氏の大家でもありました。
足穂が横寺町へ越して来たのは昭和12年の5月で、戦災で焼け出される昭和20年4月までの8年間、37番地の東京高等数学塾 に暮らしていました。岩戸町の法正寺 とは背中合せで、牛込幼稚園 と棟続きだったようです。足穂38才から46才のことでした。 「横寺日記 」によれば、足穂は思い出したように神楽坂の盛文堂 へ出掛けて、野尻抱影 の「星座巡礼 」を買い求め、南蔵院 と向い合せの崖の上(石段わき)から、牽牛 や織女 や白鳥 やカシオペア やペガサス を見たり、また家の裏手でオリオン や双子 を見ながら用をたしたりしています。それは決して自然科学の眼ではなく、月を見れば月面から月美人の横顔を追い求めるような足穂独得の眼で、星を愛するには天文学はいらないとも言っています。プラネタリウムは幻燈仕掛けの錯覚に過ぎず、星に通ずるものを持っていない、と言いながら、毎日会館 のプラネタリウムへ何度も足を運んでいたようです。 この「横寺日記」にはほとんど星のことばかり書いており、足穂の生活ぶりを十分読み取ることが出来ませんが、眼鏡を質に入れたり出したりする話が出て来ます。借りる額は50銭か1円ですが、緊急の際には1円50銭も借りられたそうです。飯塚酒店 にしろその質屋にしろ、足穂にはどこか助けてやりたくなるようなものがあったのかも知れません。足穂の半自伝的小説といわれる「弥勒 」の中から、横寺町の出て来る部分を抜萃してみましょう。
都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)から
黄色は東京高等数学塾だった現在の建物。
東京高等数学塾 上図で青色の建物。その左に「東京高等数学塾」と書いてあります。
法正寺 上図で右の赤い建物です。
牛込幼稚園 上図で青色の建物。建物の中央部に「牛込幼稚園」
横寺日記 昭和23年、「文潮」に「きらきら日誌」として発表。当時の住所は横寺町。星座を中心にまとめたもの。
野尻抱影 のじりほうえい。ジャーナリスト。随筆家。1906年、早稲田大学英文科卒業。主に星のロマンチシズムを語った。生年は1885年11月15日、没年は1977年10月30日。享年は満91歳。
星座巡礼 1925年『星座巡禮』(研究社)として発売。現在も『新星座巡礼』として販売中。四季の夜空をめぐる星座の数々を月を追って紹介。
南蔵院 箪笥町にある真言宗豊山派の寺院。図では下の赤丸。
牽牛 わし座のアルファ星。アルタイル。『新星座巡礼』では8月に。
織女 こと座のアルファ星。ベガ。『新星座巡礼』では8月。
白鳥 はくちょう座。アルファ星はデネブ。『新星座巡礼』では8月。
カシオペア カシオペア座。「W」形の星座。北極星を発見する方法の1つ。『新星座巡礼』では9月。
ペガサス 正しくはペガスス座。胴体部分は「ぺガススの大四辺形」。『新星座巡礼』では9月。
オリオン オリオン座。アルファ星はベテルギウス。ベータ星はリゲル。真ん中に三ツ星。『新星座巡礼』では1月。
双子 ふたご座。アルファ星カストル。ベータ星ポルックス。『新星座巡礼』では1月。
会館 『横寺日記』では丸ノ内のプラネタリウムに行ったことが書かれていますが、「毎日」ではありません。
弥勒 昭和14年から部分的に発表し、昭和21年、最終的に小山書店から『彌勒』を発行。
行全体だけが下げる場合は稲垣足穂氏の書いている部分です。
このたび上京してから、牛込の片辺りの崖上の旧館に部屋を借りるまでには、約五ヵ月を要した。この樹木の多い旧旗本屋敷町の一廓 は、或る日その近くの出版社 からの帰途に、抜け道をしようとして通りかかったのだが、なんとなく好きになれそうであった。近辺には蜀山人 の旧跡があったし、当座の住いに定めた青蔓 のアパート の前には、お寺の墓地を距てて、尾崎紅葉 の家があった。明治末から大正初めにかけて名を謳われた新劇女優 が自ら縊れた 所だという樺色の芸術倶楽部 も、そのままに残っていた。このならびに、年毎に紙を張り重ねて、今は大きな長方形に膨れ上がった掲け看板に、「官許せうちう 」と大書した旧い酒造 家 があって、その表側が濁り酒 や焼酎を飲ませる店になっていた。この縄暖簾 へ四十年間通い続けたという老詩人 の話を、彼は耳にした。その人はいまは板橋の養老院 へはいっていたが、少年時代の彼には懐かしい名前であった。閉じ込められている往年の情熱詩人からの便りが、殆んど数日置きに酒屋の主人並びにその愛孫宛に届けられていたが、破れ袴の書生の頃、月下の神楽坂を太いステッキを打ち振って歩いた日々を想い浮べて、詩人が最近に葉書にしたためて寄越したという歌を、彼は縄暖簾の奥の帳場で見せて貰った。「神楽坂めぐれば恋し横寺に鳴らせる下駄は男なりけり」――巴里のカルチエ・ラタン とはこんな所であろうかと、彼は思ってみるのだった。実際、この高台の一角には夢が滞っていた。そしてお湯屋も床屋も煙草屋も一種の余裕を備えていた。ちょっと断わりさえすれば、いつでもよいから、と云って快よく貸売 してくれるのだった。
その日の食べる物にも困る貧しい生活をしながら、足穂は横寺町が大変気に入っていたようです。ここに出て来る老詩人は兒玉花外 でしょうか。今でいえばアルコール依存症という状態だったと思いますが、足穂は晩年まで創作をつづけ、昭和52年、数え年78才で京都で亡くなりました。
河出書房新社『新文芸読本 稲垣足穂』(1993年)
一廓 一つの囲いの中の地域。
出版社 新潮社でしょう。
蜀山人 しょくさんじん。大田おおた 南畝なんぽ の別号。江戸後期の狂歌師・戯作者。
青蔓 あおずる。薬用植物。ツズラフジ科の落葉つる性植物。あるいは単に緑色のつる。
アパート 上図では最左端の黒丸が「最初のアパート」でした。昭和12年、都市製図社の『火災保険特殊地図』ではここは「旺山荘」でした。
縊れた くびれた。縊れる。首をくくって自殺する。
官許せうちう 「官許かんきょ 」とは「政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと」。「せうちう」とは「しょうちゅう、焼酎」で、日本の代表的な蒸留酒。焼酎の製造を特に許すこと。
酒造 酒をつくること。造酒。
酒造家 ここに飯塚酒場 がありました。上の地図を参照。
濁り酒 発酵は行うが、糟かす を漉こ していないため、白くにごった酒。どぶろく。
縄暖簾 なわのれん。縄を幾筋も結び垂らしたのれん。店先に縄暖簾を下げたことから、居酒屋・一膳飯屋
老詩人 兒玉花外 のこと。
板橋の養老院 東京府養育院でしょう。現在は東京都健康長寿医療センターに変わりました。
カルチエ・ラタン Quartier latin。直訳では「ラテン街」。ソルボンヌ大学を始めとする各種大学や図書館があり、学生街としても有名。
貸売 かしうり。掛か け売りと同じ。一定期間後に代金を受け取る約束で品物を売ること。
横寺町
文学と神楽坂
昭和15年、稲垣足穂 氏の書いた「弥勒みろく 」です。氏は異質の新感覚派の小説家で、昭和12年から昭和20年まで、牛込区(現新宿区)横寺町の東京高等数学塾で暮らしていました。
結局要求は容れられ、その日の正午まえには、再び元の横寺町 へ帰ることができた。青い一廓 、青い焔の爆発のようにあちらこちらに噴出した樹々の他に、家の廂 も、内科医院の建物も、用水樽も、申し合わしたようにに青ペンキが塗られていた。只江美留 には、人に貰った青い背広がすでに失くなり 、これはもう戻ってこない という事情があった。この時にもヒルティー 紳土 が助勢 を買って出て、青甍 アパートの横の小路の突当りにある、古い、巨きな空箱のような建物へ話をつけてくれた。私立幼稚園だったが、反対側には「東京高等数学塾」という札が懸かっていた。二方に窓が付いている二階六畳のすぐ下が墓地で、朱塗の山門 と本堂が向うにあって、木魚 の音が聞えていた。朝になると、子供たちが先生お早うございますと云いながら集つてきて、裏庭でブランコが軋り出す。やがてピアノの音につれて、足踏み と合唱が始まる。階上広間の机と椅子が積上げてある所では、絶えずチョークの音がしていた。同宿の物理学校の学生や受験準備中の者が、黒板に図形を引いているのだった。幼稚園を経営している中年婦人のお父さんが塾長で、もう八十歳だということであったが、見たところは六十にもなっていないようだった。「とにかく俗人じゃないね」と最初の日にその姿を見た友人が洩らしたが、この言葉はいろいろな機会において江美留の前に立証され出した。このK先生は毎朝五時に起きると、水を満した大形バケツを両手にさげて、幾回も廊下づたいに洗面所まで運ぶ。それから教室脇の私室のテーブルに倚りかかって、見台 に載せた独逸語の原書に向っているが、その足許の火鉢には年じゅう炭は認められない。夜の九時頃、この老数学者が勝手元 でひとりで食事をしているのを、薬罐 の水を汲みに行ったついでに見た者があった。「それが煮焚きした、つまり湯気を立てているようなものじゃないんだ」と報告者は先生のおかずについて告げた。「冷たい煮豆のような、それが何であるか判らぬような皿が前に置いてあった」
東京高等数学塾はここにありました。
都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。東京高等数学塾は赤色で
黄色は東京高等数学塾だった現在の建物。
一廓 いっかく。ひと続きの地域。
廂 ひさし。家屋の開口部の上にあり、日除けや雨除け用の小型屋根。
江美留 えみる。主人公の名前
すでに失くなり 質草として取られ
もう戻ってこない 質草の所有権がなくなる。流れた。
ヒルティー カール・ヒルティ(Carl Hilty)。1833年-1909年。スイスの下院議員。著名な文筆家。敬虔なキリスト教徒。著者は『幸福論』『眠られぬ夜のために』など。
ヒルティー紳士 ヒルティが大好きな男性。『弥勒』によれば「ヒルティー愛読家には、彼の方から初めて話しかけたのであるが、その紳士は以前、江美留の学校とは隣り合せの神戸高商に籍を置いて、ボートの選手だったのだそうである。それは江美留が中学初年生であった頃に当る。そしてこの時分、紳士の念頭には、元町の「三つ輪」の鋤焼の厚いヒレ肉と「福原」の芸者遊びしかなかったが、その後は本を読むことと仕事の上に向けられた。仕事とは曖昧であるが、それはまたそれでよい、そんなふうなものだと紳士は云った。それで昔の仲間は今日では殆ど重役級にあるらしかったが、本人は別に何をやってきたわけでもなく、今はこの縄暖簾で上酒の徳利を煩けているのだった。」この「縄暖簾」は飯塚酒場 のことで、横寺町にありました。
助勢 手助けすること。加勢。
甍 いらか。屋根の頂上の部分。屋根やね 瓦がわら 。
山門 寺院の門。かつての寺は多く山上にあったから。
木魚 もくぎょ。経を読む時にたたく木製の仏具。禅寺で合図に打ち鳴らす魚板ぎょばん から変化したもの。
足踏み 立ち止まったまま両足で交互に地面や床の同じ所を踏むこと
見台 けんだい。書物をのせて読む台。書見台の略。
勝手元 かってもと。台所。台所のほう。
薬罐 やかん。薬缶。中に水を入れ湯を沸かす調理器具。右図を。