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宮城道雄記念館|中町

文学と神楽坂

 昭和53年(1978)12月6日、宮城道雄氏が晩年まで住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館です。目で見る展示のほか、耳で聴く設備などがあります。
 まず右手の奥に「宮城道雄氏略伝」があります。

 宮城道雄氏略伝

宮城道雄氏略伝

 宮城道雄は明治二十七年四月七日神戸市に生る 生後二百日にして悪質の眼病あり九歳遂に失明し2代目神戸中嶋検校の門に入る その芸術的天分は夙に音楽に発現し十六歳にして処女作「水の変態」を成し 爾来「春の海」「秋の調」「落葉の踊」「桜変奏曲」等幾多の名曲あり独自の妙音は一代を風靡して盛世の新日本音楽と称せらる
 昭和五年東京音楽学校に迎えられて講師となり同十二年には同校教授たり 十九年高等官三等正五位に任せられ 昭和24年には東京芸術大学講師たり 三十一年六月正四位勲四等に叙せられ 旭日小綬章の授興を受く その間芸術院会員の拝命放送文化賞の受賞 世界民族音楽舞踏祭に日本代表として渡欧などの栄譽ありしを 昭和三十一年六月二十四日関西交響楽団との競演のため大阪市に向う途上列車銀河より東海道刈谷駅付近の鉄路に転落せるを発見 手当中翌二十五日光輝ある六十二年の生涯を終りぬ
 口述及び点字写字機に依る「雨の念仏」「騒音」「垣隣」の詩趣多き随筆の類を收めたる全集三巻の遺著あり 亦その詞藻を見るに足る

  右  七周忌に当り属により
       遺友 佐藤春夫 撰


宮城道雄記念館

 入場料は400円、入って上がった所が1階になっています。1階の第一展示室は箏などの楽器などを中心にまとめ、第二展示室はDVDの映像資料です。左側に行き、部屋の外からスロープを下に行くと「検校の間」にでます。これは国登録有形文化財になっています。

文化財愛護シンボルマーク国登録有形文化財(建造物)
宮城(みやぎ)道雄(みちお)記念館(きねんかん)   (けん)(ぎょう)()

所 在 地 新宿区中町三十五番地  
登録年月日 平成二十三年七月二十五日

 検校の間は、昭和二十三年(一九四八)、宮城道雄が戦災で焼失した中町の住宅を再建する際に建てた書斎である。木造平屋建て、(かわら)()き、内部は(とこ)()床脇(とこわき)を備えた六畳の和室と二畳弱の次の二間からなる。
 宮城の希望で茶室風の意匠(いしょう)をもち、庭に面した丸窓の曲線を多用した竹の格子(こうし)など、随所(ずいしょ)に高度な大工技術が()らされている。昭和二十五年(一九五〇)と昭和三十年(一九五五)に敷地内で()()を行い、現在の位置に固定した。
平成二十五年三月

新宿区教育委員会


検校の間

 また「検校の間」「録音室」「石の達磨大師」についても説明があります。

 宮城道雄の書斎。昭和23年(1948)12月に完成し、「(けん)(ぎょう)()」と名づけられた。最後の7年間はほとんどここで作曲された。はじめは、自宅母屋から廊下づたいの離れとして、現在の録音室の東寄りに建てられたが、録音室建築のために現在地に移され、独立の一棟となった。間口3杯、奥行2間。南に6畳、襖を隔てて北に2畳。6畳には向かって右から床棚・床・付書院が設けられ、床柱は竹の角が用いられている。天井は、付書院側の1.5畳分が簾張、他の4.5畳分が竿縁。全体として茶室風の趣になっている。

 録音室
 鉄筋コンクリート平屋造り、防音設備を施した一室。目の不自由な宮城が自宅で録音することを目的として、昭和30年(1955)に着工されたが、翌年の竣工の直前に彼は不帰の客となり、自身はこの録音室を用いずに終った。

 石の達磨大師
 ちょうどこの春早々でありましたが、いつも来る植木屋さんが、石の達磨(だるま)大師(だいし)を持ってまいりました。私はその顔を撫でてみましたところが、これは石屋さんが彫ったんで、別に有名な方の作ではないんでありますが、なかなかデコボコした手触りが非常に面白いと思いました。ことに、この石像の顔を撫でるときに、いちばんに眼を撫でてみます。ところが、眼が彫ってありまして、眼がなかなかよく出来ているように思いました。 宮城道雄談・昭和30年(1955)2月ラジオ

 さらに宮城道雄記念館の別館、宮城喜代子記念室もあります。検校3